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カエルの石像がある湧水池―栃木市「丸沼長瀞公園」

Photo_3  「昭和55年頃、ここに(今泉一丁目)に越してきた時、カエルの鳴き声にびっくりしたわ。牛みたいにモウ、モウとそれは鳴き声が凄かったのよ」と以前に従姉妹が語ってくれていた。

  「モウ、モウ」と鳴くカエルは赤ガエルに属する食用ガエルの「ウシガエル」ではないかと思える。湿地帯や沼地に生息するカエルだ。このあたりにはたくさんの赤ガエルやウシガエルが生息していたのだ。

  公園の一番奥にある湧き水のある湧水池。地下水がボコボコと湧いている。その脇に水神社とカエルの石像が鎮座する「丸沼長瀞(まるぬまながとろ)公園」。東武日光線新栃木駅から東方、約2キロにある栃木市今泉一丁目と大宮町との境目に公園がある。近くには大宮北小学校や大宮城址である大宮神社もある所だ。

Photo_4   湧き水は公園内4カ所からポンプによって汲み上げられ、丸沼・長瀞を辿りながら県道44号線栃木二宮線(通称小金井街道)の脇を通り、赤渕川になってうずま川に流れ注いでいる。

   鎮座する1メートル四方のカエルの石像の台座裏側にはこう彫られてある。「奉納 これは平成6年度より行われた丸沼長瀞水盾環再生下水道モデル事業に依り 以前から丸沼中央の島にあった水神社を現在地に移転安置したものである

 平成6年11月吉日

 今泉町生活環境整備対策委員会 会長秋間恒一他有志一同」

   カエルがたくさん生息した丸沼。沼の中央にあった島に水神社があったのだ。「カエルは水神さまを守っているのか?それとも沼の主としてのカエルを供養するために建立したのか?」と勝手な想いをしてみた。いずれ地元の古老からお話しを聴いていきたい。

Photo_5  カエルの石像に彫刻されている「丸沼長瀞水循環再生事業」は平成19年度に環境省がまとめた「環境用水の導入事例集」全国47カ所の事例の中で紹介されている。

  水環境改善の事例集の冒頭で、環境省は自治体担当者向けにまとめたと記述している。「社会経済の変化を背景に、水環境が急激に変化し、河川や湖沼の水質汚濁、生態系への悪影響、湧水の枯渇、河川流量の減少、親水性の低下など問題が生じた。このため環境基準の設定、排水規制、生活排水対策などを講じた結果、水質が向上し、また、環境整備により水辺地の環境が改善した地域がある」とし、「問題が引き続き顕在化している水域も存在し、これらの地域では水環境の回復を行い、魅力ある水環境づくりが求められている」と指摘を行い「主に自治体が管理する河川、水路や用水など身近な水域を対象に、河川、水路、用水など水環境を改善し、よりよくするための一手法である環境用水の導入事例についてまとめたもの」と主旨を記述している。

  北は北海道から青森、富山、東京三鷹市、九州など全国47カ所、水環境改善実施例の紹介事例が記載されている。その中で「栃木市丸沼長瀞公園」は栃木県で唯一の事例紹介として扱われている。栃木市在住の私にとり誇りに思えた。

049_2  この事例紹介の中で丸沼近辺の歴史が書かれてある。「丸沼長瀞公園は戦後30年代ごろまでは、こんこんと清水が湧き、満々と水をたたえた沼地及び数十町歩に及ぶ、水田を潤す用水掘であり、夏は子供の水遊びの場として親しまれていた」とかつての様子が記述されている。

  今泉町に実家のある私の友人は当時(昭和30年前後)の丸沼のことを「夏は私たち子供の水遊びの場所だった。広い丸沼の真ん中には中州(島)があり、そこにいくのには沼がとても深かったことを憶えている。中学生でそれを感じたのだから。小金井街道が左に大きくカーブする鯉沼商店の前あたりの水辺が子供たちの一番の水遊びの場所だった。水はとても澄んでいたわね」と往時を振り返って語ってくれた。

Photo_10  事例には「昭和50年代から住宅戸数の増加により地下水は下がり、生活雑排水が流入し悪臭を放つなど環境悪化の沼となる。昭和56年(1981)の末に今泉町生活環境整備対策委員会が中心となり周囲の自治会とともに住民の署名を集め市当局に環境改善の陳情を行った」と記述されている。その後も、住宅は増え続け、かつての丸沼・長瀞の清流はますますどぶ川と化し、付近の人たちは寄り付かなくなり、荒れ放題となってしまっていたとしている。

  そして陳情から13年後の平成6年(1994)から9年度(1997)にかけ、国土交通省と栃木市の共同事業として「水循環再生下水道モデル事業」として丸沼長瀞公園の整備工事が開始された。開始された経緯については事例に記載がなく分からない。かつての丸沼長瀞の姿を取り戻すことを目標に整備工事が始まり(初期費用3億6千万円)、平成9年に湧水からの導入が開始され整備工事が終了したとしている。

Photo_7  整備後の特徴として、沼の水と生活排水を分離するため長瀞の脇に整水溝を造り、生活排水をそこに流入させている。また湧水が不足していたため、公園内に地下水を汲み上げるようにしたとしている。これは以後の栃木市における巴波川や県庁掘川の整備工事にも見られてくる。

  事例には整備後の公園の維持管理について特徴点をあげている。「平成9年の事業完成時において、地域住民の要望で整備が行われたため維持管理を市と分担することになった。地域住民による『管理委員会』が設置され、市と公園管理内容を分担し、委託契約を締結した。内容は栃木市は水路清掃、ポンプ・修景施設点検、植栽メンテナンスを行う。住民の管理委員会は清掃、除草、草花植え込み管理となっている。この委託契約は平成14年度から栃木市が制度導入しているアダプト制度のさきがけとなった」と事例には記述されている。今でも従姉妹は毎月一回自治会の除草作業に参加している。 

