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2021年4月

下野戊辰戦争…今市宿攻防の跡地を歩く

 「砲弾打ち込み杉」と「塹壕跡」

100_0012  今市市街から杉並木街道を日光に向け、車止めから300mほど先に「砲弾打ち込み杉」がある。行き交う車がなく鬱蒼とした日光街道杉並木である。

 この付近は「瀬川十文字」「野口十文字」と呼ばれ、日光街道杉並木が緩やかに屈曲するために迎撃するには絶好の場所であったと云われている。

 慶応4年(1968)4月29日の戦闘で、日光山に拠って対陣した旧幕府軍に対して新政府軍が撃った砲弾の痕跡が杉の幹に残っているのが見える。

 100_0016_20210427084801   また、ここより300m先に旧幕府軍が新政府軍を迎えるための塹壕跡がある。茂みの中に入り、この塹壕跡に立ってみる。日光街道を真向いに見ることができる絶好の迎撃位置に設置していることが分かる。なんとなく子供の頃に遊んだ陣取りゲームのようになり、楽しくなってきた。

 旧幕府軍の主力であった伝習隊にはフランス仕込みの工兵隊がいたことが伺わせる史跡だと思えてくる。

 この戦闘の後に大鳥圭介率いる旧幕府軍は会津に向けて日光を後にする。1か月後には会津藩と合流し、今市宿の掌握を目指しての攻防戦が展開されていく。日光山に残された重症兵士は新政府軍に斬殺されていく。戊辰戦争時には捕虜という概念はなく、獲られえられれば処刑が待っていた。

今市宿攻防戦

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 日光山から撤退した旧幕府軍は会津田島にて会津藩若年寄山川大蔵が率いる会津藩増援部隊(350名)と合流し、新たに会幕軍として再編成を行った。そして新たに白河口、三斗小屋、塩原温泉、会津西街道日光口から奥州街道を遮断して北関東を制圧していく戦略を立てていく。

 そのためにまず宇都宮占領を目指して今市宿を掌握していくととした。こうして会幕軍主力900名で板垣退助率いる土佐藩主力の新政府軍500名が防衛する今市宿を攻撃していくという第一次、第二次戊辰戦争今市宿の攻防戦が展開されていくことになった。

第一次今市宿攻防戦

100_0007  慶応4年(1868)閏4月20日(新暦6月10日)の梅雨の中、会幕軍は二つに分け日光街道今市宿の出入り口になっている東西の関門(木戸)からの攻撃を始めた。

 東西同時攻撃となっていたが、先に会津藩士主力の会幕軍が東関門(下木戸)への攻撃を始めた。長槍部隊の会津藩士の密集した攻撃は最新兵器ミエール銃によって負傷者の増加を招き、会幕軍は撤退をしていく。

 西関門(上木戸)の攻撃は遅れること1時間後に行われた。雨により増水した大谷川の渡河に難渋したためである。西関門の横から旧幕府軍兵士は宿内に突入し、如来寺周辺を中心に白兵戦を展開した。しかし、東関門守備隊が応援に回ってくることにより旧幕軍の兵士は撤退をしていった。

  大谷川に面した今市宿の北側は崖になっており両関門からの攻撃となるが、同時攻撃でなかった処に敗因があったとされている。

第二次今市宿攻防戦

P3090044  新政府軍指揮官の板垣退助は周囲の戊辰戦争戦闘の悪化から今市宿を死守することを念頭に500名の部隊で防衛線を布いた。

 それは、今市宿の東西関門と会津西街道口に石垣や土俵を築いた陣地の構築。宿の北側を中心に要所要所に胸壁を造り、その前には竹林で柵をつくり迎え撃つ体制の構築であった。

 5月6日(新暦6月25日)に会幕軍は150名で守る東関門を一点、600名で集中攻撃をしてきた。日光街道森友を本営にして三方向(①東関門正面、②今の中国料理店「山泉楼」付近、③日光市役所と例幣使街道との間)から攻撃を始めた。特に山泉楼付近は激戦になったと云われている(田辺昇吉著「日光山麓の戦」より)。

