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2020年2月

栃木市万町の近龍寺「涅槃図」を観る

P2240001  「今年の梅の木、お花、いっぱい咲いたわね」と妻が庭先に咲いた小梅の木を見てつぶやいた。「去年、剪定をしたからだ」と私も得意げに話すと、「わたしは白梅ではなく、桃色の梅の木にして欲しいと言ったのよ」と言い返してきた。

 「今年は小梅がたくさん成るな」と実感する。

 去年は5月に退院し、自宅療養のため数少ない梅の実を採ることができなかった。4月末の再検査如何によるが、今年は何とか小梅の実を採り、カリカリ梅を作っていきたい。

P2080026  本堂内左脇には大きな「涅槃図(ねはんず)」の掛軸が飾られてあった。二間(3.6m)四方もある大きな「涅槃図」に息を飲む。

 「2月15日がお釈迦様の入滅の日になっていますが、2月一杯飾っております。江戸後期に描かれたものと思いますが、カメラでの撮影は拡散されるので固くお断りします」と住職は突然の来訪者である私を本堂に案内してくれた。

 栃木市万町にある古刹、浄土宗「三級山天光院近龍寺」。中国の故事に鯉は三段の堰を上ると龍に転じて天に昇るところから、その名が付けられたといわれている。

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 境内には平成22年(2010)に三佛堂(聖観世音菩薩さま、旧地蔵堂のお地蔵さま、子育安産・学業成就の呑龍上人などを祀る)が建立されている。また、北側の墓地には文豪山本有三の墓地などがあり、栃木市在住の著名人のお墓などたくさんある。

 「万町とはヨロズチョウと読むのですね」と小学6年のころ、他県から赴任してきた先生が言ったことが思い出される。私の生家は万町交番裏の東裏通り(通称明治座通り)にあり、家の前には万福寺用水が流れていた。その用水路沿いに近龍寺があった。呑龍さんのお祭りの日には近龍寺に遊びに来て、山門前の出店「煎餅焼き」を食べた記憶がある。

 明治・大正と栃木町の第二小学校、栃木女学校で過ごした女流作家の吉屋信子は、昭和33年(1956)に「暮しの手帖」に「おもいでの町―栃木」を執筆している。

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 令和元年(2019)10月10日の栃木市文化講座「吉屋信子の生涯と作品世界」の中で、講師の元栃木女子高校長、吉屋信子記念会副会長の藍田收氏から「おもいでの町―栃木」が紹介された。講師にその作品が載っている本を訊ねたところ、後日コピーが私のもとに送られてきた。

 「おもいでの町―栃木」には「川のある町」「母校の庭」「町裏」「祭の町」「涅槃図を観た寺」と栃木町で暮らしていた頃のことが、簡潔に執筆されている作品になっている。

 とりわけ「涅槃図を観た寺」では寺の名前が記されていないため、藍田氏に電話したところ「近龍寺ですよ。2月8日に近龍寺へ行けば観ることができます」と教えていただいた。2月8日の早朝、扉が開いている玄関口に立ち、本堂に飾れてある「涅槃図」を観ることができた。

 簡潔に近龍寺「涅槃図」ことが綴られている文章は堂内に飾られてある光景とそれを観る少女の姿が伝わってくる。短い文面になっているので、全文を記載させていただきます。

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おもいでの町―栃木―

 涅槃図を観た寺

          吉屋信子 著

 この小さな町としては堂々たる寺院だった。

 子供のわたしはこの寺で涅槃の絵を見た。

 お釈迦さまが入滅の床に大きなお姿を横たえていられる傍の沙羅双樹(さらそうじゅ)の梢の上に白い月が描いてあった。

 そのまわりに仏弟子と共に、あらゆる獣や鳥も集まってお釈迦さまへの別れを悲しんでいた。虎が両手を顔に当てゝ泣いていた。

 そのなかに〈猫〉だけが居ないのだと聞かされて、わたしは背教者の猫がその時、仲間はずれの堪えていた気がしてかわいそうだった。

 その――金泥と胡紛で描かれた涅槃絵をわたくしはいつまでも眺めていた。

 寺のねはん会のある早春の一日の真昼だった。

       「暮しの手帖34 1956」より

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 広い本堂の本尊左側に飾られてある近龍寺の涅槃図。たくさんの動物たちが描かれている中に左下に猫が描かれている。吉屋信子は見落としたのだろうか?それとも涅槃図には猫は描かれていないという思い込みがあったのだろうか?