Photo_12   ここに出てくる「アダプト制度」とは何か?ネットで調べていくと、英語では「養子縁組をする」という意味合いがあり、公共財を地域で引き受けるといったい意味合いの制度。つまりは行政が、特定の公共財(道路、公園、河川など)について市民や自治会・域団体やNPO法人などと定期的に美化活動を行うよう契約する制度のことをいうことが分かった。

  この「アダプト制度」で栃木市が美化活動を取り組んでいる公園・河川のことが知りたく、8月18日、栃木市役所の担当課である河川緑地課を訪ねた。「コピーはご遠慮ください」とアダプト制度を契約している公園河川と地域団体が記載されている一覧表を窓口で渡された。ノートに公園名を筆記した。平成25年度は28公園、33団体と4名と最終集計表に記載されている。 

Photo_14  「第二公園、うずま公園、栃木市総合運動公園、永野川緑地公園。皆川城址公園」など地域団体と美化運動を取り組んでいることが分かった。しかし、「?」無いのだ。丸沼長瀞公園の名前が。「一覧表に記載がないことは契約をしていないことです」との答えだ。「環境省の事例集が間違っているのですか?」と尋ねると「年度が19年度ですから、そのままなのですね。役所のネットではよくあることですよ」との答えだ。市担当者にインターネットで環境省事例集の「丸沼長瀞公園」を打ち出してもらい、文面の確認と環境省への問い合わせを要請した。「公園維持管理制度、アダプト制度のさきがけと記載されているから、モデル事業として記述したのでしょう」との答えだった。その時は「さきがけなのか」と頷いたが、どうも市職員の姿勢にしこりが残った。
  環境省水・大気環境局水環境課が全国の自治体担当者向けに発信している「環境用水の導入事例集」の中の『栃木市丸沼長瀞公園』記述の中において、「住民側とアダプト制度委託契約をしていない」と簡単に否定されたのだ。話をしながら市担当者は事例集を初めて見たことがわかる。
「地域住民と協働でつくる街づくり」を鈴木俊美市長が掲げている。「アダプト制度」は地域住民と市側と協働事業の最先端のとりくみだと思えるのだが、残念な気がした。今も毎月一回、除草作業を続けてきている。環境省が地域住民と共に維持管理をしていることを全国に紹介し、高い評価を行なっている「栃木市丸沼長瀞公園」。委託契約をしていなければ「丸沼長瀞公園管理委員会」と再度委託契約を市側から働きかけていくべきではないかと思えたのだ。

Photo 栃木市街地を流れる巴波川と思川の間には杢冷川(もくれいがわ)や赤渕川が流れている。このあたり、都賀町・家中・合戦場・大塚・総社・大宮・今泉・平柳・仲仕上一帯は古代から沼地・湿地帯だとされている。小倉堰から西方・都賀を流れる思川は右にカーブして壬生から流れてくる黒川と合流し、小山を通って渡良瀬川に合流していく。その思川が右にカーブする金崎付近から総社にかけて古代、思川は氾濫し右岸南にあたるこの一帯に濁流となって流れ込むことがたびたびあったと考えられる。その濁流が伏流水となり湧き水となり湧水池、川となって流れているのではないかと思えてくる。

  丸沼長瀞公園の湧水も思川の伏流水から生まれてきている湧き水なのだと思う。丸沼長瀞公園からの湧き水は赤渕川に合流する。赤渕川は農業用かんがい排水事業として整備され、巴波川に注いでいる。

  湧き水はずーと昔からの歴史を私に語ってくれる。丸沼の湧き水を見て、これからも栃木市周辺に今も残る湧水地や沼を訪ねていこうと思っている。                         

 ≪関連リンク先・環境省了承済≫

 環境省「環境用水の導入」事例集~魅力ある身近な水環境づくりにむけて

 18 栃木県 栃木市丸沼・長瀞公園

 

                                          《夢野銀次》

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満開の宮の桜堤を歩く―栃木市宮町永野川沿い

009 「太平山の桜は古いしなあ」「宮の町の桜、土手づたいできれいだぜ。第一、車が通らねえんだ」「へえー、今度行ってみっかあ」とある時乗ったバスの後ろから話し声が聞こえた。

宮の桜? 私も聞いたことがなかった。

 4月3日(木)小雨の中、皆川城址のある皆川公民館に車を走らせた。栃木市老人クラブ、健康ウオーキングで「満開の宮の桜と皆川城址公園の眺望」に参加するためだ。

015 「明日はもっと雨が降るようですので本日、宮の桜堤を歩きます」と幹事の挨拶。

参加者3分の2の女性が占める中、ぞろぞろと若い高齢者40人は歩き始めた。

 皆川城内の東宮神社の参拝と本殿の彫り物を見る。5月には流鏑馬が行われるとのこと。永野川に架かる対嶺橋(たいりょうばし)渡る。

「冬の永野川には水がないんですね」と先生に言ったら、「永野川は伏流水で川底の下を流れているんだ」と教えてもらったことを想い出した。

006_2 対嶺橋を渡り左折すると、左側に栃木ボーイズの室内練習場が見えた。「高校野球をやるなら中学から硬球でやってないとレギラーはとれないんだな」と誰かが大きな声で話していた。高校から硬球を握る場合、肩作りから始めるため時間がかかるということだ。佐野日大の田嶋投手は鹿沼ボーイズ、竹村遊撃手は小山ボーイズだったな。

 東北道の下を歩き、すぐに左折した。永野川の土手に着いた。

 008_3  「これが宮の桜堤か!」

栃木の観光案内では隠れた桜の名所として、約1.5キロメートルの堤に桜の木が500本植えられていると紹介されている。

 「最初は皆川新町の方で植えたんだ。市は駄目だと言ったけど、議員の力で実現したんだ。それからだよ、宮町でも桜を植え始めたのだ」と後ろからわが町こそを喋る参加者もいる。約40年位前に桜の苗木を植え始めたそうだ。

