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2021年12月

河と彫刻-春日部のまちを歩く

「カスバの女」を歌う藤圭子

 「♪涙じゃないのよ 浮気な雨に~」と歌が始まる「カスバの女」は昭和30年(1955年)5月、作詞:大高ひさを、作曲:久我山明、エト邦枝によって映画の主題歌として発表されたが、映画は制作されず消えていった。

  昭和42年(1967)に緑川アコがカバーしてレコードを発売するとこれがヒットとなり、以後竹越ひろ子、ちあきなおみなどが歌い、広く知られるようになっていく曲。昭和56年(1981)12月公開映画『セーラー服と機関銃』の冒頭でブリッジをしながら「♪涙じゃないの~」と17歳の薬師丸ひろ子も口ずさんで歌っていた。

Photo_20211214142502   昭和45年(1970)10月23日、渋谷公会堂における「歌いつがれて25年、藤圭子演歌を歌う」の実況録音盤CDの中に、19歳の藤圭子が歌う「カスバの女」が7曲目に収録されている。

  緑川アコやちあきなおみの歌はゆったりと歌いながら人生を捨てたような哀しさとけだるさを感じる。しかし、19歳の藤圭子が歌う「カスバの女」を聴くと、若い娘があどけない顔から突き刺すような目つきで男と女の暗い世界に夢を捨てないで生きていく姿が浮かび上がってくる。

  その夢の中にはセーヌ河があり、赤い風車ムーランルージュのステージで踊る娘たちがいる。19歳という娘ざかりと哀しさが入り混じった不思議な歌唱になっていて味わい深い歌曲になっている。

春日部市内を流れる大落古利根川(通称古利根川)

  「♪セーヌのたそがれ瞼の都 花はマロニエ シャゼリゼ 赤い風車の踊り子の~」(「カスバの女)作::大高ひさし、作曲:久我山明)。 

100_0310  春日部市街地の東側を流れる大落(おおおとし)古利根川。農業排水を落とす幹線排水路の意味から大落古利根川と言われているが、川の畔から眺める通称古利根川の流れは、かつての大河利根川の残像かのように悠然と流れている。

    日高昭二著の「利根川 場所の記憶」の中に医師でもある俳人の水原秋桜子が昭和19年春日部市になる前の昭和初期粕壁町付近の古利根川を著した「古利根川の岸辺」の文章が紹介記載されている。

100_0486 「『K画伯は、ここの景色と巴里郊外の景色とが、非常によく似ていると言われます」。若い中学の先生は、橋の欄 干にもたれながら、こう私に説明してくれた。私はセーヌ河と古利根川とが似ることに興味をおぼえて、指さされたままに下流の方を見渡した。なるほど西洋の画ではこういう景色を見たような気がした。

100_0481  その日の夕日は、もう町の家並みにかくれて、雲ひとつない空をなごやかに色付けていた。渡り鳥の群が二つ三つ声をおとして頭上をすぎて行った。幅70メートル程の古利根は、十分な水量を湛えて気持ちよく澄んでいた。はるか下流にもうひとつ橋が見え、そこまでの西側が粕壁の町裏である』

  粕壁町の安孫子病院に医師として勤務しながら古利根川に接した水原秋桜子。パリ郊外を流れるセーヌ河と似ているという古利根川……パリに行ったことのない私は、川幅70メートルの古利根川がパリに流れていっているような旅情を誘う情景が浮かんできた。

古利根公園橋の彫刻

100_0496  初めて訪れた春日部市……。

  旧日光街道かすかべ大通りを歩く。舗道には『粕壁宿案内』、『問屋場跡』、『本陣跡』などの案内標識が目につく。

   市民から史跡標識設置の要望で建てられたと郷土資料館の学芸員の方が話をしてくれた。その春日部市郷土資料館で『粕壁宿模型図』を眺め、芭蕉が宿泊したと云われる東陽寺に参拝し、市民文化会館、図書館と『匠大塚』の脇道を通り抜け古利根川畔に立った。

100_0488    静かに流れる川面を見ながら川沿いに沿って川上に足を運ぶ。

 赤い風車の代わりに麦わら帽子をイメージした高いアーチのモニュメントがある古利根公園橋が見えた。古利根川の静かな佇まいとは対照的に、なにやら近代のきらびやかな外観を呈した公園橋に辿りついたような感じがした。

100_0378    ウキペディアでは、『春日部市制30周年にあたる昭和59年に完成した古利根公園橋。街の中心を流れる古利根川に架かる全長79mの橋上公園で、「光と風」をテーマに、市の特産品である麦わら帽子をイメージした高さ14.5mのモニュメント、橋上ステージ、ブロンズ像6体などで構成するこの橋は、市政30周年(昭和59年)を記念してできた公園橋』と紹介されている。

