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奥州街道白沢宿から鬼怒川渡し跡を歩く

100000009000274924_102031 ♪これこれ石の地蔵さん 西へ行くのはこっちかえ

 だまって居ては判らない 何やらさみしい旅の空 

  いとし殿御のこころの中は 雲におききと言うかえ

 (「花笠道中」昭和33年・歌:美空ひばり・作詞作曲米山正夫)

  この歌を聴くと昭和37年東映正月映画「ひばり・チエミの弥次喜多道中」を思い出す。地方都市の栃木市の映画館は封切り日から1カ月遅れの上映になっていた。しかし、正月映画ということで東京と同時に栃木の映画館でも公開上映になった。元旦の朝、新聞にはさまれていた映画館のこのチラシを見た時、何故か無性にうれしかったことを憶えている。この歌から連想して江戸時代の宿場町の面影が残されているという白沢宿に行ってみようと思い立ち、車を進めた。

 白沢宿誕生と町並み景観

019  平成30年の5月の連休、晴天の日に車を九郷半(くごうはん)川沿いにある白沢公園内の駐車場に車を駐車して、白沢宿から鬼怒川渡し跡までを歩いた。 

  宇都宮市街で日光街道と分かれる奥州街道。その最初の宿場が白沢宿になっている。明治18年(1885)に国道4号線のルートから外れたことにより、時代から取り残されたかのようにひっそりと佇んでいる印象を受けた。…それが味わいのある風景を生み出しているように見えた。

023_2  白沢宿の入口にそびえる榎。その下には江戸時代、通行人や旅人が使用されたとされる公衆便所跡が建っている。珍しくもあり、のどかな気分になる。裏から便所の中を見ることができるが…。

  慶長2年(1597)、宇都宮家臣だった宇加地一族郎党が下田原(宇都宮市下田原)より白沢村に移住し、白沢村の庄屋となり白沢村が誕生したとされている(町史年表)。河内町誌においては、「慶長10年(1605)頃より白沢村庄屋宇加地家と上岡本村庄屋福田家の両村共同の白沢宿としての往還馬継宿がつくられる」として、「慶長15年(1610)3月に幕府の役人や領主である奥平家の家老衆等が白沢まで出頭して立ち合い白沢宿として町割ができた。源六郎(福田)後見親河内と因幡(宇加地)の両人が御用を勤め、問屋を仰せつけられた」と宇加地家と福田家によって白沢宿がつくられたことが記されている。

025_2  白沢宿を誕生させ、後の白沢宿の本陣となる宇加地家と脇本陣となる福田家は慶長5年(1600)7月の会津上杉景勝討伐に際して戦功によるものとされている。

  河内町誌には、徳川勢の榊原・伊井・酒井らは阿久津・氏家まで進出した際に鬼怒川を渡った。その時に鬼怒川の瀬を案内し無事に渡河させたのが宇加地氏の先祖因幡父子と福田氏の先祖源六郎・右京之進父子であったことが記されている。

024_5  白沢宿の入口、公衆便所のある榎一帯は高台になっている。その高台を削り奥州街道を設置したことになる。街道左側、高台の北には白髭神社の社を見ることができる。その手前の家庭菜園地が「丸山砦」跡地になっている。上杉討伐軍の先発大将の家康二男の結城秀康が着陣したと云われている。宇加地文書には「眺望のよい裏の林(慶長期には林はない)の台上に丸太で砦を築いた」と河内町誌に記されている。

   丸山砦跡の高台に立つと遠方に鬼怒川が見えた。すぐ下の白沢宿は南北一筋の街道を挟んだ家並みになっている。手前西側は断崖、東側には九郷半川が流れている。川と断崖に挟まれた宿場町になっているのが分かる。

039  坂道になっている街道を下り、交差点を左折して白沢宿に入る。宇都宮の日光街道から分かれた奥州街道は白沢・氏家・喜連川・佐久山・大田原・鍋掛・越堀・芦野・白坂を通って白河宿まで11宿を往還している。起点の宇都宮から終点の白河までの距離は21里18町14間半(約84.5km)。宿の人口は369人とされ、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠13軒あった(「奥州街道白沢宿まち歩きマップ」より)。

