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2021年6月

21年6月後半―ジャガイモの収穫

100_0219  3月11日に種芋を植えたジャガイモ。今年は成長が早い。6月21日からジャガイモの収穫を始めた。

 「ジャガイモの植え付けは少なくして下さい」と昨年妻から言われていた。しかし、例年通り4キロのジャガイモを植えてしまった。

 梅雨時のジャガイモ収穫はお天気とにらめっこをしている。

 「本日は晴れ、ヨシャ」。

その日を逃さずジャガイモ堀りを始める。一株づつ手で掘る。

100_0238 「陽にあてたらいかん!」とずーと以前に亡くなった近所の婆様から助言通り我が家の北側の軒先にて日陰干しをする。

  年齢を考えて、来年からジャガイモの植え付けは少なくするつもりだ。北海道の施設に入っている学生時代の学友には「今年で最後のジャガイモだよ」と添え書きをして送る予定。

 少し寂しいけどな…。

100_0225  マルチをしないためか、以前よりサトイモの発芽が遅かった。

 5月下旬に8本の種芋から芽がでた。どうしても一本の種芋からは芽が出てこなかった。掘り返したら腐っていた。

 鉢植えに昨年のサトイモの生ごみから芽がでていた。その苗を植えて9本がそろった。

 ようやく一回目の土寄せを行った。やはりマルチはした方がいいのかもしれないと思えてきた。

100_0231  4月に植えた「キュウリ」「ナス」などからも実がなってきた。

 ジャガイモは8月まで朝食のメインとなる。キュウリとナスも同じく毎日食べていくことになる。

 「責任をとってちゃんと食べていってくださいな」と今年も妻から言われるということだ。

 収穫したジャガイモ、ふんわりと品格が出てきたような気がする。10年間の耕作により土壌の質が良くなってきていると感じる。

 Title7521 このところ、向田邦子作、久世光彦演出の「寺内貫太郎一家」をYouTubeで第一話から観始めている。

 …面白い。昭和49年(1974)の放送開始から高視聴率をあげていたテレビドラマ。その年の第7回テレビ大賞受賞作品になっていることを知る。

 私はまったくこのテレビドラマを観ていなかった。就職したばかりでテレビドラマを観る余裕がとてもなかったからだ。そのため新鮮なドラマとして観ることができている。

100_0233  久世光彦は自著「触れもせで―向田邦子との二十年」の中で、「私は『寺内貫太郎一家』という題名が、自分の手がけたドラマのうちでいちばん好きである。媚びたところがなく、歯切れがいい。堂々と胸を張っているようで、ついでにお腹まで突き出してしまったような滑稽さがある。太った父親を中心に、家族がピラミッドの形に身を寄せ合っている姿が見えるようである」と記し、向田邦子のつけた「寺内貫太郎一家」のタイトルの素晴らしさを絶賛している。

100_0221  放送開始にあたり、墓石の石屋、足の不自由な長女、父親が主人公、ということで局との軋轢があったといわれているが、何がこの作品を面白くさせているのか?

  まだまだ観始めたばかりの「寺内貫太郎一家」、時間をかけてみていくことにしている。

100_0227  イチゴの収穫が終わり、ランナーを新たな畝に移し換えた。

「また来年も実が成ってね」とつぶやきながら作業をすすめた。

 サツマイモの苗も無事根付いて茎が伸び始めている。

 梅雨明けはまだまだだが、しっかりと我が家の菜園を見守っていきたい。

                      《夢野銀次》

 

