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2019年10月

西向天神社・花園神社の歌碑―藤圭子の歌に潜むもの

「新宿の女」歌碑のある西向天神社

  花園神社から明治通り新宿6丁目の交差点に進み、交差点を右折し、新宿文化センターの先の天神小学校の道なりに歩いて行くと西向天神社の石段が現れ、上ったところに西向天神社の拝殿が鎮座している。

 ここは新宿なのか?……と思えるほど樹木が覆い茂り静寂な雰囲気が漂っている。柔らかな神社の境内であると印象を受けた。

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新宿6丁目「西向天神社」

 社伝によれば安貞2年(1228)、高山寺を開いた明恵上人が、菅原道真自刻の尊像を持って東国に下向し、この地に社を創建したといわれている。西向天神社という名は、大宰府を向くかたちで、社殿が西に向いているため。また別名は棗(なつめ)天神ともいわれている。これは、寛永年間(1630年代)に三代将軍家光が鷹狩りに来た際に、荒廃していた社を見て、社殿等の修復のため金の棗の茶入れを下賜して再興を促したという伝承によるものと社伝に記されている。

 社殿並び左に別当であった大聖院があり、その境内駐車場に太田道灌の山吹里伝説で知られる「紅皿の墓」の板碑があった。

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紅皿の墓

  「紅皿の墓」は、もとは隣接する法善寺の崖際にあったが、江戸中期ころに崖崩れのために現在地へ移されてとガイドブック新宿区の文化財に記されている。

  紅皿は太田道灌に纏わる伝説に登場する少女。急な雨で雨具を求めた太田道灌に対して、山吹の花を差し出したといわれている。貧しく蓑すら差し出せなかった少女の行為は古歌を踏まえたものとのことで、それに気付かなかった道灌は、自分を恥じて歌道に精進するようになったといわれている。

 案内標識版には「太田道灌の死後、紅皿は尼になって大久保に庵を建て、死後その地に葬られた」と記されている。山吹伝説の少女の墓がここにあったとは、意外な発見をした。

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歌碑「新宿の女」

 平成11年(1999)9月25日に「~私が男になれたなら私は女を捨てないわ ネオンぐらしの蝶々にはやさしい言葉がしみたのよ バカだなバカだな だまされちゃて 夜が冷たい新宿の女 作詞・作曲石坂まさを 共作詞みずの稔 歌唱藤圭子」と刻まれた「新宿の女」の歌碑が、ここ西向天神社拝殿横の境内に建立されている。石坂まさをの作詞作曲生活30周年を記念して建立されたもの。

 歌碑の背面には建立の由来として「昭和44年(1969)9月25日『新宿の女』でこの西向天神社より2人の若者が旅立って行き、石坂まさをと藤圭子の名は時代を刻み伝説として語られるようになった。心生舎」と記され、建立者120人の氏名が記されている。

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 昭和44年(1969)9月、18歳でのデビュー曲「新宿の女」は思うように売れなかった。そのため伝説の「新宿25時間キャンペーン」を同年11月8日にここ西向天神社で出陣式を行い、藤圭子と石坂まさをは新宿の飲食街を25時間ぶっ続けで流して回る。出陣式には新聞社20紙、週刊誌16誌、ラジオ13番組、テレビ7番組を集めて、神主代行を初代林家三平が務めた(ブログ「東京とりっぷ」より)。

 翌年の昭和45年(1970)1月にオリコンチャートトップ10に初登場し、「演歌の星を背負った宿命の少女」として2枚目シングル「女のブルース」8週連続1位を獲得する大ヒットになる。さらに同年の4月に「圭子の夢は夜ひらく」、7月「命預けます」と立て続けに大ヒットを飛ばし、昭和45年、1970年の時代を刻む歌手になっていった。歌碑由来に記された「2人の若者が旅立った」といえる天神社に改めて参拝をした。

 幼い頃から浪曲師の父・阿部壮(つよし)、三味線女の母・竹山澄子の門付けに同行、旅回りドサ回りを送り、自らも歌った。17歳の時に『さっぽろ雪まつり』のステージで歌う姿がレコード会社の関係者の目に留まり、上京。錦糸町や浅草界隈で流しをしながら石坂まさをの指導を受ける。

