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みづきさやけき太平の~「栃商百年誌」を読む

93041  栃木市は、市民の生涯学習やまちづくり・地域づくり等につながる活動を支援するための施設として、令和2年(2020)6月27日に「とちぎ蔵の街楽習館(市民交流センター)」を開館している。

 今年(令和2年)の10月3日から始まった栃木市文化講座で初めて楽習館の中に入った。明るい開放的はラウンジや学習室には土曜日ということもあり、勉強している高校生がたくさん見受けられた。

 楽習館は栃木市旧中央小学校(旧栃木第一小学校)の校舎をリニューアルしてオープンしている。そして、大正6年(1917)3月に栃木商業高校の前身、栃木実業補習学校が旧第一小学校西の校舎にて開校となり、4月より授業が開始された。いわばこの地は栃木商業高校発祥の地になる。楽習館駐車場の隅に「栃木商業高校発祥の地」という石碑を建てることを考えてもいいなと思えた。

栃商創立百周年記念

Pa050111  大正11年(1922)に栃木町立栃木商業学校になった通称、栃商は大正14年(1925)4月に現在の栃木市片柳町5-1-30に移転し、5学年制(定員500名)で授業が開始された。

 開校して100年。平成29年(2017)の10月には「創立100周年記念式典」が栃木市文化会館にて開かれている。寄付金3万円以上の人は招待されたが、1万円寄付の私には届かなかった。

 「栃商同窓会会報誌」には、創立100周年記念事業寄付者の氏名一覧が掲載されている。中でも1000万円を寄付した新村武志元商業科教諭には驚かされた。在学時に珠算部顧問としてお世話になったが、人生そのものが栃商と共に歩んできた先生なのだとしみじみと感じ、その重さを受け止めていきたいと思えた。

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  記念事業の一環として「栃商百年誌」が発行されている。2年前に大平町図書館で閲覧した。その時、栃商の校歌の作詞が戦後、改訂されていることを知って驚いた記憶がある。

 もう一度、読むことを決めて栃木商業高校に行き、一冊5000円で「栃商百年誌」を購入した。

 「栃商百年誌」を読みながら、①終戦間近に工業学校に転換し、中島飛行機工場下の工場として学校工場になっていたこと。②昭和25年(1950)に時代にそぐわない校歌の詞を教員で構成された委員6人で一部改訂して現在の校歌の詞になっていること。③図書館紀要を昭和41年(1966)から昭和52年(1977)まで早乙女祥教諭図書館部長を中心に発行していること等が目に留まった。

 以下、「栃商百年誌」を読みながら上記3点を中心に栃商への思いを綴っていくことにする。

戦時下の学校工場から戦後、県立商業高校になる

Pa050121 太平洋戦争末期、敗色濃厚な日本は軍需産業への労働力を中等学校学生や高等女学生に求め、勤労動員として戦争参加に加えていった。連動して戦争遂行のため栃木商業学校は栃木工業学校に改められている。

 すでに昭和19年(1944)10月1日より栃木女学校(現栃木女子高校)では校舎内体操場が学校工場になり、飛行機エンジンカヴァー作りが始まっていた。

 「栃商百年誌」では、旧職員の藤平宏氏が「思い出」として昭和20年(1945)7月の「学校工場」についての寄稿文が記載されている。

 Pa050109 「2年生の一部は栃木機械製作所に、2年生の残りと1年生は学校工場作りの作業、防空壕作りにあけくれ、授業らしいものは殆どなかった。(昭和20年)6月中島飛行機から栃木工場長となる人をはじめ作業員が配置され、二棟の床をとりはずした建物に飛行機の胴体組立治具が20台分据え付けられた。7月には葉鹿工場で実習していた3年生が実際の仕事にかかったが、果たして飛べる飛行機が出来るかどうか私自身確信はなかった。何回も鋲うちに失敗してはやり直し、やっと胴体が出来るようになったところで終戦になった」

 第2・第3校舎の床を取り外してできた学校工場からは、製造された飛行機胴体は結局納入されなかったことになる。在学当時は木造建物で授業を受けていたが、その教室が飛行機胴体組立作業場になっていたのだ。私が卒業後、すぐに鉄筋コンクリート作りの新校舎の建設が始まっていったことは「百年誌」から読み取ることができた。戦時下の中、栃商のあの木造校舎が学校工場になっていたことについては受け止めていく必要がある。

