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2019年11月

生きていく姿が光り輝くー映画「キューポラのある街」から

自分の進路ー「学ぶこと」とは

201607241539501~苦しい時には見つめてみよう 仕事に疲れた手のひらを

~一人だけが苦しいんじゃない みんなみんな苦しんでる

~話してみようよ語り合おうよ 積もり積もった胸のうちを

(「手のひらの唄」昭和31年作、詞:伊黒昭文・曲:寺原伸夫・昭和39年に坂本九がレコード化)

 トランジスター工場内を案内説明した女工(吉行和子)は食堂でジュン(吉永小百合)に、「働いて勉強するってね、(定時制高校)面白いわよ。学校にいろんな人が集まるでしょう。だからみんなで助け合うのね」と、昼休み「手のひらの唄」を合唱する職場のコーラスの歌声が聴こえてくる。合唱する女工たちを見つめるジュン。 

 「♪悲しい時には見つめよう 汗にまみれた手のひらを」と歌いながら商店街を自転車で帰宅するジュン。そこには自分の進路(就職して定時制高校に通うこと)を決めたジュンの15歳の少女の明るい笑顔がある。

1387372523545223002261  昭和37年(1962)4月公開の吉永小百合主演の日活映画「キューポラのある街」をDVDで観る。

 監督はこの作品がデビユー作品となる浦山桐郎。原作は早船ちよ、脚本は浦山桐郎と師の今村昌平との共同執筆。ブルーリボン賞作品賞受賞作品。キネマ旬報ベストテン2位。主演の吉永小百合もブルーリボン賞主演女優賞などを受賞し、大きく飛躍するきっかけになった作品。浦山監督も、この作品で第3回日本映画監督協会新人賞を受賞した。

 中学3年の石黒ジュン(吉永小百合)は、鋳物工場の直立炉(キューポラ)が立ち並ぶ埼玉県川口市の鋳物職人の長女。高校進学を目指すジュンだが、職人気質の父・辰五郎(東野英次郎)が工場を解雇されたため、家計は火の車で、修学旅行に行くことも諦めていた。

Imgp31811  自力で高校の入学費用を貯めようと、パチンコ屋でアルバイトを始めるジュン。担任の原田先生(加藤武)の助力で修学旅行に行けることになった。

 しかし、ようやく 再就職した父親は、待遇不満で仕事をやめてしまった。絶望したジュンは女友達と遊び歩き、危うく不良少年たちに乱暴されかかる。

 ジュンや弟のタカユキ(市川好郎)が親しくいている級友の一家が北朝鮮に帰還することになり、そこでの一家の苦悩する姿や、貧しくとも力強く生きる人々との交流を通じて、ジュンは、就職、自立して働きながら定時制高校で学んでいくことに意義を見出していく(ウキベディア参照)。

03311   映画の冒頭、荒川の鉄橋を電車が大宮に向けて走るシーンにナレーションが重なる。

 「今や世界第1になったマンモス東京の北の端から荒川の鉄橋をわたるとすぐ埼玉県川口市につながる。河ひとつのことながら、我々はこの街の生活が東京と大きな違いを感じる。500を数える鋳物工場。キューポラという特色ある煙突。江戸の昔からここは鉄と火と汗によごれた鋳物職人の街なのである」と川口市内を見下ろしながらキューポラの見える荒川土手道を中学に通う生徒たちをバックにメインタイトル『キューポラの街』が映し出される。

 今村昌平とともに「幕末太陽伝」の助監督を務め、日活を退社していた川島雄三監督に浦山桐郎はどうしても試写を見せたく、探し当て見せることができた。見終わった川島雄三は、「俯瞰(ふかん)のカットが4つばかりありましたが、あれはいけない。みだりに人を俯瞰してはなりません」と語り、細かく演出について批評した(田山力哉著「夏草の道」より)。

P61300381  「俯瞰」とは上から人を見下ろすという意味がある。そのシーンが4つあると川島雄三は批評している。川口市街地を見下ろすシーンなのか?登場人物を見下ろしているシーンがどこなのか?…私にはわからない。

 この作品を観ながら、一つ一つの画面に真剣に向き合って撮っている監督以下スタッフ、出演者たちの厳しい姿勢、真剣さがひしひしと伝わってくるのを感じた。とりわけ、吉永小百合の目の鋭さと走る姿の足の太さが印象に残った。回りの環境やそこに生きる人々を見つめ、自分に負けないで生きようとする少女の表情が良い。

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  修学旅行にいかず、学校へも登校しなくなったジュンに担任の野田先生(加藤武)は、「勉強したって意味ないもの」と言ったジュンに、「生意気言うんじゃないよ。受験勉強だけが勉強だと思ったら大間違いだぜ。高校へ行けなくとも勉強はしなくちゃいかんのだ」と怒り、こう諭す。

