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高峰秀子「名もなく貧しく美しく」―父に与えた思いとは

NHKテレビ小説「ひよっこ」の描いたもの

0531_031 ~見上げてごらん夜の星を 小さな星の小さな光が ささやかな幸せをうたっている

 見上げてごらん夜の星を 僕らのように 名もない星が ささやかな幸せを祈ってる

   手をつなごう僕と 追いかけよう夢を 二人なら苦しくなんかないさ  見上げてごらん夜の星を 小さな星の小さな光が ささやかな幸せをうたっている

  見上げてごらん夜の星を 僕らのように 名もない星が ささやか幸せを祈ってる~  (昭和38年「見上げてごらん夜の星を」、歌:坂本九、作詞:永六輔、作曲:いずみたく) 

  昨年(平成29年)のNHK朝の連続テレビ「ひよっこ」(岡田恵和、作・脚本)は昭和30年代後半の青春映画を彷彿させたドラマ仕立てになっていた。東京下町のトランジスタラジオ製作工場に地方から集団就職した女子従業員たちによる「見上げてごらん夜の星を」を合唱するシーンが出てくる。昭和35年に永六輔といずみたくが製作公演した夜間高校を舞台にしたミュージカルの劇中歌を坂本九が昭和38年に歌い、現在も全国の合唱サークル発表会で歌われ続けている曲である。

 「ひよっこ」の中では、銭湯の帰り道を「いつでも夢を」を歌いながら女子寮に帰るシーンも出てくる。昭和38年1月公開日活映画「いつでも夢を」(野村孝監督)に出てくる夜間高校から帰りながら歌うシーンとダブって映し出される。

5d7e1bc11_2   昭和37年の橋幸夫・吉永小百合の「いつでも夢を」や翌年の三田明が歌った「みんな名もなく貧しいけれど」などは、高度成長時代を背景に若者達が貧しさから脱皮し「明日への夢」に向かって生きようとする歌詞で綴られている。

   しかし、同時代を背景にしたテレビドラマ「ひよっこ」の描く世界は違っていたように思われる。ヒロイン谷田部みね子(有村架純)を通して描いた世界は「明日への夢」を求めて進むのではなく、東京で行方不明になった父親を探しながら、「今をしっかり生き、やることをやっていく」という姿を描いていたように思えた。

 それは、貧しい中にも夜間高校を目指すことを決意していく「キューポラのある街」(浦山桐郎監督、昭和37年4月日活公開)のヒロイン「ジュン」(吉永小百合)の生きていく姿を描いた世界と共通しているように思えた。さらには、終戦から昭和34年までの時代、「貧しい生活の中でのろうあ者夫婦の生きる姿」を描いた東宝映画「名もなく貧しく美しく」(松山善三監督、昭和36年3月公開)の中にも「今をしっかり生きていく、やることはやっていく」という「ひよっこ」と同じように生活者としての生きていく姿を見ることができる。

映画「名もなく貧しく美しく」から

F37773391  「私たちは助け合わなければ生きていけません。道夫さん、一生私を助けてくれますか。私も道夫さんのためならどんなことでもします。私たちのような者は一人では生きて行けません。お互いに助け合って普通の人に負けないように」と、ろうあ者同士の置かれた立場を踏まえて道夫(小林桂樹)からの結婚の申し込みを受ける秋子(高峰秀子)。「…ありがとう」と応える道夫。

  昭和36年(1961)1月公開された東宝映画「名もなく貧しく美しく」の二人のろうあ者が終戦間もないがれきの散乱する時代に結婚を決めるシーン。監督は高峰秀子の夫である松山善三。実話を基にして松山善三が脚本を書いた第一回の監督作品である。

  DVDを借りて何十年ぶりかに観た。57年前の作品とは思えないほど、「生きていくこと」への苦しみと辛さから見出していく喜び、嬉しさを名もない庶民の生活の哀感がモノクロ画面に感動的に描かれている作品になっていることが分かった。

