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江戸からの継承ーとちぎ秋まつり「山車人形」

082  山車の最上部に鉾をかまえて立つ「張飛」。前方を鋭い眼鏡で睨み、「張飛、これにあり、死にたい奴は勝負しろ!」と曹操軍に叫び、劉備を逃がす「三国志・長坂の戦い」。東京日本橋の雛人形師、三代目原舟月が製作した山車人形を見上げる。

  三国志の中で劉備、関羽と義兄弟を結び、最も豪放磊落な猛将と詠われた張飛翼徳。一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛され、一世を風靡する剛勇の持ち主であったと云われている。まさにその風貌、風格が山車人形として再現されている。

 …巡行前の「張飛」の山車人形。もう一度見上げる。鬼気迫る風格を漂わせてくる。

039_3   山車の上段幕には「朱雀」「青竜」「白虎」「玄武」の四神刺繍となっており、金糸・銀糸で施されている。お囃子の台座には朱塗りの金箔の竜の彫物。黒檀地板には眼鏡の光る唐獅子の彫物が施されている。高度な技は艶やかな山車になっている。高さ7.6mの高い壇上から見下ろす「張飛」に圧倒される。

102  平成28年11月13日の「とちぎ秋まつり」。快晴の小春日和の中で絢爛豪華な山車人形9台が栃木市蔵の街大通りを華やかにお囃子にのって巡行する山車人形を観る。

  町内から練出し、巡行する山車人形は、「劉備」(万町1丁目)、「関羽」(万町2丁目)、「張飛」(万町3丁目)の三国志に「静御前」(倭町3丁目)、「神武天皇」(倭町2丁目)、「仁徳天皇」(嘉右衛門町)、「弁慶」(大町)、「諌鼓鶏」(泉町)、「桃太郎」(室町)、都合9台の山車人形と「獅子頭一対」(倭町1丁目)。

  2年に1回のとちぎ秋まつり山車人形巡行は、神社の祭事としてではなく、実行委員会形式による市民イベントとして開催していることに特徴がある。

095_3  明治7年(1874)、倭町3丁目有志が江戸日本橋から購入した「静御前山車人形」と宇都宮から購入した泉町有志の「諌鼓鶏山車人形」が、栃木町にあった栃木県庁舎内神武祭に曳かれたことが始まりになっている。

 これを機に栃木町民の山車への関心が高まり、明治26年(1893)の栃木県最初の商業会議所開設の際に、3台の「三国志山車人形」と「神武天皇人形」の計6台の山車人形で商業会議所開設祝典に巡行されている。「張飛」を含むこの4台の山車人形は日本橋雛人形師原舟月から購入したもので栃木町問屋商人の新たな拠点としての商業会議所開設を祝った。

  その後には、明治39年(1906)の栃木町神明宮・招魂社祭事では室町の「桃太郎」が参加し、大町の「武蔵坊弁慶」、嘉右衛門町の「仁徳天皇」と次々と作成され、天皇ご大典奉祝祭、市制施行祝賀祭に加わるようになる。そして、昭和36年(1965)の市制25周年記念祝典より5年に1回の定期開催とした。山車人形の保存と常設会場として、平成7年(1995)に「山車会館」が建てられ、これを機に平成18年(2006)以後から2年に一回の隔年開催になった。

Sizuka1105_2  明治7年(1874)に、嘉永元年(1848)作品と言われている松雲斎徳山の山車人形「静御前」は、東京日本橋瀬戸物町、小田原町、伊勢町の3町から栃木町倭町3丁目有志によって688両で売却された。おそらく日本橋から巴波川舟運で「静御前山車人形」は栃木町に運ばれたきたものと思われる。

  昭和55年(1980)に千代田区教育委員会が明治以後に「天下祭」で巡行し、地方に流失されていった「江戸型山車」について調査を行ない、「江戸型山車のゆくえ」と題して報告書を発行している。今回、栃木県立図書館でこの「江戸型山車にゆくえ」を閲覧拝読することができた。

088  報告書に「栃木市の山車」の項目があり、現地調査を含めた報告が記載されている。昭和12年(1937)に栃木の大工、竹政栄吉によって静御前山車人形の社台が大修理されたこと。山車は錦絵「東都日枝大神祭礼練込之図」の山車と全く同じものであることが記されている。また同一の「静御前」は青梅市にあることから、日本橋の3町では「静御前」をそれぞれ売却していったと記述されている。

  尚、報告書では栃木の山車について「青梅市のように改造によって原形を失った山車と違い、祭礼番附や錦絵で見るような山車が、江戸以来の姿で飾り付けられていること」に驚きと称賛の報告になっている。