 さらに、公園橋にある6体の彫刻はすべて青銅製の単身の人物像で、「彫刻のある街づくり」を目指した春日部市として平成2年から3年にかけて設置されていると記されている。

100_0516    千野茂『フォーム』・舟越保武『茉莉花』・山本正道『思い出』・桑原巨守『夏』・佐藤忠良『ジーンズ』・斎藤馨『春陽』と若い娘・少女を中心にした彫刻群になっている。

  中でも『夏』と『春陽』の少女の塑像が新鮮な感じを受けた。

   『夏』の作者、桑原巨守は『輝く太陽、爽やかな涼風、咲き乱れる野の花高原にすくっと立つ少女。私の抱く夏のイメージを彫刻にしてみました』とコメントを表している。はち切れそうな健康的な作品群になっている。

    公園橋から古利根川を見る。公園のベンチに腰をおろし、くつろいだひと時を甘受する。

新町橋と古隅田川

100_0383   公園橋の上流に新町橋が見える。

  新町橋は、江戸時代に大橋と呼ばれ粕壁宿から杉戸宿に向かう日光道中、古利根川に架けられた橋。幕府が費用を負担し、長さ16間(約29m)、横3間(約5m)の板橋で、高覧が付いていた。

  橋の畔は上喜蔵河岸跡になっている。わずかにマンション駐車場の脇に河岸跡の石垣が残っているが、郷土資料館の『粕壁宿模型』で表している上喜蔵河岸周辺の方が往時の姿を思い浮かべることができる。

100_0525  古利根川に注ぐ岩槻から流れてくる古隅田川が見える。かつては川の流れは今とは逆に、古利根川から古隅田川に流れが注ぎ、元荒川へ満々と水が流れていた大河であったという。ちょっと想像できない。

  …中世から徳川時代にかけての関東地方の川筋は『利根川東遷事業』によって大きく変化している。そのため、利根川と古利根川、隅田川と古隅田川、荒川と荒川放水路、中川など中世と現代では区別がつきにくく、難渋してしまう。

最勝院と千住馬車鉄道

100_0527   古隅田川に架かる十文橋を右に見て、左折し最勝寺山門に着く。

   真言宗のお寺で華林山慈恩寺最勝院といい、本尊に千手観音をまつる。境内にある立派な鳥居をくぐると春日部重行公之墳墓がある。

   案内版には春日部重行公は天皇を護衛する武者所番衆として新田義貞に仕え、後醍醐天皇の建武の新政を支持した。

100_0392   新田軍として討幕に参加し、鎌倉、箱根、京都、島根、九州など各地で幕府軍と戦う。特に鎌倉の戦いでは戦功を挙げ、延元元年(1336年)に後醍醐天皇から下河辺荘の一部である武蔵国春日部郷 (現在の埼玉県春日部市内牧地区の一部)と上総国山辺郷 (現在の千葉県千葉市緑区の一部)の地頭に任命された。同年6月30日、重行は北朝側の足利尊氏軍と京都鷺の森で戦うが敗戦し自刃した (延元の乱)。

   遺骨は長男の家縄が春日部に持ち帰り最勝院へ埋葬したと記されている。 

  春日部市では春日部の祖として毎年ゴールデンウィークに春日部重行公祭を開催している。どれくらいの規模祭礼なのだろうか?

100_0529  山門前の案内版には、『明治時代この最勝院は粕壁小学校(明治5年)や粕壁税務署(明治42年)などに利用され、広い境内は大相撲地方巡業やサーカス、村芝居の興行、各種の武道大会等に利用された。また明治26年に粕壁ら越谷、草加を経て足立区千住までを結んで開業した千住馬車鉄道は、この最勝院を起点としていた』と昭和61年3月に春日部市として記載している。

 この最勝院山門前の案内文を読んで千住町と粕壁町を結んだ「千住馬車鉄道」があったこと、最勝院山門前が『千住馬車』の起終点であったことを初めて知った。そのため、古利根公園橋左岸に雨宮一正作の千住馬車鉄道のモニュメント『トテ馬車』(記念碑)があることの意味も分かった。

100_0376  明治24年(1891)に上野―青森間の鉄道が開通した。しかし、上野―前橋間鉄道の途中から分岐することとしたため、陸羽街道(旧日光道中)沿線の千住―幸手間の人々は鉄道の恩恵を受けられなかった。