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21年6月……ニンニクの収穫と冊子「銀次のブログ」

100_0150   6月の半ばを過ぎ、本格的な梅雨の季節を迎えた。そんな晴れた日、ニンニクの収穫を行った。

 昨年の11月にスーパーで購入したニンニク2個を一粒ごとに分けて植えた。

 ニンニク18株を抜いた。

……ヨッシャ!出来ている。やれやれ。去年より実が太いと感じる。半年以上かけてのニンニク栽培。普段は周りの草を採るだけの栽培だが、時間がかかる。

 黒ニンニクはガンの免疫体を作るといわれ、2年前の5月にガン入院から退院してから黒ニンニクを毎朝食べている。

ガンは再発する病として治癒はないと思っている。免疫力を作ることと早期発見を目指している。

100_0159  収穫したニンニクはしばらく陰干しをして乾いたら泥を取り払い、皮をむき保存用のネットに入れて窓際につるして完了。

 チューリップの球根もネットに入れて今年の11月に植える。2年前に花壇にチューリップを植えたくなってホームセンターで10個入りの球根を植えた。

 今年の球根は50個になってしまっている。11月にこの球根をどこに植えたらいいいか、今から考えていかないといけない。

100_0154  毎年、カボチャを栽培しているが、大きいカボチャは料理に困ると妻が言うので、今年はミニカボチャの苗をホームセンターで一つ購入して植えた。

 あとの2本はスーパーで購入して料理して食べたカボチャの種を苗として育てたのを植えた。

 さすがに6月中ごろになると苗は大きく伸びてきて黄色い花が咲き始めて力強さがでてきた。

100_0152  しかし、メシベの花がなかなか咲かないのだ…。

 ようやくメシベの花を見つけ、オシベを採りメシベに自粉する。

これが実に猥褻で面白いのだ。この面白さのためにカボチャ栽培をしているともいえる。

 ミニカボチャ、実がなり始めた。6月末には収穫できると期待している。

100_0215  ある記念館の女性のご主人に取材をかねて2度ほど記念館でお話をした。

 次の日いきなり電話がかかってきて、「あなた本を出しているのね。市役所の人がおしゃっていました。なんで2回目の時に本を持ってこないのよ」怒られた。

 「研究書ではありません。銀次のブログを冊子にしたものですよ」と応えたが、本を出すということは相手からすると私への警戒と尊敬とかが混じり合い、いろいろな考えが湧き起きて感情になって現れたのかもしれないと後から思ってきた。

 10年の間、銀次のブログを描き続けてきた。インターネットで見ることの出来ない友人や知人向けにある一定時期にまとめて冊子にして自家発行してきた。ガンで入院する直前の2018年9月に第3巻まで発行している。

 今年の9月には「銀次のブログⅣ」を発行するつもりでいる。たとえ冊子といえども本にして残すことは大きな責任を感じて発行してきた。間違いも、誤解もある箇所が多々あるが、発行することにより記事への責任が増してきたように感じている。

 私は歴史研究者ではない。歴史ある場所に立ち、そこに流れている歴史を探りたく参考文献などから学習をし「銀次のブログ」としてネットに表している。現地での歴史の匂いなどの体感を何よりも大事にしている。いわば現地学習をしていくという生涯学習を目指しての生活を送りたいからである。

100_0157  「石の上にも三年」ということがある。62歳の時から「銀次のブログ」を描き始めて満で10年たった。そのせいなのか、最近では「銀次のブログ」の中の「建築道具館―神輿職人・赤穂新太郎の道具展示」と「栃商百年誌を読んで」の記事から別の紙面に掲載されるようになってきた。

 赤穂新太郎氏の道具展示をしている「全日本建築士会」の会報「住と建築」に昨年の11月号から4月号まで5回に分けて「銀次のブログ」記載の記事が掲載された。さらに「栃商百年誌を読んで」の記事がきっかけで「栃商同窓会報誌」にある同窓会役員から寄稿依頼があり、「校歌に込められた思い」というタイトルで今年の6月の「栃商同窓会誌報」に、ともに夢野銀次ではなく、本名の柏倉正の名前での掲載になっている。

