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栃木市万町の近龍寺「涅槃図」を観る

P2240001  「今年の梅の木、お花、いっぱい咲いたわね」と妻が庭先に咲いた小梅の木を見てつぶやいた。「去年、剪定をしたからだ」と私も得意げに話すと、「わたしは白梅ではなく、桃色の梅の木にして欲しいと言ったのよ」と言い返してきた。

 「今年は小梅がたくさん成るな」と実感する。

 去年は5月に退院し、自宅療養のため数少ない梅の実を採ることができなかった。4月末の再検査如何によるが、今年は何とか小梅の実を採り、カリカリ梅を作っていきたい。

P2080026  本堂内左脇には大きな「涅槃図(ねはんず)」の掛軸が飾られてあった。二間(3.6m)四方もある大きな「涅槃図」に息を飲む。

 「2月15日がお釈迦様の入滅の日になっていますが、2月一杯飾っております。江戸後期に描かれたものと思いますが、カメラでの撮影は拡散されるので固くお断りします」と住職は突然の来訪者である私を本堂に案内してくれた。

 栃木市万町にある古刹、浄土宗「三級山天光院近龍寺」。中国の故事に鯉は三段の堰を上ると龍に転じて天に昇るところから、その名が付けられたといわれている。

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 境内には平成22年(2010)に三佛堂(聖観世音菩薩さま、旧地蔵堂のお地蔵さま、子育安産・学業成就の呑龍上人などを祀る)が建立されている。また、北側の墓地には文豪山本有三の墓地などがあり、栃木市在住の著名人のお墓などたくさんある。

 「万町とはヨロズチョウと読むのですね」と小学6年のころ、他県から赴任してきた先生が言ったことが思い出される。私の生家は万町交番裏の東裏通り(通称明治座通り)にあり、家の前には万福寺用水が流れていた。その用水路沿いに近龍寺があった。呑龍さんのお祭りの日には近龍寺に遊びに来て、山門前の出店「煎餅焼き」を食べた記憶がある。

 明治・大正と栃木町の第二小学校、栃木女学校で過ごした女流作家の吉屋信子は、昭和33年(1956)に「暮しの手帖」に「おもいでの町―栃木」を執筆している。

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 令和元年(2019)10月10日の栃木市文化講座「吉屋信子の生涯と作品世界」の中で、講師の元栃木女子高校長、吉屋信子記念会副会長の藍田收氏から「おもいでの町―栃木」が紹介された。講師にその作品が載っている本を訊ねたところ、後日コピーが私のもとに送られてきた。

 「おもいでの町―栃木」には「川のある町」「母校の庭」「町裏」「祭の町」「涅槃図を観た寺」と栃木町で暮らしていた頃のことが、簡潔に執筆されている作品になっている。

 とりわけ「涅槃図を観た寺」では寺の名前が記されていないため、藍田氏に電話したところ「近龍寺ですよ。2月8日に近龍寺へ行けば観ることができます」と教えていただいた。2月8日の早朝、扉が開いている玄関口に立ち、本堂に飾れてある「涅槃図」を観ることができた。

 簡潔に近龍寺「涅槃図」ことが綴られている文章は堂内に飾られてある光景とそれを観る少女の姿が伝わってくる。短い文面になっているので、全文を記載させていただきます。

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おもいでの町―栃木―

 涅槃図を観た寺

          吉屋信子 著

 この小さな町としては堂々たる寺院だった。

 子供のわたしはこの寺で涅槃の絵を見た。

 お釈迦さまが入滅の床に大きなお姿を横たえていられる傍の沙羅双樹(さらそうじゅ)の梢の上に白い月が描いてあった。

 そのまわりに仏弟子と共に、あらゆる獣や鳥も集まってお釈迦さまへの別れを悲しんでいた。虎が両手を顔に当てゝ泣いていた。

 そのなかに〈猫〉だけが居ないのだと聞かされて、わたしは背教者の猫がその時、仲間はずれの堪えていた気がしてかわいそうだった。

 その――金泥と胡紛で描かれた涅槃絵をわたくしはいつまでも眺めていた。

 寺のねはん会のある早春の一日の真昼だった。

       「暮しの手帖34 1956」より

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 広い本堂の本尊左側に飾られてある近龍寺の涅槃図。たくさんの動物たちが描かれている中に左下に猫が描かれている。吉屋信子は見落としたのだろうか?それとも涅槃図には猫は描かれていないという思い込みがあったのだろうか?

