« 21年6月後半―ジャガイモの収穫 | トップページ | テレビドラマ「なつぞら」―「戦争孤児」生きること・兄妹への思い »

倉賀野宿を歩く②…五貫堀川・飯盛女と倉賀野河岸

100_0168  JR高崎線倉賀野駅のホーム端から一本のレールが高崎本線から分かれて東方に伸びているのが見える。JR貨物施設「倉賀野駅貨物基地」続く側線レールである。

 一昨年の11月に倉賀野駅ホームに降りた時、石油貨物列車が側線に沿ってゆっくり移動していくのが見えた。久しぶりに長い連結貨物列車を見たような気がした。貨物列車が東にある倉賀野貨物基地に続いていることを後で知ることになった。

 貨物基地につづく側線レールのもとは岩鼻軽便鉄道であった。明治13年(1880)に陸軍は当初、製造所からの製品の輸送は、倉賀野河岸烏川の舟運を主に利用していたが、高崎線の開業後は、倉賀野駅との間に荷馬車を走らせるようになった。この荷馬車輸送から岩鼻軽便鉄道が生まれた。

 現在では輸送の主力はトラックに変わり、貨物列車をいまではあまり多く見られなくなってきているのを実感する。

100_0171  コロナ禍の影響で2年半ぶりに両毛線高崎経由で倉賀野駅を降りて駅南口に立った。

   駅前にある倉賀野小学校の塀に倉賀野宿の案内地図が掲示されていた。その先に暗渠となっている五貫堀川がある。

 五貫堀川は長野堰幹線用水路を倉賀野で分水し、烏川にむけて流れ、この地域 の水田を潤し用水路。暗渠化される以前は、水車が設けられ、魚獲りも出来たといわれている。

 100_0174 階段で暗渠になっている五貫堀川に降りることができるようになっている。さっそく五貫堀川に降りて、烏川に向けて歩く。

  飯盛女の墓石のある九品寺の屋根を右手に見ながら歩き、足元の下には水路が流れているということだ。何だか川底を歩いているような気がしてきて、変な感じになってきた。

100_0177  中山道五貫堀川に架かる「太鼓橋」を川底から見上げる。  

 「新編高崎市史通史編3」では倉賀野宿中山道沿いにあるこの太鼓橋のことを、「(宿場の)下町と中町の境の堀(五貫堀川)には長さ三間(約5.4m)、幅一丈(約3m)の橋が架けられていた。この橋は享保18年(1733)の洪水や天明3年(1783)の浅間山大噴火の影響などで何度か架け替えられたが、享和3年(1803)には宿内の旅籠屋が溜銭積金200両余を出金し、江戸木材木町の石工石田屋太右衛門に依頼して石橋を架け、太鼓橋とよばれた」と記述されている。

100_0211  旅籠屋溜銭積金200両とは飯盛女の玉代の一部の積立金であった。血の出るような飯盛女の浄財金で「太鼓橋」を造ったということになる。

  石橋アーチでできていた「太鼓橋」。板橋から石橋に掛け替えられてから昭和10年(1935)の道路改修で取つぶされるまで、百三十三年間、石橋の太鼓橋は往来する旅人や多くの飯盛女を見ていたことになる。

E0073751_9103081  「中山道倉賀野宿の飯盛女は、宿の中ほどにある太鼓橋から下を流れている川に鐚銭(びたせん…ほんのわずかのお金)を投げて拍子をうって拝むと、その日はお茶をひかないと信じられていた。お茶をひかないというのは、花街の用語でお客が来ることを意味している。したがって、夕方ともなれば飯盛女が行列をつくって太鼓橋に集まり、その夜、多くの客が登楼することを祈った」と、五十嵐富夫氏は「「飯盛女―宿場の娼婦たち」で記している。

100_0209  上州(群馬県)倉賀野宿は江戸時代、中山道の江戸日本橋から12番目の宿場で、日光例幣使街道の分岐点に当たる宿として賑わっていた。また、烏川に江戸との物資輸送の河岸もあって繁栄していた。

