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正月三日、豆腐をお供えしてお参りする栃木市「三日月神社」

040  「ここにもあるんだ。日向野先生が書いた石碑文が…」。三日月神社境内の社務所脇に建つ石碑。その石碑を見上げながら、日向野徳久氏の栃木史に対する足跡の多さに驚く。

  「三日月神社由来記」と刻まれた石碑。「片柳用水記石碑」同様に日向野徳久氏が撰文をし、池澤洸氏が謹書している。台座から3メートル高さに建っている石碑。栃木商高時代にお世話になった先生方達だ。

  「日向野さんは何回も来て下さって、詳しく神社のお話を訊いてくださいました」と神職の息子さんは私に話してくれた。

   栃木市川原田町535番地に鎮座する三日月神社。栃木市総合運動公園のはずれ、北東に位置する。木造亜鉛巻の神明鳥居には月の神「月讀命(つきよみのみこと)」を現す「朏尊(ひそん)」の額が掲げられてある。拝殿手前の神楽殿は建て替え工事中だった。以前に栃木総合公園野球場へ高校野球を観に来た時、駐車場が満杯のため、この付近に車を停めたことを思い出した。

036   昭和60年11月に建てられた石碑には、三日月神社建立の起因から江戸時代の神社の賑わい、旗本渋谷氏の江戸屋敷への御神体の移動から再び当地に戻り祀られ、明治期の神社の存続などが記されている。

  神職芹澤氏は石碑文から常陸国の大掾氏(だいじょうし)の出自から皆川氏に仕え、帰農した家柄と伺える。闇夜の中、7名の兇族に襲われながら三日月丸にて賊を退避させたことから三日月丸を御神体として月讀命=朏尊(ひそん)を祀る社殿を創建したとしている。

 石碑には「三日月神社は歳月を経るしたがってその霊験のあらたなことが知れわたり、縁日には除禍招福を願う人々が遠近より集まり、参道の両側には露店が数多連なって賑わうに至った」と当時の賑わいが記されている。

044_2  参道の露店では三日月神社に供える豆腐を売っていたことが「栃木の街道」の中で記述されている。同書の日光例幣使街道の章を日向野徳久氏が次のように執筆している。

  「正月3日・3月3日は縁日として(三日月神社は)非常なにぎわいをみせた。縁日には参道の両側に豆腐屋が何軒も戸板をならべて店をはった。お参りに来た善男善女がその豆腐を神様に供えるので、豆腐はまさに飛ぶように売れた。神社がわでは供えられた豆腐を、裏から豆腐屋に払い下げる。豆腐屋はまたそれを売る」と記述されている。

 お供えものの豆腐を繰り返し売っていったというのだ。何故豆腐をお供えしたのだろうか?

032_4  芹澤神職の息子さんは、「豆腐を板の上に載せて売っていたと聞いている。何回もお供えに使うことによって、豆腐のかどがとれて丸くなるってことですね」と社務所の縁側に座った私に語ってくれた。ただ、どうして三日月神社へのお供えに豆腐なのかは、はっきりとは解からないとも話してくれた。

  陰暦の3日の日に初めて月が姿を現す。「吾に七難八苦を与えたまえ」と言ったという山中鹿之助ではないが、月光に照らしだされてくる風景は何か神秘性を感じてくる。

  三日月神社では現在でも正月3日に豆腐をお供えしてのお参りが続けられている。社務所の前でお供え用の豆腐を売る。どのくらい豆腐を用意するのかは話してくれなかったが、参拝者は購入した豆腐をお供えしてお参りをする。「今でも…!」と驚いた私に、「参拝者の中には豆腐を縁起ものと思い、家に持って帰る人がいるんです。本当は豆腐はお供えもので食べてはいけないことになっているのですけど」と苦笑しながら語ってくれた。「今度のお正月3日、お越しください」との誘いを受けた。豆腐をお供えしてのお参りを見てみようと思う。

048_2  豆腐を三日月神社に供えて参拝する風習はつくば市にある朏神社(みかづきじんじゃ)にもあることがネット上に記載されていた。

 また、ブログ「月と季節の暦第二話三日月信仰 志賀勝」のなかでも、根岸鎮衛(もりやす)著の「耳袋」を引用してのお供え豆腐について、「病気治癒を願う三日月信仰がいつ発生したか不明だが、江戸時代末期には人気ある習俗だったことが分かる。いぼのほかにも、できものや眼病など様々な病いの予防、回復が祈願された」と記述されている。

  この「耳袋」は旗本・南町奉行の根岸鎮衛が江戸時代の中期から後半の天明から文化にかけて同僚や古老から聞き取った話を書いた随筆集になっている。

 栃木図書館で借りてききて「耳袋」(岩波文庫版)の本を開いて読む。岩波文庫下巻の中の「いぼの呪(まじない)いの事」にこう記述されている。「いぼの呪い品々あるなれど、三日月へ豆腐壱丁を備え念頃に祈る時は、其の治る事妙也。右豆腐は川へ流し捨る事也。あやまって其の豆腐喰うものは、いぼ其の喰う者へ生ずる事また奇妙のよし、人の語りぬ」と、当時の三日月神社への豆腐のお供えの風潮が記述されていておもしろい。

050_2   「ずーと昔、栃木の三日月神社に行った時、参拝に来ていたご婦人に聴いたことがある。そのご婦人はつるつるした肌になりたいから豆腐をお供えするのですと答えてくれていたな」と私の知人は電話の向こうで話してくれた。

