心と体

収穫の秋を迎え、今を生きる―映画「おかんの嫁入り」

Photo  我が家の周りの水田は黄金色に染まっている。収穫の始まった稲穂の田圃。耕運機で代かきが始まり、田植え機によって田植えを行ない、最後はコンバインという機械で稲狩りを行なう。稲穂の生育は一人の機械の操作で終わっていく。広い稲穂の田圃の光景を見ながらどこかに寂しさを感じる。 

Photo_2  ――秋を迎えた。

  菜園から落花生を収穫した。

妻が落花生をゆでてくれた。口に含んだ落花生は柔らかくて甘い。うまい落花生になっている。

   平成22年(2010)作品の「おかんの嫁入り」を図書館からDVDを借りて観る。娘月子(宮崎あおい)と母親陽子(大竹しのぶ)の優しく心温まる世界を描いた作品だ。「おかん」は関西弁で母親のこと。関東では「かあちゃん」と呼ぶ。私は母親のことを「かあちゃん」と呼んでいた。

Img_01_2    監督はこの作品が二作目となる呉美保(お みほ)。因みに三作目「そこのみ光輝く」は今年(2014年)のモントリオール世界映画祭において最優秀監督賞を受賞し、今一番注目されている監督の一人になっている。

  ある雨の降る深夜に金髪のリーゼットの若い男研二(桐谷健太)を家に入れ、娘に結婚することを宣言する母親。母娘のいさかいの中、末期癌である母親陽子は白無垢姿で娘月子に向き合い語る。白無垢姿で語る大竹しのぶの台詞と聞き入る宮崎あおいの表情が感動的だ。

 「残りの時間の中で何をすべきなのかを考えました。私が今すべきことは私の人生を私らしく幸せに生きることであり、それを月ちゃんに見せることによって、月ちゃんも自分の生き方を見つけてもらいたい。そう思いました。月ちゃん、こんな身勝手でわがままで、どうしょうもないお母さんですが、どうか最後の日まで、どうか一緒にいてください。よろしくお願いします。…こういうのいっぺんやってみたかってん」。涙を浮かべて母を見つめる月子。柳田國男が説いている「ハレとケ」の世界だなと思えた。ハレという非日常的な世界での衣装―白無垢の花嫁姿は普段の自分をも変身させ、言えない言葉を自然に喋れる世界を描いていると思えた。

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  25歳の月子は退職して一年、犬との散歩など周辺を出歩くことはできるが、電車に恐怖を抱き、社会に復帰できないニートになっている。同僚からストーカーに会ったからだ。自転車置き場でのその同僚の男から突き飛ばされるシーンなど怖さを感じる。母親は娘と一緒に電車に乗って白無垢衣装合わせに行くことを誘う。電車に乗ろうとしても、なかなか前へ進めないでもがく娘月子。プラス思考のおまじない「ツルカメ」をつぶやき続ける。その時、月子の耳元に「ツルカメ ツルカメ ツルカメ」と母親の陽子のつぶやきが聞こえる。二人は共に電車に飛び乗る。やったあ、できたあ――。と抱き合い喜ぶ母娘。とても温かいシーンだ。

  研二やさく(絵沢萠子)と共に食事しながら母親の結婚にふて腐れる娘に「放さない、放さない」と娘月子を抱きしめる母親の陽子。「あんたら目くそ鼻くそや」と敷地内に住む大家のさくから言われる母娘の関係。

Ph211 この映画の人物たちの関係性が陰鬱ではなくカラットと描いているのが気持ち良い。それは食事のシーンが多いということだ。10月4日ラジオ放送のNHK第一の「かんさい土曜ほっと」の中で、大学教授でもある司会者の佐藤誠司氏は「家族の定義は食事を共にすることだ」ということを引用して語っていた。共に食事をすることこそ人を結びつけるということなのだ。

 陽子の結婚に異を唱えず、怒った月子を泊める隣の大家さく。さくは陽子の家にあがり食事もする。しかし、結婚には異を言わず、母娘の微妙なやりとりには足を踏み込まず距離を置く。陽子が勤める村上医師(國村隼)も板前をしていた研二がつくる料理をうまいと言って食べる。そして陽子の結婚に異は唱えない。

