心と体

獨協医大病院に入院します

Pb090124_4 「最低2か月は入院となります。声帯を失うこともあります」と獨協医大病院耳鼻喉科の医師は私に言った。

「2カ月も……」と唖然とする私。

 8月31日の「メディカルとちのき」で人間ドックを受け、食道ガンの疑いがありということで壬生町にある獨協医大病院で検査を受けた。担当の第1外科では「食道ガンの初期で0~1.3,4日の内視鏡手術となります。念のためペット検査を受けてください」。

 ガン検査専用のペット検査を受ける。「下咽頭ガンとリンパに転移していることが判りました。耳鼻喉科に行ってください」といわれ、放射線治療と抗がん剤治療で2か月に入院となった。 

Pb090115_6  「イチョウ並木、綺麗に色づきますよ」と私の検査に実習生としてついた女子医大生が話してくれた。9月下旬に検査が始まった時だ。そして11月12日に入院が決まった。

 放射線治療用のデスマスクを11月10日に行い、あとは入院ということになった。栃木街道から獨協医大病院に続くイチョウ並木は黄色に色づいていた。

  獨協医大病院内部の広さには驚いた。放射線科、口腔科と検査移動で8000歩を記録した日はさすがに疲れた。「検査入院をする」ということも分かるような気がした。

Pb090127_3 外来患者や職員を含めた人が多いのにびっくりする。外来者数は一日3000人。予約なしの検査待ちでは2時間は覚悟するようになった。

 当初は獨協医大病院は栃木県上都賀郡西方町(現在の栃木市西方町)に建設計画であったが、土地収用の関係で現在の下都賀郡壬生町に昭和49年(1974)に開設されたと聞いている。すぐ上の兄と兄嫁もこの獨協医大病院にお世話になり、旅立っていった。

 栃木県には長年、医師養成機関として医科大学がなかったが、下野市の自治医科大病院と並んで2つの医科大学病院が出来上がった。

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 ~空にむかってあげた手に 若さがいっぱいとんでいた 学園広場で肩くみあって 友と歌った若い歌 

 ~涙流した友もある 愉快にさわいだ時もある 学園広場に咲いてる花の 一つ一つが想い出さ

 ~ぼくが卒業してからも 忘れはしないよ いつまでも 学園広場は青春広場 夢と希望がある広場

 (「学園広場」昭和38年10月、作詞:関沢新一、作曲:遠藤実、歌:舟木一夫)

 イチョウ並木を見ながら学生時代の頃を思い描いた。……舟木一夫が歌った「学園広場」の詩の中に、それはある。入院する11月12日は学生時代に付き合った女性と初めて出会った日でもある。勉学に励まず、学生演劇・全共闘運動と大学のキャンパスを走り回ったあの時の息遣いと躍動感を胸に秘めてガンと向かい合っていく。

 ――イチョウ並木の向こうには栃木街道が通っている。必ずこの道を通って家に帰り、もっと栃木のまちの歴史と幕末を究めていくつもりでいる。

                                     (夢野銀次)

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土葬の墓が残る栃木市皆川城内「傑岑寺」と「床とり」

NHK大河ドラマ「篤姫」に映された「座棺」から

005  「わたしを上様のところに連れていくのじゃ!」と叫んで御錠口を超えて走る篤姫(宮崎あおい)。13代将軍家定の棺が安置されている部屋に飛び込む。

 「…上様、なぜそのようなところにいらっしゃるのですか?」と棺に取りすがり、号泣する篤姫。

 平成20年(2008)7月に放映されたNHK大河ドラマ「篤姫、第28回ふたつの遺言」の中で座棺が映しだされていた。このシーンで見慣れた寝棺ではなく、家定が安置されている座棺に違和感を覚えた。…どうしてなのか?

Img_51_2  後日、棺には「座棺(棺桶)」と「寝棺(長方形の平棺)」があることを知った。晒をまいた座棺をテレビで初めて見たから違和感を覚えたのかもしれない。「栃木市史民俗編」の中に、「座棺には一反の晒が巻きつけて座敷に安置する」と記されている通り、画面には晒がまかれている座棺が安置されていた。

  かつては土葬がほとんどであった時代、土葬の場合の埋葬は「座棺(棺桶)」であり、大きさは2尺2寸(約66.6㎝)であったと云われている。2尺2寸から22歳で嫁に行かすなというたとえも生まれたといわれている。法律では土葬(埋葬)は禁止されてはいないが、都道府県で条例等で許可をしない所がほとんどであると聞いている。しかし、栃木市では「土葬は禁止されておりません」と栃木市よりメールでの返信があった。但し、「埋葬(土葬)を行なうときは深さ地下2m以上にしなければならないと施行細則で決められている」とし「墓園や霊園によって土葬を禁止している」という回答であった。土葬を禁止していないという意外な回答であった。土葬は法律では規制できない長年の歴史風習が伴っていることを感じた。