 「銀次のブログ」もどうやら地域の人から認知されてきたような気がしてきた。しっかりと己の感性と体感を大事に「銀次のブログ」を描き続くけていきたいと思っている。

 100_0167 「ポン太」が日陰で寝ている。

 9歳になっている。体重が7キロと大きい猫なのだが、喧嘩は弱いのだ。それと雷を怖がり、その気配があるとノソノソと台所とか暗い所に隠れるように逃げ込んでいく。

 朝の4時。私の枕もと来て、「ニヤーオン」と泣き、早く起きろと急き立てる。冊子「銀次のブログ」、早く4巻発行の準備をしろと急き立てているようだ。

 楽しみながら「銀次のブログ」の発行準備をしていくとポン太に話しておいた。

                     《夢野銀次》

 

 

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巴波川散歩Ⅴ…岡田嘉右衛門と翁島別邸(上河岸跡)

皆川広照のまちづくり

P2210041_20210609152901     栃木河岸から江戸への43里の巴波川舟運は元和年間 (1615~1623)から日光社参の御用荷物を輸送した頃からといわれている。

   しかし、安政6年(1859)の栃木河岸船積問屋の訴状の中には、『関東御入国以来、諸家様方御荷物はもちろん、商人荷物、栃木河岸よりそれぞれ積送り』と、徳川家康の関東入国(天正18年・1590年8月朔日)から巴波川舟運が行なわれていたことが記載されている(栃木市史より)。

  家康が当時辺鄙な江戸への移封を決めた理由として、物資の流通、河川舟運こそが城下の発展に直結すると考えていたからだといえる。小田原征伐後、家康の家来扱いとなり秀吉より本領を安堵された皆川広照は本城を皆川城から平地の栃木城に移し、栃木の城下町づくりに着手した。

  その城下町づくりは信長の安土城下と家康の江戸城下づくりに倣っていったと思われる。

   広照の「栃木の城下まちづくり」の構想の基になったのは天正10年(1582)に徳川家康の供として安土城に赴き織田信長に会い安土城下を観たことによると思われる(平山優著「天正壬午の乱」参照)。

 安土城下の「楽市楽座」の活況を呈していた市場の賑わいと琵琶湖水運を観たことが影響されていると思えるのである。

212211   栃木町中央を南北に縦断する道幅15間(27m)か10間(18m)の軍事的な大手通りとしての大路。その北口先端木戸口横には市場の神様「蛭子神社」を祀り、市場を開設し、町の賑わいを図る。同時にこの大路は巴波川治水の役割を担うものであった。大雨災害時には放水路の役割があったからである。さらに物資の集散と物流は巴波川舟運が担うこととした。それは安土城下のような活況を呈した人との交流の盛んな町づくりの構想があったと思われるからだ。

  しかし、慶長14年(1609)信濃飯山城城主になっていた皆川広照は改易となり、嫡男皆川隆庸が仕切っていた栃木城は取り壊され、城下町ではなくなる。

  広照の残した栃木のまちづくりは遺臣たちを中心に近江商人が加わるなどして物資の集散地舟運の町・例幣使街道の宿場町・商人問屋の蔵の町として発展し、江戸から明治・大正・昭和へと引き継がれていく。

 平柳河岸から嘉右衛門橋

Pc070077   巴波川舟運遡航の栃木河岸には12の船積問屋が生業としていた。一番奥の上流に平柳河岸がある。

  平柳河岸の船積問屋山崎屋忠兵衛は「水戸様御用生魚売捌所を仰せつけられ生魚類を水戸浜から直接仕入れて魚問屋を企てられて」と栃木河岸船積問屋からの訴状文面など栃木市史に記載されていることから、平柳新地など栃木町木戸外でありながら水戸徳川家と結びついた新興の船積問屋であったと推察される。

   Pc070081 巴波川沿いの平柳河岸跡を歩いていると、平柳河岸跡案内標識板の前で一人で草採りをしているご婦人に出会った。市民講座などでよく見かける人だが、巴波川綱手通りの草採りをボランティアで行っているという。その表情は生き生きとして映っていた。

  その平柳河岸跡の200m上流には江戸時代から架けられてある嘉右衛門橋がある。嘉右衛門橋からすぐ上流の右側(上流からみると左岸)に沿って岡田嘉右衛門別邸「翁島」(おきなじま)の敷地を見ることも出来る。

