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栃木街の中心地ー倭町交差点「イシハラ洋品店」と道路元標

041_2   「栃木街の中心地、真ん中にうちの店はあるのです。真ん中としての役割を考えて、時代にそった店舗づくりをしていきます。そのためには、この建物を取り壊して、ミツワ通りと繋がる新たな店舗を共同で作っていくのです。大通り沿いを広くして風通しを良くし、駐車場を設置し広くしていきたいですね。街にお客さんをひきつける。そうした店づくりをしていきます」と私に熱い思いを語るイシハラ洋品店4代目の店主、石原靖弘さん。

   「イシハラ洋品店」の店舗はすぐ近くの銀座通り西端に移転を行ない、高校の制服を中心に従来通りに店を構えていく。そして新たな店舗造りを現在の倭町交差点角を中心にした店舗共同開発として建てていくという話になっている。

010_4  「イシハラ洋品店が店閉まいするんだって」とある会合でその話を聞き、「エッ、本当?」と驚いた私は、倭町交差点角に建つイシハラ洋品店に行った。ショウウインドウには「店舗移転の為 閉店SALE 当地区の再開発の為、店舗を移転することになりました」と店閉まいではなく、再開発を進めるための移転であると明記されていた。48年前に建築された屋上のある5階建ての店舗を解体して、新築する。それも地域の商店と共同開発として進めていくことを聞いて、何故かホットした。

  「栃木にもエレベーターのあるお店ができた」と当時、誇らしく思った記憶が浮かんでくる。「エレベーターは今もありますが、電源は入っていません。エスカレーターもありましたよ」と石原靖弘さんは語ってくれた。屋上のある5階の部屋で小学校時代の絵の先生が個展を開いたのもこのイシハラ洋品店だ。ただ屋上から眺めたはずの栃木街の屋根瓦の光景が浮かんでこない。

015_2 イシハラ洋品店は栃木市倭町交差点の南西角に建っている。栃木市の一等地であり、倭町交差点は街の中心地に位置する。江戸時代には足利藩栃木陣屋の入り口として高札場が設置されていた所でもある。街の中央を南北に往還する蔵の街大通り(旧例幣使街道)とこの交差点を起点とする栃木県道75号栃木佐野線(皆川街道)が交差している地点でもある。

  大通り商店街からミツワ通り、幸来橋へと続く銀座通りを中心に昭和40年代頃までは栃木街の商店街は買い物客や高校生でごった返す人通りの多い町であった。栃木市に初めて信号機が設置されたのもこの交差点であった。小学校時代に先生に引率され、点滅する信号機を確認しながら交差点を渡る指導を受けた思い出がある。栃木のまちはここから始まっているのかもしれない。

007  イシハラ洋品店の向いにある足利銀行店舗の解体工事が始まっている。新店舗は奥に出来上がり、すでに営業を行なっている。更地となり駐車場になっていく。

  この倭町交差点には県道11号と75号の道路標識が建ってある。その標識の下に大正10年(1921)に設置された50㎝ほどの石塔、道路元標(どうろげんぴょう)がある。道路側に「栃木町道路元標」と刻まれている。歩道側からでは見えないため、ただの石塔にしか見えない。

09tochigi011   大正8年(1919)の道路法によって各市町村の中心地に設置された道路元標は、主な幹線道路の起点や終点を示し、地点間の距離を測定する基準としていた。昭和27年(1952)施行の新たな道路法により道路元標は道路の付属物とされ、設置場所や道路元標を路線の起終点にする規定はなくなった。そのため大正時代に設置された道路元標は道路工事や宅地開発などで撤去され、いつの間にかなくなってしまっていった。

040  栃木市と近郊との合併は、昭和29年(1954)に大宮・皆川・吹上・寺尾の4村、昭和32年(1957)国府村、平成22年(2010)の大平・都賀・藤岡の3町、平成23年(2011)の西方町と合併をしながら、いずれの町村において道路元標は消失してしまっている。栃木市内で唯一、倭町交差点に建っている大正10年設置の道路元標の石塔。ここだけに現存しているということになる。

  栃木市では市文化財に指定しているが、周囲には文化財であることを知らせる看板はない。そのため車や自転車はもちろん歩行者も目に留める人はなく、ポツンと置き去りされて建っている。

  平成25年(2013)8月29日の下野新聞にはこの「栃木町道路元標」の石塔について、「1世紀近くにわたって蔵の街の歴史を見守ってきた“生き証人”だ」と記述されていた。

  現在の倭町交差点は県道75号皆川街道の起点になっている。他の栃木市街地の県道起終点は市内の主な交差点に位置している。例えば万町交番交差点が、県道2号宇都宮栃木線(栃木街道)、3号宇都宮亀和田栃木線(鹿沼街道)、11号栃木藤岡線の3つの県道終点地になっている。河合町交差点は、31号栃木小山線、153号小林栃木線の終点地。日ノ出町交差点は44号栃木二宮線(小金井街道)の起点地。箱森粟野街道入口交差点は37号栃木粟野線の起点地になっている。現在の大半の道路起終地は交差点に定めてあることが伺える。確認していないが、「栃木まであと〇〇キロ」という標識版は道路起終地にそって表示されているのかもしれない。

Yamaguchitomoko20081  「へー、やだあー、建物なくなるんだ、と取り壊しのことを聴いて、トモちゃんが驚いていましたよ」と、イシハラ洋品店の店主、石原靖弘さんが私に話してくれた。トモちゃんとは女優の山口智子のことだ。

