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2022年1月

芭蕉、子規も歩いた日光街道―草加の松原

100_0585_20220113133901  東武伊勢崎線「草加駅」を降り、駅前からすぐの交差点を左折し、旧日光街道を北に向けて草加宿を歩く。駅前にはいくつかの保育園などから小さい子供の声が響き渡っている。共稼ぎの多い若い近郊都市という感じを受けた。

  沼地を茅で埋め立てたことから「草加」という地名が名づけられ、開拓した大川図書の「大川図書本陣跡」の石碑が左側に建っている。もっとも草加という地名は、この地が綾瀬川右岸の砂地に発達した土地であり、砂地を意味する「ソガ」が草加となったという説もあげられているなど諸説がある。

  江戸時代の面影が無くなっている旧日光街道沿い宿場跡に建つ「煎餅店」の店先を見ながら歩くと突きあたりに伝右衛門川が流れている。川の向こう岸が綾瀬川に沿った「札場河岸公園」がある。

100_0578   草加市を流れる綾瀬川沿いの草加松原遊歩道の南端に整備された市営公園の「札場河岸公園」。公園入口には芭蕉の銅像が建っている。

  公園内にはかつての「河岸」の面影を今に再現している「札場河岸」がある。綾瀬川は江戸中期頃から、多くの船が行き交ったという。

  江戸時代に野口甚左衛門の私河岸だったのが、安政の大地震により移転したことから、地域の人が河岸場としていた利用されるようになった。その元の野口甚左衛門家の屋号が札場だったことから、いつしか「札場河岸」と呼ばれるようになったと云われている。

100_0600   「札場河岸公園」から綾瀬川にそった日光街道沿いに松並木が1.5キロに渡って施されている。

  草加松原についての案内石碑には「草加松原は寛永7年(1630)草加宿開宿時、または天和3年(1683)の綾瀬川改修時に松が植えられ、江戸時代から日光街道の名所として知られていた。(略)明治維新前後時は、おおむね500本前後の松並木として推移しきた」と記されている。

  しかし、戦後、昭和40年代(1965年~1974年)には、脇の日光街道を通行する車両の排気ガスや道路舗装による根の切断などにより、70本ほどに著しく本数が減っていった。

100_0599   市民の中から松並木保存の声があがる。それを受けて草加市では、平成24年(2012年)に古木・若木合わせて634本の松並木を綾瀬川沿いに復活させて現在の松並木公園遊歩道として整備してきた(草加市ホームページより)。

  こうした松並木保存の動きなどを踏まえ、綾瀬川を横目に見ながら松並木沿いに蒲生大橋に向けて歩いていく。遊歩道になっている綾瀬川沿いの松並木道を散歩やウオーキングを楽しんでいる多くの市民の人に出会うなど賑わいを見せていた。あまりにも整備され奇麗な道になっており、古の街道の面影は浮かんでこなく、少し寂しい気持ちにもなった。

100_0605   「月日は百代の過客にして、行きかう年も又旅人也」。「千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」

  元禄2年(1689)3月27日(新暦5月16日)深川から舟に乗り、午前10時ころに千住の河岸から舟をあがる。前途、三千里の思いに胸が一杯になり、この幻の世の別れ道に泪をこぼした。

 「『行春や鳥鳴き魚の目は泪』 

是を矢立の初めとして、行道をなをすゝまず」(芭蕉「おくの細道」岩波文庫)。

100_0594   この冒頭の旅立ちの文面は高校の時に出会って以来、リズム感のある文章として胸に刻まれてきて感慨深くになってしまうのだ。

  草加松原にはおくの細道の冒頭の旅立に記されている「矢立」と「百代」にちなみ名を付せた二つの橋が架けられている。その橋の上から眺める松並木と綾瀬川の光景は開放的で素晴らしい。

日光街道、根岸から草加を歩いた子規

 100_0574  「札場河岸公園」には正岡子規と

 高浜虚子の句碑がある。

 『梅を見て野を見て行きぬ草加迄』  

 《子規》

 『順禮や草加あたりを帰る雁』

 《虚子》

100_0587   個人の建立と言われている子規の句碑の背面には、「俳人、正岡子規が草加を訪れたのは明治27年3月。高浜虚子とともに郊外の梅花を探る吟行の途次である。このときの紀行文である『発句を拾ふの記』によれば、上野の根岸から草加まで歩き、茶店に休憩を求め、昼食をとり再び去った。そのわずかな有縁を証す詠句は文芸の街を〇〇する貴重な作品である。ここにその句を刻し、子規を顕彰する。平成5年3月20日」と刻字されている。〇〇の箇所は読み取れなく次回往ったとき確認をしたい。