 「いいかジュン。働いても、何やってもだな、そんな中から何かを掴んで理解して、付け焼刃でない自分の意見を持つ。そいつを積み重ねていくのが本当の勉強なんだ。定時制へ行ったっていいじゃないか。それも行けなきゃ通信教育受けたっていい。気持ちさえありゃ何処でどうやったって勉強できるんだ」と、仕事を通して学んでいくこと、生涯教育の本質を語る野田先生。早稲田大学を卒業後、文学座に入る前の一年間、大久保の中学校で英語教師をしていた加藤武ならではの語りに説得性を感じた。

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 授業の作文の中でジュンはこう綴る。

 「わたしには解らないことが多すぎる。第一に貧乏なものが高校へ行けないということ。今の日本では中学だけでは下積みのまま一生うだつが上がらないのが現実だ。下積みで貧乏でケンカしたり酒飲んだり、バクチを打ったり、気短かで気が小さく、その日暮しの考え方しかもっていない。みんな弱い人間だ。もともと弱い人間だから貧乏に落ち込んでしまうのだ。すると貧乏だから弱い人間になってしまうのか。わたしにはわからない」

 わたしが中学を卒業するときに担任の先生は、「いいか、同窓会は20年間開かないこと」と言った。どうして?そして…そうか。と頷いた。当時、50名いたクラスの中で半数が就職者であった。進学組とのギャップを埋めるには相当の年月が必要なのだと、その先生の言った言葉が今も残っている。

北朝帰還事業ー離散する家族

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 川口駅前で北朝鮮に帰る人たちへの歓送会が映し出される。ジュンとタカユキ姉弟は級友のヨシエ(鈴木光子)と弟のサンキチ(森坂秀樹)を見送りに来る。しかし、北鮮に共に行かぬ日本人母親(菅井きん)がサンキチに会いに来た時に、会うのをとめるヨシエらの姿をジュンは見つめる。そこにはつらい家族たちの姿が描かれている。

 1950年代から1984年にかけて在日朝鮮人とその家族による日本から北朝鮮への集団的は帰還事業が行われた。この時期、在日朝鮮人も生活に困窮する者も多かった。生活保護者の削減や犯罪の削減を背景として日本政府や政党などもこの帰還事業をすすめ、日本人妻2000人を含め、10万人近くが北朝鮮に帰還したといわれている。

 新潟行きの列車の中でサンキチは母親を恋しがり泣きじゃくる。在日朝鮮人の父親(浜村純)は、「母ちゃんと暫くいろ、そして来たくなったらいつでも来いよ、俺、働いて住みよくしとくから」と言って、大宮駅からサンキチを川口に帰す。しかし、母親は別の男と結婚し、すでにいなくなっていた。あれから50年の歳月がたっている。帰還した人たちはどうしているのか?

E2c578731   牛乳を盗んでいたタカユキとサンキチは牛乳配達少年に見つかる。小舟で逃げる二人に川ふちから、「馬鹿野郎、お袋が病気だからアルバイト(牛乳配達)やってんだぞ。畜生、お前らのお陰でよ、お前らのとった分だけ店からひかれて、俺ア一銭にもなんねえんだ。薬も買えねえ時だってあるんだぞ。馬鹿野郎!」と叫ぶ。タカユキが「銭払いやいいんだろう」と言い返すと、少年は「畜生!銭なんかで…恥ずかしくないのか、お前ら!」。

 ――ぐさりときてうなだれる二人。貧しくとも恥ずかしくないのかというセリフには人としての誇り、尊厳に突き刺さってくるシーンである。

 川口駅見送りの改札口でサンキチはタカユキに、「二人で飲んだ牛乳代、これで返してくれ」とお金を渡す。受け取ったタカユキも「辛いけど謝っておく」と言う。笑顔で見合わす二人に何故かホットしてくる気持ちになってくる。

「考える少女」から「頑張り続ける女優」

Cltqsevyaeuddw1 ジュンが職場見学から家に帰ってくると、ひさしぶりに笑いながら酒を克己(浜田光夫)と酌み交わす父親(東野英次郎)と母親(杉山徳子)がいた。父親が元の職場に復帰することが決まった祝いの酒であった。「これも組合のお陰なんだな。ジュン県立高校へ行けるぞ」と話す父親にジュンは働いて定時制高校に行くことを告げる。高校進学をすすめる父と母にジュンはこう言うのだ。

 「あたいは父ちゃんに頼らなくてもいいような生活をたてるつもりなの。これ(就職して定時制高校に行くこと)は家のためっていうんじゃなくて、自分のためなの。たとえ勉強する時間はすくなくても、働くことが別の意味の勉強になると思うの。いろんなこと、社会のことや何だとか。そしてその日暮しじゃなくて、何年でこうするという計画をたてて生活したいの」。

