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壬生城下ー雄琴神社と利鎌隊を歩く

 壬生氏と壬生城址公園

Pb040135  壬生氏の祖、壬生胤業(たねなり)が寛正3年(1462)に京都の壬生(本姓小槻 )宮務家より下野 に下向して現在の城の北東「堀之内」に居を構え、2代目壬生綱重が現在地に城を築いたといわれていた。

 しかし、「壬生町史」では、祖の胤業の出自が壬生官務家ではなく、宇都宮一族であったという説が有力であると記されている。中世の壬生氏出自についての謎については魅力ある地域史研究対象であることも添えられている。壬生地域を支配する際に出自を京都官務家に頂くことは効果のある対策でもある。歴史の謎解きとして、壬生胤業について調べていくのも面白い。

Pb190073 天正18年(1590)に小田原北条氏は豊臣秀吉によって滅亡した。同じく北条に与した壬生氏も壬生城を接収され、壬生義雄(よしかつ)も没して滅亡する。

 江戸時代には城主が目まぐるしく変わり、正徳2年(1712)に近江水口より鳥居忠英が3万石で壬生に移封する。以後、鳥居家8代の居城として明治維新を迎える。

 現在の壬生城城跡地は平成元年に南門の復元。本丸南半分の土塁には石垣が積まれて水が張られ橋が架けられているなど整備された城址公園になっている。本丸跡内には、中央公民館、図書館、町立歴史民俗資料館があり、町の文化の核になっている。

Pb130015 城址公園内駐車場に車を停め、南門から東の方向に歩いていく。蘭学通りに面した足利銀行前には「大手門跡地」の標識案内板が設置されている。

 案内板には壬生城下の絵図(五街道其外延絵図 日光道中壬生通巻1)と大手門模型図(壬生町歴史民俗資料館展示)が載っている。

 この大手門は壬生城主松平輝貞の時代(元禄5年1692~元禄8年1695)に城の南口から東側に移したものとされている。舟運の黒川河岸に通じる船町通りと連絡をとりやすくするためともいわれている。絵図には、大手門前に堀をめぐらし、白壁がめぐらされていて丸馬出になっている。馬出の前は広小路になっていることが判る。

Pb040082  杉浦昭博著「近世栃木の城と陣屋」では、「日光街道に面した大手門の華麗な雄大な姿を旅人は驚嘆の眼差しで眺め、特に雪の朝日に輝く風情は見事であった」と紹介されている。

 実際の大きさで大手門が復元されたら素晴らしいだろうなと勝手な空想をしてみた。

戊辰戦争ー壬生城下の戦い・黒川の河岸

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  慶応4年(1686)4月22日の未明、豪雨の中で壬生城下から近い安塚村において姿川を挟んで新政府軍と旧幕府軍との戦闘が始まっていた(戊辰戦争安塚の戦い)。同日の明け方には旧幕府軍の別働2小隊が壬生城下に侵入し、大手門、船町通り、雄琴神社裏周辺で壬生藩兵と戦闘があったことが壬生町史に記されている

 壬生町史には、「同日の明け方、旧幕府軍伝習隊二大隊の内7・8番の両小隊が黒川を渡河し壬生町に迫った。壬生藩兵は大手口の兵隊の内、物頭小笠原甚三郎は組の者を率いて船町に出動、中筒奉行は中筒士を率いて雄琴神社の裏に出動。敵兵との間で接戦を闘い、死した」。壬生城内にいた新政府軍はすべて安塚に出陣しており、城内は壬生藩士のみだったといわれている。

Pb130030 さらに町史には「壬生藩兵劣勢の中に城中に引き揚げる。大鳥勢(旧幕府軍)は町の家4,5軒に放火したが、豪雨のため燃え広がらなかった。大胆な者が大手前の藤屋安兵衛の宅に放火したところ、城内の壬生藩兵が射殺した。大鳥勢も後続勢がないため、また安塚の報を聞いて、背面を襲おうと計画、軍を反して4,5町進んだところで土佐藩負傷兵3人と出会って、これを殺害(略)、新政府軍が壬生に帰るところにあって、 隘道(あいどう)を経て帰陣した」と記されている。

 大手門跡地前の向いに雄琴神社、黒川と続く船町通りがある。船町という町名はなくなっているが、よく整備された道路になっている。歩いていると新しく整備された通りでも、どこか深い歴史の雰囲気が漂ってくる。歴史散策の面白いところだと思えてくる。

