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江戸の香りが漂う―栃木市杢冷川、旭町「本橋」界隈

005  川幅約3mの杢冷川(もくれいがわ)は日ノ出町の水源堀から栃木市街地の東側を流れ、巴波川に合流する全長1660mのコンパクトな川の流れになっている。

  「杢冷川って、響きのいい名前だな…」と感じて、名前の由来が気になり調べてみた。しかし、栃木市史や栃木市文化課、知人に聴いてみたが、その由来は分からなかった。

  勝手な想いとして、栃木市街を流れる巴波川は別名「鶉妻川」と記されていた。巴波川の東側を流れる川から、「鶉」と関連して、鶉杢目のように細い網目模様を形作っている河川。その川筋には冷たい湧き水湧き出していることから「杢冷川」と呼ばれるようになったのかなあと想像したりしてみた。

011   「私達の住む日ノ出町自治会は、昔は栃木町大字城内の大和、榎堂、杢冷、川島と栃木町大字栃木榎堂、杢冷、大和の7つの字を称して城内大和と呼ばれていました」と昭和62年3月に発行された「日ノ出町史」(栃木市日ノ出町自治会発行)に記載されている野川自治会長の冒頭あいさつ文。城内村から別れた時期に、字杢冷という地名が2か所あったことが記されている。

  栃木市日ノ出町にある杢冷川の水源堀のそばに石碑が建っている。石碑には杢冷川灌漑用水の由来として、荒れていた平等庵所有の湧水池の埋立を大蔵製鋼社が耕作者たちのことを思い、中止にしたこと。昭和21年に水利組合と市当局の援助で灌漑用水として蘇らせたこと等が記されている。

009_2_2  この石碑から、杢冷川は灌漑用水堀川として使用されていたことが分かった。ということは、用水掘の呼び名は地域名を使用することが多いし、村人にとっても便利でもある。そのことから「城内村字杢冷」の地域を中心に流れる用水掘川であることから「杢冷川」と呼ばれるようになった。と理解するのが自然である。何だか胸におちた感じがした。

  また、水源堀敷地の所有者が石碑には平等庵であることが記されているのには驚いた。「現在も日ノ出町公民館の地代は自治会で平等寺に支払っていますよ」と地域の人から聞いた。

   日ノ出町公民館は水源堀から小金井街道を挟んだ向かい側に建っている。その敷地は、かつて三角沼と言われ、私の子どもころの水遊びの湧水沼であった。冷たい湧き水に身体を浸した暑い夏の日が思い出される所だ。

018_2  杢冷川に架かる栃木市旭町「本橋」から「一二三橋」にかけては、栃木町の花柳界として知られていた地域である。

  「季節ごとに芸者たちは着物を購入することが多く、呉服商はとくに繁昌していた。三味線の音が聞こえ、夕方になると桃割れ姿の半玉や高島田の芸者たちをみることができた」と村田弘子著の「壬子倶楽部と町のにぎわい」の中で、明治期後半の栃木町本橋周辺の様子が記述されている。

  本橋の畔には湧水池のある老舗料亭「壬子倶楽部(じんしくらぶ)」があり、少し上流の左岸には料亭「桃坂」もあった。橋の南東側には「釜仲」の店舗跡と「平等寺」がある。

019_2  平等寺の境内には御堂と石塔が建っている。あまりの整然とした佇まいの境内から、教化活動をしていない寺院ではないかと思えてきた。御堂の左側に建っている石塔。真ん中の古い石塔には宝暦十辰天八月吉日と刻まれていることが読み取れる。

 平等寺はかつては「平等庵」という寺院名であったことが明治39年(1906)年発行の「栃木市六千分一尺図」に記され確認することができた。

  渡辺達也著の「歌麿と栃木」の中で、「平等庵の湧水池、真清水」として狂歌等が詠まれた寺院として紹介されている。平等庵が平等寺になったいきさつを知りたくなった。

027_5  「栃木市にある平等寺は霊雲寺の末寺です。平等庵が平等寺に名前が変わったのは、宗教法人法の改正によるものです」と湯島天神そばの本寺、霊雲寺を訪ねた私に事務員の人が教えてくれた。それ以上の詳しい話は担当者がいないということで断られた。平等寺はかつては平等庵と称し、東京都文京区湯島にある真言宗霊雲寺派総本山「霊雲寺」の末寺になっていることが分かった。

    霊雲寺で渡された冊子によれば、元禄4年(1691)に淨厳律師によって文京区湯島に創建開基され、柳沢吉保を通して5代将軍徳川綱吉の尽力によるとされている。同冊子の霊雲寺略史の中で、「永享3年(1746)~宝暦6年(1756)にかけて霊雲寺の末寺60か寺となる。その所在は武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野・相模」と記されている。このことから、宝暦10年(1760)と刻字されている石塔のある現在の平等寺は、宝暦年間(1751~1763)に「平等庵」として創建されたものと思われる。