024_3  車の通らない桜並木の土手は気持ちが良い。

晴れていたらもっと鮮やかに桜がみえるだろうなあと思える。

  宮町に架かる宮の橋。

売店が一軒出ているが、本日は休みとなっている。車で来るなら、この宮の橋付近に停めることができる。

017_2 この宮の橋を渡り、少し上流に行くと、天然のスケート場があった。

「2,3年前までスケート場、やっていたよ」と教えてくれた。お袋からスケート靴を買ってもらって、自転車で通ったスケート場。昼近くにはリンクの氷の表面がグジョグジョになってしまったことを思い出す。

 宮の橋を渡り、左折して反対側から桜堤を見る。

023  荒宿の遺跡古墳と市営のお墓を眺め、皆川公民館を目指す。山の上まで続く墓石群。

 「仏さんには眺めが良いと思えるけどお墓詣りが大変だわ」と女性の声が聞こえた。階段を上る己の年齢と躰を見つめる生活の実感が出る。

037

  途中に持明院の「しだれ桜」を眺める。「栃木まちを売り出すには三大名僧ですよ」と「下野の動乱」を執筆した大森隆司氏がいつか講演で述べていた。

 「円仁こと比叡山延暦寺座主慈覚大師は栃木市になる岩舟町、日光開山の勝道上人は栃木市都賀町、皆川広照の叔父で真言宗智山派総本山京都智積院開基の玄侑は栃木市皆川城内町、この3人の名僧のゆかりのまちとしての栃木市をPRしたらどうですか」と煽っていた。

≪本日のコース≫

皆川地区公民館…東宮神社…対嶺橋…宮の桜・宮の橋…荒宿B古墳群…持明院…皆川地区公民館

  皆川地区公民館に到着するころには雨足が強くなってきた。よって皆川城址見学は取りやめとなった。ウオーキングとお酒のない花見は健康に良いと改めて実感した。

                   《夢野銀次》 

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神木・霊石の中に鎮座する「鹿島神宮」

Photo_2 鬱蒼と覆われた樹木の森の中に鹿島神宮は鎮座している。70ヘクタール(約21万坪、東京ドーム15個分)を誇る広大な森は「鹿島神宮樹叢(じゅそう)」と言われている。杉をはじめタブノキ、クスノキなど老樹木がそそり立っている。

 「どのくらいの樹木が生育いているの?」と尋ねると案内のガイドさんも、「600種類と言われているが樹木の本数は分からないですね」と答えてきた。皇紀元年(紀元前660年)創建された鹿島神宮はそれだけ深い森と一体になっている神社だと感じた。平成26年、新年早々の1月8日に栃木県シルバー大学南校のOB・健康クラブバスツアーで初めて鹿島神宮を参拝してきた。鹿島神宮では現地観光ボランティアのガイドを受けての参拝と境内の散策だった。 

Photo_28  3度の温度差があるという境内に入るとひんやりとした冷気が漂い、より以上の寒さを感じた。まず仮殿、拝殿の参拝を行なう。

  鹿島神宮は香取神宮と並び朝廷から崇敬されてきた神宮だ。その背景には藤原氏を中心としたヤマト政権における蝦夷制覇に向けての軍事的拠点でもあったからだと思える。

 古地図を見ると鹿島神宮一帯は内海と太平洋に挟まれた台地になっている。古代関東平野の北にある上野・下野・常陸の山々から流れる大河は常総・下総の平野に達して湿地帯を形作り、太平洋へと続いていく。流れくる大河によって関東東部には現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に香取海という内海が広がり作られていた。この香取海は北の蝦夷進出の輸送基地として機能したとみられている。東海沿岸部からの回漕や東山道・東海道から陸送された物資は香取海を通して鹿島・香取神宮に運ばれ、北に向けて軍事上・交通上の重要な位置を占めていたからだ。

Photo 鹿島神宮の御祭神は武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ)、近くのペアでもある香取神宮の御祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)でいずれも出雲の国譲りに登場する軍神である。軍神を祀ることはヤマト政権の姿勢でもあった。

 鹿島神宮の本殿は北を向いて建てられている。北方、蝦夷への進出に向けて配置されていることを現しているからだ。さらに律令国家時代には常陸国鹿島郡として郡全体を神領として有すなどヤマト政権の軍事上重要な位置を示し、国家の厚い庇護を受けていた。さらに、この地で生まれたという中臣鎌足は鹿島神宮を氏神として春日神社を建立して、藤原氏との厚い関係となっている。

Photo_15 武人の神としても鎌倉・江戸期には武家によって祀られてきている。桜門は徳川水戸藩祖の頼房公によって寛永11年(1634)に奉納されている。当初は白木の門が何時の時代からなのか朱色の門になっているとガイドさんからの説明があった。朱色の門は徳川将軍を迎える門であることをも意味している。

 本殿は元和5年(1619)に二代将軍徳川秀忠によって奉納建立しされている。国の重要文化財となっている。正月用のテントでよく見ることができなかったが、わずかに社殿や茅葺の屋根を見ることができた。あざやかな極彩色豊かな華麗な容姿していたのが目に残った。 

Photo_16  本殿の後ろには樹齢1200年の杉の大木が神木としてそそり立っている。さらには拝殿の前にも高くそびえる樹齢600年以上の杉の木が立っていた。この杉の木の真ん中には「しいの木」が宿っている。杉の木を伝わって、しい木が根本まで続く。杉の木としいの木がそびえている。大変めずらしい樹木だと思い眺めた。

 拝殿から奥参道を歩き奥宮に向かう。この奥参道では5月に「流鏑馬神事」を行なっている。

 Photo_2
  奥
参道の左側が見物席となり流鏑馬が走る。右側の参道の土は盛り上がっている。馬が走りやすい状態を作るため盛り土を施すからだ。ガイドさんから流鏑馬神事の写真を見せてもらったが、的が大きく見えた。豊作祈願の流鏑馬神事ではないかと思えた。武士の流鏑馬は的が小さいからだ。