Keirei1  平成22年(2012)3月11日の東日本大震災で多くの犠牲者を出した自治体では、一部土葬が行なわれた。多数の身元確認が困難者、ドライアイス不足、さらには地域の主要火葬場が被災し、交通網やライフラインの断絶、燃料不足などにより火葬が追いつかないという事態が発生した。そのため急遽特例措置の適用をもうけ、宮城県内では6市町村が土葬に踏み切り、1000人以上の方が土葬(埋葬)を余儀なくされたという。遺族からは、「土葬に馴染みがない」「先祖と同じお墓に入れてあげたい」「火葬して遺骨を手元においておきたい」「変わり果てた姿をそのままにした状態で土葬するのは忍びない」等と火葬を希望する人もいた。その後、3回忌を迎えるにあたり埋葬された遺体の掘り起し、いわゆる改葬が行われ、新しい棺に納め直して、火葬場へと送り出したと「墓を掘り起した人々の記録(震災取材ブログ)」に記載されている。ブログには改葬を行なった業者の苦痛も綴れていた。

詣り墓と埋め墓のある(両墓制)が残る「傑岑寺」

001_2_2  栃木市街より皆川街道を西へ5㌔先に栃木市皆川城内町を東北道が通っている。その東側のそばに「傑岑寺(けっしんじ)」がある。当初の傑岑寺は弘治元年(1555)に第2次皆川城主皆川俊宗によって皆川城濠外に西接する谷津山に創設され、翌年の弘治2年(1556)に大平町西山田の大中寺より天嶺呑補(てんれいどんぽ)和尚を招請して開堂されている(建幢山傑岑寺発行「傑岑寺の歴史」より)。

 30年後の天正14年(1586)に傑岑寺は現在地の森山に移転をする。前年の草倉山の戦いでの討死者の慰霊と皆川城の南の出城として役割を担うためであったと云われている。傑岑寺から奥に入った太平山の北側に位置する草倉山の戦いは、沼尻合戦の翌年の天正13年(1585)7月の小田原北条と皆川俊宗の継承者、皆川広照との合戦を云う。

020_2  藤岡方面から攻撃を仕掛けてきた北条方に対して、皆川広照は太平山に陣を構えたが、北条方は太平連山に大軍で突入し、太平山神社を含めた太平山を炎上させた。軍を後退させた広照は、太平山の北の草倉山に陣を移し、100日に及ぶ激しい戦闘を行なった。草倉山は太平連山の中で、最も皆川城に近い山であり、皆川勢にとって背水の陣であったと云われている。しかし、数で勝る北条方の大軍を前に皆川家臣が相次いで討ち死にを遂げていき、広照自身も自害を覚悟するほど劣勢に追い込まれていった。

  戦の情勢を見かねた徳川家康、佐竹義宣によって皆川広照に降伏が勧められ、やむなく広照は戦闘を終息させた。以後、広照は北条方に与するようになる(ウィキベディア「皆川広照」参照)。

  この草倉山の合戦で皆川家臣の大半が討ち死にをした慰霊を弔うために広照は、傑岑寺を草倉山近くの現在の森山に移転を行なった。この辺りに降伏への我慢と弔う姿勢が、改易になった広照を後々まで家臣団が慕っていった要因があるのかもしれない。

  草倉山での死者を葬った千人塚に昭和7年に千人塚の石碑が建てられている。ゴルフ場の狭間を通って、道なき道を進んだところにあるといわれており、私はまだ行って石碑を見ていない。是非、行ってみたいと思っているのだが……。

005_2  由緒ある傑岑寺の石段を登り朱塗りの門の奥に本堂がある。本堂の裏に回ると幸島、猪野、片柳家の詣り墓を見ることができる。

  「栃木市史民族編、両墓制」の項で「傑岑寺(けっしんじ)」について次のように記されている。「山内に21世帯の墓地があるが、そのうち幸島、猪野、片柳各一戸ずつが両墓制をとっている。埋め墓は本堂の南側の陽当たりの良い所にあり、詣り墓は本堂の北側にある。これらは特に寺に貢献した家をいう。この三世帯を除いた18戸は単墓制である」。

  この栃木市史民族編を読んで、かつては土葬(埋葬)であった時代には、埋葬地を埋め墓とし、詣り墓を別に設ける両墓制があったことを初めて知った。そして「傑岑寺」の両墓制を見て、由来など住職に訊ねたが、「確かに本堂裏のお墓のことをお詣り墓と言っていますが、良く分からないのですよ」とはっきりしない応えが返ってきた。

013_2  森謙二著「墓と葬送の社会史」で、両墓制とは、埋葬地(=死体を埋葬する墓地。一般的には「埋墓(うめばか)」と呼ばれている)と石塔を建てる墓地(一般的に「詣墓(まいりばか)」と呼ばれる)が離れて設けられる墓制であると定義し、柳田国夫が問題提起をし、民族学者の大間地篤三によって「両墓制」という名称が与えらえたと記している。