100_0001  正午ごろまで会幕軍は森友からの予備隊を投入して攻撃を続けたが、板垣退助は戦闘が行われていない西関門の守備隊を再編し、現在のJR今市駅付近から例幣使街道を横断して、会幕軍の左翼への攻撃を始めた。さらに宇都宮から日光街道を北上してきた援軍(150名)が本営の森友を後方から攻撃することにより会幕軍は敗走した。

 会幕軍側の損害は大きく、以後は攻勢を諦め藤原を中心にして会津西街道の防衛線に移行していった。新政府軍は大谷川左岸の村々を会幕軍に道案内など協力したということで焼き払い、名主などを処刑している。戊辰戦争下野は地域住民をも巻き込んだ戦になっていったといえる。

無名戦士の墓(和尚塚)

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 今市宿攻防戦では100名を超える会幕軍兵が戦死・負傷したと云われている。

 賊軍としての戦死者の埋葬は禁止されていた。しかし、以前に行き倒れた僧侶を祀った処から「和尚塚」といわれていた地に野晒しにされた会津藩士などの遺骸25余名を見かねた地元民が埋葬した。東関門(下木戸)に晒された27名の首級(16名とも)を埋葬したとも伝えられる(大嶽浩良著「下野の戊辰戦争」より)。

 和尚塚は日光市役所近くの国道118号線沿いで、小林歯科の向い側にあるが、杉並木側からも入ることができる。

追分地蔵尊と東関門(下木戸)跡地

P3090037   日光例幣使街道が日光街道に合流する追分に地蔵堂がある。ここに安置されているのは像高2mの石造地蔵菩薩坐像である。弘法大師が大谷川含満ヶ淵の岸辺に建てた石仏といわれ、大水で流されて今市の河原に埋もれていたのをここに堂を建て安置したもの云われている。

 徳川吉宗が日光参詣した折り、この地蔵が白布で覆われているのを見て、白布で覆わないように命じ、こに地蔵堂の後で朝鮮人参を育てさせたという。正確な造像時代は不明だが、室町時代頃の作と推定されている。

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 境内には、口の周りに出来るくさ(おでき)をとるお地蔵様「くさ地蔵尊」が祀られている。

 この地方の土壌からは灰汁の強い野菜が採れたことで、子供たちにくさ(おでき)ができたと云われている。こうした土壌から朝鮮人参の栽培へと繋がっていったのかもしれない。

 追分地蔵尊から市街に入る所に小倉町交差点がある。今市宿の東関門(下木戸)のあった処である。

 この関門に日光街道は直線ではなく斜めに入ってきている。木戸特有の設置になっている。

 会幕軍主力が三方向から攻めてきたが、150名の守備隊は胸壁陣地や杉並木を盾にして守り通した。今でもこの近辺の杉並木から銃弾の弾が出てくると云われている。

回向庵「土佐・佐賀藩士」の墓地

100_0019  東武日光線の会津西街道高架線の下を通り50m先を右折したところに回向庵がある。如来寺の僧侶の住居として江戸時代に建立。享保年末には河原庵とも呼ばれていた。境内には戊辰戦争で戦死した土佐・佐賀藩士の墓地と侠客伝日光円蔵の墓がある。

 佐賀藩は土佐藩が白河口攻撃に向かった後に日光に来て、会津西街道に防衛する会津軍に攻撃を仕掛けたが、手痛いしっぺ返しにあう。板垣退助は狭路を守る会津軍には攻撃をするなという忠告を無視しての攻撃であった。

 如来寺「戊辰役戦死者供養塔」

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 今市宿場の中央に位置するところに如林寺がある。室町時代、1478年頃に創建された浄土宗の寺院。江戸時代には、日光社参の折、徳川将軍が宿泊する御殿(焼失)があったという。また、二宮尊徳翁の葬儀が行われた寺院でもある。

 山門前に大正6年(1917)に戊辰戦争50周年に今市町の有志によって会津藩士の慰霊のための「戊辰役戦死者供養塔」の建碑がされた。会津藩士の遺族など300余名が出席している。

