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『孤高の画家田中一村』の墓所と生誕地から雲龍寺を歩く

栃木市旭町「満福寺」…田中一村の墓所

100_0432  「以前の田中家のお墓は一村さんの父親・彌吉さんがお建てになっており、彌吉さんの父・清蔵さんと祖父・喜平さんのお墓の2基でした。しかし、父親の彌吉さんと一村さんの墓石はありませんでした。全国からお参りにお見えになる田中一村ファンのために一村さんの甥にあたる新山宏さんが今のお墓を建てられたのです」と満福寺住職長澤弘隆師は久しぶりにお会いした私に語ってくれた。

  栃木市旭町22-7にある天真言宗智山派満福寺の墓所に眠る孤高の画家田中一村のお墓が新たに建てられていた。立派な奇麗なお墓になっているのに驚いた。以前の墓所より4倍の広さになっていると云われている。

  「田中一村之墓」と刻字された趣のある自然石の墓石。背面には「平成29年9月11日田中一村没後40年新山宏建之」と刻字されている。

100_0435   右側に田中家の墓誌が建っている。

  地域雑誌「グラフ北関」との対談で「田中一村の墓」について長澤住職が語っている内容が満福寺ホームページに載っている。

  その中で、「当初は墓誌を建てるということでしたが、狭いため、私のほうで近くに空いているところがあるので、そちらに新しいお墓を作られたらどうでしょうかと提案し建てられたのが現在の墓所です」と長澤住職は話をしている。

  その墓誌には「田中家墓誌」として田中一村の祖父・清蔵夫婦、父彌吉夫婦と子の姉・喜美子、長男・孝(一村)と四人の弟と妹の名とそれぞれの戒名が記されている。田中一村の戒名は『真照孝道信士』となっている。只、曾祖父・喜平の名前が記載されていないのが気になった。

  左側には一村肖像写真と『熱砂の浜 アダンの写生 吾一人』と一村が詠った俳句が記された石碑が建っている。

100_0434   中野惇夫著「アダンの画帖 田中一村伝」の写真紹介欄で、「昭和30年代半ば一村が奄美の自然のスケッチに熱中していた頃のポートレート。まだ千葉時代の気負いもあり、新たな風土で闘志を燃やしていた気配が感じられる」と記されている。「俳句が記された写生帖には、やはり絵かきの句で、そのまま絵になりそうな俳句も詠まれてある」とし、同書に20句の俳句が載せられている。

  満福寺ホームページ「奄美空港近くの『あやまる岬』へ」に奄美大島を令和元年5月に訪ねた長澤住職は次のように記述している。

  「一村は奄美空港近くの「あやまる岬」にたびたびスケッチに来ていたという。有名な自撮りの自画像風画像は、この『あやまる岬』で撮ったものだと言われている。『あやまる岬』にはアダンの群落もある。代表作の一つ『アダンの浜辺』も、ここに群れ咲くアダンの写生の結実ではないか。『熱砂の浜 アダンの写生 吾一人』の句はここだったのだろう」。

  満福寺にある田中一村の墓所には奄美の人々から供えられた貝殻が置かれてある。その貝殻を見つめるように田中一村の自画写真と俳句が記された石碑が設置されている。思わず「田中一村の世界」を描く配置になっていることに気が付き、頷いた。

100_0430   長澤住職は前述の『グラフ北関』との対談の中で、親族から「私が守れなくなったあと、田中家のお墓はどうなりますか」という問いかけに、「一村さんが眠るお墓ですから無縁墓として片づけるわけにもいきませんので、当山の責任において永久保存します」と答えたことを語っている。

このことから長澤住職の田中一村への思いは並々なら強い決意であることを感じた。

 

田中一村生誕地の特定

100_0458   栃木市蔵の街大通りを北に向かう先に北木戸跡地の万町交番交差点がある。

   その先北関門通りを鹿沼に向けて直線道路を進むと泉町交差点がある。交差点の右側には現在の住まいを購入する際に受け渡し清算で使用した労働金庫栃木支店がある。

  Photo_20211119133602 その泉町交差点を西に左折し、70~80m行ったところが泉町8番地になっている。 田中一村の生誕地として「田中一村記念会」が特定している地域である。

