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吉原から浄閑寺を歩く―吉屋信子著「ときの声」から

栃木市の「歌麿まつり」―花魁道中

Yjimage10_2  「江戸時代の浮世絵師、喜多川歌麿は、栃木市に何度か滞在し、市内豪商の依頼で肉筆画大作『雪月花』を描いたと言われ、栃木市内に肉筆画を残しています。歌麿ゆかりの地、栃木市では平成29年10月28日(土)は『歌麿まつり』の一環として歌麿が描いた華やかな花魁道中も行われます」と昨年の栃木市観光協会の宣伝文句を目にした。

  栃木市では喜多川歌麿ゆかりの地として、歌麿を活かしたまちづくりをすすめ、毎年「歌麿まつり」を行なっている。歌麿と栃木市に関わる業績の調査の発表。歌麿の作品や足跡と研修会、講演会等を開催し、歌麿への関心を強めるイベントが催しされている。その一環として市内を練り歩く「花魁道中」を一般公募の女性によって行われている。

Image1  私はまだ一度もこの「花魁道中」を見ていない。江戸時代の栃木宿には遊廓もないのに…、何か違和感を覚えているからだ。

  花魁道中は、客に呼ばれて遊女が揚屋(置屋から高級遊女を呼んで遊んだ店屋)入りする道中のことを言うが、見世物として「きれいだな」と感じて、まつりとして見物すればいいだけの話なのだが…。

250pxyoshiya_nobuko1  「今年(大正4年)も吉原で花魁道中が行なわれる。花魁道中は売春のでデモストレーションだと言う」と吉屋信子は昭和40年に執筆した「ときの声」の作品に出てくる。

  吉屋信子は父親の吉屋雄一が明治34年に栃木町にあった下都賀郡庁舎の郡長に赴任したことから明治・大正と小学1年から栃木高等女学校を卒業するまで栃木町に育った。昭和40年執筆の「ときの声」を読むと、栃木市が行なっている「花魁道中」を少女から娘へと栃木町で育った吉屋信子はどう思うのだろうかと気にかかってくる。「あらそう」と言って無視するだろうなと思えてくる。

51ayofv05l_sx373_bo1204203200_1  救世軍広報誌の名前からとった「ときの声」という作品は、明治から昭和33年の売春防止法施行までの公娼制度廃止の戦いを救世軍・山室軍平を中心に描いている。吉屋信子はその背景にある幕府や国の公認で営まれていた廓で働く娼妓と公娼制度についての歴史的な実態を真正面から向き合い、ノンフイクション作品として書き上げている。作家としての凄さを感じる。

  同書の中で明治2年(1869)3月に元幕臣刑法官判事の津田真道が太政官に『婦女売買不可論』を建白した内容が記載されている。

  『皇国は今尚娼妓あり。娼妓は年季を限り売られたる者にて牛馬同様なるものなり。西洋諸国にて女郎となる者は懶惰淫奔(らんだいんぽん)の女自から好んで堕るにて客を取るも取らぬも勝手自由なり。我邦にては身持ち正しき女も父母伯兄等に売られて苦海に沈む。其情と懸隔を下して人身を売買することを禁止したきことなり』と牛馬同様に父母兄らに売られているという人身売買としての公娼廃止を建白した。明治日本での公娼廃止提唱の第一号であったが、太政官からは握り潰されたと記述されている。

068   吉屋信子は、「この遊廓の反人道的な《婦女売買》で成立する《公娼》の存在に、むかしから国民一般がさほど義憤を催さず見過ごしていたのは演劇、歌舞音曲にも《遊女》を美化礼讃したものが多く歌舞伎の助六の舞台の揚巻や、駕籠釣瓶の八橋の艶姿に見惚れ、浦里の雪責めにさえ観客はその悲劇に陶酔していたせいであろう」と言い切るところに著者のなみなみならぬ思いを感じ、その通りだなと思えてくる。