042 河内町誌では、宿の長さが4町30間(約450m)、宿の規模としては大きいものではなかったが、下野文化史を引用して民家約80軒余、道の両側に軒を並べ、約20戸の遊女屋が花柳界を構成し、繁栄したことが記されている。

 江戸期には九郷半から引かれた用水堀が宿場の中央を流れていた。馬の飲料水から防火のため、また旅人の足洗いとしても活用されていた。現在は道の両脇を用水堀が流れている。

051  平成元年(1989)に発足した「奥州街道白澤宿の会」によって用水堀に水車が設置されるようになった。鬼怒川渡し跡を見た後に初めてお会いした白澤宿の会の住吉和夫さん。「現在の水車は3代目。半分は個人が寄贈しています」。水車を設置した理由として「デザイン」と応えてくれた。「この宿の道路は駐車禁止になっていません。ガードレールもありません」と用水掘と道路、歩道が一体となった町並み景観をつくっていく姿勢がにじみ出ていた。行政書士をしている住吉和夫さんの家は白髭神社鳥居横の「旅篭、住吉屋」になっている。

040_2  それぞれの家には「本陣」「伊勢谷」「澤屋」「井桁屋」などと書かれた板札が掛けられていて面白い。これも白澤宿の会の企画なのかと思えた。

 白髭神社鳥居の横にある駐在所。案内書には「番所」という板札が架けられていることになっているが、…ない。奥から現れたおまわりさんに聴くと、「古くなって壊れました。トイレですか?隣の陣屋にありますよ」と言われた。

  この町には江戸時代の公衆便所跡があるのに現代の公衆トイレがない。歩く旅行者にとり公衆便所の存在は大きい。もっともどの家でもトイレを貸して欲しいと頼むと快くOKの返事がもらえる雰囲気がこの町にはある。本陣敷地の奥に「手洗所」は確かにあった。

  本陣には鬼怒川渡し跡を見た帰りに寄るつもりで、宿場の突き当り北の井上清吉酒店を右折し、「白澤一里塚跡」を通り鬼怒川渡し跡を目指した。

 鬼怒川渡し跡…渡船としての繁栄

064_2  白沢宿から西鬼怒川を越えて「一里塚跡」まで1km。ここから鬼怒川まで1kmの奥州街道を歩くと鬼怒川の堤土手にぶつかる。左折して堤沿いの細い道を1kmくらい歩き、堤道路の分岐点を右下に下りたところに「鬼怒川渡し跡」と書かれた標識があった。

  標識の真中に「鬼怒川渡し跡」、左に「氏家宿」、右に「白澤宿」と記載されている。しかし、ここから河原には降りることはできない。鬼怒川の川の流れも見えない。…残念だ。以前には対岸の阿久津河岸跡を訪れた時、阿久津大橋の下の河原を歩き、川の流れを見ながら芭蕉も渡し船でこの鬼怒川を渡ったのかと感慨にふけったこともあった。

055_3  栃木県史の白沢宿鬼怒川については、「鬼怒川は、平常は広い河原で、川幅30間(約54m)であるが、出水時は8町(約872m)にも及ぶ大河で、渡船があった。雪どけの増水期からの夏期3月から10月まで渡船、11月から2月の冬の渇水期は板橋を架けた」と記されている。

  白沢宿の断崖から鬼怒川まで、確かに広々とした水田になっているが、かつては河原であったのではないかと思えてきた。明治期に東北本線古田駅から岡本駅への線路変更になった理由として、鬼怒川の増水で鉄橋の橋桁が維持できないからであったということも頷ける景色である。

  大島延次郎氏は著書「下野文化史」の中で、鬼怒川を挟んで両岸の阿久津河岸と白沢宿は鬼怒川によって繁栄したと指摘している。対岸の阿久津河岸は若目田家による鬼怒川舟運回漕業によって繁栄したことは理解できる。しかし、白沢宿の繁栄は「白沢宿は鬼怒川の歩渡しに近い」としているが、よく分からない。