Photo_17  奥宮は元の本殿で慶長10年(1605)に家康によって奉納建立されている重要文化財の社殿。秀忠が本殿奉納造営をすることにより、現在の地に遷っている。奥宮の社殿は地味な作りとなっている。家康の性分を現していると思える。

Photo_8  奥宮の参拝では二拝二拍手一拝の際に二拍手は音を立てないとされている。「うるさいからでしょ」とガイドさんは述べていた。因みに二拝は人間同士で頭を下げるが、神様にはそれ以上に敬意を示すことから二拝となる。二拍手は自分の願いを神様に伝え、一拝して自分のお祈りを終わるにあたり感謝の意味を込めるとされている。

  奥宮の社の裏側には本殿の下まで根の張った老齢の御神木・杉の老木が立っている。この樹木に寄り添い願いごとを行ない、力を授かるということが参拝者の習わしなっていると言う。さっそく参加者一同、御神木に寄り添い、願いごとを行ない、パワーを授かる。「両手を広げて御神木に抱きついて願いをする人もいますよ」とガイドさんが語ってくれた。 

Photo_20 今年に入ってから体に感じる震度2から3の地震が起こっている。千葉県東方沖周辺の「スロースリップ」とういう地殻変動によるとされている。先の東日本大震災では鹿島神宮の大鳥居が崩れた。平成26年の6月には石の鳥居から杉の木でできた高さ10.2mの大鳥居が完成する。身代わりに石の大鳥居は崩れたのか?

 地震を起こすのは「大なまず」。地表から抑えるのが「要石」として鹿島神宮の奥深い森の中にある。神は樹木や岩に宿る。神が鎮座する社ができる前は樹木や岩、とりわけ太陽がそそぐ岩にこそ神が宿るとされた「磐座(いわくら)」信仰。大地震を何とか抑えて欲しい。

Photo_4 中世の山城の本郭のそばにあった大きな岩石。鹿島神宮の「要石」は小さい。しかし、地下深くどのくらい埋まっているか分からない石とされている。香取神宮の要石の先端が凸状で鹿島神宮の要石の先端が凹状になっている。両神宮は下の台地で繋がっているのではないかと思える。この凹状の要石めがけて一円玉を投げて凹の中に入ったら願いは叶うと云う。早速一円玉を投げた。入らなかったです。

Photo_23 さらに境内には「さざれ石」が展示されていた。~さざれ石の巌(いわを)となりての「君が代」に詠われている「さざれ石」。歌詞のさざれ石は細かい石が長い年月を経ていく中で巌(いわお)となった状態を呼ばれている。

 石灰質の角礫岩(かくれきがん)と呼ばれる小さなさざれ石(石灰岩)が雨水で溶解して生じる粘着力の強い乳状液で、少しずつ小石を凝結して、固まってできる岩のことを言うそうだ。

  「何年もかけて大きな巌となるのかな」と思えた。君が代の君とは天皇ではなく我々日本人を指しているのではないだろうか? 一人一人の小さな繋がりが大きな力となる。そんな国歌「君が代」でありたいと願う。

Photo_25 「龍が水を飲み来ていると見えませんか」とガイドさんに言われ、確かに枝の張った松の木が龍の頭に見えてきた。

 東側にあるこの御手洗池はかつての鹿島神宮の参拝入口であった。船で東の香取海を航行して鹿島神宮に到着して参拝する際に禊を行なう池であった。現在でも大寒には池に入り大禊が行なわれている。男は褌一つで池に入水して禊を行なうという。白の襦袢を着て婦人も参加している。寒いが池からあがった時はぽかぽかしているだろう。

 ガイドさんの説明では池の手前が深く奥が浅く見える。逆から見ると今度は奥の水面が浅く、手前が深く見える。澄んだ池。霊水だ。

Photo_10 御手洗池に入る手前に芭蕉の句碑が建っていた。

 「此松の実生せし代や神の秋」

  貞享4年(1687)8月、芭蕉が鹿島神宮の「神前」で詠んだ句。「実生え」は実生(みしょう)のこと。種子から発芽し、生育した植物。近くには松の木がなかったような気がする。この句碑は明和3年(1766)に建てられたと云うから大変古い句碑となっている。

 句碑のそばには参拝者からの俳句の受け入れ小箱がある。3か月ごとに箱を開け、句を公表していると言う。俳句を詠む人、楽しいだろうな。

Photo_6 現在、地域にある神社には複数の神が祀られている。「当神社は00神社の00を合祀しています」と記載されている案内を見る。それがどうしてなのか分からなかった。あるブログから明治39年(1906)の神社合祀令のことを知った。そのブログには明治以前は集落ごとに大小さまざまな神社があり、それぞれに鎮守の森があった。しかし明治の神社合祀令で大きく減少した」と記述されていた。

 明治政府は神社合祀によって神社を行政村1つにつき1つだけ整理することにより、土着の信仰を国家神道に組み込むため行われたという。大正3 年(1914)までに20万の神社のうち7万社が取り壊された。同時にそこにあった鎮守の森は伐採された。一説には鎮守の森に立っているクスノキの大木から生まれる樟脳等の利権獲得などが目的だったという説がある。神が宿る鎮守の森は人的にさらに狭められていく。