岡田記念館と翁島別邸

100_0095   嘉右衛門橋先の横には日光例幣使街道が通っている。街道沿いには立派な門構えをした「岡田記念館」が建っている。嘉右衛門新田名主でもある岡田嘉右衛門の敷地内にある畠山陣屋13か村の用人代官をも務めた「岡田記念館」である。

  岡田家は現当主岡田嘉右衛門をもって26代を数える栃木市内屈指の旧家。古くは武士であったが、帰農して江戸時代の慶長の頃、士豪として栃木に移住し、荒れ地を開墾し、嘉右衛門新田という地名を起こしている。代々嘉右衛門を襲名、名主も務め、当地が旗本の畠山氏の知行地となると代官を拝命され、屋敷内に陣屋が設置され今も「畠山代官屋敷」として公開している。4,000 坪に及ぶ敷地内の江戸時代から大正時代までの土蔵・見世蔵・木造店舗などや岡田家伝来の宝物を「岡田記念館」として公開し、展示されている。(公開日は金曜から日曜日)

100_0115   岡田記念館より嘉右衛門橋に戻る手前を右折し、狭い路地を進むと翁島別邸小門がある。巴波川の荷揚げ場跡地に22代嘉右衛門が70歳を隠居所として大正13年(1924)に竣工された翁島別邸。本邸から移り住んで米寿を迎えた当主をいつしか翁という。この別邸を翁島別邸と呼ぶようになった。

 100_0122  大正13年(1924)築の木造2階建て桟瓦葺きの主屋と昭和3年(1928)築の土蔵がある。地元・栃木の工匠らがそれぞれの技を競い合って建てた。ケヤキの1枚板を使った廊下や、樹齢3000年の屋久杉を使った天井、吉野杉の床柱など、建材に贅を凝らし、特にケヤキの1枚板の廊下は、それだけで家1軒が建つと言われるほどの高価なものあると云われている。2階にある「三山閣」からは筑波山、男体山、富士山の3山を望むことができた(ウキベリア「岡田記念館」参照)。

012_main1   栃木駅前の「岡田皮膚科耳鼻咽頭科クリニック」の院長をしている26代目岡田嘉右衛門氏は岡田記念館ホームページに、「当岡田家でも武士の時代が終わりを告げた後、廻船問屋を始めました。鉄道開通によって不要になった約2100坪に及ぶ自家の荷揚げ場があった場所に、私より4代前の岡田家中興の祖とされている22代嘉右衛門が別荘を建てました。別荘の立っている場所は南面に巴波川が流れており、北側にある今は細い流れになってしまった川にはさまれて島状になっており、隠居した当主が住んだため翁島とよばれています」と、「翁島」が建つ前は荷揚場を廻船問屋として活用していたと紹介している。

「上河岸」と呼ばれていた荷揚跡地(翁島別邸)

100_0124   翁島別邸入口には「翁島由来記」が掲示されている。分かりやすく、立派な由緒記になっており感心させられた。

  一部内容を紹介すると、『下野の栃木はかつて・・・巴波川の舟運によって栄えた商人の町である。嘉永4年(1851)生まれの岡田孝一は、隠居してその長男嘉右衛門に家督を譲ったものの、当時足尾銅山の開発に着手した古河市兵衛と誼を結び、東京への産銅の輸送鉱毒解消用石灰の供給などに尽力し、家運を増長させた。栃木から巴波川の舟運で、渡良瀬川より利根川に出て東京へ送り込むことに着目したのは、明治18年(1885)の頃で、その内水路による回漕を請負った。同家の船着場は、町の北部にある当小平町内の巴波川河畔にあって上河岸とも呼んでいる。稚趣に富み、普請好きだった当主は、齢70を迎え別荘建築を発起し、その地を鉄道開通によって、不要になった自家の荷揚場を選んで、巴波川に南面し裏手に水を巡らし約7反(2100坪)にわたる、一画は島にも似せたものである。(以下略)』 