 これを聴いた克己は、「そうか、おばさん、偉えやジュンは、しかしお前よくそういうこと解ったもんだな、よっぽど考えたんだな」と感心する。ジュンは「いろいろな人が教えてくれたのよ、まわりの人みんながさ」と照れながら笑顔で話すジュン。

C100_33urayama1  監督浦山桐郎は吉永小百合をジュンの役に起用するという日活の方針にイメージに合わないとし、不満であった。そこで撮影に入る前に吉永小百合に会う。「貧乏というものについて考えてごらん」と突き放すように吉永小百合に言う。吉永家の生活を支えている16歳の吉永小百合にとり「貧乏」とは最も得意とするところであった。やがて撮影の中から吉永小百合の頑張る姿と演技にジュンの役柄を固めていった。

 この子(吉永小百合)の一番いい点は真面目に考えることであり、そこでジュンを考える少女という面でつくってみようと私は思ったからである。役に対する固定観念を俳優に押し付けないで、俳優の内部から出る本気の表情をもとにして役をつくって行く方法を確立していく(関川夏央著「昭和が明るかったころ」より)。

 以後、浦山桐郎は「非行少女」の和泉雅子、「青春の門」の大竹しのぶなど新人女優を掘り出していく監督として評価されるようになっていたが、54歳の若さで亡くなる。

190px1  実際の吉永小百合も石黒ジュンと同じ道筋を歩んできた。家計を支えるための女優業で高校を卒業することができなかった。そのため、20歳の時に早稲田大学の資格認定試験を受験、難関を合格して、昭和40年(1965)の3月に早稲田大学第二文学部史学科を受験し、合格する。多忙な俳優業をこなしながら大学に通い学んでいく。そして、昭和44年(1969)3月に卒業する。卒論は「アイスキュロス❝縛られたプロメテウス❞とアテナイ民主政についての一考察」であったという。

 仕事をしながら学んでいこうとする石黒ジュンの姿勢は、そのまま「吉永小百合」としての「考える少女」から「頑張る女優」になっていく姿に重なってくる。浦山監督が見通した通りの女優を今日まで持ち続けているといえる。

Hqdefault2  サンキチが北鮮に向かう朝、ジュンとタカユキは川口の陸橋からサンキチの乗る列車を見送る。就職試験に向かうジュンと新聞配達をするタカユキ。二人が川口の陸橋を走るところで映画は終わる。 

 その時代を必死に生きていく姿を描いた映画は色褪せることなく、時代を超えて私に訴えてくるものがあると教えてくれた映画だ。

 昭和30年代頃から活躍した女優が姿を消していく中で、吉永小百合だけがどうして現在も主演映画を撮り続けられるのか。「吉永小百合の映画は面白くない」「パッとしない」「人気を支えているのは団塊の世代のサユリストたちだ」など批評や意見も聞かれる。それでも主演映画を撮り続ける、その頑張りに凄さと本気で生きることを感じる。「北の桜守」の中でのトラック荷台でおむすびをほうばるシーンなど必死に生きる姿が描かれいる。いつまでも頑張って光り輝く女優であって欲しいと願う。

                         《夢野銀次》

≪参考資料本≫

田山力哉著「夏草の道 小説浦山桐郎」(1993年1月講談社発行)/関川夏央著「昭和が明るかった頃」(2002年11月文藝春秋発行)/シナリオ協会編「日本シナリオ大系4」(昭和49年5月マルヨンプロダクション発行)

 

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壬生城下ー雄琴神社と利鎌隊を歩く

 壬生氏と壬生城址公園

Pb040135  壬生氏の祖、壬生胤業(たねなり)が寛正3年(1462)に京都の壬生(本姓小槻 )宮務家より下野 に下向して現在の城の北東「堀之内」に居を構え、2代目壬生綱重が現在地に城を築いたといわれていた。

 しかし、「壬生町史」では、祖の胤業の出自が壬生官務家ではなく、宇都宮一族であったという説が有力であると記されている。中世の壬生氏出自についての謎については魅力ある地域史研究対象であることも添えられている。壬生地域を支配する際に出自を京都官務家に頂くことは効果のある対策でもある。歴史の謎解きとして、壬生胤業について調べていくのも面白い。

Pb190073 天正18年(1590)に小田原北条氏は豊臣秀吉によって滅亡した。同じく北条に与した壬生氏も壬生城を接収され、壬生義雄(よしかつ)も没して滅亡する。

 江戸時代には城主が目まぐるしく変わり、正徳2年(1712)に近江水口より鳥居忠英が3万石で壬生に移封する。以後、鳥居家8代の居城として明治維新を迎える。

 現在の壬生城城跡地は平成元年に南門の復元。本丸南半分の土塁には石垣が積まれて水が張られ橋が架けられているなど整備された城址公園になっている。本丸跡内には、中央公民館、図書館、町立歴史民俗資料館があり、町の文化の核になっている。