 昭和20年8月15日の終戦を受け、中島飛行製作所によって組立治具が解体整理され引き上げられていったと記してある。

 終戦後、転換されていた栃木工業から栃木商工学校を経て栃木商業学校になっていく。しかし、昭和23年(1948)の学制改革から栃木市の財政難を理由に県立栃木高校への吸収案が浮上した。多くの人による存続運動が展開され、昭和25年(1950)に女子部併設とした栃木県立栃木商業高校になり、現在へと続いている。

卒業生と在校生が共に歌える校歌に一部改訂

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 所沢に住んでいた現役の頃から東京六大学野球や高校野球埼玉県大会へ球場に足を運び、よく野球観戦に行っていた。

C23002cd460f42fb2c8e947262010e141  10年前に生まれ故郷の栃木市の戻った時から、春、夏、秋の高校野球栃木大会に観にいくようになっている。とりわけ、母校の栃商の試合が気になり、出来るだけ観に行くようにしている。栃商の試合では野球の応援と併せて球場で栃商校歌を聴く楽しみもあるからだ。

 私にとり栃商校歌は卒業後も己を鼓吹する時に自然と「♪みづきさやけき太平の~ 理想に燃える吾等あり」と軽快なテンポで口ずさんで出てくる校歌であった。 

 作詞の相馬御風(そうまぎょふう)は「都の西北早稲田の森に~」の早稲田大学校歌、「カチューシャ可愛や~」のカチューシャの唄、「春よこい」の童謡など今も歌われている作詞者、詩人でもある。

 7d80452a1 作曲は「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」「雨降りお月」「波浮の港」「船頭小唄」「東京行進曲」の中山晋平になっている。

 ともに日本を代表する名曲を手掛けてきた作詞作曲者であり、そのことが栃商校歌を誇りに抱く気持ちにもなっている。

 「栃商百年誌」には昭和14年(1939)の校歌制定と昭和25年(1950)の作詞一部改訂の経緯が記されている。作詞が戦後に一部改訂されていることを知らなかった私にとり、「何なの?」「どういうこと」と思い、百年誌を紐解いた。

Pa050116_20201011040801  「栃商百年誌」に記載されている経緯を要約すると、「昭和14年(1939)に5年制3回卒業生が母校卒業10周年を記念して体操教師の石崎功氏に記念品贈呈の話が持ち上がり、校歌を贈ることになった。

 作詞は当初は山本有三氏にお願いしたが、山本氏より専門外ということで相馬御風氏が紹介された。当時の校長と石崎氏が相馬氏の住む新潟県糸魚川を訪れ、作詞の依頼を行なった。引き受けた相馬氏の紹介で作曲は中山晋平氏が担当し、旧制高校の寮歌的な趣きのある校歌が完成した」と記述されている。

   戦後の学制改革により、栃商は昭和25年(1950)に女子部が併設されて県立高校になった。同じ栃木市内では、昭和17年に校歌制定した栃木農業高校を除き、相馬御風が校歌作詞した栃木高校と栃木女子高校ではまったく新しい校歌が作成、制定されていた。

 栃商においても戦時下に作成された校歌から新しい校歌作成の話があった。しかし、財政難であることから、従来の校歌の歌詞を一部修正すれば、戦前の卒業生も在校生も共に歌えるということで、校歌の作詞を一部改訂していくことになった。改訂委員には6人の教職員が選ばれ、同年昭和25年の7月に歌詞の一部が改訂された現在の校歌が完了した。

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 戦時下の中での歌詞には、皇国とか、すめらぎ(天皇)などがあり、戦後の新しい時代にそぐわない箇所もある。従来の中山晋平の曲を活かすことから歌詞の一部改訂は当然のことであったと思えてくる。「栃商百年誌」の中の校歌には原詞:相馬御風と記されている。栃商ホームページ掲載の校歌には作詞:相馬御風となっている。正しくは「原詞:相馬御風」ということになる。

旧歌詞と改訂された校歌から歌詞の比較

 相馬御風の原詞と下段( )内が改訂した現在の歌詞を比較してみる。

一、神寂び立てる太平の 山の麓の学舎に

  (みづきさやけき太平の 山の麓の学舎に)

