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上州倉賀野宿を歩く①…飯盛女の墓石「九品寺」

31xyudfphsl1 〽つらくても がまんをすれば

 きっときますよ 春の日が

 あなたの口癖 あなたの涙

   命なげすて 育ててくれた

 子供ごころに 香りを残す

 花は越後の 花は越後の 寒椿

 (「雪椿」昭和62年6月、作詞:星野哲郎、作曲:遠藤実、歌:小林幸子)

Yjimage5 新潟生まれの小林幸子が作詞家星野哲郎に初めて作詞を依頼してできた曲「寒椿」。星野哲郎と小林幸子との間で、10歳で「嘘つき鴎」でデビューしたが、長年ドサ回りなどで苦労した頃、見守ってくれた母のことの思い出が話され、この「寒椿」の作詞が生まれたといわれている。

 星野哲郎が描く作詞には「出世街道」「兄弟仁義」「男はつらいよ」「いっぽんどっこの唄」「風雪流れ旅」など「人の世を生きる様の姿」を描いた歌が多い。「寒椿」は新潟生まれの遠藤実の曲と相まって、薄幸の中で娘を見守る母の姿と我慢強く生きる越後生まれの娘が浮かんでくる歌である。

 「雁会(かりがねかい)の人たちが、本堂脇にたくさんあった墓石の中から飯盛女の墓石を探し出したのです。その墓石をここに設けているのですよ」と飯盛女の墓石を案内してくれた九品寺の住職。果たして、うら若い娼妓にとり、つらくても我慢をすれば春の日を迎えることができたのだろうかと問いかけながら倉賀野宿を初めて訪れた。

P2210076  室町時代の延徳3年(1491)創建の九品寺は高崎市倉賀野町にある浄土宗の古刹である。JR高崎線倉賀野駅から旧中山道に向けて歩いて5分の処にある。

 「飯盛女のお墓はどこにありますか?」と玄関口で尋ねると、住職は私を境内墓地入り口の右側に並ぶ6基の飯盛女の墓石を案内してくれた。

 「墓地に入る処に俱会一処(くえいっしょ)が建っているでしょ」と言って、境内墓地に入る手前の左側に墓石を積み上げて高くそびえる「俱会一処」の塔を示してくれた。「たしか昭和60年頃だったと思います。雁会(かりがねかい)の人たちが本堂脇に放置されていた墓石の中を丹念に飯盛女の墓石をお調べになさっておりました。取り出した飯盛女の墓石5基、後から1基が追加されまして、飯盛女の墓石としてここに設置し供養させていただいております。残りの墓石でこの俱会一処を建てたのです」

P2250025  俱会一処の塔を見ながら住職は、「この墓石の中にはまだまだ飯盛女の墓石が埋もれていると雁会の人たちは思っていたでしょうね。俱会一処はお仏さまになれば、どんな人でもみんな一緒ということを意味します」と話してくれた。

 阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができるという俱会一処の塔。これまで訪れた浄土宗の寺院にあったかもしれないが、九品寺の住職に教えられ、初めて俱会一処を知った。

 倉賀野史を調査研究していた「倉賀野雁会」は、「史料による倉賀野史1巻~3巻」等を発行するなど精力的に活動をする地域史研究会であった。しかし、帰路に立ち寄った公民館の方から現在は雁会がないことを聴いた。倉賀野の町を歩きながら歴史的な根拠を示していった活動は倉賀野地域史に大きな貢献を行ったと思えてくる。

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 整然と並べられてある5基の飯盛女の墓石を見る。わずかに「清水屋」以外に読み取ることのできないほど墓石は劣化している。飯盛旅籠の主人が供養して建立した墓石が並んである。できれば案内標識版が建っていれば飯盛女の墓石とすぐ分かるのだが…。

 5基の墓標銘については「文献による倉賀野史第3巻」(倉賀野雁金発行)とブログ「隠居の思ひ記九品寺」を参照して、写真右の墓石から順に記載していく。

①慈教信女位 田澤屋栄之助 娘はま 行歳廿才

 (左側面)越後國三島郡石地宿

 (右側面)文久二找裁七月八日

②歸眞迎観信女霊位 

 (右側面)越後國蒲原郡柴田領沼垂内山木戸村

      角蔵娘よしきく 行年廿四才

 (左側面)寛政八丙辰十二月晦日 施主 永井儀兵衛

P2210071 ③飯元教瀧信女

 (右側面)北越後長岡産、字ハ瀧、幼少より半哺乃た免、当所のちまたに奉公して龍在、疾して行年二十にしてみまかりぬ、死生の風に散りぬ念悼して是を立碑するもの也 施主日野金井 和泉屋主人

 (左側面)寛政十一年巳未四月廿二日

④越後新潟平次娘きく墓

 越後三条浦館村 こよ墓

 越後大宮嶌村 女へて墓

 越後三條久兵衛女りよ墓

 (右側面)へ観了尼享和三 六月三日

      り稀月尼文化三 正月三日

 (左側面)き旭雲尼享和四 二月十九日

      こ頼覚尼享和三 五月廿九日 清水屋

⑤法月妙性信女

 (左側面)文政二卯十一月十五日

 (右側面)越後国長岡中原町 権介娘やの

P2250028  「越後生まれの娘さんが多かったと聞いております」と住職のつぶやく言葉が聞こえた。5基の墓石で名前の刻字されている飯盛女8人はすべて越後生まれになっている。

 群馬県史や太田市史編纂等に携わってきた五十嵐富夫氏は著書「飯盛女―宿場の娼婦たち」の中で、「九品寺において発見された飯盛女の墓石26基中、越後出身と記されたものが19基と非常に多く、倉賀野宿では、越後出身の飯盛女が圧倒的に多かった」と記している。発見された26基の墓石については住職も分からないと述べていた。

