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2020年12月

巴波川散歩1…巴波川と幸来橋(念佛橋)

 川は町の顔

Dai1saku222221_20201226155801   「わたしが住んでいたころのカツシカ島(葛飾柴又)はね、水清く空澄みわたり、四季の花々が美しく咲き乱れ、人々が仲良く平和に楽しく暮らしていたんだよ」と奴隷船を破った海賊タイガー役の車寅次郎(渥美清)が故郷のカツシカ島に帰る時に夢の中で語る台詞。そして、タイトルバックに江戸川の河川敷きが映る中、葛飾柴又に帰ってくるおなじみの冒頭シーンの「男はつらいよ」シリーズ。

 童門冬二著「歴史探訪を愉しむ」の中で、著者は「わたしは、その町が好きか嫌いかのメルクマールを、町の中を流れている川が、きれいか、きたないか、ということにおいている。むかしから『川は都市(まち)の顔』といわれている」と記している。

 「男はつらいよ」の長いシリーズの中での江戸川の情景は、毎回新鮮な画面として映し出され、それがそのまま葛飾柴又の町の顔にもなっている。きれいに穏やかに流れる川は、その町の歴史と文化(平和)を表していると思える。

Pc070009  思えば小学生のころ、兄と一緒に川岸から釣り糸を垂らしていたころの巴波川(うずまがわ)の川面は淀んでいて、汚れていた記憶がある。

 わたしの母校、栃木第二小学校を1学年から栃木高等女学校まで栃木町で過ごした吉屋信子は「おもいでの町―栃木―、川のある町」の中で明治後期のころの巴波川(うずまがわ)をこう記している。

 「この町の中を巴波川という河が流れていた。その水の流れがこの小さなさびしい町にうるおいと風情を与えていた。河岸の白壁づくりの倉庫。その脇の河の石段を降りて洗いものをする人…。のどかな風景だった。幼女の頃の夏、この川の支流の浅い川底に黄ろい河骨(こうほね)の花が点々と咲いているのを、いつまでも倦かずに見つめているうちに、ふいと天地の寂しさを幼な心に覚えたのを、いまでも時々思い出す。(1956年暮しの手帖)」

 むかしは黄色の河骨の花が巴波川の橋の下などに咲いていたと古老の人が話してくれていたことがある。今ではほとんど見かけることができなくなっており、草花にあまり関心のなかったわたしには河骨の花の記憶は残っていないのだ…。

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 栃木市街を流れる巴波川が東に蛇行する下流左岸に吉屋信子の父・雄一が下野郡長を務めた下都賀郡庁舎のあった「うずま公園」がある。公園内には元栃木市長の「金子益太郎顕彰の石碑」が建立されている。

 昭和38年(1963)に第9代栃木市長になった金子益太郎氏は長年の無産者階級運動の経験を活かして、道路整備と併せて「市民本位の市政」として市民会館建設、交通遺児奨学金制度創設、流水プール等を造った。とりわけ巴波川に鯉を3万匹放流し、町の顔としての『巴波川をきれいにしよう』という機運を高めた市長であったといえる(石崎常藏著「栃木人、金子益太郎」参照)。

 一時期、汚い巴波川を暗渠にして駐車場にしようという案が浮上したが、多くの市民の反対でそれが断念されたという話は、わたしが44年ぶりに栃木に移り住み始めてから知ることになった。

Pc070007  現在の巴波川は昭和63年(1988)に「巴波川・蔵の街ルネッサンス」をテーマにして、栃木市は巴波川の水質浄化を含めた巴波川再生計画のとりくみを進めた。そして鯉のいる巴波川を生かしたまちづくりの一環として、平成2年(1990)から雑割石や松丸太などを使用した護岸・綱手道の整備を開始した。

 今では10万匹の鯉が群泳する歴史的舟運町の巴波川景観が形作られるようになる。その風情と景観は「鯉のいる街、蔵の街栃木」のシンボル、顔になっている。

Pc070011  思川小倉堰からの分水を始端とする巴波川は、かつては栃木市の北の川原田周辺の湧水沼を源とし、長沼や大かり沼など近辺の湧水沼の水を集め、灌漑用水として利用されていた。