 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、倉賀野宿の宿内家数は297軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、飯盛旅籠32軒で宿内人口は2,032人であった。

100_0180  しかし、天保6年(1835)の宿内の大火から家の復興がなされていないため、享保3年(1718)には家数は500軒、旅籠の数は64軒以上となり、飯盛旅籠には150人~200人と多くの飯盛女がいたと云われている。4軒に1軒は飯盛女のいる旅籠となり、倉賀野宿全体は花街のようを呈していたということになる。

 100_0179 それは、旅人だけではなく、烏川舟運による倉賀野河岸の隆盛による。船の乗組員の水主(かこ)や荷物の積み降ろしや倉庫や船に運ぶ『小揚人足』など多くの河岸関連の労働者が倉賀野宿の飯盛旅籠で遊興や宿泊など利用していったからである。

 「太鼓橋」を上に見ながら五貫堀川をさらに下流に歩いていくと民家へ入ってしまいそうな石段が右側にあった。そこを上がったところにあるのが三光寺稲荷神社。倉賀野宿の旅籠屋やそこに働く飯盛女たちのから厚い信仰を集めていた。

100_0185  境内には、「明治42年、倉賀野神社に合併された時に、ここにあった社殿は前橋川曲町の諏訪神社に売られ、常夜燈と石玉垣は倉賀野神社に移築された。しかし、町の人の夢にお稲荷さん現れて、『元のところに戻りたい』と泣くということから、昭和11年に再建され冠稲荷になった」という案内標識が立っている。

 200人近くいた飯盛女の生国は大半が越後生まれであったと言われている。

 15歳で10年年季奉公として三国峠を越えて倉賀野宿の飯盛女になって働いた。しかし、年季奉公契約においては、契約は奉公人となる女性本人ではなく、人主(親か家長)と請け人と雇い主の間で交わされた。つまり、女子は奉公に行きたくなくても、奉公契約によって親や家長の決定に従わざるを得なかった。これは奉公という名の人身売買契約であった。

100_0186   ブログ「隠居の思ひ記、女郎が架けた太鼓橋」には、「高崎の散歩道 第二集」の中に、倉賀野町にある、他国出身の娘の墓を調査したデータを引用してこう記されている。「出身地を分類すると、26人中19人が越後出身。没年齢では 12~19歳が5人、20~25歳が7人、26~29歳が2人。平均没年齢は、21歳3か月だったという」。

 15歳で10年年季の飯盛女として奉公しても満期の25歳までには生きられなかったということである。

 五十嵐富夫氏は自著「飯盛女―宿場の娼婦たち」の中で、「死亡率と人別帳とを比較検討すると、6・7年が飯盛女の耐用年数で、23歳くらいが体力を消耗し悪病に犯されて死ぬ年齢のようである」と記していることから、栄養不足、梅毒などにより生まれ故郷に帰ることなく短い命を喪っていったことになる。

 この三光寺境内稲荷は村人からは冠稲荷と呼ばれ、特に宿の飯盛女の信仰を集めていた。

 社会の底辺に生きている飯盛女にとっては、何かを信仰せずには一日も生きていけなかったのである。その信仰心が玉垣の寄進という形をとったのである。

P2210121  現在の倉賀野神社には三光寺稲荷社に寄進した飯盛女たちの玉垣が移転されて現存している。鳥居横の玉垣には「金沢屋内、里津・ひろ・ぎん」名が刻まれているが、これは玉垣作成の時の飯盛女の名である。倉賀野神社境内にある冠稲荷神社を囲む玉垣には寄進者である飯盛女の名が刻まれている。

 暗渠の五貫堀川を歩いて下っていくと烏川にでることができた。暗渠から奇麗な堀川の水がとうとうと流れ出て烏川に注いでいる。

 1262000_20210713101301  美人画の英泉と歌川広重が合作のかたちで天保6年(1835年)ごろ完成させた『木曽街道六十九次』の中に英泉が描いた『木曽街道 倉賀野 宿烏川之図』の風景画がある。