 一説によると、沙羅双樹の木に引っかかった薬袋を取りに行こうとしたネズミを猫が邪魔したため、お釈迦さまが薬を飲めず亡くなったということから、涅槃図には猫は描かれていないという。しかし、生きとし生けるものは釈尊の涅槃を嘆くとして、江戸後半期の「涅槃図」には猫が描かれるようになったといわれている。

 P2080020  近龍寺の創立から堂塔伽藍などを記述した八百谷孝保著の「近龍寺雑記」に享保12年(1727)の本堂内の様子を次のように記されている。

 「本堂は西向きに建てられ間口七間半奥行六間半の向拝付である。内陣・外陣・御所の間二つ・次の間二つとなっている。内陣には中央に阿弥陀三尊、脇に可ト上人御影(木造椅子)、代々並びに三界万霊の位牌を安置し、その前に前机をそれぞれ置き、上に燭台、花立、香炉、盛物台銅仏器を置き、前に導師用礼盤をすえる。又、喚鐘、大鏧、鉦鼓、双盤、鐃。鉢等を供えており、まわりには華曼四面、幡六流をかけ、天井からは天蓋をつるしている」

 この文面から本堂内のあでやかさという雰囲気が伝わってくる。

 その豪華な近龍寺本堂内に飾られた涅槃図のお釈迦様は、画面中央、宝台の上に頭を北に向け、お顔を西に向けた姿で描かれている。本堂は西向に建てられていることから涅槃図そのものが「頭北面西」ということで飾られていることになる。西方浄土を連想させるあでやかな掛軸である。静かに首部を垂れる私がいた。しかし、写真に撮ることができなかったのが残念……。

 近龍寺を訪れるたびに向拝堂上に飾られるてある龍の彫り物が気になっていたが、迫力ある龍の彫り物である。彫師は「近龍寺雑記」に文化3年(1806)本堂再建の際に棟上記録から大工13人の名前の次に彫物師棟梁として「秋葉金次郎宗玄」と記されている。何者かはネット検索では出てこなかった。おそらくは東照宮彫刻の流れの中の彫師ではなかったのではないかと推測する。彫師「宗玄」に注視していきたい。

Pb300103  本堂玄関口を出ると、塀に囲まれた墓地がある。墓地内には釜屋系列の四代目善野喜兵衛の墓石がある。「歌麿活を活かした街づくり協議会」によって「案内標識版」が歌麿のゆかりの人物や建物跡地に建てらてある。

 善野喜兵衛は狂歌師「通用亭徳成」を名乗っていた関係で喜多川歌麿が何度か栃木町に来たといわれている。歌麿の大作、肉筆画「品川の月」「吉原の花」「深川の雪」は豪商善野家の依頼で栃木町で描いたといわれている。しかし、実際に歌麿が栃木で肉筆画を描いたという古文書など史料はなく、推測になっている。

 確証としての史料を探している人はいると思えるが、歌麿の画法など研鑽することより観光キャンペーンとして「歌麿まつり、花魁道中」を栃木市が力を入れて取り組んでいることに疑問もある。市教育委員会から「花魁道中」はまずいということから「歌麿道中」と名称を変えての開催する(令和元年は台風水害のため中止)。吉屋信子が「ときの声」の中で記している人身売買のデモステレーショである「花魁道中」を臆面もなく実施していく栃木市。歴史博物館のない栃木市の歴史への思いをみるようである。

P2240004  2月早春の朝日をあびて「ポン太」は発泡スチロールの箱のなかで佇む。体重6.7キロの大きな猫だが、汚い水を飲んだせいか、口内炎になってしまった。私も入院中に口内炎にかかり、食事に苦労した経験がある。

 3週間に一回、動物病院に連れて行き、痛み止めの注射をしてもらいながら、1月22日に歯を2本抜いた。口内炎を治すための抜歯であったが、結果はまだ分からない。動物病院に連れて行かれるのが嫌で、私の姿を見ると逃げることもある。「お前のために病院に連れて行っているのが分からないのか」と怒鳴ってても、関係ねいといって外に飛び出していってしまう。

 2月はもうすぐ終わる。ジャガイモの畝づくりを始めていくことにする。

           《夢野銀次》

≪引用参考資料本等≫

吉屋信子著「おもいでの町―栃木―」(『栃木の文学収録』収録、平成18年9月栃木県高等学校教育研究会国語部会発行)/一行院住職八百谷孝保著「近龍寺雑記」(昭和45年11月、近龍寺発行)

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千住宿を歩く③ー千住大橋を渡る思い

P1310003    地下鉄南千住駅からコツ通りを経て国道4号線、日光街道に出て右折する。「スサノウ神社」「誓願寺」が並ぶ日光街道沿いの歩道を進むと「千住大橋」が見えてきた。

