映画・テレビ

映画「ひとりぼっちの二人だが」から浅草・坂本九を見る

20120711224135a431  夕闇が迫るダルマ船の上で、九太(坂本九)とユキ(吉永小百合)が、子供の頃に三郎(浜田光夫)らとダルマ船で海賊ごっこをして遊んだ思い出話をする。

 三郎はユキの兄・英二(高橋英樹)に助けを呼び行った。九太とユキはこのダルマ船で英二を待っていたのだ。

 三郎と九太・ユキの三人は小・中学校と同級生の仲であった。九太はユキに「もう俺たちは子供じゃないんだ。空や川や船や、他のものはみんな一緒だけれど俺たちだけが変わっちまったんだ」と別々の道を歩んでいることを寂しそうに話す。主題歌「一人ぼっちの二人」の歌が流れる。

〽幸せは僕のもの 僕たち二人のもの

 だから二人で手をつなごう

 愛されているのに さびしい僕

 愛しているのに 悲しい僕

 一人ぼっちの 二人

〽幸せな朝がきたように

 悲しい夜が来る時がある

 その時のために 手をつなごう

 愛されているのに さびしい僕

 愛しているのに 悲しい僕

 一人ぼっちの 二人

 (昭和37年、作詞:永六輔、作曲:中村八大、唄:坂本九)

 坂本九の啼きのある哀愁の歌声が夕闇のダルマ船の風景に響き渡る。好きなシーンの一つである。

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 昭和37年(1962)11月公開の日活映画「ひとりぼっちの二人だが」(監督:舛田利雄、脚本:熊井啓・江崎実生)をようやく観ることができた。

 中学2年の時に見た映画だが、吉永小百合らが浅草の街を駆け回るシーンや坂本九との人形劇、夜の花やしき、暗いダルマ船での兄の高橋英樹等印象に残っており、もう一度見たい映画でもあった。とりわけその年の3月に公開された「上を向いて歩こう」は併映の「銀座の恋の物語」に感動してまったく印象に残っていなかった。

 また、吉永小百合については前年の「草を刈る娘」で岩木山の麓をバックに明るく健康的な姿にファンになっていた。もっともこの時期の吉永小百合は「草を刈る娘」の興行収入増加から36年が16本、37年と38年が10本づつつという勤労高校生としての過密スケジュールの中での撮影が続いていたともいわれている。

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 雷門をバックにクレジットタイトルが映し出される中、和服姿のユキ(吉永小百合)が仲見世通り、浅草観音様参拝、浅草寺境内を歩き進む。

 水揚げされる前に柳橋芸者置屋から逃げてきたのだ。柳橋置屋の意を受けたヤクザが浅草寺本堂境内にいるユキを見つけ、連れて行こうとする。そこへ地元吉野組のチンピラがユキを助け、もみ合う。ユキは助けようとしているチンピラの中に小学・中学の同級生の三郎(浜田光夫)を見つける。三郎たちは服装を和服から洋服に着替えたユキを匿う。

  和服姿から洋服姿に変わる吉永小百合は大人から若い新鮮な娘に変わったように見えてくる。

20120712180754e9d1 吉野組兄貴分の内海(小池朝雄)の指示でユキを浜離宮に匿うとして、三郎らチンピラ達はユキを連れ松屋の先の吾妻橋水上バスに乗ろうとする。しかし、他のチンピラに見つかってしまう。三郎とユキら一行は隅田公園から、二天門、浅草寺境内、伝法院通り、そして六区街へと浅草の街をひたすら走り抜ける。

  撮影された昭和37年頃の浅草六区街は戦前・戦後の最盛期の賑わいから寂びれ始めていた風景に映る。そして、ユキを連れた三郎一行は六区街の端の地下にあるストリップ劇場の楽屋へ逃げ込む。

 8cffa75a732e1fc206cf327ff80dea721 モデルとなったのは平成24年(2012)に閉館した「浅草中映劇場」のビルだと思える。「浅草名画館」では昭和30年代の三本立映画を上映していた。そのビルの脇の地下にピンク専門映画館があった。三郎たちはそのピンク専門映画館(映画ではストリップ劇場)の楽屋に入ったことになる。

 地下にある天井の低いストリップ劇場には楽屋で雑役をしている九太(坂本九)がいた。三郎とユキは同級生の九太との再会を喜び、三郎は九太にユキを楽屋に匿ってもらうことにする。

 翌日、組長の命で内海は三郎にユキを連れてくるように指示する。三郎たちはストリップ劇場楽屋にユキを引き取りに行くが、三郎の裏切りを知った九太はユキをつれて逃げる。

201207112250538401   九太と逃げながらユキは「浅草が見たい」と言って、「花やしき」にある上空45メートルの「人口衛星塔」を九太と共に乗る。

 展望車から浅草の街を見下ろしながら、二人は瓢箪池で小便をして怒られたことや露店で働く母親に弁当を作ったこと等を話す。

Mmkhc6pe1  私は花やしきでの「ビックリハウス」や「ジェットコースター」に乗っている。しかし、この「人口衛星塔」は2016年に解体され、とうとう乗らずじまいになってしまった。

  浅草の街を展望しながらユキはいなくなった兄のことを話す。

 九太は「きっと浅草にいるよ。何処へも行けないんだ。浅草の人間は必ず浅草に戻ってくる」と浅草を離れられないことをユキに話す。

G6bzudmg1_20200820134401  九太は浅草国際劇場の裏、鳩小屋のある廃墟のビル屋上にユキを匿う。そこへ組にユキの所在を教えた三郎が来る。ユキを連れて行こうとする三郎にユキは「三ちゃん大嫌い。昔の三ちゃんは優しかった」と叫ぶ。九太と三郎は殴り合う。

 「金もねえ、学校も出てねえ俺たちに掃除でもやれっていうのか。ニコヨンやれっていうのか」とわめく三郎に九太は、「俺だって同じだよ。俺たちはみんな一緒なんだよ」というと「じゃあどうやって生きていけんだよ」と言いながら取っ組合いをする二人。

 「やめて」と絶叫するユキ。「あんなに仲の良かった二人がケンカするなんて、わたし柳橋に戻る」と言って立ち去ろうとするが、吉野組のチンピラが屋上に上ってくるのが見える。三郎はユキを連れて逃げる。

Elt_zbqa1  柳橋芸者置屋の娘・トモコ(渡辺ともこ)も加わり4人で言問橋附近の隅田川の岸で前後策を相談する。そしてこの窮地を助けてくれのは強いユキの兄、英二(高橋英樹)ということになり、ダルマ船の処で待ち合わせすることになる。

 画面から東武電車が隅田川の鉄橋を走っているのが見えてくる。今も松屋から東武電車は発車している。

 ユキの兄、英二はボクサーとして新人戦のリングに臨むことになっていた。ユキの居場所を吐かない三郎は吉野組からリンチ受けていた。そこに英二が現れ、ユキの居場所を聞き出すが、三郎をそのまま放置してダルマ船に向かう。

   ダルマ船で英二とユキは再会する。しかし、英二が三郎を見捨ててきたことにユキは「兄ちゃん大嫌い」と嘆く。ユキが三郎を好いていることを知る。そこに英二を後をついてきた吉野組のチンピラとの格闘があり、英二は新人戦に行く。内海らに八百長を強要されていたが、トモコから三郎とユキが北海道に行ったということを聞き、新人戦に勝利する。ユキと三郎は北海道には行っていなかった。

G6bzudmg2  映画のラスト。深夜の「花やしき」園内。ユキのことでコケにされ、八百長にも加担しなかったことで、吉野組から仕置きされようとした英二と三郎。三郎は「みんな一人ぼっちじゃねか。俺はたまんなくスケに惚れちまった。もう俺は違う、生きてるぜ、血が通ってきたぜ、泣くも笑うも死ぬも誰だって一人じゃいきていけねえぜ」と周りのチンピラ達に話す。置屋の女将きく(楠田薫)が現れ、ユキのことはもういいと内海らに話す。それでも英二に制裁を加えようとした時に佐藤刑事(高品格)が来て内海らを逮捕する。

 英二はユキと三郎に「ひとりぼっちの二人だが、仲良く暮らすのだ」と言い聞かす。九太が主題歌「一人ぼっちの二人」を歌い、「おしまい」と書かれた花やしきの門扉が閉まる。

 映画に登場する浅草の風景は今とほとんど変わっていなく、昭和を残している街が現在もあることを改めて知ることができた。合わせて、58年前の作品とは思えない映画を観ることができたのはうれしい限りだ。斬新でリズムある物語展開の早い映画として仕上がっている。今でも十分に楽しめる作品になっている。

エンターテイナーとしての坂本九

20120711230016a1e1  映画「ひとりぼっちの二人だが」は浅草の風景を背景に走り抜ける若者たちを描いた作品になっているが、舛田監督はもう一つの主眼としてエンターテイナーとして坂本九を発掘しようとして、この映画の中で描いているシーンがある。