 栃木町の舟運は、元和3年(1617)に徳川家康の霊柩を久能山から日光山に改葬した際、荷を栃木河岸に陸揚げしたことに始まるとされている。江戸へおよそ43里(170キロ)の舟運物資は巴波川-渡良瀬川-利根川-江戸川-小名木川を経て運ばれ、江戸からも同じように栃木河岸に運ばれる。同時に日光例幣使街道の宿駅になった栃木町は回漕問屋や豪商問屋の蔵屋敷の並ぶ水陸輸送の商業の街として繁栄を誇るようになる。

念佛橋と言われていた幸来橋 

Pc070018  栃木市街の中心地、倭町交差点から西銀座通りを経て巴波川に架かる幸来橋(こうらいばし)に来る。明治5年9月にそれまで「念佛橋」といわれていた橋の名前を「幸来橋」と命名された。

 幸来橋から見る巴波川の景観は塚田歴史館の建造物と合いまって観光スポットになるなど歴史ある風情をかもしだしている。

 幸来橋対岸の西側には、皆川城址につづく皆川街道がある。街道を分岐して栃木女子高、栃木商業、栃木農高、国学院栃木、大平山神社へつながる女子高通りが通っている。

Pc250090  江戸時代まで「念佛橋」には木戸が設けられ、木戸の前は広小路になっていた。慶応3年(1867)の12月10日の夜に出流山萬願寺で討幕挙兵した薩摩藩下野糾合隊と足利藩栃木陣屋を含めた幕府農兵鉄砲隊との戦闘跡地になっている。

 ここで討死した美濃国下野糾合隊の西山謙之助の亡骸は現在のうずま公園になっている瀬戸の原に埋葬された。うずま公園内には西山謙之助の供養塔が建てられている。

 幕末史の中では「出流山事件」といわれ、鳥羽伏見の戦いの前哨戦と位置づけされている戦闘である。

20  弘化3年(1846)「片柳新田字上河岸絵図」に記載されてある念佛橋の規模は、念佛橋または天王橋と昌伝され、「川幅十間(約18m)に長さ十二間半(約22.5m)、杭六本、元板橋手摺有、今ハ土橋」と記されている。橋の規模は板橋、土橋と変わっていることになる。

 橋の東側、木戸内を栃木町の栃木河岸。橋の西側、木戸外が片柳村と言われ、片柳河岸と言われていた。絵図には上河岸と記されていることから下河岸があったことになる。下流の「巴波橋」近くに住んでいた私の叔母のことを「下河岸(したがし)の叔母さん」と呼んでいたのも頷ける。

Pc070046  念佛橋名前の由来を知人を通して郷土史家の熊倉精一氏に訊くことができた。

 熊倉氏は知人に、「橋の架けかえのために念佛を唱えながら寄付を募って歩いたから」と言う説を中心に、それ以外に「橋の西にあった処刑場に連れて行かれる罪人が念佛を唱えながら橋を渡ったから」、「罪人を見送る人々が念佛を唱えながら見送ったから」などの諸説があるということを話したという。

 「水戸天狗党栃木町焼打事件」を執筆した稲葉誠太郎氏は著書「巴波川物語」の中で、「念佛橋は、かつては天王橋といわれたが、橋のたもとに念佛堂があったことから念佛橋と呼ばれるようになり、天保6年8月晦日に架けかえられたもので、明治5年9月13日から幸来橋とかえる」と記している。

 橋のたもとに念佛堂があることから「念佛橋」と呼ばれたと記しているが、念佛堂が実際にあったのか確認はできない。

Pc070017  「橋は来世の異次元世界=常世と浄土へつながる、渡っていきたいという願望を秘めた造形」と内藤昌氏は「日本町の風景学」の中で、橋への心象風景として橋の事ことを規定している。

 「念佛を唱えながら寄付を募る」「罪人が橋を渡る時に念佛を唱える」「罪人を見送る時に念佛を唱える」「橋のたもとに念佛堂があったから」などから、私には西方浄土への祈りを込めた念佛供養として念佛橋と呼ばれたのではなかったのかと思えてくる。豊富な湧水を集めて流れる巴波川は字のごとく渦を巻くように激流になって流れていた。そのため、度々橋は破壊されていた。橋を架けかえる際に橋への思いが「念佛橋」と呼ばれるようになったのではないかと推測、想像してみた。

