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2016年4月

昭和からの電話が鳴る―NHK土曜ドラマ「64(ロクヨン)」

Jkt_rokuyon_011  「しっかりしてくれ!」「悔しいですよ、東京の奴ら(記者)にやられっぱなしで」「うちの県警がバカ呼ばわれるのが耐えられない」とD県警広報官、三上義信(ピエール瀧)に泣きながら攻め寄るD県警本部詰めの地元記者たち。

  誘拐事件の発生で東京から記者たちがどっと押し寄せての記者会見場。会見説明するのは若いキャリアの捜査2課長。記者からの質問にはほとんど答えられず、質問のたびごとに捜査本部に行き帰しての報告会見となってしまっている。刑事部長を記者会見に引き出すため、2課長を「伝書鳩」として往復を繰り返えさせる記者会見場。地元記者たちはたまりかねて、三上広報官へ詰め寄るシーン(第4話「顔」)。

 直前まで、広報室と記者クラブは「匿名問題」でギクシャクした関係だった。原作「64(ロクヨン)」の著者の横山秀夫は、著書の中で、こうした地元記者たちの言動を、「三上にも覚えがある。初めての勤務地は特別だ。親の庇護を離れて自活する。仕事を覚え、道を覚え、店を覚え、住み、食べ、眠り、悩み、己の両足で大地を踏みしめる。本当の自分が生まれた場所なのだ。故郷以上の故郷なのだ。その地が蹂躙された。それが悔しくて悲しくてならないのだ」と書いている。東京が地方を見下しているかのようなシーンでもある。

1280x720x64b8299d1597b8a5c7b9cb91_2  NHK土曜ドラマ「64(ロクヨン)」は昨年の平成27年(2015)4月18日から5回に渡って放送された。主役はNHKドラマ初主役になる県警広報官役としてのピエール瀧。「昭和な顔」が残っていることが決めてとなったという。原作-横山秀夫、脚本-大森寿美男、音楽-大友良英、演出—井上剛、増田静雄のスタッフ。DVDを借りて観ることができた。なかなか重厚な作品になっているというのが第1印象だ。

  この作品は平成27年度(第70回)文化庁芸術祭大賞(テレビドラマ部門)を受賞している。テレビ部門大賞は平成8年から設けられているが、私はよく知らない賞である。平成9年度フジテレビ「町」、13年度TBS「僕はあした十八になる」、15年度TBS「さとうきび畑の唄」、25年度度関西テレビ「みんなの学校」と大賞作品になっているが、私自身観ていない。映画では「文部省芸術祭参加作品」で映し出され、なじみのあった頃を思い出す。このタイトルがでると「いい映画なのだ」と子供心に思ったりしていた。文化庁芸術祭大賞は凄い賞なのかどうもピンとこない。

64efbc88e383ade382afe383a8e383b3efb  ウエブで過去のテレビ部門の芸術祭受賞作品を検索してみる。すると、昭和33年TBS「私は貝になりたい」、昭和53年NHK「天城越え」、昭和54年朝日「戦後最大の誘拐、吉展ちゃん誘拐事件」、昭和62年フジ「北の国から、87初恋」、平成3年NHK「西郷札」、平成4年フジ「北の国から、92巣立ち」、平成5年NHK「清左衛門残日記、第10回夢」、平成7年NHK「大地の子、第2部・5部」となっている。凄い作品が受賞していることにびっくりした。これらの作品はもう一度、何度でも観たいテレビドラマ作品なのだ。やっぱり評価の高い賞なのだと思えてきた。

  「64(ロクヨン)」のテレビ大賞受賞理由は、「警察内部を舞台に、『組織と個人』という永遠のテーマを、極めてダイナミックに描いて突出した面白さがあった。大森寿美男の脚本の図太い構成力、井上剛の硬質でエネルギッシな演出。そしてピエール瀧の大胆な主役起用など合わせ技が非常な濃密なドラマを成立させた。第1回、第4回、第5回の各話を通して多重な人物関係がサスペンスを増幅させてゆき、その語りの手際が群を抜いていた」との評価になっている。語りの手際というところに、物語が一本に結びついていく筋立になっているということが評価を受けての受賞なのだ。ちなみ受賞は第1回の「窓」、第4回の「顔」と第5回の「指」ということになっている。