 それは、吉永小百合とのデュエットと坂本九のコントを混ぜての歌謡ワンマンショウとである。そこにはテレビ文化の中で登場してきた「若い季節」や「夢であいましょう」に携わってきた坂本九の芸が「浅草」と結びつくかどうか見究めようとして描いているように見えてきた。いずれも人気のないストリップ劇場の小さな舞台でのシーンになっている。

  「ユキと九太の人形劇」では、指人形を操りながら、(九太)「もしもし、あなたはどなたですか?」(ユキ)「わたしは名前を落としてきたの」(九太)「これからどちらへおでかけですか」(ユキ」「わたしは道に迷った子羊です」(九太)「じゃあ思いだすんですよ。まず目を閉じて」…画面がユニークバレー団の踊りとなり、ユキの声が「わたしは逃げた夜の闇の中を」。九太に抱きかかえられたユキがパッチリと目を開く。17歳の可愛い吉永小百合の表情である。

M6tsda5u1 バレー姿のユキと九太は手をつなぎ踊り、歌う。(ユキ)「いつもニコニコしてんのね。悲しいことがないみたい」(九太)歌いながら「♪いろんなことがあるもんさ」(ユキ)「♪うれしい時には」(九太)「♪何にも言わずにポロポロ泣くさ。だから先生に叱られどうしなんだ」(ユキ )「♪それでも学校が好きなのね」(九太)「♪おしゃまなあの娘に会えるから。僕たち二人は同じ組、一緒に机を並べていた」。

 人形を操る場面に戻り、(九太)「別れてひとりぼっちになった時ね、あの娘が好きだって泣いたけど、小さな夜の星」(ユキ)「今、その娘に会ったら何て言う」(九太)「今、どっかの空の下、遠い遠い夢だとさ」とファンタジックにリズミカルに描いている。リズミカルで楽しいシーンとして映し出されている。

 このシーンが暗転で終わると、早朝の雨に濡れた人通りのない六区街通りを歩く三郎が映し出されてくる。舛田監督の寂としての浅草を描きたかったのかもしれない。

 もう一つは坂本九のストリップ劇場舞台でのコントを混ぜての歌謡ワンマンショウである。

 舞台を拭き掃除をしながらユキは九太に「どうして舞台に出してもらえないの?ここにいる人たちよりよっぽど九ちゃんの方が。…楽しかったわ、自習の時間になると九ちゃんが飛び出してきて、飛んだり、歌ったり」。

 舞台に立つ九太「彗星のごとく現れた浅草九太。ハイッ、ハイッ」舞台袖からピアノを弾き始めるユキ。歌い出す九太「♪リズム、リズム、燃えてる、燃えてる、恋のリズム」から黒い花びら、上を向いて歩こうと踊りながら歌う。次のシーンではでは顔の半面が男、反対の顔面は金髪女。一人で演じる九太はラブソングを歌い、「♪アイラ~ブ」と女の口が横に大きく開いて絶叫する。

 このコントが実におもしろいのだ。そこには坂本九が目指していたコメデイ―を含めたステージショウがここにあったと言えるシーンになっている。

   佐藤利明娯楽研究所のブログ「ひとりぼっちの二人だが」では、「人形劇からミュージカルになる展開や、九ちゃん歌謡メドレーショーなどなど坂本九のエンターメントとしての才能をいかんなくみせるシーンは見所である。舛田監督は、本作を手がける際に『坂本九の魅力を引き出すには、コメディアン役が一番』とし、芸人・坂本九をフィーチャーしようと、浅草九太のキャラクターを造った」として高い評価をしている。

  映画での坂本九の芸には、浅草特有の泥臭ささがなくスマートに描かれていると感じた。

Al1024kyuntosuru20140830131941_tp_v1jpgp  前年の昭和36年には浅草出身の渥美清がテレビに登場してきた。「若い季節」で見せた板前の軽い口調の語りや「夢であいましょう」でのスマートなコントを演じる渥美清が浮かんでくる。

 ひょっとして本番生放送での「若い季節」や「夢であいましょう」で直に渥美清と接していた坂本九は、渥美清から学んだものが多々あったのではないかと勝手な想像をしてみる。

 後年、永六輔が黒柳徹子、小沢昭一、渥美清らと企画して日本の芸について勉強塾を開いていった。毎回、坂本九はこの勉強塾に熱心に参加していたと永六輔が語っているのをYouTubeで見た記憶がある。

 もし、昭和60年(1985)8月12日の日本航空123便墜落事故に43歳で巻き込まれて亡くなっていなかったならば、50・60歳代でダニー・ケイばりの歌手、コメデイアンとして日本を代表するエンターテイナーになっていたと思える。今更ながらそのステージショウを観ることができなかったのが残念だ。

「上を向いて歩こう」と「一人ぼっちの二人」

202002071533371   昭和36年(1961)7月21日の夜、大手町産経ホールにて「中村八大第3回リサイタル」で19歳の坂本九が2時間前にできあがった「上を向いて歩こう」をふるえながら歌った。「上を向いて歩こう」は「夢であいましょう・今月の歌」へて大ヒットとなる。1963年には全米音楽チャート一位を記録するなど、レコードは全世界70か国、約1300万発売された。

 作詞の永六輔は初めて産経ホールの舞台袖で坂本九の歌を聴き、「なんだこの歌は…」と坂本九がふざけているとしか思えなかったし、怒って帰ったと言われている。永六輔の作詞が出来上がった時、中村八大はこの歌を坂本九に歌ってもらうことに決めていた。テレビやステージでの坂本九の裏声を多用して歌う「素敵なタイミング」など坂本九の高音を活かす歌唱に託してみようとしていた。

 当日、舞台袖にいたハナ肇と水谷良重(現二代目水谷八重子)は、この歌はヒットすると確信をしたと言われている。同じように客席で手ごたいを感じとったNHKディレクター末盛憲彦は「夢であいましょう」の今月の歌としていくことを決めていった(佐藤剛著「上を向いて歩こう」より)。

Mady81q01  哀調を帯びた作詞とメロデイであるが、坂本九の笑顔で歌う「上を向いて歩こう」はいつしか未来に向けた祈りの歌になっていった。

 只、私にはこの「上を向いて歩こう」より、同じ年の昭和37年(1962)の秋に出来上がった映画主題歌「一人ぼっちの二人」の方が哀しさをストレートに受け止めることができ、好きなのだ。

 60年安保闘争の終焉から挫折した永六輔。歌詞の中での「ひとりぼっち」というフレーズには、離れ離れになっていく仲間や友人への哀切の思いが込められている。「美しい幻想は消えてこそ価値がある」と言明した吉本隆明。この言葉には60年安保闘争の世代には哀愁が漂うが、70年全共闘世代には昨日の友は今日の敵になるという悲しい局面を受け止める言葉になっている。

 泣きたいけど泣いていられない。我慢して歩むんだという「上を向いて歩こう」の作詞より、一人ぼっちだけど、二人で生きる人がいることを噛みしめて歩く「一人ぼっちの二人」の歌の方が、坂本九の歌声と中村八大の切ないメロデイが哀愁を帯びて私の胸の中に迫ってくるものがある。

                 《夢野銀次》

≪参考資料本等≫

ブログ「佐藤利明娯楽映画研究所『ひとりぼっちの二人だが』/永六輔著「昭和 僕の芸能史」(1999年5月、朝日新聞社発行)/佐藤剛著「上を向いて歩こう」(2011年7月、岩波書店発行)/関川夏央著「昭和が明るかった頃」(2002年11月、文藝春秋発行)

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テレビドラマ「おしん」佐賀篇にみる嫁と姑

Photo_20200811032302    おしん(乙羽信子)と圭(大橋吾郎)が佐賀の田倉家の墓所の前で手を合わせる。おしんは「お舅さんもお姑さんも中に入ってしまわれて」とつぶやくと「福太郎、恒子って名前もあるよ」と墓石の脇を見ながら話す。

 「お義兄さんとお義姉さんだよ。みんな遠い人になっちまったね。お義姉さんはね、一生ここから外に出ることもなく亡くなってしまったんだって」「へえ、じゃ東京も知らないで?」「東京なんて、とんでもない。この村の中だけで、昔はそういう人とがいっぱいいたんだって」「嫁いびりも当たり前なので?」「何も知らないで嫁に行ったら、こんなもんだと辛抱したんだろうね。たゞ、おばあちゃんはそれまでお姑さんて知らないで暮らしてきたから、お姑さんにしたら自分が嫁としてきたことをおばあちゃんにさせてようとして…。恒子さんだってそうしてきたんだし。おばあちゃんみたいな出来の悪い嫁をもって、お姑さんも気の毒だった」と語るおしんは、「お墓参りができてよかった」と笑みを浮かべながら寺を後にする。大正末期のお姑と嫁との世界を描いた「おしん」佐賀篇の最後のシーンになっている。

