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千住宿を歩く…水戸街道、清亮寺「槍掛け松」「解剖人墓」

Pc120164  栃木駅から東京都心にでるには、東武日光線・伊勢崎線に乗車し、北千住駅で地下鉄日比谷線に乗り換えて行くことになる。

 電車が北千住駅手前の荒川鉄橋をガタンゴーン、ガタンゴーンと響かせながら渡りきると、すぐに右側車窓から高架線下にある寺院の屋根瓦が見えてくる。「何というお寺さんなのだろうか?」と通過する度に思っていた。

 東武伊勢崎線高架下にある寺院は「清亮寺(せいりょうじ)と称し、旧水戸街道に面し、元和5年(1619)身延山久遠寺末として創建された千住地区では唯一の日蓮宗の古刹であることが門前に立って分かった。

Pc150001  旧日光街道千住宿の賑わう商店街を北に歩く。名倉医院の手前に、「東へ旧水戸佐倉道・北へ旧日光道中」と書かれた分岐点標識から右に入り水戸街道沿いを歩いて行く。

 荒川でこの旧水戸街道は途切れてしまうが、幅6mの水戸街道を歩いているのだなと実感する。常磐線高架線の下を通り、荒川土手堤を後ろに見て、左側の高い塀沿いに歩くと東武伊勢崎線高架が見えてきた。高架線手前の左側に清亮寺山門があった。

 清亮寺は日光街道から分岐した水戸街道最初の寺院になることになる。

Pc120176 どっしりとした山門をくぐると正面に本堂が建っている。

 本殿の建物は「天保4年(1833)に再建の総檜造りで、随所に江戸期の建築様式を遺しているすぐれた建造である」と足立教育委員会作成の案内掲示板に書かれてある。

 正面から見る本堂はコンパクトではあるが、風格を備えた歴史を感じさせてくる。総檜造りのもつ木目の柔らかさが本堂建物全体を包んでいるように感じられ、優しい建物に映ってきた。

Pc120166  寺院の逸話「槍掛け松」として、関東大震災前に撮影された「ありし日の槍掛け松」の写真が境内参道脇に掲示されている。

 樹齢350年の松の木は昭和20年に枯れて、今はない。屈曲した松の枝は街道の向こう側の民家まで伸びていた。そのため、参勤交代で通る大名行列の槍を倒さなければ通過できないことになる。槍持ちにとり槍を倒すことは許されないことになる。松の枝を切ることになる。

Pc150007  水戸藩主、水戸光圀は張り出した枝を切るには惜しいとして、この松に槍を立て掛けて休み、出立の時に槍持ちが松の向こう側に行ってから槍を取り直せば槍を倒したことにならないという粋な計らいをした。

 以来、この松は「槍掛け松」と称され、ここを通る大名行列は、門前で松に槍をかけて休むようになったと云われている(案内掲示版説明文より)。

 なんだか昔話を聞いているような気がするが、どこかほのぼのとする感じがしてくる。文政4年(1824)頃には江戸参勤の大名は、日光街道4、奥州街道37、水戸街道23、計64の大名が千住宿を往来したと云われている。奥州街道からくる大名は混雑する日光街道を避けて、水戸街道沿いで東上した大名を数多かったと云われている。

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 本堂手前の境内右側に庵造りの休憩所が設けてある。境内にベンチが置かれてている寺院はよく見かけるが、休憩場をわざわざ設けている寺院はあまり見かけない。これも「槍掛け松」の由来なのかと思えてくる。

 早速休憩所のベンチに腰を下ろして境内を見る。墓地内に樹木が多いのに気が付く。昔日の想いを浮かべて欲しいと寺院側の優しい配慮を感じた。本堂と墓地の裏手には荒川の土手堤が見えた。荒川の対岸には死刑執行を待つ服役者のいる小菅の「東京拘置所」がある。明治維新直後には小菅県が置かれ、囚人をも収容していたが、小菅県が廃止されると小菅集治監に変わる。荒川がなかった時代は非常に近い距離にあったことから清亮寺に囚人墓地が設けられた。

 清亮寺には4基の囚人墓地が昭和46年頃まであったが、東武線の複々線工事に伴い豊島区の雑司ヶ谷霊園に移され、解剖人墓だけが境内に残った(「江戸四宿を歩く千住篇」より)。

Pc120173  「解剖人のお墓は何処にありますか?」と箒を持って本堂裏手から現れた寺院の人に尋ねた。その人は私に無言で「解剖人墓」と刻字されている墓石を差し示してくれた。