  そして通則的な見解として「埋葬地は死穢の場であり、それを忌避して別に祭地(=霊魂祭祀のための清浄な場)を設けたというものである」と両墓制の意味合いが記されている。また最上孝敬著の「詣り墓」では村はずれの沢等に埋葬し、近場に詣り墓を設けている事例や同じ寺の境内で埋め墓と詣り墓とがあるなど全国の事例紹介が載っている。しかし、肉体と霊魂、石塔の意味合い、地理的な関係や風葬の流れからなど、私には良く分からない世界でもある。もっと良く学ばないと理解できない分野であると思えた。

008_2 傑岑寺境内にある埋め墓は本堂の南側の坂道を上った陽当たりの良い墓地の中にあった。半間(90㎝)四方を石柱の柵で囲われている。囲いの真中に「幸島」と刻字されている30㎝ほどの高さの石塔が建っている。中には石柱の柵のない埋め墓もあるが、全部で幸島家の埋め墓は13基ある。

  しかし、片柳家や猪野家の墓石はあるが、埋め墓は見当たらない。すでに改葬を行ない埋め墓を閉めたのではないかと思えた。この辺のことは良く調べないと何とも言えないことである。石柱の柵は動物たちの墓掘り襲撃を防ぐために設けられたのかもしれないと思えた。

015_3  それにしても柵の中の埋め墓の面積は狭い…。2尺2寸(約66.66㎝)の座棺の中で膝を抱えるように納める遺骸は母の胎内にいる時の姿に似ていると云われている。

  埋め墓の中の石塔に刻まれている「幸島」という家格。江戸期にはこの地の大皆川村は武州金沢藩米倉家の領地であった。野州大皆川村、梅沢村、上永野村、下永野村など12か村9800石を統括する陣屋がi現在の皆川中学校にあったという説もある。そして大皆川村の名主が幸島家であり、屋敷跡が今も残っている。その蔵には皆川地域の貴重な史料が埋まっているのではないかと地元の人が話をしていた。幸島家の全容を記述した本がないものか、探していきたいと思っている。

  幕末には大惣代名主として幸島彦助は「永野村村民屯集事件」において栃木町の米穀商人と永野村村民との間との仲介を行ない穏便な解決にむけて活躍をしている。栃木市史にはわずかな記述になっている。中世皆川家についての研究が進んでいるが、近世から幕末、明治にかけて大皆川村名主の幸島家と武州金沢藩米倉家との関係などこれからの研究が進むことを期待したい。

今も残る土葬の名残りとしての「床とり」

60_05_011_2  葬儀において土葬の穴を掘る役割の者4人を「床とり」と言われている。現在は土葬がないことから穴掘りはないが、棺を運ぶ者を「床とり」と称して呼び名が残っている地域がある。私の住む栃木市大平町横堀地域では今でも、棺を運ぶ者を「床とり」と呼んでいる。昭和40年代まであった土葬の名残りなのである。8年前に転居してきて、葬儀の手伝いの際にこの「床とり」は何なのか分からないでまごついたものである。

  今年(平成30年)の6月に栃木県立文書館の古文書講座を受講した。「倹約の取り決めから見る村と領主」からという題で、「文久三年八月倹約筋被仰渡ニ付村方取極蓮印帳」という古文書館収蔵の「大前村文書」の古文書学習であった。

Photo  この古文書では財政の悪化から領主より村々に「冠婚葬祭の際の振る舞いを簡素にする」というお触れが出され、村から倹約の旨の文書がだされた。その中で「不幸之節、穴掘沐浴之者外一切酒差間敷候」と記され、穴掘り(床とり)以外には酒を飲まさないと記されている。葬儀の際の「床とり」は別格な扱いとしてことが記されていた。何故「床とり」は別格なのか?

  私の住む地域での「床とり」の役割をした者は葬儀の後の直合(なおらい)や精進落としの席では上座に座る習わしになっている。文書館の講師に古文書に記されている床とりについて何故別格なのかを質問をしたが、「民俗的なものでしょう」という応えしか返ってこなかった。――自分で調べるていくことにした。

Photo_2  日向野徳久著「栃木県の葬送・墓制」(「関東の葬送・墓制」に収録)の中に「床とり」のことの記述があった。

  日向野徳久氏は著書に「土葬の場合、県南の一部では、死者を埋葬する場所を葬儀当日午前中に施主が、墓穴予定地にゴザを置いてくると、組合の当番の者がこの墓を掘ることを床とり、あるいは床堀りといい、組合のなかから4人が選ばれる」と記している。そしてその役割とは、「床とりは、葬式組の役割のなかで最もぶく(穢れ)のかかりやすい役といわれ、大役である」としている。「床とり(穴掘り)の作業が終わって帰ると風呂が用意されていて、沐浴して身体を浄め、衣服も取り替えて、冷酒・塩と鰹節の削ったもの、それに冷奴で労をねぎらわれる。(略)埋葬終了後の浄めの宴(忌中払いともいう)では、床とり役が上座に着いて施主からお礼の言葉を受ける所もある」と床とりについて記載をしている。葬儀の中心の表舞台はお坊さんになるが、土葬時代の葬儀の中心的な役割が「床とり」であったことが少し理解できるようになった気がした。

