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2017年12月

後藤流江戸彫りのある栃木市の寺社を歩く

038  日光東照宮造営から200年ほど経た1800年代、江戸中期から末期にかけて華麗な彫刻を施した神社仏閣が復活したと云われている。

  北関東、下野の国の栃木町は江戸と結ぶ巴波川舟運と日光例幣使街道が交差する物流拠点として宿場・問屋町として繁栄した。そして明治から大正にかけては全国に網羅した麻問屋流通によって興隆し、蔵の街栃木と譬えられるようになった。

  こうした現在の栃木市の街の中には、江戸彫り後藤流の流れをくむ霊獣「龍、サイ、獅子」などの彫物が寺社の向拝鐘掛け上の欄間や木鼻に見ることができる。江戸中期以降の社寺では高価な漆彩色の彫物ではなく、硬い槻木(つきのき、欅の古名)材を用い、木目を生かした立体感を作る木地彫が「江戸彫」の主流になっていった(大田区HP「大田区歴史探訪」より)。その江戸彫の潮流、後藤流彫刻が施されている栃木市内の社寺を探索、歩いてみた。

●定願寺(天台宗、栃木市旭町13-1)

Photo  弘仁3年(815)最澄が開山し、現在地に永禄6年(1563)に皆川俊宗によって創建された定願寺。例幣使街道から栃木市街地に入る開明橋南木戸口から蔵の街通りに入り、室町交差点先の通りを右に曲がった所にある。

  栃木市の草分けの寺院でもある定願寺は、元治元年(1864)の6月1日、太平山から筑波山に戻る際の水戸天狗党の本陣宿泊地になったり、明治4年(1873)の栃木県庁舎建築の仮庁舎になるなど、歴史を刻んできた寺院でもある。

Photo_3  文政6年(1823)に建立された境内に入る御成門の木鼻には「波彫の獅子」が施されている。駕籠彫にて木を波型にけずり、獅子の姿をなしているとし、栃木市指定文化財になっている。棟札には「工匠渡辺杢水水源完休 彫工 渡辺喜平治宗国」と誌している(栃木市史より)。

  網で覆われている「波彫の獅子」。下から見上げてみると獅子のようにも見える。くねくねした波状の彫刻の技には凄さを感じる。しかし、よく分からない彫物であるのが正直な感想だ。

Photo_4   正面、本堂の向拝鐘掛け上の欄間には2頭の龍の彫物が掲げられてある。作者は不明だが、御成門創建の頃の文政年間(1818~29)の作ではないかと想像する。 

  江戸の木彫りには、後藤流、石川流、島村流など伝統的な流派が存在したという。御成門「波彫の獅子」の彫師、渡辺喜平治宗国は幕府彫刻師、後藤茂右衛門正綱の弟子渡辺喜平治正道の子息であり、大平町富田に住み大平町榎本の八坂神社本殿や定願寺御成門などを彫刻していると云われている。

Photo_6  大平町富田宿には同じ後藤茂右衛門正綱の弟子から初代磯辺信秀が生まれ、磯辺一族の元祖になっている。彫刻師磯辺一族は江戸中期から明治期にかけて大平町富田から栃木県を中心に10人以上の彫師を輩出し、数多くの彫刻を社寺や鹿沼彫刻屋台などに遺している。

 渡辺喜平治正道はその磯辺信秀の兄弟子にあたり、栃木町建仁寺流宮大工の渡辺睦林の次男であると関忠次は自著「近世社寺装飾彫刻画題考、社寺の彫物を訪ねて」において記している。

Photo   栃木在から江戸に出た渡辺正道は後藤正綱のもとで木彫り師として二代目後藤茂衛門を継ぎ一本立をしたと思われる(三代目は後藤茂衛門は正綱の子が継ぐ)。 後藤流二代目渡辺正道の子息、渡辺喜平治宗国は大平町富田に戻り磯辺一族と共に社寺の彫り師にとなっていったと思われる。社寺の彫刻は宮大工から分化し、「宮彫り師」「木彫り師」としてて成立していったとする説に準じている。

