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2018年2月

正岡子規の歌、「しもつけやしめぢが原に春暮れて~」

001_2   しもつけや しめぢが原に 春暮れて 葉広さわらび 人も訪(と)ひ来ず    =正岡子規= 

   「明治になって、正岡子規がこの地(栃木市川原田町標茅が原)を訪れて詠んだ」と宇都宮大学教授の多々良鎮男氏が「栃木県の文学散歩」(昭和54年発行)の「歌枕標茅原」の中で正岡子規の歌として紹介をしている。

  栃木市街地の北にある川原田町、木野町は栃木市内を流れている巴波川(うずまがわ)の源流となる湧水池が多数散在している湿地帯であった。この地をしめじが原と云われ、平安時代には東国の「歌枕」として「古今和歌集」などにもよまれていた。近くには東武日光線「合戦場駅」という駅名があるように、戦国期の16世紀初めには南下する宇都宮勢と栃木皆川氏と激しい戦闘が行われた古戦場でもあった。

004_4_2   粟野街道から東へ少し入った住宅の密集する中に渇水した白地沼がある。河野守弘著『下野国誌』を基にした栃木市教育委員会作成の案内版『標茅が原』と石碑が建てられている。案内版には「平安時代以来、標茅が原と伊吹山(ここより2㎞)は東国の歌枕として都まで聞こえた名所でした。また、このあたりが標茅が原のおもかげを最もよく残しています」と書かれ、数首の和歌が記されている。

  「下野や しめつの原の さしも草 己が思ひに 身をや焼らむ」(よみ人しらず、古今和歌集六帖、河内躬恒)。「頼みこし しめぢが原の 下わらび 下にもえても 年へにしかな」(藤原俊成)。「下野や しめぢ原の 草がくれ さしもはなしに もゆる思ひぞ」(藤原光俊)

1358742928731131101221_2   「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」は芭蕉の「古池や~」とあわせてなじみの深い俳句として私たちの胸に刻まれている。その情景をも思い浮かんでくる。子規は「写生」という概念から近代的な俳句、短歌を文学的に高めたという高い評価を得ている。 

  栃木に住んでいる私にとり、「栃木県の文学散歩」を読んでから、ずーと正岡子規の「しめぢが原」の歌がどの歌集に載っているのか?気になっていた。また、多々良氏が記してる「しめぢが原」に実際に子規は訪れているのか?確かめたいとも思っていた。 

 昨年(平成29年)の12月にNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」全13話をDVDを借りて観ることができた。このドラマから香川照之の演じた正岡子規に強い印象を受けた。そこで「しめつけや しめぢが原に 春暮れて~」の子規の歌の載った歌集を栃木県立図書館にレファレンスとしてメールでの問い合わせをした。

  栃木県立図書館より、「 しもつけや しめぢが原に・・・で始まる正岡子規の短歌について『和歌文学大系25 竹乃里歌』(明治書院2016)の資料から確認しました。正岡子規が遺した歌稿「竹乃里歌」を中心として、他の著述や書簡などにより知られる作品を補った全歌集です。本文は年代順に短歌が収録されており、明治32年の項にお探しの歌を確認しました」という回答がメールにて送られてきた。

Ph_sendagi281  さっそく栃木県立図書館から同書を借りて頁を開いた。

  …あった。明治32年、240頁、1266首、竹乃里歌集の中の春の歌として記載されていた。

  …この歌がよまれたのが明治32年の春ならば、3月、4月に子規庵での歌会でよまれたことになる。すでに子規はこの時、カリエス(結核性脊椎炎)で寝たきりの状態になっていた。

 前年の明治31年の2月には新聞「日本」に10回にわたり、古典和歌から近代和歌への転換を鮮やかに記述したといわれる「歌よみに与ふる書」を記載している。子規が短歌の創作に本格的な力を入れたのは「歌よみに与ふる書」が書かれた明治31年以後であると村尾誠一氏は「和歌文学大系25竹乃里歌」の解説で記している。ちなみに明治32年が一番歌の数が多いとも記している。

  「貫之は下手な歌よみにて古今集は下らぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拝するは誠に気に知らぬこと」と痛烈に『古今和歌集』を真っ向から否定し、『万葉集』や源実朝の『金槐和歌集』を称揚するものであった。

Shikian021  司馬遼太郎は「坂の上の雲」の中で、「歌は感情をのべるものである。リクツをのべるモノではない」として、「歌よみに与ふる書」は「かれ(子規)によれば歌をよむための歌よみの歌よみの歌というのは芸術ではないという。歌は事実をよまなければならない。その事実は写生でなければならないと実例をあげて論証した」と記している。

  カリエスの強烈な激痛の中で、子規は子規庵「病牀六尺」の中で、句・歌を発表し、随筆を明治35年9月19日、34歳11カ月の亡くなるまで書き続ける。

  子規の歌う「しもつけや しめぢ原に 春暮れて 葉広さわらび 人も訪ひ来ず」は古今和歌集の歌と違い、歌枕としての「しめぢが原」の修辞を否定している。人も訪れることのない、寂寥感のある現在の白地沼一帯の情景を描いている.。古戦場跡地からか、怖さも響いてくる歌である。

  多々良鎮男氏が記した子規がしめじが原へ訪れて句を詠んだということはない。想像するに、子規は「病牀六尺」の中、食前でワラビの若芽を見て、歌枕のある下野のしめじが原を思い浮かべ句を詠んだのではないだろうか。「…人も訪ひ来ず」とは子規自身も行くことのできない深い世界へ導いていくように思えてくる歌である。

                                      《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

多々良鎮男著「栃木県の文学散歩、歌枕標茅原」(昭和54年8月、月刊さつき研究社発行)/村尾誠一著「和歌文学大系25竹乃里」(平成28年5月、明治書院発行)/正岡子規著「歌よみに与ふる書」(平成14年11月、インターネット青空文庫)/司馬遼太郎著「坂の上の雲2」(昭和49年2月文藝春秋発行)

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