563959921612x6121_2   「石工よりも船造りよりも大工りも、頑丈なものを作る奴は墓堀り人夫だ」と言いながらオフェリアの墓を掘る墓堀り人夫が登場する「ハムレット五幕一場」。墓からシャレコウベが放り出され、最後はハムレットを含めた登場人物全員の死で終わることが暗示されている場面である。

  昭和39年に俳優座による「ハムレット」日生劇場公演を姉に連れられて観ている。仲代達也のハムレット、透きとおるような声で歌う市原悦子のオフェリア。それと最も印象深かったは東野英治郎が演じた墓堀り人夫であった。ケラケラと小気味よい口調でハムレットを言い負かすその強さに感じるものがあった。この墓堀り人夫の役は東野英治郎の代表する役になっていることを後で知った。

  高校1年の時に観たこの「ハムレット」で日生劇場と演劇が好きになって、以後の私の人生に強い影響を与えた舞台公演であった。

004  私の住む集落にある共同墓地。同姓名の多い集落で一族の共同墓地から生まれていることを聞いている。昭和50年代頃までは土葬であったが、栃木市保健所より保健衛生上の問題から火葬葬儀にしてくれとの要請があり、土葬から火葬に替えたことを地域の古老から聞いた。以後、現在では火葬骨壺を墓石の下に納めるようになっている。しかし、かつての埋葬されていた共同墓地に立ってみると、土葬時代の墓地の雰囲気が漂い、地域で営まれてきた歴史の風習が匂ってくるような気がしてくる。

  今でも葬儀の際に隣保班として、葬儀場の受付と「床とり」と言われる棺の運びを行なう役を決めている。昨今の社会一般では地域の自治会では葬儀手伝をやめて、葬儀社が全部行うシステムへの移行が進んでいる。また、近隣住民の葬儀への関与がなくなったことにより、世間体を気にしない「家族葬」が増加してきているとも云われてきている。地域共同体において近隣住民と葬儀へ関わりが見直されてる時期にきているのかもしれない。

 集落の中心地にある共同墓地。亡くなってからも慣れ親しんだ地域の人々の近くでねむっていく。――ある面では幸福な終活と言えるのかしれない。

                                      《夢野銀次》

≪参考引用本≫

「皆川の歴史と文化」(平成27年3月、皆川地区街づくり協議会発行)/「傑岑寺の歴史」(平成21年9月建幢山傑岑寺発行)/「栃木市史民俗編」(昭和54年3月発行)/「栃木市史通史編」(昭和63年12月発行)/森謙二著「墓と葬送の社会史」(2014年5月吉川弘文館発行)/最上孝行敬著「詣り墓」(昭和55年4月名著出版発行)/日向野徳久著「栃木県の葬送・墓制」(昭和54年3月明玄書房発行、関東の葬送・墓制に収録)/震災ブログ「墓を掘り起した人々の記録」/ウィキベディア「皆川広照」

 

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収穫の秋を迎え、今を生きる―映画「おかんの嫁入り」

Photo  我が家の周りの水田は黄金色に染まっている。収穫の始まった稲穂の田圃。耕運機で代かきが始まり、田植え機によって田植えを行ない、最後はコンバインという機械で稲狩りを行なう。稲穂の生育は一人の機械の操作で終わっていく。広い稲穂の田圃の光景を見ながらどこかに寂しさを感じる。 

Photo_2  ――秋を迎えた。

  菜園から落花生を収穫した。

妻が落花生をゆでてくれた。口に含んだ落花生は柔らかくて甘い。うまい落花生になっている。

   平成22年(2010)作品の「おかんの嫁入り」を図書館からDVDを借りて観る。娘月子(宮崎あおい)と母親陽子(大竹しのぶ)の優しく心温まる世界を描いた作品だ。「おかん」は関西弁で母親のこと。関東では「かあちゃん」と呼ぶ。私は母親のことを「かあちゃん」と呼んでいた。

Img_01_2    監督はこの作品が二作目となる呉美保(お みほ)。因みに三作目「そこのみ光輝く」は今年(2014年)のモントリオール世界映画祭において最優秀監督賞を受賞し、今一番注目されている監督の一人になっている。

  ある雨の降る深夜に金髪のリーゼットの若い男研二(桐谷健太)を家に入れ、娘に結婚することを宣言する母親。母娘のいさかいの中、末期癌である母親陽子は白無垢姿で娘月子に向き合い語る。白無垢姿で語る大竹しのぶの台詞と聞き入る宮崎あおいの表情が感動的だ。

 「残りの時間の中で何をすべきなのかを考えました。私が今すべきことは私の人生を私らしく幸せに生きることであり、それを月ちゃんに見せることによって、月ちゃんも自分の生き方を見つけてもらいたい。そう思いました。月ちゃん、こんな身勝手でわがままで、どうしょうもないお母さんですが、どうか最後の日まで、どうか一緒にいてください。よろしくお願いします。…こういうのいっぺんやってみたかってん」。涙を浮かべて母を見つめる月子。柳田國男が説いている「ハレとケ」の世界だなと思えた。ハレという非日常的な世界での衣装―白無垢の花嫁姿は普段の自分をも変身させ、言えない言葉を自然に喋れる世界を描いていると思えた。