13827316_581271235411609_734641218_  両親がろうあ者であることにより同級生と喧嘩の絶えない小学1年の息子への子育ての悩みと苦しみ。さらには素行の悪い秋子の弟により、秋子は絶望し置手紙を置いて家を出ていく。帰宅した道夫は置手紙を読み、大急ぎで追いかける。駅のホームに入ってきた電車に飛び乗り秋子を探す。前の車両にいる秋子を見付ける。気が付いた秋子に車両の窓を通して手話での会話が始まる。

  私が小学6年の時にこの映画を観た時、音声とは違うこの手話によるシーンが強く印象に残ったことを憶えている。

  「僕にはあなたの苦しみがよくわかります。僕たちは夫婦です。何故あなた一人が苦しまなければならないのだ」と車両の窓越しから秋子に手話で話す道夫。「結婚してから今日まで私はあなたに迷惑ばかりで、あなたに何もして上げたことがありません」と応える秋子。道夫は「秋子、あなたは間違っています。結婚した時、二人は一生仲良く助け合ってゆきましょうと約束したのを忘れたのですか。私たちのような者は一人では生きてゆけません。お互いに助け合って…普通の人に負けないようにゆきましょう。そう約束したのを忘れたのですか」と諭す道夫に頷き返す秋子。走る電車の窓から置手紙の破片が舞い落ちる。

  全編で台詞ではなく手話、目や顔の表情やしぐさで感情を表現する難しい演技が要求される。とりわけ、この電車の車両窓越しによる二人の手話による演技は真に迫る夫婦の姿を描いており、「一人では生きてゆけない」という台詞に頷くシーンは胸に刺さるものがある。

O08000491112168720241_3  「給料が安くても二人ならやってゆけるんだとよ。早く結婚をしなさい」と亡くなる一年前に、お袋が言った言葉を今でも時々思い起こす。

  28歳だった私は「痔ろう」の手術で入院した。退院する日に栃木から来た母は私の住む吉祥寺のアパートで一週間過ごした。兄が栃木から車で母を迎えに来る朝、「ご飯はゆっくり食べるんだよ」と私に𠮟った後に諭すように「二人ならやってゆけるんだよ」と言って栃木に帰っていった。

2409795f1   「一人口は食えぬが二人口は食える」ということわざがある通り、確かに母が言ったように結婚すると独身時代の無駄使いがなくなりやっていける実感が湧いた。一人ではないという責任感が生まれたのかもしれない。しかし、この「名もなき貧しく美しく」という映画は「貧しさ」に加え、最初の子どもを死亡させてしまうなど「障害者」というハンデを背負った生活をも描いている。

  小学5年になった二人目の子供、一郎からは「母さんも父さんも耳が悪いから損してばかりいる」と言われる。同居する秋子の母たま(原泉)は一郎に、「だまされたって、損をしたって、こうやって皆無事にご飯をいただければいいじゃないか。お前にもいろんなことが分かる時が来る。お母さんたちはいつも下に下にと謝るようにして生きてきたんだから、おばあちゃんは偉いと思うよ」と話す。秋子夫婦だけはなく、当時の多くの庶民はこうした台詞のように「まず、家族がご飯を食べられる」という生活を一番に考えて生きていった姿が映し出されてくる。

9ad40f731_3  しかし、息子一郎は翌日、母親の洋裁仕立て代の引き上げを洋裁店の主人(多々良純)に要求する。言われた主人も秋子の仕立てものの出来具合から今まで安かったことに気が付き、引き上げることを秋子に告げにくる。

 ここには「障害者だから仕方なく我慢する」ということだけではなく、母親の洋裁技術を認めさせていこうとする姿が描き出されている。卑屈にならず己の技術に誇りを持って生きてゆくべきであるというメッセージが含まれていると思えた。

 この映画を観た当時、 53歳の親父はこのおばあちゃんの、「だまされたって、損したって、こうやって皆無事にご飯をいただければいいじゃないか」という台詞に共感したと思えてくる。息子一郎の仕立て代引き上げの行動についてはどう思ったのか?「原泉」が演じたおばちゃんの容姿は私の祖母、親父の母に似ているところもある。貧しい中にも我慢して生きてきた父にとり同感した場面だったのかもしれない。