054  阿久津河岸関連での氏家町史では、下野文化史を引用し、「鬼怒川渡船3割増しの賃銭(文政10年)では1人銭10文、駄馬15文、軽尻は10文だった。また天保12年(1841)より架橋の責任が上阿久津村に負わされ、毎年渡子には10石を給したこともある。ことに寛永以降参勤交代のための諸大名の往来があり、下野北部、奥州の37大名はほとんどこの渡しを通過している」と、大名行列での渡船を特徴と記されている。

  大名の渡船については格式に応じたものがあり、白沢村にも応分の報酬があったものと伺える。慶長5年の上杉討伐に際しての鬼怒川渡河の功績が底辺に流れていることを感じる。鬼怒川周辺に生きる村にとり渡船という稼業について、もっと学んでいきたい。

 白沢宿彫刻屋台-磯辺一族・磯辺敬信

045  鬼怒川渡し跡から白沢宿に戻る。本陣を訪ねたいからだ。勇気をだして本陣に声をかけることにした。

  白沢宿北の入口の橋の下を流れる九郷半(くごうはん)川。流れが急である。西鬼怒川から分流し南下する川の流れによって灌漑の及ぶ郷が9か村半ということから九郷半川と呼ばれている。

074   橋の上から川下に鎮座する北野神社が見える。境内には天保4年(1833)製作の「白沢甲部彫刻屋台」の収納庫がある。同じ下流の須賀神社前にも文化13年(1816)製作の「白沢南彫刻屋台」収納庫が設置されている。

  宇都宮教育委員会の案内標識板には両屋台とも明治5年頃に鹿沼の町内から購入し、修繕を行なっていることが記されている。2台の彫刻屋台の修繕を行なった彫師として、富田宿(現在の栃木市大平町富田)、磯辺分家三代目の磯辺敬信と記されているのに驚いた。

  磯辺敬信は幕末安政の頃から明治30年(1897)まで神社や彫刻屋台の彫師として活躍した。「氏家上阿久津屋台」、「鹿沼銀座二丁目屋台」、「小山市本沢河岸熊野神社」など彫物として現存している。

072   「栃木の水路」の中で阿久津河岸関連の彫刻屋台に関連して、手塚良徳氏は磯辺敬信について次のように記している。「磯辺敬信、本名平五郎は文政11年(1828)に二代目隆信の子として下都賀郡富山村富田に生まれた。明治30年7月に死亡するが、68年の生涯の中で、数台の屋台とかなりの作品(彫刻)を残している。彼は中肉・中背・気風のよい棟梁で、いつも4~5人の弟子を引き連れ仕事をしていたと上阿久津の人々に伝えられている」。と「いつも4~5人の弟子を引き連れて」という箇所に注目する。

  私には神社や屋台の彫師は一人ではなく、集団作業で製作をしていくというのが頭にある。栃木町在住であった後藤流の彫師渡辺正信は磯辺敬信と共同で熊野神社彫刻がある。二人の関係性に注目をしていたが、まさか、白沢宿に磯辺敬信の彫刻屋台があるとは、驚いた。

 本陣宇加地家の座敷-雛飾りと世直し一揆の痕跡

049   宿場町を構成する要素として、①人馬の継立を行なう問屋場があること。②武士や公家など貴人が宿泊・休憩する本陣があること。③宿場の両端の街道がクランク状に曲げた枡形になっていること等あげられている。

  門を入った所の敷地は広くなっている。白沢宿本陣と問屋場は宇加地家にあったことが分かる。

035   「…ごめん下さい」と宇加地家本陣屋敷の玄関前で声かけた。返事がないので、建物にそって裏に回ってみた。南側には蔵が続いている。黒い車に乗って駐車している女性がいた。「ハイ」という返事があった。「少し、お伺いしたのですが、会津藩士の墓が薬師堂の崖の上にあると聞いたのですが、どこにあるのか教えて欲しいのです」。「そうね、隣の住吉さんなら詳しいから分かると思うわ。…それと、いい、今うちでお雛様を飾っているの。見て行きませんか。まもなく閉まってしまうから」と思いがけない返事が返ってきた。宇加地家の奥様だった。そして本陣の中に入れることが分かった。