Pb040097  雄琴神社の先には思川に合流する黒川が流れている。壬生町舟運の五河岸(河岸問屋各1軒)の一つ、中河岸があった処だ。正徳明細帳には中河岸について「雄琴大神社馬場先六、七十間隔処に河岸あるをいう」と記され、6艘の舟(部賀舟)があるといわれている(ウエブ「壬生町地域史デジタルアーカイブ」より)。

 黒川の中河岸は雄琴神社から約120メートル先に1軒の河岸問屋と河岸があった。壬生河岸の舟運は鹿沼ブランドといわれた木材で江戸では大変な人気であったという。小さな筏で木材を小山の思川乙女河岸に運び、そこで大きな筏に組み直し江戸へと運んだ。

 この辺りから旧幕府軍が黒川を渡河し、雄琴神社本殿の裏を伝い壬生城大手門前に迫る処で壬生藩兵と戦闘が行われたのだなと推測をする。

雄琴神社と利鎌隊の結成

Pb040103 11月15日前であっても晴れ着をした「七五三詣り」親子の姿が見える雄琴神社。子をもうけなかった私にはちょっぴりうらやましい光景に映ってくる。

 「七五三詣り」は子どもの死亡率が高かった時代、節目の年齢に成長できたことに感謝する神事。7歳までは神様の子で、ここでようやく自分の子になったことを慶ぶ日ともいわれている。「七五三詣り」の日は徳川綱吉時代に鬼宿日(鬼が宿にいて出歩かないので邪魔されない日で大吉とされる日)で縁起の良い11月15日にしたことが由来とされている。

Pb190070  古来、雄琴神社は壬生郷の鎮守として藤森神社と称されていた。戦国時代、壬生に初めて城を築いた壬生胤業が江州雄琴に鎮座する壬生氏の祖、小槻今雄公の分霊を合祀し、社殿を建て替え、社号を雄琴神社と改めたとされている。

 壬生胤業の出自については疑問が呈されているが、旧壬生家臣団にとり、壬生家とのつながりを現す神社であったともいえる。徳川時代には底辺に流れる旧壬生家臣としての誇りが脈々と繋がっていくその拠り所が、常楽寺にある壬生氏の墓所と雄琴神社ではなかったのではないだろうか。

Pb040113 雄琴神社社殿の左横に黒川神職家の居宅がある。 御門の右前に「下野勤皇 利鎌隊 結成の所」と刻字された石塔碑が建っている。石塔碑の側面には、「戊辰戦争に当たり東征軍有栖川熾仁(たるひと)親王より「帝道維一」の旗を賜り下野国神職が利鎌隊を結成して治安に活躍した」と記されている。背面には、「明治維新百五十年 平成三十年九月吉日 黒川家二十六代 正邦」としている。

 昨年の建立でまだ新しい石塔碑だ。

Pb040114  「記念石碑は関係した下野の神社を中心に利鎌隊関係者の子孫の方々に寄付をお願いして建てたものです」と社務所に居合せた現在(28代)の雄琴神社神主の黒川正邦神職が私に話しをしてくれた。

  黒川正邦神職の祖父、26代黒川直宮司が昭和15年7月1日に「利鎌隊紀」を発行し、以後の「草莽隊・利鎌隊」研究の貴重な資料本になっている。黒川正邦神職は記念石塔碑建立と合わせて「利鎌隊紀 復刻版」を発行している。この「復刻版」を私はいただくことができた。

 「復刻版」を渡す際に、「栃木警察に利鎌隊の鉄砲が没収されているのです。火縄銃なら没収されなかったらしいです。今なら文化財として利鎌隊が使用した銃として貴重なものになった筈なんですけどね」と利鎌隊の遺品が少ないことを悔やんでいるように見えた。

Photo_20191119132901  「利鎌隊は、慶応4年(1868)に起きた戊辰戦争の最中に、下野国において神職によって組織された『草莽隊』である。利鎌隊結成にを主導したのは、壬生藩領内の雄琴大明神神主黒川豊麿であった」と宮間純一は論文『戊辰戦争期における『草莽隊』の志向」で利鎌隊を規定している。

 草莽隊とは「草莽の在野を意味し、幕末~明治維新期に浪士、郷士、豪農、豪商、学者、神官、農民などが自分たちの費用で結成した隊」と百科事典に記述されている。自ら進んで参加、結成した軍事組織でもあるといえる。

 慶応4年(1868)の3月から4月にかけて下野国は安塚村から始まった世直し一揆、戊辰戦争小山の戦い、宇都宮城攻防戦、安塚の戦い、今市の戦いと地域住民を巻き込んでの争乱が続き、社会不安が拡大していた。こうした情勢を受け、前年に京都の有栖川宮家に「斥候方」と出仕していた雄琴神社の神主を務める25代黒川豊麿神職は東征軍とともに江戸から壬生に帰国した。