  栃木市が行なっている「歌麿まつり」の中の花魁道中も美化された「吉原の花魁」だけを描くのではなく、遊女の歴史的な背景を考察した現代への人権メッセージを含んだ内容で取り組めないのか、検討して欲しいと思う。

貸座敷として公娼制度は存続した 

240pxyoshiwara_circa_18721  明治5年(1872)のマリア・ルーズ号事件の際、「日本では国家が人身売買を公認している」と指摘を受けた明治政府は、太政官布告で芸妓・娼妓の解放令を出した。

  「前借金無効の司法省達」(明治5年司法省達第22号)により、前借金で縛られた年季奉公人である遊女たちは妓楼から解放された。ただし、売春そのものを禁止しておらず、また、元遊女たちの次の就職先が用意されてあったわけではなかった。

  そのため、その翌年の明治6年に管轄を警視庁に属させ、廓の各妓楼は売春窟兼旅館の類だったのを《貸座敷》と指定して場所を貸与する形態とした。そこで働く女は自由意志で貸座敷を使用して売春を業として存続することになる。偽装である。こうした偽装により、遊廓は人身売買の身代金は《前借り》として以前と変わらぬ女奴隷の市場として公娼制度は存続をした。

240px82_yoshiwara_girls1   明治33年(1900)当時の吉原には妓楼総数66戸、娼妓2922人、妓夫1323人、他に雑役の男女の使用人1582人、台屋(料理仕出し)従業員228人、引手茶屋男女雇人366人、女髪結102人、車夫1000人、ほかに芸妓、幇間、洗濯屋、按摩を合わせて約5000人以上が一つの売春の街に生活をたてていたと吉屋信子は「ときの声」の中で記している。

   遊廓自体を廃止することはなく、遊女屋は「貸座敷」と名を変えて、貸座敷のある区域は「遊廓」として帰り先のない遊女たちを吸収し、借金による年季付きの人身売買は太平洋戦争後まで存続した。

吉原を囲むお歯ぐろ溝(どぶ)の跡地

045  「お歯ぐろどぶの跡地ね…。最近多いですよ、訊ねてくる人が」と、吉原大門から仲之町通りを先に進んだところにある吉原神社。そこの巫女さんに「お歯ぐろどぶ跡地」を教えてもらった。両脇にあるソープランドの店先からは呼び込みの声はかからなかった。

  「吉原大門のとこに交番があるの。そこを曲がると公園がすぐあるわ。そこの公園と道路が段差になって盛り上がっているのね。はっきり分かるわよ、お歯ぐろどぶ跡が」。

  樋口一葉の「たけくらべ」には、「廻れば大門の見返り柳いと長けれどお歯ぐろ溝(どぶ)に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来ははかり知れぬ全盛をうらなひて」とお歯ぐろどぶに映る吉原楼閣のにぎわいが描かれている。

040_2  吉原大門の手前にある交番を右に曲がった通りが「お歯ぐろどぶ跡」になっている。外界から隔離する目的で、遊廓の周りを柵と堀で囲んだ。遊女を柵で囲った。

  掘の幅は最初は5間(約9m)、後に2間(約3.6m)ありお歯ぐろ溝(どぶ)と言われていた。出入り口は大門が一つで治安の維持に努めた。掘は、どぶといわれたように、汚い下水路だったいう。遊廓全体が田圃に盛土をして造成されたので、今でも階段段差となっており盛り上がっており、当時の爪跡として残っている。

020_2   NHK「ブラタモリ」で平成24年(2012)1月に「吉原」が放映されている。ユーチューブで見ることができた。渡辺憲司立教大学教授の案内で吉原を囲んでいたお歯ぐろどぶの跡地がでてくる。

 交番の右脇道に入り公園裏口の階段となっている所が映される。公園と道路の段差を測った渡辺氏はタモリに、「段差の高さが163mあります。(道路の向い側を測りながら)堀の幅は9m、5間ですから飛び越えることはできませんね」と道路の向こう側まで堀の幅があったことを示した。堀は娼妓の自由の拘束と脱走防止でもあったのだ。