 一説によると、沙羅双樹の木に引っかかった薬袋を取りに行こうとしたネズミを猫が邪魔したため、お釈迦さまが薬を飲めず亡くなったということから、涅槃図には猫は描かれていないという。しかし、生きとし生けるものは釈尊の涅槃を嘆くとして、江戸後半期の「涅槃図」には猫が描かれるようになったといわれている。

 P2080020  近龍寺の創立から堂塔伽藍などを記述した八百谷孝保著の「近龍寺雑記」に享保12年(1727)の本堂内の様子を次のように記されている。

 「本堂は西向きに建てられ間口七間半奥行六間半の向拝付である。内陣・外陣・御所の間二つ・次の間二つとなっている。内陣には中央に阿弥陀三尊、脇に可ト上人御影(木造椅子)、代々並びに三界万霊の位牌を安置し、その前に前机をそれぞれ置き、上に燭台、花立、香炉、盛物台銅仏器を置き、前に導師用礼盤をすえる。又、喚鐘、大鏧、鉦鼓、双盤、鐃。鉢等を供えており、まわりには華曼四面、幡六流をかけ、天井からは天蓋をつるしている」

 この文面から本堂内のあでやかさという雰囲気が伝わってくる。

 その豪華な近龍寺本堂内に飾られた涅槃図のお釈迦様は、画面中央、宝台の上に頭を北に向け、お顔を西に向けた姿で描かれている。本堂は西向に建てられていることから涅槃図そのものが「頭北面西」ということで飾られていることになる。西方浄土を連想させるあでやかな掛軸である。静かに首部を垂れる私がいた。しかし、写真に撮ることができなかったのが残念……。

 近龍寺を訪れるたびに向拝堂上に飾られるてある龍の彫り物が気になっていたが、迫力ある龍の彫り物である。彫師は「近龍寺雑記」に文化3年(1806)本堂再建の際に棟上記録から大工13人の名前の次に彫物師棟梁として「秋葉金次郎宗玄」と記されている。何者かはネット検索では出てこなかった。おそらくは東照宮彫刻の流れの中の彫師ではなかったのではないかと推測する。彫師「宗玄」に注視していきたい。

Pb300103  本堂玄関口を出ると、塀に囲まれた墓地がある。墓地内には釜屋系列の四代目善野喜兵衛の墓石がある。「歌麿活を活かした街づくり協議会」によって「案内標識版」が歌麿のゆかりの人物や建物跡地に建てらてある。

 善野喜兵衛は狂歌師「通用亭徳成」を名乗っていた関係で喜多川歌麿が何度か栃木町に来たといわれている。歌麿の大作、肉筆画「品川の月」「吉原の花」「深川の雪」は豪商善野家の依頼で栃木町で描いたといわれている。しかし、実際に歌麿が栃木で肉筆画を描いたという古文書など史料はなく、推測になっている。

 確証としての史料を探している人はいると思えるが、歌麿の画法など研鑽することより観光キャンペーンとして「歌麿まつり、花魁道中」を栃木市が力を入れて取り組んでいることに疑問もある。市教育委員会から「花魁道中」はまずいということから「歌麿道中」と名称を変えての開催する(令和元年は台風水害のため中止)。吉屋信子が「ときの声」の中で記している人身売買のデモステレーショである「花魁道中」を臆面もなく実施していく栃木市。歴史博物館のない栃木市の歴史への思いをみるようである。

P2240004  2月早春の朝日をあびて「ポン太」は発泡スチロールの箱のなかで佇む。体重6.7キロの大きな猫だが、汚い水を飲んだせいか、口内炎になってしまった。私も入院中に口内炎にかかり、食事に苦労した経験がある。

 3週間に一回、動物病院に連れて行き、痛み止めの注射をしてもらいながら、1月22日に歯を2本抜いた。口内炎を治すための抜歯であったが、結果はまだ分からない。動物病院に連れて行かれるのが嫌で、私の姿を見ると逃げることもある。「お前のために病院に連れて行っているのが分からないのか」と怒鳴ってても、関係ねいといって外に飛び出していってしまう。

 2月はもうすぐ終わる。ジャガイモの畝づくりを始めていくことにする。

           《夢野銀次》

≪引用参考資料本等≫

吉屋信子著「おもいでの町―栃木―」(『栃木の文学収録』収録、平成18年9月栃木県高等学校教育研究会国語部会発行)/一行院住職八百谷孝保著「近龍寺雑記」(昭和45年11月、近龍寺発行)

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