 「いぼ」「できもの」「肌」と「豆腐」「月」を重ねてイメージしていくと類似していることに気がつく。類感性というのだろうか。理由はともあれ、豆腐に自分の想いこめて祈願する。それで良いのでないかと納得してきた。

 「とーふー、とーふ、とーふー」とラッパを鳴らしての自転車豆腐売りや町内に一軒はあった豆腐屋。豆腐は手軽な食べ物であり、今でも食卓には欠かせないものとして調法されている。豆腐のお供えは祈願する参拝者の手ごろなお供えものとして、現在まで続いている習俗なのだと思えてきた。 

006   栃木市嘉右衛門町を縦断している日光例幣使街道。その中頃に自然石でできている庚申塔がある。

  「右日光 おさく道 左三日月」という道標が刻まれている。三日月神社へはこの庚申塔から斜め左へ北に3キロ進むことになる。江戸時代から栃木町の多くの人はこの参道を伝って三日月神社にお参りしたのかもしれない。

  私も庚申塔を斜めに左折しては道幅約3mの狭い参道を自転車を押しながら歩いて進む。参道の下は長沼からの用水が暗渠となり分流している。

007   参道裏からの「油伝味噌・蔵造り」を右に見ながら、長沼跡水源地、川上稲荷神社、平岩幸吉の眠る「ならび塚」を過ぎ、巴波川が流れていた川筋公園からバイパスに出る。巴波川とバイパスを渡り、粟野街道の左脇の狭い道に入り、北上する。雷電神社境内を右に見て、田圃の中の参道を進み、栃木市総合運動公園通りに出る。公園東駐車場の端にある脇道に入り、進むと、田圃に囲まれた三日月神社の杜が見えた。神社の前は荒川の流れる運動公園になっている。運動公園ができる前は何もない辺鄙な場所だったことが分かる。

028   三日月神社を創建した芹澤氏は皆川氏に仕えた武士であったと云われている。

  天正18年(1580)の秀吉による小田原北条征伐以後に下野の主な大名である小山氏、壬生氏、宇都宮氏などは改易になっていった。さらに慶長年間に入ると栃木の皆川氏も改易され、主家を失った武士たちが多く生まれた。

  栃木町周辺の土地は扇状地帯としての沼地、湿地帯であった。戦のなくなった新しい時代の流れを受けて開拓開墾を必要とした。そのため、皆川家臣団等の多くの武士たちは帰農者となり、田畑の開墾、開拓に力を注ぎ始めていく。

  芹澤氏もその一人として、戦さ跡の残る川原田村を中心に開拓開墾をはじめ、やがて名主になっていったと思える。三日月神社の御神体である三日月丸は土地開拓者としての覚悟として祀ったのではないか。

  江戸時代の初期や明治期の初期など、時代の変わり目を迎えた栃木の町の歴史には隠されたものがたくさん眠っている。これからも栃木のまちを歩きながら見つけていこう。

                                   《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

「栃木の街道」(栃木県文化協会、昭和53年10月発行)/根岸鎮衛著「耳袋」(岩波文庫下巻、1991年6月発行)/ウエブ「月と季節の暦第二話三日月信仰 志賀勝」/日向野徳久撰文「三日月神社由来記石碑文」(昭和60年11月)

(三日月神社石碑刻字文)

 『三日月神社由来記  芹澤家は常陸国の名族大掾氏より出、皆川氏と婚姻後同氏の出自と伝えている。某年陰暦五月晦日の夜兇族七名に襲われ、咄嗟に三尺二寸の宝刀三日月丸を以て迎え撃つと、闇夜にもかかわらず賊の挙措すべて月明の下に見るようであったので、賊は畏怖して逃げ去った。来れ朏尊の神佑であることを悟り、地を割き社殿を創建した。激闘の地は野中町地内にありいまも血祭畑といい、当時牛蒡畑であったことから同氏は牛蒡の栽培を禁忌としている。

三日月神社は歳月を経るにしたがってその霊験のあらたなことが知れわたり、縁日には除禍招福を願う人々が遠近より集まり、参道の両側には露店が数多連なって賑わうに至った。地頭澁谷氏はこれを聞き同家の守護神として江戸屋敷に遷した。芹澤氏は澁谷氏の地代官としてこれを拒むことができなかった。しかし、神霊これを容れざるが不可思議な示現が再三にわたったので澁谷氏は恐縮して旧に復し、これより明治維新に至るまで毎歳白米一俵を奉献して敬仰の誠を尽くした。

明治初年、制度の変革により同社は廃祀の危機に瀕したが、その由緒を認められて存続することを得、当主彦八が神職に任ぜられた。この神を信ずる者には不可思議なる感応あるは、世に広く伝えるところである。彦八の孝孫豊このことを忘却されることを虞れ、真石に刻み後世に伝えんと事由を具して余にこの文を依頼された。

嗚呼、芹澤氏帰農してすでに四百余年、時代に推移によって時に隆替を見るも、その間朏霊つねに同家と共にあることを信じて祭祀を怠らなかったことは誠に感激に堪えず、ここにその事由を述べる次第である。 

  昭和六十年月齢十一月三日

  栃木県文化財保護審議委員 日向野徳久 撰  書友会 会長  畔蒲 池澤洸 謹書 』                     

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