  山口智子の実家は平成17年(2005)8月に廃業した「ホテル鯉保」の老舗旅館であった。ホテルはイシハラ洋品店の先向いにあった。現在はその地にコンビニストアの「ファミリイマート」が建っている。

  山口智子を娘のように育てたのが女将でもある祖母の山口礼子さんだった。すでに亡くなっているが、戦中戦後を通して「ホテル鯉保」を切り盛りした女将であった。その山口礼子さんはイシハラ洋品店の創業者、石原豊吉氏の長女として大正10年(1921)に生まれ、当時「鯉保別館」と言っていた山口恭平氏に昭和15年(1940)12月の暮れに嫁いでいる。イシハラ洋品店とは非常に親しい親戚筋になっている。

016  鯉保の先祖は江戸期に日本橋で「鯉屋」という魚商であった。主人の鯉屋藤左衛門は俳号を杉風(さんぷう)と称して、松尾芭蕉の高弟でもあった。鯉屋藤左衛門の末裔が明治治9年(1876)に料理店「鯉屋」を栃木万町で開業。その後、屋号を鯉屋から、明治14年(1881)鯉保と改め、旅館業も兼ねていった。

  鯉保の主人、山口平三郎氏は昭和4年(1929)に倭町にあった「晃陽館」という旅館を買収し、子息の山口恭平氏(山口智子の祖父)に跡を取らせ「鯉保別館」として開業した。昭和32年(1957)に恭平氏が亡くなり、夫人の礼子さんが女将として采配し、「鯉保別館」から「ホテル鯉保」へと成長させた。孫娘の山口智子は幼少期より祖母、礼子さんを母親のように慕い育ったと言われている(「栃木市の企業と人物、㈱ホテル鯉保、代表取締役山口礼子」より)。

   大正10年生れの山口礼子さんは20代で戦中戦後の混乱期を迎えたことになる。栃木市が平成19年(2007)に昭和を生きた市内の女性の体験談を中心に編纂した「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」を発行している。その書の中に「旅館のおかみ」の表題で山口礼子さんの口述筆記が次のように記載されている。

050   「嫁にきたのは20歳だったんですよ。嫁にくるときは、なにもしないでいいからぜひぜひといわれて嫁にきたんですよね。だけど結婚すると暮、正月はいそがしいもんですから、新婚旅行も行かないで春になったらもう妊娠しちゃいましてね。主人は昭和18年招集、南方へ行ったんですよ。働いている若い衆はみんな徴用にとられて、それからものは闇で買わなくっちゃならないですよね。父がこんなにたいへんじゃやめたほうがいいじゃないかっていうんで商売をやめたんです。中島飛行機へ寮みたいに貸したの。

 戦後また旅館を始めんたんです。米はお泊りさんがもってくる。お米を持参した人だけ泊める時代でした。そのうちだんだん闇でものが動くようになったのでお金で泊る人がでてきました。(略)主人が(昭和32年)になくなってからそれからずっとわたしが社長さんでやってきた。考えてみると60年も働いてきましたもの。だって朝は6時ですよ。朝飯ださなくちゃならないもの。夜は芸者さんが帰るのは1時、2時はざらですよ。だからね、どうやってくらしてきたかなあと思いますけど、立ってでも寝られましたね」と、立って寝るという女将としての責任あるバイタリティを感じる。商いをしていくうえでの「闇」とか「旅館のやめる、始める」「人手」とかという言葉から、時代を見つめ判断をしながら旅館業を営んできたことが伺える。

019   鯉保別館の建っていた敷地は幕末期に「旅篭押田屋」があった。元治元年(1864)6月の水戸天狗党「愿蔵火事」や慶応3年(1867)12月の出流山事件(出流天狗)における「栃木宿戦闘」など、栃木陣屋との交渉場所として押田屋を舞台に展開された歴史ある場所でもある。また、鯉保別館脇の小山街道沿いは終戦直後、闇市がたっていた。

  私には鯉保別館時代の黒塀沿いを自転車で走る記憶がある。ラジオから流れるメルボルンオリンピックの水泳競技、山中選手の泳ぐ実況放送を聴いていた姿が残像として残っている。黒く長い塀の先に明るい大通りが見えていたような気がする。

   「イシハラ洋品店の開発は民間開発です。お問い合わせがあった場合には市としては景観条例についてのお話を述べるだけです。栃木市の一等地です。民間開発とはいえ、気になりますね」と栃木市都市計画課の職員は述べていた。

  イシハラ洋品店を中心にした店舗建て替えの開発事業計画は、これからより具体性を帯びてくると思える。市役所庁舎も大通りに移転してきている。民間の活力を生かした店舗建て替え開発としての事業。その先にはたくさんの市民が訪れる町づくりが見えてくる。「蔵の街」からの脱却と飛躍が構想の中にあるような気がする。栃木の真ん中で商いをするイシハラ洋品店は歴史と時代の流れを見据えて歩み始めていると受け止めた。

                                               《夢野銀次》

《参考引用資料本》

明治40年10月発行「栃木県営業便覧」/下野新聞2013年(平成25年)8月29日号「マチある記㊺」/「栃木市の企業と人物」平成6年10月、土筆書房発行/「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」平成19年3月栃木市発行

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