1280x720x8df7b73a7820f4aef47864f1  「昭和からの電話なのか」と思えてくる黒電話からの呼び鈴。そのアップが印象深い作品になっている。

 ドラマは地方県警を舞台に、昭和64年と平成14年にまたがる2つの誘拐事件を、主人公の三上広報官を通して描いている。

 小渕官房長官による年号が「平成」と発表されるテレビの映像がバックに映し出される。その昭和64年の1月7日の少女誘拐殺人事件は「ロクヨン事件」と言われ未解決のまま、時効の15年目を迎える平成14年の12月。「ロクヨン事件」とまったく同じように「サトウ」と名乗る者から娘を人質に2千万円の誘拐事件が起こる。

Mig5   昭和64年の「ロクヨン事件」では、警察の電話録音の失敗で犯人の声を保存できなかった。そのミスを書いた「幸田メモ」をキーワードとして、被害者父親の雨宮芳夫(段田安則)との警察との関係不信、警察刑事部の隠ぺい、刑事部と警務部との対立、刑事部長を本庁キャリアに据えようとする人事面等を尖ったセリフ回しで描き出している。

  さらには交通事故の加害者の「匿名問題」から地元記者クラブとギクシャクな関係となる広報室。また、三上の高校1年のひとり娘失踪(家出)と夫婦の苦悩、親子の繋がりを描くなど、そのギクシャクな関係が幾筋かに絡み合って進行し、ドラマは昭和64年と同じように平成14年の誘拐事件を迎える。

B0296300_201707501  誘拐事件による報道協定の記者会見場。情報を出し渋る県警の姿勢に白兵戦さながらの記者会見場になってしまっていた。捜査本部に入室拒否されている三上広報官は独自に1課長の松岡参事官(柴田恭平)に接触する。松岡参事官とは「クロヨン事件」を共に捜査2課の刑事として捜査した間柄であった。松岡は被害者の父親だけの実名を明かすが、妻と娘の名前は「言えることと言えないことがある」として拒絶する。

  さらに三上は松岡から広報官として誘拐事件指揮車に乗ることが許される。指揮車から情報を記者会見場の部下の諏訪(新井浩文)に流す。指揮車内からの犯人と現金を運ぶ被害者父、眼崎正人(尾美としのり)とのやりとりは緊迫したシーンは臨場感があふれてくる。

M_64857761  指揮車に誘拐されていた娘が万引き犯として補導されたことの一報が入る。三上は人質の無事を早くパニック状態で現金を運んでいる父親に知らせるべきだと進言する。松岡は三上に、「この車は今、クロヨンの捜査指揮を執っている。14年前に言った筈だ。昭和64年は終わっていない。必ずホシを引きずりもどすと」。

  ――松岡の凛とした言動は14年間の捜査への執念を現しており、迫力ある柴田恭平の演技だ。

  空地に着いた眼崎は犯人の指示で身代金2千万円の紙幣を燃やす。その時、自宅の妻から娘が無事であったことの連絡が入る。犯人からメモ書きには「ロクヨンの犯人はお前だ」と書かれてあった。

Castpic_021_3  事件が終わり、帰宅した三上は妻の美那子(木村佳乃)に話す。元婦警だった美那子も「ロクヨン事件」に関与していた。そのため、ある人物がいるかどうか現認して欲しいと松岡参事官から特命を帯びて、紙幣を燃やしてしまう現場となった空地に行っていたのだ。そこで、燃え上がる紙幣の煙を見上げる雨宮を発見している。

