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2016年5月

孤高の日本画家・田中一村が眠る栃木市「満福寺」

416b1y0dyql_sx258_bo1204203200_1_2  平成26年(2014)11月に亡くなった俳優の高倉健は、「あなたに褒められたくて」「旅の途中」などの著書を書き残している。さらに子どもむけに、健さん自身も朗読している絵本とCD「南極のペンギン」を発行している。その絵本の中に、奄美の孤高の日本画家・田中一村とハンセン病療養所「和光園」の少女との心温まる交流を描いた「奄美の画家と少女」が収められている。

  親元から引き離され、療養所で暮らす少女。その少女が肌身離さずに持っていた母の写真が田中一村の手で鮮やかな絵になってよみがえり、喜ぶ少女の様子がつづられている。

Toppage_r04_c61  高倉健は、「田中一村というのがこの画家の名前だ。奄美でひたすら自分のかきたい絵をかきつづけた。絵をかくために、生まれてきたと信じた。生きているあいだ、彼の絵は世の中に認めれなかった。それでも、絶望しなかった。貧しさにも負けなかった。そのはげしい生き方は、『アダンの画帖』にくわしく書かれている。一村が亡くなったあと、ぼくはその絵をはじめて見た。南の島のたくましい命があふれている。自分の命があふれている。自分の命をけずって、絵の具にとかしたような絵だ」と記して結んでいる。

  このお話を、私は4月24日に栃木文化会館で開かれた「栃木市文化まちづくり協議会」主催の「栃木の魅力ある文化とまちづくり」の講演会で、講師、寺元晴一郎氏より初めて聴いた。箱根小涌谷の岡田美術館の副館長である寺元氏は美術商・美術研究家として活躍をしている人である。 

Ts140725_01_11  講演の後、さっそく「南極のペンギン」を購入して、読みながら関連をブログで検索してみる。実際に高倉健は奄美の「和光園」を訪れた形跡はない。しかし、田中一村の没後に本や画集が出版され、そこで一村と入所者の話を知り、「優しい心の出会い」をメッセージとして語りたかったのだと思えてきた。健さんの温かい心が伝わってくる絵本になっている。

  昭和33年(1958)12月に千葉の家を売り払い、「生涯最後の絵をここで描く」として奄美に移住してきた50歳の田中一村。画業10年計画を立て、54歳から奄美の紬工房で働き、5年後に紬工房を辞め、以後は貧窮、菜食生活を送りながら絵画制作に専念する。亡くなる昭和52年(1977)9月11日までの19年間に『アダンの木』『クワズイモとソテツ』『ビロウとアカンショウビ』等20数点の絵を描き残している。

51wz6b5rnzl1  一村の死後、奄美の人々の手によって昭和54年(1979)11月に遺作展が開かれた。その遺作展に携わった記者、中野惇夫氏によって田中一村のことが南日本新聞地方面のトップ記事として記載される。このことが契機となり、5年を経た昭和59年(1984)の12月にNHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜―異端の画家田中一村」が全国に放送された。

  紹介された絵の数々、中央の画壇に背を向けて奄美での画業生活。この放送は再放送をもたらすなど異常な反響を呼び起こした。亜熱帯の島の自然を相手に描き続けた一村の絵は、「日本画の異端」「昭和の若冲」「孤高の画家」「日本のゴーギャン」と称され、田中一村ブームを引き起こした。テレビ東京放映の「何でも鑑定団」の中で、鑑定士田中大氏は「奄美時代の一村作品であれば一点一千万円をくだることはない」との評価が下されるようになった。

20100907_17649601_3   閻魔大王への土産品だと知人あての手紙に書いた『クワズイモとソテツ』の画。写真でしか見ることができないが、全体に覆いかぶさるように迫ってくる熱帯植物群。その中央に遥かに見える三角形の岩―立神が描かれてある。神々が海上からやってくるとき、神はまず岬の小岩島に上陸するという。これが立神といわれるている岩。―そこには一人で生きる、言い知れぬ己の願望を見るような気がする。実際の絵を見たら、圧倒されるだろうなと思われてくる気がしてくる。

036  田中一村は亡くなった姉、喜美子の遺骨を墓地に埋葬するために昭和52年(1977)の5月に生まれ故郷の栃木市に訪れている。奄美のホテルで初めて個展を開くことになり、千葉にある自分の作品を収集するため奄美からやってきたのだった。

  田中家の墓地のある栃木市旭町「満福寺」を訪れた時の情景を中野惇夫は著書「アダンの画帖―田中一村伝」の中で、こう記述している。

  「このとき一村は、姉喜美子の遺骨を抱いて帰っていた。型の古くなった黒い革靴をはき、作業ズボンに半袖シャツの姿でやや腰を曲げたかっこうで歩いてきた。首にふろしき包みを巻き、ようやくたどりついたという様子で寺のくりやに入ってきた」