Pb130015 城址公園内駐車場に車を停め、南門から東の方向に歩いていく。蘭学通りに面した足利銀行前には「大手門跡地」の標識案内板が設置されている。

 案内板には壬生城下の絵図(五街道其外延絵図 日光道中壬生通巻1)と大手門模型図(壬生町歴史民俗資料館展示)が載っている。

 この大手門は壬生城主松平輝貞の時代(元禄5年1692~元禄8年1695)に城の南口から東側に移したものとされている。舟運の黒川河岸に通じる船町通りと連絡をとりやすくするためともいわれている。絵図には、大手門前に堀をめぐらし、白壁がめぐらされていて丸馬出になっている。馬出の前は広小路になっていることが判る。

Pb040082  杉浦昭博著「近世栃木の城と陣屋」では、「日光街道に面した大手門の華麗な雄大な姿を旅人は驚嘆の眼差しで眺め、特に雪の朝日に輝く風情は見事であった」と紹介されている。

 実際の大きさで大手門が復元されたら素晴らしいだろうなと勝手な空想をしてみた。

戊辰戦争ー壬生城下の戦い・黒川の河岸

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  慶応4年(1686)4月22日の未明、豪雨の中で壬生城下から近い安塚村において姿川を挟んで新政府軍と旧幕府軍との戦闘が始まっていた(戊辰戦争安塚の戦い)。同日の明け方には旧幕府軍の別働2小隊が壬生城下に侵入し、大手門、船町通り、雄琴神社裏周辺で壬生藩兵と戦闘があったことが壬生町史に記されている

 壬生町史には、「同日の明け方、旧幕府軍伝習隊二大隊の内7・8番の両小隊が黒川を渡河し壬生町に迫った。壬生藩兵は大手口の兵隊の内、物頭小笠原甚三郎は組の者を率いて船町に出動、中筒奉行は中筒士を率いて雄琴神社の裏に出動。敵兵との間で接戦を闘い、死した」。壬生城内にいた新政府軍はすべて安塚に出陣しており、城内は壬生藩士のみだったといわれている。

Pb130030 さらに町史には「壬生藩兵劣勢の中に城中に引き揚げる。大鳥勢(旧幕府軍)は町の家4,5軒に放火したが、豪雨のため燃え広がらなかった。大胆な者が大手前の藤屋安兵衛の宅に放火したところ、城内の壬生藩兵が射殺した。大鳥勢も後続勢がないため、また安塚の報を聞いて、背面を襲おうと計画、軍を反して4,5町進んだところで土佐藩負傷兵3人と出会って、これを殺害(略)、新政府軍が壬生に帰るところにあって、 隘道(あいどう)を経て帰陣した」と記されている。

 大手門跡地前の向いに雄琴神社、黒川と続く船町通りがある。船町という町名はなくなっているが、よく整備された道路になっている。歩いていると新しく整備された通りでも、どこか深い歴史の雰囲気が漂ってくる。歴史散策の面白いところだと思えてくる。

Pb040097  雄琴神社の先には思川に合流する黒川が流れている。壬生町舟運の五河岸(河岸問屋各1軒)の一つ、中河岸があった処だ。正徳明細帳には中河岸について「雄琴大神社馬場先六、七十間隔処に河岸あるをいう」と記され、6艘の舟(部賀舟)があるといわれている(ウエブ「壬生町地域史デジタルアーカイブ」より)。

 黒川の中河岸は雄琴神社から約120メートル先に1軒の河岸問屋と河岸があった。壬生河岸の舟運は鹿沼ブランドといわれた木材で江戸では大変な人気であったという。小さな筏で木材を小山の思川乙女河岸に運び、そこで大きな筏に組み直し江戸へと運んだ。

 この辺りから旧幕府軍が黒川を渡河し、雄琴神社本殿の裏を伝い壬生城大手門前に迫る処で壬生藩兵と戦闘が行われたのだなと推測をする。

雄琴神社と利鎌隊の結成

Pb040103 11月15日前であっても晴れ着をした「七五三詣り」親子の姿が見える雄琴神社。子をもうけなかった私にはちょっぴりうらやましい光景に映ってくる。

 「七五三詣り」は子どもの死亡率が高かった時代、節目の年齢に成長できたことに感謝する神事。7歳までは神様の子で、ここでようやく自分の子になったことを慶ぶ日ともいわれている。「七五三詣り」の日は徳川綱吉時代に鬼宿日(鬼が宿にいて出歩かないので邪魔されない日で大吉とされる日)で縁起の良い11月15日にしたことが由来とされている。

Pb190070  古来、雄琴神社は壬生郷の鎮守として藤森神社と称されていた。戦国時代、壬生に初めて城を築いた壬生胤業が江州雄琴に鎮座する壬生氏の祖、小槻今雄公の分霊を合祀し、社殿を建て替え、社号を雄琴神社と改めたとされている。