幸来橋ほとりに建つ「巴波川水運の碑」

Pc070039  幸来橋手前右側のポケットパークに「巴波川水運記念碑」と民話「鯰の恩返し」を基にしたモニュメント「巴波の鯰」が設置されている。

 いずれも栃木商工会議所が創立100周年記念事業として製作され、設置したものである。

 平成5年6月26日に完成、除幕された「巴波川水運記念碑」は縦1.8m、横2.3mのアルミ鋳物製の、レリーフで、台座は白御影石が使用されている。水運で賑わう栃木河岸の様子を栃木在住の日本画家茂木辰也氏によって下絵が描かれたものである(栃木商工会議所百年史より)。

Pc070041  最初は何の記念碑なのか分からなく、記念碑の後ろに回り、水運の記念碑であることが分かった。背面には「巴波川の水運」という見出しで、次の文章が刻まれていた。

 「栃木市は、古来さまざまな歴史をたどり、文化を築いてきた。そして江戸時代に至り、日光例幣使街道沿いに発達した商家町となり、やがて北関東屈指の商都として繁栄、明治初期には一時栃木県庁が置かれた。その隆盛は、米麦・木材をはじめ特産の大麻などの交易によってもたらせたが、また人々が母なる川として親しみ大切にしてきた巴波川の舟運によることも大きい。この水運により、遠く会津方面にも及ぶという後背地と、下流の利根川などを経て至る江戸方面とを結ぶ、物資の集散地となった。

Pc250091 荷物は上流に遡るに従い、底の浅い舟に積みかえられるが、この川で都賀舟というものが使われた。舟に綱をつけ、両岸の綱手道と呼ばれる所を、人力で引く。川沿いには河岸が設けられ、商家の蔵が立ち並び、荷積みの人で賑わったのである」(平成5年6月26日)

 背面に刻まれた文面は栃木市水運の歴史を端的に表していると思える。本来ならば、栃木市が記念碑の脇に「栃木河岸の跡」として標識案内看板として掲示すべきものである。栃木市民や観光に訪れた人々に、巴波川が栃木町にとり歴史のシンボルであり町の顔であることを示していく必要があると思える。そのことが私たち栃木市に生活する者が歴史への誇りを感受し、自分たちの立つ位置への理解を深めていくことになるからである。

 次に、幸来橋を渡り、片柳河岸・回漕問屋の足跡を訪ねて行こう。

                           《夢野銀次》 

≪参考引用資料本等≫

山田洋次原作監督「男はつらいよ 相合傘」(1975年松竹映画)/竜門冬二著「歴史探訪を愉しむ」(2002年6月実務教育出版発行)/吉屋信子著「おもいでの町―栃木―(暮しの手帖34)」(平成18年9月栃木県高等学校教育研究会発行『栃木の文学』収録/日高昭二著「利根川場所の記憶」(2020年7月翰林書房発行)/石崎常藏著「栃木人・金子益太郎」(2017年4月自家発行)/日本の水郷・水都(平成18年リバーフロント整備センター発行)/稲葉誠太郎著「巴波川物語」(昭和49年11月栃木史心会発行)/内藤昌著「日本 町の風景学」(2001年5月草思社発行)/寺崎宣晶昭著「巴波川舟運と蔵の町栃木」(平成25年1月下野新聞社発行『栃木文化への誘い』収録)/「栃木商工会議所百年史」(平成5年7月栃木商工会議所発行) 

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「ああモンテンルパの夜は更けて」—渡辺はま子・薬師丸ひろ子

91mzoggrql1  「海が見たい」と病床で語る妻の音(二階堂ふみ)の身体を古山裕一(窪田正孝)は支えながら歩む。歩んだ二人の目の前に広がったのは青い海。NHK連続テレビ小説『エール』の最終シーン。

 『エール』はコロナ禍による収録の休止、放送中断、脚本の変更などあった中で最終話を迎えた。そして第120話は「エールコンサート」と銘打たれ、NHKホールにて古山裕一のモデル、古関裕而作曲のナンバーを歌いつなぐという、朝ドラでは今まで見られなかったかたちで終了した。

 オリンピックで世界中の人々が東京を訪れたり、高校球児たちが甲子園で熱戦を繰り広げた筈の令和2年、2020年。その中での朝ドラ『エール』から古関裕而の曲とあいまって沢山のエールがドラマに盛り込まれた作品になっていった。