  明治27年の3月24日に仙台第二高校を退学して子規庵に転がり込んで同居していた高浜虚子を誘い草加に向かう。虚子への俳句の指導を含めての吟行であった。この時歩いた吟行紀行文『発句を拾ふの記』だけが正岡子規が編集長になった「小日本」に掲載された

2510   『発句を拾ふの記』の収録されている改造社版「子規全集第十巻小説紀行小品」を図書館で借りて読んでみる。軽快な文章の流れの中で俳句が挿入されており、面白く読むことができた。

  この書を読んで根岸の「子規庵」から草加に向けて日光街道を歩きたいと思ってきた。しかし、コロノ禍のため妻より外出禁止が出されており歩きまわることが出来ない。よって、ブログにて「発句を拾ふの記」全文を掲載して、その行程を辿ってみる。

正岡子規著『発句を拾ふの記』

  亀戸木下川に梅を観、蒲田小向井に春を探らんは大方の人に打ち任せて、我は名もなき梅を人知らぬ野辺に訪わんと、同宿の虚子をそそのかして薄曇る空に柴の戸を出図。

   梅の中に紅梅咲くや上根岸

   松青く梅白し誰が柴の戸ぞ

   板塀や梅の根岸の幾曲り

 千住街道に出ずれば、荷馬、乗馬、肥車、郵便車、われもわれもと春めかして、都に入る人、都を出ずる人。

  下町や奥に梅さく薬師堂    虚子

  肥舟の霞んでのぼる隅田かな  同

  大橋の長さをはかる燕かな

  燕やくねりて長き千住道

市場のあとを過ぎて、散らばる菜屑を啄む鶏を驚かしつつ、行くにもとより目的もなき旅一日の行程霞みて、限りなき奥街道直うして千住を離れたり。茶屋に腰かけて村の名を問えば、面白の名や。

  鶯の梅島村に笠買はん

 野道辿れば上州野州の遠山僅かに雲を留め、左右前後の村々梅あり、藪あり、鶏犬画中に聞こゆ

  いたづらに梅老いけりな藪の中

  雨を呼ぶ春田のくろの鵠かな

  子を負ふて獨り畑打つやもめ哉

  武蔵野や刈田くろに水ぬるむ  虚子

  鍋さげて田螺ほるなり京はづれ 同

  姉妹の土筆摘むなり馬の尻   同

 ささやかなる神祠に落椿を拾い、あやしき賤の女に路程を尋ね、草加に着きぬ。

   巡礼や草加あたりを帰る雁   虚子

   梅を見て野を見て行きぬ草加迄

 八つ下る頃午餉したためて路を返し、西新井に向う。道すがらの我一句彼一句数えがたし。

   ほろほろと椿こぼるる彼岸かな

   一村の梅咲きこぞる二月かな

   栴檀のほろほろ落つる二月かな

   武蔵野や畑打広げ広げ

   茨燒けて蛇寒き二月かな  虚子

   切られたる榎芽を吹く二月かな  虚子

 大師堂を拝みて堂の後の梅園をめぐり、奥の院を廻りて門前の茶屋に憩う頃、春の日暮れなんとす。

   乞食の梅にわづらふ餘寒かな  虚子

   蝶ひらひら仁王の面の夕日かな 同

   しんかんと椿散るなり奥の院  同

   梅咲て仁王の面の赤さかな

   梅散て苔なき庭の夕寒し

   日影薄く梅の野茶屋の余寒かな

   夜道おぼろに王子の松宇亭を訪う。

   春の夜の稲荷に隣るともしかな

 最終汽車に乗りて、上野の森月暗く、電気燈明かなる頃、山づたいに帰り来る夜の夢、寝心すやすやと周公もなければ美人もなし。

 《明治27年の3月24日》

子規の吟行文と写生

011   根岸の子規庵から日光街道に出て、千住大橋を渡り、「市場のあとを過ぎて、散らばる菜屑を啄む鶏を驚かしつつ」と、千住のやっちゃ場を通り、梅嶋村などあちこちに咲く梅を眺めながら日光街道を歩いて往く。

  草加に着き、鰤(ぶり)の昼食をとる。『発句を拾ふの記』の中に記載されていないが、「鰤くふや草加の宿の梅の花」という鰤を食べた句が「寒山落木3、明治27年春」に載っている。

 Photo_20220113130801  それから西新井に引き返し、西新井大師堂に参拝して引き続き廃寺になっている延命寺の江戸六阿弥陀仏(現在の恵明寺足立区江北2丁目)を見て、「野の道や梅から梅へ六阿彌陀」(寒山落木3、明治27年春記載)と詠み、そこから王子の伊藤松宇(俳人、王子製紙、渋沢倉庫などの渋沢財閥の幹部社員)を訪ね、最終の汽車で上野に帰る。こうして歩きながら名所旧跡を見て俳句を詠む、吟行としての紀行文になっている。