 この地に台東区として「お歯ぐろ溝(どぶ)跡地」という標識を建てたらいいなと思った。…触れたくないのかもしれない。吉原から浄閑寺に行く際に道路から見えるソープランドのある敷地は一段と盛り上がっているのが分かった。

投げ込み寺―浄閑寺

027  「心中片割れのお墓ね。先代住職が言っていたあのお墓かな…」といって浄閑寺の職員の方が私を本堂裏のケヤキの木の下にある小さな墓石に案内をしてくれた。「多分このお墓ですよ。訪ねてくる人はいませんね。吉屋信子の『ときの声』にでてくるお話しですか?」。

  墓石の碑面には《秋月普通照信女》、その下の台石には《草島》と刻字されているのが確認できた。間違いなく吉屋信子の「ときの声」に出てくる逸話のお墓であった。

  浄閑寺住職が吉屋信子に話した逸話が「ときの声」に次のように記されている。

021_2_2 「生き残った男が生涯、毎月の命日に来て、墓の前で経をあげていました。過去帳の本名が草島小十九です。明治4年生まれだから、情死した明治26年はまだ22でしたな。吉原楼内で男が先に女を刺した刃で自分の咽喉を突いたが、これは助かり女は絶命…。男はこの墓を建ててから必ず毎月17日の命日にここに来て、墓をまるで抱くようにして経本を読む。(略)やがて、太平洋戦争下空襲の烈しくなった昭和20年春からぷっつりと姿を見せなくなった。戦後も幾たび10月17日が来ても現れなかった。(和尚さん、もしわたしが死んだら遺骨の一片をぜひこの墓の下に埋めていただきたい)、と頼まれていたから気になって…」。

  住職は電話帳から彼の棲居を突き止めた。電話口に出たのは娘で、父が独身の若い時に吉原で心中を仕損じたことを知って吃驚仰天した。早速浄閑寺に来て秋月普照信女の墓前に合唱した。男は疎開先の郷里で老衰で亡くなって、その土地の寺に葬られていた。遺骨の一片をここに埋められませんでしたと住職が残念そうに語った。

  「お墓を抱くように経本を読む」という姿に胸がうたれ、そのお墓を是非見てみたいと思った。ケヤキの下に小さくひっそりとたつ墓石。可愛いお墓である。浄閑寺を訪ねたのはこの逸話からでもある。無縁仏として葬られた数多くの娼妓達のお墓を見守る先代の住職の温かい眼差しが浮かんできた。

003  隅田川から吉原を経て流れる山谷堀は浄閑寺へと続く。深夜、小舟でむしろにつつんだ娼妓の遺骸を浄閑寺境内墓所そばまで運び、本堂裏のケヤキの木の下の穴に投げ込んだとも云われている。

  地下鉄日比谷線「三ノ輪駅」、大関横丁交差点を南東に入った所にある。下を地下鉄が走っている。山谷堀は山門前を流れ、寺に沿って右折して流れていたから舟で運ぶに都合がよかった。今では堀は暗渠になり低い道路が通っている。投げ込まれた遺骸はやがて白骨になり、住職によって掘り返され骨壺に収められた。

  吉屋信子が引用した台東区発行「新吉原史考」の箇所を読んでみる。

012_2_2  「遊女は自分の躰を資本にした商売をしていたのであり、まして主人や客から商品視されていたのであるからその生活は悲惨なものであった。廓から外へ自由に出ることはできなかった。しかも主人の厳しい監視下にあったので全く自由は束縛されていた。しかし自由を拘束され主人や客から商品視されながらも。太夫とか全盛の遊女達は絢爛豪華な生活を送っていた。ただしこれは特殊な例であり、大半は惨めな毎日を過ごしていたのである。遊女が死ぬとその遺骸は三ノ輪浄閑寺門前に放置し、浄閑寺で無縁仏として葬るのが普通であった。そのため浄閑寺には投げ込み寺の異名があったが、そこの過去帳をみると二十代で死亡した遊女が非常に多い。(中略) 二十代の若さで病死した遊女達が多かったというのはその生活が悲惨であったことを物語っている。満足できないような食事で酷使されていたからこそ、遊女達の間に若くして病歿する傾向が見られた」と新吉原史考には綴られている。投げ込み寺浄閑寺を通して吉原の遊女の姿を的確に表している文面である。