6yujgs5n1_20200812053001  昭和58年(1983)新春、三重県志摩半島各地に16店舗を構えるスーパーマーケット創業者の田倉しん(83歳)は、新店舗開店の日に行方を眩まし、孫同然の大学生・八代圭と共に旅に出ていた。

 山形の山奥にあるおしんの生まれ故郷の廃村。雪の中で廃屋となっていた我が家を見たおしんは80年以上の人生で自分は何を得て、何を失ってしまったかを振り返る旅であることを追いかけてきた圭に告げる。圭を伴った旅は山形酒田、東京浅草・日本橋と続き九州佐賀を訪れ、夫・竜三の両親たちが眠る田倉家の墓所にお参りに来ていた。

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 NHK朝の連続テレビ小説「おしん」は 橋田壽賀子 オリジナル作品として、昭和58年(1983)4月から翌年の3月までに放映された。一年間の平均視聴率52.6%、最高視聴率62.6%(11月12日)という驚異的な数字を記録し、一大ブームを引き起こした作品。

 新型コロナによる自粛要請とあいまって、栃木図書館から完全版のDVD全巻を借り、第1回から最終回の297回までの「おしん」を観ることができた。

 ウエブ記載のNHK放送史には「山形の貧しい農家に生まれた少女・おしんが、明治・大正・昭和の激動の時代を背景に、さまざまな辛酸をなめながらの女の生き方、家族のありようを模索しつつ必死に生きる姿を1年間にわたって描いた」と紹介されている。

81897bd9a316ff9a96097d3dad3a98231  さらに「原作・脚本の橋田壽賀子は、明治から昭和にいたる激動の時代を歩んできた人たちの生き方を、いましっかり書きとめておかなければ永遠に埋もれてしまうという危機感を抱いていた。週刊誌の投書欄を利用して明治女性の人生体験記とも言うべき手記を集め、丹念な取材を繰り返し、明治女性の生きてきた通のりを、おしんというヒロインに託して日本近代女性史ともいえるドラマを書き始めた」と記してある。

 改めて「おしん」全巻を観て、まさに明治から昭和にかけての時代背景の中で自立していく女性の生き様を描いている。さらに、おしんにかかわる登場人物、浩太やお加代をはじめとして全ての人物にはその時代特有の背景や慣習、しがらみを背負って登場させて物語の筋立てを行ない、丁寧に描かれている感想を抱いた。橋田壽賀子の見事なシナリオだという印象を強く受けた。

 とりわけ、「おしん」全体の作品の中で、関東大震災で罹災したおしん一家が、夫・竜三の生家、佐賀の田倉家に帰り、そこで繰り広げられた竜三の母・お清と嫁のおしんとの諍いという「嫁と姑」の関係を描いた箇所は、放映当時に辛くて観たくなかったことが思い出させる。

 今回DVDを観て、「佐賀篇」には戦争前の日本の家族制度の中における「嫁と姑」の立場、「家」という中での役割などその諍いの要因は何だったのか?という疑問から、「佐賀篇」の筋を追いかけてブログに書き留めていくことにした。

Photo_20200811032204  大正12年(1923)9月1日の関東大震災ですべてを喪った田倉竜三(並木史郎)と妻のおしん(田中裕子)は一子・雄を連れて竜三の生家、佐賀の田倉家に避難してくる。避難用の軍艦で東京から佐賀に戻ってきた。

 当時の佐賀と東京では汽車でどのくらいかかるのか。因みに昭和38年(1958)公開の松竹映画「張込み」の冒頭10分間のシーンで横浜駅から夜行列車に乗った刑事2人は翌々日の未明に佐賀駅に到着するなど、新幹線のない時代の列車時間の長さが描かれている。「佐賀篇」の最後に雄をつれたおしんが佐賀から列車で去るシーンでは、東京までまる3日以上になるだろうなと随分かかったことを想像してみた。 

Photo_20200812053501   佐賀の田倉家はかつては作男を多数おいた大地主であったが、規模は縮小したとはいえ、地主の名家であった。一家は父・大五郎(北村和夫)、母・お清(高森和子)、長男福太郎(北村総一朗)と嫁の恒子(観世葉子)、福太郎の子供4人と奉公人1人の構成になっており、嫁に行った妹・篤子(長谷直美)がたまに帰ってきている。 

Photo_20200811032102 佐賀に帰ったおしんに姑のお清は優しく労わるのではなく、いきなり震災時に竜三のお守り役の源右衛門を死なせたこと、借金までして作業場建築を止められなかったことは嫁の責任だと激しい口撃をおしんに向けてくる。

 食事は長男嫁の恒子とおしんは座敷ではなく、土間で奉公人と一緒に食べることになっていることを知る。嫁の地位は雇人と変わらないことが描かれている。さらに洗い物を手伝おうとするおしんに、長男嫁の恒子は自分の領分であるとして手伝いを断る。

 おしんは、田倉家の慣習は今までの世界と違うことに戸惑いを感じるのだった。

Photo_20200812060901  部屋は明かりのない納戸部屋をあてがわれる。農家の三男であり、厄介者としての立場であることが描かれてくる。そして、遊んでいる土地の開墾など厳しい農作業を夫婦で従事することになる。

 おしんはおしめを洗濯する石鹸や手紙を書く筆や紙を買うお金がないことを竜三に愚痴る。姑のお清は竜三を通しての金銭のねだりに小言を言うのであった。同時に山形の実家からは何の援助がないことにも嫌味を言うのだった。

 台所を預かっている兄嫁の恒子はおしんに、「お義母さんからはぎりぎりのお金しかもらえず、洗濯用の石鹸を買うにも自分ら夫婦、子供たちの分だけで精一杯でおしんさんに石鹸を渡すことができん」と田倉家の財布はお姑のお清が握っていることを話す。

 結婚前のおしんは出髪結として稼ぎ、山形の実家には毎月20円(現在の金額では約10万円、)を仕送りするなど、働いた分が報酬となっていた世界と比較して、生活の不便さを実感していく。

 宇田川満著「嫁と姑」の中で、「嫁と姑の争いの要因として、農家の嫁にとり子供の学用品など嫁が自由に使えるお金がないことであること」で、そのことから実家から援助を受けるなど、お金がないことへの不満が記述されている。家政を仕切っていく財布は姑が握ることにより、嫁に対する強い権限になっていた。姑から宛がいぶちとしての嫁に支給されるという上下の従属関係になっていたということになる。

Photo_20200812053901   竜三とおしんは作男・耕造(隅本吉成)とその妻・佐和(香野百合子)と開墾を始める。佐和は元・島原の女郎で村のつまはじき者であり、佐和とは口をきくなとお清は指示するが、おしんは佐和の人柄を誉め、元女郎のどこが悪いかと言い返す。

 お清の中には、嫁は姑に口答えしないという絶対服従の関係の中で、おしんの口答えは信じられない世界であり、憤慨する。この時のおしんはその人の人柄を素直に見ていくという、東京からきた大正デモクラシーの影響もある女性になっている。しかし、お清からすれば今の自分を否定するということになっている。

 また、佐和に人妻を表す丸髷を結ってあげたことから村内で評判になり、丸髷を結って欲しいとの頼みが姑のお清に届く。おしんもいくらかの小遣いになるので髪結をしたいと言う。お清は「田倉の家は嫁を野良仕事以外に髪結で稼がせるといわれるようになり、田倉の家の恥になる」とおしんを口撃する。

Photo_20200812060101   田倉の生活に我慢ができず、竜三に街に出ていこうというが、有明海干拓で土地を持つという夢を抱く竜三は承知しなかった。おしんは3月のお彼岸の中日に東京の髪結師匠のたかを頼りに雄をつれて田倉の家を出ていくことをきめる。髪結としてやっていける自信がおしんにはあった。しかし、一緒に東京行きを誘った佐和はおしんが妊娠していることを知り、竜三に東京行きを告げたのであった。

 止めに入った竜三ともみ合い、おしんは首から右腕にかけて大けがを負う。ケガから1か月たってもおしんの右腕は思うように動かなくなっていた。町医者に診せたが悪くないという診断であった。お清は竜三におしんと別れろという。働きのない嫁は実家に帰すか、離婚させるのが当たり前の世界であったと言われている。

2_20200811142101   一方でおしんは仲直りした佐和に自分が見てきた母と祖母が「大根飯だってロクに食えない貧しい暮しの中であっても、お互いいたわり合ったり、かばい合ったりして、母ちゃんはおばあちゃんを恨んだりしなかった」と嫁と姑が仲が悪いということは信じられなかったことを語り「逃げ出すことを考えず、可愛がられる嫁にならなきゃね」と佐和に話す。

