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巴波川散歩Ⅲ…塚田歴史伝説館と栃木河岸

 塚田歴史伝説館の土蔵と板塀

P2210014  栃木駅から栃木市蔵の街大通りを進み、倭町交差点を左折して銀座通りを西に向かうと巴波川(うずまがわ)に架かる幸来橋にさしかかる。かつては念佛橋とよばれ、栃木河岸の中心地をなしていた処だ。橋の手前には江戸時代に木戸が設けられており、その前は広小路になっている。

 栃木商工会議所によって橋の手前の右側に、平成5年6月に創立100周年を記念して「巴波川水運記念碑」が設置されている。縦1.8m、横2.3mのアルミ鋳物製のレリーフで、台座は白御影石が使用されている。水運で賑わう栃木河岸の様子を栃木在住の日本画家茂木辰也氏によって下絵が描かれ、背面には巴波川水運のあらましが刻字されている(文面は「銀次のブログ、巴波川散歩Ⅰ…巴波川と幸来橋(念佛橋)」を参照)。

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 幸来橋手前左側に「塚田歴史伝説館」がある。昭和54年より塚田家木材回漕問屋の邸内屋敷、土蔵などを一般公開をしている。

 「明治30年代初め頃に巴波川下流寒川の迫間田(はかまだ)から、この地に移転し、『大塚木材店』として木材の回漕問屋を戦前まで行い、その後は新建材の販売などを営み、昭和40年代頃に店を閉じ、記念館としてきましたね」と塚田家の受付の人から話を聞くことができた。

 P2210018  塚田歴史伝説館の敷き地内の主屋や土蔵は国の登録有形文化財になっている。入って右側の展示館となっている土蔵は明治32年建築の最も古い土蔵。主屋の南辺に建ち、南北棟で切妻造・桟瓦葺、東面に吹放し下屋庇を付けている。巴波川西側から見ると土蔵2階に5つの鉄格子入窓を配しており、整った意匠をみせている。

 同じく明治32年建築の文庫蔵は入口右側にあり、通りと巴波川に面して建っている。切妻造・桟瓦葺、2階建で、外壁は白漆喰とし、土蔵の中から見る出入り口の観音扉など本格的な土蔵建築になっていて凄みを感じる。

P2210044  さらに巴波川沿いの栃木河岸跡には延長113mの黒板塀が塚田家住居・土蔵が巴波川と画して建っている光景は圧巻である。

 黒沢明監督映画「姿三四郎」やテレビドラマ「仁」など数多く映画やテレビドラマのロケーションになるなど栃木市巴波川の代表的な歴史的な景観になっている。

 江戸時代の巴波川舟運の木材運輸では、思川の上流粟野や大芦川上流から伐採された木材は思川小倉堰から分流した西方村荒川用水路を通して一本づつ巴波川栃木河岸まで運ばれていたと云われている。

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 荒川ー巴波川で運ばれた木材は現在の開明橋下付近にて小さな筏として下流の部屋河岸まで流す。そこで大きな筏へと組み直され、利根川ー江戸川―小名木川ー深川木場へと運ばれていった。

 明治に入り、それまで禁止されていた荷馬車によって、粟野や鹿沼界隈から西方村を経由して栃木へと木材が運ばれるようになり、筏を組んで大正時代末期まで東京深川の木場まで運ばるようになった。

P2210029  明治後期から昭和にかけて、鹿沼・粟野から伐り出される栃木方面の木材は全て塚田家当主、塚田幸四郎氏が代表を務める大塚木材店を通して東京方面に運びだされるなど栃木町屈指の木材回漕問屋になっていった。

 栃木材木商組合長を務めた塚田幸四郎氏は建材店、製材業を兼ねるとともに初代の栃木町議会の議長や栃木商工工業組合連合会副会長など歴任し、栃木町の発展に寄与したと云われている(石崎常藏著「栃木人」より)。

 江戸時代元禄期に荒川用水路を活用して西方米を栃木河岸への舟運計画が西方村役人によって検討された。しかし、沿岸の村々より水路の拡張や肥料となる川藻の喪失が懸念されることから反対され、栃木への廻米水運計画は頓挫した。

