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土葬の墓が残る栃木市皆川城内「傑岑寺」と「床とり」

NHK大河ドラマ「篤姫」に映された「座棺」から

005  「わたしを上様のところに連れていくのじゃ!」と叫んで御錠口を超えて走る篤姫(宮崎あおい)。13代将軍家定の棺が安置されている部屋に飛び込む。

 「…上様、なぜそのようなところにいらっしゃるのですか?」と棺に取りすがり、号泣する篤姫。

 平成20年(2008)7月に放映されたNHK大河ドラマ「篤姫、第28回ふたつの遺言」の中で座棺が映しだされていた。このシーンで見慣れた寝棺ではなく、家定が安置されている座棺に違和感を覚えた。…どうしてなのか?

Img_51_2  後日、棺には「座棺(棺桶)」と「寝棺(長方形の平棺)」があることを知った。晒をまいた座棺をテレビで初めて見たから違和感を覚えたのかもしれない。「栃木市史民俗編」の中に、「座棺には一反の晒が巻きつけて座敷に安置する」と記されている通り、画面には晒がまかれている座棺が安置されていた。

  かつては土葬がほとんどであった時代、土葬の場合の埋葬は「座棺(棺桶)」であり、大きさは2尺2寸(約66.6㎝)であったと云われている。2尺2寸から22歳で嫁に行かすなというたとえも生まれたといわれている。法律では土葬(埋葬)は禁止されてはいないが、都道府県で条例等で許可をしない所がほとんどであると聞いている。しかし、栃木市では「土葬は禁止されておりません」と栃木市よりメールでの返信があった。但し、「埋葬(土葬)を行なうときは深さ地下2m以上にしなければならないと施行細則で決められている」とし「墓園や霊園によって土葬を禁止している」という回答であった。土葬を禁止していないという意外な回答であった。土葬は法律では規制できない長年の歴史風習が伴っていることを感じた。

Keirei1  平成22年(2012)3月11日の東日本大震災で多くの犠牲者を出した自治体では、一部土葬が行なわれた。多数の身元確認が困難者、ドライアイス不足、さらには地域の主要火葬場が被災し、交通網やライフラインの断絶、燃料不足などにより火葬が追いつかないという事態が発生した。そのため急遽特例措置の適用をもうけ、宮城県内では6市町村が土葬に踏み切り、1000人以上の方が土葬(埋葬)を余儀なくされたという。遺族からは、「土葬に馴染みがない」「先祖と同じお墓に入れてあげたい」「火葬して遺骨を手元においておきたい」「変わり果てた姿をそのままにした状態で土葬するのは忍びない」等と火葬を希望する人もいた。その後、3回忌を迎えるにあたり埋葬された遺体の掘り起し、いわゆる改葬が行われ、新しい棺に納め直して、火葬場へと送り出したと「墓を掘り起した人々の記録(震災取材ブログ)」に記載されている。ブログには改葬を行なった業者の苦痛も綴れていた。

詣り墓と埋め墓のある(両墓制)が残る「傑岑寺」

001_2_2  栃木市街より皆川街道を西へ5㌔先に栃木市皆川城内町を東北道が通っている。その東側のそばに「傑岑寺(けっしんじ)」がある。当初の傑岑寺は弘治元年(1555)に第2次皆川城主皆川俊宗によって皆川城濠外に西接する谷津山に創設され、翌年の弘治2年(1556)に大平町西山田の大中寺より天嶺呑補(てんれいどんぽ)和尚を招請して開堂されている(建幢山傑岑寺発行「傑岑寺の歴史」より)。

 30年後の天正14年(1586)に傑岑寺は現在地の森山に移転をする。前年の草倉山の戦いでの討死者の慰霊と皆川城の南の出城として役割を担うためであったと云われている。傑岑寺から奥に入った太平山の北側に位置する草倉山の戦いは、沼尻合戦の翌年の天正13年(1585)7月の小田原北条と皆川俊宗の継承者、皆川広照との合戦を云う。