 壬生胤業の出自については疑問が呈されているが、旧壬生家臣団にとり、壬生家とのつながりを現す神社であったともいえる。徳川時代には底辺に流れる旧壬生家臣としての誇りが脈々と繋がっていくその拠り所が、常楽寺にある壬生氏の墓所と雄琴神社ではなかったのではないだろうか。

Pb040113 雄琴神社社殿の左横に黒川神職家の居宅がある。 御門の右前に「下野勤皇 利鎌隊 結成の所」と刻字された石塔碑が建っている。石塔碑の側面には、「戊辰戦争に当たり東征軍有栖川熾仁(たるひと)親王より「帝道維一」の旗を賜り下野国神職が利鎌隊を結成して治安に活躍した」と記されている。背面には、「明治維新百五十年 平成三十年九月吉日 黒川家二十六代 正邦」としている。

 昨年の建立でまだ新しい石塔碑だ。

Pb040114  「記念石碑は関係した下野の神社を中心に利鎌隊関係者の子孫の方々に寄付をお願いして建てたものです」と社務所に居合せた現在(28代)の雄琴神社神主の黒川正邦神職が私に話しをしてくれた。

  黒川正邦神職の祖父、26代黒川直宮司が昭和15年7月1日に「利鎌隊紀」を発行し、以後の「草莽隊・利鎌隊」研究の貴重な資料本になっている。黒川正邦神職は記念石塔碑建立と合わせて「利鎌隊紀 復刻版」を発行している。この「復刻版」を私はいただくことができた。

 「復刻版」を渡す際に、「栃木警察に利鎌隊の鉄砲が没収されているのです。火縄銃なら没収されなかったらしいです。今なら文化財として利鎌隊が使用した銃として貴重なものになった筈なんですけどね」と利鎌隊の遺品が少ないことを悔やんでいるように見えた。

Photo_20191119132901  「利鎌隊は、慶応4年(1868)に起きた戊辰戦争の最中に、下野国において神職によって組織された『草莽隊』である。利鎌隊結成にを主導したのは、壬生藩領内の雄琴大明神神主黒川豊麿であった」と宮間純一は論文『戊辰戦争期における『草莽隊』の志向」で利鎌隊を規定している。

 草莽隊とは「草莽の在野を意味し、幕末~明治維新期に浪士、郷士、豪農、豪商、学者、神官、農民などが自分たちの費用で結成した隊」と百科事典に記述されている。自ら進んで参加、結成した軍事組織でもあるといえる。

 慶応4年(1868)の3月から4月にかけて下野国は安塚村から始まった世直し一揆、戊辰戦争小山の戦い、宇都宮城攻防戦、安塚の戦い、今市の戦いと地域住民を巻き込んでの争乱が続き、社会不安が拡大していた。こうした情勢を受け、前年に京都の有栖川宮家に「斥候方」と出仕していた雄琴神社の神主を務める25代黒川豊麿神職は東征軍とともに江戸から壬生に帰国した。

Photo_20191119132902  江戸期から神職を支配していた江戸吉田家本所より神職隊結成が促されていた。この戊辰内乱期に神職によって結成された草莽隊は、遠州報国隊、豆州伊吹隊、駿州赤心隊、吉田御師集団の蒼龍隊、安房の神風隊と数多いとされている。

 旧壬生家臣団の流れをくむ黒川豊麿はこれら各地の神職隊結成の動きを見て、下野国の不安情勢の中で治安維持部隊として武力の神職草莽隊結成を決意したのではないかと思える。

 豊麿は壬生藩における吉田家本所(神道家元)の触頭であり、4月に入り豊麿を中心に草莽隊結成の呼びかけを行い、準備が進めてきた。しかし、会合への参加者が少なく結成が難しい状況であった。こうした中、5月15日の上野彰義隊戦争に黒川豊麿ら有志達が有栖川の許に赴き、「斥候」として働き、首領株の者を打ち取った。その恩賞として有栖川宮直筆の「帝道維一」と黒鹿毛一頭を下賜された。また、3月には神社・神職の支配が吉田家本所から新政府の神祇官に一元化され、神職たちに動揺が広がってきた。6月に入り、吉田家本所より「神職隊」結成の廻状が届くことにより神職隊結成の動きが俄かに高まった。

Photo_20191119133001  この廻状に応じて、8月21日に家中村(栃木市)鷲宮大明神神職菱宮紀伊方に参集して「利鎌隊」と名付け、9月に東征大総督参謀に「祝詞の神文に因み利鎌隊と相称し、残賊の奴輩を相除き申度奉存候」として、隊員の名簿と結成の目的を記した願書を提出した。希望した有栖川宮親王の守衛は認められなかったが、9月5日に利鎌隊の結成が正式に認められた。