031  「満福寺の先代住職の妻長沢泰子さんが、このとき一村と対応した。一村はまず、『田中家の墓はどうなっておるのでしょうか』とたずねた。『まだそのままにしてございます』と答えたところ、一村はほっとした様子で、『私が死ねば、田中家の墓も無縁墓になります』といい、身の上話をぽつりぽつりと語りはじめた。ちょうど昼時だったので、長沢さんがソバを作って差し出すと、一村は、うまそうにはしを動かし、『ああ、おいしかった』といって礼を述べた」

  「一村は田中家の墓がまだ残っており、姉喜美子と自分が入る場所があったことを知って安心し、またとぼとぼと千葉へ帰って行った。千葉の川村幾三氏宅にたどり着いた一村は、倒れるように寝ついてしまった」

044   さらに同書には、「栃木へ訪れた同年の昭和52年9月11日の夜、引っ越して間もない奄美有屋の借家で田中一村は心不全で息を引き取る。69年の生涯であった。遺骨は千葉からきた妹の新山房子さんと、長男宏さんによって、父母や姉の眠る栃木市満福寺の田中家の墓地に埋葬された」と記述されている。

  私は田中一村の遺骨は奄美にあり、満福寺には「供養塔」だけがあるものと思い込んでいた。実際に満福寺の田中家の墓地に遺骨が埋葬されていることを知り、驚き、栃木市に住んでいながら己の無知に恥ずかしさを覚えた。

  「お墓は妹さんの息子さんが守っております。貝殻を持って奄美の方々もいらっしゃいましたよ」と、満福寺の住坊で私に応対してくれた奥さんから聞くことができた。墓石の前には貝殻が置かれてある。奄美の貝殻なのだ。

  二度目の訪問の時に住職の長沢弘隆さんにお会いすることができた。「お墓は2基。いずれも父親の彌吉さんがお建てになっております。左側の少し大きい墓石が彌吉さんのお父さん、一村さんの祖父のお墓です。右側が彌吉さんの祖父のお墓になっております。関西から田中一村さんのお墓を訪ねてくる方が多かったので、分かるようにと案内立札を建てさせていただきました」と丁寧な説明を受けることができた。

002_2   長沢住職は大師堂の裏の境内に「田中一村供養碑」を建てている。その碑文には、「田中一村。日本画家。明治41年、栃木県下都賀郡栃木町(現栃木市)、田中家に生まれる。幼少より画才を発揮し、東京美術学校(現東京芸大)に学ぶ。才能に恵まれるも、中央画壇に背を向け、貧窮のなかで絵の良心だけを信じ、ひたすら絵かき人生を歩む。没後、終焉の地奄美大島の人々とNHKテレビ日曜美術館番組関係者方等の手により、その作品と画業が紹介されるや閉塞状況の物質文明社会に感動とブームを巻起す。時あたかも市政60年記念として個展が開催されるに当り、茲に碑一基を建立し、その偉業を顕彰し、供養に併せてその名を永く後世にとどめんとす。本名、田中孝 享年69歳 平成8年11月 満福寺第三十世 弘隆 識」と記されている。 

  「田中家は檀家でありますので供養塔を建てさせていただきました」と、檀家と答えた長沢住職の一村に対する思いを受けとめることができた。

046  一村が4歳の時の大正2年(1912)、田中一家は栃木から東京の麹町に移転する。一村の母親の実家が四谷界隈にあり、絵を学ばさせるため栃木の生家を引き払い、上京したのだ。

 「4歳まで過ごした栃木町の時代、一村の生家はどのあたりあったのですか?」という私の質問に、長沢住職は、「以前、番地まで調べたんですけど、昔の字平柳、今の泉町ですね。おおよその場所は、万町交番を右折して、壬生街道を300m位行ったところにある『市川』という呉服店あたりだった思いますよ。番地の載った史料がどこかにいってしまっているのですよ」とすまなそうに答えてれた。

013_2  住職が教えてくれた壬生街道沿いの泉町界隈は私の生家があった万町4丁目から道路を隔てた所だと知り、びっくりした。

  さっそく自転車で泉町界隈に行く。子どものころ通った床屋や歯医者。栃木に帰る度に食べた「やまと屋の中華ソバ」。紙芝居を見たこと。狭い路地裏を通って平柳町にある親父と兄が営んでいた製材所に行ったことなど思い浮かんできた。家々は新しい建物になっているが、狭い路地は昔と変わらない。