100_0117   由緒記に記されている「岡田家の船着場は、町の北部にある当小平町内の巴波川河畔にあって上河岸とも呼んでいる」を読むと、この地が江戸時代ではなく明治の初め頃から上河岸と呼ばれて舟運業を営む河岸があったことを知ることができた。

  さらに由緒記には、「当時足尾銅山の開発に着手した古河市兵衛と誼を結び、東京への産銅の輸送鉱毒解消用石灰の供給などに尽力し、家運を増長させた。栃木から巴波川の舟運で、渡良瀬川より利根川に出て東京へ送り込むことに着目したのは、明治18年の頃で、その内水路による回漕を請負った」と記されてあるが、足尾からの銅産の舟運業を始めたのは「翁島」を建てた22代嘉右衛門孝一(親愛)としている。父親の21代嘉右衛門親之はこの時には家督を息子に譲っていたのだろう。

100_0113   この上河岸(荷揚場)から足尾から運ばれた産銅が東北本線鉄道の開通前まで巴波川舟運によって東京本所鎔銅所に運ばれて行ったということになる。わずか10余年という短い期間の産銅の舟運業であったと言える。

   石橋常蔵著「栃木人続編・岡田嘉右衛門親之」には「明治10年(1877)古河市兵衛が足尾銅山の開発に着手すると、その鉱石は栃木町から巴波川を利用して東京深川の渋沢倉庫へ運んだ。その舟運を岡田が請け負った」と記述されている。

  産銅の舟運業を始めた岡田嘉右衛門と古河市兵衛と結びつきという関係が今一つ分からないが、渋沢栄一を間にして関係ができたと思われるが、そのキッカケはなんだったのか?そして、巴波川舟運を通しての3者の関係が明治の栃木町の産業発展にどのような影響を与えていったのか?調べていきたい事項だなと思えてきた。

足尾から栃木町への産銅輸送ルート

100_0134   足尾銅山からの産銅はどういうルートで栃木の岡田嘉右衛門の上河岸(荷揚場)に運ばれていったのか?

  ……それは、「栃木県史通史編8」(497頁)の足尾銅産経営諸問題、第一節交通」に載っていた。

  「古河市兵衛が銅山を譲り受けた当時、足尾に通じる道としては、野州路(日光口)と上州路(上州口)の東西両道」と記され、「両道(日光口と上州口)とも駄馬の通行にも困難を極め、多くを人の背に頼っていた」と記されている。

  明治14年(1881)の鷹の巣直利(富鉱)、17年の横間歩大直利の採掘開始で、産銅量の飛躍的増加になり、道路改修が急がれるようになる。東西両道だけでなく、明治16年には東方の古峯ケ原を通る草久村(鹿沼市)、18年には、南東の粕尾峠を通る中柏尾村(旧粟野町)へと足尾と結ぶ道路が開削されていった。

  明治39年7月の日光電気精銅所開業するまでは、荒銅(粗銅)は東京の本所溶銅所へ送っていた。東北線が開通する前の明治17年頃の産銅輸送経路は日光経由の東道・古峯ケ原経由の中道・粕尾峠経由の粕尾道で、いずれも栃木河岸(巴波川)に運ばれ、巴波川舟運により東京に運ばれていた(栃木県史通史編8より)。

  足尾山麓扇状地帯の栃木町巴波川舟運に着目して産銅の輸送ルートを開発するなど古河市兵衛の着眼に感心する。

Photo_20210609153101   足尾町から粟野町鹿沼市を結ぶ県道15号・鹿沼足尾線は標高1120mの粕尾峠、九十九折りの独特の険しさで難所の峠道として知られている。

  私はとても運転に自信がなく行ってはいないが、ネットに映る峠路を観ただけで足踏みしてしまう。ツーリングにはいいかもしれない。

  その険しい粕尾峠を越えて、柏尾村、粟野町を経路して粟野街道を通って栃木町岡田嘉右衛門の上河岸まで荷馬車にて運ばれてきていたのだ。

  巴波川沿いから上河岸跡地に建つ竹林に覆われた翁島別敷地外観を見ながら、鉄道開通前とはいえ、ここを流れる巴波川舟運で産銅が東京に運ばれていた。……歴史の流れを感じてくる。

