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2020年1月

千住宿を歩く②ーかんかん地蔵・なかよし地蔵尊・めやみ地蔵堂

  かもんじゅくミニ公園内『江戸後期絵図』

P9140058     「分かりやすい絵図だな…。でもこの関札所ってなんだろう?他の宿場町ではあまり聞いたことがない。木戸口のことなのかな」と千住宿江戸後期絵図が載っている「かもんじゅく案内掲示版」を眺めながらつぶやいた。

 旧日光街道千住宿は江戸に物資を運ぶための中継地点として青物市場、通称「やっちゃば」が軒を並べ、賑わいをみせていた。その千住宿場町の一つであったやっちゃば跡掃部宿の通り沿いに、足立区がミニ公園「掃部宿憩いのプチテラス」を平成27年(2015)にオープンしている。

 旧日光街道千住宿通りを歩いていて、ベンチが置かれた小さな公園で暫し休憩する。公園の端に絵図入りにの千住掃部宿案内版あるのを見つける。眺めたこの絵図、どの絵図よりも江戸期の千住宿を表していると思えた。江戸後期と書かれた絵図には、千住大橋から南北に道幅5間の宿通りを経て、左北端日光街道への出入り口までが描かれている。

 Dsc025671 絵図の中に千住大橋を渡るとすぐに「関札所」と記されているのを見つける。現在の京成線ガード附近になる。同じく宿の北端日光街道出入り口、今の千住新橋あたりにも「関札所」と記され、南北の宿出入り口に置かれているのが分かる。木戸口を表しているのではないかと思い、ネットで調べてみる。木戸口ではなく、「高札場と似たような施設で、本陣の利用状況を知らせるものであった」とブログでの解説説明が記載されていた。

 画像がないかなと思ったが、わずかに高札場を小さくしたものということで、具体的な画像は見当たらなかったが、掲示板として立っていた施設だったのだろうかと思えた。

Dsc025681   勝山準四郎著「千住宿と足立」の中でお関札として記載があった。それは、「参勤交代で千住宿を使用する大名は、他家との差合いをさけるため、木の看板のようなような宿札(関札)を三枚作成し、本陣と北は千住5丁目のはずれ、南は河原町はずれにこの『お関札』を掲示した。古図によると関札所は四方を竹矢来で囲われた中に一本太い柱が立っている。関札は本陣と2か所の関札所に掲げられたものである。休泊当日には本陣亭主と問屋場役人が関札下まで出迎え、先導して本陣に案内した」とある。

 大名の出迎え送りはこの関札所で行ったということは、宿場の出入り口を意味しているということなのだ。

 宿場の出入り口にあたる関札所には千住宿本陣や脇本陣を利用する大名や高官の名前が掲示され、他の大名や高官がかち合わないように、また知らないで宿内に入って、宿泊中の大名や高官に無礼が無いように知らしめる意味があったのだ。こうした関札所があったということは,参勤交代で日光街道、水戸街道を通る大名等が数多く千住宿を活用、頻繁に通ったことが伺える。

D0183387_134714591  さらに絵図には神社仏閣が多く記載されている。日光街道宿場通りを挟み、西側には源長寺、慈眼寺、不動院、勝専寺、安養院があり、東側には関屋天満氷川神社、金蔵寺、長円寺、清亮寺と記されている。

 それ以外にも「大千住マップ」ガイドには、千住河原町稲荷稲荷神社、八幡神社、千住神社、千住本氷川神社、千潮金比羅宮、千住4丁目氷川神社と数多くの神社仏閣が存在している。とりわけ何故か氷川神社が多いのが目立つ…。

 家数2,370軒、人口9,456人で成り立っていた千住宿場町。その規模から、神社仏閣数は多いように思えてくる。しかし数多く寺院仏閣のある千住宿には近郊近在から人が訪れる何かがそなわっていたのだろう。磁石のように人を引き寄せた「まち」としての魅力は何か?それは何であったのだろうか?そうしたことを見つけようと思い、宿場町通りを歩いていくことにする。

安養院の「かんかん地蔵」と「なかよし地蔵尊」

Pc120161  宿場通りの北端、日光街道出入り口の手前を左に入ると立派な山門のある安養院。千住最古の寺院と云われている。鎌倉時代執権5代北条時頼が建立、小田原北条氏政の祈願所があったという。関東制覇を目論んだ小田原北条氏の匂いが残っているのか?