   そのため明治26年(1893)2月7日、千住馬車鉄道が千住茶釜橋から越ヶ谷町までが開通して旅客営業をはじめ、6月1日に越ヶ谷町から粕壁(最勝院付近)まで12人乗りの馬車鉄道が開通した。なお、浅草―千住間、粕壁―幸手間は普通馬車によって連絡をしたという。

28    千住―粕壁間を4時間、一日4往復であった。それでも軌道上を走る鉄道馬車は「ガタ馬車」と呼ばれ普通の馬車に比べると乗り心地がよく、車体も大型化となった。

   当初の計画は千住町中心の仲町に馬車鉄道の停車場を造る計画であったと云われているが、地元から狭い街道筋に馬車鉄道の運行は危険が伴うということで軌道敷設の強い反対があり、千住町の北、今は荒川の土手になっている茶釜橋に停車場を設置した。同じように千住近辺街道沿いにおいても馬車鉄道敷設への反対が強かった。馬車鉄道開設を希望したのは東北本線から外れた日光街道沿いの草加、越谷、粕壁、幸手の地域の人たちであったと云われている。今の東武伊勢崎線の路線を見るとこれも頷ける。

Photo_20211214153101   『春日部市史別冊千住馬車鐡道』によれば明治20年代から30年代にかけて埼玉県内では「忍・行田馬車鉄道(明治34年6月開業)」「伊勢崎・本庄馬車鉄道(明治22年計画のみ)」「入間馬車鉄道(明治32年出願のみ)」「川越馬車鉄道(明治35年5月開業)」など馬車鉄道の運行や計画が数多く出されていた。今の都電も当初は東京馬車鉄道として運行をスタートしたことになる。

   開業後の千住馬車鉄道の経営も思わしくなく、明治29年(1896)に普通馬車鉄道営業を廃止し、翌年6月には全線が廃業した。これを惜しんで草加周辺の資産家らが草加馬車鉄道を設立し、全線の営業を引き継いだ。しかし、明治32年東武鉄道の開業によって明治33年(1900)に廃業となる。明治26年から7年間の短命な馬車鉄道であった。

   馬車鉄道については鉄道史においてどれだけ研究されているか分からないが、地域を結ぶ輸送関連から学ぶ事項が多々あると思えてくる。

粕壁宿から春日部市へ

40  岩槻街道から最勝院山門前を右折すると町並10町25間(約1,130m)、人数3,701人(男1,791人、女1,910人)、家数773軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒(内飯盛女旅籠14軒)、問屋場1ヶ所、人馬35人35疋の粕壁宿になる(天保14年『日光道中宿村大概帳』より)。

  粕壁宿は日光道中(日光街道)の江戸・日本橋から数えて4番目(千住宿・草加宿・越谷宿・粕壁宿)の宿場町になっている。現在の春日部駅東口の旧街道一帯が、かつての粕壁宿ということになる。江戸・日本橋から一日歩き通すと、ちょうど1泊目となる宿場町がこの粕壁であったことから、旅人の多くはここで宿を取ったようである。

100_0351  最勝院山門から歩くと新町橋に抜ける交差点に「高札場跡」の標識がたっている。その先、公園橋西交差点の手前、りそな銀行春日部支店前に峯田敏郎作品『記念撮影―風がー』の彫刻が舗道に展示されている。

 風にとばされる麦わら帽子、そばに佇む少女の塑像。「水平、垂直の形でできている街の中に、快い空気が流れはじめたらと、この形の作品が生まれました。やわらかそうな丸い形の上に座る女性に突然風が・・ そして、帽子が、・・。」と作者の峰岸敏郎氏はコメントを寄せている。

 ――何よりも健康的で未来を見つめているような彫刻作品だと感じた。

 春日部市が平成2年から3年にかけてすすめてきた「彫刻のある街づくり」で設置されてきた彫刻は、古利根公園橋から春日部駅東口、公園西交差点からかすかべ大通り、春日部駅西口市役所にかけて22の作品が展示されている。

 今後、宿場町としての粕壁宿が現代の春日部市と変移していく一つの町づくりとして価値あるとりくみだと思えてきた。

                            《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

「新編図録春日部の歴史」(平成27年10月1日春日部市発行)/日高昭二著「利根川 場所の記憶」(2020年7月翰林書房発行)/ウエブ「まちなかで鑑賞できる春日部の彫刻」/[馬車鐡道の想い出~千住馬車鐡道展](平成15年7月春日部市郷土資料館発行)/「春日部市史別冊千住馬車鐡道」(昭和59年3月春日部市教育委員会発行)/ブログ「カスバの女三木鉱三のうた物語」/ウキペディア「古利根公園」

 

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