 おしんの妊娠を知った竜三は離婚をせまるお清に別れないことを言う。だが、おしんが田倉の家を出ようとしたことが分かり、そのことを竜三に責めている時、おしんの妊娠をお清は知ることになる。嫁にやった実の娘も田倉の家で初産することになっており、「一つの家にお産が二つあると、どちらかが欠く(死ぬ)」という忌み嫌う言い伝えがあり、お清はおしんを他所で産ませようとする。大五郎や竜三たちは迷信だとして一蹴する。お清はおしんと口を利かなくなくなる。おしんと逃げようとしたことが分かった佐和は耕造の家から失踪する。

T_20200812061101   お清とおしんの口を利かない関係を心配した長男嫁の恒子は夫の福太郎に告げる。福太郎は「長男農家の嫁は、見ざる・聞かざる・言わざるじゃ。どっちの味方もしないで黙ってほっとけ」と恒子を戒める。

 「嫁30歳まで口要らぬ」と嫁は30歳となるまでモノを言わず、黙って働けといわれる立場であり、「泣く口にはメシが食える」といくら泣くような日々がつづいてもメシは食えるから我慢しろと言われていた(野口武徳著「嫁姑関係」より)。

 他家からやってきたヨソ者としての嫁は婚家の中で労働によって地位を獲得し、跡取りを産むことが責務とされていた。「ツノのない牛」「子を産む道具」(宇田川満著「嫁と姑」より)として 「家」の中での根強い男尊女卑の考えがあったことを作者は描いているのかと思えてくる。

Seiyleqq1_20200812060301  恒子はお義母さんが「一つの家でお産が二つあると、どちらかが欠くという迷信を信じている。山形でお産した方がいい」とおしんにすすめる。それで口を利いてもらえない理由がわかるおしんだった。

 恒子は「今度はただのいびりとは違う。ものもろくに食べさせてもらへんし、畑仕事でん休ませてまらえんで、こき使われたない。お腹の子は育たんじゃろし、おしんさんでん体ば壊してしまうだね。殺される」。おしんは「背筋がゾット」する。

 おしんは竜三に一緒に東京に行こうというが、竜三は10年後に有明海開拓で自分の土地を持ち,雄に残せることにかけているため、東京には行かないことを告げる。

 お清は何としても他所でお産をしてもらうため、同じ村でおしんを預かる家が見つかり、そこに移るようにおしんに告げる。しかし、おしんは田倉の家で産むとして、他所に移ることを断る。「嫁の分際で逆らうとね。親の言うことを聞けんとない嫁ん資格はなか、今日限り嫁とは思わんけ」と激しくなじる。

 おしんは田倉の家の嫁として認知を得るには田倉の家でお産することだと思い、それ相応の姑からの仕打ちに対応していく決意であった。それはおしんの意地だったのかもしれない。

G6bzudmg1_20200812060201  田植えの一番忙しい時期、おしんは身重の体を押して田植えをする。お清は身重の篤子を実家の田倉に連れて帰り、ぜんざいやドジョウ汁などを食べさせ、一番風呂に入れる等、実の娘と嫁との扱いかたの違いを描いている。

 同じ妊婦のおしんをこき使う。実の娘を甘やかすお清と井戸端でぐったりしているおしんを見た福太郎は、働くのは無理だと父・大五郎に意見する。大五郎の指示でおしんは仕事を休むむ。しかし、台所で昼食のうどんを食べようとすると、お清は働かず食べるのかと激しく口撃する。

 翌日からおしんは何があっても仕事を休まず働くのだった。立場の弱い嫁の意地にもにた踏ん張る姿を描いていく。

O_grghr1_20200812061301  やがて稲刈りの季節を前にして産み月を迎える。お清は篤子のお産を家の納戸、おしんには裏の納屋代わりの小屋を使えと指示。

 篤子が産気づくが、ひどい難産となり、竜三が町の医者を呼びにいくことになった。そのため、おしんの産気を見落とすことになってしまった。明け方に篤子は無事出産したが、おしんは家の前で倒れていた。

 目を覚ましたおしんは「女の子を産んだ。誰もいないから一人であの子を産んだけど…小さい身体が精一杯生きていた」と大五郎と竜三に話す。大五郎は「医者が診てくれて、死産じゃったで…。たとえ生まれたとき、息のあったとしても、生きられる身体じゃなかったよ。痩せこけてこまかか子にゃったて、医者が言うとった」と話す。

 おしんは「私、名前つけたんだから…愛っていうの」。たまりかねて竜三はおしんを抱きしめる。

Wjs_qv7q1  恒子は竜三に「おしんさんは地獄ばみたとじゃけん。自分でヘソの緒ば切らんてん」と語り、「同じ女子であがん小屋へ移らんぎ、嫁というとは情けなかもんさい」と怒りもにた言葉が恒子から発せられた。

 竜三は母・お清に「ただ働くばっかりで、食べもんも十分でなかった。佐賀に連れて帰ったの間違いだった」と話すと、お清は「おしんを憎うて辛く当たった覚えはなかとよ。おしんでん田倉の嫁になったら、それ相応のことばしてもらわんば…。恒子も同じ辛抱してきた」と言う。竜三が「母親がロクに食べるもんも食べんで重労働し、衰弱してしもうて」と言えば、「ほかの女子は立派に子ば産んで育てとる。都会の暮しに慣れ過ぎとったよ」と最後は他の嫁と比較し、辛抱するのが嫁の努めであると話す。そこには竜三の妻としてではなく、田倉家の嫁として扱っていることを示している。嫁は姑という「家政」に従うものであるということを言っている。

    篤子母娘が田倉家を去った夜、佐和からの手紙を読んだおしんは竜三に田倉の家をでることを告げる。

Photo_20200812055801  「私も思い切って、ここを出るわ。愛は、生きる力もない身体で生まれてきたのよッ。私ひとりが苦労するのなら、どんな我慢だって出来るッ…。せっかく生まれたきた子供が、産ぶ声をあげる力もなく死んじゃったと思うと…。死んでしまった愛は帰ってこない。あの時から、私はこの家を出る決心をしていたの。ここにいたら、私は、自分のしたいことなんて、一生出来やしない…。お腹の子を無事に育てることさえ、出来なかったんだもん…。明日、雄を連れてこの家を出ます」と決意を話す。

Photo_20200811032203 …おしんは台所にきちんと座り、大五郎とお清に向い「お舅さん、お姑さん、いろいろお世話になりました。今日限り、おいとまをいただきとうございます」と毅然と言い放つ。強烈な印象を受ける場面である。

 びっくりする大五郎であったが、雄を連れて食べていけるのか?と危惧する。お清は「雄は田倉の子だ。あんたは一人で黙って出てお行き」と切り返す。

 「雄のために働きます。雄がいるからこそ働けるのです!」と立ち去るお清に向かって叫ぶおしんの表情は鬼気迫る。台所からその光景を黙って見ている恒子。

2rhtvqx1_20200812060001  翌朝、竜三の「いつか必ずまた一緒に暮らす日がある」という言葉を支えに、おしんは大五郎と福太郎に別れの挨拶をする。二人からは選別金が渡される。

 たゞ、その前に台所に現れたおしんに恒子は雄を連れ出すことを言ってくれた。半信半疑のおしんであったが、待ち合わせの源右衛門の墓の前で恒子と雄を待つ。

Photo_20200812055901  恒子は帯紐を持参して、隙をみて連れ出した雄を抱いてくる。おしんが雄をおぶるのを手伝いながら恒子は、「あたいでん子の親さい。あたいが同じことばすが、やっぱり子供は連れていきたかと。一人じゃ生きられんでも、子供がおっぎ生きらるっもんさい。おしんさんはうらやましか、あたいにはでけんことやるって。お姑さんのことは心配なか。4人も孫のおったけ」と早く佐賀を去ることを促す。

 雄と東京に向かう列車の中で、「思いがけない恒子の行為であった。それは今まで耐えてきたものへの恒子なりの反抗だったのではないだろうか。おしんは嫁の立場の惨めさが身にしみ、そこを抜け出せた幸せをかみしめていた」と奈良岡朋子のナレーションが被さっていく。

 福尾猛市郎著「日本家族制度史概説」の中で、「新参者として入ってきた嫁は、家風への順応を強いられ、これに馴染まぬ場合は、『家風に合わぬ』として追い出されるのである。たとえ離縁に至らないまでも、家風に慣れないことを口実とする姑の嫁いじめは至るところに見られた。これは封建社会における人間相互間の上下秩序、命令と服従の関係が家庭内部にまでしみ込んだ現象とみてよい」と記されている。

 東京からきたおしんを田倉の主婦・お清は嫁として最初から認めていなかった。「家」を通しての嫁でないことがおしんの立場は危ういものとなっていた。また農家の三男の嫁としての期待もなく、穀粒ぶしのおしんには田倉の家風に合わぬ嫁として結論づけていたと思える。