  四海圧する皇国の 興隆の精気血に享けて 

  (希望はてなき日本の 文化の潮血とたぎる)

  見よや商業報国の 理想に燃ゆる吾等あり 

  (  〃        〃      )

二、あしたの庭にすめらぎの 宮居拝みて信固め

  (あしたの庭に友垣の 研さん固く励み合い)

  ゆうべの窓に省みて 真心の曇り打ち払ひ

  (  〃      真如の月のいやましに)

  共に質実剛健の 道一すじに進まばや

  (共に勤倹力行の   〃    )

三、永野の川に身を清め 遠く日光何体の

  (  〃      遠く日光男体の)

  雄姿望めば意気揚がる 報徳の権化二宮の

  (  〃       報徳の欣求伝統の)

  至誠とこしへここに生く 吾等の前途光あり

  (  〃         〃    )

Pa050120 改訂される前の相馬御風の歌詞には、地方の栃商若者たちが太平山、永野川、日光男体山を背景にして皇国の興隆に向けて飛び立っていく姿が作詞され、中山晋平の曲とあいまって生き生きと描かれている。

 相馬御風は大正5年34歳の若さで家族ともども東京から故郷糸魚川に帰住し、隠棲しながら詩作や良寛を研究し、200曲以上の校歌を作詞している。

 大星光史氏は著書「相馬御風・会津八一、人生の歌」の中で相馬御風について、「『自然の前に立つ我』として、明日の糧である米を作る地方人のたくましさを詩作などを通して書いている」と評している。

Pa050118  原詞冒頭の「神寂び立てる太平の~」から改訂詞「みづきさやけき太平の~」には神の宿る太平山から「若々しくすがすがしい太平山」に直され、新しい時代になったことの意味が込められいる。

 さらに、原詞の「四海圧する皇国の興隆の精気血に享けて~」は「世界を圧倒する日本の勢いを盛んになる力を享けて」という意味から「希望(のぞみ)はてなき日本の文化の潮血とたぎる」と改訂し、これからの平和な文化国家を担っていく若者たちには熱い血が沸き上がるという意味になってくる。これらを受けて最後の「見よや商業報国の理想に燃ゆる吾等あり」につながり、原詞と改訂詞が一体化した歌詞になっている。

Pa050119 原詞と改訂歌詞を比較すると昭和25年という年代が浮かびあがってくる。戦後民主主義へと変移していく時代背景の中で、若々しい新鮮な若者たちがこれからの新生日本に向けて歩んでいく姿を読み取ることができる。

 そう考えると、昭和24年(1949)の西条八十作詞、服部良一作曲の「青い山脈」の新しい時代に向かっていく若者たちの姿を歌った作詞に共通しているように思えてくる。原詞を改訂した6人の委員の新しい時代への思いが込められていることが推察される。改めて現在の栃商校歌が素晴らしいものだと実感することができる。

 これからも高校野球を観ながら栃商校歌を口ずさんでいくことにする。

栃商「図書館紀要」の発行

Pa060127 「昭和42年(1967)、本校の図書館は『1966年度図書館紀要』創刊号を発行した。当時の図書館部長であった早乙女先生が提案した企画であった」と栃商百年誌に記されている。

 栃商で図書館紀要が発行されていることを初めて知った。それも私が卒業した昭和42年3月に発刊されていたことになる。「紀要」は学術研究書として「古文所研究所」、大学や短大で発行している。高校で紀要を発行する学校は少ないが、図書館紀要となると、ネットでは早稲田大学図書館紀要しか見当たらない。早稲田大学卒業の英語教師の早乙女祥教諭にとり、早稲田の図書館紀要が頭にあったのではないかと推測する。

 栃木商業高校の窓口に行って、「図書館紀要創刊号(昭和42年3月発行)~最終号の12号(昭和53年2月発行)」を見させていただいた。栃木図書館には5号~8号、10号~11号まで郷土コーナーに置かれてあった。

Pa060133  創刊号の最初は松本弘一郎学校長の「先哲の垂訓」という寄稿文を載せている。在学生徒からの「現代っ子本を語る」という寄稿文。商業科教諭の「現代経済学への琹(きん)、マルクスケインズシュムベータ―」から随想、教諭と生徒の「青春とは何か?」という座談会と読書調査欄が載っている。