 大正時代になっても境内への建立は許されなかったと云われている。

P3090083  土佐藩を主力とした新政府軍の本営が如来寺にあった。第一次今市宿攻防戦では、西関門の横を抜けて宿内に入った旧幕府軍を主力とした会幕軍は如来寺周辺にて白兵戦を演じた。尚、伝説では山川大蔵が如来寺の屋根にのぼり白兵戦をしたと云われているが、会幕軍の副総監であった山川大蔵は東関門攻撃の指揮官であり、宿内白兵戦の時にはすでに東関門から撤退していた。

 山川大蔵(浩)は会津籠城戦において彼岸獅子を先頭に舞わせながら会津城に入城を果たし、籠城戦の防衛総督として戦った。会津藩降伏後には斗南藩の責任者、権大参事を務め、西南戦争に従軍、陸軍少将、貴族議員になる。

 晩年は幕末の一級史料である『会津守護職始末』を記したことで有名だが、草稿段階で死去したため、実際は弟・山川健次郎(東大・京大総長)が完成させたとするのが定説になっている。

日光杉並木街道

P3090066  「日光杉並木街道」は日光街道・例幣使街道・会津西街道の3つの街道に渡り、全長37㎞もの道の両側に約1万2350本もの30m高さの杉の木が鬱蒼とそびえ立ち並木道をいう。

 杉並木街道要衝の地の今市宿攻防戦では、会幕軍の敗因として使用した武器の違いがあげられている。会津藩の使用した銃がゲベール銃。銃口から丸い鉛玉を入れる口込式。射程距離は200mでしかなかった。一方の土佐藩(新政府軍)の使用した銃はアメリカ製ミニエール銃。口込旋条銃(ライフル型)で卵型した弾で射程距離は650mで命中率が良い。会津藩のゲベール銃に比べて20倍の威力があった。

 旧幕府軍伝習隊使用していた最新式の仏式シャスボー銃は安塚と宇都宮の戦闘で消費し、弾薬は無くなっていた。そのため、今市宿の攻防戦では使用したのか不明になっている。旧幕府軍の日光撤退の要因となったのは食料のなしと弾薬の欠乏であった。軍を動かすには兵站の重要性を認識していなかった大鳥圭介の失策であったといえる。

100_0017  戊辰戦争では城下や戦場での戦闘は数多くあるが、宿場の奪還と宿場の防衛をめぐる攻防戦は今市宿の戦闘以外に見当たらなく、特異な攻防戦ではなかったかと思う。

 勝手な思い込みかもしれないが、木戸や宿場周辺を陣地構築しての防衛戦は、村を要塞化して野武士と戦う映画、黒澤明監督作品「七人の侍」彷彿させてくる。この防衛戦を指揮した板垣退助が「七人の侍」の志村喬に重なってきたり、林の中から馬で村に野武士が突っ込んでくるシーンなどが何故か重なってくるのだ。ひょっとして黒澤明は今市宿攻防戦や板垣退助をモデルにして「七人の侍」の一部を撮ったのかもしれないと想像してみた。まったくの私の思い込みだが……。

 戊辰戦争における板垣退助の戦闘戦術について興味が湧いてきたので、調べていくことにする。

                        《夢野銀次》

≪参考資料本等≫

田辺昇吉著「日光山麓の戦」(昭和52年4月、板橋文化保護協会発行)/大嶽浩良著「下野の戊辰戦争」(2004年3月、下野新聞社発行)/「いまいち市史通史編Ⅳ」(平成16年3月発行)/ウエブサイトブログ「歴声庵・野州戦争」

 

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あやうい恋の旅路―なかにし礼『風の盆恋歌』

 平成元年(1989)6月24日に美空ひばりが亡くなった。そして、この年の1月にリリースしたひばりの最期の曲『川の流れのように』がヒットし、年末のレコード大賞にノミネートされた。しかし、故人にはレコード大賞は授与されないとし、代わりに「美空ひばり賞」を設け、ひばりの功績を讃える証とした。