026 報告書では、「江戸型 天下祭の山車の原型は牛車に曳かせる二輪車(これが三輪ないし四輪に改造または発達)の上に人形が飾られ、しかもその人形が上下するものである」と江戸型山車人形を規定している。

  さらに「三層の構造物からなっている山車人形には、最上部には人形が飾られ、つぎの層は水引幕に取り囲まれた枠で、人形はこの二層目の枠内を上下できるようにつくられている。二段上下可変式のカラクリ(機構)を持っているのが特徴になっている。基部の前半部はお囃子方が乗るスペースがある」と分かりやすい解説が記載されている。

031 「江戸城内、吹上上覧所を経て常盤橋門外で解散し、再び自分の町に帰るまでに、俗に江戸城36見付と呼ばれた城門を6から12回くぐらなければならなかった。江戸城城門の門扉の高さは約4.4m。城門を通過する場合、高さ4mが限界とされているため、江戸型山車は二段階のくり上げ・くり下げ装置(エレベーター)が必要としたのだ」と記述されている。

  徳川時代、江戸城守護を司る日枝神社と江戸の町の守護神、神田明神の御神輿・山車は江戸城に入城し、三代将軍家光以来、歴代の将軍が上覧拝礼するところから「天下祭」と称されてきた。最盛期には神輿3基、山車60台の大行列が江戸城内から江戸の町を巡行していたと云う。

068_3 将軍家の公式行事として扱われた「天下祭」には祭祀に必要な調度品の費用や助成金の交付、大名旗本からの動員が行なわれるなど、幕府からの手厚い保護のもとに存続してきた。しかし、明治の御一新によって、徳川幕府は崩壊し、「天下祭」が終焉した。

 日本橋界隈を中心にした町内は山車人形の維持が難しくなり、地方への山車の放出につながっていくことになる。

   とちぎの山車人形の巡行を観ながら、大阪城築城の石垣の石を運ぶ絵を思い浮かんできた。山車は石垣を運ぶ台車に似ている。報告書「江戸型山車のゆくえ」の中にも、慶長8年(1607)から始められた江戸城拡張工事としての天下普請に江戸型山車の起源があると記されている。江戸城築城における 巨大な石を運ぶ光景は「山車人形」という姿になり、天下祭として江戸町民の心を捉えた祭になっていったのかもしれない。

058   明治26年(1893)に三代目原舟月より購入した三国志の「劉備玄徳」、「雲朝関羽」、「翼徳張飛」の人形は綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)の衣服に覆われ豪華な姿を放っている。しかし、日清戦争の勃発により、敵国の英雄を飾ることに異論が出された。そのため追加人形として「天照大神」、「日本武命」、「豊臣秀吉」、「素盞鳴尊」(いずれも三代目原舟月作)が作られた。そのため現存の山車9台に対して人形は13体になっている。

 ただし「秀吉」人形は馬に乗っていて人物が小さいということで、現在は山車会館での展示のみになって、山車人形として巡行はしない。

046  その明治26年の山車の製作費として、栃木市史民俗編の中で「万町1丁目2,000円、万町2丁目に2,500円、万町3丁目に3,000円を要したと伝えられている」と記述されている。山車3台、人形7体の製作費7,500円を原舟月に支払ったことになる。現在の価格で言えば、1円を2万円とするならば1億5千万円になる。

 報告書「江戸型山車のゆくえ」では、祖父から聞いたとび職の石関三郎氏の話として、「原舟月の方から3台で4500円でという申し入れがあり、万町3丁目の素封家、桜井源右衛門氏が、3台中もっとも気に入った山車(張飛)を2,000円で買取る契約をし、他の2台については万町1、2丁目にまかせたという。その結果、1丁目が1,500円、2丁目が1,000円でそれぞれ買うことが決まった」と3台を選んで購入したことが記載されている。

  さらに、薬屋を営む高田安平氏夫人の話として、「東京の原舟月に山車を注文したのが明治25年の8月。値段は3,500円で出来上がったのは翌26年3月のこと。その間にうちの父は舟月のところに何度も行きました。日本橋石町に住んでいて、仕事場は岩附町(現在の中央区本町3丁目辺り)にあった。舟月さんは小柄な人で丁髷を結っていた」と注文から納品までの期間を記載している。

094  この2人の話から、報告書「江戸型山車のゆくえ」では山車購入の価格より、3台の山車から桜井氏が1台を選んだということと注文から納入までの期間が7か月という短期間であったことに着目し、3台の山車は予め出来上がっていたと推測している。