   令和元年(2019)12月に「田中一村記念会(会長・大木祥三)」によって冊子「田中一村画伯の出生地を探るー父・彌吉(稲村)の調査から」が発行されている。

  田中一村の生誕地が、栃木市泉町元市長・金子益太郎の近隣で市川呉服店の北側付近が有力視されてきたが、確証はなかった。

  同書の中では、『孤高の画家として魅了している田中一村は、栃木に生まれ、栃木市満福寺に眠っている。明治41年(1908)7月22日に「栃木県下都賀郡栃木町大字平柳9番地」で誕生し、昭和52年(1977)9月11日に奄美大島の和光園近くの一軒家で69歳の生涯を終えた。一村は、彫刻家の父・田中彌吉(雅号は稲村)と母・セイの長男として生まれ、本名を孝』と紹介され、『栃木町大字平柳9番地』で誕生したことが記されている。あわせて大正3年(1914)1月28日に東京に移転するまで、5年6カ月の間、栃木で過ごしたとしているとしている。

100_0439   彫刻師であった田中一村の父・彌吉(稲村)関連の調査から「田中一村会」会長の故・長谷川建夫氏(田中彌吉の支援者であった長谷川展氏の娘婿)の資料を基礎に、東京に移転する前の田中彌吉一家の住所が「下都賀郡栃木町大字平柳9番地」であったことが分かったことが記されている。

  この住所を基に元市役所職員による地番指定等の協力を得て、大字平柳になる前の堰場原(どうばはら)の地図を重ね合わせて「下都賀郡栃木町大字平柳9番地」が「栃木市泉町8番地」であるとし、田中一村の生誕地を特定することが出来たことが記してある。

100_0443   生誕地と特定した付近一帯は大ぬかり沼の名残りである大杉神社から流れる堀川や「朝日弁財天」がある。西側の先の嘉右衛門町は重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けており、古い家並みの中を日光例幣使街道が通っている。通り沿いにたつ神明神社の裏手の樹木等が生誕地付近を覆い、現在の道路を含めてひっそりとした佇まいの雰囲気になっている。

  中野惇夫著「アダンの画帖・田中一村伝」に栃木の田中彌吉の家の様子を、「父弥吉は、稲村の号を持つ天才肌の仏像彫刻家だった。おっとりした性格で、栃木の家にいるころは、広い屋敷の周囲を全部切り払い、草を生やして、コオロギやカジカの鳴く声に独り縁側で耳を傾け、楽しむという風流人だったという」と記述されているような広い敷地であったことが想像できる地である。

  明治26年(1893)に大宮村大字今泉から転居してきた田中彌吉の祖父・喜平(彌吉の父は明治20年に亡くなっている)の生業が不明となっている。しかし、広い家や雲龍寺建立の寄付行為、および彫刻師としての彌吉(稲村)の交流人脈などから彌吉の祖父喜平は裕福な生活であったことが想像できる。

  只、この地での田中家は後日、東京に移転することから借地借家だったのではないかと推測する。

 

雲龍寺「龍の彫刻」と一村の「軍鶏」

100_0446  昭和7年(1932)の北関門通り開通に伴い御堂・水行場が東に10m曳家移転をしている雲龍寺(栃木市泉町18-8)。

  田中一村生誕地からセブンイレブンの裏の裏道を伝い、北関門通りに戻り、南へ少し行った先に雲龍寺がある。セブンイレブンの裏側通りには私が小学校から通った「川津珠算塾」があったが、今は空き地になっている。

100_0455  江戸後期から栃木町の成田山不動尊信仰の3つ講が慶応元年(1865)に合同して栃木大護摩社が結成され、明治3年(1880)に成田山新勝寺原口照輪師によって定願寺にて開眼供養が行われた。そして明治23年(1890)に成田山不動尊雲龍寺として建立されたと栃木市史には記されている。

  明治から大正にかけての雲龍寺境内は、明治32年(1899)発行の「栃木繁昌記」の中で植松義典の弟子であり記者でもあった柴田博陽が、「参道から境内にかけての大道芸や見世物小屋などで老若男女の集う賑わい」と記しているように特別な賑わいを見せていたと云われている。

  現在の境内はひっそりとしており、境内には明治7年に宇都宮から泉町が購入した山車人形「諫鼓鳥」の収蔵庫が建っている。

100_0453  明治29年(1896)に雲龍寺建立由来の石碑がその収蔵庫の裏側に建っている。石碑の背面には浄財をだした615人の氏名が刻字されている。当時の栃木町の豪商などそうそうたる氏名の一番下の「発起人」の一人として「田中彌吉」と刻まれている。この石碑に刻まれている「田中彌吉」が田中一村の父親なのかどうか検証されてきた。