 とりわけ眼を引いたのは「図書館講座」である。この図書館講座は以後定期的に開催していっていることに驚いた。創刊号の図書館講座は、「美術書の見方に就いて(塚原哲夫)」、「川柳のはなし(高松祐一)」、「語源について(宮田実)」、「都市化の問題点(白沢久弘)」、「日本経済、どうなるか(鶴見清美)」、「簿記の歴史について(塚越栄治)」になっている。執筆者の高松祐一・宮田身実教諭は3年、1年次のクラス担任であり、白沢久弘教諭には1,2年次に地理、西洋史の授業を受けた懐かしい先生たちの姿が浮かんできた。

 図書館講座の生徒の参加者数は分からないが、以後、放課後等に講座が開かれる案内が図書館紀要に載っており、授業とは一味違った教師と生徒を結びつける講座になっていったのではないかと思える。

Pa060130  創刊号の次からの図書館講座の主な講座名を列記すると、「アラブの心」、「お化けの正体」、「我国経済の過去と現状」、「女と数学」、「宇宙の神秘」、「アメリカの音楽」、「女性と体育」、「樋口一葉の世界」、「原子力と放射化学」、「青年期」、「心について」、「焼け跡の青春時代」、「藤子不二夫のマンがに現れた毛沢東」、「加波山事件発生の史的前提」、「物価が何故上がるか」、「商法改正案解説」、「新しい旋律の1時間」、「民話のふるさと」、「女子高校生の心理」、「歴史に現れた女性」、「日本簿記史の一断面」、「アメリカにおける監査会計の発達」、「私たちと中国の人びと」、「自分の先祖を調べよう」、「光化学スモッグ、その影響」等々、多くの教師が講座に参加していることを見ることができる。

 また、研究ノートとして2号での2年次担任教諭の吉羽和夫先生の「伝承技術は過去のものか」というライフワークである道具史の研究ノートが寄稿、掲載されているのを見て、嬉しさを噛みしめた。

Pa090005   栃木の自由民権運動を研究していた大原悦子さんは、栃商の社会科教諭として14年間勤め、退職後は栃木市女性史研究会など栃木市に生きた女性史の冊子など編集発行する活動をしていた。2年前、亡くなる直前に大原さんから「栃商の図書館は凄い、良い蔵書がたくさんありました。また牛ちゃんこと早乙女先生など個性的な教師が揃っていましたね」というメールをいただいた。

 「ギューちゃん」と呼ばれて親しまれた英語教諭の早乙女祥先生は演劇部の顧問もしていたが、私に、「早稲田の演劇博物館を紹介するぞ」と言ってくれたことを今でも覚えている。その早乙女先生は昭和32年から52年3月まで20年間勤めた栃商から栃木女子高に転任していった。そのためか、図書館紀要は翌年の昭和53年2月の12号でもって廃刊になっている。

Pa090007  栃商の事務室で「図書館紀要」を閲覧し、あわせて、図書室を見せて欲しいとお願いしたところ、教頭先生が私を4階にある図書室に案内してくれた。

 図書室に入り「蔵書が思ったほど少ない」という印象を受けた。案内してくれた教頭先生の話では2011年の東日本震災で校舎の4階、図書室近辺が被害にあい、その時に破棄した蔵書がかなりあったのではないかと説明してくれた。

  Pa090008  確かに教頭先生の説明通り、「栃商百年誌」の中では、東日本大震災により「本校舎の管理棟4階東の部分が南側に傾くという大きな被害を受けた。その後、管理棟4階の東部分(旧進学学習室・ブラウジングルーム・書庫)は減築され、隣接した図書室は改修となった」と記載されてある。4階の東部分が減築されているということになる。

Photo_20201013052401     早乙女教諭は図書館紀要3号(昭和43年10月発行)の中で、「本館4階の全てを占有して、新図書館は成った。積年の望みが、積年の無数の人びとの努力によって成ったのである。現在の生徒諸君数千人たち、その視えない、凡そ、ひとりびとりでは、か細く、貧しい手の群れによって、この新しさが生まれたのだと言っても良かろう」と4階フロワー全部に新しい図書館が設置されたことの喜びが記されている。

