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水戸天狗党と関わった川連虎一郎碑銘の石碑

047  満開の桜が散り始めた4月14日に巴波川に合流する永野川沿いを「歴史と文化を歩く会—栃木」の仲間と共に、栃木市大平町の真弓、榎本地区を歩いた。菜の花が土手堤一面に咲きほこり、陽春の香りに包まれての歩行だった。

  大平町誌には、「東山道を通って西から入ってきた仏教文化は永野川(出流川)、巴波川を逆のぼり、大平町には寺社が50有余を超えた」と記されている。

  確かに歩いたコースには磯山諏訪神社、法王寺(時宗)、法宣寺(日蓮宗)、聖天院(真言宗)、総徳寺(曹洞宗)、妙性院(曹洞宗)、榎本大中寺(曹洞宗)、八坂神社、東明寺(天台宗)、武尊神社等と多くの寺社が散在していた。 鹿沼市の彫刻屋台を数多く手がけた彫刻師磯辺一族が大平町富田宿で生まれたことも頷ける寺社の数だと思える。また、西から文化は流れてきていたことを改めて認識をした。

048_2  榎本城址標識のある手前の永野川土手堤から左に曲がり、道なりの左奥に崩れかけた廃屋の屋敷があった。「川連虎一郎の生家ですよ」と地元の会員の人が教えてくれた。子孫は近辺に住んでいるが、屋敷はそのまま現存している。

  「この家が幕末関宿藩佐幕派によって斬殺された川連虎一郎の生家なのか」としばし佇む…。ずっと以前に江東区木場「洲崎神社」に行った時に「川連虎一郎」の石碑が境内にあったことを思いだした。石碑を見た時に「どうして大平町の川連虎一郎の石碑が洲崎神社にあるのか?」と不思議な印象を受けた記憶がある。

  大平町の幕末の志士としては、横堀村の国分義胤、富田村の松本暢、真弓村の川連虎一郎が知られていることを後から知った。

037  横堀村と真弓村は関宿藩久世家の領分であった。村名主の国分義胤と川連虎一郎は文久2年(1862)に関宿藩が百余名の郷兵(農兵)を結成する際に教頭として積極的に関わっていったとされている。

  富田村名主の次男として生まれた松本暢は師の藤森弘庵の媒酌で壬生藩御典医4代目の石崎正達の娘婿養子となり誠庵を名乗り、5代目を継ぐ。しかし、元治元年(1864)3月に筑波山にて挙兵した水戸天狗党に協力、関与したことにより壬生藩内からの暗殺を逃れるため脱藩をし、石崎家からも除籍になる。

   脱藩後の松本暢は明治維新の際に尾張藩を通して新政府の刑部省の判事になる。晩年に隠居所の名前を「盤峰園(ばんぽうえん)」と名付けて大平町富田に隠居してくる。その子孫、やしゃごが現在も「盤峰園」という名前でブドウ園を運営している。

034_3   栃木市大平町西山田にある「おおひら歴史民俗資料館」に川連虎一郎の陣羽織や「君のため世のため何か惜しむからむ捨てて甲斐ある命ならば」という書等が展示されている。

   紹介文では、「川連虎一郎(かわつれこいちろう)諱は義路。天保12年(1841)7月29日、関宿藩領真弓村(現栃木市大平町真弓)の大庄屋、川連一郎兵衛義種の子として生まれた。幼少より水代村峰岸休文に学び、後に江戸に上って儒学者藤森弘庵に師事した。武術は神道無念流斎藤弥九郎道場で師範代、野原正一郎(壬生出身)に指南された。その紹介者は松本暢である。関宿藩が郷兵を組織すると虎一郎はその教頭に任じられた。水戸天狗党が太平山に滞在した時は、藤田小四郎と通じて軍用金や兵糧の調達にあたっている。藩の同志たちと図り水戸天狗党を応援しようとして露見し、江戸に逃れたが、佐幕派の家老杉山対軒派に誘いだされ、元治元年8月3日、江戸洲崎海岸(現江東区深川)で斬殺された。行年23歳であった。なお虎一郎の墓は真弓地内川連家累代墓地にある」と記されている。松本暢と同じく安政の大獄で江戸中追放となる藤森弘庵に師事していることが分かる。