 三上は、「参事官は確信していたのだ。無言電話から…。14年前まで警察官宅の電話番号が載っていた電話番号帳。警察関連者宅への無言電話を結んでいく。マツオカ、ミカミ、ミユキ、ムラクシ。マミムメ、…あいうえおの順番になっている。それだけではない。10日前にも眼崎の家に無言電話があった。14年前、雨宮さんはもう一度、犯人の声を聴けば、絶対に判ると言っていた」。警察官宅が載っていた14年前、昭和63年版の電話帳がヒントになっていた。美那子「雨宮さんが無言電話かけていたの?」。昭和からの電話であったことが語られてくるシーンだ。

1280x720x8df7b73a7820f4aef47864f2  夕暮れ時の公園の中にある公衆電話ボックス。電話ボックスに入る雨宮。手にはしわくちゃになっている古い電話帳を持っている。電話帳を見ながら電話をかけ続ける雨宮。「昭和63年当時の電話帳をめくって、アから順番に番号を押し続ける。気の遠くなる話だ。雨宮さんにとって犯人の声を探すことが生きる希望だったんだ」と語る三上。

  美那子は、「わたしも雨宮さんの無言電話を聴いたのね」と失踪した娘、ゆかりからの電話ではなかったことを知る。

538x310x8136d6502e9d22dc2ee42ca21  「…雨宮さん、ついにその声、聴いたのね」と美那子。

  ――その声、「はい、眼崎です。もしも-し。カスミだろう」。…犯人の声を聴いた雨宮。電話ボックスからはいずりながら出る。「眼崎、眼崎」とつぶやきながら電話帳のページを切りとり、よろけるように暗闇となった公園を歩きはじめる。見つけることができた。やり遂げた。雨宮の歩く姿は昭和からの電話をかけ続けた父親の執念が映し出されてくる。

 現場空地が見える橋の上。野次馬の中を歩く雨宮。「雨宮さん、ジーと空、見上げてた。誰かに、何かを報告するみたいに、ジーと空、見上げてた」と美那子のセリフがダブル。段田安則の演技が凄くいい。

160327_saitama_41_2   平成28年3月27日に監禁されていた女子中学生が東中野駅の公衆電話の前で警察に保護された。2年間にわたり監禁されていたのだ。失踪なのか、両親はビラを配るなど、娘の行方を探しつづけ、電話をずーと待っていたのだ。そして、娘からの電話があったのだ。

  警察には平成25年には「行方不明者届」が83,948人あり、年間8万人の行方不明者が発生するという。そのうち10代の失踪者は23.7%で全体の4分の1を占めている(日刊ゲンダイ「2014年7月20日」より)。

  ドラマ「64(ロクヨン)」の三上にも失踪した娘あゆみがいる。その電話を待っている。母親の美那子は三上に話す。「あゆみはネ、生きるために出ていったと思うの。きっとどこかで生きているんだと思うの」と前を向いて生きる娘を信じる。それが、ラストのあゆみからの電話なのかもしれないというシーンにつながっている。

012_021  誘拐事件の犯人がロクヨン事件の被害者であったこと。そのロクヨン事件で犯人の声を録音できなかったミス。そのミスを14年間刑事部が隠ぺいしてきたことなどを広報室3人の部下たちに話す三上。「眼崎逮捕でマスコミとの関係は死ぬ。どうやって再構築をするか各々で考えてもらいたい」と。

  部下の美雪(山本美月)は三上に言う。「わたしは、マスコミとの関係が死んでも、たとえ背中を向けられても、あきらめずに背中でもいいからノックし続けることが大切だと思います。絶えまずにです」。三上は「…絶えまずに」と自分に言い聞かせるように応える。

  記者会見場における情報の出し渋りなど、何故そうするのか分からない場面など、多々ある。しかし、同期の人事権を持つ二渡警務部調査官(吉田栄作)に三上は脅すように言う。「俺を広報室から(捜査課に)異動させるな。参事官が会見に臨む時、広報官としてお供をしたいのだ」という台詞から熱いものを感じ、気持ちよく観ることができた。美那子や美雪からのセリフからも人との関係の道筋が見えてきそうな気がしてくる。さすがテレビドラマ大賞受賞作品だと改めて感嘆した作品だ。