 もとは千住元町にあったが、慶長3年(1598)兵火の火災にあい、現在地に移った。

 享保年間に8代将軍徳川吉宗が立ち寄り、その際に吉宗の子が長福丸(ながとみまる)であったことから寺の名を長福寺から長福寺安養院に変えたと云われている。歴代の住職と檀家の努力で江戸末期から明治初期にかけては真言密教の壇林となり、多くの仏弟子を世に送ったともいわれている。

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 中央図書館に向かう道路の右側に安養院の表札が架かった山門がある。その山門から本堂に向かう手前に3体の「かんかん地蔵」と「なかよし地蔵尊」が並んで祀られている。

 右2体のお地蔵さんが「なかよし地蔵尊」。左が寛文4年(1664)、右が寛文10年(1670)の建立ということから、歴史ある古いお地蔵さまということになる。

 嫁や姑の諍いや近隣との関係に悩み苦しんでいた人は「なかよし地蔵尊」を拝み、心の救いを求めたのだろうかと思い描く。お地蔵さまのお顔は穏やかで優しい表情をして親しみがわいてくる。

 …精神的な安らぎを求めていくお地蔵さんなんだ。

Pc240035 元禄12年(1699)に作られたという「かんかん地蔵」。

 自分の体の痛い(病んでいる)部分と地蔵の同じ部分や地蔵さまの頭を石で叩くと良くなるといわれ、このときに出る音から「かんかん地蔵」と呼ばれている。このため、叩かれた部分がへっこんでいて、顔がすり減り、のっぺらぼう状態になっている。奇妙な姿をしたお地蔵さまだが、人々の苦痛を引き受けている尊いお姿に見えてくる。

 わが家の飼い猫「ポン太」が口内炎になり医者通いをしている。早速かんかん地蔵さまの右側の口辺りに置かれてある小石で「かんかん」と叩いてみて、早く治ることを祈願する。

Pc240037_20200104142401    お地蔵さまは、お釈迦さまが「自分の亡くなった後の衆生(しゅじょう)の苦しみを助けよ」と後を委嘱された仏さまといわれている。

   お地蔵さまへのお経の中に147字の『地蔵軟偈(じぞうなんげ)があり、地獄の責苦を代わりに受けるという「代受苦」という文言がある。お地蔵さまが身代わりになって引き受けようとする。そのお姿に誓願をする(太田久紀著「お地蔵さんのお経」より)。各地にある「身代わり地蔵尊」の基になるお経ということになる。

 リュウマチや神経痛で痛む人がお参りして、小石でお地蔵さまの頭や体を叩き、治癒を痛みが和らぐことを祈願したのだろうと思い描く。

 安養院境内には庶民の苦しみや苦しさを救うものとしてお地蔵さまがいることを知ることができた。

長円寺「めやみ地蔵堂」

Pc240028   戦災で焼失した千住通り沿いの中で、伝馬屋敷の面影を今も残している横山住宅。昔トイレで使った再生紙の浅草紙の問屋でもあった。

 横山住宅の脇には長円寺に続く参道があった。参道入り口脇には「石地蔵」が置かれていた(子育て地蔵)。この参道は大正の終わり頃まで両側にからたちの生垣が続いていた。このことから参道の奥にある長円寺は『からたち寺』と言われ、親しまれていたお寺であった。

Pc120193  長円寺の山門横には足立区教育委員会案内版がある。「新義真言宗の当寺は、寛永4年(1627)出羽湯殿山の行者、雲海がここに庵を結ぶ。後に、賢俊が開山する。9代将軍家重の享保年間16世栄照の代は、殊に栄えた」と記されている。

 古来より山岳信仰の対象の湯殿山の行者が庵を結んだとある。松尾芭蕉は『おくのほそ道』における湯殿山の部分について、「総じてこの山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よって筆をとどめてしるさず」と記し、『語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな』と句を詠むにとどめている。出羽三山には行ったことはないが、どこか神秘に満ちた句である。芭蕉は深川から隅田川を伝い千住大橋で舟を降り、奥州へ旅立っていった。この日光街道千住宿を通っていった松尾芭蕉一行。…その姿を思い浮かべるのも歴史散策の面白さである。

Pc240013_20200104093601   長円寺山門左横に「子育て地蔵堂」がある。通称「めやみ地蔵堂」と呼ばれ、古くから目を病んだ人たちがお参りに来ることで知られている。もともとは参道入り口、横山家住宅の脇にあったのが現在の処に移ってきているが、それが何時頃なのかは分からない。

 花や線香をあげる人はもとより、参道先の千住宿通りにある絵馬屋で買い求めた「向い目」という柄の眼病祈願の経木千住絵馬が数多く奉納されているのが目につく。

 お堂の扉には鍵が掛けられており、中のお地蔵さまは暗くて見ることができないのが残念だ。これも「めやみ地蔵尊」と言われる由縁なのかと勝手に思ったりしてしまう。

Pc240011  お堂の前横に後生車(輪廻車)が立てられている。

 …初めて見る後生車。木の角柱の一部をくりぬき、車輪状のものをはめ込んで心棒を通したものになっている。なかば朽ちかけているように見えたが、車輪は勢いよく回った。

 後生車は亡き人を供養するものと一般的に言われている。千住の「めやみ地蔵尊」は眼病平癒に功徳があるとされる地蔵尊であることから、その願いをする際に車輪を回し祈願するということなのだと思える。お地蔵さまに直接強く祈願を伝えるということなのか。