 隊は黒川豊麿を隊中取締として長士(隊長)を置いた一番隊から十一番隊迄あり59人の隊員で構成されている。隊員の出身郡では都賀郡41人が最大で、ついで安蘇郡が8人、寒川郡と河内郡が各4人、塩谷郡1人、不詳1人となっている。身分は神職が44人と圧倒的であり、復職神主が4人となっている。

 影山博義氏は著書「栃木県神社の歴史と実像」の中で、「利鎌隊が短期間にこれだけ多くの神職を集結させ得た理由は何か。後に利鎌隊は日光県との間に紛争を抱えるが、その理由のひとつが『士装帯剣』である。このことは、利鎌隊に結集した神職たちの上昇志向すなわち武士身分への並々ならぬ願望があったことを窺わせている」と記している。

 隊の名称の利鎌は、祝詞「大祓詞」の中の「焼鎌の利鎌を以て打ち掃う事」から武力を念頭においた神職隊である。目的は野州地域の「残賊」追討であることから10月末には鉄砲20丁を購入し、一組2挺ずつ配分している。しかし、具体的に利鎌隊として隊列を組み残賊を討伐したことなど著書から読み取れず、よく分からないのが感想として残る。

日光県との確執から利鎌隊解散

Pb140066  戊辰戦争内乱状態がほぼ終結した10月24日に東征大総督府が解散した。利鎌隊の後盾が無くなり、あわせて山梨の神職隊「蒼龍隊」も解散するなど、利鎌隊の団結、維持の難しさが浮き彫りになってきた。

 以下、解散までの流れを、宮間純一・影山博義の著書を参考に記述する。

 11月5日に利鎌隊は下野知県事日光出張役所に平柳村(栃木市)の星宮神社神職林和泉方に「文武稽古所」設立の懇願をした。設立の目的は「脱走のもの共も不少哉に相聞候間、当役所之御差図に随い、非常の節は御皇恩之片端をも奉報度存候」と武力を重視する姿勢であった。そのためこの要請は許可を得ることができなかった。9日に「今後は古学之主趣を会得」し、「非常之節には御役所御指揮に随い、身命を擲而尽力」したいとして改めて稽古所「文武修練所」の開設を願い出て許可される。

Pb140063   しかし、この時期から隊内での不協和音や隊内の乱れ、近隣から鉄砲修練や帯刀した隊員の態度などの苦情が寄せられていた。さらに管轄地支配の安定化を図ろうとする下野知県事役所としては独自の軍事力を有する利鎌隊が目障りな組織隊になってきていた。

  危機感を持った黒川らは明治元年12月20日に「稽古所」の移転希望を下野知県事役所(日光出張所)に提出する。移転希望地は同知県事の支配地の西方郷古村としたのは知県事の後盾を望んだからでもある。しかし、この願いは採用されず、逆に下野県知事役所より「利鎌隊員の態度宜しからず、衆民の評判が悪い」と叱責される。

Dscf22681  利鎌隊として組織の存続を計るため会合を重ね、軍事組織から教導機関に衣替えをし、規約改正、隊号の停止、屯集所を「都賀郡講舎」に改めることを決めた。

 そして翌年の明治2年(1689)5月21日に日光県(明治2年2月21日設置)へ講舎設立の願書を届けた。翌5月22日に青木幸躬(下南摩村・講舎知事)と刑部善十郎(家中村-鑑察役)は日光県に出頭し、届願いを陳述した。

 対応した日光知県事役所、元日光同心の村上銕四郎から「百姓と記し乍ら士装帯剣御玄関より参上候段如何の心得に候哉」と叱責され、青木は「手錠宿預け」、刑部は「村預け」、豊麿も「組合預け」の処罰を受けた。6月に高橋山城と福田斎宮が嘆願書を持って日光知県事に出向いたが認めらず、むしろ隊の解散を命じられた。

 日光知県事役所で利鎌隊に対応し判断を下した同心3人は日光奉行所の下級役であり、維新後に日光県下吏として登用されていた者。彼らには神職は百姓と同じ身分の「卑賎之者」という認識があり、「士装帯剣」を保持しようとする利鎌隊に身分秩序を揺るがす危険な存在として映った。

 こうして明治3年(1670)1月5日に鈴木慎三郎(磯村・磯山大明神宮座)、青木幸躬、黒川豊麿の3人は利鎌隊解散の書状を隊員に通知し、1月12日に解散式を行い、利鎌隊はわずか2年で解散した。