 では、「家風に合わぬ」とはどういうことなのか?宇田川満著「嫁と姑」の中で、「家風とは個々の家の生活慣習であり、他家から入ってきた嫁は異なった考え方や生活慣習を身につけていることから、生活慣習上のギャップが生じ、『家風』という権威ある表現をとって姑の嫁への一方的な監視、攻撃が起こる」と記されている。

Photo_20200811032101  田倉の家を出たおしんは、髪結仕事ができないことから、露店でのどんどん焼き、酒田での飯屋、伊勢志摩で雄を乗せた箱車で魚の行商を始め、やがて「魚屋」・「魚と野菜」を扱う店を開き、販売商いの店を開き進んでいく。

 ドラマ「おしん」佐賀篇の中には、戦前まで続く日本の家族制度の中における「家」という格式の中で生きる女性のつらさや惨めさなどが描かれてきている。両性の合意で結婚できる現在の結婚制度ではなく、戸主、家長の許しのもとで結婚が成立した戦前では「家」の考え方が大きなな比重を示していた。そうした「家」の重さを受けることのない結婚であったが故に、おしん場合、婚家の家で暮らすことは「家政」を預かる姑の力が絶対であるということを見落としていたといえる。

 作者は東京で二人だけで結婚し、都会からやってきたおしんという嫁を佐賀のお姑のいる田倉家に置くことにより、農業という生業としての「家」を提示し、嫁と姑の諍いを通したドラマを描いている。「村の家」としての重さのある家族の中での三男嫁と姑からの「嫁いびり」等、当時の嫁の置かれた状況が表されている。さらに、ドラマでは同じ農家の嫁としての佐和や兄嫁恒子たちの封建制の残る家族制度の中で生きている女性たちをも描いている。とりわけ最後に一子・雄を連れて田倉家を出ていくおしんを助けていく兄嫁恒子の姿は、強く生きる「おしん」をドラマとして盛り上げていっている。この佐賀篇は後半の戦後編の「おしん」での姑となるおしんと嫁・美佐子との商いを行なう家族の生業としての現代における家庭問題を描く伏線にもなっていく。

 生きていくうえで毎日が選択の連続であると言われている。ドラマ「おしん」では選択するとき、家族以外の人がおしんに協力・力になる人物が多く登場してくるのが特徴としてあげられる。俊作あんちゃん、初恋の浩太、加賀屋の大奥様のくにとお加代、髪結の師匠たか、女給染子、源じい、テキヤの健、網元のひさ、兄嫁の恒子、9歳で引き取る初子、雄の戦友の川村等々。いずれもその時代時代の辛酸をなめて生きるおしんの自立しようと歩もうとする姿を見て、協力者・応援者になっていく。そのことが視聴者をも奮い立たせていったところに多くの人に感動を与えたドラマになったのだろうと思えてくる。

 まだまだ日本には隠れた世界、歴史が横たわっていることを実感した。

                         《夢野銀次》

≪参考引用資料著書等≫

橋田壽賀子著「NHKテレビ・シナリオ おしん(1)~(4)」(昭和58年7月~59年3月、日本放送協会発行)/ウエブ「連続テレビ小説『おしん』NHK放送史」/ウキペディア「おしんあらすじ」/福尾猛市郎著「日本家族制度史概説」(昭和47年2月吉川弘文館発行)/野口武徳著「嫁姑関係」(昭和49年2月弘文堂発行『講座家族2』に収録)/宇田川満著「嫁と姑」(昭和34年1月医歯薬出版発行)

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生きていく姿が光り輝くー映画「キューポラのある街」から

自分の進路ー「学ぶこと」とは

201607241539501~苦しい時には見つめてみよう 仕事に疲れた手のひらを

~一人だけが苦しいんじゃない みんなみんな苦しんでる

~話してみようよ語り合おうよ 積もり積もった胸のうちを

(「手のひらの唄」昭和31年作、詞:伊黒昭文・曲:寺原伸夫・昭和39年に坂本九がレコード化)

 トランジスター工場内を案内説明した女工(吉行和子)は食堂でジュン(吉永小百合)に、「働いて勉強するってね、(定時制高校)面白いわよ。学校にいろんな人が集まるでしょう。だからみんなで助け合うのね」と、昼休み「手のひらの唄」を合唱する職場のコーラスの歌声が聴こえてくる。合唱する女工たちを見つめるジュン。 

 「♪悲しい時には見つめよう 汗にまみれた手のひらを」と歌いながら商店街を自転車で帰宅するジュン。そこには自分の進路(就職して定時制高校に通うこと)を決めたジュンの15歳の少女の明るい笑顔がある。

1387372523545223002261  昭和37年(1962)4月公開の吉永小百合主演の日活映画「キューポラのある街」をDVDで観る。

 監督はこの作品がデビユー作品となる浦山桐郎。原作は早船ちよ、脚本は浦山桐郎と師の今村昌平との共同執筆。ブルーリボン賞作品賞受賞作品。キネマ旬報ベストテン2位。主演の吉永小百合もブルーリボン賞主演女優賞などを受賞し、大きく飛躍するきっかけになった作品。浦山監督も、この作品で第3回日本映画監督協会新人賞を受賞した。

 中学3年の石黒ジュン(吉永小百合)は、鋳物工場の直立炉(キューポラ)が立ち並ぶ埼玉県川口市の鋳物職人の長女。高校進学を目指すジュンだが、職人気質の父・辰五郎(東野英次郎)が工場を解雇されたため、家計は火の車で、修学旅行に行くことも諦めていた。

Imgp31811  自力で高校の入学費用を貯めようと、パチンコ屋でアルバイトを始めるジュン。担任の原田先生(加藤武)の助力で修学旅行に行けることになった。

 しかし、ようやく 再就職した父親は、待遇不満で仕事をやめてしまった。絶望したジュンは女友達と遊び歩き、危うく不良少年たちに乱暴されかかる。

 ジュンや弟のタカユキ(市川好郎)が親しくいている級友の一家が北朝鮮に帰還することになり、そこでの一家の苦悩する姿や、貧しくとも力強く生きる人々との交流を通じて、ジュンは、就職、自立して働きながら定時制高校で学んでいくことに意義を見出していく(ウキベディア参照)。

03311   映画の冒頭、荒川の鉄橋を電車が大宮に向けて走るシーンにナレーションが重なる。

 「今や世界第1になったマンモス東京の北の端から荒川の鉄橋をわたるとすぐ埼玉県川口市につながる。河ひとつのことながら、我々はこの街の生活が東京と大きな違いを感じる。500を数える鋳物工場。キューポラという特色ある煙突。江戸の昔からここは鉄と火と汗によごれた鋳物職人の街なのである」と川口市内を見下ろしながらキューポラの見える荒川土手道を中学に通う生徒たちをバックにメインタイトル『キューポラの街』が映し出される。

 今村昌平とともに「幕末太陽伝」の助監督を務め、日活を退社していた川島雄三監督に浦山桐郎はどうしても試写を見せたく、探し当て見せることができた。見終わった川島雄三は、「俯瞰(ふかん)のカットが4つばかりありましたが、あれはいけない。みだりに人を俯瞰してはなりません」と語り、細かく演出について批評した(田山力哉著「夏草の道」より)。

P61300381  「俯瞰」とは上から人を見下ろすという意味がある。そのシーンが4つあると川島雄三は批評している。川口市街地を見下ろすシーンなのか?登場人物を見下ろしているシーンがどこなのか?…私にはわからない。

 この作品を観ながら、一つ一つの画面に真剣に向き合って撮っている監督以下スタッフ、出演者たちの厳しい姿勢、真剣さがひしひしと伝わってくるのを感じた。とりわけ、吉永小百合の目の鋭さと走る姿の足の太さが印象に残った。回りの環境やそこに生きる人々を見つめ、自分に負けないで生きようとする少女の表情が良い。

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  修学旅行にいかず、学校へも登校しなくなったジュンに担任の野田先生(加藤武)は、「勉強したって意味ないもの」と言ったジュンに、「生意気言うんじゃないよ。受験勉強だけが勉強だと思ったら大間違いだぜ。高校へ行けなくとも勉強はしなくちゃいかんのだ」と怒り、こう諭す。

 「いいかジュン。働いても、何やってもだな、そんな中から何かを掴んで理解して、付け焼刃でない自分の意見を持つ。そいつを積み重ねていくのが本当の勉強なんだ。定時制へ行ったっていいじゃないか。それも行けなきゃ通信教育受けたっていい。気持ちさえありゃ何処でどうやったって勉強できるんだ」と、仕事を通して学んでいくこと、生涯教育の本質を語る野田先生。早稲田大学を卒業後、文学座に入る前の一年間、大久保の中学校で英語教師をしていた加藤武ならではの語りに説得性を感じた。