 《江戸から栃木に流れたきた後藤流渡辺喜平治の系図》

  後藤茂右衛門正綱(幕府彫刻師)―渡辺喜平治正道(栃木町宮大工渡辺睦林の次男、二代目後藤茂右衛門)―渡辺喜平治宗国(正道の子息、大平町富田住、榎本八坂神社本殿・定願寺御成門彫刻)―渡辺喜平治正信(宗国の子息、栃木石町住、栃木本町長清寺・泉町雲龍寺・新井町天満宮・小山市上泉町熊野神社等の彫刻)ー弟子・田中稲村(日本画家田中一村の父)。(関忠次著「近世社寺装飾彫刻画題考、社寺の彫物を訪ねて」より)

 境内本堂脇には磯辺一族の分家、磯辺儀兵衛隆顕の彫刻のある「成就院不動堂」があるが、栃木町に住んでいたという後藤流渡辺喜平治正信の彫物に着目して歩いていきたい。

●長清寺(真言宗智山派、栃木市本町14-30)

Photo_3   「この地は字川島と言いますよ」と語る長清寺の住職。そばを流れる杢冷川の流れは、かつては二股に分流し、また合流して巴波川に注いでいたという。そのため二股に分流する地帯を川島と云われていた。

  「明治10年代頃に本堂を建てたのですが、それ以前の本堂は杢冷川の向こう岸、今の幼稚園のある所に建っていたのです。当時の住職は変わったお人でね、新しく建てられた本堂が気に入らず、泉町にある常通寺(浄土真宗)に譲ってしまい、すぐに建てられたのがこの本堂なんですよ」と住職は語ってくれた。

  本堂向拝上の鐘掛け梁の木鼻には霊獣「獅子」「バク」の彫物が鮮やかに彫られてあるのが見える。彫師は関忠次著の「社寺の彫物を訪ねて」よれば渡辺喜平治宗国の子息、渡辺喜平冶正信と記している。渡辺喜平治正信は近くの栃木石町(現在の旭町)において「提灯屋」を営み社寺の彫刻をしていたことになる。この人の弟子が、孤高の日本画家田中一村の父、田中稲村(彌吉)であると関忠次氏は指摘をしている。

Photo_5  栃木市城内の圓通寺のある地から天正年間(1580)に皆川広照による栃木城築城のために現在地に移ってきた長清寺。境内には不動尊が祀られている。「栃木町には、北は雲龍寺、南に長清寺という成田山不動尊がありました。今では当寺(長清寺)は成田山新勝寺とは離れておりますけどね」語る住職。

  栃木市史の中には、江戸中期頃より栃木町では不動尊を祀る寺院から成田山新勝寺の講が作られた。白装束をした講一行は栃木町から巴波川舟運中積河岸の部屋河岸にて大船に乗り、船中一泊し千葉県木下に上陸、成田山詣りをしていたことが記されている。江戸においても隆盛した成田山詣りは栃木町においても行われていたこと。江戸文化流行の影響を受けていた一端がここにもあったことを知った。

●不動尊雲龍寺(真言宗智山派、栃木市泉町18-8)

Photo_6   栃木市蔵の街大通りの北端にあるのが、かつての北木戸口跡の万町交番交差点。その先は昭和7年に開通した道幅10間(約18m)の北関門通りが通っている。その北関門通り万町交番交差点から200m先に右斜めに入る2m幅の狭い道がある。かつての不動尊雲龍寺の参道跡である。参道の奥には近隣から「お不動さん」と親しみをこめて呼ばれていた雲龍寺御堂が建っている。明治23年(1890)にこの地に建立され、明治29年(1896)には建てられている壮大な建築物である。境内には栃木秋まつり「泉町山車人形・諌鼓鶏」の収納庫も建てられている。

Photo_8  江戸後期の文化文政の頃(1804~1829)にかけて栃木町の成田山不動尊信仰の講が長清寺とは別に3つの講、龍王・神風・信心が存在していた。その3つの講が慶応元年(1865)に合同して栃木大護摩社が結成され、明治3年(1880)に成田山新勝寺原口照輪師によって定願寺にて開眼供養が行われた。そして明治23年に現在地に成田山不動尊雲龍寺と建立されたと栃木市史には記されている。

055_2 万町交番交差点角にあった「清水屋」の古い建物が昨年の平成28年に解体されている。雲龍寺参道に入る口にあたる旅館であった。子供の頃、よく母に連れらて清水屋の湯船につかりに行ったことの思い出が残っている。明治32年(1899)発行の「栃木繁昌記」の中で著者の柴田博陽は不動尊雲龍寺の賑わいの様子を次のように記している。

