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2021年9月

テレビドラマ「なつぞら」―「戦争孤児」生きること・兄妹への思い

戦争孤児として生きる奥原なつ

Photo_20210912141103   見晴らしの良い傾斜した十勝の丘から写生をしている奥原なつ(広瀬すず)。

  なつのナレーションが始まる。

  「ここは私が育った北海道の十勝です。私の大好きな風景に今日も風が吹いています。Photo_20210912141303 私は子供のころからたった一枚の絵からアニメーションの世界と出会うことになります。

   そして、18の夏。そのなつかしい人が突然私の前に現れました。私はその手に救われたことがあります。昭和20年3月、東京に大空襲があった日、私は逃げ惑う人の波に流され家族を見失いました。避難所の学校にとにかく向かいました。そこかしこに無数の焼夷弾が降っていました。その時、だれかが私の手をつかんだのです。私はその手に導かれたのです。それで生き延びたのです。だけどその日から私の人生は一転しました。

Photo_20210912141201   「俺が誰だか分かるか?」と青年の問いかけに「…ノブさん?ずっとずっと会いたかった」と応える。逃げ惑うなつの手をつかみ、ともにプールに飛びこみ,なつを助けた幼馴染の佐々岡信哉(工藤阿須可)が東京から十勝になつに会いにやってきたのだ。

  戦死した父と空襲で亡くしてしまった母。3人の兄妹で孤児になったなつは父の戦友、柴田剛男(藤木直人)につれられ北海道十勝「柴田牧場」の柴田家で育てられ、酪農をしながら農業高校3年になっていた。

Photo_20210912141001  昭和12年(1937)に東京日本橋料理屋に生まれ、戦争で両親を亡くし、父の戦友に引き取られた戦争孤児の少女・奥原なつが、北海道・十勝で広大な大自然と開拓者精神溢れる強く優しい大人たちに囲まれてたくましく成長する。

  上京後、草創期の日本アニメの世界でアニメーターを目指しながら生き別れになっていた兄妹と再会していく家族への思いの姿を描いていくNHK連続テレビ小説「なつぞら」。

  大森寿美男のオリジナル作品としての「なつぞら」は、平成30年から令和元年(2019)に変わっていった上半期に連続テレビ小説第100作の記念作品として放映された。獨協医大病院の病室から私はこの連続ドラマを朝、昼と2回、毎日観て過ごしていた。

  昭和12年(1937)年8月15日生まれのヒロイン、奥原なつ(子役・粟野咲莉)は兄妹3人で戦争孤児として「浮浪児狩り」に遭い、孤児院に収容される。そこで亡き父の戦友・柴田剛男に引き取られ北海道十勝の酪農家の柴田牧場に引き取られ育つ。妹の千遥は親戚に預けられるが、その後行方不明となる。施設に残った兄の咲太郎(子役・渡邉蒼)は施設を抜け出し、闇市、新宿などで暮らしていく。

  ちなみに「悲しき口笛」「東京キッド」などで戦災孤児の世界を歌や映画で登場したデビュウー当時の美空ひばりも昭和12年生まれであった。横浜の空襲を体験した美空ひばりは第1回、第15回広島平和音楽祭などに参加し、「一本の鉛筆」などを唄い、平和への思いを歌に託していた。とりわけ亡くなる前年の昭和63年第15回広島平和音楽祭での「一本の鉛筆」の歌唱は凄まじい気迫に満ちた声で歌いあげているのをYouTubeで観ることができている。

Photo_20210912141101  アジアや太平洋で膨大な犠牲者を出した戦争。軍人や民間人あわせて310万もの人が亡くなった。戦争末期には、日本各地が空襲により大きな被害を受け、その結果、多くの子どもたちが親を失い、孤児になった。

  本庄豊著「戦争孤児」には、「戦災孤児」「原爆孤児」「引揚孤児・残留孤児」「沖縄の戦場孤児」「混血孤児」とに分け、総称して戦争孤児として次のように記されている。

  「戦争孤児は、そのころ『浮浪児』と呼ばれていた。孤児にとって『駅』は特別な場所だった。東京・上野駅や大阪・梅田駅などには地下道があり、空襲で被災した少年少女たちが夜露をしのぐために利用した。それらの駅は中国大陸からの引揚げ孤児たちの終着駅でもあった」。