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 授業の作文の中でジュンはこう綴る。

 「わたしには解らないことが多すぎる。第一に貧乏なものが高校へ行けないということ。今の日本では中学だけでは下積みのまま一生うだつが上がらないのが現実だ。下積みで貧乏でケンカしたり酒飲んだり、バクチを打ったり、気短かで気が小さく、その日暮しの考え方しかもっていない。みんな弱い人間だ。もともと弱い人間だから貧乏に落ち込んでしまうのだ。すると貧乏だから弱い人間になってしまうのか。わたしにはわからない」

 わたしが中学を卒業するときに担任の先生は、「いいか、同窓会は20年間開かないこと」と言った。どうして?そして…そうか。と頷いた。当時、50名いたクラスの中で半数が就職者であった。進学組とのギャップを埋めるには相当の年月が必要なのだと、その先生の言った言葉が今も残っている。

北朝帰還事業ー離散する家族

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 川口駅前で北朝鮮に帰る人たちへの歓送会が映し出される。ジュンとタカユキ姉弟は級友のヨシエ(鈴木光子)と弟のサンキチ(森坂秀樹)を見送りに来る。しかし、北鮮に共に行かぬ日本人母親(菅井きん)がサンキチに会いに来た時に、会うのをとめるヨシエらの姿をジュンは見つめる。そこにはつらい家族たちの姿が描かれている。

 1950年代から1984年にかけて在日朝鮮人とその家族による日本から北朝鮮への集団的は帰還事業が行われた。この時期、在日朝鮮人も生活に困窮する者も多かった。生活保護者の削減や犯罪の削減を背景として日本政府や政党などもこの帰還事業をすすめ、日本人妻2000人を含め、10万人近くが北朝鮮に帰還したといわれている。

 新潟行きの列車の中でサンキチは母親を恋しがり泣きじゃくる。在日朝鮮人の父親(浜村純)は、「母ちゃんと暫くいろ、そして来たくなったらいつでも来いよ、俺、働いて住みよくしとくから」と言って、大宮駅からサンキチを川口に帰す。しかし、母親は別の男と結婚し、すでにいなくなっていた。あれから50年の歳月がたっている。帰還した人たちはどうしているのか?

E2c578731   牛乳を盗んでいたタカユキとサンキチは牛乳配達少年に見つかる。小舟で逃げる二人に川ふちから、「馬鹿野郎、お袋が病気だからアルバイト(牛乳配達)やってんだぞ。畜生、お前らのお陰でよ、お前らのとった分だけ店からひかれて、俺ア一銭にもなんねえんだ。薬も買えねえ時だってあるんだぞ。馬鹿野郎!」と叫ぶ。タカユキが「銭払いやいいんだろう」と言い返すと、少年は「畜生!銭なんかで…恥ずかしくないのか、お前ら!」。

 ――ぐさりときてうなだれる二人。貧しくとも恥ずかしくないのかというセリフには人としての誇り、尊厳に突き刺さってくるシーンである。

 川口駅見送りの改札口でサンキチはタカユキに、「二人で飲んだ牛乳代、これで返してくれ」とお金を渡す。受け取ったタカユキも「辛いけど謝っておく」と言う。笑顔で見合わす二人に何故かホットしてくる気持ちになってくる。

「考える少女」から「頑張り続ける女優」

Cltqsevyaeuddw1 ジュンが職場見学から家に帰ってくると、ひさしぶりに笑いながら酒を克己(浜田光夫)と酌み交わす父親(東野英次郎)と母親(杉山徳子)がいた。父親が元の職場に復帰することが決まった祝いの酒であった。「これも組合のお陰なんだな。ジュン県立高校へ行けるぞ」と話す父親にジュンは働いて定時制高校に行くことを告げる。高校進学をすすめる父と母にジュンはこう言うのだ。

 「あたいは父ちゃんに頼らなくてもいいような生活をたてるつもりなの。これ(就職して定時制高校に行くこと)は家のためっていうんじゃなくて、自分のためなの。たとえ勉強する時間はすくなくても、働くことが別の意味の勉強になると思うの。いろんなこと、社会のことや何だとか。そしてその日暮しじゃなくて、何年でこうするという計画をたてて生活したいの」。

 これを聴いた克己は、「そうか、おばさん、偉えやジュンは、しかしお前よくそういうこと解ったもんだな、よっぽど考えたんだな」と感心する。ジュンは「いろいろな人が教えてくれたのよ、まわりの人みんながさ」と照れながら笑顔で話すジュン。

C100_33urayama1  監督浦山桐郎は吉永小百合をジュンの役に起用するという日活の方針にイメージに合わないとし、不満であった。そこで撮影に入る前に吉永小百合に会う。「貧乏というものについて考えてごらん」と突き放すように吉永小百合に言う。吉永家の生活を支えている16歳の吉永小百合にとり「貧乏」とは最も得意とするところであった。やがて撮影の中から吉永小百合の頑張る姿と演技にジュンの役柄を固めていった。

 この子(吉永小百合)の一番いい点は真面目に考えることであり、そこでジュンを考える少女という面でつくってみようと私は思ったからである。役に対する固定観念を俳優に押し付けないで、俳優の内部から出る本気の表情をもとにして役をつくって行く方法を確立していく(関川夏央著「昭和が明るかったころ」より)。

 以後、浦山桐郎は「非行少女」の和泉雅子、「青春の門」の大竹しのぶなど新人女優を掘り出していく監督として評価されるようになっていたが、54歳の若さで亡くなる。

190px1  実際の吉永小百合も石黒ジュンと同じ道筋を歩んできた。家計を支えるための女優業で高校を卒業することができなかった。そのため、20歳の時に早稲田大学の資格認定試験を受験、難関を合格して、昭和40年(1965)の3月に早稲田大学第二文学部史学科を受験し、合格する。多忙な俳優業をこなしながら大学に通い学んでいく。そして、昭和44年(1969)3月に卒業する。卒論は「アイスキュロス❝縛られたプロメテウス❞とアテナイ民主政についての一考察」であったという。

 仕事をしながら学んでいこうとする石黒ジュンの姿勢は、そのまま「吉永小百合」としての「考える少女」から「頑張る女優」になっていく姿に重なってくる。浦山監督が見通した通りの女優を今日まで持ち続けているといえる。

Hqdefault2  サンキチが北鮮に向かう朝、ジュンとタカユキは川口の陸橋からサンキチの乗る列車を見送る。就職試験に向かうジュンと新聞配達をするタカユキ。二人が川口の陸橋を走るところで映画は終わる。 

 その時代を必死に生きていく姿を描いた映画は色褪せることなく、時代を超えて私に訴えてくるものがあると教えてくれた映画だ。

 昭和30年代頃から活躍した女優が姿を消していく中で、吉永小百合だけがどうして現在も主演映画を撮り続けられるのか。「吉永小百合の映画は面白くない」「パッとしない」「人気を支えているのは団塊の世代のサユリストたちだ」など批評や意見も聞かれる。それでも主演映画を撮り続ける、その頑張りに凄さと本気で生きることを感じる。「北の桜守」の中でのトラック荷台でおむすびをほうばるシーンなど必死に生きる姿が描かれいる。いつまでも頑張って光り輝く女優であって欲しいと願う。

                         《夢野銀次》

≪参考資料本≫

田山力哉著「夏草の道 小説浦山桐郎」(1993年1月講談社発行)/関川夏央著「昭和が明るかった頃」(2002年11月文藝春秋発行)/シナリオ協会編「日本シナリオ大系4」(昭和49年5月マルヨンプロダクション発行)

 

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高峰秀子「名もなく貧しく美しく」―父に与えた思いとは

NHKテレビ小説「ひよっこ」の描いたもの

0531_031 ~見上げてごらん夜の星を 小さな星の小さな光が ささやかな幸せをうたっている

 見上げてごらん夜の星を 僕らのように 名もない星が ささやかな幸せを祈ってる

   手をつなごう僕と 追いかけよう夢を 二人なら苦しくなんかないさ  見上げてごらん夜の星を 小さな星の小さな光が ささやかな幸せをうたっている

  見上げてごらん夜の星を 僕らのように 名もない星が ささやか幸せを祈ってる~  (昭和38年「見上げてごらん夜の星を」、歌:坂本九、作詞:永六輔、作曲:いずみたく) 

  昨年(平成29年)のNHK朝の連続テレビ「ひよっこ」(岡田恵和、作・脚本)は昭和30年代後半の青春映画を彷彿させたドラマ仕立てになっていた。東京下町のトランジスタラジオ製作工場に地方から集団就職した女子従業員たちによる「見上げてごらん夜の星を」を合唱するシーンが出てくる。昭和35年に永六輔といずみたくが製作公演した夜間高校を舞台にしたミュージカルの劇中歌を坂本九が昭和38年に歌い、現在も全国の合唱サークル発表会で歌われ続けている曲である。

 「ひよっこ」の中では、銭湯の帰り道を「いつでも夢を」を歌いながら女子寮に帰るシーンも出てくる。昭和38年1月公開日活映画「いつでも夢を」(野村孝監督)に出てくる夜間高校から帰りながら歌うシーンとダブって映し出される。