  父は、栃木市明治座で上映中の「名もなく貧しく美しく」の入場券を、自分が経営する製材所従業員全員の30人分を購入し、この映画の鑑賞を勧めている。「あの親父が映画を観るのかよ」といつも黙々と働く父からは想像できないことで、びっくりしたことを憶えている。小学6年生だった私も大手をふってこの映画を観ることができた。

Ea5e43fa8bccbed66f378c0c0c4504da1_3   映画の後半に道夫は、「僕はこの頃、家にいると耳が聞こえるような気がします。あなた(秋子)やお母さんや一郎のことなら全部わかります。私はこの家さえあればどんなに辛い事があっても生きていけます。あなたもそうですか」と問いかける。秋子は「世間の人は私たちに同情してくれても理解はしてくれません。私もこの家の中だけが天国です」。道夫は「僕たち二人は…、十年かかってやっと一人前の夫婦になりました。これからは自分たちが幸せになれたら、ひとの幸せを考え。自分の店を持っていく」とこれからの進む方向を話す。秋子は「そうなったらどんなにうれしい事でしょう」と喜ぶシーンはジーンと胸にこみあげてくるものがある。

 今を生きてきた夫婦の少しだけ余裕が生まれ、前を向いて進んでいこうという姿。だが、この映画の結末は秋子の交通事故の死で終わっている。「最後の終わりが…?」と何ともやるせない思いがした。ただ、この映画のエンディングは二種類あると云う。アメリカ版のラストはハッピーエンドだと云う。どういうラストになっているのか、是非観てみたいと思っている。

高峰秀子が書いた自伝「わたしの渡世日記上・下」

Img_00021    秋子を演じた高峰秀子は「わたしの渡世日記下・ウソ泣き」の中で、この「名もなく貧しく美しく」の演ずる手話の余りの難しさに、この映画が製作中止になるこを願ったことを書いている。そして「実際の手話は荒っぽいため、聾唖者から不満の声が上がるのを承知で、私は見た目に美しく、流れるように優雅な手話に勝手に料理してしまった。ストーリーが感動的だったせいか、手話の料理に対する誹謗の声が聞かれず。私はホッと胸をなでおろした」と記している。そして、「私はおいしい演技をお客さまに食べていただきたくために努力をおしまない『板前』に徹したい、と自分では思っている」と俳優としての演技の位置づけをしている。

  手話という材料を料理したところの独自の手話の演技を生み出し、流れるような手話を見せている。映画に映し出される姿を想定しての演技力を高めていく。高峰秀子の大胆な演技に対する姿勢は生半可なものではなく凄みを感じる。

Ans1268016381   昭和51年2月に出版された高峰秀子著「わたしの渡世日記上・下」には、5歳で映画デビューした高峰秀子の51歳までの役者稼業としての生業と演技、母親との確執の生活、木下恵介、成瀬巳喜男等の監督や谷崎潤一郎、梅崎龍三郎等の著名人らの交流が記されている。出演した作品や映画監督との交流等から日本の映画史の貴重な資料本になっていると思える。

  「同書上・にくい奴」の中に16歳の時に観た映画「小島の春」(豊田四郎監督、昭和16年公開)の中で、ハンセン病患者の役の杉村春子の背中だけの演技に強い衝撃を受けた。そこから  「スクリーンに映る自分自身の姿を、観客席から観客の眼で、第三者の眼で見なければならないと思い、以後は本格的な発声訓練から演技を学び始めた」と記している。

 司馬遼太郎は高峰秀子の顔を見ながら「どんな教育をすれば、高峰さんのような人間ができるのだろう」と言ったと云われている。子役時代から映画俳優して生計をたて始めた高峰秀子は小学校に通うことができなかった。そのため勉強方法は「良いものばかりを見る。良いものをみておけば悪いものがわかる」という人間を見て生きた勉強をしたことを記している(同書下、鯛の目玉)。

0819501_2  そのためか梅原龍三郎が昭和25年、25歳の高峰秀子像を描いた画は「眼窩から目玉がハミ出して描かれており、私にだけ知らない本当の私がいた」と記している画が出来上がる。梅原龍三郎は高峰秀子に「はじめに、目が大きいという印象で描いていたら少しも似なかった。君の目は大きいというよりも目の光りが強いのだな。それで目が大きいという印象を人に与えるのだ」と高峰に語った(同書下・愛の人)。