  「泉町不動尊境内に於ける夏の夕は、又特別の賑やかにして其雅俗なるは、今ここに筆にする能はざれども、涼しき風の吹き通う夏の夕。浴衣のまま、同所に飄然(ひょうぜん)と散歩せば、老となく、若となく、男となく、女となく、波の如くこの地に遊ぶべし。境内には芝居あり、手品あり、軽業あり、見世物あり、祭文あり、浪花節あり、釣魚あり、吹き矢あり、射的場あり、料理店あり、露店あり、待合あり、氷店あり、団子屋あり、その賑やかなる事実に驚くべし」と参道から境内にかけての大道芸や見世物小屋などで老若男女の集う賑わいを著し、西側にあった「ぬかり沼川」の新柳の姿、光景を東風になびくその姿、艶なりと記している。

Photo_9  柴田博陽著の「栃木繁昌記」の中に明治期の雲龍寺の写真が載っていた。この写真から、山門は現在の西側ではなく御堂の正面に立っていたことや幅広い参道が続いていたことが分かる。広い境内から数多くの見世物小屋や大道芸人、団子屋や射的場など店舗が連なっていたことが読み取れる。

 執筆した柴田博陽は何者なのかよく分からない。「栃木繁昌記」の中の栃木町諸職員爛に「下野日日新聞特派員」と記載されている。柴田博陽は同書の中で当時の栃木町に3つの提言をしている。1つは両毛線敷設から麻宇を活かした工業をおこすこと。2つ目は女子教育に力を入れるため栃木町に女学校を開校創設すること。そして3つ目は遊郭を錦着山麓につくるべしと3つの提言をしているのがおもしろい。3つ目の遊廓は錦着山麓ではなく合戦場にできたが、あとの2つの提言は実現されている。麻宇を活かした懐炉灰、下駄製造の産業と栃木女子高校も明治34年(1901)に創設されていることから、卓見の持ち主であったことが伺えてくる。

Photo_10  「雲龍寺御堂の向拝鐘掛けの上にある龍の彫物。あの彫刻はりっぱです。田中一村の父、田中彌吉が彫ったのではないかと思えるのですよ。凄い彫物です」と以前に満福寺の長沢住職は私に話してくれた。

  睨みを効かせるように鋭い眼玉をしている龍の欄間彫刻。凄さと迫力が伝わってくる。向拝の横からは太くたくましい、海老虹梁(えびこうりょう)。向拝柱上部には見返りの唐獅子の彫刻が施されている。

 見事な彫物の彫師は渡辺喜平治正信であると関忠次は「社寺の彫物を訪ねて」の中で指摘している。

Photo_12  関忠次氏は渡辺喜平治正信の彫刻として他に栃木市新井町にある天満宮拝殿向拝上の龍の欄間をあげている。別の日に新井町天満宮に行き、向拝鐘掛け上にある龍の彫物を見て来た。写真で見比べても雲龍寺の龍とうり二つである。同一人物の彫師であることは間違いないと分かる。

2  また、栃木市重伝建地区嘉右衛門町岡田記念館所蔵の大神輿の縁起書には「文久3年(1863)彫工、栃木石町渡辺喜平治正信」と記され、嘉右衛門町例幣使街道沿いに展示されている。

  栃木旭町の神明宮の大神輿の彫刻も渡辺喜平治正信が彫っているとされている。

Photo_14 

 他に特記するものとして、渡辺喜平治正信の彫物には、小山市上泉にある熊野神社本殿の彫刻を磯辺敬信と共に彫上げている立体感ある幽玄な彫刻がある。熊野神社は巴波川舟運本沢河岸跡の「日光山裏道」と佐野道が交差する梅の宮宿にある。

 熊野神社境内の案内標識版には当代一流の彫刻大工としての磯辺分家三代目磯辺敬信が評価され、渡辺喜平治正信も共に熊野神社本殿彫刻彫りをしたことが記されている。江戸後期から明治初期に磯辺一族とは別に栃木町には江戸後藤流の流れを受け継ぐ彫師がいたことが分かり、うれしくなってきた。後藤流江戸彫りの流れに位置づけされる彫師、渡辺喜平治正信についてこれからも注目していこうと思う。