 歩道を行き交う人たちの中にはチャイルドシートの付いた子供乗せ自転車で急いでペダルを踏んで行く女性たちの姿が目立つ。

  保育園に子供を預けて、これから出勤していくのだと見えた。

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 「…迫力ある橋だ。――歴史を秘めている重さを感じる橋」と、下り車線専用になっている千住大橋を眺めながら思った。

 昭和2年(1927)の春に架設されたタイドアーチ橋の千住大橋。全長92.5m、幅24.2mの千住大橋は関東大震災復興事業の一環として架設され、近代橋梁の名作の一つにも挙げられている。交通量の増加のため昭和48年(1973)には下流側の上り車線専用の新橋が全長502.5m、幅18.9mで架設されている。

Img_20060313t1325560821  天保5年(1834)~天保7年(1836)に発刊された江戸名所図会には、「千住大橋 荒川の流れに架す。奥州街道の咽喉(いんこう)なり。橋上の人馬は絡釋(らくえき)として間断なし。橋の北一、二町経て駅舎(とまり)あり。この橋は、その始め文禄三年甲午九月、伊奈備前守奉行として普請ありしより、今に連綿たり」と、奥州街道の喉元として記されている。

 橋長66間(120m)、幅4間(7m)の千住大橋を中心に描かれている江戸名所図会。荒川(隅田川)の左岸北側には稲荷の祠、奥の方には日光道中「河原町」と記されている。右岸の浅草南側の橋詰め近くの小塚ケ原には橋の守り神であった「熊野社」や「誓願寺」などが書き込まれている。千住大橋を中心にのびのびと壮大に描かれている図である。

P1310009  千住大橋手前左に「千住の河岸」の標識が建っている。両岸が材木などの集散地として賑わったことが記されている。その標識を左に曲がり狭い道を進むと「熊野神社」が鎮座している。

  …境内には入れない。門扉に鍵が掛けられてあったからだ。門扉の横には熊野神社の案内標識が建てられてある。「大橋を荒川(現隅田川)にかける時、奉行伊奈備前守は当社に成就を祈願し、文禄3年(1594)橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行った。以後、大橋のかけかえごとの祈願と社殿修理が慣例となった」と千住大橋と熊野神社のつながりが記されている。

 境内に入ることができないため、隣家の塀越しから本殿社を拝顔した。こじんまりした質素な本殿社であるが、趣きを漂わせ静寂さを呼び込んでいるように感じた。

P1310011  杉本苑子は「東京の中の江戸名所図会千住大橋」の中で、「前九年、後三年にわたった例の奥州征伐のさい、八幡太郎義家が兵馬を進めて千住の地に至り、荒川を渡ろうとしたとき奇瑞(きずい)があった。そこで鎧櫃(よろいびつ)に秘めてはるばる奉載してきた紀州熊野の権現の神幣(みてぐら)を、川岸に斎(いつ)き祀ったのがこのお社の始まりだという」ことを記している。

 ここでいうめでたいという奇瑞があったと記しているが、どういう現象なのかどうも分からない。

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 熊野神社近辺の路地からは高い岸壁で隅田川を見ることはできない。もと来た千住大橋に戻る。

 昭和2年(1927)鉄橋になった千住大橋を渡り、歩く。橋からは左の隅田川上流が千住水道管に阻まれて見ることができないのが残念。

 竣工された同時期に東京市電が南千住から延長され、千住大橋を渡り千住4丁目まで走ることになる。市電は日光街道を走るため旧日光街道の商店街は一時寂びれることになったという(日光街道千住宿民俗誌より)。

Img8772d9bezik9zj1  橋を渡っている川筋は、徳川家康によって千住大橋が架設される以前には「戸田の渡し」と呼ばれた渡船場であった。当時の奥州道は現在の白髭橋付近にあった「橋場の渡し」を経由していたが、千住大橋が架設されることにより奥州道は千住大橋経由になっていく。 

 架設当時の名称は「大川(隅田川」に架かる唯一の橋であったから、単に「大橋」と呼ばれていたが、67年後に隅田川の第二の橋「大橋(両国橋)」が架橋されることにより、千住の地名を冠した「千住大橋」と呼ばれるようになった(ウキベリア「千住大橋」より)。

  この地が選ばれたのは、江戸城から奥州方面に向かう最短直線コースであったこと。隅田川の川幅が一段と狭くなっており、架設が容易であったと考えられている。そこには家康にとり、新領地の関東支配の強化や仙台伊達藩との好みを深めていくことを考え、江戸に着く早々急いで奥州道の整備をしていくための架設ではなかったかと推測する。