 120話の「エールコンサート」を見ながら、平成25年(2013)朝ドラ「あまちゃん」153話の「鈴鹿ひろ美チャリテイーコンサート」のシーンが思い浮かんできた。両作品ともチーフディレクターが吉田照幸が手掛けているからかもしれない。

Maxresdefault1  「逃げるのはもう嫌なんです。下手でもいい、不完全でもいい、自分の声で歌って笑顔を届けたい」と東日本大震災で壊滅した「海女カフェ」を再建したステージで「潮騒のメモリ―」を自分の声で歌い出す鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)。

 バンドによる生演奏で収録されたこのシーンは、生で歌う薬師丸ひろ子を中心に会場全体が騒然と、…そして静寂の中で「潮騒のメモリ―」の歌が流れる。緊張した臨場感に包まれたシーンになっていた。通常のドラマ内での歌唱時は事前にスタジオで収録した演奏を用いることが多いが、この「あまちゃん」153話(9月25日放映)での「潮騒のメモリー」は、バンドによる生演奏が行われている(ウキベリア)。薬師丸ひろ子の歌への姿勢を表したシーンになっている。

【ああモンテンルパの夜は更けて】

51z8paxy4ml_ac_ul320_sr216320_1 1)モンテンルパの夜は更けて

   つのる思いにやるせない

  遠い故郷しのびつつ

  涙に雲る月影に

  優しい母の夢を見る

2)燕はまたも来たけれど

  恋し我が子はいつ帰る

  母の心はひとすじに

  南の空へ飛んでゆき

  さだめは悲し呼小鳥

3)モンテンルパに朝が来りゃ

  昇る心の太陽を

  胸に抱いて今日もまた

  強く生きよう倒れまい

  日本の土を踏むまでは

(作詞:代田銀太郎、作曲:伊藤正康、唄:渡辺はま子・宇部美清、昭和27年9月)

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 「♪強く生きよう倒れまい 日本の土を踏むまでは~」と会場全体で渡辺はる子(薬師丸ひろ子)と一緒に歌いあげるシーンに涙が出てきた。

 平成21年(2009)9月12日にフジテレビで放映された「戦場のメロデイ」の中でのフィリピンのモンテンルパ刑務所内で日本の戦犯受刑者を前にして「ああモンテンルパの夜は更けて」をアコーディオン伴奏で歌う渡辺はま子役の薬師丸ひろ子。

 この歌うシーンのみがYouTubeで配信されている。この放映を見逃した私はドラマ全体を見たいと思い、DVDを探したが、DVD化はされていない。残念で悔やまれる。

 画面に映し出される薬師丸ひろ子の「ああモンテンルパの夜は更けて」の歌唱にはようやく辿りついたモンテンルパの刑務所内での慰問公演で必死に歌う姿が表れ、実に感動的なシーンになっている。薬師丸ひろ子自身,歌のレッスンを相当積んでの歌唱力だと思えた。

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 フジテレビドラマ情報の中で「戦場のメロデイ番組コメント」として渡辺はま子役を演じた薬師丸ひろ子は次のように寄せている。

 「念願叶って、初めてはま子さんがモンテンルパ刑務所へ慰問し、『ああモンテンルパの夜は更けて』など歌うシーンは、物語の中でもはま子さんが今までやってきたことが集大成があったように思います。(略)クランクインの前に、制作陣ではま子さんのお墓参りへ伺いました。お墓に手を合わせて『どうぞ歌に力を与えて下さい』と神頼みというか、渡辺はま子さん頼みだったのですが、本番を迎えて本当に不思議なのですが、上手とか下手ということではなく声のボリュームを含め、歌の力というものをはま子さんから与えてもらったような気がしました」

 歌の力を渡辺はる子から与えられたと実感した薬師丸ひろ子にとり、歌に対する姿勢を見定めていく転機になったのではないかと思える。

モンテンルパ刑務所への慰問行動

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 昭和28年(1953)7月22日の朝、2万人が出迎える中、横浜港大桟橋に接岸した白山丸のタラップから110人が晴れて日本の大地を踏んだ。彼らはフィリピンのモンテンルパにある刑務所に戦犯として投獄されていた死刑囚59人を含む復員兵であった。