047  雲龍寺御堂向拝鐘掛け上の龍の欄間彫刻は田中一村の父、田中彌吉が彫ったのではないかと満福寺の住職は推測している。

  「クワズイモとソテツ」など奄美の底深い世界を描いた孤高の日本画家田中一村は栃木市平柳(現在の泉町)に生まれている。雲龍寺200m東に田中一村の生家があったと云われている。大正元年(1912)、一村が4歳の時に一家は東京の麹町に転居している。一村の父、田中彌吉は稲村の号を持つ天才肌の仏像彫刻だったと云われている(中野惇夫著「アダンの画帖―田中一村伝」より)。関忠次氏は彫師渡辺喜平治正信の弟子であったと指摘をしている。

Photo_18  雲龍寺と田中彌吉とを結びつくものとして、明治29年(1896)に建てられている雲龍寺建立由来の石碑裏面の中に田中彌吉の名前が刻字されている。境内の右にある3基の真中の「雲龍寺建立の由来」の裏面には浄財をだした615人の氏名が刻字されている。当時の栃木町の豪商などそうそうたる氏名の一番下の「発起人」の一人として「田中彌吉」と刻まれている。この刻字されている「田中彌吉」とは田中一村の父親なのか?

Photo_20  中野惇夫著「アダンの画帖―田中一村伝」の最後年譜では田中彌吉は昭和10年(1935)に52歳で亡くなったと記されている。逆算すると生れは明治16年(1883)になる。明治29年建立石碑の時の田中彌吉は13歳になる。齢が若すぎる…。どうも不自然なのだ。石碑に刻まれた田中彌吉は田中一村の父とは別人なのか?中野氏の年譜が間違っているのか?龍の彫刻は御堂建立から後の明治30年代なのか?…石碑に刻字されている「田中彌吉」についてはこれからも調べていくことにする

   雲龍寺御堂の彫刻が渡辺喜平治正信によって彫られているとすれば、近隣に住んでいた弟子の田中彌吉も関わり、共同で製作したのではないかと予測できる。浮世絵の世界も共同作業であったことから神社の木彫り師の世界も同様に共同作業があったと思われるからだ。

051    御堂の右、東側には朽ちかけ崩れそうな古い建物がある。栃木市老人クラブの伝承活動「栃木の社寺Ⅱ」に記載されてある「雲龍寺、沐浴場跡」の建物ではないかと思えた。同書には、「本堂の東側に僧侶や信者の沐浴場が造られており、冷水で身を清めていられるているのがたびたび見られた」と沐浴場のことが記されている。

 泉町に住む知人に訊ねたところ「ああ、水行場のことね。白装束した坊さんたちが水を浴び、修行していた。下から水が湧いていたんだな。昭和20年代後半頃までやっていたよ」という答えが返ってきた。朽ちかけた建物だが、「水行場」といわれた「沐浴場」跡として、不動尊信仰跡地として貴重な歴史遺産ではないかと思えた。

  雲龍寺の西側には「ぬかり沼」があり、栃木の町に用水として流れ注いでいた。今はその用水の流れは暗渠になり昔日の面影はない。雲龍寺の境内もかつての老若男女の娯楽地としての面影は残っていない。しかし、御堂には龍の彫刻などが今も残っている。江戸彫りの探索は栃木の町に江戸文化の資産を捜し歩くようなものと思えるようになってきた。これからも栃木の町に残る歴史文化の遺産を探し訪ねる旅をしていきたい。

                                         《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

関忠次著「近世社寺装飾彫刻画題考 社寺の彫物を訪ねて」(平成3年6月発行)/大田区HP「日光東照宮から始まる宮彫師の伝承、江戸彫工・堂宮彫刻の世界」/「栃木市史」(昭和63年12月発行)/柴田博陽著「栃木繁昌記」(明治32年11月発行)/中野惇夫著「アダン画帖田中一村伝」(1995年4月小学館発行)/栃木市老人クラブ編「栃木の社寺Ⅱ伝承活動平成元年度」(平成2年3月発行)/泉町成田山不動尊雲龍寺世話人編「昔日の泉町お不動さん」(平成16年11月発行)

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