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藤圭子昭和26年(1951)7月5日

 ~平成25年(2013)8月22日

 藤圭子のデビューに至る逸話がネット「ブログあさ芸プラス」に記されている。

 「レコード会社は7社落ちたし、NHKの『のど自慢』には13回も落選した。あの声が荒削りだと敬遠されたと石坂まさをから聞いた。担当ディレクターを務めた榎本襄が、『当時のレコード業界は、大きな声で歌うと怒られるという風潮。藤圭子の最大の魅力である『ドスの効いた声』は、老舗のレコード会社に受け入れられなかった。弱小メーカーからデビューが内定していたが、『RCA』に切り替えてデビューにむけて石坂の猛烈な売り込みが始まった。新聞社や雑誌社に圭子を連れて行って、その場で歌わせる。うまくいかなかった時は、人通りの多い横断歩道だろうとどこだろうと、石坂はすぐに殴るだよ』と榎本の目には圭子は『猿回し』のようにも映った」と記している。

 石坂まさをと藤圭子にとりデビューに向けての激しい葛藤があったことが伺える。西向天神社から明治通りを横切り、ホテル街から歌舞伎町界隈を歩き、花園神社に向かう。西向天神社から歌舞伎町へは意外に近いことが分かった。時は1970年を迎え、時代に挑戦するかのように藤圭子は旅立っていった。

「圭子の夢は夜ひらく」歌碑のある新宿花園神社

 明治通り側から花園神社に入る。本殿前の境内では江戸時代から芝居興行が盛んな神社であった。境内に入る右側に「芸能浅間神社」が鎮座している。日本神話に登場する美女の女神、木花之佐久夜昆売(このはなのさくやひめ)を祭神としている。芸能関係のご利益あるとされ、多くの芸能人が訪れている。

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新宿5丁目『花園神社』

 昭和42年(1967)8月、唐十郎の主宰する「状況劇場」がここ花園神社境内に紅テントを建て、『腰巻お仙・義理人情いろはにほへと篇』を上演した。紅テントという異様な公演は当時の若者に強い衝撃を与えた。しかし、公序良俗に反するとして地元商店連合会などから排斥運動が起こり、ついに神社総代会より神社境内の使用禁止が通告された。昭和43年6月『さらば花園』と題するビラをまき、状況劇場は花園神社を去った(ウキペディアより)。

 私が紅テントで状況劇場の芝居を観るようになったのは新宿西口東京都庁建設予定地や上野不忍公園での公演からであり、花園神社での芝居興行は観ていない。李礼仙、麿赤児、根津甚八、不破万作など全身で体ごとぶつかっていく演技は、演劇の亜流といわれながらも昔から流れる日本人の芝居の原点を彷彿させていたと思っている。…今でも花園神社での芝居興行を観られなかったのが残念無念だと思っている。

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「芸能浅間神社」

 花園神社境内にある芸能浅間神社敷地内に「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑が建立されている。平成11年(1999)12月19日に石坂まさを作詞作曲30周年を記念して建立されている。西向天神社の歌碑が3か月前の9月に建立。2基の歌碑が続いて建立されていることになる。その理由は分からない。

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歌碑「圭子の夢は夜開く」

 歌碑には次のように刻まれている。

 圭子の夢は夜ひらく   作詞石坂まさを 作曲曽根幸明

 赤く咲くのはけしの花 白く咲くのは百合の花 どう咲きゃいいのさ

 この私 夢は夜ひらく

 十五 十六 十七と 私の人生暗かった 過去はどんなに暗くとも

 夢は夜ひらく

 歌碑背面には発起人として石坂みき、榎本襄、海老名香葉子、大下英治、なかにし礼、星野哲郎、船村徹、山上路夫等18人の氏名と協賛会社、協賛者が記載され、小田天界代表世話人と3人の幹事名が記されている。

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 赤く咲くのはけしの花…遊女の姿、白く咲くのは百合の花…花嫁御料の姿が思い浮かんでくる。十五 十六 十七と私の人生暗かった…少女が遊女に身売りされるのが15歳。江戸から昭和にかけて10年の年季奉公として身売りされた少女たち。年季奉公が終っても身も心もボロボロの廃人となり大多数の遊女は25歳で亡くなっていった。江戸時代の飯盛旅籠の飯盛女の人世の姿が浮かんでくる。時代にのまれながらも人生の底辺を生きていく歌になっている。

 「歌いつがれて25年 藤圭子演歌を歌う」 

 父親と母親の浪曲世界と流しできたえた藤圭子の歌の真髄を最近、聴くことができた。昭和45年(1970)10月23日の渋谷公会堂でのコンサート「歌いつがれて25年藤圭子演歌を歌う」の録音をユーチューブにて配信されていた。19歳の藤圭子がライブステージ上で20曲全曲をフルコーラスで歌う世界に藤圭子の凄さに強い感銘を受けた。