 「戦後のレコード界を背負い、昭和を唄ってきた美空ひばり。その最期のヒット曲が授与されなかった。…レコード大賞の権威は失墜したな」とがっかりした私は思った。以後、レコード大賞への関心が急速に喪っていき、今では関心すら持てなくなっている。

Mqdefault1_20210407063101  なかにし礼と石原裕次郎、美空ひばりとの関係に興味を抱き、なかにし礼が書いている本を読んでいくうちに、なかにし礼作詞、三木たかし作曲、石川さゆりの歌う「風の盆恋歌」を偶然に出会うことができた。

 そして、この曲は美空ひばりが亡くなった平成元年のレコード大賞最優秀歌唱賞を受賞している。さらに同年の第40回NHK紅白歌合戦の大トリで石川さゆりはこの「風の盆恋歌」を熱唱していることを知った。すごい歌だったのだ。以前、20年くらい前に立川市文化会館で観た「石川さゆりショウ」ではこの歌については印象になく、記憶に残っていなかった歌である。

 今回しみじみとYouTubeで「風の盆恋歌」を聴いた。

《風の盆恋歌》

〽蚊帳の中から 花を見る

 咲いてはかない 酔芙蓉

 若い日の 美しい

 私を抱いてほしかった

 しのぶ逢う恋 風の盆

 

〽私あなたの 腕の中

 跳ねてはじけて 鮎になる

 この命 ほしいなら

 いつでも死んで みせますわ

 夜に泣いてる 三味の音

 

〽生きて添えない 二人なら

 旅に出ましょう 幻の

 遅すぎた 恋だから

 命をかけて くつがえす

 おわら恋唄 道連れに

(作詞:なかにし礼、作曲:三木たかし、唄:石川さゆり、平成元年・1989年6月発売)

G20120305002766040_view1_20210407063101    「おわら盆」を背景に覚悟の決めていく女の情感愛がにじみ出てくる歌だなと感じた。

 富山県八尾町で毎年、9月1日から3日間にわたり行われる「おわら風の盆」。その街を背景に50代の男女の恋と死を描いた小説、高橋治著「風の盆恋歌」を原作にしてつくられた歌曲である。

  「♪私あなたの腕の中 跳ねてはじけて鮎になる~」という作詞を読んだ時、なんとそのものずばり猥褻な歌詞だと感じた。しかし、石川さゆりが歌う「風の盆恋歌」を聴くと、悲しくとも激しい恋への歌になっている。そこにはどうしようもない男と女の世界が映し出されてくる。

  「どこから、この世界が生まれてくるのか?」と思い、歌の基になった原作「風の盆恋歌」を図書館で借りて読んだ。

 高橋治著「風の盆恋歌」は昭和60年(1985)4月に「崖の家の二人」を改題して出版されている。富山県八尾町で毎年9月1日~3日に開催される「おわら風の盆」の祭を背景にした恋愛小説になっている。八尾町おわら節は長谷川伸戯曲の「一本刀土俵入り」のお蔦の生まれ故郷として、劇中「越中おわら節」がお蔦とその娘が歌い、駒形茂兵衛との再会とつながる筋立てになっている歌でもある。

Bk4101039119_3l1   「もう一度私を風の盆に連れて行ってください」と20年ぶりにパリで再会した女は男に頼む。男はパリでの約束を果たすために富山県八尾町に一軒家を購入する。

 9月1日から3日までの3日間、再会してから7年後の「おわら風の盆」の間、二人は逢瀬する。原題の「崖の家」で……。

 風の盆踊りが行われる八尾町は、北東から南西にかけて細長く広がる坂の街。近くを流れる井田川を手前にして見ると、高い石垣と崖に街が乗っているように見えると言われている。

100-2 若いころひかれ合いながら、思いを告げることなく行き違えた二人。互いに家庭を持ち、長い年月を経て、再び出会う。「越中おわら風の盆踊り」祭の夜に、麻の白い蚊帳の中で男と女はあやうい恋の旅路をたどり、死と向き合っていく小説になっている。

