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巴波川散歩Ⅱ…小平橋・第三小巴波川プール・開運橋

P1250042 「こじんまりとした落ち着いた雰囲気のある橋だな…」という印象を最初に見た時に受けた。

 栃木市小平町の巴波川(うずまがわ)に架かる小平橋(こひらばし)の欄干に立つ。ついつい小平のことを「こだいら」と読んでしまうが、ここでは「こひら」と読まれている。かつてあった小平柳(こひらやなぎ)という地名からわかれて小平町になったのではないかと思える。

Photo_20210202133701  上流の「原の橋」の先には、西方町、思川小倉堰からの分流用水、荒川が運動公園を流れ巴波川に合流するところがある。

 合流した巴波川は左岸の栃木第三小学校の西側を流れ、小平橋を通り、下流の沖の橋から巴波川は蛇行し、嘉右衛門橋から急な流れになり泉橋、大川橋、開運橋、常盤橋、湊橋、幸来橋、巴波川橋と栃木市街地の西側を流れている。

 そして堰の先のうずま公園から巴波川は左に大きくカーブして相生橋、関門橋、開明橋と流れていく。

 両岸の川岸には、かつて舟運で活躍した都賀船を両岸から綱で上流へ曳いていく「綱手道」が復元され歴史的な景観が施されている。

P1250040  小平橋に立ってみると上流から下流にかけて川幅が少し広がっているように見える。悠然と漂うように流れる巴波川の川面から水気が浮かんでくるように静寂があたり包む込むような気がしてきた。

 「静かで…いいところだ」と思わず私自身につぶやいた。

 橋の下、上流左岸の岸辺に降りてみる。石段から川の中に入ることもできるようになっている。この岸辺から上流にかけて散策路にもなっている。

 川辺に降り立ち、小平橋から流れていく下流の巴波川を見ながら上流の散策路に足を進める。「浅い、巴波川の川底はこんなに浅かったのかな…」と、自問する。

P1160004  小平町に住む知人に小平橋の処で川に入って水遊びできるのではないかと尋ねたが「子供たちの水遊びは禁止されているな」と答えが返ってきた。

 今では巴波川での川に入り、水遊びなどができなくなっているのだ。

 川べりにそって歩いていくと右側に第三小学校のプールと体育館があり、「巴波川浄化施設」の案内板が設置されている。川辺にコンクリートでふたがしてある浄化施設の説明案内になっている。

P1160003  案内看板には、「巴波川河川浄化事業施設」として次のような文面が記載されている。「よごれた川の水を浄化する施設で、中には木炭のパッケージが入っています。川の水がこの中を通っていくうちに、よごれを『えさ』とするバクテリアなどの微生物がよごれを食べて分解してしまうのです」と子供向けに優しく書かれてあり、「下にたまった分解されたカス(泥)は定期的に取り出している」と解説されている。そして、取水施設→浄化施設→放流施設と図解で流れが示されている。

 バクテリアなどを活用しての河川浄化事業としてきれいな川づくりを行なっていることが記されている。さらに栃木市として「栃木市民や観光客の皆さんがやすらぎ、快適な散策や休憩を楽しめる歴史的な景観づくりと魚たちが元気に泳ぐ、清らかな水環境の再生を目めざしています」と書き添えられている。

 きれいな巴波川、そして歴史的な景観のある巴波川の風景がホンワリと浮かんできたような気がする。近隣住民による巴波川清掃活動も頻繁に進めれていると聞く。

P1160001  浄化施設から少し上流に進むと、かつて「栃木第三小学校巴波川プール」があった川面が見えてくる。

 遠い少年時代、小学校5年の頃(昭和34年)に、第三小学校の西側を流れていた巴波川に泳ぎにきたことがあった。小学校3年から4年にかけてケガと病気で夏休み、川で泳げなかったが、5年時の夏にここの巴波川に泳ぎに来た記憶がある。

 川の向こう岸から飛び込むんでいる少年たちを胸まで浸りながら眺めている光景や川が深かったことなど思い出が残っている。しかし、第二小学校に通う私はいわばよそ者であった。そのためすぐに栃高の冷たいプールへと泳ぎに行くようになった。

Photo_20210202160201    平成22年(2010)郷土出版社が発行した「小山、栃木、下野、下都賀今昔写真帖」に「小学生が泳いだ巴波川」という見出しで「昭和34年、栃木第三小学校巴波川プール」で泳ぐ子供たちの写真が載っている。写真の添え書きが記されている。第三小学校巴波川プールについて書かれた資料が少ないので、そのまま全文記載紹介する。

 「栃木第三小学校では、昭和38年7月に本格的なプールが完成するまで、校地のすぐ西を流れる巴波川プールを『三小プール』とよび、体育の時間や校内の競技大会でも川で泳いだ。湧き水が豊富に流れ、川底も平らで安心だった。その後、上流に住宅や工場が多く建てられ、川の汚染が目立ってきた。市はきれいな川づくり事業をすすめ、川べりに浄化設備を設置。写真でもわかるように、現在では川幅が狭くなったものの、快適な散策や休憩を楽しめる場所となり、清らかな水で魚が元気に泳ぐ姿を再び見ることができるようになった」

 写真は昭和34年に写されたことから、私も泳いでいた年代であり、自分が写っていないか探してみたが、写ってはいない。写真の右奥には飛び込み台が設置されており、川が深かったことを改めて知ることができた。