 しかし、足立史談会編集の「足立区歴史散歩」と「千住歴史ウオークガイドブック」の「長円寺、後生車」の紹介では「お百度参りの数取り道具である。上に回すと来世で、下に回すと今世で願いが叶うという言い伝え」とだけ記している。この車輪を回しながらお百度参りの数取りができるのか?具体的なイメージが浮かばない。――分からない。「千住街の駅」で地元の古老に尋ねると「数取り道具という記述は間違っているのではないか」という指摘があった。

 どうも胸におちないため、足立区にメールで問い合わせたところ、足立区郷土博物館の学芸員の方から「後生車(輪廻車)」の回答が寄せられた、分かりやすいメールになっているので、前半を省略して記載することにする。

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 回答メールでは、「(後生車・輪廻車)は念仏を唱えることと同じ効果、功徳があるとされるもので、お参りの際に回すものということだと思います。しかしながら、人々がこれを使用していくにおいて、様々な解釈で信仰されることとなります。そして、その土地、その場で言い伝えられ、様々なバリエーションができるということになります。

 勢いよく回して、ぴたりと止まると極楽往生できる。回し終わったときに逆回転すると地獄に落ちる。また上に回すと来世で、下に回すと今生で願いが叶うなどです。

Pc120191   ただし、お百度参りの際に回すということはあっても、後生車では直接その数はわかりません。ここに、小石や串を置く。あるいは何かに結ぶなどしないと数はとれないかと思います。地蔵堂前に置かれているのは、地蔵尊へのお参りの際、念仏を唱えるということだと思います。後生車については、とくに地蔵尊に限るものではありません。ただ、念仏を唱えるという点では、地蔵尊は身近な仏であると思います。

 長円寺の地蔵は、眼病平癒に功徳があるとされる地蔵尊なので、その願いをする際に、車を回したものと思われます(足立区郷土博物館学芸員)」と後生車の基本的な考えを教えていただいた。しかし、お百度参りの数取り道具については、後生車だけではできないという見解であった。お百度参りの道具であるという規定から頭が混乱してしまう。千住史談会の再考を促したい。

Pc120188  日本民俗学会理事の井之口章次氏は「お地蔵さんと神信仰」の中で、水神との関連から、木村博氏が「後生車を廻すことが手を洗う代わりになる。川瀬垢離(かわせごり)と同じ意味合いものだ」ということを聞いたことを紹介し、「そのとき、川の水をすくってかける動作と、地蔵車を下から上に廻す動作とに、何かしら共通点があるように感じた」と記述している。

 車輪を回すことが、川の水で身を清め祈願する行為でもあるという。いろいろな解釈があるのだと思えてくる。それでもお地蔵さまに眼病治癒を願うことには変わりがない。後生車を回し、祈願をしていく。それで良いのだと思い、気持ちが落ち着いた。

Pc240039  クリスマスを迎え、餃子1人前100円、デコレーションケーキが1500円と宿場町通り商店街は活気に満ちていた。

 千住宿通りの北端には接骨医院として江戸時代から有名な「名倉医院」の旧診療所、長屋門などの建物が保存されている。一日に300人~500人の患者が受診したと云われている。この千住4丁目、5丁目には「なかよし地蔵尊」「かんかん地蔵尊」「めやみ地蔵尊」「名倉医院」と並んでいる。

 近代の「病い」は医学的に除去、征服されるものであるという考えが根底にある。しかし、江戸時代の「病い」とは、なだめ、鎮めるものだと捉えられていた。そのため薬種や医師による治療とあわせて医療信仰が盛んに行われていた。それはたんなる地蔵信仰ではなく、当時においては医療そのものであったと言うことができる。

 身体の痛み、眼病、精神疾患等を癒し、鎮めることを求め千住宿に足を運んできた人がたくさんいたのだ。そうしたことから千住宿には人を引き寄せる磁石の一つとしてお地蔵さまを含めた医療関連の施設が多く存在していたことが分かってきた。まだまだ千住宿には人を引き寄せる磁石があるように思え、さらに歩いていくことにする。

                       《夢野銀次》

≪参考引用文献等≫

佐々木勝・佐々木美智子著「千住宿民俗誌ー宿場町の近代生活」(昭和60年10月名著出版発行)/勝山準四郎著「千住宿と足立」(昭和56年6月足立史談会発行)/足立史談会編集「足立区歴史散歩」(1992年6月学芸社発行)/「千住宿歴史ウオークガイドブック」(2016年3月千住文化普及会編集発行」/太田久紀著「お地蔵さんのお経」・井之口章次著「お地蔵さんと神信仰」(昭和59年10月大法輪閣発行「地蔵さま入門」に収録)/岩波文庫「芭蕉おくのほそ道」(1979年1月岩波書店発行)/足立区郷土博物館配信メール「後生車・輪廻車について」(令和元年12月受信)

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