020_2  藤岡方面から攻撃を仕掛けてきた北条方に対して、皆川広照は太平山に陣を構えたが、北条方は太平連山に大軍で突入し、太平山神社を含めた太平山を炎上させた。軍を後退させた広照は、太平山の北の草倉山に陣を移し、100日に及ぶ激しい戦闘を行なった。草倉山は太平連山の中で、最も皆川城に近い山であり、皆川勢にとって背水の陣であったと云われている。しかし、数で勝る北条方の大軍を前に皆川家臣が相次いで討ち死にを遂げていき、広照自身も自害を覚悟するほど劣勢に追い込まれていった。

  戦の情勢を見かねた徳川家康、佐竹義宣によって皆川広照に降伏が勧められ、やむなく広照は戦闘を終息させた。以後、広照は北条方に与するようになる(ウィキベディア「皆川広照」参照)。

  この草倉山の合戦で皆川家臣の大半が討ち死にをした慰霊を弔うために広照は、傑岑寺を草倉山近くの現在の森山に移転を行なった。この辺りに降伏への我慢と弔う姿勢が、改易になった広照を後々まで家臣団が慕っていった要因があるのかもしれない。

  草倉山での死者を葬った千人塚に昭和7年に千人塚の石碑が建てられている。ゴルフ場の狭間を通って、道なき道を進んだところにあるといわれており、私はまだ行って石碑を見ていない。是非、行ってみたいと思っているのだが……。

005_2  由緒ある傑岑寺の石段を登り朱塗りの門の奥に本堂がある。本堂の裏に回ると幸島、猪野、片柳家の詣り墓を見ることができる。

  「栃木市史民族編、両墓制」の項で「傑岑寺(けっしんじ)」について次のように記されている。「山内に21世帯の墓地があるが、そのうち幸島、猪野、片柳各一戸ずつが両墓制をとっている。埋め墓は本堂の南側の陽当たりの良い所にあり、詣り墓は本堂の北側にある。これらは特に寺に貢献した家をいう。この三世帯を除いた18戸は単墓制である」。

  この栃木市史民族編を読んで、かつては土葬(埋葬)であった時代には、埋葬地を埋め墓とし、詣り墓を別に設ける両墓制があったことを初めて知った。そして「傑岑寺」の両墓制を見て、由来など住職に訊ねたが、「確かに本堂裏のお墓のことをお詣り墓と言っていますが、良く分からないのですよ」とはっきりしない応えが返ってきた。

013_2  森謙二著「墓と葬送の社会史」で、両墓制とは、埋葬地(=死体を埋葬する墓地。一般的には「埋墓(うめばか)」と呼ばれている)と石塔を建てる墓地(一般的に「詣墓(まいりばか)」と呼ばれる)が離れて設けられる墓制であると定義し、柳田国夫が問題提起をし、民族学者の大間地篤三によって「両墓制」という名称が与えらえたと記している。

  そして通則的な見解として「埋葬地は死穢の場であり、それを忌避して別に祭地(=霊魂祭祀のための清浄な場)を設けたというものである」と両墓制の意味合いが記されている。また最上孝敬著の「詣り墓」では村はずれの沢等に埋葬し、近場に詣り墓を設けている事例や同じ寺の境内で埋め墓と詣り墓とがあるなど全国の事例紹介が載っている。しかし、肉体と霊魂、石塔の意味合い、地理的な関係や風葬の流れからなど、私には良く分からない世界でもある。もっと良く学ばないと理解できない分野であると思えた。

008_2 傑岑寺境内にある埋め墓は本堂の南側の坂道を上った陽当たりの良い墓地の中にあった。半間(90㎝)四方を石柱の柵で囲われている。囲いの真中に「幸島」と刻字されている30㎝ほどの高さの石塔が建っている。中には石柱の柵のない埋め墓もあるが、全部で幸島家の埋め墓は13基ある。

  しかし、片柳家や猪野家の墓石はあるが、埋め墓は見当たらない。すでに改葬を行ない埋め墓を閉めたのではないかと思えた。この辺のことは良く調べないと何とも言えないことである。石柱の柵は動物たちの墓掘り襲撃を防ぐために設けられたのかもしれないと思えた。