P1250044  「第三小の巴波川プールから開運橋まで泳いでいったな」と栃木シルバー大学で知り合った学友から話を聞いた。川を下ることからあり得る話だと思った。

 私が第二小学校に通う通学路に開運橋があった。橋の上からみる巴波川は深かった。戦後すぐの時に一番上の兄が開運橋で泳いでいたことは姉から聞いたことがある。

 開運橋の前は「トロッコ橋」とよばれていた。鍋山からの石灰運搬のために明治33年(1900)に鍋山人車鉄道は開通した。人車鉄道は鍋山から入舟町の栃木中学校(現在の栃木高校)の正門前を通り、巴波川に架かった「トロッコ橋」を渡り、万町から右折して市街地の大通りを経て栃木駅の石灰積み込み場まで軌道されていた。昭和5年(1930)鍋山人車鉄道の軌道が錦着山東麓へと変更されたため、市街地を通っていた軌道は取り払われ、巴波川に架けられていた「トロッコ橋」も架けかえられ、現在の開運橋になった。

  開運橋手前の左側には東映、日活映画上映館の文化会館があった。中央公民館が出来る前まではこの文化会館において「フランク永井、田代みどり」の歌謡ショウや痴楽綴り方教室の「柳亭痴楽」などの演芸なども上演されていた。今は栃木市役所駐車場ビルになっている。

Pc070066  開運橋を渡ると、人車鉄道軌道跡の面影が残る町並みが栃木高校まで続いている。ここは私の通学路であり、何人かの同級生の家もあった処である。

 「当時、人車鉄道会社は、入舟町にあって、各石灰店の石灰置場も併置されていました。春先には近在の農家が馬車で、肥料石灰を引き取りに来ました」(「巴波川は生きている」岡田利雄)と栃木老人クラブ連合会が発行した「想い出の栃木」に記載されている。同書には多くの先人たちの大正、昭和期における巴波川への想い出が記述されている。

Pc070068  「大正、昭和の初期には巴波川の水も清く、魚も大分とれました。市内を流れる巴波川には一番堰、二番堰、三番堰等があり、夏は水遊びなど盛んに行われ、水も豊富でした」(城内町・岸米吉)。「今の翁島(嘉右衛門町岡田別荘)の所に一番堰があり、二番堰が大川橋の所にあり、三番堰がトロッコ橋の所にありました。一番堰は大きく男の子はみんなそこで水およぎをしました」(嘉右衛門町・星野アツ)。「トロッコ橋の所は川床が深く水量が多かったので泳ぎ上手な子はトロッコ橋から川に飛び込みました」(錦町・津久井良子)。「トロッコ橋のあたりを三番堰といって、夏休みに入るとカッパ天国となり、多勢の子供たちの水遊びで賑わっていました」(万町・鎌田俊夫)等々水が豊富で綺麗な巴波川で泳いだことが記されている。

 中でも「堰」と水車の関連に興味を抱いた。水車を回すには堰止めをして脇の水車堀に流すことになる。巴波川には水車を回し米つきをした水車小屋が上流から7つあったと云われている。「その水車も大正末期より段々となくなって、昭和24,5年を限度になくなり、車堀は埋められて、今では昔のおもかげもなくなりました」(総社町・寺内庄造)と記述されていく。

Pc250091_20210202173301  巴波川の洪水の想い出としては、「降雨時が続くと、赤津川の氾濫で巴波川は洪水となり、時には市街大通りを舟で渡る状態もあって、被害は甚大でした」(嘉右衛門町・岡田利雄)。「大雨が降ると水があふれ、一面どろ水と化し、恐ろしい流れとなりましたが、今は赤津川の完備によりそれはなくなりました」(嘉右衛門町・星野アツ)が記載されている。

 令和元年(2019)10月の東日本台風(台風19号)により巴波川の出水で栃木市街地は床上浸水1217戸、床下浸水956戸と甚大な被害を受けた。国土交通省・栃木県・栃木市からなる巴波川浸水対策員会設置され、その概要が固まり後は国からの153億円の予算措置を待つのみになっていることを栃木市役所道路河川整備課から聞くことができた。

 その概要とは栃木市街地を流れる巴波川に景観を生かすためには新たな堤防を造るのではなく、巴波川の荒川合流地付近から北関門通りを経て蔵の街大通り(日光例幣使街道)からJR両毛線巴波川まで地下10mに捷水路(しょうすいろ)をつくるということである。捷水路とは蛇行している河川をまっすぐにして洪水を安全に流す水路のことを言う。今回の概要では地下に捷水路として直径5mの管を設置して、巴波川の氾濫が予測される場合、荒川の合流地点から川水が地下に通っている捷水路を通じてJR両毛線巴波川付近に流し、洪水を防ぐというものなのだ。予算措置がされれば令和7年までの完成を目指すとしている。

Pa210059  現在の蔵の街大通りの道幅は18mになっている。400年以上前に皆川城主の皆川広照は南北970m、道幅15間(一説では10間)27mの幅広い大路を縦貫させるという栃木のまちづくりをした。幅広い大路に市場を開き、町の活況を呈する狙いがあり、幅広い大路は町の防火の役割を担うことになる。さらに氾濫が予測される巴波川の治水対策としても大路を造る必要があったからだ。巴波川からの出水を大路に流すことにより洪水から町や住民を守る意図があったと考えられる。

 今回の巴波川浸水対策で捷水路として蔵の街大通りの下に地下トンネルを通すことを聞いて、…何だか皆川広照のまちづくりが蘇ってきたような気がしてきて、うれしい気分になった。皆川広照のまちづくりにおける優れた慧眼は並みの武将ではなかったことを物語っていると思えてきた。

 普段は穏やかに流れている巴波川。氾濫する巴波川とこれからも目をそらさずに向き合っていく必要がある。

                     《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

「小山、栃木、下野、下都賀今昔写真帖」(平成22年3月、郷土出版社発行)/「想い出の栃木」(平成3年3月、栃木市老人クラブ連合会発行)

 

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