5d7e1bc11_2   昭和37年の橋幸夫・吉永小百合の「いつでも夢を」や翌年の三田明が歌った「みんな名もなく貧しいけれど」などは、高度成長時代を背景に若者達が貧しさから脱皮し「明日への夢」に向かって生きようとする歌詞で綴られている。

   しかし、同時代を背景にしたテレビドラマ「ひよっこ」の描く世界は違っていたように思われる。ヒロイン谷田部みね子(有村架純)を通して描いた世界は「明日への夢」を求めて進むのではなく、東京で行方不明になった父親を探しながら、「今をしっかり生き、やることをやっていく」という姿を描いていたように思えた。

 それは、貧しい中にも夜間高校を目指すことを決意していく「キューポラのある街」(浦山桐郎監督、昭和37年4月日活公開)のヒロイン「ジュン」(吉永小百合)の生きていく姿を描いた世界と共通しているように思えた。さらには、終戦から昭和34年までの時代、「貧しい生活の中でのろうあ者夫婦の生きる姿」を描いた東宝映画「名もなく貧しく美しく」(松山善三監督、昭和36年3月公開)の中にも「今をしっかり生きていく、やることはやっていく」という「ひよっこ」と同じように生活者としての生きていく姿を見ることができる。

映画「名もなく貧しく美しく」から

F37773391  「私たちは助け合わなければ生きていけません。道夫さん、一生私を助けてくれますか。私も道夫さんのためならどんなことでもします。私たちのような者は一人では生きて行けません。お互いに助け合って普通の人に負けないように」と、ろうあ者同士の置かれた立場を踏まえて道夫(小林桂樹)からの結婚の申し込みを受ける秋子(高峰秀子)。「…ありがとう」と応える道夫。

  昭和36年(1961)1月公開された東宝映画「名もなく貧しく美しく」の二人のろうあ者が終戦間もないがれきの散乱する時代に結婚を決めるシーン。監督は高峰秀子の夫である松山善三。実話を基にして松山善三が脚本を書いた第一回の監督作品である。

  DVDを借りて何十年ぶりかに観た。57年前の作品とは思えないほど、「生きていくこと」への苦しみと辛さから見出していく喜び、嬉しさを名もない庶民の生活の哀感がモノクロ画面に感動的に描かれている作品になっていることが分かった。

13827316_581271235411609_734641218_  両親がろうあ者であることにより同級生と喧嘩の絶えない小学1年の息子への子育ての悩みと苦しみ。さらには素行の悪い秋子の弟により、秋子は絶望し置手紙を置いて家を出ていく。帰宅した道夫は置手紙を読み、大急ぎで追いかける。駅のホームに入ってきた電車に飛び乗り秋子を探す。前の車両にいる秋子を見付ける。気が付いた秋子に車両の窓を通して手話での会話が始まる。

  私が小学6年の時にこの映画を観た時、音声とは違うこの手話によるシーンが強く印象に残ったことを憶えている。

 「僕にはあなたの苦しみがよくわかります。僕たちは夫婦です。何故あなた一人が苦しまなければならないのだ」と車両の窓越しから秋子に手話で話す道夫。「結婚してから今日まで私はあなたに迷惑ばかりで、あなたに何もして上げたことがありません」と応える秋子。道夫は「秋子、あなたは間違っています。結婚した時、二人は一生仲良く助け合ってゆきましょうと約束したのを忘れたのですか。私たちのような者は一人では生きてゆけません。お互いに助け合って…普通の人に負けないようにゆきましょう。そう約束したのを忘れたのですか」と諭す道夫に頷き返す秋子。走る電車の窓から置手紙の破片が舞い落ちる。

  全編で台詞ではなく手話、目や顔の表情やしぐさで感情を表現する難しい演技が要求される。とりわけ、この電車の車両窓越しによる二人の手話による演技は真に迫る夫婦の姿を描いており、「一人では生きてゆけない」という台詞に頷くシーンは胸に刺さるものがある。

O08000491112168720241_3 「給料が安くても二人ならやってゆけるんだとよ。早く結婚をしなさい」と亡くなる一年前に、お袋が言った言葉を今でも時々思い起こす。

  28歳だった私は「痔ろう」の手術で入院した。退院する日に栃木から来た母は私の住む吉祥寺のアパートで一週間過ごした。兄が栃木から車で母を迎えに来る朝、「ご飯はゆっくり食べるんだよ」と私に𠮟った後に諭すように「二人ならやってゆけるんだよ」と言って栃木に帰っていった。

2409795f1  「一人口は食えぬが二人口は食える」ということわざがある通り、確かに母が言ったように結婚すると独身時代の無駄使いがなくなりやっていける実感が湧いた。一人ではないという責任感が生まれたのかもしれない。しかし、この「名もなき貧しく美しく」という映画は「貧しさ」に加え、最初の子どもを死亡させてしまうなど「障害者」というハンデを背負った生活をも描いている。

  小学5年になった二人目の子供、一郎からは「母さんも父さんも耳が悪いから損してばかりいる」と言われる。同居する秋子の母たま(原泉)は一郎に、「だまされたって、損をしたって、こうやって皆無事にご飯をいただければいいじゃないか。お前にもいろんなことが分かる時が来る。お母さんたちはいつも下に下にと謝るようにして生きてきたんだから、おばあちゃんは偉いと思うよ」と話す。秋子夫婦だけはなく、当時の多くの庶民はこうした台詞のように「まず、家族がご飯を食べられる」という生活を一番に考えて生きていった姿が映し出されてくる。

9ad40f731_3  しかし、息子一郎は翌日、母親の洋裁仕立て代の引き上げを洋裁店の主人(多々良純)に要求する。言われた主人も秋子の仕立てものの出来具合から今まで安かったことに気が付き、引き上げることを秋子に告げにくる。

 ここには「障害者だから仕方なく我慢する」ということだけではなく、母親の洋裁技術を認めさせていこうとする姿が描き出されている。卑屈にならず己の技術に誇りを持って生きてゆくべきであるというメッセージが含まれていると思えた。

 この映画を観た当時、 53歳の親父はこのおばあちゃんの、「だまされたって、損したって、こうやって皆無事にご飯をいただければいいじゃないか」という台詞に共感したと思えてくる。息子一郎の仕立て代引き上げの行動についてはどう思ったのか?「原泉」が演じたおばちゃんの容姿は私の祖母、親父の母に似ているところもある。貧しい中にも我慢して生きてきた父にとり同感した場面だったのかもしれない。

 父は、栃木市明治座で上映中の「名もなく貧しく美しく」の入場券を、自分が経営する製材所従業員全員の30人分を購入し、この映画の鑑賞を勧めている。「あの親父が映画を観るのかよ」といつも黙々と働く父からは想像できないことで、びっくりしたことを憶えている。小学6年生だった私も大手をふってこの映画を観ることができた。

Ea5e43fa8bccbed66f378c0c0c4504da1_3   映画の後半に道夫は、「僕はこの頃、家にいると耳が聞こえるような気がします。あなた(秋子)やお母さんや一郎のことなら全部わかります。私はこの家さえあればどんなに辛い事があっても生きていけます。あなたもそうですか」と問いかける。秋子は「世間の人は私たちに同情してくれても理解はしてくれません。私もこの家の中だけが天国です」。道夫は「僕たち二人は…、十年かかってやっと一人前の夫婦になりました。これからは自分たちが幸せになれたら、ひとの幸せを考え。自分の店を持っていく」とこれからの進む方向を話す。秋子は「そうなったらどんなにうれしい事でしょう」と喜ぶシーンはジーンと胸にこみあげてくるものがある。

 今を生きてきた夫婦の少しだけ余裕が生まれ、前を向いて進んでいこうという姿。だが、この映画の結末は秋子の交通事故の死で終わっている。「最後の終わりが…?」と何ともやるせない思いがした。ただ、この映画のエンディングは二種類あると云う。アメリカ版のラストはハッピーエンドだと云う。どういうラストになっているのか、是非観てみたいと思っている。

高峰秀子が書いた自伝「わたしの渡世日記上・下」

Img_00021    秋子を演じた高峰秀子は「わたしの渡世日記下・ウソ泣き」の中で、この「名もなく貧しく美しく」の演ずる手話の余りの難しさに、この映画が製作中止になるこを願ったことを書いている。そして「実際の手話は荒っぽいため、聾唖者から不満の声が上がるのを承知で、私は見た目に美しく、流れるように優雅な手話に勝手に料理してしまった。ストーリーが感動的だったせいか、手話の料理に対する誹謗の声が聞かれず。私はホッと胸をなでおろした」と記している。そして、「私はおいしい演技をお客さまに食べていただきたくために努力をおしまない『板前』に徹したい、と自分では思っている」と俳優としての演技の位置づけをしている。