015_3  それにしても柵の中の埋め墓の面積は狭い…。2尺2寸(約66.66㎝)の座棺の中で膝を抱えるように納める遺骸は母の胎内にいる時の姿に似ていると云われている。

  埋め墓の中の石塔に刻まれている「幸島」という家格。江戸期にはこの地の大皆川村は武州金沢藩米倉家の領地であった。野州大皆川村、梅沢村、上永野村、下永野村など12か村9800石を統括する陣屋がi現在の皆川中学校にあったという説もある。そして大皆川村の名主が幸島家であり、屋敷跡が今も残っている。その蔵には皆川地域の貴重な史料が埋まっているのではないかと地元の人が話をしていた。幸島家の全容を記述した本がないものか、探していきたいと思っている。

  幕末には大惣代名主として幸島彦助は「永野村村民屯集事件」において栃木町の米穀商人と永野村村民との間との仲介を行ない穏便な解決にむけて活躍をしている。栃木市史にはわずかな記述になっている。中世皆川家についての研究が進んでいるが、近世から幕末、明治にかけて大皆川村名主の幸島家と武州金沢藩米倉家との関係などこれからの研究が進むことを期待したい。

今も残る土葬の名残りとしての「床とり」

60_05_011_2  葬儀において土葬の穴を掘る役割の者4人を「床とり」と言われている。現在は土葬がないことから穴掘りはないが、棺を運ぶ者を「床とり」と称して呼び名が残っている地域がある。私の住む栃木市大平町横堀地域では今でも、棺を運ぶ者を「床とり」と呼んでいる。昭和40年代まであった土葬の名残りなのである。8年前に転居してきて、葬儀の手伝いの際にこの「床とり」は何なのか分からないでまごついたものである。

  今年(平成30年)の6月に栃木県立文書館の古文書講座を受講した。「倹約の取り決めから見る村と領主」からという題で、「文久三年八月倹約筋被仰渡ニ付村方取極蓮印帳」という古文書館収蔵の「大前村文書」の古文書学習であった。

Photo  この古文書では財政の悪化から領主より村々に「冠婚葬祭の際の振る舞いを簡素にする」というお触れが出され、村から倹約の旨の文書がだされた。その中で「不幸之節、穴掘沐浴之者外一切酒差間敷候」と記され、穴掘り(床とり)以外には酒を飲まさないと記されている。葬儀の際の「床とり」は別格な扱いとしてことが記されていた。何故「床とり」は別格なのか?

  私の住む地域での「床とり」の役割をした者は葬儀の後の直合(なおらい)や精進落としの席では上座に座る習わしになっている。文書館の講師に古文書に記されている床とりについて何故別格なのかを質問をしたが、「民俗的なものでしょう」という応えしか返ってこなかった。――自分で調べるていくことにした。

Photo_2  日向野徳久著「栃木県の葬送・墓制」(「関東の葬送・墓制」に収録)の中に「床とり」のことの記述があった。

  日向野徳久氏は著書に「土葬の場合、県南の一部では、死者を埋葬する場所を葬儀当日午前中に施主が、墓穴予定地にゴザを置いてくると、組合の当番の者がこの墓を掘ることを床とり、あるいは床堀りといい、組合のなかから4人が選ばれる」と記している。そしてその役割とは、「床とりは、葬式組の役割のなかで最もぶく(穢れ)のかかりやすい役といわれ、大役である」としている。「床とり(穴掘り)の作業が終わって帰ると風呂が用意されていて、沐浴して身体を浄め、衣服も取り替えて、冷酒・塩と鰹節の削ったもの、それに冷奴で労をねぎらわれる。(略)埋葬終了後の浄めの宴(忌中払いともいう)では、床とり役が上座に着いて施主からお礼の言葉を受ける所もある」と床とりについて記載をしている。葬儀の中心の表舞台はお坊さんになるが、土葬時代の葬儀の中心的な役割が「床とり」であったことが少し理解できるようになった気がした。