岡田嘉右衛門親之の肥料価格への挑戦

100_0116   弘化3年(1846)7月に21代岡田嘉右衛門親之(ちかゆき)は片柳河岸問屋の株(権利)を譲り受け、嘉右衛門新田河岸として船積問屋を開始しようとした。その河岸は片柳河岸ではなく以前より船着き仮置き場として利用していた嘉右衛門新田、現在の翁島の地を河岸場にすることとしていた。

  しかし、栃木町河岸問屋より「片柳河岸での河岸問屋ではなく、全くの新規であり商業活動及び運上金上納に響く」との強硬な反対の訴えが奉行所にあり、栃木町がわの主張が認めら、嘉右衛門新田の河岸は実現しなかった(栃木市史より)。

  この河岸場新設の背景には文政年間(1817)以降、嘉右衛門・麻屋茂兵衛らが塩・糠・粕・干鰯の新規商いをめぐり栃木町肥料問屋との争いがあった。

  嘉右衛門親之は名主として、畠山13カ村の肥料の高値に対して、直に生産地及び江戸問屋との取引をすることにより、肥料価格を下げることができるからであった。嘉右衛門方には40か村から「嘉右衛門に江戸や浜から直接仕入れを認めて欲しい」との嘆願書が出され、平川村名主狐塚為蔵にいたっては老中阿部正弘への「駕籠訴」(田中正弘著「幕末維新期の胎動と展開第4巻岡田嘉右衛門親之日記」に記載)もあっての幕府評定所吟味であった。

  しかし、弘化3年(1846)12月の幕府評定所の採決では「嘉右衛門新田においては、塩・粕・干鰯の類、栃木町より引き請け売捌き候、元方からの直仕入れは致すまじく」と、栃木町から仕入れて売るようにと採決が下された。嘉右衛門親之方の敗訴であった(栃木県史、栃木市史より)。

  当初、私は栃木町問屋と岡田嘉右衛門親之の争いは嘉右衛門の商売欲から来るものと思っていた。しかし、この田中正弘氏が書かれてある「幕末維新期の胎動と展開第4巻」の冒頭の「解題」の中で岡田嘉右衛門親之の姿勢を「果敢なる挑戦」として位置づけして、高騰した肥料によって苦しむ農民のために行おうとしたことが分かった。それは自由な商いを求めた岡田嘉右衛門親之の姿勢として浮かびあがってくる。

Img_7853_s1_21   田中正弘編の「幕末維新期の胎動と展開第4巻岡田嘉右衛門親之日記」では、岡田嘉右衛門親之は「株仲間解散令」を活用し、栃木町問屋の独占する糠・干鰯・粕など肥料の販売権に果敢な挑戦の試みと位置づけしている。64521_20210610161001 さらにこの栃木町問屋との争いについては、栃木県史ならびに栃木市史では「天保の改革・株仲間解散令」と直結していることが言及されていないことをも指摘している。

   「田中正弘編 幕末維新期の胎動と展開 岡田嘉右衛門親之日記」は平成24年(2012)に栃木市教育委員会で第1巻が発行されている。岡田親之が記した膨大な日記を田中正弘国学院大学栃木短期大學教授によって翻刻されている書物で、第4巻が平成31年(2018)3月に発行され、1巻から4巻と幕末における貴重な史料書籍になっている。とりわけ、元治元年(1864)6月6日の「水戸天狗党田中愿蔵栃木町焼き打ち事件」の栃木町の状況を記した「親之日記」は一級史料といわれている。

  21代岡田嘉右衛門親之の像は田中正弘氏が「岡田嘉右衛門親之日記第4巻」に次ぎのように記されている。親之像が分かりやすく記されているので引用記載させていただきます。