 なかにし礼は著書「あざやかな嘘―高橋治」(「道化師の楽屋」収録)の中で、実際の「風の盆踊り」を観て、原作の「風の盆踊りは命を燃やすお祭りです」を引用して次のように記している。

 「こんな情緒纏綿(じょうちょてんめん)たる祭が世界のどこにあるというのだ。三味線の単純なリズムと合奏、それに乗って胡弓がこれまた単調なメロディーを奏でる。そこにこんどは男の声が高いところでおわらを歌う。しかし、どれもこれも、徹底的に無駄がはぶかれ、贅肉がそぎ落されているだけに、ものすごい技術を要求されるものだと思う。越中八尾の街角で奏でられるおわらのひとふしが大芸術のヴァイオリンのカデンツァより強い衝撃を与えてくれるのだ」と記している。

300pxkazenobon011 私は八尾に行き、「おわら風の盆」を観ていない。ただ、20数年前に富山県民会館で会議の前のイベントショウとして観ているだけである。大舞台での「おわら風の盆」の踊りはステージショウとして演じるだけで、何の感情も湧かなった記憶がある。しかし、原作を読み、石川さゆりの「風の盆恋歌」を聴くと、墨絵の中に男と女の心が交錯した色彩を帯びた情景が浮かび上がってくる。

 人生の晩年を迎えようとする二人にとり、やり残した思いが緩やかに風の盆のように浮かび上がってくる。50代の人生の関所を迎えた二人。「命をかけてくつがえす」というあやうい道行の歌へと浄化されていく。……怖い歌である。

 やはり、「おわら風の盆」は現地で観るものだ。

Photo_20210406155401  「〽蚊帳の中から花をみる 咲いてはかない酔芙蓉~」。…男が購入した白い麻の蚊帳。玄関の前には女が添えた酔芙蓉の花。

 原作「風の盆恋歌」で、「朝の中は白いですが、昼下がり酔い始めたように色づいて、夕暮れにはすっかり赤くなります。酔って散ります。一日きりに命の花です」と崖の家を紹介した地元の清原が男に話す。清原は二人を静かに見守っている。

 「〽私あなたの腕の中 跳ねてはじけて鮎になる~」。…白い蚊帳の中での男と女の絡みの中、「飛び跳ねる鮎になる女」。「この踊りは、動きの美しさより、止まった時の線の美しさを見せるものなのね」と、風の盆踊りを見ながら男に話した女の言葉がオーバーラップしてくる。静と動がおりなす光景が描かれてくる詞である。

 「〽旅にでましょう 幻の 命をかけて くつがえす」。夢と幻。男は崖の家で突然の死。女は男の傍で後を追うように旅立つ。二人を見守っていた清原が娘と共に踊りながら「みなさんお祭りでございます。おわらを愛したお二人のためにどうか踊って上げてください。みなさん、今夜は命を燃やすお祭りでございます」と最後のセリフは胸に沁み込んでこくる。

 1960年代後半から作詞活動を行い、数々のヒット曲を生み出してきたなかにし礼。昭和が終わり、平成を迎えた時に作詞したこの「風の盆恋歌」をもって作詞活動から遠ざかる。昭和に生まれ、育ち、4000曲以上を作詞したなかにし礼は、「平成に変わった瞬間、自分んが歌を作る必然が失われたように感じた。51歳。新たな道に踏み出す最後の機会かもしれないと思った」と「わが人生に悔いなし」に記している。51歳で迎えた人生の関所を新たな挑戦で乗り越えていく。以後、創作オペラ、小説を執筆していく活動に専念し、令和2年(2020)12月23日にその生涯を閉じた。

                        《夢野銀次》

≪参考引用本資料本≫

高橋治著「風の盆恋歌」(1985年4月、新潮社発行)/長谷川伸著「一本刀土俵入り」(昭和47年朝日新聞社発行「長谷川伸全集第16巻」収録)/なかにし礼著「あざやかな嘘ー高橋治」(2002年2月、河出書房新社発行「道化師の楽屋」収録)/なかにし礼著「わが人生に悔いなし」(2019年6月、河出書房新社発行)

 

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