  さらに、「この図書館にも大正期創立当時の蔵書がある。それは旧図書館に積まれたまま日の眼を見ることはなかった。いま、新書庫によって再び蘇り、無言の祝福をわれわれに与えているように思える。古きものも、新しき力によって、新しく生き返らせねば」と記し、大正期からの蔵書が蘇ることに感動している。

 案内してくれた教頭先生にはお聞きすることができなかったが、大正時代創立期の蔵書が東日本大震災の被害を受けて、現在も書庫に現存しているのかどうか、あるならば見てみたい気持ちもするが、いずれ機会があったら訊ねていこうかと思う。

Pa090011  早乙女教諭は栃商を去る際に「図書館紀要11号(昭和51年12月発行)」に編集覚え書きとして、「この学窓を去ってゆく人々が、例えば、卒業アルバムを時に触れてひもとくように、この小さな冊子(図書館紀要)を見てくれればいいと思う。これは決して消極すぎる願いではない。先頃死んだフランスの名優ジャン・ギャバンの代表作に『大いなる幻影』というのがあったが、文字という伝達法は執拗な幻影であると思うからである。急ぐ必要ない」と結びにかえている。

 ジャン・ギャバンの「大いなる幻影」は観ていないが、「栃商100年誌」を読みながら、あるいはながめ乍ら、文字によって私に伝わってきたものは何なのか。そう問いかけてくる。高校時代の十代のころに思いをはせ、蘇らせることだったのか。早乙女教諭が言う100年という事実の世界を幻影の領域としてを見ることができたのか。…分からない。「栃商百年誌」の後半部分から現在にかけてはまだ読んでいないので、これから急がずに読んで、考えていくことにする。

                    《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

「栃商百年誌」(平成29年10月、栃木県立栃木商業高等学校発行)/「栃商同窓会会報誌第24号」(平成30年6月、栃木商業高等学校同窓会発行)/「栃商図書館紀要創刊号~12号」(昭和42年3月~昭和53年2月、栃木商業高校図書館発行)/大星光史著「相馬御風・会津八一 人生と歌」(1982年4月、考古堂書店発行)/「栃高百年史」(平成8年11月、栃木県立栃木高等学校発行)/「栃木県立栃木女子高等学校創立80周年記念誌」(昭和56年10月、栃木県立栃木女子高等学校)/「栃農百年誌」(平成18年10月、栃木県立栃木農業高等学校発行)

 

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コメント

夢野銀次様

 初めてのコメント大変失礼いたします。
 現在、通学のため県外におりますが、栃木市大平町出身で大学生をしている者です。
 日々スマホを片手にブログが更新されるのをとても楽しみにしております。栃木を中心に、時代を問わず豊富な情報と興味深い夢野様の記事の一つ一つに毎回驚かされるばかりです。中学生の時に榎本城の記事を拝見して以来、郷土を学ぶための数少ない貴重なツールとして利用させていただいております。中でも國府義胤の存在に大きな衝撃を受けました。川を挟んだ対岸の見慣れた地に、かつて幕末維新を生きた志士がいたことをこのブログで初めて知り、郷土への愛着を覚えました。
 学校の教科書で学ぶような大きな歴史のうねりの中、夢野様のブログを通してそれらの時代を確かに生きていた人々がおり、たとえ後世に名前が残らなかったとしても、彼らがいたからこそ今の現代がある、ということを感じました。歴史の面白さを実感し、また歴史を学ぶ意義を考えるきっかけの一つになりました。ブログの最後に提示されている参考文献も自分の学習に大いに参考にさせていただいております。
 長文で失礼しました。これからもブログを楽しみに拝見させていただきます。ありがとうございました。

源 近江守

投稿: 源 近江守 | 2020年10月13日 (火) 22時43分

源 近江守さん、コメントありがとうございました。故郷栃木に戻り、最初はどこか覚めたような気持ちで栃木を観ていました。しかし、最近はかつての栃木の風景を描きながら、現在の栃木のまちとの関わりを描くことができれば良いと思うようになってきました。残された時間は少なくなってきましたが、焦らずにすすめていこうと思っています。

投稿: 夢野銀次 | 2020年10月18日 (日) 04時14分

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