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  25歳の月子は退職して一年、犬との散歩など周辺を出歩くことはできるが、電車に恐怖を抱き、社会に復帰できないニートになっている。同僚からストーカーに会ったからだ。自転車置き場でのその同僚の男から突き飛ばされるシーンなど怖さを感じる。母親は娘と一緒に電車に乗って白無垢衣装合わせに行くことを誘う。電車に乗ろうとしても、なかなか前へ進めないでもがく娘月子。プラス思考のおまじない「ツルカメ」をつぶやき続ける。その時、月子の耳元に「ツルカメ ツルカメ ツルカメ」と母親の陽子のつぶやきが聞こえる。二人は共に電車に飛び乗る。やったあ、できたあ――。と抱き合い喜ぶ母娘。とても温かいシーンだ。

  研二やさく(絵沢萠子)と共に食事しながら母親の結婚にふて腐れる娘に「放さない、放さない」と娘月子を抱きしめる母親の陽子。「あんたら目くそ鼻くそや」と敷地内に住む大家のさくから言われる母娘の関係。

Ph211 この映画の人物たちの関係性が陰鬱ではなくカラットと描いているのが気持ち良い。それは食事のシーンが多いということだ。10月4日ラジオ放送のNHK第一の「かんさい土曜ほっと」の中で、大学教授でもある司会者の佐藤誠司氏は「家族の定義は食事を共にすることだ」ということを引用して語っていた。共に食事をすることこそ人を結びつけるということなのだ。

 陽子の結婚に異を唱えず、怒った月子を泊める隣の大家さく。さくは陽子の家にあがり食事もする。しかし、結婚には異を言わず、母娘の微妙なやりとりには足を踏み込まず距離を置く。陽子が勤める村上医師(國村隼)も板前をしていた研二がつくる料理をうまいと言って食べる。そして陽子の結婚に異は唱えない。

 いい加減な若者と思えた母親の結婚相手の研二。おばあちゃんを亡くしたことを月子に語る。「今当たり前に思ってることが、すぐ先で、そうじゃなくなるかもしれんことを、結局死んでしもうてから気づかされて――。もう二度とばあちゃんに会うことも、謝ることもずーっと ずーっと後悔しながら…」と祖母の思いを語る。娘月子がいない家では縁側の下で寝るなどけじめを知っている青年に描いているのが印象的だ。

 母娘の周りの親しい人たちはちょっとした距離を置いて見守る姿勢を描いている。ドロドロした関係を作らない世界。それがこの映画全体を包んでいるように思えた。「おかん」という語感も暗くないのだ。

003_2  先日、五木寛之の講演「いまを生きる力を」を聞いてきた。主催が浄土宗関係だったためか会場には宗教色も感じられたが、講演内容には仏教色が無かった。生命は有限であることを改めて知った講演だった。

  昭和7年9月30日に生まれの五木寛之は82歳を迎えている。「人生をどう生きるかを書いた本はたくさんあるが、60歳以後の生き方を書いた書物は少ない。生命は無限ではない。人間の一番強い欲である生存欲。誰もが迎える逝くといこと。その生存欲を克服、断ち切るには今をどう生きるかだ」と指摘した。

  さらに慈悲という言葉の持つ意味を述べた。印象深い指摘だった。慈と悲をわけて考える。オーム真理教で服役中の息子に会う父と母。慈父―厳格だが優しさと厳しさを持ちながら息子を理解しようとオーム教関連の書物を読破する。息子の思考を理解し、支えようとする。悲母ー父と息子が理論抗争していても、じっと黙って息子の手を握りつづける母親。末期を迎えた時に慈が病院の治療ならば悲は看取る家族の優しさなのだと五木寛之は語った。

Photo 若い女性も多かった五木寛之の講演を聴きながら、いずれ自分にも別れを告げる時が確実にやってくることが胸に浮かんできた。66歳という年齢は、その時が来るのが近いことだ。その時に向けてどう生きていくのか…。限りある生命。今をどう生きるかを問われた講演だ。

 我が家の庭先では雌の夢野と雄の銀太がコンバインで稲狩りをしている様子を眺めている。

  二歳年上の兄が入院している。人工透析を30年近く続けてきたうえでの入院でもある。横浜に嫁に行き、二人の子供がいる一人娘の姪は頻繁に横浜から栃木の総合病院にきて兄を看ている。兄嫁は10年前に他界している。家族は父娘の二人だ。娘が父を看ている。子供のいない私にはうらやましいと思える光景だ。

 自らの生命は有限…。

 映画「おかんの嫁入り」は、生命の限りを知った母親が『嫁入りする』という行為を通して、娘に自分らしく今を生きることを見せる。そして、娘に最後までずっと一緒にいてほしいことを願う。さわやかな感動を私に与えてくれた映画だ。