 同年の7月4日、フィリピンの独立記念日を期し、キリノ大統領から「死刑囚は無期に減刑して巣鴨に移送、無期・有期の懲役囚は全員釈放」という特赦により日本への帰還になったのだ。妻や子を日本軍に殺害されたキリノ大統領が特赦を決断したきっかけは、「ああモンテンルパの夜は更けて」のメロディが流れるオルゴールであったと云われている。

Hqdefault1  歌手の渡辺はま子はしばしば巣鴨プリズンへ慰問に訪れていたが、昭和26年1月にフィリピンのモンテンルパ刑務所で14人の戦犯が絞首され、なおも死刑確定者59人を含む108人の日本人戦犯が拘禁されていることを知る。そして、昭和27年の1月の朝日新聞特派員報告「比島戦犯収容所を訪う」記事やNHKラジオ放送による「モンテンルパの獄舎からの報告と有様」を聞き、自ら「香」をモンテンルパ刑務所に送った。それを機に手紙のやり取りが行われていた。

 昭和27年(1952)5月、渡辺はま子の家にモンテンルパ刑務所で戦犯服役者を世話する教誨師・加賀屋秀忍より「モンテンルパの歌」と題する楽譜と手紙が送られてき。楽譜に添えられた手紙には、「講和条約を記念して獄内で歌をつくりました。誰か専門家に直して頂いて、渡辺さんに歌っていただければこれほどうれしいことはありません」と書き添えられていた。作詞者は長野県飯田市出身、元比島憲兵隊セブ分担少尉の代田銀太郎。作曲者が愛知県出身、元歩兵17連隊所属陸軍大尉の伊藤正康。ともに明日の生命をも知れぬ死刑囚だった。

15139336603021  渡辺はま子は「自費出版でも良いからレコード化したい」と、ビクターの磯部健雄ディレクターに楽譜を持ち込んだ。磯部は渡辺はま子からの話を聞き、佐伯孝夫が詞を、吉田正が曲を専門的立場から微調整して、宇部美清と渡辺はま子のデュエットでレコーディングを進めていく。

 同年の昭和27年の9月に「ああモンテンルパの夜は更けて」と改題されたレコードが全国発売された。戦後7年、シベリアに抑留された人々を始め、今なお自由を奪われ、戦争の爪痕の影の悲劇が浮き彫りされたこの歌は全国的に愛唱されていった(中田整一著「モンテンルパの夜は更けて」、長田暁二著「戦争が遺した歌」より)。

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 「支那の夜」「蘇州夜曲」などのヒット曲を持ち歌とする渡辺はま子は、戦時下の中国戦線への幾度かの従軍慰問、終戦直後の中国天津での抑留生活を体験してきた。また、朝日新聞特派員による「彼ら個人個人にどんな罪があるのか記者は知らない。しかし罪は日本人全体が負うべきではないだろうか。それを今、一人一人が自分自身の苦しみとして受け取っていかねばならないのだ」という記事に共鳴したこともあり、渡辺はま子はモンテンルパ刑務所に慰問に行くことを決める。

 国交のないフィリピンへの渡航は困難を極めた。そしてようやく日本政府復員局と渡辺はま子の奔走で昭和27年の12月23日にアコーディオン伴奏者、小高茂夫と共に羽田を飛び立つことができた。翌24日の午前5時半に飛行機は加賀屋秀忍ら大勢が出迎えるマニラに到着する。

O05960330145603186922  「本当に、一所懸命、来ました。もっとたくさんのお土産を持ってきたかったんです。だけど自分が来られるかどうか、わからなかったものですから、なにも買うことができないで、ただ走り回って、やっと自分だけ来ました。だからみなさんに、あれもしたい、これもしたいと思っていたんですけれど、なにもできないで…。ただ一所懸命歌って…。少しでもみなさんに喜んでいただければと思っています」と中田整一著「ああモンテンルパの夜はふけて」の中で、渡辺はる子があいさつした肉声の録音テープが記載されている。 