  吟行とは俳句をつくるために、景色のよい所や名所旧跡などに出かけて行くことを意味するが、この子規と虚子の草加吟行文については、「近代的吟行の記念すべき初回である」という説もあるということを草加市ホームページに記されている。「写生」を基調とした吟行文ということなのかもしれない。

 Photo_20220113130901 「子規全集十巻」には草加の梅を吟行し『発句を拾ふの記』に引き続き、子規は上野公園を散策する『上野紀行』(明治27年8月)、根岸周辺の音無川、三河島周辺散策の『そぞろ歩き』(同年8月)、挿絵画家中村不折を伴って歩く『王子紀行』(同年8月)、川崎大師から六郷橋、蒲田、池上本願寺を歩く『間遊半日』(同年11月)、芋坂団子を詠った「根岸名物芋坂団子売る切れ申す候の笹の雪」が載っている『道灌山』(32年10)など、吟行文を記述していった。

Photo_20220115064801   以前にテレビドラマ「坂に上の雲」をDVDで観ながら正岡子規役の香川照之を気に入り、正岡子規著の「病牀六尺」「仰臥漫録」等を読み、正岡子規の文体にはリズム感がありその文章は明るいと感じていた。それはどこか吉田松陰の「東北遊日記」に似ているなと思っていた。

  3年前、入院病室で司馬遼太郎の「花神」を読んでいると吉田松陰と正岡子規の文体が似ていることを司馬遼太郎が記している箇所にぶつかり、「やっぱりな」とうれしくなったことが思い出される。

  司馬遼太郎は「花神」の中で、吉田松陰と正岡子規の双方の文体が似ていることを次のように記している。「異常ほどあかるいその楽天的な文体、平易な言いまわし、無用の文章の少なさ、そして双方とも大いなる観念のもちぬしでありながら、実際に見たものについて語るときがもっともいきいきして多弁になるという点などが共通でいた」と記し、「双方とも近世日本が生んだもっともすぐれた教育者である」と高い評価している。

  二人とも幼少期より漢文を読み、旅をしながら見ていくという強い行動力を持ち合わせていたことがいえる。

20_20220113130901    この明治27年3月24日の草加への梅見の吟行の前の2月に子規は挿絵洋画家中村不折と出逢い、すぐに「小日本」へ中村不折の挿絵を掲載する。当時の新聞の挿絵が浮世絵系統が多く、洋画家系の採用は思い切ったものと評されている。

  子規は手帳と鉛筆を持って吟行を試みていた。いったん戸外に出て散策すれば、まだ言葉にまみれていない場所や事物は無尽蔵にあり、途上の俳趣―平凡な景色―との出合いに満ちている世界を求め、描いている。

  伊集院静著「ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石」の中で、「子規は『写生』確立にむかいはじめた。目に映った風景、実景をそのまま俳句にする味のようなものを悟った時期であった。しかし、山と積まれた創作句を見つめて、子規はどうもこれは間違いだと感じはじめた。子規は不折の作品に惚れこんだ時から、不折に画法とその精神を問いた。

  不折は応えた。『あるものを見たままに描くのでは写生になりません。見た時の感想、例えば奇麗な花と思ったこころを描くのが写生です』。

  子規はそれまでおぼろにしかわかっていなかった『写生』の本質を、この青年画家との会話から見出した」と記している。

  ……これなんだよな。

Photo_20220113130802   小学4年のころから、私は絵に夢中になり頻繁に写生に出かけていた。描いた絵はいずれも展覧会で入選していたことも励みになっていた。しかし、6年生のある時に展示されている風景写真を見た。『自分が描いている細かい風景画は写真にはかなわない』と心に衝撃が起こり、気持ちが萎えてしまった。以後、私は写生に出かけることもなく、絵は描かなくなった。

  この時、「写生」という本質、自分が心の中に感銘などの思いをもった風景を描くということ知っていたならば、違う角度から絵に向きあえたかもしれないと思えてきた。

  正岡子規を読みながら、「銀次のブログ」を描いていく際に忘れてはならないこと。――歩いて、『見ること』『体感すること』の中から学び、自分のこころを見てブログに表していくことが肝要であることを、今一度自分に言い聞かせていくことにする。

                                             《夢野銀次》

≪参考引用文献等≫

岩波文庫[芭蕉おくのほそ道](1979年1月、岩波書店発行)/山本健吉著「奥の細道」(1989年2月講談社発行)/草加市ホームページ「おくのほそ道の風景地 草加松原」/改造社版「子規全集第十巻」(昭和4年10月発行)/ウエブ正岡子規著「寒山落木3、明治27年春」/司馬遼太郎著「新潮文庫 花神」(昭和51年8月、新潮社発行)/伊集院静著「ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石」(2013年12月、講談社発行)

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