                                        《夢野銀次》                         

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65歳を迎えて―小津安二郎「東京物語」から

Photo   「世界に先駆けて日本は超高齢社会を迎えた。80歳を超えてからの人生設計を組むことが必要だ」と五木寛之は語る。6月8日放送の阿川佐和子のトーク番組「サワコの朝」においてだ。さらに「80歳からの人生は誰も教えてくれない。今を一つ一つ積み重ねていくことが大切だ」と80歳になった五木寛之は阿川佐和子に淡々と語っていた。

 9月1日で私は65歳を迎えた。「介護保険証」も届き、高齢者の仲間入りとなった。総人口においての65歳上の割合を示す高齢化率が、平成24年(2012)では23.3パーセントを示した。高齢化率が20パーセントを超えれば「超高齢社会」と定義されている。17年後の高齢化率は28パーセントと予測されている。世界に先駆けて日本はどの国も経験していない本格的な「超高齢社会」を迎えてきた。

Tokyo_monogatari_poster_21  介護や介護保険、社会保障費の増加等数ある高齢化社会問題の中で高齢者の「孤立」が問われてきている。核家族化がすすむ中で65歳以上の単身者高齢者がこの30年間で88万人から480万人と急増してきたからだ。

 昨年の平成24年版高齢社会白書の中で「地域社会のなかでの人間関係を含め、地域力や仲間力が弱体化、喪失する中で、社会的孤立や孤立死の問題が出てきた」と地域社会の崩壊を指摘し、「新たな超高齢社会に適合した地域社会の再構築の必要性」が強調されている。

 昭和28年(1953)公開の小津安二郎監督、笠智衆主演の「東京物語」のDVDを図書館から借りて来て観た。戦後から8年がたち、核家族化が進む中で家族の崩壊を描いた優れた作品だと思えた。 「年老いた両親の一世一代の東京旅行を通じて、家族の絆、夫婦と子供、老いと死、人間の一生を冷徹な視線で描いた作品である。今日の核家族化と高齢化の問題を先取りした作品だ」と批評家の評価を待つものではない。

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 この「東京物語」の中で、わたしの胸にズシーンと突き刺さったシーンがラストに出てきた。

 それは、母とみ(東山千栄子)の葬儀が終わった後、長女の志げ(杉村春子)は次女の京子(香川京子)に、母とみの形見の品をよこすよう催促する。そして志げは、とみよりも父周吉(笠智衆)が先に死ぬのが望ましかったと主張し、長男の幸一(佐分利信)もそれに同調する。そして、戦死した次男の嫁、紀子(原節子)以外の子供たちは、葬儀が終わらるとそくそくと帰って行った。父と尾道で暮らす小学校教諭の京子は帰って行った兄や姉の姿勢に憤慨する。紀子は京子に「歳を取れば誰でも自分の生活が一番大切になるものだ」と諭す。その京子も東京に帰る時、義父の周吉に再婚を考えていることを打ち明ける。

Tokyostory2ssss1_2  これらのシーンから母の葬儀の際にそくそく帰ってしまったわたしの姿が見えた。この映画の通りだった。自分の生活を優先させる「わたし」がいたからだ。

 平成23年(2012)、10年おきに行われている英国映画協会の「世界で最も優れた映画50選」で、358人の映画監督が選ぶ(監督部門)で小津安二郎監督の「東京物語」が1位となった。日常の出来事の中で誰もが向き合っていく別れを行間と言葉に思いを込めて、それぞれが持つ孤独を演出する最高傑作としての評価を得ての1位だった。

 若い頃見た時の小津作品は「こんにちわ」などの日常挨拶のセリフが多く、見る気を無くしていた。しかし、日常の挨拶の言葉から人間関係が始まることがようやく最近わかってきた。「おはよう」と言いながら心ではさらに「お元気ですか」ということを追加してく挨拶。

P6210304_2  今から2年半前にこの地に引っ越してきた。自治会は4つの坪から構成されている。江戸期の年貢米を納める集落単位のことを「坪」ということを最近になって知ることができた。葬儀では地域の人が墓の穴を掘る床取り(とことり)という役割が今なお存続してる。さらに全戸総出で用水溝の「堀ざらい」や神社の草むしり等を取り組む。都会暮らしのわたしには、当初戸惑いを感じた。しかし、最近ではこれらの役割や行事を行うことが地域の人々を結ぶ支えになっているのではないかと思うようになってきた。江戸期の農村社会の分野を身近に学ぶ機会を得たと思ってきている。

 「地域社会の崩壊」から「新たな地域社会の構築」を国や地方自治体での施策が進められると思う。超高齢社会では、より社会参加の姿勢が重要になってくる。「生涯学習」を基本に身近な地域社会と向き合い、「栃木のまち」を変えていくとりくみに参加していくつもりだ。 65歳を迎えたわたしの心づもりとしていく。

                             《夢野銀次》

 

 