 烏川は利根川の上流で江戸との間に舟運が開けていた。舟が行きかう烏川を背景に川縁に建つ茶屋が描かれている。小川に張り出した桟で女が束子で釜を洗っている。小川に流れ込む用水(五貫堀川)で子供が網で魚を捕ったり、亀を捕まえたり,水門に上がり遊びに夢中である。茶屋では菅笠と杖を脇に置いて休んでいる旅の女が子供たちの遊んでいる様子に見入っている。一見のどかな風景画に見えるが、烏川舟運と女、子供の明るい姿には違和感を覚えてくる。違う世界の倉賀野宿に見えてくるのだ。英泉は何を描こうとしていたのだろうか?

100_0195  利根川のもっとも上流にあると言われる烏川沿いの倉賀野は、江戸時代は信州や甲州そして越後から農産物や物資が集積され、中山道の途中にあり、また日光例幣使街道の起点でもあって栄えていた。さらに北は渋川、沼田と経て三国峠を越えて十日町に至る三国街道によって越後地方と結ばれており、水路、陸路双方の交通の要所でもあった。宿場の本陣の勅使河原、脇本陣の須賀庄と須賀喜は河岸問屋を兼ねていることから舟運と飯盛旅籠の花街として宿場町として、町全体が繁栄していたことになる(斎藤百合子著『越後から上州に渡った飯盛女と八木節』より)。 

 現在の倉賀野はそうした賑わいを回想することができないほどひっそりとしているが、烏川にかかる共栄橋の麓の倉賀野河岸があった場所に「倉賀野河岸跡」碑と、由来が書かれた「倉賀野河岸跡史跡」の看板建てられていた。「倉賀野河岸由来」の記念碑に は、倉賀野河岸の繁栄の様子が、次のように書かれている。

 「倉賀野河岸由来

100_0189  当河岸は江戸時代初期より利根川の上流河岸として上野、信濃、越後の広大な後背地を控え、江戸との中継地として繁栄を極めたり。三国の諸大名、旗本の廻米を初めたばこ、大豆、葦板等の特産物は碓氷、三國両峠の嶮を牛馬の背で越え、当河岸より江戸へ、また帰り舟には、塩、干魚、荒物等の生活必 需品や江戸の文化を内陸地へ伝え、その恩恵に浴さしめぬ。元禄時代の盛期には上り荷物三万駄、下り荷物二万二千駄を数え、舟問屋十軒、舟百五十余艘に達し、十四河岸組合の河岸となる。然るに明治十七年高崎線の開通によりその使命終わりぬ。時移り川の流れも変わり往古の繁栄は昔の夢となる。われら有志 当時を偲びてこの碑を建つ。

  昭和四十九年甲寅年十月吉日  大山正撰文  前沢辰雄河岸著者  根岸政雄謹書」

 共栄橋の下を通り抜けて烏川沿いから上流に歩いていくと井戸八幡宮がある。その境内に「倉賀野河岸」の歌の碑があった。地元の歌手がこの歌を歌っているとのことだ。ありし日の倉賀野河岸を連想される歌詞になっている。

『倉賀野河岸』

作詞 曽根松太郎  作曲 矢島ひろ明

100_0201 1.八幡様の御神鈴の  音まで賑わう

 倉賀野河岸よ  船乗りたちは、

 無事祈り  夜明け一番 舫網を解く

 晴れて出船の 掛け声たかく

 江戸に舳先を 向けて出帆

 

2.惚れても無駄よ 宿女郎

 俺ら船頭 川風まかせ 

 大杉神社様の 石段で

 哭いて手を振る 可愛い娘 

 紅い蹴出しが 眸にしみる 

 雁も鳴いてる 城の跡

 