  長沢住職は、「一村さんの住所を調べていたら、近くにある雲龍寺の御堂の向拝にある彫刻、どうも父親の彌吉さんが彫ったものらしいのです。その史料があればもっとはっきりと言えるのですが…。一度、雲龍寺の御堂の向拝にある彫刻物、見てご覧なさい。見事な彫物ですよ。近くに住んでいた彫刻師としての彌吉さんに頼んだのかもしれませんね」と教えてくれた。

  一村の父、田中彌吉は稲村と号し、仏像彫刻家だったことから、雲龍寺向拝の彫り物を頼まれて作ることもあり得る話だと考えられる。

054  中野惇夫著「アダンの画帖—田中一村伝」に父彌吉と栃木の生家の雰囲気が書かれてある。「父彌吉は、稲村の号を持つ天才肌の仏像彫刻家だった。おっとりした性格で、栃木の家にいるころは、広い屋敷の周囲を全部切り払い、草を生やして、コオロギやカジカの鳴く声に独り縁側で耳を傾け、楽しむという風流人だったと言う」と記されている。

  しかし、泉町界隈において著書に書かれてある「広い屋敷の周囲を全部切り払い」という家は想像できない。

  明治初期の栃木の町は舟運、荷馬車による物流の発展や麻問屋商家の隆盛により、近在の農家の次男三男が多数移住してきて、町の拡大が進み住宅が建ち始めた時期でもある。その一角の地域に住宅街として泉町があった。祖父も彫刻家だっと言われている田中家。田中家は仏像彫刻に携わる職人の家系ではなかったのだろうか?

020   昔から「お不動さん」と親しまれてきた成田山雲龍寺は栃木市泉町18-8にある。境内には明治23年に建てられた御堂がある(栃木郷土史より)。栃木特有の強い西風にも負けない大きな屋根瓦が回りを圧倒する御堂の建築物である。

 その御堂の向拝にある龍の彫物。鋭い眼をした表情と引き締まった龍。長沢住職が言う、迫力ある龍の彫刻だ。

 誰が彫った龍の彫物なのか?

014_5  一村の生家から御堂までは裏通り沿いのすぐそばの距離である。仏像彫刻師田中彌吉の作ではないかという住職の話、十分あり得る。しかし、考えてみると年齢が合わないのだ。彌吉は昭和10年(1935)に52歳で亡くなっている。逆算すると生れは明治16年(1883)。御堂建立が明治23年。その時の年齢は7歳ということになる。

   満福寺にある彌吉が建てた父親のお墓。その墓石には明治35年没「田中喜作」と刻字されている。明治20年~30年代にかけて一村の祖父、喜作は彫刻師として油の乗った年齢になることになる。そのことから御堂の向拝の龍の彫物は、むしろ祖父の田中喜作が彫ったのではないかと、私の推測になってしまった。

045   翌日、満福寺を訪問して、長沢住職に雲龍寺の御堂の龍の彫物の作者は一村の祖父だったのではないかと話をしてみた。「御堂を建てた後、数年して彫物を備えることがありますが…。とにかく史料がないのが残念です」との応えであった。

  雲龍寺御堂向拝の龍の彫物が田中一村の祖父、喜作が作っているとしたら、一村の家系の流れが分かってくるような気がする。

  江戸末期、日光山寺の豪華な彫刻の流れをくむ鹿沼の彫刻屋台を作り上げてきたといわれる富田宿(現栃木市大平町)の磯部氏とその系統。下野南部の社寺の木彫刻などを手がけている(栃木県郷土史散歩より)。

  ひょっとして、田中一村の家系が、その磯部氏系統の仏像彫刻師の職人であったとしたら…?と、根拠のない妄想が湧いてきた。いずれにしても、雲龍寺御堂の見事な彫物、泉町関係者から話を訊きながら、作者は誰なのか、調べていこうと思う。

004   田中一村の墓所の傍に明治17年(1884)9月の加波山事件で死刑になった元相馬中村藩士の子息、杉浦吉福(きっぷく)のお墓と供養塔が建立されている。

  そのいきさつを長沢住職は、「隣にある裁判所には当時、処刑場もあったのです。明治19年に杉浦吉福の死刑が、その裁判所内で執行されたのです。福島県の実家ではご遺体の受け取りを拒否したのです。よくあるお話しです。そのため代言人(弁護士)だった榊原経武(つねたけ)さん、後の栃木市の初代の市長になった方ですが、その榊原さんから、裁判所と隣接している当寺で葬ってほしいと頼まれ、埋葬しました。供養塔は下毛有志で建てられていますが、建立者の名前は記されておりません。名を伏せたのですね。民権運動に理解ある栃木町の商家の方々もこの供養塔を建てる際に裏で資金援助をしたと伝わっております」と語ってくれた。民権運動激化事件として位置づけされているが、加波山事件に関わった栃木の民権運動家は多い。栃木の自由民権運動の歴史が満福寺境内にも横たわっていることを感じた。