  宝暦年間は、円説と三悦の二人の坊が壬生町興生寺から栃木町へ移住してきたとされている年代と重なる。二人の坊は中の坊、上の坊と称し、釜喜善野喜兵衛と釜佐善野佐次兵衛ら共に、質屋業として江戸後期の栃木町の金融経済を仕切る豪商になっていく。文久2年(1862)の栃木町「本陣火事」において平等庵は釣鐘を残して焼失する。唯一残った釣鐘は現在の旭町「定願寺」の釣鐘として現存している。寛政4年(1792)11月に造られたその釣鐘の施主の中に円説と三悦の名が刻まれている。平等庵と豪商との結びつきを強く表している銘文だと渡辺達也氏は「歌麿と栃木」の中で記している。

014  杢冷川「本橋」南東の角に建つ「釜中」店舗跡の裏手にある駐車場が、湧水池だったと地元の知人が教えてくれた。かつては平等庵の敷地内であった湧水池跡を本橋の欄干から見る。

   「この辺り一帯は何処でも湧き水が湧出し、平等庵は特に清水の湧き出る所で有名であった」と渡辺達也著の「歌麿と栃木」で記述されている。さらに、安政6年(1856)に発行「狂歌扶桑名所名物集下野」の中から、「湧出る平等庵の真清水をくめバ夏行きなり」、「真清水を結へハ夏を王(わ)すれぬり平等庵の秋の者川(はつ)風」(結べば=掬えば)」と平等庵の湧水を見ながら狂歌が詠まれていたことの紹介が書かれてある。ただ私には、変体仮名で詠まれる「狂歌」は馴染みが薄く、その世界になかなか入ることはできない。

 「歌麿と栃木」を読み、杢冷川沿いの「本橋」周辺にはたくさんの湧水があり、埋め立てられた池もあれば、今も現存している湧水池があることが分かった。。

004   「最初に池があり、そこに建物をもってきたのですね。普通ですと建物を建てて、そこから眺めの良い庭を造るのですけど」と、初めに湧水池があったことを女将さんは、私達、「歴史と文化を歩く会栃木」一行18人に説明してくれた。

  本橋の北西の畔に建つ、大正元年(1912)創業の老舗料亭「壬子倶楽部(じんしくらぶ)」。庭園には30m四方の湧水池があり、鯉が泳いでいる。壬子倶楽部の座敷で用意してくれた昼食弁当をいただく私達。個人ではとてもあがることのできない料亭の和風座敷。座敷から見える湧水池のある庭園と木造家屋…。栃木町の隠れた奥座敷なのかと、しばし見渡す。

009  「大正元年の壬子(きのえね)の年に開業しました。子(ね)は終わりから始まる縁起の良さと倶楽部という当時のハイカラな意味から、祖母が壬子倶楽部という名前を付けたのだと思います。かわせみが飛んできますので、池のまわりの何処かにきっと巣を作っているのですね」と三代目の女将さんが私達に説明してくれた。

  小石の底から地下水がボコボコと湧き出ているのが見える池。鯉が泳いでいる。池の南側には杢冷川に流れ出ていく水口が見える。大正元年に建てた家屋には庇の痛みが目に付くが、内部の和室、座敷の拵えはしっくりした作りになっている。

007 渓流で釣り糸をたれている老子の掛軸が掛けられてある床の間。別の座敷の床の間には艶やかな活け花が飾られてある。「私たちのために用意してくれたのよ」と同行者の人が耳元でささやいてくれた。女将さんの心配りにありがたく、喜ぶ。

006

  案内する女将さんの立ち振る舞いを見ながら、「浮世絵のような美人画を描きたくなる…」。そうした雰囲気のある座敷。廊下を歩く仲居さんと奥に見える湧水池が浮かび上がる。ふと、異次元の世界にひたる気分になってくる。それは、江戸の余薫(よくん)が漂う、浮世絵の香りのする光景でもある。栃木の町にしっとりとした江戸文化の香りが残っていたことを見つけたようで、うれしい気分になってきた。

013    平成19年(2007)栃木市発行の「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」の中で、村田弘子氏が壬子倶楽部三代の女将さんのことを次のように書いている。