076  本陣玄関の引き戸が開かれ、中に入れていただく。重厚な玄関から座敷に案内された。座敷にはお雛様が飾られていた。「凄い!艶やかな、本物だ」とひな人形に詳しくないこの私でもその重量感に圧倒された。

  「5年に一度、お雛様を飾るのです。あとは5年後なのね」と言って、資料を渡してくれた。「奥州白沢宿 本陣宇加地家 雛人形」と書かれた文化財保護審議会資料には次のように記されている。全文を載せます。

  「宇加地家に伝わる雛人形の制作年代については『琴の箱書』に明記してあり『寛政元年己酉三月三日』(1789年つちのとり)これ以前に制作されたものと推定できます。

『御雛様』・『御内裏様』・『五人囃』・『右大臣』・『左大臣』を基本として構成されています。江戸中期の雛人形の風俗が良く理解できる大変貴重な文化遺産で歴史的資料はもちろんのこと民族学上も貴重です。付随品としては、公家の生活調度は勿論のこと、格式の高い大名駕籠の他に基盤・将棋盤・双六盤等の娯楽用品、琴・三味線等の楽器は緻密で精巧に作られ、保存状態も極めて良好です。

人形衣装は木目細やかな西陣織りで、以前は一枚ずつ下着から着せていたそうですが、現在では維持管理の都合で着せたままになっています。屏風は桃山時代様式の画風で、四季を表現しています。全体的に色彩も鮮やかに残り保存には大変気を使います」

  お雛様愛好者にとり宝ものかもしれない。必見の価値のある雛飾りだ。艶やかな雛飾りに圧倒されてもっとよく観ればよかったと後から悔やむ心が湧いた。

079  飾られてあるお雛様の座敷の隅に刃物傷跡のある柱がある。「下野世直し一揆」の跡だ。慶応4年(1868)の4月3日に宇都宮八幡山に集結した下野一揆勢3万人と宇都宮藩兵とが衝突した。宇都宮藩兵が一揆勢に発砲したため、一揆勢は二手に分散する。

  このうち北方に逃れた一手は岩倉村をへて下田原村・白沢宿で打ちこわしを行なった。白沢宿を襲った一揆勢は藩兵の追撃にあい四散したが、新たに参加者を得て騒動は氏家・桜野村に拡大した(長谷川伸三著「慶応期野州中央部の農民闘争」より)。

  下野世直し一揆勢はこの白沢宿本陣の宇加地家にも打ちこわしをおこなっていった。その痕跡として残されている柱。世直し一揆の歴史的な史料を見ることができた。

080  「この家(陣屋建物)は明治になって建てられ、以前の建物ではありません。江戸時代と間取りが違っていますのよ。先代が壊された柱等を綺麗にして建築資材として使用して建て替えたのです。傷痕のあるこの柱がそうなんですよ。こちらの部屋が明治の時に郵便局をした所です」と言って、座敷の前の洋室を示してくれた。

  明治の初めにできた郵便局は地域の名主か名家が執り行った。さすが名主と陣屋を営んできた宇加地家だと思えた。それにしてもこのご婦人、奥さんというより奥様と呼ぶにふさわしい気品がある。陣屋という時代の波を受け継いできた雰囲気をかもし出してくれるご婦人に思えた。

  「彫刻屋台の巡行は5年に1回なの。今年がその年なのよ。11月の第1土曜と日曜日ね。屋台を見ることができますよ。是非いらしてください」と彫刻屋台の巡行の日を教えてくれた。素晴らしいお雛様飾りと幕末の世直し一揆の痕跡が残る座敷を見ることができた。声をかけて良かった。そして何よりも気品あるご婦人に出会えたことが嬉しかった。宇加地家の奥様に感謝申し上げて、隣の住吉屋に向かった。

 戊辰戦争会津藩士の供養塔

033_2  「会津藩士のお墓ね。これから案内します」と私を車に乗せて案内をしてくれた住吉和夫さん。住吉家の玄関には来客用の敷居があり、奥さんはお茶を淹れてくれた。初めていきなり訪問者への心遣いがうれしく、宇加地家の奥様同様に、この白沢町の人からは温かみを感じた。