Yjimage7 三上広報官は捜査課の元刑事。三上刑事という刑事の名前で石原裕次郎と高倉健が演じている。昭和39年日活正月映画の「赤いハンカチ」。石原裕次郎が演った元刑事の名前が「三上次郎」。哀愁の漂う主題歌を歌う中で、男の無念と切なさを描いた裕次郎の姿が浮かんでくる。

 さらに高倉健が演じた昭和55年の倉本聡脚本「駅STATION」の刑事役名も「三上英次」だった。「舟唄」をバックに人への悲しい拒絶を描いた人間模様の名作だ。同じ「三上」という名前の刑事が3名いたことになる。偶然なのかな…。何だかうれしくなってきた。                              

                            《夢野銀次》

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巴波川の上流―沼地と古戦場・川原田を歩く

1  「湧き水がある、凄いなあ」思わずうれしがこみあがる。ボコボコと水があふれてくる。この湧き水のある湧泉池は栃木市総合運動公園の北東の先端にある。

  湧泉池から流れる水流は親水池に流れ、公園内を縦貫している荒川に合流している。西方町小倉堰から用水として流れてきた荒川は、この運動公園内を流れ、巴波川に合流している。

   栃木市川原田町にある栃木市総合運動公園は昭和54年に開設されている。最初に出来上がった総合体育館は、昭和55年の栃の葉国体のハンドボール、フェンシング会場になっている。都市公園として供用しながら整備を行ない、平成8年3月に全面開設になっている。

09203002_161  総面積369,000㎡の敷地内には総合体育館、陸上競技場、サブ競技場、硬式野球場、軟式野球場4面、多目的広場、ソフトボール場、テニスコート16面、弓道場、屋内・屋外プール等がある。スポーツを楽しみ、広い公園内を散策する多くの市民が集う場所だ。

  硬式野球場に私は春・夏・秋の高校野球を自転車に乗り、栃商応援によく観戦に来る。駐車場はあるが、土日は満杯になることが多いからだ。また、バス旅行の際には運動公園内の駐車場を待ち合わせとして利用している市民も多い。

Photo_2   「栃木町の歴史はうずま川の歴史であるといっても過言ではない。うずま川の故に繁栄し、うずま川の故に衰微した」と明言が記されている日向野徳久著の「改訂、北関東における一封建都市の研究」は昭和35年(1960)に改訂版として発行され、今なお読み継がれている名著である。

  同書には「むかし栃木は小倉川のはんらん原であったことがあり、室町時代頃までは、うずま川・杢冷川等の蛇行する原野であった」と栃木まち周辺一帯を「はんらん原」であったと記述している。うずま川へのロマンを秘めた文言には氏特有の哀愁を感じさせる。栃商時代に、日向野先生に近づいてもっと教えを乞うしておけばよかったと悔の念が湧いてくる。

015  さらに同書には、「栃木市は北関東の中央部を占め、その西北方に連なる足尾山塊は、西北部に高くそれより東南部に傾斜し、その傾斜にしたがって幾多の河川が流出している。(略)これらの河川はいずれも多量の土砂を運搬、沖積し、扇状地をそれぞれ形成している。栃木市北部より西北部にかけて、皆川村の大皆川・泉川・新井・吹上野中村の南部をつらねる弧状の線を中心として、東は赤津川、西は永野川はんらん原に連続する線に湧泉が存在する。土砂の堆積している扇状地は、水が地中に浸みこみやすく、これが末端にいたって泉となって湧き出るものであり、これらはいずれも下流の水田耕作地帯に無限の灌漑用水を提供している」と湧泉の多い栃木町周辺の地歴的特徴点を言い当ている記述になっている。

Photo_4    昨年(平成27年)の9月10日の大豪雨の際には、栃木市街地は床上浸水を含めた冠水状態となり、大きな被害をもたらした。溢れ出た地下水も冠水の一因になっていると言われている。