 Photo_20210912141403 そして、「過酷な状況だからこそ、本能は『生きる』ことを命じた。生きていくためには食わねばならぬ。食べ物を得るためには、闇市内外を駈けずり回った」。「厚生省の昭和23年(1948)8月1日の『全国孤児一斉調査』によれば、沖縄県を除いて全国合計で、孤児数は12万3512人であり、そのうち約1割にあたる1万2202人が孤児院に入っていた。ただ、この調査は戦後の混乱期のものであり、実際にはこの数倍の孤児がいたと考えられている。養子縁組などにより孤児で亡くなった子ども、この統計には入っていないなど、戦争孤児の全体像を把握することは今日もできていないのが現状だ」と記している。

Photo_20210912141402   当時の新聞には「浮浪児たちは地下道や高架下などをねぐらにして、物乞い、靴磨き、くず拾い、闇市で『使い』『残飯あさり』をして食いつないだ」と言われる。

  闇市(アメ横)がそばにある上野駅の地下道は浮浪児(駅の子)とり唯一のねぐらになっていた。

  また、窃盗団を結成したり暴力団の下働きをする場合も少なくなかった。このことが後の戦争孤児の保護が治安対策の要素を帯びる要因となってといわれている。守ってもらえず、飢えや病気など様々な原因で人知れず死んでいった者も多くいたという戦争孤児たち。収容先の施設は数が限られ、食糧も不足。体罰を行う施設、子どもを檻に入れる施設もあったといわれている(ウキペディア、「NHKスペシャル“駅の子”の闘い ~語り始めた戦争孤児」参照)。

  さらに、朝日新聞デジタル記事「国に棄てられた数知れぬ浮浪児」には、「72年前の終戦の後、東京・上野の地下道は浮浪児であふれ、数え切れない子どもたちが餓死し、凍死しました。生きた証しすら残せず、『お母さん』とつぶやき、一人で死んでいった」。

  「浮浪児と呼ばれた子どもの大半は戦争孤児です。学童疎開中に空襲で家族を失った子もたくさん路上にいました。だれも食べさせてくれないから、盗みを働くほかなかった。不潔だ、不良だと白い目でみられた。『浮浪児に食べ物をやらないで』という貼り紙まで街頭にありました」と過酷な状況の中に置かれていたことが記されている。

 Photo_20210912141301  闇市でためた金は施設の中で盗られたと戦死した父の手紙を届けてくれた柴田剛男(藤木直人)に咲太郎はこぼすシーンもある。施設より駅で暮らす方がましだと、子どもたちは、脱走を繰り返すようになった。

  生きのびていくために大人になってからも「浮浪児」ということで、就職や結婚で差別にあうのをおそれて、妹の千遥のように過去を抹消して生きていくことを選んだ孤児も多くいたと言われている。

  中国残留孤児兄妹の生きざまを描いた山崎豊子原作のNHKテレビドラマ「大地の子」で描かれたように戦争が終わってから放置された戦争孤児たちの苦しめられてきた「長い戦後」を忘れてはいけないことだと思える。

  柴田牧場に預けられた9歳のなつは柴田剛男の義父、柴田泰樹(草刈正雄)に「私をここで働けせてくれ」と自分の生きる場所を哀願する。

  Photo_20210912141302 朝早くから搾乳を手伝うなつを見て、ある日泰樹は闇市のある帯広の町になつをつれていく。そして「雪月」のアイスクリームを食べながらなつに語る。

  「ちゃんと働けば、必ずいつか、報われる日が来る。報われなければ、働き方が悪いか、働かせる者が悪いのだ。だが、いちばん悪いのは、人が何とかしてくれると思って生きることじゃ。人は、人を当てにする者を助けたりはせん。逆に、自分の力を信じて働いていれば、きっと誰かが助けてくれるもんだ。お前は、この数日、本当によく働いた。…もう、無理に笑うことはない。お前は堂々と、ここで生きろ。いいな」。この台詞、どこか私の父親の生き方に通じているような気がするのだ。

  卑屈にならず、自分の力を信じて、堂々と誇りをもって生きることを諭す泰樹の言葉には重みを感じる。明治35年(1902)に18歳のとき、孤児の泰樹は一人で富山県から北海道十勝に入植して開拓開墾から酪農をして生きてきた姿が力強く映ってくる。

Photo_20210912141104   小学校に編入したなつに、「東京には家がなくて、外で暮らしている子どもが街にたくさんいるんだって…野良犬みたい暮らしてて、ばい菌とか、怖い病気を持ってるって…」とクラスメートたちがはやし立てる中、「病気だったら、とっくにその子は死んでるよ。東京から北海道までって、どのくらい離れてと思ってんだよ」と、山田天陽の言葉でクラスメートたちは押し黙る。