 水車や駐車禁止でない道路ことを話した住吉さんは、「一里塚の興味から歴史に入って行ったのですよ。今、白沢宿の歴史をまとめているのです」と言って、途中で寄ったご自身の行政書士事務所でその資料を渡してくれた。「まだ途中なんですけどね」と笑顔で話してくれた。

083   白沢宿北の突き当りにある地酒蔵元の井上清吉店の左斜めの急坂道を上り、台上を登りきった道を斜めに左折した道の50m先の左側に2基の供養塔が建てられてあった。

  ――会津藩士の供養塔だ。

  河内町誌に、「白沢の宇加地氏は御用川で殺された会津藩士のために明星院の上に供養の石碑を建てた」と記されている。左が大正時代、右の供養塔が殺された直後に建てらてものと思える。残念ながら会津藩士の氏名は判らない。

  案内の標識が立っていれば何の供養塔かはすぐ分かるのにと思った。

086  慶応4年(1868)4月19日に宇都宮城を攻略した旧幕府軍は4月23日に新政府軍に宇都宮城を奪還される。敗残兵の会津藩士は落ち武者狩りとして村人に殺されていったと伝わっている。

  宇都宮城を攻略した際に旧幕府軍の大鳥圭介は治安維持のため乱暴や金銭を無心した兵士は討ち取って良いとのお触れを出していた。4月23日の宇都宮城落城で旧幕府軍の敗走から多くの脱走兵が生じた。討ち取って良いというお触れから、道馬宿村や今泉村など各村々では村人たちの警戒心から容赦のない対応をしたことが大嶽浩良著の「下野の戊辰戦争」に記されている。

 会津にむけて敗走する会津藩士も警戒する村人たちによって討ち取らていったと思われる。4月3日の世直し一揆による白沢陣屋宇加地家への打ちこわしの影響もあり、強固な警戒心が生んだ事件であった。私の住む栃木市においても慶応4年の4月6日に警戒する村人によって殺害された2人の会津藩士の墓が一乗院(栃木市大町、日蓮宗)に供養されている。一揆を扇動する浪士と間違えられての殺戮であった。

 水車小屋と町づくり

012_2_2  九郷半川の清流沿いに造られた「白沢公園」。宇都宮市が製作した水車小屋を備えた水車がギー、ギーと唸りなら回転している。本格的な大きな水車を眺めながら、川の清流とあいまってのどかな田園風景を楽しんだ。

  白沢宿は江戸時代の初めに生まれ、明治18年(1885)の国道ルートから外れることにより宿の役割が終わった。しかし、白沢宿を歩くことによって、明治維新から150年の時を経て今、蘇る何かがあるのではないかと感じた。

 「白澤宿の会」等、地域の人たちによる蘇生の動きもある。本陣に眠る歴史的史料や彫刻屋台など常設展示館や歴史資料館等がなどあれば、より多くの人が立ち寄り、白沢宿を見つめるようになっていくように思える。価値ある歴史資料がまだまだ地域の人の家の中で眠り埋もれているのではないだろうか。水車、堀の整備など外観の町づくりから内部を公開していく町づくりを目指していって欲しいと願い、帰路についた。

                                    《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

「栃木県史通史編4近世」(昭和56年3月発行)/「河内町誌」(昭和57年3月発行)/「ちょっと歩ける日光街道奥州道」(2008年3月、山と渓谷社発行)/大島延次郎著「下野文化史」(昭和31年5月発行)/「氏家町史上巻」(昭和58年3月発行)/手塚良徳著「みちのく江戸を結ぶ鬼怒川舟運」(昭和54年12月栃木県文化協会発行『栃木の水路』収録)/長谷川伸三著「慶応期野州中央部の農民闘争」(昭和49年2月雄山閣発行『幕末の農民一揆』収録)/大嶽浩良著「下野の戊辰戦争」2006年2月下野新聞社発行)/田辺昇吉著「北関東戊辰戦争」(昭和57年5月松井ビ・テ・オ印刷発行)/住吉和夫編「奥州街道白澤宿の歴史(誌)」/白沢地区景観づくり推進協議会作成「奥州街道白沢まち歩きマップ」(平成26年3月発行)

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