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25年間の演歌を歌う藤圭子

 ステージでは次の25年間の曲が歌われている。「圭子の夢は夜ひらく(昭和45年)」から始まり、「リンゴの唄(昭和20年)」、「なくな小鳩よ(昭和22年)」、「港が見える丘(昭和22年)」、「星の流れに(昭和22年)」、「銀座カンカン娘(昭和24年)」、「カスバの女(昭和30年)」、「好きだった(昭和31年)」、有楽町で逢いましょう(昭和32年)」、「南国土佐を後にして(昭和34年)」、「黒い花びら(昭和34年)」、「潮来笠(昭和35年)、「アカシヤの雨がやむとき(昭和35年)」、「出世街道(昭和37年)」、「お座敷小唄(昭和39年)」、「網走番外地(昭和40年)」、「女のためいき(昭和41年)」、「池袋の夜(昭和44年)」、「長崎は今日も雨だった(昭和44年)」、「命預けます(昭和45年)」を最後にする構成になっている。

 藤圭子の歌うこれらの曲を聴きながら次の想いが沸いてきた。「あかいリンゴ」はアジア太平洋戦争で亡くなって300万の人たちを見つめながら歌う曲になっている。「泣くな小鳩よ」では特攻隊として飛び立っていく兵士の姿が浮かんでくる。「あなたと歩いた港の見える丘」では戦死した恋人を想いながら歩く女性の姿が…。なかでも「南国土佐を後にして都へきてから」の都を「~中支へきてから」と置き換えると中国戦線で歌われたという「南国土佐を後にして」の本来の歌になって聞こえてきた。焚火を囲み歌う兵士たちの姿が浮かんできて涙が滲んできた。「アカシヤの雨がやむとき」をフルコーラスでじっくり聴くことができた。3番歌詞の「~アカシヤの雨が止む時 青空さして鳩が飛ぶ むらさき羽の色 それはベンチの片隅で冷たくなった私のぬけがら あの人をさがして遥かに飛び立つ影よ」…聴いていてゾットしてきた。女の怨念が影となって飛ぶ鳩になってくる。カバー曲でありながら藤圭子自身の持ち歌として歌っている。そこには,はりのある高音の響きと胸に突き刺すドスのある低音から死者たちの思いが歌霊になって現れてきているような気持ちになってくる。1970年という時代を突き進んだ稀有な歌手であった。

 藤圭子が石坂まさをに弟子入りするときに唄った曲が「星の流れに」と「カスバの女」。そして小学5年生の時にドサ回りステージで父親の代わりに急遽唄った曲が「出世街道」であったと石坂まさをは著書「きずな 藤圭子と私」に記している。しかし、20曲の中に古賀政男、船村徹、遠藤実の曲がなく、吉田正の曲が3曲入っている。何故なのか?藤圭子が19歳で歌った歌謡曲の中に潜む本質的なものは何なのか。…分からない。

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 歌の明るさと生きていく姿をステージ一杯に繰り広げた美空ひばりの歌声は広く華やかである。藤圭子の歌には一直線に人の胸に迫り、響いてくる。「命預けます」は相対死の歌に聴こえてくる。

「命預けます」 作詞・作曲石坂まさを 唄藤圭子

 ~命預けます 流れ流れて東京は 夜の新宿花園で やっと開い

  た花一つ そんな女でよかったら 命預けます

 ~命預けます 嘘もつきます生きるため 酒も飲みます生きるため

  すねるつもりはないけれど こんな女でよかったら 命預けます

 ~命預けます 雨の降る夜は雨に泣き 風の吹く日は風に泣き

  いつか涙も枯れはてた こんな女でよかったら 命預けます

 昭和44年(1969)の10月21日、私は機動隊に突撃する部隊に加わることになった。検挙されることは覚悟した。一つ下の学友が一緒に突っ込みたいと言ってきた。「あなたといきたいからです」という理由であった。「兄弟、生まれる時は別個だが、死ぬ時は一緒だぜ」という池辺良が共に殴り込みにいく時、高倉健に言うセリフの世界でもあった。胸が熱くなった。結局は新宿花園神社近くの明治通りで機動隊にぶつかり、検挙されることもなく私の学生運動は終わった。以後の内ゲバ世界には関与することはなかった。

 全共闘運動といわれたその時代は、理屈ではなく心情がエネルギーになり体を突き動かしていった時代であった。あれから49年の歳月を経て、「歌いつがれて25年藤圭子演歌を歌う」を聴き、19歳の藤圭子の歌声は一直線に私の心根に響いてきた。そんな歌手に今始めて出会うことができた。ありがとう藤圭子。

                           《夢野銀次》

≪参考資料≫ウエブネット「ブログ東京とりっぷ」/「ブログあさ芸プラス」/ネット電子書籍から石坂まさを著「きずな藤圭子と私」(文芸春秋社)

 

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