 Photo_20210912141404  なつの絵に対する影響を与える天陽との出会いだ。農業と酪農をしながら山田天陽(吉沢亮)はベニヤ板に馬の絵を描き続け、若くして夭折していく姿を描いていく。それは十勝鹿追町で開拓農民として馬の絵をベニヤ板に描き続け、32歳8か月で夭折していった神田日勝をモデルとして登場させている。

  北海道河東郡鹿追町にある神田日勝記念美術館館長の小林潤氏は、「苦楽を共にした馬の絵をベニヤ板に描き続け、晩年に書き残した《馬(絶筆・未完)》は、日勝独特の描き進み方を明示する未完という名の完成作品とも言えるものだ。『生活の歌をキャンバスに叩きつけていく』と生き様を描きつつなつぞらに散った日勝の作品は、今なお多くのファンを魅了し続けている」と日勝美術館配信コラムに戦後十勝の青年画家、神田日勝作品をご鑑賞をくださいと記している。
 同じくなつの農業高校での演劇公演は戦後の帯広農業高校の演劇活動をモデルにしているといわれている。

  ドラマ「なつぞら」は北海道十勝、開拓者の姿だけではなく新劇、アニメ映画など戦後の新宿を中心にした文化へと続いていくドラマになり、幅広く展開させていくことになっていく。

 天丼の味から生きていく基になる家族

Photo_20210912141501   「…千遥、だよね?」となつ(広瀬すず)の呼び止めた言葉に頷く妹の千遥(清原果耶)。なつと夫の坂場一久(中川大志)たちが制作する会社「マコプロダクション」に娘、千夏を連れてきたのだ。

  高校卒業後、なつはアニメーターを目指して上京し、出会った兄、咲太郎(岡田将生)の住むおでん屋「赤い風車」で店主の亜矢美(山口智子)らと同居し、東洋動画に勤め、助監督の坂場一休と結婚、一女をもうけていっていたのだ。

  昭和50年(1975)1月、37歳になっていたなつは子育てとアニメーターとして「マコプロダクション」に移り「大草原のソラ」の作画監督をしていた。「娘が、ソラのファンなんです。どんなところで作っているのか、見てみたくなって」と言いながら帰ろうとする千遥になつは、どこにいるのか教えてほしいと懇願する。神楽坂で「杉の子」という料理屋をやっているから、そこに客として来てほしいと言って帰っていった。

_jpgquality70typejpg  数日後、なつは兄の咲太郎(岡田将生)や光子(比嘉愛未)、信哉、放送局に勤める柴田家の一番下の妹、明美を伴い、「杉の子」に緊張した面持ちで客として訪れる。

  店内カウンターに腰をおろしたなつたちは、兄妹であることを伏せての客のため気まずい雰囲気の緊張感の漂うシーンになっている。

  ビールを頼んだ咲太郎は、「女将さんですか?女将さんが料理を作るのですか」と千遥に声をかける。「(頷いて)私は料理人ですから」とカウンター内で割烹着を着た千遥が応える。「……最後に天丼が食べたいのです」と天丼を注文する。天丼へのこだわりは、以前に浅草で再会したなつと天丼を食べながら、父親が作ってくれた天丼の味が忘れられないと天丼へのこだわりを描いていた。

Photo_20210912141203  「…これだ…これだよ…ずっと探してた天丼は!戦死した父親が、料理屋をしていて、昔作ってくれた天丼と同じ味なんです。どうして女将にはそれが作れたんでしょうね」と話す咲太郎。横で天丼を作っている千遥を見つめながら、なつは「違う。…母さんだよ…天丼作ってくれたのは」と忘れていた天丼を思い出したことを話す。

  千遥の立っている調理場が遠い記憶にある調理場と重なり、そこに立つ父が天ぷらを揚げ、その横で母が天丼を作っている情景が浮かびあがってくる。このシーンが実にいい。

 Photo_20210912141204 「お父さんが揚げた天ぷらを横で働いていたお母さんが、だしを取って、たれを作って…思い出した。…女将さん(千遥)が…それを作っている母に似ていたから…それで思い出したのかもしれません」と話しながら天丼を食べるなつ。

  このシーンの母親役の割烹着姿で天丼をカウンター超しに差し出す戸田菜穂の笑顔の表情がいい。「大地の子」の割烹着を着た田中好子も良かったが戸田菜緒の暖かな笑顔の母親も良い。戦争孤児にとり亡くなった母親が料理を作る温もりのある姿に……私の涙腺が緩んでしまう。咲太郎となつにとり父親と母親への思いがこめられているシーンになっている。