 いい加減な若者と思えた母親の結婚相手の研二。おばあちゃんを亡くしたことを月子に語る。「今当たり前に思ってることが、すぐ先で、そうじゃなくなるかもしれんことを、結局死んでしもうてから気づかされて――。もう二度とばあちゃんに会うことも、謝ることもずーっと ずーっと後悔しながら…」と祖母の思いを語る。娘月子がいない家では縁側の下で寝るなどけじめを知っている青年に描いているのが印象的だ。

 母娘の周りの親しい人たちはちょっとした距離を置いて見守る姿勢を描いている。ドロドロした関係を作らない世界。それがこの映画全体を包んでいるように思えた。「おかん」という語感も暗くないのだ。

003_2  先日、五木寛之の講演「いまを生きる力を」を聞いてきた。主催が浄土宗関係だったためか会場には宗教色も感じられたが、講演内容には仏教色が無かった。生命は有限であることを改めて知った講演だった。

  昭和7年9月30日に生まれの五木寛之は82歳を迎えている。「人生をどう生きるかを書いた本はたくさんあるが、60歳以後の生き方を書いた書物は少ない。生命は無限ではない。人間の一番強い欲である生存欲。誰もが迎える逝くといこと。その生存欲を克服、断ち切るには今をどう生きるかだ」と指摘した。

  さらに慈悲という言葉の持つ意味を述べた。印象深い指摘だった。慈と悲をわけて考える。オーム真理教で服役中の息子に会う父と母。慈父―厳格だが優しさと厳しさを持ちながら息子を理解しようとオーム教関連の書物を読破する。息子の思考を理解し、支えようとする。悲母ー父と息子が理論抗争していても、じっと黙って息子の手を握りつづける母親。末期を迎えた時に慈が病院の治療ならば悲は看取る家族の優しさなのだと五木寛之は語った。

Photo 若い女性も多かった五木寛之の講演を聴きながら、いずれ自分にも別れを告げる時が確実にやってくることが胸に浮かんできた。66歳という年齢は、その時が来るのが近いことだ。その時に向けてどう生きていくのか…。限りある生命。今をどう生きるかを問われた講演だ。

 我が家の庭先では雌の夢野と雄の銀太がコンバインで稲狩りをしている様子を眺めている。

  二歳年上の兄が入院している。人工透析を30年近く続けてきたうえでの入院でもある。横浜に嫁に行き、二人の子供がいる一人娘の姪は頻繁に横浜から栃木の総合病院にきて兄を看ている。兄嫁は10年前に他界している。家族は父娘の二人だ。娘が父を看ている。子供のいない私にはうらやましいと思える光景だ。

 自らの生命は有限…。

 映画「おかんの嫁入り」は、生命の限りを知った母親が『嫁入りする』という行為を通して、娘に自分らしく今を生きることを見せる。そして、娘に最後までずっと一緒にいてほしいことを願う。さわやかな感動を私に与えてくれた映画だ。

                                        《夢野銀次》                         

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65歳を迎えて―小津安二郎「東京物語」から

Photo   「世界に先駆けて日本は超高齢社会を迎えた。80歳を超えてからの人生設計を組むことが必要だ」と五木寛之は語る。6月8日放送の阿川佐和子のトーク番組「サワコの朝」においてだ。さらに「80歳からの人生は誰も教えてくれない。今を一つ一つ積み重ねていくことが大切だ」と80歳になった五木寛之は阿川佐和子に淡々と語っていた。

 9月1日で私は65歳を迎えた。「介護保険証」も届き、高齢者の仲間入りとなった。総人口においての65歳上の割合を示す高齢化率が、平成24年(2012)では23.3パーセントを示した。高齢化率が20パーセントを超えれば「超高齢社会」と定義されている。17年後の高齢化率は28パーセントと予測されている。世界に先駆けて日本はどの国も経験していない本格的な「超高齢社会」を迎えてきた。

Tokyo_monogatari_poster_21  介護や介護保険、社会保障費の増加等数ある高齢化社会問題の中で高齢者の「孤立」が問われてきている。核家族化がすすむ中で65歳以上の単身者高齢者がこの30年間で88万人から480万人と急増してきたからだ。

 昨年の平成24年版高齢社会白書の中で「地域社会のなかでの人間関係を含め、地域力や仲間力が弱体化、喪失する中で、社会的孤立や孤立死の問題が出てきた」と地域社会の崩壊を指摘し、「新たな超高齢社会に適合した地域社会の再構築の必要性」が強調されている。