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地域をともに創る『協働』-栃木県の基本姿勢

6397760845_a6bc7ff8c1_z1 栃木県のNPO団体は約2000団体。その内NPO法人は530団体(全国ではNPO法人数46,000団体)ある。

 一般にNPOの活動は民間の立場で社会的なサービスを提供したり、社会問題を解決するために活動する団体を言う。具体的には地域の高齢者への食事を作って届ける(保健・医療・福祉)、子どもの虐待を防ぐ(子どもの健全育成)、地域の人々の居場所づくりを行う(まちづくり)等があげられて」いる。

 昨年11月に開催された『とちぎ県民協働フェスタ』は今年も11月13日( 火)に栃木県庁舎内で開かれる。NPOや各種団体の活動紹介を通して社会貢献活動への参加を高める場としている。

6397760967_82d93b8346_z1_2 栃木県では昨年より平成27年度にかけて「新とちぎ元気プラン」という安心・成長・環境をともにつくる計画の施策を始めている。その基本姿勢として「多様な主体が協働・創造する“とちぎ”」としている。従来の「行政のみが“公(おおやけ)”を担う」という発想から脱却し、「新たな〝公(おおやけ)”を拓く」という考えで県民、NPO、企業、行政などが連携・協力し、協働で創造することを力点としているのが特徴だ。

Ikiru41_3 都道府県の窓口担当者の目線は上から見ている。行政職員との話の底流には「公平の原則」「特定団体への利益排除」などが横たわっていることを感じてきた。「ともに街づくりをしましょう」と要望しても、行政側は「前例がない」「議員からのお話ならお聞きしましょう」と答える。「この人達、地域のことを考えているのかしら」と半分あきらめて呟いた人もいた。

 しかし、地方分権から行政サービスの見直しが始まり、さらに公共的な課題にとりくむNPOの増加により、公共の担い手が行政だけではないことが明らかになってきた。

 栃木県ではNPO・企業・行政がそれぞれの立場から課題を一緒に考え、解決にむけ目的を実現するため一緒に行動する考えを打ち出している。この基本姿勢を「協働」と位置付けている。(参考・とちぎの協働スタートブック)

Ikiru31 市職員として30年以上務めた市民課長の生きざまを描いた名作、黒澤明監督作品『生きる』(昭和27年度作品)を思い浮かべる。公園で亡くなった市民課長(志村喬)の通夜の席で語る市職員達。『忙しい、しかし俺たちは何もしてはいけないのだ。新しいことをやろうとしてはいけないのだ』と。公園作りを目指し、縦割り行政機構の垣根を一つ一つ取り払っていく市民課長の姿勢。志村喬の凄まじい演技はまさに『生きる』ことを示していた。

 石原東京都知事がある時言った。『都の職員は三(さん)ずだ。一つは休まず。二つは遅刻せず。そして三つめは仕事せずだ』。決まったことしか仕事をしない地方公務員を言い当てている。職員が多忙なのか事務が煩雑なのか分らない。しかし、私が今まで会ってきた職員の中で「住民のため新しく何かをやろう」と気概を持った人は何人いたろうか?

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 栃木県が打ち出している「協働」。住民と直に接している市町村の職員。その人たちは住民へのサービスを職務としている。「もっとこうすれば」「あの団体と相談して進めれば問題の解決につながる」。しかし、そこには「協働」とういう考えではなく、「行政に協力をしてもらうようお願いする」という上からの姿勢、思考がある。まずその思考を払拭していくことが必要だと思える。

 栃木県の提起する「協働」を進めるために行政職員、NPO、企業関連者を含めた中で、新たな公の担い手を育成していく場。それが「とちぎ県民協働フェスタ」だと思い、今年の11月13日(火)に栃木県庁に行ってみよう。

                                   《夢野銀次》

(追記)『生きる』のポスターには元市職員の小田切みきと志村喬が共にブランコに乗っているが、このシーンは映画にはない。おもちゃのウサギを見せながら『課長さんも何か作ってみたら』と若い小田切みきは言う。その時、課長は主婦達からの要望のあった公園を作る決心する。『生きる』決断をする。バックにはハッピバースデーの合唱が流れ渡る。感動のシーンだ。公園は二人によってできたことを意味しているのかナ。

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無畏(むい)のこころ・邪(よこし)まなこころ―観世音菩薩とは?