  店を出るとき、なつは戦死した父親の手紙をそっと千遥に渡す。その手紙の最後には、父親が親子5人で浅草を歩く絵が描かれてあった。なつにとり絵に命を吹き込めることのできるアニメーションへの道へ進むきっかけになった絵であった。

 Photo_20210912141202  後日、なつを「お姉ちゃん」と呼び、結婚する際に隠していた戦争孤児であったこと、兄姉がいることなどを話し、離婚してでも娘の千夏に嘘をつかず、ともに恥ずかしくのない生き方を選ぶことを話す。

 「お姉ちゃん……私の力になってくれる?また、家族になってくれる?」となつに問いかけるる千遥。 なつは、「千遥はもう自由になっていい……誰にも嘘をつかず堂々といきていい……これからもまた一緒に生きよう……ねえ、千遥」と言いながら千遥の手を握りしめる(木俣冬ノベライズ「NHKテレビ小説なつぞら」参照)。

  義母と離婚の話し合いの中で、千遥にとり料理の師匠であった義父がなつたちの父親と同じ浅草の料亭で板前の修業をしていたことが解る。料亭の名前は分からなかったが、咲太郎は同じ料亭で修業していたから天丼の味も同じなんだという思いを語る。

  離婚が成立し、料理屋「杉の子」を義父から味を受け継いだ千遥が「杉の子」を譲り受けることになる。

Photo_20210912141401   話し合いが終わった後、北海道から柴田剛男が心配で上京してくるが、解決したことを知り、戦友から託された思いに終止符をうったことに安堵する。

  同じように信哉も離婚の話し合う前、なつと咲太郎に、「空襲から1年近く、みんなと家族のように過ごした日々が…あれがあったから、それからどんなことにも耐えられた。これで自分の戦後が終わるんだ」と、再び兄妹で生きていく基になる家族への思いを語るシーンなど胸に響いてくるものがあった。

 Photo_20210912141002  さらに、後日「杉の子」で新宿に戻ってくる亜矢美(山口智子)に再会するなつ。

  千遥の作った煮物を食べながら一番だしと二番だしの話になり、カウンター内から千遥が「二番だしは、出し殻を煮詰めて材料も足すから更にコクと風味が出るの」と話すと、亜矢美はなつ兄妹三人に、「うん。まあ、言ってみれば私たちみたいなもんかしら。人生の二番だし。自分の人生一生懸命生きてく中で、コクと風味の二番だしがあるわけでしょう。でも一番だしの本当の家族のことは決して忘れない。だってそっから来てんだから。一番だしがあって二番だしがある…」となつ兄妹に生きていく基は家族にあると話すシーンなど家族への有様が描かれ、好感の持てるシーンになっている。

Photo_20210912141102   「なつぞら」最終回のラスト、…十勝の草原の丘を歩くなつたち親子が映し出される。

  夫の坂場一久(中川大志)が「いつか君たち兄妹の戦争を描いてみたい」と話すと、なつは「私たちの戦争?」。一久は「過酷な運命に負けずに生きる子供たちをアニメーションでリアルに描いてみたい」とその抱負をなつと娘、優に話す。

  「一久となつはおよそ10年後にこの夢を叶えます」と内村光良のナレーションが流れる……。坂場一久のモデルといわれている高畑勲が監督した昭和63年(1988)公開スタジオジブリ制作の「火垂る墓」を指してテレビドラマ「なつぞら」は終わる。

  北海道の開拓精神を基に、アニメーション制作へと進むなつを主人公を中心にして、戦後文化の流れを背景に多彩な登場人物との出会いが織りなすドラマになっている。そして、戦後30年を経て戦争孤児の生きざまから家族への思いを描いた優れたテレビドラマであると改めてDVD全巻を観て感動した作品である。

                        〈夢野銀次〉

≪参考引用資料本等≫

大森寿美男著・木俣冬ノベライス「NHK連続テレビ小説なつぞら上・下」(2019年8月NHK出版発行)/「NHKドラマ・ガイド連続テレビ小説 なつぞらpart1・part2」(2019年8月NHK出版発行)/本庄豊著「なつよ、明日を切り拓け」(2019年9月、群青社発行)/本庄豊著「戦争孤児」(2016年2月新日本出版社発行)/「NHKスペシャル “駅の子”の闘い ~語り始めた戦争孤児~」(2018年9月21日・2018年8月12日に放送、NHKオンデマンドで配信)/神田日勝記念美術館館長小林潤著「なつぞらに生きた神田日勝」(2018年5月30日、神田日勝記念美術館配信コラム )/ネット配信「朝日新聞デジタル>記事・国に棄てられた数知れぬ浮浪児」(2017年8月18日)

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