 昭和28年(1953)公開の小津安二郎監督、笠智衆主演の「東京物語」のDVDを図書館から借りて来て観た。戦後から8年がたち、核家族化が進む中で家族の崩壊を描いた優れた作品だと思えた。 「年老いた両親の一世一代の東京旅行を通じて、家族の絆、夫婦と子供、老いと死、人間の一生を冷徹な視線で描いた作品である。今日の核家族化と高齢化の問題を先取りした作品だ」と批評家の評価を待つものではない。

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 この「東京物語」の中で、わたしの胸にズシーンと突き刺さったシーンがラストに出てきた。

 それは、母とみ(東山千栄子)の葬儀が終わった後、長女の志げ(杉村春子)は次女の京子(香川京子)に、母とみの形見の品をよこすよう催促する。そして志げは、とみよりも父周吉(笠智衆)が先に死ぬのが望ましかったと主張し、長男の幸一(佐分利信)もそれに同調する。そして、戦死した次男の嫁、紀子(原節子)以外の子供たちは、葬儀が終わらるとそくそくと帰って行った。父と尾道で暮らす小学校教諭の京子は帰って行った兄や姉の姿勢に憤慨する。紀子は京子に「歳を取れば誰でも自分の生活が一番大切になるものだ」と諭す。その京子も東京に帰る時、義父の周吉に再婚を考えていることを打ち明ける。

Tokyostory2ssss1_2  これらのシーンから母の葬儀の際にそくそく帰ってしまったわたしの姿が見えた。この映画の通りだった。自分の生活を優先させる「わたし」がいたからだ。

 平成23年(2012)、10年おきに行われている英国映画協会の「世界で最も優れた映画50選」で、358人の映画監督が選ぶ(監督部門)で小津安二郎監督の「東京物語」が1位となった。日常の出来事の中で誰もが向き合っていく別れを行間と言葉に思いを込めて、それぞれが持つ孤独を演出する最高傑作としての評価を得ての1位だった。

 若い頃見た時の小津作品は「こんにちわ」などの日常挨拶のセリフが多く、見る気を無くしていた。しかし、日常の挨拶の言葉から人間関係が始まることがようやく最近わかってきた。「おはよう」と言いながら心ではさらに「お元気ですか」ということを追加してく挨拶。

P6210304_2  今から2年半前にこの地に引っ越してきた。自治会は4つの坪から構成されている。江戸期の年貢米を納める集落単位のことを「坪」ということを最近になって知ることができた。葬儀では地域の人が墓の穴を掘る床取り(とことり)という役割が今なお存続してる。さらに全戸総出で用水溝の「堀ざらい」や神社の草むしり等を取り組む。都会暮らしのわたしには、当初戸惑いを感じた。しかし、最近ではこれらの役割や行事を行うことが地域の人々を結ぶ支えになっているのではないかと思うようになってきた。江戸期の農村社会の分野を身近に学ぶ機会を得たと思ってきている。

 「地域社会の崩壊」から「新たな地域社会の構築」を国や地方自治体での施策が進められると思う。超高齢社会では、より社会参加の姿勢が重要になってくる。「生涯学習」を基本に身近な地域社会と向き合い、「栃木のまち」を変えていくとりくみに参加していくつもりだ。 65歳を迎えたわたしの心づもりとしていく。

                             《夢野銀次》

 

 

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地域をともに創る『協働』-栃木県の基本姿勢

6397760845_a6bc7ff8c1_z1 栃木県のNPO団体は約2000団体。その内NPO法人は530団体(全国ではNPO法人数46,000団体)ある。

 一般にNPOの活動は民間の立場で社会的なサービスを提供したり、社会問題を解決するために活動する団体を言う。具体的には地域の高齢者への食事を作って届ける(保健・医療・福祉)、子どもの虐待を防ぐ(子どもの健全育成)、地域の人々の居場所づくりを行う(まちづくり)等があげられて」いる。

 昨年11月に開催された『とちぎ県民協働フェスタ』は今年も11月13日( 火)に栃木県庁舎内で開かれる。NPOや各種団体の活動紹介を通して社会貢献活動への参加を高める場としている。

6397760967_82d93b8346_z1_2 栃木県では昨年より平成27年度にかけて「新とちぎ元気プラン」という安心・成長・環境をともにつくる計画の施策を始めている。その基本姿勢として「多様な主体が協働・創造する“とちぎ”」としている。従来の「行政のみが“公(おおやけ)”を担う」という発想から脱却し、「新たな〝公(おおやけ)”を拓く」という考えで県民、NPO、企業、行政などが連携・協力し、協働で創造することを力点としているのが特徴だ。