034   田中一村が眠る真言宗智山派の満福寺は鎌倉時代に創建された。天正年間には皆川広照の栃木城の築城と栃木町つくりのために太平山麓から現在地(栃木市旭町22-27)へ移転してきた。

  江戸期には杢冷川にかかる東木戸の守りを務め、隆盛した寺院。しかし、幕末の栃木町四大火事の一つである文久2年(1862)の「本陣火事」で強い西風に煽られ、大伽藍等の御堂をことごとく失うなど辛苦の時代を経てきた。しかし、全山焼失の本陣火事から110年後の昭和47年(1972)に現住職、長沢弘隆氏が晋住し、復興の機運を得て本堂を再建し、昭和60年(1985)には客殿・住坊を建設。さらに、平成23年(2011)、開創750年を期に新本堂「大毘廬遮那殿」を建立。旧本堂は大師堂となり、同時に境内も大規模整備された(ウエブ「ウィキペデイア、栃木市満福寺」より)。

 昭和27年栃木市発行の「栃木郷土史」の中で、「明治12年に建築された栃木裁判所の正門は、その昔満福寺の表門であった」と記述されている。以前から江戸期に栃木町の東木戸を守る満福寺の表門が奥にあるのが変だなと思っていた。表門が街道に面していたことで、木戸番としての役割をしていた寺院であったことが分かった。

  大師堂から新本堂を見渡す。古い歴史を内包しながら、満福寺は大きく変わろうとしていることを実感する。田中一村への関わり方を寺院として見ると、住職のゆったりと姿勢、お話しから人への温かさを感じた。歴史的にも、地理的にも興味のある寺院として注視していくつもりだ。

043_2   4月24日の栃木文化会館における寺元晴一郎氏の講演、「栃木の魅力ある文化とまちづくり」の中で、「歌麿と一村」の二人を中心にしたまちづくりの大胆な提起があった。

  それは、「栃木市では歌麿三部作等を高度な複製画で制作し、常設展示をしている。田中一村の作品も同じように高度な複製画を作成して展示をしていったらどうか。栃木市は東京から近いことから、栃木市のアピールにもなる。歌麿と同様に田中一村と栃木を結ぶものを是非検証していって欲しい。ただし、実行する時期とハンドルのまわし方には十分に検討を要しますよ」との暗示ある寺元氏の提案があった。

  十分に検討を要する話の内容であった。

013_6401  田中一村の絵の中で、私は昭和23年の千葉時代に描いた「秋晴れ」が一番魅かれる。黄金色した空を背景に大木の幹の枝に干された大根。大根の白さがあざやかに浮かび上がってくる。大木の下では争っている軍鶏が見える。のどかな農村風景だが、どこか不気味な険しさが感じられる絵だ。家庭菜園をしているからかもしれないが、大根は野菜の王様だなあ…と。この絵を見て改めて思えてきた。

   展覧会以外に田中一村の絵を見たいと思っても、「奄美」だ…。やはり遠い、気軽に行ける所ではない。

  寺元氏が提起した、一村が生まれた栃木のまちの中で歌麿同様に一村の複製画を常設で展示を行う。東京から近い場所。一村が眠る「満福寺」、一村が生まれた「泉町界隈」、一村の父か祖父が作ったかもしれない「雲龍寺御堂向拝の龍の彫物」。その光景を思い浮かべながら、奄美以外に一村と接する東京から近い町、栃木かなあ…、と思ってきた。

  「田中一村と栃木を結ぶもの」。――考えながら調べていこう。

                                                     《夢野銀次》

≪参考・引用資料本等≫

高倉健著「南極のペンギン」(2001年2月、集英社発行)/中野惇夫著「アダンの画帖―田中一村伝」(1995年4月、小学館発行)/大矢鞆音著「田中一村―豊饒の奄美」(2004年4月、日本放送出版協会発行)/「田中一村の世界」(NHK出版編集発行)/「栃木県郷土史散歩」(1980年1月、朝日新聞社宇都宮支局編集、落合書房発行)/「栃木郷土史」(昭和27年9月、栃木市役所発行)/ウエブ「ウィキペディア・栃木市満福寺」

 