Photo_20191119132902  江戸期から神職を支配していた江戸吉田家本所より神職隊結成が促されていた。この戊辰内乱期に神職によって結成された草莽隊は、遠州報国隊、豆州伊吹隊、駿州赤心隊、吉田御師集団の蒼龍隊、安房の神風隊と数多いとされている。

 旧壬生家臣団の流れをくむ黒川豊麿はこれら各地の神職隊結成の動きを見て、下野国の不安情勢の中で治安維持部隊として武力の神職草莽隊結成を決意したのではないかと思える。

 豊麿は壬生藩における吉田家本所(神道家元)の触頭であり、4月に入り豊麿を中心に草莽隊結成の呼びかけを行い、準備が進めてきた。しかし、会合への参加者が少なく結成が難しい状況であった。こうした中、5月15日の上野彰義隊戦争に黒川豊麿ら有志達が有栖川の許に赴き、「斥候」として働き、首領株の者を打ち取った。その恩賞として有栖川宮直筆の「帝道維一」と黒鹿毛一頭を下賜された。また、3月には神社・神職の支配が吉田家本所から新政府の神祇官に一元化され、神職たちに動揺が広がってきた。6月に入り、吉田家本所より「神職隊」結成の廻状が届くことにより神職隊結成の動きが俄かに高まった。

Photo_20191119133001  この廻状に応じて、8月21日に家中村(栃木市)鷲宮大明神神職菱宮紀伊方に参集して「利鎌隊」と名付け、9月に東征大総督参謀に「祝詞の神文に因み利鎌隊と相称し、残賊の奴輩を相除き申度奉存候」として、隊員の名簿と結成の目的を記した願書を提出した。希望した有栖川宮親王の守衛は認められなかったが、9月5日に利鎌隊の結成が正式に認められた。

 隊は黒川豊麿を隊中取締として長士(隊長)を置いた一番隊から十一番隊迄あり59人の隊員で構成されている。隊員の出身郡では都賀郡41人が最大で、ついで安蘇郡が8人、寒川郡と河内郡が各4人、塩谷郡1人、不詳1人となっている。身分は神職が44人と圧倒的であり、復職神主が4人となっている。

 影山博義氏は著書「栃木県神社の歴史と実像」の中で、「利鎌隊が短期間にこれだけ多くの神職を集結させ得た理由は何か。後に利鎌隊は日光県との間に紛争を抱えるが、その理由のひとつが『士装帯剣』である。このことは、利鎌隊に結集した神職たちの上昇志向すなわち武士身分への並々ならぬ願望があったことを窺わせている」と記している。

 隊の名称の利鎌は、祝詞「大祓詞」の中の「焼鎌の利鎌を以て打ち掃う事」から武力を念頭においた神職隊である。目的は野州地域の「残賊」追討であることから10月末には鉄砲20丁を購入し、一組2挺ずつ配分している。しかし、具体的に利鎌隊として隊列を組み残賊を討伐したことなど著書から読み取れず、よく分からないのが感想として残る。

日光県との確執から利鎌隊解散

Pb140066  戊辰戦争内乱状態がほぼ終結した10月24日に東征大総督府が解散した。利鎌隊の後盾が無くなり、あわせて山梨の神職隊「蒼龍隊」も解散するなど、利鎌隊の団結、維持の難しさが浮き彫りになってきた。

 以下、解散までの流れを、宮間純一・影山博義の著書を参考に記述する。

 11月5日に利鎌隊は下野知県事日光出張役所に平柳村(栃木市)の星宮神社神職林和泉方に「文武稽古所」設立の懇願をした。設立の目的は「脱走のもの共も不少哉に相聞候間、当役所之御差図に随い、非常の節は御皇恩之片端をも奉報度存候」と武力を重視する姿勢であった。そのためこの要請は許可を得ることができなかった。9日に「今後は古学之主趣を会得」し、「非常之節には御役所御指揮に随い、身命を擲而尽力」したいとして改めて稽古所「文武修練所」の開設を願い出て許可される。

Pb140063   しかし、この時期から隊内での不協和音や隊内の乱れ、近隣から鉄砲修練や帯刀した隊員の態度などの苦情が寄せられていた。さらに管轄地支配の安定化を図ろうとする下野知県事役所としては独自の軍事力を有する利鎌隊が目障りな組織隊になってきていた。