 栃木河岸跡には塚田歴史記念館が建ち、河岸の面影は喪失している。しかし、巴波川沿いに建つ塚田家の土蔵と黒板塀の光景は私たちを歴史へ誘う魅力を秘めていると言える。……それでも、川の湊であった河岸の痕跡は何も残っていないのが寂しい。

栃木河岸ー井筒屋重兵衛

P2210041 江戸幕府は、江戸の防衛や道路整備から荷馬車の禁止や川への渡橋を禁止していた。しかし、江戸への年貢米の収集や大消費を支える食料や燃料を必要とした。その必要とされた食料等の江戸への物流を担ったのは陸路ではなく水運であった。

 栃木河岸巴波川舟運は、元和3年(1617)徳川家康の遺骸を駿府の久能山から日光山に改葬した時、日光御用の諸荷物を部屋河岸より小船に積みかえて巴波川を遡航して栃木河岸に陸揚げして日光に送ったことが始まりと云われている。

Tizu21  栃木河岸は江戸から43里18町(約173キロ)。巴波川を遡った終点に位置し、江戸方面よりの荷物は部屋・新波河岸で小船(都賀船)に積みかえて、曳綱をもって遡航し、栃木河岸からの諸荷物は、部屋・新波河岸で大船(高瀬船)に積みかえて送った。

 一般に栃木河岸と云われているのは、巴波川左岸の栃木町側(塚田歴史伝説館の建物側)を栃木河岸。右岸の片柳村側(現在の湊町側)を片柳河岸。その上流左岸の平柳村新地の河岸(泉橋の上流)を平柳河岸とよばれ、下流の沼和田村の沼和田河岸(沼和田町愛宕神社付近)を含めて栃木河岸と総称している。

  安政元年(1864)の栃木河岸は沼和田河岸1軒を含めて12軒の河岸問屋があった(栃木市史)。

 ●平柳河岸…山崎屋忠兵衛

 ●栃木河岸…大阪屋惣左衛門・中島権左衛門・ 八百屋利右衛門・新籾与五郎・釜屋長七・壺屋吉左衛門

 ●片柳河岸…糸屋平吉・巻島角兵衛・仁科屋利右衛門・福田次郎右衛門

 ●沼和田河岸…平浜衛

 明和元年(1764)の運上金が栃木河岸の船積問屋が一軒500文。それ以外の平柳河岸・片柳河岸の船積問屋が一軒250文であったことから栃木河岸の中で巴波川左岸の栃木河岸の船積問屋のほうが規模が大きかったと伺える。また、利根川水運で河岸船積問屋として賑わった関宿藩境河岸の船積問屋の運上金が500文であったことから、同等の規模であったと思える。ただ、境河岸船積問屋では米穀一艘・一往復につき7文、米穀以外の荷物は10文の運上金を藩に収めた(川名登著「河岸」より)とあるが、栃木河岸問屋の場合は記録が定かでなく不明である。

 栃木河岸船積問屋の中の中島権左衛門は皆川氏の家臣であったと思われる。栃木宿の町役人や脇本陣宿泊提供などを務め、巴波川沿いの舟運における綱手道など沿岸の村々との諍いの内済議定書にも名前が記載されているなど栃木町の重心であった。この中島権左衛門の孫にあたる二代目高田安平は万町三丁目で先代から受け継いだ薬種商(現高田クリニック)を営みながら、昭和6年~7年にかけて東武鉄道新栃木駅開設を機会に北関門道路建設に多大な尽力をなした人物として広く知られている。

P2210042  安政年間の栃木河岸船積問屋の釜屋長七の店の有様を郷土史家、熊倉精一氏が著書「栃木町念仏橋」に次のように記述している。

 「ぐるりと塀に囲まれた釜屋の入口は(巴波川)河岸に面した土手の中ほどにあった。出入りする人夫を(井筒屋重兵衛は)避けながら広い門を入ると立ち並ぶ蔵が目に入る。『さすが釜屋さんだ』。蔵の前には船積みを待つ炭の俵などが山のように積まれている。(略)荷積問屋は蔵が生命。立ち並ぶ釜屋長七の土蔵7棟は大きいものは三間に十五間から、小さい蔵は二間半に二間のものまですべて瓦屋根である」

 釜屋に訪ねたのは円説中の坊の家守、質屋稼業の井筒屋重兵衛で、釜屋が700両の10年借用の担保として居宅屋敷、土蔵、高瀬船、都賀船を差し出し、井筒屋から借り入れするなど苦しい船積問屋の内情が描かれている。