  読売新聞の4月3日朝刊の「とちぎ見聞録」のコラム欄で「とちぎ」の地名の由来を考古学者、塙静夫説の紹介記事が記載されていた。

   「栃木という漢字から木をイメージするが、大切なのは『とちぎ』という音に戻ること。『場所』を意味する接頭語『と』と、動詞『ちぎる』に由来する『ちぎ』の組み合わせで、川の氾濫による浸食・崩壊をたびたび受けた地域という意味があります」として、「水害に遭いやすい場所」から栃木の地名が生まれたのではないかと記述されていた。いろいろある栃木の地名の由来の中で、この説が一番説得があると前から思っていた。

2  総合運動公園のある栃木市川原田町は巴波川の上流に位置する。かつて「しめじが原」と云われ、沼地・湿地帯となし、「はんらん原」の一角を占めていた地域でもある。栃木市街地を流れる巴波川の上流・源流を探りながら古戦場を思い浮かべ、想像なのか夢想なのかを楽しみながら総合運動公園から歩き始める。

  歩く道順は、総合運動公園内にある親水池(湧水池)、御手洗池と荒川合流地を見て、北側にある三日月神社・川原田公民館にでる。そこから、一兵淵…川原田城址…鹿島神社…天神淵…川原田上水場…笹淵…大淵沼…粟野街道…白地沼…粟野街道…栃木市総合運動公園とした。吉根沼の所在は確認できないため、後日調べ直してくることにした。

  平成15年(2003)6月に栃木自由大学現地研修ツアー「巴波川の水源を訪ねて」と題して実施した研修報告がウエブネットに記載されていた。実施を行なった「ネットワークとちぎ」の関係者から当時の地図や資料を戴くことができた。これを参照しながら歩いていく。

  戴いた資料の中に「大正2年下都賀郡吹上村略図」があった。かつての総合運動公園の敷地には「鹿島神社」が鎮座しており、永野川への分流前の赤津川の蛇行する川筋が記載されいる。貴重な資料として大切にしていく。

Photo_6  総合運動公園内には小倉堰から流れてくる「荒川」と「御手洗沼」、「親水池」がある。ウエブに記載されている栃木自由大学現地研修ツアーでは、現地案内を栃木市議会議員の故森戸常吉氏が「今昔話」をしながら歩いた報告になっている。この「今昔話」を引用しながら歩くことにする。

  荒川に合流している御手洗沼について森戸氏は、「ゆうに長さ約100mはある広さで、水深は、夏場は深いところで3mくらいの沼だった。水浴びしていても10分も入っていられない冷たさ。沼底にはマコモという葉の長い水草が群生しており、子供たちが素潜りすると足にからんだ。地元のがき大将は、それを刈り取って遊び場も作った」と記されいる。また、公園東の出口付近にあったと云われている吉根沼については、「語源が植物の『よし』であるように葦が密生していた。水深は、御手洗沼と同じくらい深かった」と語っている。

 湧き水特有の水の冷たさが伝ってくる。今は整備されているが、当時の沼の水深が3mというから、かなりの深さであったこと。それだけ水量が豊富であったということが分かってくる。

Photo_8  総合運動公園の北側に豆腐をお供えする「三日月神社」がある。そのすぐ東にある川原田公民館の脇道から北上すると、細長い「一兵淵」という地帯に出る。

  森戸氏今昔話では、「一兵淵では、割り上げという手方で、水圧を上げ、田に水を引いた。一部は、水を送るための足踏み水車もあった。ニワトリのえさになる『たしゅろもく』という水草が密生していた。昭和30年ごろは、渇水期の冬場には、リアカー2台分くらいのザリガニが捕れた」と語っている。

  「足踏み水車」は分かるが、「割り上げ手方」につてはどういうものなか分からない。課題として、調べていくことにする。

Photo_9  「一兵淵」の先を歩くと左側に「館跡地」がある。土塁のような盛り地。そのそばには空堀が通っているように見える。現在の敷地内では畑と「タテ製作所」としての工場が操業している。