 本堂の左手にある解剖人墓。明治3年から4年(1870~1871)にかけて、この寺で医学解剖された死刑囚の遺体を葬った墓である。

 墓石は前後に2基ある。後列にある「解剖人墓」の右側面には明治5年申2月建立と刻まれ、左側面には「取刀」としての3人の医師の名前が刻まれている。

 前列の墓石は墓碑として昭和42年6月に建立されたいきさつと11人の解剖された人の名前、年齢、村名、戒名が記されている。

Pc120174  解剖人墓と記された前列の墓石には、「明治初年日本医学のあけぼのの時代、明治3年8月当山で解剖が行われました。人のふわけさせる者などだれもいないころでした。被解剖者はすべて死罪人でした。執刀は福井順道が一人、大久保適斉が九人、亜米利加人ヤンハンが一人、いずれも日本医学のパイオニアたちでした。

 それら解剖された死罪人の霊をとむらうべく墓を明治5年2月建てましたが、破損してきましたのでここに新しく石碑を建立しました。昭和42年6月当山二十七世日香」と記されている。

 下段に記された被解剖者の戒名には「皆刃信士」「受刃信士」といずれも「刃」の入った戒名になっている。「斬首刑」ということを現わしている。また、年齢では55歳の一人を除き、あとは20代から30代と壮年層になっている。

Pc120169  かつての牢獄は不衛生からくる牢死者を多く輩出していた。しかし、解剖するには内臓を含めて壮健な者を望んでいく。そのために死罪人が人体解剖に最も適していたことになる。

 以前に壬生町を観光ボランティアの案内で歩いた時、黒川のほとりで死罪になったばかりの遺体を壬生藩の蘭学者が解剖を行ったことを聴いている。医学の発展の陰で死罪人の遺体が付与されてきたことを改めて知ることができた。

 水戸徳川家は参勤交代を行なわない江戸常駐の定府大名であった。そのため国許である水戸と当主の居住する江戸との間で緊密に連絡を取り合う必要があった。水戸街道には徳川家専用の施設(小金の水戸御殿等)が多数設けられていた。

Pc150015  江戸と水戸との連絡が緊密であったが故に「戊午の密勅」をめぐり、水戸領内から藩士、百姓、郷士らが小金宿を中心にその数1万人規模が集結し、「南上」といわれた抗議行動が江戸水戸藩邸、幕閣に対して起こった。安政の大獄で井伊直弼はこの「南上」からの危機感を踏まえ、幕閣の強さを示すために水戸藩に重い処罰を与える。そのことが「桜田門外の変」を生み、時代は急激に変化をしてきた。

   水戸街道はどこか幕末争乱の街道につながっていくような気がする。吉村昭の「桜田門外ノ変」で水戸藩家老の安島帯刀が幕府から処罰されるところがこう記されている。「評定所で申渡し(切腹)をうけると、ただちに処刑のため伝馬町へ護送された。牢屋敷に入ると、安島(帯刀)の駕籠が、まず仕置き場へ入った。牢役人の合図で駕籠が素早く旋回させられた。安島が眼をまわしたしたところを小役人が駕籠の外に引きずり出しして、ただちに首をはねた。切腹の判決であったが、斬首されたのである」と斬首する際の手立てをリアルに描いている。土壇場での斬首ではなく、いきなり眼をまわさせての斬首には井伊大老の憎しみが混じっていたのではないかと思えてくる。

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 江戸四宿(東海道品川宿、日光街道千住宿、中山道板橋宿、甲州街道内藤新宿)の一つ千住宿は日光街道の初宿となり、水戸街道の分岐する宿駅であった。「日光道中宿村大概帳」には天保14年(1843)には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒が設けれ、家数は237軒、人口は9,456人であったとその賑わいが記されている。

 旧日光街道の千住商店街を歩いていくと、人、人で現在も賑わっている商店街。どこからこの賑わいが生まれてくるのかを知りたくなってきた。飯盛女のいる旅籠なのか、街道を往来する武士や近在の農民なのか?

 ――千住宿をもっと歩いていこうと思う。

                      《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

「江戸四宿を歩く」(2001年12月、街と暮らし社発行)/「千住宿歴史ウォークガイドブック」(2018年3月、NPO法人千住文化普及会発行)/吉村昭著「桜田門外ノ変」(平成2年8月、新潮社発行) 

 

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