 その後、徳川幕府開設に伴い、5街道の整備が行われ、千住宿は奥州道中、日光道中の初宿となり、幕藩体制を支える宿駅制度を担っていくことになる。

300pxsenjyu_ohashi_old1   幸田露伴は明治40年(1907)に「蝸牛庵夜譂」の中で、「千住の大橋は千住駅の南組中組の間にかかれる橋にして、東京より陸羽に至る街道に当たるをもて、人馬の往来絶ゆること無くして、たゞ川船、伝馬、小舟の類の帆を張り艫櫂を使ひて上下するのみならば、閑静の趣を愛して夏の日の暑熱を川風に忘れん人等(略)。およそ此処の橋より下は永代橋に至るまで小蒸気船の往来絶ゆる暇無く、石炭の烟、機関の響、いと勇ましくも忙しく、浮世の人を載せ去る戴せくるなり」(荒川ふるさと文化館「千住大橋展」図録より)と記している。

 何隻もの小蒸気船が行き交う下流と対比して橋の上流はのんびりとして蛇行する川船の様子を執筆している。下町の工場を支える燃料として、明治期から隅田川沿岸の石炭積荷の往来が頻繁にあったことが伺い知ることができる。

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 千住大橋を渡ると大橋公園がある。歩道際に平成27年に建立された葛飾北斎の「冨獄三十六景、従千住花街眺望ノ不二」の画と顕彰碑が展示されている。

 公園の奥の方に松尾芭蕉が六百里の旅、「おくのほそ道」の始まりの句を詠んだといわれている俳文が記されている「おくのほそ道矢立初の地の碑」の記念碑がある。松尾芭蕉は元禄2年(1689)3月に弟子の曾良を伴って深川から隅田川を遡上して千住に降り立ち、陸奥へと旅立っていく。

P2070010  俳文紀行「おくのほそ道」には「千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻(まぼろし)のちまたに離別の泪をそゝぐ」「行春や鳥啼魚の目は泪」「これを矢立(やだて)の初めとして、行道なをすゝまず。人々は途中に立ちならびて、後ろかげのみゆる迄はと、見送るなるべし」と記している。

  千住宿や品川宿など江戸初宿には見送り、出迎いの習俗があり、芭蕉一行を見送る情景が描かれている。なお矢立とは筆と墨壺を組み合わせた携帯用筆記用具のことだそうだ。また、千住大橋は足立区と荒川区の境になっている。芭蕉一行が隅田川から下船したのがどちらの河岸であったか足立区と荒川区がもめた時期があったと聞く。芭蕉は千住大橋を渡って奥州へ旅立って行ったとは思えない。

P1310026  大橋公園の左の岸辺にかかる階段を昇ると上流からの千住大橋を見ることができた。ゆったりと流れる隅田川の岸辺に降りることができるようになっている。

 「…やっと隅田川を見ることができたな」と胸がホットした。向こう岸からは高い岸壁で隅田川を眺めることができなかったからだ。

 岸辺の護岸通りは橋の真下を通り、下流の護岸岸辺に行くことができるようになっていた。

P2070012     橋の真下には平成16年(2004)に千住大橋下を東西に結ぶテラス連絡橋「千住小橋」という小さな橋が架けられてあった。

 この千住小橋付近の川面にブイが浮かんでいたが、その下に江戸時代の木杭が今なお残っているということを後で知った。確かめないできたことが悔やまれる。次回、何かの折りに橋の下のブイを見つけ、木杭を確認していきたい。しかし、川はけっこう濁っていたので、見えるか分からない。

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 千住小橋を渡ると「千住大橋際御上り場」という板の案内看板が掲示されている。将軍家、日光門主など高貴な人物が利用していた湊を千住大橋際御上り場と言っていたという解説文が記載されている。

 江戸城堀から道三掘~日本橋川~隅田川~千住大橋湊へと船にて遡上し、日光街道への社参する行程があったことが分かった。

 千住大橋の真下に千住小橋があったことは知らなったし、水辺を歩くことができたことは良かった。願わくば江戸時代の木杭も見たかった。

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 下流側から昭和通りにつながる千住大橋の新橋を見る。大きな橋だが何故か愛想のない橋に見えた。

 目線を下流に転じる。ゆっくりと流れる隅田川の右岸の先には白髭橋のある南千住3丁目になっている。美空ひばりの母親、加藤喜美枝が生まれたのも南千住3丁目である。

 幸田露伴の前述の文面の中で、「橋より下は永代橋に至るまで小蒸気船の往来絶ゆる暇無しく、石炭の烟、機関の響、いと勇ましくも忙はしく」の通り、大正、昭和の初期にかけて工場の燃料となる石炭を積んだ幅の広い達磨船が運航していた。