 Photo_7 幕末、22歳の吉田松陰は嘉永4年(1851)の12月19日に水戸を訪れ、翌年嘉永5年(1852)正月19日まで滞在した。その間に水戸藩の会沢正志斎や豊田天功らと会談・交流し、活ける学問をしていった。「東北遊日記」では正月6日に吉田松陰は鹿島神宮を参拝し、2人の祠官に会っている。しかし松陰は「齷齪(あくせく)たる人物で話し合う者ではない」と切り捨てている。国防の見地から実地調査としての旅行と称しながら実質はその土地の人物と会談し学ぶことを目的とした旅だった。会談への厳しい姿勢を感じる。後に松下村塾で「新論」を教材としたことから会沢正史斎と中身について相当論議したことが伺える。水戸から長州へと攘夷思想は進んでいった。

 北への備えとしての「鹿島神宮」は後期水戸学の攘夷策に影響を与えたのか?検証していってみたい。次は水戸だなと境内を歩きながら思った。

 鹿島神宮の参道は堅く整然と続いている。森は鬱蒼として老樹木が立ち並び、原生林の奥は何も見えてこない。残念なことには3メートルの長刀が展示されている「宝物館」を観ることができなかったことだ。いずれ機会があったならば再度参拝をして、境内をゆっくり歩いていきたい。

                          《夢野銀次》

 

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深澤家土蔵から甦る「五日市憲法草案」

Photo   立川駅から青梅線に乗り換え、拝島駅でさらに五日市線に乗り換えて武蔵五日市駅に下車した。駅の北側には「都指定史跡深澤家屋敷跡3100m」と記載された案内表示板が建てられてあった。途中の案内表示板で確認をしながら西多摩の山あいの道を歩いて45分。「五日市憲法草案」が発見された土蔵のある深澤家跡地に着いた。以前「五日市憲法見学会バスツアー」で参加した際には、34人乗りバスでは深澤家跡地には行けないと地元の解説者にいわれ、深澤家土蔵を見ることが中止となった。

  「土蔵を見ないことには」その想いで駅から歩いて来たのだ。「途中の穴澤天神社までならバスで来ることができる。そこから20分歩けば深澤家跡に来ることができたな」と感じた。栃木駅を朝の7時33分に立ち、午前11時35分到着、4時間かかった。それでも深沢川をながれる山峡の深沢集落の家々は静かな佇まいをしていた。いくつかの家の軒先には懐かしい「まき束」が積まれていた。暖房に使うのかなと思えた。深澤家跡地は山道の一番奥、行き止まり所にあった。

File00561  昭和43年(1968)8月27日に東京経済大学教授色川大吉とゼミ生徒達によって朽ちかけた土蔵の扉が開けられた。土蔵の中の二階にあった箪笥や行季(こうり)、長持ちなどの中から古文書1万点が発見された。「日本帝国憲法 陸陽仙台千葉卓三郎草」と毛筆で書かれた24枚の和紙は行李の中に古びた小さな風呂敷包まれていた。発見した色川ゼミグループはこの草案を「五日市憲法草案」と名付けた。草案作成者は千葉卓三郎であることも分かった。86年間、土蔵の中で眠っていたこの「五日市憲法草案」は私擬憲法として高い評価を受けている。

  発見された昭和43年という年は明治100年祭を政府はうたっていたが、沖縄返還をめぐり10月、11月には佐藤訪米阻止闘争が羽田事件で激化し拡大を始めた年である。そして三派全学連から学園闘争としての全共闘運動に様変わりしてゆく年でもあった。

201204161329161 「五日市憲法草案は、人権の規定、平等権、教育を受ける権利と受けさせる義務、地方自治などで、今の憲法と同じかあるいはそれ以上に明確な考え方を憲法草案に書き込んでいる」と鈴木富雄著「今、五日市憲法草案が輝く」に記述され、内外に高い評価を受けている憲法草案と明記されている。

  起草者、無名の千葉卓三郎について発見した色川ゼミは追跡調査を行い明らかになった。千葉卓三郎が五日市小学校の前身の「勧能学校」の正式な教員になるため明治14年(1881)に書いた一枚の履歴書からだった。その行動の足跡は色川ゼミの一員として土蔵の中を調査した新井勝紘著「自由民権と近代社会」に詳細に書かれてある。しかし、ここでは日本思想史家の前田勉著「江戸の読書会 会読の思想史」より千葉卓三郎のプロフィールを引用させていただく。

01l0001000021_2  「千葉卓三郎(嘉永5年‐明治16年、1852‐1883)は仙台藩の下級武士の生まれで、12歳から17歳まで藩校養賢堂学頭副役であった大槻磐渓(おおつきばんけい)に学んだ。慶応4年(1868)の戊辰戦争(白河口の戦闘)で仙台藩として従軍したが敗退した(16歳だから白虎隊と同世代となる)。明治維新後は東京に出て、ロシア宣教師ニコライから洗礼を受けたり、安井息軒(やすいそっけん)に入門したり、精神的遍歴を重ねた。明治13年(1880)には五日市町の小学校である勧能学校に赴任し、翌年には千葉と同じく養賢堂で大槻磐渓と学んでいた仙台藩出身の永沼織之丞の後を受けて、勧能学校の校長になった」と記述されている。

  学問遍歴が深澤父子との出会いにつながる。そして学習民権結社「五日市学芸講談会」や「五日市学術討論会」に加わり、そこでの徹底した討論を経ることにより「五日市憲法草案」を起草することができた。地域の人が加わることにより「国会といえども地方自治に対して干渉妨害をしてはいけない」という地方自治権の条文が生まれている。中央集権化を目指す明治政府には考えられない条文でもあり、他の私擬憲法にもない特徴をもっている。2年後の明治16年(1883)11月12日に千葉卓三郎は31歳の若さで亡くなっている。上野谷中、天王寺のキリスト教共同墓地に埋葬された。現在は仙台市北山の資吹寺の千葉家の墓所に改葬されている。 

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  戊辰戦争において東北列藩同盟に加わった戦士は賊軍の汚名を着せられた。明治維新後の明治を生きていくための辛苦の人生でもあった。