  森戸氏今昔話では、「(上流の)天神淵から南に3本の堀が延びていた。昔の館跡と思われる館があり、今でも『館』という屋号のある家の西側を南下する『館堀』、一兵淵から吉根沼へ続く『中堀』、そして淵から南東方面に伸びる『長瀞』。長瀞は実にゆっくりした流れだった」と地理的特徴を伝えている。

054  現在の盛り地のそばの空堀を「中堀」と言い、その「中堀」は、今歩いて来た「一兵淵」から総合運動公園内にあった「吉根沼」まで続いていたということになる。右手東側を流れている川がかつての『長瀞』であった。ということは中堀と長瀞で「二重堀」を構成する中世の「館・城郭」であったのではないかと思われてくる。

  平成27年(2015)3月栃木市発行の「栃木市遺跡分布地図」の中には、この地を「川原田城址」として黒枠で囲っている。詳細は不明としながら「台地、現状水田、畑地、中世以降時期不明、170m×200m」と記されている。大正2年吹上村地図には「館」と記されている。中世以降の戦国期、城郭または館として存在していたということになる。

  それにしても34,000平方m(約1万300坪)は広い敷地を有した館跡としての「川原田城址」になる。観光地図にも出てこない館跡・城址があることに驚かされる。第1次皆川宗員の子孫に「河原田氏」が出てくるが、その河原田氏の「館跡」だったのだろうか?

Photo_5 「其男宗成始めて皆川宮内将輔と号す。大永3年(1523)11月3日、宇都宮忠綱と、都賀郡川原田に於いて合戦して討ち死す」と始めて長沼から皆川と名乗る皆川宗成のことが記述され、川原田合戦で討ち死にしたことも記されている河野守弘著「下野国誌」。川原田合戦の数少ない史料になっている。

  鹿沼南摩地方から南進してきた宇都宮忠綱1800名の軍勢は白地沼北に本陣を構える。迎える皆川宗成・宗勝父子1000名の軍勢は「川原田城」と「平川城」を拠点にして迎える。双方の激しい戦いは平川城を守る宗成の弟、宗明が討ち死にする。さらに皆川城主の宗成も討ち死にをする等、形勢は皆川勢が押され、不利な戦いになっていた。しかし、小山・結城勢による宇都宮本陣後方からの援護攻撃により、宇都宮勢は撤退においこまれていったという川原田合戦(大森隆司著「下野の動乱」より参考に記述)。
  東武日光線「合戦場駅」の北東に川原田合戦における戦死者を葬ったという「升塚」が史跡としてある。

Photo_6  栃木市遺跡分布地図に記されている「川原田城址」。川原田合戦の際に皆川城主の皆川宗成が川原田城を陣構いとして出撃していったのか?確かな史料はない。しかし、宇都宮勢の本陣が白地沼の後方、現在の県南自動車学校付近と考えるならば、この川原田城と一直線に相対する布陣になってくる。

  白地沼から粟野街道を挟んで「川原田上水場」「笹淵」にかけての一帯は、双方で250人を死者をだす大激戦の古戦場であったことに今更ながら驚く。

 「天神淵の深いところは、南側は大人の膝くらい、小さい子どもでも水浴びができた。北側の淵は、水深4~5m。危険な個所があって、10歳くらいの子がおぼれて亡くなった」と語る森戸氏の今昔話。

076_6 この今昔話の中に昭和35年頃から淵の水が干しあがってきたことが語られてくる。

 「天神淵から笹淵へ行く途中、川原田上水場は土地が低く、麦も発芽しない土壌で、昭和50年に市民の水道確保のために作られたものだが、地下深く50mから水を吸い上げている。その頃、巴波川水源の淵の水が完全に干しあがったこともあり、因果関係が取りざたされたが、上水場ができる前、昭和35年頃には淵の水はすでに夏場の大雨の時期を除いては干しあがっていた。淵の水が干しあがった原因は、周辺住民の増加に伴う生活用水の需要が増えたことと、アスファルトの舗装道路整備などにより、土地の保水力が落ちたことによるものと考えている」と語ったことが記されている。本当にこれだけの理由だけなのか?疑問が残る。