 長田暁二著「戦争が遺した歌」の中で、渡辺はる子のモンテンルパ刑務所での慰問公演を次のように記してある。

 「モンテンルパに着いたのは、クリスマスの25日だった。中世ヨーロッパの砦みたいな白い建物のニュービリビットの刑務所だった。囚人の服装は死刑囚が青、無期・有期の懲役囚はレンガ色と色分けされていた。渡辺はま子はこの人たちの前で『支那の夜』『蘇州夜曲』『浜辺の歌』——そして『ああモンテンルパの夜は更けて』を歌い、彼らは息を詰め、むさぼるように聞き入った。彼女の歌を通して、さらに遣る瀬ない望郷の念をかき立てられた戦犯の同胞達は、涙を一杯ためて聞き入った。やがて歌うも涙、聴くも涙、涙、涙の大合唱になり、小高い丘陵を揺るがせていった。最後に親日家のデュラン議員の特別な計らいで、禁じられていた『君が代』を斉唱した」

 帰国後、渡辺はま子は公演などで「モンテンルパの戦犯の方々の減刑、釈放を実現しましょう」と呼ぶ掛けていった。東和オルゴール吉田義人社長は渡辺はま子の活動に感動して、「モンテンルパの夜は更けて」のアルバム式オルゴールを制作した。渡辺はる子はこのオルゴールを翌年の昭和28年5月に現地に送った。それが加賀屋秀忍教誨師からキリン大統領に手渡された。オルゴールから流れる曲に感動したキリン大統領は、その時、「何れ受刑者を釈放しよう」と言ったと云われている。

 昭和28年12月30日に日本に帰国して巣鴨拘置所に服役していたモンテンルパ刑務所元死刑囚、全員が釈放された。

Maxresdefault1-2_20201203145801  長田暁二は著書「戦争が遺した歌」で、「日本人が敗戦に依って卑屈になっていた時代。この裏に一女性歌手・渡辺はま子が正義と勇気で、日本政府や大の男でさえできなかった国家的事業を見事成し遂げた快挙を忘れてはなるまい。因みにフィリピンへの渡航費も、慰問品の数々も全て自前、レコード印税は全額モンテンルパ関係者のために投じていた」と結んでいる。

 戦後も「戦争」に向き合った明治の気骨と潔さと評した中田整一は「渡辺はま子の青春は、劇場の華やかなスポットライトを浴びることよりも、多くの時間は、戦地を駆け巡り、戦火の中を兵士の前でただひたすら歌いつづけることに費やされた。それは、はま子自らの強い意志が選んだ、まさに『昭和』を駆け抜けた青春であった」と記し、「はま子が言っていた『歌は3分間のドラマです。私の人生、歌にどれだけ助けられてきたでしょうか』の通り、一つの歌がはま子の波瀾に満ちた人生を支えた」と結んでいる(「ああモンテンルパの夜はふけて 気骨の女・渡辺はま子の生涯」より)。

 平成11年(1999)12月31日に89歳の生涯を閉じた渡辺はま子の訃報は翌年の松飾がとれた1月11日であった。NHK昼のニュースでは「昭和13年に、当時の中国の情景を歌った『支那の夜』が大ヒットし、国際派歌手としても知られていました。戦後はフィリピンの郊外にあるモンテンルパに抑留されていた日本人が、作詞・作曲した『ああモンテンルパの夜は更けて」が大ヒットし、その後、現地を訪れて抑留されていた人たちの減刑と釈放を求める活動を行いました」と渡辺はる子の死と活動を全国に報道した。

 時代と向き合い、歌の持つ力を信じて走り続けた渡辺はま子のお墓は港の見える丘公園から下った妙香寺にあると云われている。一度私も機会をみてお墓参りに行ってみようと思っている。

女優・薬師丸ひろ子の歌手としての活動

Photo11  令和元年(2019)9月12日にNHK総合で薬師丸ひろ子が出演する5分番組「潮騒のメモリー薬師丸ひろ子 三陸に届ける歌声」が放送された記事をネットで見る。

 岩手・三陸鉄道リアス線が春に全線開通したことを祝い、薬師丸ひろ子が島越駅で開いたミニライブで、「潮騒のメモリー」を地元の観客の前で披露してもの。薬師丸ひろ子は「今回、2013年『あまちゃん』の撮影時に訪れた島越に6年ぶりに伺いました。当時、その場所で、『いつか、空に海に、どこかに届く賛美歌のような歌が歌いたい』と思った私の願いが、今回、駅も新しくなって線路も列車も通った鳥越で『潮騒のメモリー』を歌えたことで、その願いが通じたように思います」というコメントが記載されている。