Ikiru41_3 都道府県の窓口担当者の目線は上から見ている。行政職員との話の底流には「公平の原則」「特定団体への利益排除」などが横たわっていることを感じてきた。「ともに街づくりをしましょう」と要望しても、行政側は「前例がない」「議員からのお話ならお聞きしましょう」と答える。「この人達、地域のことを考えているのかしら」と半分あきらめて呟いた人もいた。

 しかし、地方分権から行政サービスの見直しが始まり、さらに公共的な課題にとりくむNPOの増加により、公共の担い手が行政だけではないことが明らかになってきた。

 栃木県ではNPO・企業・行政がそれぞれの立場から課題を一緒に考え、解決にむけ目的を実現するため一緒に行動する考えを打ち出している。この基本姿勢を「協働」と位置付けている。(参考・とちぎの協働スタートブック)

Ikiru31 市職員として30年以上務めた市民課長の生きざまを描いた名作、黒澤明監督作品『生きる』(昭和27年度作品)を思い浮かべる。公園で亡くなった市民課長(志村喬)の通夜の席で語る市職員達。『忙しい、しかし俺たちは何もしてはいけないのだ。新しいことをやろうとしてはいけないのだ』と。公園作りを目指し、縦割り行政機構の垣根を一つ一つ取り払っていく市民課長の姿勢。志村喬の凄まじい演技はまさに『生きる』ことを示していた。

 石原東京都知事がある時言った。『都の職員は三(さん)ずだ。一つは休まず。二つは遅刻せず。そして三つめは仕事せずだ』。決まったことしか仕事をしない地方公務員を言い当てている。職員が多忙なのか事務が煩雑なのか分らない。しかし、私が今まで会ってきた職員の中で「住民のため新しく何かをやろう」と気概を持った人は何人いたろうか?

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 栃木県が打ち出している「協働」。住民と直に接している市町村の職員。その人たちは住民へのサービスを職務としている。「もっとこうすれば」「あの団体と相談して進めれば問題の解決につながる」。しかし、そこには「協働」とういう考えではなく、「行政に協力をしてもらうようお願いする」という上からの姿勢、思考がある。まずその思考を払拭していくことが必要だと思える。

 栃木県の提起する「協働」を進めるために行政職員、NPO、企業関連者を含めた中で、新たな公の担い手を育成していく場。それが「とちぎ県民協働フェスタ」だと思い、今年の11月13日(火)に栃木県庁に行ってみよう。

                                   《夢野銀次》

(追記)『生きる』のポスターには元市職員の小田切みきと志村喬が共にブランコに乗っているが、このシーンは映画にはない。おもちゃのウサギを見せながら『課長さんも何か作ってみたら』と若い小田切みきは言う。その時、課長は主婦達からの要望のあった公園を作る決心する。『生きる』決断をする。バックにはハッピバースデーの合唱が流れ渡る。感動のシーンだ。公園は二人によってできたことを意味しているのかナ。

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無畏(むい)のこころ・邪(よこし)まなこころ―観世音菩薩とは?

Main_photo_hondou011 浅草の観音さまと愛称で呼ばれている『浅草寺聖観音菩薩』は秘仏とされている。ただ年に一度、12月13日の午後2時に前立の本尊が御開扉となる。まだ一度も観ていないので、前立ての観音さまを今度拝観するつもりだ。参拝の際には合掌して『南無観世音菩薩』を唱えることとなっている。また本堂内に『施無畏(せむい)の額』が掛けてあるという。それも確かめる。 

 松原泰道著書の『観音のこころ』では『施無畏(せむい)』のことを畏(おそ)Photo_5るること無きを施すといい、意訳すると『怖がらなくてもいい』という安心感を与える自覚のことだと記述し、そのため多くの観音堂には『施無畏(せむい)』の額が掛けられてあると指摘している。

 宮沢賢治のあの有名な『雨ニモマケズ』の中の一節に『南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイイトイヒ』を思い浮かべた。この一節は観音経から出ていたのだ。宮沢賢治記念館に以前訪ねたが、『石灰の効用を広めた』ことを知ったが、観音経を信仰していたとは気が付かなかった。

 我が家の飼っていた猫が最後の時を迎えた時、妻は猫の体をさすりながら『怖がらなくてもいいよ』と言い続けていたな。

 
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 前述の松原泰道の『観音のこころ』で観音経の中の『無畏(むい)のこころ』を以下のように訳してる。