100_0121   「文政3年(1820)末に呱々の産声をあげた親之の生涯において、江戸で武家に諸芸術を学んだ彼がもっとも充実した活躍をみせる時期は何といっても幕末維新期にあたり。彼はこの間高家畠山氏知行所嘉右衛門新田村の名主役見習いより本役、そして陣屋手代格兼務より隠居後代官に就任し、さらに維新の兵馬騒擾の中で畠山氏の重臣である用人席まで昇りつめた。いっぽう彼は先祖以来継承した二十石余の田畑を耕作し、例幣使道沿い十余軒の店舗貸し・質屋・肥料販売・油絞り業を営業する多角的は実業家でもあった。維新後、彼は家督を譲った嫡男親愛(ちかよし)をして船積問屋営業より回漕会社を設立させ、さらに郵便受取所を開設させるなど、明治草創の目まぐるしく変転する政治組織・制度の改変と文明開化期における新たな西洋文物の洪水を受けとめつつ、近代国家の成立を見届けるように波瀾万丈の生涯を終えた。時に明治24年(1891)4月24日のことであった。享年七十二。初老の頃に軽い脳卒中に襲われた彼は、その後とくに留意して健康を維持し、当時としては極めて長命な生涯であった」

  私はこの「親之日記」全4巻全てを読んではいないが、島崎藤村の「夜明け前」の青山半蔵に似ているように思える。共に名主という役職の中、街道沿いから幕末という世情を見つめ対応していく暮らしなど共通点など多々ある。幕末の栃木の町を見る際には必読書だと思える。

 上河岸にて巴波川舟運を開業

100_0133   明治になって平柳村、嘉右衛門新田、大杉新田、小平柳村、箱森村、片柳村、沼和田村の名主らと結んで塩・粕・干鰯・塩物の直仕入れの商売が始まった。

  栃木町側は明治3年(1870)4月に民部省と弾正台に訴えた。しかし、そんな旧弊はとりあげぬと、こんどは栃木町側が押さえられた。同じく船積問屋として嘉右衛門は晴れて「上河岸」にて巴波川舟運を開業できることになった(栃木市史より)。

  皆川広照が安土城下をモデルにして活気ある栃木町を構築しようとした。しかし、栃木県史のなかで「巴波川の両岸に陸揚げされ、小商いも盛んにおこなわれていた活発な町(栃木)であった。そこで展開される商業は、町内の業種ごとの仲間という排他的は組織、すなわち商人仲間によっておこなわれるものであり、その集合である栃木町としてみれば、その活動は、他の近在の町々と、荷を奪い合い厳しく競い合いつつの繁栄であった」と、記されているような「排他的な商人仲間」による商業活動という閉鎖的な栃木問屋町へと変移してきた。

  栃木河岸に陸揚げされる干鰯等肥料類など高値の商圏を守るための栃木町問屋株仲間の独占商いを打ち破っていく行為は田中正弘氏の言う嘉右衛門親之の挑戦であったと言える。栃木町問屋との争いの中から岡田嘉右衛門親之は皆川広照が描いた栃木の町づくりに共通した排他的ではなく自由な商いを行うことが地域住民にためであるという考えがあったと思う。

  上河岸跡地(翁島別邸)沿いを流れる巴波川は川下の栃木町に流れていく。川には例幣使街道のように嘉右衛門新田や平柳新田を遮る町への木戸はない。岡田嘉右衛門親之は絶えず巴波川の流れを見ながら地域社会が一体であることのことを考えていた人物像が浮かび上がってきた。

                                        《夢野銀次》

≪参考引用資料本など≫

平山優著「天正壬午の乱」(2015年7月戎光祥出版株式社発行)/「栃木市史通史編」(昭和63年12月発行)/「栃木県史通史編6、栃木県史通史編8」(昭和57年8月発行)/ウエブウィキペディア「岡田記念館」/「岡田記念館ホームページ」/石崎常蔵著「栃木人続編」(2021年4月発行)/田中正弘編「幕末維新期の胎動と展開、第4巻」(平成31年3月、栃木市教育委員会発行)

 

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