  そこから、「当時東京では不要になった山車が、続々と地方に流出していた時期であり、舟月も仲秀英(同時期の雛人形師)と同じく流出の周旋を業としていたことの一端が、現在の栃木の山車に伝承として残された」と記し、「重要なことは、山車を注文制作させたのか、放出品を買ったのかということは問題にならない。この超一流の江戸型山車が栃木市の山車保存によって、受け継がれていることに大きな意義がある」と指摘を行なっている。江戸型山車が完璧に継承されてきていることに惜しみない賛辞が記されている。

072  「栃木市史」に記述さている山車人形の価格が7,500円。現在の価格で1億5千万円とするならば、高額な金額になる。町内の有志で購入できたことは、当時の栃木町民の持つ財政力は相当なものだったと改めて驚かされる。

  江戸後期から明治の初めにかけて、江戸東京と結ぶ巴波川舟運によって麻問屋・荒物問屋などが関西・東北方面に進出をし、「問屋町栃木」の名を全国に広めていった時期である。それは、明治17年(1884)1月の宇都宮への県庁移転や明治18年の東北線が栃木を通らなくなっても栃木の問屋支配網は崩れることなく拡大発展をしていったと云われている。全国麻生産の9割を占めた栃木県南西部に位置する栃木町の問屋商家。おそらく、国民皆兵による軍隊の創設が麻使用の軍服や軍備品の需要によって麻の増加が飛躍したのではないかと推測する。

007 明治4年に栃木町に総額8296両で建設された県庁舎。そのうちの42%にあたる3708両は地域住民が負担している。栃木町民、とりわけ栃木の問屋商家が中心に負担していると予測できる。

 さらに、明治34年(1901)の栃木女学校(現在の栃木女子高)創設費用3万円の内、1万円を地域住民からの寄付で賄われている。現在の1億5千万円。これも栃木町の問屋商家が中心に負担していると予測できる。詳細な史料がないのが残念だが、栃木町の問屋商家の財政力の中身の凄さについては、これからも研さんしていきたいと思っている。

056 「ピーヒャリ、テンツクテンテン」とお囃子代台から聴こえる「日之出流」と「小松流」のお囃子演奏。神田囃子の本流を伝えるものだという。

 お囃子の演奏を栃木市役所の向い側に立って聴く。55年前に今の市役所前の大通りのこの場所から栃木の山車祭を観ていた。見物人で溢れ出ている大通り。商店街アーケードの屋根の間から「神武天皇」の山車人形を人混みの中で観ていた記憶が何故か浮かんできた。

 今回は、新聞で報道されている「ぶっつけ」という、山車が向き合わせてお囃子が競い合う光景に出合うことができなかった。2年後には夜のライトに照らされた山車人形と合わせて観に来ようと思った。

092  栃木県庁舎があった敷地には県庁堀が史跡として残っている。明治7年(1874)の神武祭では「静御前」と「諌鼓鶏」の山車人形が巴波川の幸来橋を渡り、皆川街道から栃木県庁舎表門から庁舎内に入り、神武社に拝礼練行している。19年後の商業会議所開設祝典に巡行した江戸型山車人形。問屋町栃木は江戸の流れを引き継ぐ山車人形の保存を長く行なってきた。…凄いことだと感心する。

 「栃木市では別段、山車人形の維持管理への助成金を定めてはおりません。修理修繕費用につては県指定有形文化財にそって支給を行ないます」と栃木観光課のお話。「とちぎ秋まつり」では、行政は実行委員会に加わり、応分の負担をしているが、山車はあくまで町内の所有物としている。その所有者の町内では高齢化、町内人口の減少により山車人形の維持管理が年々難しくなってきていると聞こえる。栃木観光協会を中心に「伝承会」という山車保存に協力していく会を立ち上げて、賛同者の入会を勧めていく動きもある。

 町内の祭から栃木市民による祭へと発展させていくことが、山車祭を永く存続していくことに繋がる。それには、今一度「山車祭」の意義とあり方、参加体制について、広く市民の間で論議していく必要があると思えてくる。江戸の流れを継承する「山車人形」。今の時代と向き合う祭として再考していく必要があると思えてきた。

                                      《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

千代田区教育委員会編纂報告書「江戸型山車のゆくえ」(昭和55年10月発行)/池田貞夫・黒崎孝雄著「とちぎ屋台と山車」(平成10年3月発行)/絵守すみよし著「人形師原舟月三代の記」(平成15年9月青蛙房発行/「栃木市史民俗編」(昭和61年1月栃木市発行)

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