 九品寺境内以外に保存されている墓石については群馬県立博物館等の学芸員に確認していく必要があるのではないかと思えてくる。

 同じく五十嵐富夫氏の同書では、中山道、奥州道中、日光例幣使道の宿場に越後出身の飯盛女が多かった理由について、佐藤信淵の越後の習俗の『越後国は赤子を殺すこと甚だ少し。その代わりに女子をば、七、八歳以上に至れば夥しく他邦へ売り出す風習とす。故に北越の買婦は一箇の物産なり』ということを引用し、いずれ売ることになるため間引きが行われなかったことを記している。

P2210062  さらに五十嵐氏は「世事見聞録にも『国々の内にも越中・越後・出羽辺りより多く出るなり』とあり、上記の国々が遊女や、飯盛女を最も多く産み出す国としてあげているが、これらの国は雪国であり、みな同じ一毛作地である。一毛作地は関東以西の二毛作地に比べて、夏季に冷害・干害・洪水に見舞われると、それが直撃弾のように一家を悲劇のどん底につき落としてしまう。それでも武士の年貢収納は容赦なく頭上におそいかかる」という一毛作地帯雪国の厳しい環境であったことを記している。

 ③の『版元教瀧信女』の墓石については「瀧は幼年より反哺(はんぽ)のため、当所のちまたに奉公して龍在、疾して行年二十にしてみまかりぬ」と20歳で病にて亡くなったことが刻まれている。「文献による倉賀野史第三巻」の中では、「反哺とは口中にある食物の意で、鳥が幼い時、親鳥に養われた恩返しとして食物を親に与えること、転じて子が成長し、親の恩に報いる孝行という語である。瀧が幼少の頃、苦しい家計を助けるために倉賀野宿の飯売(飯盛)旅籠屋へ身売りされて来たこと、これが反哺という言葉で表現しているのであろう」と記されている。

 P2210074  幼児のころに奉公にあがり、わずか20歳で亡くなっていった瀧に念悼して墓碑を建てた和泉屋の主人は近江国日野の出になっている。近江商人の流れなのか?群馬県出身の俳優の東野英治郎の祖先も近江商人であった。栃木宿も近江商人の出である善野一族があることなど、関東には近江商人が多数移住してきているのではないかと思えてくる。

P2210056   徳川幕府は 人身売買を禁止していた。しかし、10年年季奉公以内ならば奉公を認めることにした。5歳~6歳の幼児や15歳から奉公する名目は年季奉公となっていたが、実質は娼妓としてからだの縛られる身売りになっていた。

  参勤交代などで幕藩体制の維持を図った徳川幕府。そのため5街道をはじめ脇街道に宿場を作り、街道の整備をすすめた。徳川幕府は道中奉行支配の東海道や中山道の5街道や日光例幣使道など脇街道の宿場に公儀御用の旅人と荷物の継立を行なう人馬設置を厳命した。そのための宿場の役割の第一は人馬荷物運搬の継立であり、人馬を常時確保し対応していかなければならなくなっていた。継立を円滑にすすめるためには人夫など経費がかかることになる。宿場の金回りをよくする必要があり、その方策として宿場役人は宿場に飯盛旅籠を設置し、多くの旅人を引き寄せることで宿場財政を豊にしようとした。

 近世女性史研究家の宇佐美ミサ子氏は「飯盛女は飯盛旅籠を巧みに利用し徳川幕府の権力体制である宿駅制度の維持を底辺で支えていた」と指摘をしている。厳しい年貢の取り立てと宿駅制度維持のため、必要とされた年若い娘が身売りという犠牲を強いられていったのだ。

 「文化・文政」など江戸後期の年号が刻まれた墓石が多数ある九品寺から住職にお礼を述べ、山門からすぐの旧中山道に歩みを進めた。

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 中山道倉賀野宿は江戸から12番目の宿場になっている。宿場入り口には日光例幣使道に分岐する標識石塔と常夜灯が建っている。

 私の住んでいる栃木市の大通りは日光例幣使道であり、この分岐点から栃木宿につながっていることになる。「ここからわが家まで何キロ歩けばいいのだろうか?岩鼻代官所もここから近い。今度、例幣使道を歩いみるかな」とふと思い浮かんだ。

 P2210106_20200305064001  倉賀野の宿場の長さは全長11町39間(約1.2㎞)。天保14年(1843)の『中山道宿村大概帳』では宿内家数は297軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠32軒で宿内人口は2032人であった。明治16年の鉄道敷設まで利根川に合流する烏川の舟運河岸として栄えたといわれている(ウキベリアより)。

 飯盛旅籠の数は、新編高崎市史通史篇に天保十三年(1842)の「旅籠屋渡世書上帳」に「旅籠数36軒、うち飯盛旅籠屋32軒、平旅籠屋4軒」と記載され、堅苦しい城下町であった高崎宿旅籠15軒より多かった。1軒2名と定められていた飯盛女だが、超過人を含めると飯盛女の数は70人~80人いたのではないかと推測される。いずれも十九歳がピークの飯盛女は年季明ける前に亡くなっていく定めであったとされている。

 若い娘にとり過酷な環境の中で生きる支えは何であったのだろうか?そうしたことを考えながら旧中山道倉賀野宿を歩いていきたい。 

                《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

「文献による倉賀野史第三巻」(昭和62年9月倉賀野雁会発行)/五十嵐富夫著「飯盛女ー宿場の娼婦たち」(昭和56年1月、新人物往来社発行)/ブログ「隠居の思ひつ記・史跡看板散歩ー54九品寺」(2017年7月22日配信)/宇佐美ミサ子著「宿場と飯盛女」(2000年8月、興英文化社発行)

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