Photo_21 ここまで歩いてきた水辺の景色の中で一番ゆったりとした気分にさせてくれたのが「笹淵」。川の流れが緩く穏やかになっている。美空ひばりの歌う「川の流れのように」が浮かんでくる。

 今昔話では「笹淵の鯉は、よく育ち、ダルマ鯉とも呼ばれるほど鯛みたいに太い姿であった」と語られている。

  「天神淵」から「笹淵」にかけて湧き水は見当たらない。また、川の水が深く淀むと言う「淵」とは言えない川の姿になっている。しかし、この川を流れる水は何処からきているのか?という疑問が湧いてきた。

 今昔話は続く。「大淵沼は、その名のとおり広い沼のような淵で、養魚を試みた人もいた。他の淵と同じように、昭和35年頃、淵の水は干しあがり、空堀りのような今の姿になってしまった」と語り終えている。

Photo_22 広大な「大淵沼(だいぶちぬま)」には水はない。水害を防ぐ遊休地として枯草が沼地を覆うっている状態だ。荒涼と索漠した池の跡地の畔に地蔵尊が建っている。

 大淵沼の脇を流れる川は下流の「笹淵」「天神淵」を流れ、総合運動公園に注いでいる。「この川の水は何処からきているのかな?」と、また浮かんできた。大淵沼を歩きながら探しに行こうかとふと思った。上流を辿って行けばよいが、今回はここから「白地沼」を回って行くことにした。

Photo_23  「川原田合戦」で日向野徳久氏は都賀町町史の中で「討ち死にした皆川宗成の子、成勝の川原田合戦後の家臣団、周辺地区の在地土豪への対策が功を奏して、宗成時代より支配圏が拡大することになった」と意義付けをしている。

  江田郁夫氏は著書「下野長沼氏」で宗成の祖父である長沼秀宗が子の氏秀とともに奥州南山(南会津)より皆川荘に入部してきたのが15世紀後半中頃(1480年頃か)と指摘をしている。

  皆川荘にいた第一次皆川氏は150年前にすでに断絶をしている。皆川秀宗父子の入部には古河公方、足利政氏が関わっているとしている。それから約40年後に「川原田合戦」がおこっている。

 鎌倉御家人名家、長沼氏の流れを継ぐ皆川氏は、南進策を進めてきた宇都宮氏にとって制圧する地帯の武将としていきなり出現したことになる。「川原田合戦」以後も俊宗、広照と数度との戦いが展開されることには、宇都宮氏の南進へのこだわりがあったのではないかと思えてくる。名門、長沼の血を継ぐ皆川氏の栃木支配圏の活躍と拡大は、今歩いてきた川原田から始まったのだと思えてきた。

  白地沼から粟野街道に出て、総合運動公園に戻ってきた。約2時間30分の行程だった。

  森戸氏の「今昔話」にでてくる「川遊び」や「淵や沼の水の深さ」から水量の豊富さを思い浮かべることができる。今回は淵からの湧き水を見つけることはできなかった。次回、川原田を歩く時には涌き水を発見したい。……しかし、地下水は無限ではないことを今一度検証していく必要があると思えてきた。

                                        《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

日向野徳久著「改訂、北関東における一封建都市の研究」(昭和34年4月発行)/「栃木市遺跡分布地図」(平成27年3月、栃木市発行)/河野守弘著「下野国誌」(1966年8月、徳田浩淳校訂、下野新聞社発行)/大森隆司著「下野の動乱」(1987年7月、下野新聞社発行/「都賀町町史」(平成元年3月、都賀町発行)/江田郁夫著「下野長沼氏」(2012年6月、戎光祥出版発行)/ウエブ・ネットワークとちぎ現地研修報告「巴波川の水源を訪ねて―昔かたり」(2003年2月・6月)

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