  「大正元年(1912)に壬子倶楽部は開業した。遠藤セイが26歳のときである。セイは明治19年(1886)栃木町に生まれ、仲居として栃木町の料理屋で働いた。『壬子倶楽部の経営の一端を担うに際して、そのときの経験が大いに役立っていたようだ』とセイの養女遠藤今子は話す。壬子倶楽部は商人たちの商談の場として、また碁を打ったり俳句を詠んだり、趣味の場、社交場として使用された。客のあしらいをまかされていたのが遠藤セイである。今子がセイから壬子倶楽部を引き継いだのは戦後、昭和34年(1959)である。戦時中は企業の寮や軍関係の宿舎に使用された。祖母(セイ)、母(今子)、娘(智恵子)の3名の仲居の働きにより現在に至ったといっても過言ではない。当時、ビリヤードとして使用された洋館と日本庭園を背景とした日本家屋が今も残る」。

  この内容から、江戸時代からの料亭仲居としてのもてなし方を受け継いできたことが伺える。女将さんの仲居としての立ち振る舞いは、湧水池と日本家屋、格式ある料亭の佇まいと合致した風情になっており、格式ある料亭としての気品と伝統を感じた。…是非残しておきたい栃木町の文化遺産である。

005_2   壬子倶楽部の前の通りを隔てた向かい側の敷地。駐車場になっている跡地は栃木の名のある商店主の屋敷跡地である。その跡地の敷地の下の岸辺から杢冷川へ注ぎ出てくる地下水が見える。かつての湧水池の名残りでもある。

  この屋敷跡の前の前の持ち主が、釜喜、善野喜兵衛の別宅だった教えてくれた人がいた。確証はないが、江戸期に釜喜の別宅だったとすると、平等庵ー中の坊円説ー釜喜・善野喜兵衛―狂歌との繋がりの中で「喜多川歌麿」の影が浮かび上がってくる。歌麿は天明期(1781)から寛政期(1800)にかけて栃木の町に度々訪れていたと伝わっている。

051_3   栃木市では歌麿作の肉筆画、「深川の雪」「品川の月」「吉原の花」三幅対、「雪・月・花」の高精細複製画を作成し、市役所4階に12月24日まで展示を行なっている。

  「江戸時代、例幣使街道宿場町と江戸に通じる巴波川の舟運として栄えた栃木町は江戸との交流から狂歌文化が花開きました」と展示場の解説に書かれてある。さらに「自らも筆綾丸(ふでのあやまる)の狂歌名を持つ歌麿は、狂歌を通じて栃木の豪商と親交がありました。歌麿の肉筆画大作「雪・月・花」は、栃木の豪商、善野家の依頼とされている」と解説している。

022  釜喜、善野喜兵衛の狂歌名は通用亭徳成と称し、長寿を祝う大量の狂歌短冊の中に、歌麿自筆の短冊が発見されているなど、栃木町と歌麿、善野家との関係について研究が進めらている。

 ――とは言っても、江戸時代に驚異的なブームを巻起した狂歌熱は明治になり衰退。俳句のように継承されてこなかった狂歌。理解しがたい分野になってしまっている。狂歌の面白さや素晴らしさを分からないというのが現状だと思える。

 江戸後期、栃木町の経済と文化、狂歌を支えた栃木町の豪商たちについて、これからも研究していく課題は多々ある。 

030_3   歌麿が描いた「雪・月・花」の三幅対。幕末の大火の中で保存もされていた。そして、栃木のどの家で三幅対を描いたのだろうか?興味がある。

  「深川の雪」の画は198・8㎝×341.1㎝と非常に大き肉筆画になっている。中の坊円説(現在の栃木郷土参考館)宅の巴波川沿いの離れで描いた説を述べる人がいる。だが、私には、本橋界隈の「壬子倶楽部」の前の家、釜屋善野喜兵衛の別宅地で描いたのではないかと思えてくる。「巴波川」ではなく「杢冷川」と湧水池こそが、歌麿が描く「浮世絵」の世界に相通じるものがあるのではないかと想像する。私の「歌麿ロマン」の世界でもある。

  江戸の香りが漂う「本橋」界隈。「狂歌」や「浮世絵」の世界を思い浮かべながら杢冷川沿いを歩くのも、また良しとしよう。

 杢冷川は旧栃木刑務所時代に堀の役割をした栃木市文化会館とあさひ公園の脇を流れ、巴波川に合流していく。子ども頃に泳いだ湧き水のある水源沼。水の冷たさを今でも私の肌は憶えている。杢冷川湧水の清流は、これからも栃木の町を流れていく。

                                            《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

「町政50周年記念、日ノ出町史」(昭和62年3月、栃木市日ノ出町自治会発行)/「霊雲寺」紹介冊子/渡辺達也著「歌麿と栃木」(平成23年10月三刷歌麿と栃木研究会発行)/栃木市地域女性史編さん委員会編「私たちが綴る栃木市の女性たち」(平成19年3月栃木市発行)/ブログ巴波川日記「杢冷川―栃木市街地を流れるもう一つの河川」(2014年11月) 

 

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