 劇中歌「潮騒のメモリー」を歌うことで、平成25年(2013)10月に芸能活動35周年記念コンサートを23年ぶりの単独で開いている。以後、コンサート公演が行われ、歌へのとりくみが変化してきたと受け止められる。「渡辺はま子」を演じ、時代と向き合う歌への思いが表れてきていると思えてくる。

001_size91  NHK連続テレビ小説「エール」の10月16日、第90話では、音の母、関内光子役の薬師丸ひろ子が焼け跡の関内家の瓦礫に腰を下ろし、鎮魂歌のように賛美歌を歌うシーンが流れた。後で知ったが、歌ったのは賛美歌496番「うるわしの白百合」ということだった。

 選曲は薬師丸ひろ子が行ったことが、ネットに記載されていた。薬師丸ひろ子は、「この賛美歌に出てくる白百合には『復活』という意味合いもあります。戦争を経験していない私たちには、今を生き抜き、前を向いて頑張ろうという復活の思いが、唯一表現できることではないかと思い、この曲を歌いました」と熱唱に込めた思いをコメントしている。

 コラムニストの木俣冬は東洋経済オンラインでこのシーンについて、「『潮騒のメモリー』を被災地の賛美歌として歌った薬師丸ひろ子が、7年後、同じ朝ドラ「エール」で賛美歌を歌ったことの意味は大きい。戦争や震災など日本人が被った禍をドラマで描き、たくさんの人たちが共に見て、さまざまな思いを胸に刻む。女の自立あり、恋あり、笑いあり、エンタメ要素も多い朝ドラが、薬師丸ひろ子の歌によって「朝の祈り」に昇華されたように思う。薬師丸ひろ子が作品を浄化するのは朝ドラだけではない。それどころか、薬師丸ひろ子のウィスパーボイスはデビューからずっと聴く者を浄化してきたと言っても過言ではない」と記し、「10代の頃の天使の歌声でそのカリスマ性が終わらず、年齢を経て、同じ歌『セーラー服と機関銃』や『Woman<Wの悲劇>より』歌っても聖母の歌声に成熟している薬師丸ひろ子の姿には目を見張らざるをえない」と絶賛している。

 私には「あまちゃん」の中の鈴鹿ひろ美が歌った「潮騒のメモリー」の前の渡辺はま子役で歌った「ああモンテンルパの夜は更けて」の歌声が凄いと感じる。そこから、「潮騒のメモリー」「賛美歌うるわしの白百合」へと続く歌手・薬師丸ひろ子の歌への広がりが見えてくるように思えてくる。

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 「♪さよならは別れの言葉じゃなくて 再び逢うまでの遠い約束 夢のいた場所に未練残しても 心寒いだけさ スーツケースいっぱいつめこんだ 希望という重い荷物を 君が軽々ときっと持ち上げて 笑顔を見せるだろう~」(「セーラー服と機関銃」作詞:来生えつこ、作曲:来生たかお、唄:薬師丸ひろ子、1995年4月)。

 希望という重い荷物を軽々と持ち上げて、あの娘は私の前から去っていって、何時の間にか50年の月日が経ってしまっている。いつまでも夢の中で遊び駆けずり回っていた自分を、現実の世界へと指し示したあの娘。未練残す私に笑顔を向けているようだ。

「ああモンテンルパの夜」を薬師丸ひろ子の歌声で聴いて、改めて薬師丸ひろ子に注目し始めた。まだまだ未消化の部分はあるが、渡辺はま子との類似点などおぼろげながら見えてきたような気もする。これからも薬師丸ひろ子を注視していこうと思う。

                         《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

中田整一著「モンテンルパの夜はふけて 気骨の女渡辺まさ子の生涯」(2004年2月、日本放送出版協会発行)/吉村昭著「プリズンの満月」(平成7年6月、新潮社発行)/長田暁二著「戦争が遺した歌~詞が明かす戦争の背景」(2015年8月、音楽譜出版社発行)/フジテレビドラマネット「戦場のメロディ~108人の日本人の命を救った歌」(2009年9月12日放送)/木俣冬著「薬師丸ひろ子、作中の歌声にこもる圧倒的魅力、朝ドラ『エール』の賛美歌が聴く者を浄化した」(2020年10月16日、東洋経済オンライン) 

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