≪観音菩薩は、生死病死の苦悩をはじめ、御身らが遭遇する身心の内外から生ずる畏れに対し『畏れずに行け』と、安らぎと励ましの慈愛と勇気をめざましめる。この菩薩は、しかし、御身らに、自然や人為の災難でたちどころに失しなわれるような、かりそめの幸福や事物や恵みを与えはしないであろう。しかし、御身らが抱く多くの恐怖のおもいに対し、たえず無畏(むい)のこころを施すであろう。無畏のこころを象徴したのが、礼拝の対象となる仏像仏画の観世音菩薩である。象徴や表象でない本質としての観世音菩薩は人々の身心の奥に埋められている純粋な人間性そのものである。≫

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 今から20年以上前、仕事で決算処理方法がうまくいかず苦しんだ時があった。正月返上でやったがどうにもたちいかなくなってしまっていた。1月15日の明け方、妻と公園に行き、ブランコに乗った。ブランコを揺らしながら、『そうだ、素直になろう。素直に向き合って決算処理をしよう』と思った。『邪(よこしま)なこころ、誤魔化そうとする考えがあるから駄目なんだ』とその時、気が付いた。素直な気持ちで事案に向かい合い決算処理を行なった。その結果、誰にも迷惑をかけずに出来上がることができた。その時、観世音菩薩がわたしの心の中に現れていたのかもしれない…。と、今思えてきたのだ。

 9月10日から始まった『都賀33箇所観音霊場めぐり』は悪天候のため日延べとなり、11月3日が最後の観音霊場めぐりとなった。いくつかの観世音菩薩を簡単に記述しておき、最後の霊場めぐりに参加していくことにする。

Photo_7聖観世音菩薩》 観音さまの基本・中心で「正観音」とも呼ばれている。観音さまが阿弥陀如来の化身とする象徴から冠に阿弥陀如来の坐像がある。

《千手観音菩薩》 千本の手を持ち、その掌の一つ一つに眼があり、数珠はじめ経巻、胡瓶、宝珠、鏡、独鈷杵などを持っている。大平町清水寺の十一面千手観音さまはぶどうを持っていた。「手の平に心が宿っている。手には眼がある」と言われている。子供に熱があるかどうか、母親は手の平で子供の額に手をあてる。これが手で看るという行為なのだ。

《馬頭観世音》 漢訳すると馬頭明王(めずみょうおう)とも念怒持明王(ふんぬじみょうおう)という名前だ。その名の通り頭上に馬の頭部をいただき、猛だけしく念怒の相をしている。馬頭観音の怒りの形相は私たちの感情的な怒りと違い、自分の心中にわきあがってくる邪(よこし)まな考えを悲しみ、怒るすがたを表しているという。20年前、私の心中にあらわれた観世音菩薩はこの馬頭観音さまだったのかもしれないな。

                              《夢野銀次》

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兄が励んだ材木店

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  昭和33年(1958)の3月、父に連れられて兄が住み込みで働いている渋谷の材木店に20歳になった兄を迎えに行った。4月から小学4年を迎える9歳の私にとり、この材木店の角に立っている姿がずっと残像として脳裏に焼きついていた。

Photo_2 Photo_4  この時が初めての渋谷だった。兄がオート三輪車で渋谷駅まで荷物を運んだ。その荷台に私が乗っていた。運転する兄の姿は頼もしかった。そして兄との最初のかかわりでもあった。

 大学に入る際には引越しを兄の運転で世田谷区新町にきた。

Photo_5 昔の材木置き場がそのままあった。

この置き場の2階で兄は15歳から住み込み、20歳で郷里に帰り、父がおこなっていた製材業を継いだ。

材木店から道を隔てた向かい側は昔と変わらず東大駒場の運動場だ。当時は運動場が見えたが、今はブロック壁に囲まれ中は見えなかった。

兄は2階の窓から東大駒場の運動場をどういう気持ちで眺めていたのだろうか?

今は確かめる兄はいない。

渋谷から帰りには浅草六区の劇場で大江美智子一座による女剣劇の芝居を父と観た記憶がある。当時の六区街は歩けないほどの大勢の人で賑わっていた。

 もうすぐ44年振りに私も郷里・栃木市に引越し、ユータウンをします。

材木店の前でそっとつぶやいた「さよなら東京」と…。

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