  前著「田中一村画伯の出生地を探る」の中では、雲龍寺上棟式当時、彌吉は6歳と幼少であった。しかし父・清蔵が亡くなっており彌吉が戸主になっているが、実際は彌吉祖父・喜平が家政を仕切っていたことになる。他に明治24年の本堂欄間には「大宮村大字今泉田中弥吉」と栃木町に転居する前の住所が書かれてあること。明治28年制作された水行場の北側欄間に「発起人栃木町泉町田中弥吉」と書かれてある。このことから雲龍寺境内石碑に刻まれている田中彌吉(弥吉)は田中一村の父親であると断定をしている。

100_0451   雲龍寺御堂の向拝鐘掛けの上にある龍の彫物は田中彌吉(稲村)の師匠筋になる江戸彫・後藤流二代目渡辺喜平治正信の作になっている。

  田中彌吉(稲村)の実際の師匠は明治44年(1911)に栃木から東京に転住していった三代目渡辺喜平治房吉であったのではないかと推定されている。

  雲龍寺にある二代目渡辺喜平治正信作の龍の彫り物は田中一村が描いた力強い「軍鶏」に似ていると個人的に思っている。

  大正3年、5歳6カ月で東京に移転していった田中一村が雲龍寺にある龍の彫刻を父・彌吉や姉・喜美子に連れられて何回も観ていたことによるのでないかと思える。師匠筋の彫り物を父・彌吉は一村に見せている筈であるからだ。

 Photo_20211119133601  昭和10年の彌吉死亡によって一村は納骨のため満福寺を訪れ、その時に昭和12年4月の栃木市制記念祭りの際に泉町山車人形「諫鼓鳥」を観ていたのではないかと想像する。そして昭和13年に東京から千葉に移転していく。

  戦後昭和22年から昭和33年にかけて千葉から奄美大島に移転する間に一村は「軍鶏」を多数(スケッチを除いて13点、大矢鞆音著「評伝・田中一村」より)描いていくようになる。

100_0461  「アダンの画帖 田中一村伝」に載っていた田中一村「軍鶏の素描」の絵を最初に見た時、何かに似ていると感じた。そうだ、栃木の寺社に掲げられてある「龍の彫刻」に似ていると…。

  睨み見つける目、両脚を踏ん張って威嚇する姿勢は「龍の彫刻」の鬼気迫る姿に似ていると感じたのだ。

  ネットで2021年1月~ 2月末開催の千葉美術館「田中一村」展示会の中の中で、「軍鶏」の題画賛に『荘子』の「木鶏」の故事が記されている作品があると紹介されている。具体的な内容を読むことはできないが、田中一村が軍鶏を描くにあたっての思いがあることが伺えた。

  横綱双葉山は、連勝が69で止まった時、「ワレイマダモッケイタリエズ(我、未だ木鶏たりえず)」と安岡正篤に打電したというエピソードで有名だが、木鶏(もっけい)とは、荘子に収められている故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさすことを意味するものとしている。

  戦後の千葉寺在住時に南画からの脱却をはかり、写生に取り組むが、相次ぐ公募の落選となり画壇から孤立を深めていく時、一村は力強い軍鶏を描き始め、昭和33年に奄美に飛び立っていく。

  それは幼いころ父親や姉に連れられて度々参拝の際に見た雲龍寺にある鬼気せまる「龍の彫刻」の眼と地元の泉町山車人形「諌鼓鳥」の鋭い口ばしを思い浮かべて描いていったのではないかと推測する。

  孤高の画家としての己を鼓吹することから写生を基礎にした「軍鶏」を描いた一村。このことが事実ならば、軍鶏の絵には「田中一村が生まれ、お墓のある栃木のまち」だけではなく、雲龍寺「龍の彫刻」と山車人形「諫鼓鳥」が影響を与え、力強さを表していったのではないかと思える。

  「栃木のまち」と田中一村の「軍鶏の絵」がよりつながりを見せてくるような気がしてくる。

                              《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

中野惇夫・南日本新聞社著「アダンの画帖 田中一村伝」(1995年4月、小学館発行)/大矢鞆音著「評伝田中一村」(平成30年7月、生活の友社発行)/満福寺ホームページ「当山に眠る孤高の日本画家 田中一村」・「インタビューグラフ北関、一村の菩提寺・満福寺住職に聞く~清貧孤高の日本画家◎田中一村」/「栃木市史」(昭和63年12月発行)/柴田博陽著「栃木繫昌記」(明治32年11月発行)/「田中一村画伯の出生地を探る―父・彌吉(稲村)の調査から―」(令和元年12月、田中一村記念会発行)

 

 

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