027_2  ただ、この紹介文の中の「佐幕派の家老杉山対軒に誘いだされ」と書かれてあるが、当時の杉山対軒は家老職を辞しており、また佐幕派ではなく勤王派のリーダーであった。杉山対軒は誤記であり、訂正した方が良い。

  展示品の中に大正4年11月22日付の報知新聞の写しがある。川連虎一郎が靖国神社に合祀され、「従五位」が贈られたことの報道記事である。ただこの記事で洲崎海岸で虎一郎が斬殺された時に検視をしたのが、栃木市初代市長の榊原径武弁護士の父親(榊原儀太夫)と記述されている。意外な人物が斬殺に関わっており、本当なのかと思えた。元関宿藩士を父に持つ榊原経武は代言人の資格を取り、明治13年(1880)頃に栃木町に移住してしてきて、加波山事件など自由民権運動とその弁護活動を行ない、栃木町の町長、栃木市長を歴任している。

057  さらにこの記事の中では、明治2年(1880)4月20日に杉山対軒が江戸から関宿に帰る途中、杉戸町並塚で暗殺される。その暗殺の動機が川連虎一郎斬殺の恨みをはらすために横堀村の富山道徳が行なったと記述されている。虎一郎斬殺と対軒暗殺はつながっているのか?この記事の信憑性に疑問が湧いてきた。2つの事件のあらましを調べてみることにした。

  川連虎一郎斬殺の動機については、佐幕派関宿藩家老の杉山正右衛門が「戊辰後経歴」で、「天狗党と称する者尊王攘夷を唱え暴威を遣わし扇動する。関宿藩士も密かに通じる者あり、広周君に天狗党の隊長竹田耕雲斎(ママ)を謁見させ、深川藩邸を貸与するなど、公儀に不憚不敬の動きに憤慨する者あり、領分野州都賀郡農小一郎(川連虎一郎のこと)なる者は水戸留学によって天狗党となり古川瀧蔵と二人を天狗党誅罰の後、公儀を憚り深川洲崎邸にて暗殺せしと云う」と記している。佐幕派藩士の虎一郎斬殺は幕府の天狗党への誅罰をうけて天狗党に便宜をはかり、藩士の怒りを招いて深川藩邸の藩士(佐幕派)によって斬殺されると記している。

010   一方の杉山対軒が暗殺された場所、杉戸町並塚に「杉山対軒遭難の石碑」が建てられている。遭難石碑のブログ記載者から所在地の場所を教えていただき、車で国道4号線杉戸町から左折し行ってきた。並塚交差点先の左脇道に入った所に石碑が建っていた。農道の脇に建つ石碑はポツン田圃に囲まれていた。

 杉戸町ホームページでは杉山対軒遭難之碑を次のように紹介している。

 「杉山対軒は久世氏の家臣で代々関宿藩の家老職を務める家でした。対軒は明治維新の際に幼君を助けて勤王の実を挙げ、藩論を導こうとしました。しかし、(明治2年)4月20日に江戸藩邸を出た対軒は、同じ関宿藩の井口小十郎と冨山匡之助により、並塚村の庄内古川近くで暗殺され、39歳の無残な最期を遂げました。昭和24年に暗殺された場所近くに杉山対軒遭難之碑が建立されました」と記され、石碑は鈴木孝雄(終戦時の内閣総理大臣鈴木貫太郎の弟、靖国神社宮司)が書いている。

  これだけでは、何故対軒が暗殺されたのか、わからない。関宿町に近いことから車を進め、江戸川に架かる関宿橋を渡り、関宿城博物館の関宿藩展示コーナーを見ていくことにした。

042  利根川と江戸川の分岐点に建っている三層天守閣の千葉県立関宿城博物館。博物館3階に幕末の関宿藩の紹介解説と展示コーナーが設けられていた。そこには明治維新を迎えるに際して関宿藩は勤王派と佐幕派が2分して争う「久世騒動」があったことが紹介されている。