 宮間純一氏は、「利鎌隊は、運動理念が突出した非現実的なものであったがゆえに新政府に抑圧されたのではなく、身分的秩序を保持しようとした(日光奉行所)旧同心に解散に追い込まれたといえよう。その背景には、軍事活動を媒介とした各身分間の秩序変動を急速に進めた戊辰戦争の社会情勢があった」と身分秩序の保持が利鎌隊解散の要因になっているとしている。武士への羨望、憧れは幕末動乱から戊辰戦争へと参加、従軍していった者たちにとり大きな問題であったことを今さらなら思えてきた。

 幕末から生まれた草莽隊の底辺に潜む「身分」については、戊辰戦争を研究していく者にはさらに研究課題として受けとめていく必要があるといえる。「士装帯剣」は武士をあらわす姿である。その姿に思いを込め、神職としての立場、旧壬生家臣としての誇りを観ることができる。

壬生町「蘭学通り」を歩いて

Pb040080  壬生城址公園内駐車場に向かいながら蘭学通りを歩く。幕末には国内有数の蘭学者が集まり「医学の街」として栄えたところから「蘭学通り」と名付けられている。通りには「斎藤玄昌旧宅跡」の標識が建ってあった。

 斎藤玄昌は天保から幕末にかけ壬生藩お抱え蘭学医の父、斎藤玄正とともに学問塾「勝怠堂(しょうたいどう)を開き門人を育成した。さらに玄昌は藩主鳥居忠義(ただひろ)の支援を得て、当時では御法度だった人体解剖や天然予防の牛痘ワクチン接種を栃木県で初めて行うなどの医学研究を高めたとされている。医学生を育成する公立医学校を持たなかった栃木県にとり、かつての壬生町の蘭学の興隆は目に留めなかったのかもしれない。

 「蘭学通り」と名付けたのが壬生歴史民俗資料館の中野正人学芸員。地域の歴史を検証し、「まちづくり」に活かす歴史民俗資料館としての役割は大きく、壬生町の優れたところだなと思い帰路についた。

                         《夢野銀次》

 ≪参考引用資料本≫

「壬生町史」(平成2年10月発行)/杉浦昭博著「近世栃木の城と陣屋」(2011年10月随想舎発行)/影山博義著「栃木県神社の歴史と実像」(2019年2月随想舎発行)/宮間純一著「戊辰内乱期の社会ー佐幕と勤皇のあいだ」(2015年12月思文閣発行/宮間純一著論文「戊辰戦争期における『草莽隊』の志向ー下野利鎌隊を事例として」(2010年4月「地方史研究60巻第2号」発行)/黒川直著、黒川正邦編「利鎌隊紀復刻版」(平成30年9月雄琴神社発行)

 

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秋の収穫―イモほりと「解体新書」扉絵の謎

 秋―次郎柿・里芋・さつま芋

Pb050138  「おしえて欲しいの、どうして柿がこんなに実った訳を?」

 ホームセンターで購入した柿の苗木。植えて8年目、去年より5倍も実っている。

 《桃栗3年、柿8年》なのか?

 ここ数日妻と毎日4~5個食べても一向に減らない。柿を植えていない御近所3件に『食べてください』ともっていっても…。「減らないわね、柿」と妻のつぶやきが聞こえてくる。

 我が家のトイレの水タンクが故障してしまった。用便で水を流す都度、やかんに水を入れ水タンクに水を注いで対応。「停電で断水になったら大変だな」と実感する。幸いに水道設備業者がすぐに便座取り換えの対応をしてくれた。7万円の料金と合わせて事業所に柿10個をお礼の気持ちを込めて差し上げた。

  …それでも実った柿は一向に減らない気がする。干し柿を作る気持ちはわかるが、私には作る気は起きないのだ。次郎柿、今日も食べていく。

Pb050137  5月8日に独協医大病院を退院して、急いで里芋の畝作りをしようとしたが、半年の入院治療は体力の衰えとなっていた。思うように畝作りは進まなかった。それでも買い置きしていた里芋の種イモを5月末には何とか植え終えることができた。毎年4月初めに植えていた種芋。今年は例年の半分、8個の種イモを植えた。

 土壌の土を払う。…出来ている。それも去年より形の整っている里芋が土壌から現れた。数少ない里芋だが、ゆっくり食べていくことにする。

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 里芋同様に退院してからさつまいもの畝づくりを行ない、5月末に『金時』と『紅あずま』の苗、30本を植えることができた。

 肥料はたい肥に草木灰。今年は苗と苗の間を広くして、さつま芋全体のスペースを広くした。

…実っている。しかし、カボチャのような大きな塊のさつまいももある。分岐しなかったのだが、どうしてこういうふうになってしまっているのか?――分からない。

「解体新書」の扉絵は判じ絵

Default1   さつま芋を掘りながら先日、「くろき内科クリニック」(栃木市大平町牛久)の待合所で読んだ二宮隆雄著「新編医学史探訪」の中に記載されている「解体新書の扉絵に秘めた杉田玄白のメッセージ」を思い出した。面白い内容なので受付でコピーをしていただいた。俳優の大杉蓮に風貌が似ている黒木院長も二宮隆雄医師と面識があり高い評価をしていた。