   梅原龍三郎が描いた高峰秀子画は東京近代美術館に高峰秀子自身によって寄贈、所蔵されいる。問い合わせをしたら、常設展に現在は展示されていない。何時展示されるかは分からないという返答であった。展示された時に是非観てみたいと思う。

  昭和20年代から30年代にかけての興隆を極めた映画界。観客は、「映画を通して自分をみつめたり、その感動から自分を律したりしまうという姿勢がうかがえる。当時の映画は娯楽であると同時に影ではあるが、もうひとつの人生として人々に力を与え、素直に受け入れられていった(同書下・二十四の瞳)」。と、当時の映画が人々に生きる力を与えていったことを記している。

  私の父と母も「名もなく貧しく美しく」を観て、自分たちの歩んできた道を振り返り、生活を律していくことを学んだと思えてくる。

  「ですます調」で書かれたこの「わたしの渡世日記」は、波瀾の半生を常に明るく前向きに厳しい姿勢で生きてきたことを綴り、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞 するなど高い評価を得ているエッセイになっている。...

映画を観た父は30枚の入場券を購入ーその思いとは

C9ynv4ku0ae1bcr1_2 我が家は、戦前は下駄屋と言われ、下駄の仕上げをする下駄職人の家であった。5人兄弟の長男であった父は両親と同居し、母と6人を子供を抱えた大家族であった。昭和23年1月に亡くなった祖父の葬式も満足に出せないほどの貧しい生活であったと叔母からも聞いている。その生活はユーチューブで見ることのできた映画「綴方教室」と類似していたと思える。

  昭和13年の高峰秀子主演、山本嘉次郎監督「綴方教室」の映画は、ブリキ職人一家がその日の食べ物にも窮する極貧状態で生きてゆく生活を描いている。生活を見たままありのままを書くという鈴木三重吉が提唱した「生活綴方教室運動」の中で小学生豊田正子の「綴方」を原作として映画化されている作品である。 

  映画では極貧状態をリアルに描きながら、人間として尊厳を失わないで、明るく生きる一家を描いている。昭和10年代の庶民の暮しが分かり、現実の世界が一家に押し寄せる凄い作品になっている。 

Photo  今回、「名もなく貧しく美しく」の映画を観て、戦後を生き抜いた父が当時、この映画を観てどういう思いをしたのだろうか?

   昭和24年に父は下駄のもとの原材を造る製材所をおこす。「明日買う米の金がなくても材木一本あれば食えた」と子供の私に語っていた。大量の下駄の需要により製材所は当る。順調に伸びることができ、30人の従業員を雇い入れるまで製材所は成長した。工場に遊び行く私には、父は従業員を雇人というのではなく、共に働く者同士として接していたように見えていた。

  昭和36年にこの「名もなく貧しく美しく」を観た父は30枚の入場券を購入するなど強い感銘を受けた。画面に映る一家の生活はそのまま自分のこれまで歩んできた姿、生活でもあったと思い共感したのだろう。購入した入場券には「素晴らしい映画を一緒に働く従業員にも見てもらい、共にやっていこう」という父の思いがあったことを57年たって分かってきた。 

 最後に、 「一郎も来年は中学生になるし、生活もだんだん楽になってきました。来年は小さくても自分の店を持ちたいと思っています。一郎が大学へゆくまで、私たちは一生懸命働かなくてはなりません。あなたの分まで僕が働きます」と「名もなく貧しく美しく」で語る道夫。「そうなったらどんなに嬉しいでしょう」と秋子が応える夫婦の手話は、そのまま私の父と母の言葉になり胸に響いてきた作品であった。 

                                     《夢野銀次》 

≪参考引用資料≫ 

高峰秀子著「わたしの渡世日記 上・下」(昭和51年5月朝日新聞社発行)/齋藤明美著「高峰秀子の捨てられない荷物」(平成13年3月文藝春秋社発行) 

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