 釜屋長七の船積問屋がその後どうなったか、記述はないが、栃木市史に記載されている明治2年の栃木河岸船積問屋の中に釜屋長七の名前がなく、代わりに井筒屋重兵衛の河岸問屋としての名前が載せられている。おそらく井筒屋重兵衛が釜屋長七の問屋株を引き継いだものと推測される。

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  渡辺達也著「歌麿と栃木」の中に、明治2年の高瀬船の売渡証文書が載っている。売主が佐野の馬門河岸水運業嶋屋治右衛門で、高瀬船一艘を167両2歩で栃木、円説中の坊に売却した証文である。証文宛名が井筒屋重兵衛になっていることから、明治2年にはすでに井筒屋重兵衛は船積問屋を営んでいたことになる。

P2210047 栃木市倭町に坂倉(井筒屋)重兵衛居住跡が「栃木市郷土参考館」として一般公開されている。明治21年(1888)に板倉家が東京に転居していたが、戦後に栃木市が譲り受けたものである。土蔵は栃木市内で最も古く築200年以上とされている。

 麻問屋、質屋稼業として、僧侶円説中の坊の家守として栃木町の豪商として数多く坂倉(井筒屋)重兵衛の名前が古文書などに記載されてくる。

 栃木市保管の安政三年(1856)「井筒屋重兵衛大麻勘定帳」が栃木市史史料近世篇に記載されているのを読むと、大麻取引売買勘定金には、金千三十三両三分とか四百十五文、八百二十八両と記載されており、桁違いの規模の大きい大麻の商いしていたことに驚かされる。

P2210048  石崎常藏著「栃木人」には、明治7年(1874)に日本橋小田原町田原屋より山車人形「静御前」購入の際に、倭三町内で負担金について、「慶応4年(1868)井筒屋の家督を相続した坂倉重平が100両、次に釜伊35両、渡藤30両、中島・萬清・盛田屋・芳新・本沢15両、釜芳10両、柏屋・丸重5両という記録があり、坂倉の献金が群を抜いていた」と記され、豪商としての井筒屋に興味を惹かされる。

 明治に入り、僧侶円説中の坊は栃木町から消えて、家守の坂倉重兵衛が全てを引き継いだものと思われる。真言宗の僧侶であった円説中の坊は廃物稀釈の中で栃木町を去っていったものと考えられる。井筒屋重兵衛をさらに読み解いていくことが、栃木町近世の問屋商いの姿を浮かびあがらせることになることを重々承知しているが、さらなる学習、検証が必要だと痛感する。

P2210036  巴波川の舟運運航期間は夏冬を通してではなく、栃木河岸と部屋・新波河岸間では3月10日から8月20日まで船の往来が禁止されていた。もともと稲作における灌漑用水として巴波川からの取水に支障が生じるためであった。 

 問題は明治に入ってから鉄道運輸に変わる明治20年代までの巴波川舟運がどうであったのか、分からないのだ。明治5年に栃木県庁舎が栃木町に設置され、県庁舎は県庁堀に囲まれ、巴波川からの舟運用の運河が庁舎まで繋がり、庁舎東側には荷揚場まで設置されている。

 この時期、巴波川舟運は通年運航になったのではないかと思われる。明治政府の富国強兵策は大麻の需要を産み、舟運による輸送の強化が叫ばれたのではないか。江戸時代には巴波川沿岸の領主であった古河藩土井家、関宿藩久世家など廃藩置県で消滅し、代わりに中央集権国家の県庁支配が色濃く出始めてきた。県庁の力をバックに栃木麻・荒物問屋の振興と衰退していく巴波川舟運船積問屋がどう動いたのか、興味が惹かされる事項である。

                       《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

石崎常藏著「栃木人」(2017年4月、石崎常藏発行)/ウエブサイト「塚田歴史伝説館文化遺産オンライン」/「栃木市史」(昭和63年12月発行)/熊倉精一著「栃木町念仏橋」(平成4年7月、熊倉精一発行)/川名登著「河岸」(2007年8月、法政大学出版局発行)/渡辺達也著「歌麿と栃木」(平成23年10月、歌麿と栃木研究会発行)/「栃木市史史料編近世」(昭和61年3月発行)

 

 

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