 深澤家は江戸中期から育成林業を家業として始め、秋川舟運、筏で多摩材、炭を江戸に供給することにより近在に聞こえる財をなしてきた。天保年間には深沢村名主となり村政を行い、幕末には千人株を購入しているが、支配領主本多氏は幕府の戦費増加からの財政窮乏となり、度重なる金銭の要求に対して「いい加減にしろよ」不信感が募っていった。深沢名生(なおまる)の時に明治元年に清水姓から地名の深澤を名乗った。

 Yjimagecaf97wsb  明治5年ころより地租改正(年貢納入から金銭での納税)の重税、教育費負担増、徴兵制、市町村合併などの負担や怒りが行政に対して広がり始めてきた。深沢村名主深澤名生(なおまる)の長男として文久元年(1861)に生まれた権八は大区小区制の時に村用掛(今なら村長)に15歳でなる。急激な時代の変化を読み取ろうとしたのか、勉強家だった深澤権八は膨大な書籍を購入していく。さらに勧能学校を通して千葉卓三郎と出会いがあった。千葉卓三郎の学識を深く敬愛すると共に彼の憲法研究におしげもなく資金をつぎ込む。憲法起草において権八は五日市学芸講談会の中心となって数多くの「討論メモ」を残すなど「五日市憲法草案」起草作業に積極的に参加していることが明らかになっている。

  深澤権八は明治23年(1890)12月に29歳の若さで亡くなっている。父の名生も2年後の明治25年(1892)8月に権八の後を追うように世を去って行った。

Pb190081_2    色川大吉著「自由民権」(岩波新書)によれば、当時の五日市地方には深澤父子の他に大山地主の内山安兵衛や町長の馬場勘左衛門や土屋常七などそうそうたる平民民権がいて、国会開設運動から貧民救助事業にいたるまでの多彩な住民運動をくり広げていたことが記述されている。そして、色川氏は強調している。「彼らの革命精神が必ずしもミルやスペンサーの舶来の近代主義からのみ来たものではなく、百姓一揆の指導者や維新期の革命家たち、大塩平八郎や高野長英、吉田松陰や雲井竜雄ら刑死者の意志を継いでいたこと」と記述し、「維新革命を実現するために権力と闘って処刑されたかれらの伝統型革命家の延長線上に、明治の民権の姿を認めることができる」と指摘している。「外来思想だけではなく、伝統の中から革新性をひきだし、新しい西欧近代の知識をみがきをかけるという発想様式は、現代の私たちが彼らから学ばねばならない」と江戸期から明治前期にいたる思想潮流の視点を提示している。「五日市憲法草案」はこうした土着の考えに裏付けされて作成されていると改めて感じる。

 
11062206232_4  昨年(平成24年)出版された前田勉著「江戸の読書会 会読の思想史」を読んだ。「会読」という江戸期まであった学習方法を初めて知ることができた。前から分からなかった「適塾」や「松下村塾」で行なっていた学習方法。数多くの幕末の歴史小説には書かれていない内容がこの書には記述されていた。

  江戸期まであった学習方法としての「会読」を通して「幕末志士の遊学」から「明治民権運動の学習結社」を結びつけて、近代国家の成立する思想史の潮流を著している優れた書物だ。著者の前田氏は同書で五日市憲法草案条文の中に会読の三つの原理(相互コミュニケーション、対等性、結社性)が「討論演説(51条)」「平等(47条)」「結社集会(58条)」として国民の権利として盛り込まれていると指摘している。このことから「会読」そのものが条文作成の支えになっていることを説いている。江戸から明治へと土着の精神が結合しているといえる。

 Photo  深澤家土蔵に埋もれていた「五日市憲法草案」の発見は小田急電鉄創業者、利光鶴松の「手記」がきっかけとなっている説がある。発見者の色川大吉氏は「新編明治精神史」の冒頭に「私と学生たちは武蔵五日市駅から渓流にそって山道を4㌔ほどのぼった文字通り深い沢の村に入りこんだ。戸数2、30戸ほどの深沢部落。だが、そこには『あかず蔵』があり、万巻の書が眠っているかもしれないということを、私はある人の証言を読んで知っていた。かつては名主邸を誇っていた深沢家も、今ではまるで廃墟で、たったひとつ半壊の土蔵が残っているにすぎなかった」と記述している。山峡に佇む深澤家跡地とその周辺を著している名文だ。当初は土蔵に眠るだろう多数の書籍を調査することが目的で「五日市憲法草案」の発見は偶然だったということだ。
41bbp916xwl_ss500_1_2 「私はある人の証言を読んで」と色川氏は名前を記述していない。昭和32年に小田急電鉄は創業者「利光鶴松翁手記」を公刊している。栃木県立図書館にて拝読してきた。

  利光鶴松は文久3年(1863)12月31日大分県に生まれ、明治17年(1884)2月に乞食のような姿で上京する。同年9月に五日市町勧能学校の教員を務め、深澤家に寄宿するなど3年間五日市町で過ごす。明治19年(1886)4月に代言人(弁護士)を目指し、明治法律学校(明治大学)に入学のため五日市町を離れる。五日市で過ごしたその3年間を手記の中で記述している。勧能学校については「関東自由党の本場なり」「勧能学校は公立小学校なれども全国浪人引受所」と全国から民権活動家が集まっていたことを書いている。深澤家については「深澤権八氏は五日市地方の豪農にて、頗(すこぶ)る篤学の人なり、凡そ東京にて出版する新刊の書籍は悉(ことごと)く之を講求して書庫に蔵し居たり。氏は予に対して、氏の蔵書は好むに任せて、之を読むの絶対自由を与えられ、予は読むべき書籍は曾て不自由を感じたることなし」と深澤家において蔵書をなに不自由なく読み勉学することができたと記述している。