  慶応4年(1868)の4月に会津藩士が関宿を通過する際に助けるかどうかで騒動の発端が生じた。その後に熊本藩新政府軍が関宿城に入城することにより、約500人の藩士のうち200人の佐幕派藩士が脱藩して江戸に向かった。半数近い藩士が脱藩する。凄い人数だ。

061  脱藩した佐幕派藩士は家老の木村正右衛門を中心に幼少の藩主広文を擁して江戸において活動を行う。慶応4年閏4月、元家老杉山対軒は勤王派の藩士30名を率いて江戸深川藩邸にいる藩主広文を取り戻すために邸内に入ったが、乱闘となり5名の佐幕派藩士が即死し、藩主を取り戻すことができなかった。

  5月に木村正右衛門たち60名が彰義隊上野戦争に「卍隊」として参加していく。敗北のあと藩主広文は佐倉に逃れ、関宿に帰る。翌年の明治2年(1869)4月に対軒は新政府からの取り調べを受けるが許される。その帰路、関宿に帰る途中の杉戸町並塚で藩内反対派の手によって暗殺された(「三百藩家臣人名事典3関宿藩」より)。

  このことから、暗殺は川連虎一郎の恨みをはらすことではなく、藩内の激化していた派閥の争いから生じたことと捉えるべきである。むしろ川連虎一郎斬殺の恨みをはらすならば、木村正右衛門を狙うことになるからでもある。木村正右衛門の最後は「静岡師範学校の校長を歴任し、明治33年に71歳で亡くなる」と中村正巳著「戊辰後経歴」に記されている。

  久世騒動の余韻は明治初期の関宿にも強い影響があったと推測する。脱藩して戻ってきた藩士は肩身の狭い生活を送ることになったと思える。終戦の内閣総理大臣鈴木貫太郎の父親も関宿藩士であったのだが、群馬県前橋に一家は移転をしている。関宿藩「久世騒動」後始末に嫌気をさしての移転だったと思える。初代栃木市長を務めた榊原経武もまた同じような経緯で関宿を離れて行ったのかもしれないと想像する。

114  3年前の平成26年(2014)4月に富岡八幡宮の横綱石碑を見た帰り、洲崎神社から深川木場を歩いた。その時、洲崎神社境内にある「川連虎一郎碑銘」の石碑をただ眺め通り過ぎた。「洲崎パラダイス」の名残りを探すことに気持ちが向いていた。

 映画、熊井啓監督の「忍ぶ川』で映し出された「洲崎パラダイス』の光景が印象に残っていたからでもある。

142995669002471162177_pdvd_000_20_3  「志乃は忍ぶ川の女であった」と綴られている三浦哲郎著の「忍ぶ川」。栗原小巻が演じた「志乃」は深川生まれで、栃木に疎開し、父と弟妹が今も栃木に住んでいる小料理屋「忍ぶ川」の仲居として設定されている。

  深川と栃木を結ぶ短編小説として高校時代に書店で立ち読みをしたことを憶えている。また、吉永小百合が映画化を望んだが、裸のシーンがあるということで父親の反対で断念をしている。吉永小百合の「志乃』も観たかった作品でもある。

 改めて、「川連虎一郎銘碑」の石碑を見たく、5月18日に江東区深川木場にある「洲崎神社」へ行ってきた。

018_3  洲崎神社は、江戸期に弁財天社と言われ、江戸城紅葉山の弁財天を元禄13年(1700)に遷座して創建されている。海岸に浮かぶ弁財天であり、多くの文人墨客を集めていた。

   「江戸切絵図深川」に描かれている洲崎弁財天社の隣には長い洲崎海岸になっている。境内には「波除碑(なみよけひ)」が建っている。

  寛政3年(1791)9月4日、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者がでた。幕府は洲崎弁財天社から西のあたり一帯5467坪を買い上げて空地し、これより海側に人が住むことを禁じた。そして空地の東北地点(洲崎神社)と西南地点(平久橋の袂)に波除碑を建てたとしている。