3.江戸へは三日 烏川くだり

 上りは十日と 加えて七日

 信州 越後 甲斐の米

 積んで戻り荷 赤穂塩

 始発湊は 終着湊

 河岸の倉賀野 江戸の華  

 平成十二年十月吉日   曽根松太郎 建立 歌 高橋龍治

100_0202  二番の歌詞に出てくる「大杉神社様の 石段で哭いて手を振る 可愛い娘」は倉賀野宿の旅籠に働く宿女郎飯盛女のことを謡っている。河岸で働く男と飯盛女の切ない情景が浮かんでくる。

 その大杉神社はどこにあるのか?井戸八幡宮で祭りの準備をしていた人に尋ねると神社から少し下り、すぐ登り路を上がると左側の民家の庭に「大杉神社址碑」が建っていると教えてくれた。経済的事情で民間に売却されていたということなのだ。

 民家の庭に建つ大杉神社址碑から烏川を見下ろした。広々と烏川の川面が広がって見えた。舟運と旅籠で華やいだ景色の面影はどこにも残ってはいなかった。水上の守り神大杉神社と飯盛女の厚い稲荷信仰の世界は確かにここに残っているのだが、飯盛女たちの姿を垣間見ることはことができなかった。

Netoff_00014065941  私が見たいと思った景色は、黒澤明監督昨品「用心棒」に登場してくる薄汚れた宿場女郎たちの姿なのか?それとも「安永五(1776)年三月、16歳のゆいは中仙道板鼻宿にいた」と書き出しで始まる飯盛女を描いた立松和平著「浅間」なのか?

 天明三年浅間山噴火で被災する村娘ゆいを主人公に描いた「浅間」は、ゆいが3年奉公として板鼻宿で客をとる飯盛女時代の暮しが描かれている。ゆいはここで養蚕の技術を学び、3年奉公の後、村に帰り養蚕をはじめ結婚し、幸福な暮らしを営み始める。しかし、浅間山の大噴火ですべて失う世界を描いた小説になっている。

 歴史の底辺に生きた人々の息吹を捉えるのは小説や映画の世界でしかないのか?

 …河岸と遊女の関連から何が生まれ、現在に育ってきたのは何か? 一つの課題として歩んでいこう。  

                              《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

五十嵐富夫氏著「飯盛女―宿場の娼婦たち」(昭和56年1月、新人物往来社発行)/齋藤百合子著『越後から上州へ渡った飯盛女と八木節』(2014年10月、明治学院大学国際学部附属研究所流域文化圏形成の研究 Ⅲ収録)/宇佐美ミサ子著「宿場と飯盛女」(2000年8月、同成社発行)/「文献による倉賀野史第3巻」(昭和62年9月倉賀野雁会発行)/「新編高崎市史通史編3近世」(平成16年3月発行)/前沢辰雄著「上州倉賀野河岸」(昭和40年11月発行)/ブログ「「隠居の思ひ記 女郎が架けた『太鼓橋』」(2009年3月10日配信)/立松和平著「浅間」(2003年9月、新潮社発行)

|

« 21年6月後半―ジャガイモの収穫 | トップページ | テレビドラマ「なつぞら」―「戦争孤児」生きること・兄妹への思い »

歴史散策」カテゴリの記事

コメント

 昨日、ブログ本「銀次のブログⅣ」を送って頂きました。流し読みですが、相変わらずの好奇心旺盛ぶりに感服しました。
 郷土史に一石を投じた労作ではないでしょうか?それに圧巻は「我が家の足跡を訪ね歩く」ですね。よく歩きましたね。親族にとってこれほど貴重な資料はありません。
 柏倉さんの演劇との出会いや、栃木商OBだったことなど、あなたを知る上での情報も面白く拝見しました。
 私も自治体議員現職の時「ブログ」にハマりましたが、政治家業にどこまで有効だったか不明です。
 まだまだ健筆を走らせて下さい。「ブログⅤ」を楽しみにしていますよ。

投稿: 清水信之 | 2021年9月11日 (土) 13時10分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 21年6月後半―ジャガイモの収穫 | トップページ | テレビドラマ「なつぞら」―「戦争孤児」生きること・兄妹への思い »