Main_photo_hondou011 浅草の観音さまと愛称で呼ばれている『浅草寺聖観音菩薩』は秘仏とされている。ただ年に一度、12月13日の午後2時に前立の本尊が御開扉となる。まだ一度も観ていないので、前立ての観音さまを今度拝観するつもりだ。参拝の際には合掌して『南無観世音菩薩』を唱えることとなっている。また本堂内に『施無畏(せむい)の額』が掛けてあるという。それも確かめる。 

 松原泰道著書の『観音のこころ』では『施無畏(せむい)』のことを畏(おそ)Photo_5るること無きを施すといい、意訳すると『怖がらなくてもいい』という安心感を与える自覚のことだと記述し、そのため多くの観音堂には『施無畏(せむい)』の額が掛けられてあると指摘している。

 宮沢賢治のあの有名な『雨ニモマケズ』の中の一節に『南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイイトイヒ』を思い浮かべた。この一節は観音経から出ていたのだ。宮沢賢治記念館に以前訪ねたが、『石灰の効用を広めた』ことを知ったが、観音経を信仰していたとは気が付かなかった。

 我が家の飼っていた猫が最後の時を迎えた時、妻は猫の体をさすりながら『怖がらなくてもいいよ』と言い続けていたな。

 
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 前述の松原泰道の『観音のこころ』で観音経の中の『無畏(むい)のこころ』を以下のように訳してる。

≪観音菩薩は、生死病死の苦悩をはじめ、御身らが遭遇する身心の内外から生ずる畏れに対し『畏れずに行け』と、安らぎと励ましの慈愛と勇気をめざましめる。この菩薩は、しかし、御身らに、自然や人為の災難でたちどころに失しなわれるような、かりそめの幸福や事物や恵みを与えはしないであろう。しかし、御身らが抱く多くの恐怖のおもいに対し、たえず無畏(むい)のこころを施すであろう。無畏のこころを象徴したのが、礼拝の対象となる仏像仏画の観世音菩薩である。象徴や表象でない本質としての観世音菩薩は人々の身心の奥に埋められている純粋な人間性そのものである。≫

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 今から20年以上前、仕事で決算処理方法がうまくいかず苦しんだ時があった。正月返上でやったがどうにもたちいかなくなってしまっていた。1月15日の明け方、妻と公園に行き、ブランコに乗った。ブランコを揺らしながら、『そうだ、素直になろう。素直に向き合って決算処理をしよう』と思った。『邪(よこしま)なこころ、誤魔化そうとする考えがあるから駄目なんだ』とその時、気が付いた。素直な気持ちで事案に向かい合い決算処理を行なった。その結果、誰にも迷惑をかけずに出来上がることができた。その時、観世音菩薩がわたしの心の中に現れていたのかもしれない…。と、今思えてきたのだ。

 9月10日から始まった『都賀33箇所観音霊場めぐり』は悪天候のため日延べとなり、11月3日が最後の観音霊場めぐりとなった。いくつかの観世音菩薩を簡単に記述しておき、最後の霊場めぐりに参加していくことにする。

Photo_7聖観世音菩薩》 観音さまの基本・中心で「正観音」とも呼ばれている。観音さまが阿弥陀如来の化身とする象徴から冠に阿弥陀如来の坐像がある。

《千手観音菩薩》 千本の手を持ち、その掌の一つ一つに眼があり、数珠はじめ経巻、胡瓶、宝珠、鏡、独鈷杵などを持っている。大平町清水寺の十一面千手観音さまはぶどうを持っていた。「手の平に心が宿っている。手には眼がある」と言われている。子供に熱があるかどうか、母親は手の平で子供の額に手をあてる。これが手で看るという行為なのだ。

《馬頭観世音》 漢訳すると馬頭明王(めずみょうおう)とも念怒持明王(ふんぬじみょうおう)という名前だ。その名の通り頭上に馬の頭部をいただき、猛だけしく念怒の相をしている。馬頭観音の怒りの形相は私たちの感情的な怒りと違い、自分の心中にわきあがってくる邪(よこし)まな考えを悲しみ、怒るすがたを表しているという。20年前、私の心中にあらわれた観世音菩薩はこの馬頭観音さまだったのかもしれないな。

                              《夢野銀次》

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兄が励んだ材木店

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  昭和33年(1958)の3月、父に連れられて兄が住み込みで働いている渋谷の材木店に20歳になった兄を迎えに行った。4月から小学4年を迎える9歳の私にとり、この材木店の角に立っている姿がずっと残像として脳裏に焼きついていた。

Photo_2 Photo_4  この時が初めての渋谷だった。兄がオート三輪車で渋谷駅まで荷物を運んだ。その荷台に私が乗っていた。運転する兄の姿は頼もしかった。そして兄との最初のかかわりでもあった。

 大学に入る際には引越しを兄の運転で世田谷区新町にきた。

Photo_5 昔の材木置き場がそのままあった。

この置き場の2階で兄は15歳から住み込み、20歳で郷里に帰り、父がおこなっていた製材業を継いだ。

材木店から道を隔てた向かい側は昔と変わらず東大駒場の運動場だ。当時は運動場が見えたが、今はブロック壁に囲まれ中は見えなかった。

兄は2階の窓から東大駒場の運動場をどういう気持ちで眺めていたのだろうか?

今は確かめる兄はいない。

渋谷から帰りには浅草六区の劇場で大江美智子一座による女剣劇の芝居を父と観た記憶がある。当時の六区街は歩けないほどの大勢の人で賑わっていた。

 もうすぐ44年振りに私も郷里・栃木市に引越し、ユータウンをします。

材木店の前でそっとつぶやいた「さよなら東京」と…。

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