020_3  「過去帳は以前にお見せしていましたが、今はお断りしているのです」と浄閑寺の職員の声を聴きながら再び本堂裏に回る。

 本堂裏の境内に立派な石積みの塔が聳(そび)え立つ。遊女たちを祀った「新吉原総霊塔」である。遊女たちの霊を慰めるために建てられたもので、基壇には花又花酔の川柳、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と刻まれた石版が埋め込まれている。

 新吉原総霊塔基壇の中に収められた骨壺は2万5千体。むき出しの骨壺が見られる。背筋が「ゾッ」としてきた。基壇の中には骨壺が積み重なり異様な雰囲気を漂わせてきた。吉原の歴史を感じた。

吉原弁財天―吉原名残碑

063  吉原神社の先、区立台東病院の向い側に弁財天が祀られている。かつては花園池・弁天池と呼ばれた大きな池があったと云う。

  大正12年(1923)の関東大震災で廓内で火災が起こったが、大門は閉められていたため、逃げ場を失った遊女たちは弁天池に殺到し、池に逃れ折り重なるように490人が溺死した。その遺骸も浄閑寺に葬られたと云われている。

057_5  弁天池は電話局建設のために昭和34年(1959)に埋められている。弁財天内の築山には大きな観音像が、溺死した人々のため大正15年(1926)に建立されている。境内には池一面を溺死した無残な遊女たちの骸で埋め尽くされた写真等が掲示されている。壮絶極まりない光景の写真である。

 昭和33年(1958)3月31日に売春防止法が実施、成立によって遊廓公娼は廃止された。その名残を記す石碑は弁財天内に昭和35年(1960)に地域有志によって建てられてた。碑文は共立大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古によって書かれてある。

  そこには「江戸文化の淵叢(えんそう=物事の寄り集まる場所)となれり。名妓研(美)を競い、万客粋を争い、世にいふ『吉原知らざるものは人に非ず』と」、と当時の隆盛を伝えている。江戸文化は吉原の華美を探究するとこから始まるのか?いやいや吉原の深淵に隠されたものこそ、日本の人間社会がもつ残虐性が浮きぼりになってくる。

065  アメリカ国務省の「人身売買に関する年次報告書」(2012年)によると、日本は「Tier2」(人身売買撲滅のための最低基準を十分に満たしていないが、満たすべく著しく努力している国)に分類され、人身売買の目的国、供給国、通過国であるとその不十分性が指摘されている。

  ウエブ記載石原歩氏の論文、「公娼制度と救世軍の廃娼運動一考」の中で、人身売買は世界的に深刻な課題になっている。その中で日本の人身売買、公娼制度の歴史の中で「賞賛すべき業績」として救世軍による廃娼運動を高く評価している。しかし、救世軍のとりくんできた廃娼運動については広く理解されていないことの指摘を行なっている。

 遊女奉公は前借金と呼ばれる身代金を負わされ、私娼でない限り合法的な行為で、親兄弟、家のために遊女になる娘は孝行者であったとする考え方は根強く生きている。貧困から逃れるために親が子を売るという道徳観は諸外国からは「奴隷制度」と見なされている。古屋信子著の「ときの声」を読み救世軍が公娼全廃を訴え、明治・大正・昭和と活動してきたことを知ることができた。日本の人身売買としての公娼制度の歴史について見つめていく必要を感じた。

                                   《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

吉屋信子著「ときの声」(昭和51年1月15日朝日新聞社発行『吉屋信子全集12』)/「台東業書新吉原史考」(昭和35年12月1日台東区発行)/石原歩著「公娼制度と救世軍の廃娼運動一考—現代に至る人身売買の存在要因を考える—」(ウエブ検索による)

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