  危機感を持った黒川らは明治元年12月20日に「稽古所」の移転希望を下野知県事役所(日光出張所)に提出する。移転希望地は同知県事の支配地の西方郷古村としたのは知県事の後盾を望んだからでもある。しかし、この願いは採用されず、逆に下野県知事役所より「利鎌隊員の態度宜しからず、衆民の評判が悪い」と叱責される。

Dscf22681  利鎌隊として組織の存続を計るため会合を重ね、軍事組織から教導機関に衣替えをし、規約改正、隊号の停止、屯集所を「都賀郡講舎」に改めることを決めた。

 そして翌年の明治2年(1689)5月21日に日光県(明治2年2月21日設置)へ講舎設立の願書を届けた。翌5月22日に青木幸躬(下南摩村・講舎知事)と刑部善十郎(家中村-鑑察役)は日光県に出頭し、届願いを陳述した。

 対応した日光知県事役所、元日光同心の村上銕四郎から「百姓と記し乍ら士装帯剣御玄関より参上候段如何の心得に候哉」と叱責され、青木は「手錠宿預け」、刑部は「村預け」、豊麿も「組合預け」の処罰を受けた。6月に高橋山城と福田斎宮が嘆願書を持って日光知県事に出向いたが認めらず、むしろ隊の解散を命じられた。

 日光知県事役所で利鎌隊に対応し判断を下した同心3人は日光奉行所の下級役であり、維新後に日光県下吏として登用されていた者。彼らには神職は百姓と同じ身分の「卑賎之者」という認識があり、「士装帯剣」を保持しようとする利鎌隊に身分秩序を揺るがす危険な存在として映った。

 こうして明治3年(1670)1月5日に鈴木慎三郎(磯村・磯山大明神宮座)、青木幸躬、黒川豊麿の3人は利鎌隊解散の書状を隊員に通知し、1月12日に解散式を行い、利鎌隊はわずか2年で解散した。

 宮間純一氏は、「利鎌隊は、運動理念が突出した非現実的なものであったがゆえに新政府に抑圧されたのではなく、身分的秩序を保持しようとした(日光奉行所)旧同心に解散に追い込まれたといえよう。その背景には、軍事活動を媒介とした各身分間の秩序変動を急速に進めた戊辰戦争の社会情勢があった」と身分秩序の保持が利鎌隊解散の要因になっているとしている。武士への羨望、憧れは幕末動乱から戊辰戦争へと参加、従軍していった者たちにとり大きな問題であったことを今さらなら思えてきた。

 幕末から生まれた草莽隊の底辺に潜む「身分」については、戊辰戦争を研究していく者にはさらに研究課題として受けとめていく必要があるといえる。「士装帯剣」は武士をあらわす姿である。その姿に思いを込め、神職としての立場、旧壬生家臣としての誇りを観ることができる。

壬生町「蘭学通り」を歩いて

Pb040080  壬生城址公園内駐車場に向かいながら蘭学通りを歩く。幕末には国内有数の蘭学者が集まり「医学の街」として栄えたところから「蘭学通り」と名付けられている。通りには「斎藤玄昌旧宅跡」の標識が建ってあった。

 斎藤玄昌は天保から幕末にかけ壬生藩お抱え蘭学医の父、斎藤玄正とともに学問塾「勝怠堂(しょうたいどう)を開き門人を育成した。さらに玄昌は藩主鳥居忠義(ただひろ)の支援を得て、当時では御法度だった人体解剖や天然予防の牛痘ワクチン接種を栃木県で初めて行うなどの医学研究を高めたとされている。医学生を育成する公立医学校を持たなかった栃木県にとり、かつての壬生町の蘭学の興隆は目に留めなかったのかもしれない。

 「蘭学通り」と名付けたのが壬生歴史民俗資料館の中野正人学芸員。地域の歴史を検証し、「まちづくり」に活かす歴史民俗資料館としての役割は大きく、壬生町の優れたところだなと思い帰路についた。

                         《夢野銀次》

 ≪参考引用資料本≫

「壬生町史」(平成2年10月発行)/杉浦昭博著「近世栃木の城と陣屋」(2011年10月随想舎発行)/影山博義著「栃木県神社の歴史と実像」(2019年2月随想舎発行)/宮間純一著「戊辰内乱期の社会ー佐幕と勤皇のあいだ」(2015年12月思文閣発行/宮間純一著論文「戊辰戦争期における『草莽隊』の志向ー下野利鎌隊を事例として」(2010年4月「地方史研究60巻第2号」発行)/黒川直著、黒川正邦編「利鎌隊紀復刻版」(平成30年9月雄琴神社発行)

 

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