 オランダ語の解剖学書「ターヘル・アナトミア」からの邦訳書である『解体新書』は杉田玄白、前沢良沢らによって田沼時代の安永3年(1774)に出版され、日本の近代解剖学の幕開けとされている。

 木版で彫ったこの「解体新書」の中の扉絵について著者の二宮隆雄氏は、扉絵の上部に描かれた盾の中に、不思議な模様が刻まれていることを指摘している。

650x_100676861_20191106054201 「解体新書」の扉絵のもとは、スペインの解剖学者ワルエルデの解剖書で、1556年のローマ版以来イタリア語、ラテン語、オランダ語版と版を重ねその都度扉絵のデザインが部分的に変更されてきた。「解体新書」と酷似した扉絵があるのは、アントワープ版(1568年)で、「解体新書」と明らかに異なるところは上部の盾の内容であるとしている。

 上部の盾の内容が原書では紋章であるが「解体新書」では二匹の魚と一頭の動物が描かれている。これは杉田玄白らが読者にあてた謎解きの「判じ絵」であるとして、次のように記している。

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  「盾の下部にいる動物は、白虎である。明日香地方の古墳で発見されてものと酷似していて、白虎であることは確かである。上部の二匹の魚は恐らく鯉であろう。魚がくわえている中央のものは鈴か鐘であろう。この判じ絵の謎を解くと『西洋からの手紙のお知らせ(あるいは警鐘)』であろう。なぜなら、白虎は青竜(東)、朱雀(南)、玄武(北)に対する「西」の守護神である。また、二匹の魚は、いわゆる「双魚(双鯉)」で、客が鯉を二匹置いて行ったので煮たところ中から手紙が出てきたという中国の故事に由来し、「手紙」のことである。玄白らは訳書への自負と、西洋解剖学が読者に与える衝撃を念頭において、この判じ絵を描いたのであろう」と判じ絵と指摘している。

 「西洋からの手紙のお知らせ(警鐘)」としている「解体新書」。初めて知った見解であり、なるほどと感心した。

Utamaro061_main1  「判じ絵」は絵に置き換えられた言葉や人名、地名、道具など《絵で見るなぞなぞ》として江戸時代に人気を集めた。両目が真っ黒な人物画を「目黒」、さくらの花びらが真ん中で切られている絵を「皿」と表記している。

 喜多川歌麿は水茶屋の娘や芸者の名を画中に書いてはならぬというお触れに従わず、判じ絵を盛り込まして名前入りの美人画を描いている。寛政七年(1795)の《高名美人六家撰辰巳路考》(左図)である。

 こま絵のなかに、龍、蛇、舵、(船の)櫓、香炉の絵が描いてある。音を繋ぐと「たつ・み・ろ・こう」となる。辰巳とは方角にある遊郭といえば深川。つまりこの絵は、深川芸者(辰巳芸者ともいう)の路考さんという当時売れっ子の芸者の肖像となる(新関公子著「歌麿の生涯」より)。

 田沼意次の時代「明和4年(1770)~天明6年(1786)」では蘭学の奨励、狂歌や黄表紙という新しい文学ジャンルを誕生させるなど芸術、言論など江戸時代の町人文化が発展したといわれている。「解体新書」は洋書輸入を緩和した八代将軍吉宗時代からの継承として田沼時代に生まれた。しかし、以後は「寛政の改革」のもとに蘭学も粛清されていったが、蘭方医の努力で西洋医学は進化していった。

Pb050148 さきの10月12日の台風19号による豪雨災害で栃木市を流れる河川が氾濫し、1万3千戸の住宅が浸水被害を受けた。幸い、我が家まで浸水がなかった。しかし、台風15号による60メートルの暴風での屋根瓦被害や住宅の浸水被害など、これからは毎年予期せね大災害が起こっていくことが予想される。地球温暖化による気候変化によるものだろう。

 そうは言っても、小春日暖かな家庭菜園での耕作作業を今日も勤しむ私と12.5歳になった銀太がいる。残りのさつま芋と里芋を収穫していくことにする。 

                          《夢野銀次》

≪引用書籍≫二宮隆雄著「新編医学史探訪―医学を変えた巨人たち」(2006年3月、医歯薬出版発行)/新関公子著「歌麿の生涯ー写楽を秘めてー」(2019年4月、展望社発行)

《追記》

 南千住にある回向院には「解体新書」のかたどった浮彫青銅板の「観臓記念碑」がある。大正11年6月に回向院本堂裏に建てられ、昭和49年に現在の場所に設置されている。「観臓記念碑」と記され、「解体新書」の扉絵と異なっている。どの書を基にして作成されたのかは分からない。

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