119   「川連虎一郎碑銘」と刻字されている石碑は本殿裏にある。左上はすで欠けており、文字自体が不鮮明になってきている。碑銘されている文言はよく理解できない。大筋として虎一郎の生涯が綴られ、「尊攘の大義に報わんとしたが、江戸に誘いだされ、甲子(元治元年)八月三日に命を落とす。義路通称虎一郎、都賀郡真弓村人、藤森弘庵に従い水戸源治(天狗党)を助ける、行年二十三、藩人たちが謀り石碑を建てることになり予が碑銘する」と碑銘されている。

   「藩人たちが謀り石碑を建てる」と記されているその「藩人」とは関宿藩士を指してはいない。同時代に生きた同志に近い志士であると思える。

   石碑の最期の刻字が「〇巳秋 八月 東京田口大丈文蔵撰弁書」と記されている。建立年月日は己巳(つちのとみ)年で明治2年の秋、8月になるのではないか。そして、石碑の文面は儒学者田口文蔵によって書かれてある。虎一郎の師であった藤森弘庵は文久2年(1862)に亡くなっていることから、親交のあった儒学者田口文蔵が碑銘したのだと思える。儒学者同士の繋がりを表している。

003   田口文蔵については「太田胃酸」の創業者である壬生藩士太田信義を記した松本宏道著「壬生藩士太田信義と太田胃酸」の中で、 「(田口文蔵は)下谷・入谷で門弟に儒学などを教授している尊王論者で、攘夷論者の藤森恭助(弘庵)などと親交を深めがら、国事に励んだ」と紹介されている。

  同書には、「太田信義も松本暢と同様に水戸天狗党に協力することにより壬生藩を脱藩し、師の田口文蔵を頼って江戸に出る。辛苦の暮しの中、彰義隊上野戦争で新政府軍に協力することにより明治元年に壬生藩公用人として復帰していく。明治14年(1881)の初めに『雲湖堂の胃酸』として売薬を始めた」ことが記述されている。130年を経た今日でも「太田胃酸」は飲み続けられている馴染み深い胃腸薬である。この本によって、私は太田胃酸を生み出した太田信義が壬生藩士であったことと天狗党挙兵に影響を受けた人物がここにもいたことを知ることができた。

Photo   「江戸切絵図深川」の中央に流れているのが小名木川。栃木から巴波川舟運により関宿からの江戸川を下り、小名木川を通り江戸深川まで1日半でくることができた。下野都賀郡と江戸は近い距離にあった。

  絵図の小名木川の下の左にあるのが関宿藩深川藩邸(現在の清澄庭園)。その下に富岡八幡宮。絵図の真中一番下に弁財天社(洲崎神社)とその左横が川連虎一郎が斬殺された洲崎海岸がある。

051_3  川連虎一郎の石碑を建てたのは、藤森弘庵や田口文蔵から学んだ尊王論者の志士たちだっと思える。とりわけ、同郷で水戸天狗党への協力で狙われ脱藩した松本暢や太田信義など中心になって「川連虎一郎碑銘」の石碑を建てたのではないかと妄想、推測する。

  幕末動乱の引き金になった水戸天狗党の筑波山挙兵.。1月半に及ぶ太平山での帯陣と戦闘行動は近辺の若者に強い影響を与えた。大義を諭す若者たちは時代に生きていくことの証として天狗党への協力,参加をおこなっていった。結果、道半ばで斃れた者への想いが「川連虎一郎碑銘」石碑に表れているのでないだろうか。川連虎一郎の石碑を建立した人たち…。石碑からは塾舎を通した若者たちのネットワークが存在していたことを語りかけてくるように私には思えてきた。

                                《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

「大平町誌」(1982年3月、大平町発行)/中村勝著「三百藩家臣人名事典3関宿藩」(昭和63年4月、新人物往来社発行)/小針計一郎著「日本近世人名事典」(平成17年12月、吉川弘文館発行)/中村正己著「史料戊辰後経歴(1)」(平成29年3月、千葉県立関宿城博物館発行、研究報告第21号に収録)/三浦哲郎著「忍ぶ川」(昭和36年6月、新潮社発行)/松本宏道著「壬生藩士太田信義と太田胃酸」(2013年4月、獨協出版会発行とちぎメディカルヒストリーに収録)

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