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夏野菜の植え付けが終わりました

053   「ジャガイモ、よくできてんなあ」と近くの婆さまからお褒めの言葉をいただいた。「深堀から作っているんかい。うちのジャガイモ、青いのが多いのは、そのせいかな」と畑を見ながらつぶやいて行った。

   この辺りの人達のジャガイモ作りは、畝に最初から種イモを植えている。私の場合は深堀からジャガイモの成長に合わせて、土寄せを行ない畝を作ってく。地域によって作り方が違うのだ。

  3月13日に植えたジャガイモ、男爵・キタアカリ、メークインの4キロ。昨年は5キロ植えたが、今年は少ない。しかし、植え付けの時、どんぴしゃり余りなく植え付けすることができた。今年はいいぞと確信する。

 ジャガイモに花が咲き始めた。

054_2  野菜の定番はやっぱり「ナス」だ。それに、ピーマン、シシトウ、オクラ、インゲンと家庭菜園を始めてから20年間、ずーとつくり続けてきた。

 土おこし、畝作りと畑を耕作する。土おこしをした畑の土壌はふっくらとして温かみを帯びてくる。収穫する喜びより、土を蘇えらせる時が、やったという感じで一番うれしいひと時でもある。

   秋まで実り続けさせるナス。どこまでも高く伸びさせるオクラ。8月にむけての作業が始まった。

060   スーパーで購入したカボチャ。その種から苗を妻は毎年さかせている。その前に私はホームセンターで2本のカボチャの苗を購入して植え付けをした。

  妻が作るカボチャの苗は後から3本植える予定にしている。

  昨年はホームセンターで購入した苗はしぼんでしまい、妻が咲かせた苗でカボチャの実を成らせた。

 今年は、どっちの苗が育つか?畝の後ろに風よけのビニールをはる。いくらか違うと思えるからだ。

058 5月5日頃から花が咲き出した絹さや。

種を植えたのが2月中旬。…やはり遅かった。1月初めに種を植えないと4月中に花は咲かない。花が咲く前に絹さやの枝はしおれていっていまう。

   「なんだかさらし首みたいだな」と見えてくる小玉スイカの畝。苗を保護するポリは5年以上前に購入し、毎年使っている。この保護ポリがないと苗は根付かない。そろそろ買い替えしないといけないと思いつつ、今年もこのポリ保護を使っている。

   小玉スイカ3本の苗は左から赤玉、黒玉、黄玉と並べた。猛暑の8月は、昨年と同じ様に小玉スイカを毎日食べて過ごしていきたい。

066   この場所でゴーヤを作るのは初めてとなる。昨年は駐車場を背にして南向きに、1本の苗で作った。今年は、我が家を背に西向きの畝に2本のゴーヤの苗を植えた。

  ゴーヤの蔓は広く伸び続ける。横に伸びるとして、左右に網を張った。ゴーヤの左は玉ねぎ、右側がニンニク。

  網は邪魔しないように張った。右側のニンニクが元気がないのが気にかかる。どうしてなのか?

  妻のプランターから芽がでた玉ねぎ。畝に移し替えた。ようやく育ち始めた。

069  さつまいも——紅あずまと金時の20本の苗。20本と少ないかなと思えるが、昨年蔓ボケして真中の畝からは実が成らなかった。肥料のやり過ぎなのか、水はけが悪かったのか?今だに分からない。

  今年は、草木灰と堆肥だけとして化成肥料は施していない。荒地でも育つサツマイモ。その生命力を見て行きたい。

  知人から八つ頭の種イモを戴いた。里芋と一緒に4月15日に植え付けをした。里芋はマルチを膨らませ、芽が出始めている。しかし、八つ頭の方は今だ反応はない。八つ頭の方が、芽が出るのが遅いのだと勝手に思い込んでいる。

085  4歳になったポン太。体重が7.5キロ。「大きいネコを好む人がいますよ」と動物病院の先生が笑いながらワクチンをうってくれた。

  母猫は野良猫。ポン太と弟のポン吉をつれて我が家に餌を求めてきていた。ポン太兄弟を我が家に入れて飼い始めた。母猫はいつの間にか姿を消してしまった。

  大きい猫のせいなのかポン太は鷹揚としている。大物を発揮し、喧嘩は強いのかと思っていたら、3月に左腹に噛み傷があった。喧嘩でやられたなと思い、動物病院で化膿止め注射をうってもらった。昨年の秋には弟のポン吉もやられている。近くの農家の人は「何匹がいるんか分かんねえ」と言うほど、猫を飼っている家は周辺に多い。

   実りを迎えた麦畑。荒らしてはいけませんよポン太と言うが、どこふく風かという顔で私を眺めている。

                                     《夢野銀次》

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