Photo_2  漢学中心の学問から利光鶴松は深澤家土蔵にある翻訳書を悉く読むことにより、法律、政治学に自信を深めていった。そして明治法律学校(明治大学)に進み弁護士となり神田で弁護士事務所を開設する。顧問先となったのは深川の材木問屋だった。材木供給業者の五日市町深澤名生の紹介で多くの顧問先を獲得できたことを手記に書いている。さらに材木問屋のある深川・本所を基盤に東京府議会議員、衆議院議員と政界入りした後は実業家として名を成すことができた。それも五日市町に来て、深澤名生・権八父子との出会いがあったからだといえる。

Photo  戊辰戦争から明治20年にかけて、時代に翻弄されながらも業績を残していった人や時代に向き合って倒れていった草莽の人々がたくさんいる。五日市町深澤名生・権八父子との出会いにより実業家として名を成した利光鶴松がいる。逆に無名だった千葉卓三郎のように歴史の潮流から浮かびあがってきた人もいる。いや、開かずの朽ちかけた土蔵の中から「五日市憲法草案」を現代に甦らせた色川大吉ゼミグループの努力と歴史への研究成果こそが大きいと言うべきだ。

  晩秋の五日市町にある深沢集落。集落入口の山道には深澤名生の父清水茂平が神官を務めた穴澤天神社が鎮座している。境内に道祖神とその右側には「芭蕉の句碑」があることを自宅に帰ってきて知った。その句碑は「山路来て何やら床(ゆ)かし菫(すみれ)草」(芭蕉、野ざらし紀行)。山峡の深沢村に「とぼとぼと歩いてよくいらっしゃいましたね」と出迎えてくれたようだった。

                            《夢野銀次》

 

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船に乗ったお地蔵さん―岩船地蔵尊

P9230606  「船に乗った岩船地蔵尊は西東京市保谷や静岡県裾野市今里等で確認されています。さらに亨保4年(1719年)の3月~7月の短期間で村々で地蔵送りが流行したのです。名主も加わわり、二千~三千人の村人によって地蔵尊を輿に担ぎ、派手に着飾り、幟を立て、三味線や太鼓を鳴らしながら念仏踊りをしながらねり歩き、次の村へ送る。こうした村人総出での地蔵送りは亨保4年(1719年)の3月から10月と短期間だけの動きでの流行で、後には確認されていないのです。何故こうしたことが起こったのか、分からないということしか言えません」と福田アジオ講師は語った。

  来年(平成26年)の4月に栃木市と合併する岩舟町主催の公民館講座、郷土史リレートーク「旅する岩船地蔵」の講座を9月15日に岩舟町文化会館において聞いてきた。講師の福田アジオ氏は神奈川大学教授を歴任し国立歴史民俗博物館名誉教授として民俗学を研究し柳田国男研究者として著名なお人だ。

  このリレートーク講座は10月に「円仁」、11月「小野寺氏」と岩舟町ゆかり歴史講座が行われる。 

P9230586  福田アジオ講師は「村から村へと岩船地蔵送りが行われた地域は群馬・上野から信濃千曲川に沿って越後へ。信濃から今の小梅線を通って甲斐へ。甲斐からは富士川に添って駿河と相模。別の甲斐から奥多摩を経て武蔵の国へと『地蔵送り』が行われたことが古文書史料で確認できます。また、同じ地域で船を台座にした岩船地蔵尊の存在が確認されています。しかし、この分布からは西の国や埼玉県では確認されていないのです」と語り、史料として『野津田村年代記』(亨保4年)、『柏木甚右衛門覚書帳』(駿河国駿東郡茶畑村)、『谷間氏見聞録』(武蔵二俣村、亨保4年)、『飯島家記』(信濃松代、亨保4年)、『一宮浅間宮帳』(甲斐一宮、亨保4年)とむら村における船地蔵送りの古文書としての史料を例示紹介を行った。

P9230589  「亨保4年(1719年)だけの短い時期と限られた地域でどうして『岩船地蔵送り』が行われ、船に乗った岩船地蔵尊があるのか?さらに村人達は下野にある岩船山の三大地蔵の一つである『高勝寺』のことを知らないと云う。現在まで高勝寺とこの『地蔵送り』を結びつける史料はないのです」と福田講師は述べていた。

  ブログネットの中で「屋根のない博物館、舟に乗ったお地蔵さん、岩船地蔵」の記載があった。相模原市周辺の地域についてのブログだが、この船に乗ったお地蔵さん(岩船地蔵)について次のように記載されている。「岩船地蔵の伝播の期間は非常に短く、今から凡そ300年前の享保4年から10年迄の7年間に集中しています。この時期は諶盛上人が江戸の東叡山から今の栃木県岩舟町にある高勝寺と云う寺に派遣された時期と重なります。高勝寺は天台宗の寺院で、青森の恐山、鳥取県の大山と並ぶ日本三大地蔵のひとつと数えられている霊地です」と記述されている。

P9230592  そして、この地蔵送りについて「屋根のない博物館」は天台宗高勝寺、諶盛上人による布教活動の一環ではなかったのではないかと推測をしている。その根拠として、享保5年(1720)高勝寺本堂地蔵尊堂の落成。享保9年(1724)高勝寺本堂前に天明鋳物でできた大仏が建立される。享保10年(1725)大慈寺、最澄が全国六ケ所に建立したひとつの相輪搭を天明鋳物で再建する。享保17年(1732)高勝寺、目黒で岩船地蔵尊の出開帳が行われる。寛保2年(1742)高勝寺仁王門が建立。寛延4年(1751)高勝寺三重塔が建立される。と挙げている。財政活動としての「地蔵送り」を指摘しているように受け止めた。 しかし、高勝寺は徳川幕府からの擁護があり、果たしてこのことが高勝寺による布教(財政)活動としての「岩船地蔵尊送り」と言えるかどうか疑問がある。福田アジオ氏は高勝寺と「地蔵送り」との関わりを示す史料はなく、関係性を全面否定していた。この流行としての「岩船地蔵村送り」の謎の究明は今後の課題としていくことにしていく。

P9230599_3  今年(平成25年)の3月23日、秋分の日に岩船山高勝寺に参詣してきた。600段の石段を昇った。石段の両脇には彼岸花が咲いていた。石段中頃にある縁起の地の船に乗っているお地蔵さんを参拝する。岩船山にたくさん祀られている観音菩薩や御地蔵尊で船に乗っている地蔵尊はここ縁起の地にある二体の地蔵尊だけだった。少ない。もう少しあっておかしくない筈だが?