563959921612x6121_2   「石工よりも船造りよりも大工りも、頑丈なものを作る奴は墓堀り人夫だ」と言いながらオフェリアの墓を掘る墓堀り人夫が登場する「ハムレット五幕一場」。墓からシャレコウベが放り出され、最後はハムレットを含めた登場人物全員の死で終わることが暗示されている場面である。

  昭和39年に俳優座による「ハムレット」日生劇場公演を姉に連れられて観ている。仲代達也のハムレット、透きとおるような声で歌う市原悦子のオフェリア。それと最も印象深かったは東野英治郎が演じた墓堀り人夫であった。ケラケラと小気味よい口調でハムレットを言い負かすその強さに感じるものがあった。この墓堀り人夫の役は東野英治郎の代表する役になっていることを後で知った。

  高校1年の時に観たこの「ハムレット」で日生劇場と演劇が好きになって、以後の私の人生に強い影響を与えた舞台公演であった。

004  私の住む集落にある共同墓地。同姓名の多い集落で一族の共同墓地から生まれていることを聞いている。昭和50年代頃までは土葬であったが、栃木市保健所より保健衛生上の問題から火葬葬儀にしてくれとの要請があり、土葬から火葬に替えたことを地域の古老から聞いた。以後、現在では火葬骨壺を墓石の下に納めるようになっている。しかし、かつての埋葬されていた共同墓地に立ってみると、土葬時代の墓地の雰囲気が漂い、地域で営まれてきた歴史の風習が匂ってくるような気がしてくる。

  今でも葬儀の際に隣保班として、葬儀場の受付と「床とり」と言われる棺の運びを行なう役を決めている。昨今の社会一般では地域の自治会では葬儀手伝をやめて、葬儀社が全部行うシステムへの移行が進んでいる。また、近隣住民の葬儀への関与がなくなったことにより、世間体を気にしない「家族葬」が増加してきているとも云われてきている。地域共同体において近隣住民と葬儀へ関わりが見直されてる時期にきているのかもしれない。

 集落の中心地にある共同墓地。亡くなってからも慣れ親しんだ地域の人々の近くでねむっていく。――ある面では幸福な終活と言えるのかしれない。

                                      《夢野銀次》

≪参考引用本≫

「皆川の歴史と文化」(平成27年3月、皆川地区街づくり協議会発行)/「傑岑寺の歴史」(平成21年9月建幢山傑岑寺発行)/「栃木市史民俗編」(昭和54年3月発行)/「栃木市史通史編」(昭和63年12月発行)/森謙二著「墓と葬送の社会史」(2014年5月吉川弘文館発行)/最上孝行敬著「詣り墓」(昭和55年4月名著出版発行)/日向野徳久著「栃木県の葬送・墓制」(昭和54年3月明玄書房発行、関東の葬送・墓制に収録)/震災ブログ「墓を掘り起した人々の記録」/ウィキベディア「皆川広照」

 

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コメント

銀次さん、ブログⅢ、届きました。ありがとうございます。
すごいですね、すごいと思います。

妻が今市生まれなので、拾い読みしてました。
お元気そうで何よりです。

私わけあって、定年前に早めに自主退職をして、ぶらぶらしています。なんか、元気をいただきました。

頑張ってください。

投稿: やまざき | 2018年10月 6日 (土) 21時47分

山崎さんコメントありがとう。お元気そうですね。
最近は人生は長いようで短いと感じる様になってきています。あせらずとも、やれることやっていこうと思っています。

投稿: 夢野銀次 | 2018年10月 7日 (日) 04時24分

 大変ご無沙汰しております。ブログⅢ受け取りました。ありがとうございます。
 取材の積み重ねを続けて貴重な資料として残る出版、おめでとうございます。とても充実した時をお過ごしのようで何よりです。

 私も残された時間、地域の人々との交流、豊かな自然に囲まれた
所での生活を楽しんでいます。

 お互い元気に過ごせるように、健康には気を付け頑張りましょう。      
 今月70歳になりました。こちらでは雪虫が飛び交い、間もなく長い冬を迎えます。

投稿: 夢美詩 | 2018年10月12日 (金) 20時35分

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