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 大下英治著「美空ひばりー時代を歌う」の中で、ひばりの母、加藤喜美枝が生まれた南千住三丁目界隈のことを次のように記している。

 「大正3年南千住三丁目に生まれた加藤喜美枝の家々は石炭を燃料にしていた。夕食時になると、家々の軒先に七輪を出し、石炭をたいた。まわりの人たちは、喜美枝の家のあたりを汽車長屋と呼んだ。(略)トタン屋根の平屋で6畳2間くらいの小さな家であった。父親の又吉は、牛に大八を引かせて、藁莚(わらむしろ)の袋であるカマスに入れた石炭を売り歩いていた。(略)南千住三丁目には隅田川の水路と陸路から、北は、北海道、福島の常磐、南は九州から、石炭がつぎつぎに運ばれてきた。町には、石炭の卸商や小売商の店が立ち並んでいた」と当時の貨物船である達磨船から石炭が運び込まれてくる様子が描かれている。

P1310021_20200208051501  白髭橋下流へと流れていく隅田川を眺めながら美空ひばりのステージが思い浮かんできた。最初に見た新宿コマ劇場での「美空ひばりショウ」。演出構成は母親の加藤喜美枝であった。

 一番後ろの席に座り観たそのステージ。舞台は下町特有のけばけばしさを感じたが、何よりも美空ひばりの歌声がズシンと胸に入ってきた。一番後ろの客席に座った自分の心に響いてくる美空ひばりの迫力ある歌唱力に感動した記憶がある。

 それでも、…あのけばけばしいギンギンラした舞台装置には驚いた。今思えば、加藤喜美枝が生まれ育った隅田川沿いの南千住三丁目界隈の石炭積卸しの匂いが発散されていたのではないかと思えてきた。

Tower_48664601 〽安い貸間の貼り紙を

 さがし歩いたあの頃は

 お前とお茶を飲むたびに

 マッチの箱が増えてった

 街も賑わう年の暮

 着たきり雀のジーパンはいて

 千住大橋たたずめば

 頬にポツンと小雪が落ちてきた

 何かやりそな顔をして

 なんにもできない俺だった

 (昭和50年10月、作詞:喜多条忠/作曲:叶玄太/歌:石橋正次)

 昭和50年(1975)の青春ドラマ「俺たちの旅」の第11話「男はみんなロマンチストなのです」の挿入歌を石橋正次が歌っている。荒川ふるさと文化館発行の「千住大橋展図録」にこの曲が紹介記載されており、初めて知った。地方出身の若者が抱いたであろうやりきれなさを描いたと図録に記述されてある。

 ユーチューブでこの歌を聴いてみたが、「何かやりそうな顔をしてなんにもできない俺だった」というフレーズが自分のことを言っているようで気に入った。作詞は「神田川」「赤ちょうちん」を書いた喜多条忠だ。千住大橋を渡り歩きながら、なんにもできない若者の焦りと惨めさがにじみ出てくる詞である。

P2070004     もう何年前だろう。40歳前後の頃、高校の同窓会に出席した。その時、高校の演劇部だった女子から、「あなたはこういう同窓会に出席してこない人だと思っていた。ただの人だったのね」と平凡な人物であったと見下されたような気がして、グサリと胸に突き刺さる言葉を受けた。普通の勤め人になっていた自分を言い当ててもいた。その通りですと言い返せなかった自分を恥じることはないと思って黙した。彼女はその時も地域で演劇を続けて頑張っていた。だから演劇をやめた自分に言えた言葉だったのかもしれない。

 千住大橋という大きな歴史ある橋には何かを包み込むような雰囲気がある。隅田川に架かる千住大橋を渡っていった多くの若者たちが昔も今もいる。橋の向こうに見えたものは何だったのだろうか。冷たくもあり優しくもある橋。若い頃に渡っていたら「何やってんだ、夢はどうした!」と叱られたかもしれない、この千住大橋に…。

                           《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

ブログ「江戸図会を読む」/鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会下巻」(昭和50年1月角川書店発行)/杉本苑子著「東京の中の江戸名所図会」(昭和50年12月北洋社発行)/佐々木勝・佐々木美智子著「日光街道千住宿民族誌」(昭和60年10月名著出版発行)/荒川ふるさと文化館「千住大橋展図録」(平成19年度荒川ふるさと文化館発行)/萩原恭男校注「芭蕉おくのほそ道」(2013年6月岩波書店発行)/大下英治著「美空ひばりー時代を歌う」(平成元年7月新潮社発行)

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