 高勝寺本堂では参詣者が卒塔婆を購入し、本堂裏にある急斜面の置き場に卒塔婆を祀っていた。卒塔婆置き場周辺は岩肌のあるうす暗い所だった。「この山ならば、姥捨て山と云われていても不思議ではない」と感じた。

P9230581  先述した「屋根のない博物館」の中で相模原市藤野町日蓮の杉並区に伝わるお念仏と和讃が紹介されている。

  ~きみょうちょうらい我が親よ 歌や念仏が好きならば 極楽船えと乗りたまえ 先船乗るのが釈迦様よ 中船乗るのが我が親よ 後船乗るのが阿弥陀様よ 蓮の蓮華にさおさして 極楽浄土へつきたまえ 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

  ~きみょうちょうらい 下つけのゆわ舟地蔵お召し舟 舟は白金 櫓は黄金 柱は金銀 蒔絵して 綾や錦の帆を上げて 極楽浄土へ乗り込むにゃ 極楽浄土の法門は知恵や力じゃ開きゃせん 念仏六でさらあけ 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

(会報/文化財第2号 お念仏 森久保花子 発行/昭和52年12月 藤野町文化財保護委員会)より

  この迎えにきた船には御地蔵様が乗っている。あの世への旅立ちは御地蔵様と旅立ちたいと願う。念仏を唱えて踊る歩く姿が浮かんでくる。

002_4 船の形をした岩船山。山全体が殺伐としている。高勝寺に来ると「あの世とこの世の境の世界」が浮かび上がってくる。「私もあの世に旅立つ時、船に乗ったお地蔵さんが迎えに来てくれる。そして一緒の船で旅立ちたい。そう念じる時がまもなくやってくる。そんな歳になっているんだ。」と胸の奥に閉まっておくとする。今は自分の生きざまを著していくことに専念していきたいと念じる。

P9230604   一昨年の3月9日にこの山に来た時、「わたしの両親は3月10日の大空襲で亡くなりました。わたしは佐野に学童疎開していたから…。毎年、3月に東京からこの岩船にお参りにくるのです」と本堂前でご婦人が話をしてくれた。霊が岩船山に帰ってくるのだ。翌々日の3月11日にあの大震災が起こった。

  「今年は露天商、一軒もでなかったわ」と石段前のダンゴ屋のオカミさんがこぼした。「昔は岩舟駅からこの石段まで列をなしてお参りにきていたのに」と近くの婆さまがこぼした。

  岩船地蔵のある山梨、神奈川や静岡の地域では栃木県の岩船山を知らないという。これからは、岩船地蔵尊がその地域とこの地域とを結びつけていく役割がある。

                               《夢野銀次》

 

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紅葉-日光戦場ケ原・小田代原を歩く

Photo 「紅葉の戦場ケ原をみんなにみせたいんだ」と仲間の発案で10月22日、日光の戦場ケ原に行ってきた。その言いだしっぺの奴、後の段取り他の者に任せルンルンと参加してきた。

 しかし、前日に熊4匹が出たため戦場ケ原の中央は通行止めとなっていた。

 そのため、コースは湯滝から小田代原を通り赤沼に行くコースに変更となった。

Photo_13  滝の上から流れ落ちる激流は圧巻だ。コースはこの『湯滝』から始まった。もっとも赤沼の県営駐車場に車を停め乗合バスを利用して「湯滝」にいくことになっていた。しかし、駐車場は満杯で入れない。「月曜日なのに。これがシーズンというものかな」と嘆く。その先の三本松の駐車場に車を停めて、バスを待つ。しかし来ない。よって2.2キロを湯滝に向けて歩いた。車がひっきりなしに行き交う。交通量の激しい奥日光だ。

Photo_5 それでも「湯滝」は迫力のある滝だと恐れ入った感があった。

 「湯滝」から「湯川」に沿ったコースで戦場ケ原にむけて歩く。

 紅葉は少し終わっていたが、所々紅く染まったていた。

Photo_8
 奥日光は何年ぶりかな…。

 確か作新学院が甲子園で春夏連続優勝した年の春、観光バスの中で野球実況中継を聞いた記憶がある。昭和37年ということになる。その時は「いろは坂」を下っていた記憶がある。

 「いろは坂」は「第2いろは坂」が開通しており、昇り下りが別々になっていたこと、今回初めて知った。

Photo_12 奥日光は「竜頭の滝」まで見ていた。

それから先の戦場ケ原や湯滝は初めて見る、歩く世界だった。仲間との昼食弁当、それぞれ持参した「おかず」を美味しくいただいた。

 

 

 

 歩きながら熊の出没も心配したが、「熊の鈴」を持参した仲間もいた。できるだけその人の後ろ歩いた。

 銃を担いだ猟友会メンバー10人ともすれちがった。

Photo_10 

 小田代原を眺めながら「小学校の頃のように写生したいな」と思い浮かべた。絵を画く時間、デジカメでの一瞬ではない自分の時間、世界だ。

 

 10年前従兄の「クツヤノケンチャン」から戦場ケ原をスケッチしたハガキを受けた。文面には「一歩引いて見ている」と私のことを書いていた。そのケンチャン、学校の教諭をやめて何処かへいなくなった。好きな絵を画きながら、山の彼方で暮らしていることと思っている。

来て良かった。歩いて良かったナ。見て良かったネ。

                                《夢野銀次》

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