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秋の収穫―イモほりと「解体新書」扉絵の謎

 秋―次郎柿・里芋・さつま芋

Pb050138  「おしえて欲しいの、どうして柿がこんなに実った訳を?」

 ホームセンターで購入した柿の苗木。植えて8年目、去年より5倍も実っている。

 《桃栗3年、柿8年》なのか?

 ここ数日妻と毎日4~5個食べても一向に減らない。柿を植えていない御近所3件に『食べてください』ともっていっても…。「減らないわね、柿」と妻のつぶやきが聞こえてくる。

 我が家のトイレの水タンクが故障してしまった。用便で水を流す都度、やかんに水を入れ水タンクに水を注いで対応。「停電で断水になったら大変だな」と実感する。幸いに水道設備業者がすぐに便座取り換えの対応をしてくれた。7万円の料金と合わせて事業所に柿10個をお礼の気持ちを込めて差し上げた。

  …それでも実った柿は一向に減らない気がする。干し柿を作る気持ちはわかるが、私には作る気は起きないのだ。次郎柿、今日も食べていく。

Pb050137  5月8日に独協医大病院を退院して、急いで里芋の畝作りをしようとしたが、半年の入院治療は体力の衰えとなっていた。思うように畝作りは進まなかった。それでも買い置きしていた里芋の種イモを5月末には何とか植え終えることができた。毎年4月初めに植えていた種芋。今年は例年の半分、8個の種イモを植えた。

 土壌の土を払う。…出来ている。それも去年より形の整っている里芋が土壌から現れた。数少ない里芋だが、ゆっくり食べていくことにする。

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 里芋同様に退院してからさつまいもの畝づくりを行ない、5月末に『金時』と『紅あずま』の苗、30本を植えることができた。

 肥料はたい肥に草木灰。今年は苗と苗の間を広くして、さつま芋全体のスペースを広くした。

…実っている。しかし、カボチャのような大きな塊のさつまいももある。分岐しなかったのだが、どうしてこういうふうになってしまっているのか?――分からない。

「解体新書」の扉絵は判じ絵

Default1   さつま芋を掘りながら先日、「くろき内科クリニック」(栃木市大平町牛久)の待合所で読んだ二宮隆雄著「新編医学史探訪」の中に記載されている「解体新書の扉絵に秘めた杉田玄白のメッセージ」を思い出した。面白い内容なので受付でコピーをしていただいた。俳優の大杉蓮に風貌が似ている黒木院長も二宮隆雄医師と面識があり高い評価をしていた。

 オランダ語の解剖学書「ターヘル・アナトミア」からの邦訳書である『解体新書』は杉田玄白、前沢良沢らによって田沼時代の安永3年(1774)に出版され、日本の近代解剖学の幕開けとされている。

 木版で彫ったこの「解体新書」の中の扉絵について著者の二宮隆雄氏は、扉絵の上部に描かれた盾の中に、不思議な模様が刻まれていることを指摘している。

650x_100676861_20191106054201 「解体新書」の扉絵のもとは、スペインの解剖学者ワルエルデの解剖書で、1556年のローマ版以来イタリア語、ラテン語、オランダ語版と版を重ねその都度扉絵のデザインが部分的に変更されてきた。「解体新書」と酷似した扉絵があるのは、アントワープ版(1568年)で、「解体新書」と明らかに異なるところは上部の盾の内容であるとしている。

 上部の盾の内容が原書では紋章であるが「解体新書」では二匹の魚と一頭の動物が描かれている。これは杉田玄白らが読者にあてた謎解きの「判じ絵」であるとして、次のように記している。

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  「盾の下部にいる動物は、白虎である。明日香地方の古墳で発見されてものと酷似していて、白虎であることは確かである。上部の二匹の魚は恐らく鯉であろう。魚がくわえている中央のものは鈴か鐘であろう。この判じ絵の謎を解くと『西洋からの手紙のお知らせ(あるいは警鐘)』であろう。なぜなら、白虎は青竜(東)、朱雀(南)、玄武(北)に対する「西」の守護神である。また、二匹の魚は、いわゆる「双魚(双鯉)」で、客が鯉を二匹置いて行ったので煮たところ中から手紙が出てきたという中国の故事に由来し、「手紙」のことである。玄白らは訳書への自負と、西洋解剖学が読者に与える衝撃を念頭において、この判じ絵を描いたのであろう」と判じ絵と指摘している。

 「西洋からの手紙のお知らせ(警鐘)」としている「解体新書」。初めて知った見解であり、なるほどと感心した。

Utamaro061_main1  「判じ絵」は絵に置き換えられた言葉や人名、地名、道具など《絵で見るなぞなぞ》として江戸時代に人気を集めた。両目が真っ黒な人物画を「目黒」、さくらの花びらが真ん中で切られている絵を「皿」と表記している。

 喜多川歌麿は水茶屋の娘や芸者の名を画中に書いてはならぬというお触れに従わず、判じ絵を盛り込まして名前入りの美人画を描いている。寛政七年(1795)の《高名美人六家撰辰巳路考》(左図)である。

 こま絵のなかに、龍、蛇、舵、(船の)櫓、香炉の絵が描いてある。音を繋ぐと「たつ・み・ろ・こう」となる。辰巳とは方角にある遊郭といえば深川。つまりこの絵は、深川芸者(辰巳芸者ともいう)の路考さんという当時売れっ子の芸者の肖像となる(新関公子著「歌麿の生涯」より)。

 田沼意次の時代「明和4年(1770)~天明6年(1786)」では蘭学の奨励、狂歌や黄表紙という新しい文学ジャンルを誕生させるなど芸術、言論など江戸時代の町人文化が発展したといわれている。「解体新書」は洋書輸入を緩和した八代将軍吉宗時代からの継承として田沼時代に生まれた。しかし、以後は「寛政の改革」のもとに蘭学も粛清されていったが、蘭方医の努力で西洋医学は進化していった。

Pb050148 さきの10月12日の台風19号による豪雨災害で栃木市を流れる河川が氾濫し、1万3千戸の住宅が浸水被害を受けた。幸い、我が家まで浸水がなかった。しかし、台風15号による60メートルの暴風での屋根瓦被害や住宅の浸水被害など、これからは毎年予期せね大災害が起こっていくことが予想される。地球温暖化による気候変化によるものだろう。

 そうは言っても、小春日暖かな家庭菜園での耕作作業を今日も勤しむ私と12.5歳になった銀太がいる。残りのさつま芋と里芋を収穫していくことにする。 

                          《夢野銀次》

≪引用書籍≫二宮隆雄著「新編医学史探訪―医学を変えた巨人たち」(2006年3月、医歯薬出版発行)/新関公子著「歌麿の生涯ー写楽を秘めてー」(2019年4月、展望社発行)

《追記》

 南千住にある回向院には「解体新書」のかたどった浮彫青銅板の「観臓記念碑」がある。大正11年6月に回向院本堂裏に建てられ、昭和49年に現在の場所に設置されている。「観臓記念碑」と記され、「解体新書」の扉絵と異なっている。どの書を基にして作成されたのかは分からない。

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