  手話という材料を料理したところの独自の手話の演技を生み出し、流れるような手話を見せている。映画に映し出される姿を想定しての演技力を高めていく。高峰秀子の大胆な演技に対する姿勢は生半可なものではなく凄みを感じる。

  昭和51年2月に出版された高峰秀子著「わたしの渡世日記上・下」には、5歳で映画デビューした高峰秀子の51歳までの役者稼業としての生業と演技、母親との確執の生活、木下恵介、成瀬巳喜男等の監督や谷崎潤一郎、梅崎龍三郎等の著名人らの交流が記されている。出演した作品や映画監督との交流等から日本の映画史の貴重な資料本になっていると思える。

 「同書上・にくい奴」の中に16歳の時に観た映画「小島の春」(豊田四郎監督、昭和16年公開)の中で、ハンセン病患者の役の杉村春子の背中だけの演技に強い衝撃を受けた。そこから  「スクリーンに映る自分自身の姿を、観客席から観客の眼で、第三者の眼で見なければならないと思い、以後は本格的な発声訓練から演技を学び始めた」と記している。

 司馬遼太郎は高峰秀子の顔を見ながら「どんな教育をすれば、高峰さんのような人間ができるのだろう」と言ったと云われている。子役時代から映画俳優して生計をたて始めた高峰秀子は小学校に通うことができなかった。そのため勉強方法は「良いものばかりを見る。良いものをみておけば悪いものがわかる」という人間を見て生きた勉強をしたことを記している(同書下、鯛の目玉)。

0819501_2 そのためか梅原龍三郎が昭和25年、25歳の高峰秀子像を描いた画は「眼窩から目玉がハミ出して描かれており、私にだけ知らない本当の私がいた」と記している画が出来上がる。梅原龍三郎は高峰秀子に「はじめに、目が大きいという印象で描いていたら少しも似なかった。君の目は大きいというよりも目の光りが強いのだな。それで目が大きいという印象を人に与えるのだ」と高峰に語った(同書下・愛の人)。

   梅原龍三郎が描いた高峰秀子画は東京近代美術館に高峰秀子自身によって寄贈、所蔵されいる。問い合わせをしたら、常設展に現在は展示されていない。何時展示されるかは分からないという返答であった。展示された時に是非観てみたいと思う。

  昭和20年代から30年代にかけての興隆を極めた映画界。観客は、「映画を通して自分をみつめたり、その感動から自分を律したりしまうという姿勢がうかがえる。当時の映画は娯楽であると同時に影ではあるが、もうひとつの人生として人々に力を与え、素直に受け入れられていった(同書下・二十四の瞳)」。と、当時の映画が人々に生きる力を与えていったことを記している。

  私の父と母も「名もなく貧しく美しく」を観て、自分たちの歩んできた道を振り返り、生活を律していくことを学んだと思えてくる。

 「ですます調」で書かれたこの「わたしの渡世日記」は、波瀾の半生を常に明るく前向きに厳しい姿勢で生きてきたことを綴り、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞 するなど高い評価を得ているエッセイになっている。

映画を観た父は30枚の入場券を購入ーその思いとは

C9ynv4ku0ae1bcr1_2 我が家は、戦前は下駄屋と言われ、下駄の仕上げをする下駄職人の家であった。5人兄弟の長男であった父は両親と同居し、母と6人を子供を抱えた大家族であった。昭和23年1月に亡くなった祖父の葬式も満足に出せないほどの貧しい生活であったと叔母からも聞いている。その生活はユーチューブで見ることのできた映画「綴方教室」と類似していたと思える。

  昭和13年の高峰秀子主演、山本嘉次郎監督「綴方教室」の映画は、ブリキ職人一家がその日の食べ物にも窮する極貧状態で生きてゆく生活を描いている。生活を見たままありのままを書くという鈴木三重吉が提唱した「生活綴方教室運動」の中で小学生豊田正子の「綴方」を原作として映画化されている作品である。 

  映画では極貧状態をリアルに描きながら、人間として尊厳を失わないで、明るく生きる一家を描いている。昭和10年代の庶民の暮しが分かり、現実の世界が一家に押し寄せる凄い作品になっている。 

Photo  今回、「名もなく貧しく美しく」の映画を観て、戦後を生き抜いた父が当時、この映画を観てどういう思いをしたのだろうか?

  昭和24年に父は下駄のもとの原材を造る製材所をおこす。「明日買う米の金がなくても材木一本あれば食えた」と子供の私に語っていた。大量の下駄の需要により製材所は当る。順調に伸びることができ、30人の従業員を雇い入れるまで製材所は成長した。工場に遊び行く私には、父は従業員を雇人というのではなく、共に働く者同士として接していたように見えていた。

 昭和36年にこの「名もなく貧しく美しく」を観た父は30枚の入場券を購入するなど強い感銘を受けた。画面に映る一家の生活はそのまま自分のこれまで歩んできた姿、生活でもあったと思い共感したのだろう。購入した入場券には「素晴らしい映画を一緒に働く従業員にも見てもらい、共にやっていこう」という父の思いがあったことを57年たって分かってきた。 

 最後に、 「一郎も来年は中学生になるし、生活もだんだん楽になってきました。来年は小さくても自分の店を持ちたいと思っています。一郎が大学へゆくまで、私たちは一生懸命働かなくてはなりません。あなたの分まで僕が働きます」と「名もなく貧しく美しく」で語る道夫。「そうなったらどんなに嬉しいでしょう」と秋子が応える夫婦の手話は、そのまま私の父と母の言葉になり胸に響いてきた作品であった。 

 

                                《夢野銀次》 

≪参考引用資料≫ 

高峰秀子著「わたしの渡世日記 上・下」(昭和51年5月朝日新聞社発行)/齋藤明美著「高峰秀子の捨てられない荷物」(平成13年3月文藝春秋社発行)

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遠ざかる列車への想い―「北の国から」・「北国の街」から

656c0b7es1  富良野駅前、蛍(中島朋子)がショッピングハウスの窓から自分を見つめていることに気が付く勇次(緒方直人)。蛍、ソッと店を出て駅舎の壁際にあるベンチに小さな包みを置く。蛍の置いた包をとった勇次は代わりに手紙を置いて、見送りの親族に押されるように駅舎に入る。置かれた手紙をとる蛍。長淵剛の「乾杯」の歌が流れ始まる。

  ~かたい絆に思いをよせ 語りつくせぬ青春の日々 時には傷つき時には喜び 肩をたたき合ったあの日 あれからどれだけたったのだろう 沈む夕陽をいくつ数えたろう 故郷の友は今でも君の心の中にいますか~(「乾杯」長淵剛歌・作詞・作曲)

Cap4361  ホームから待合室の蛍を見つける勇次。蛍、口の動きで「ガ、ン、バ、ッ、テ」。応えるように勇次も「ワ、カ、ッ、タ」。列車に乗る勇次。走りだす列車。蛍、駅舎から出て、線路際を全力で走りだす。列車の窓から手を振る勇次。けん命に列車を追いかけ走る。走る蛍の躰から熱い熱情が噴き出し、伝わってくる。

 ~乾杯!今君は人生の 大きな大きな舞台に立ち 遥か長い道のりを歩き始めた 君に幸あれ!~

 遠ざかる列車の尾灯。蛍の赤いマフラーが白い雪の中におちている(「北の国から‘89帰郷」シーンより)。

Pdvd_0561  旭川の看護学校へ通学する蛍は富良野発始発列車の車内で、予備校生和久井勇次と出会い、愛を育む。しかし、勇次は東京の予備校へ行くために富良野を離れることになる。富良野駅の蛍と勇次の別れのシーンは走る列車と蛍の走る速さが交差し、去っていく列車の跡に残る赤いマフラーと白い雪とが鮮やかなコントラスをなしている。

  北海道の厳しい大自然の中で培ってきた蛍の走る姿は力強く画面に映し出されてくるシーンでもある。人の出会いと別れ。通学列車での出会いは、やがて訪れる別れることの苦しさや悲しさを知ることになる。それでも、若い二人には出会いの喜びを共有、かみしめることができる。二人で過ごした時間への想いなのか、遠ざかる列車を見つめる蛍の表情は行くことのできない娘の表情になっている。青春の香りのする別れのシーンとして印象深い。

 倉本總脚本によるテレビドラマ「北の国から」は、昭和57年(1981)10月から翌年の昭和58年(1982)3月までの24回に渡る連続ドラマを経て、「‘83冬」、「‘84夏」、「‘87初恋」、「‘89帰郷」、「‘92巣立ち」、「‘95秘密」、「‘98時代」、「2002遺言」と、平成14年(2002)までドラマスペシャルとして放映された。21年間続いたテレビ放映のためか、純(吉岡秀隆)と蛍(中島朋子)の幼いころの子ども時代から成人した姿までを見ることのできる作品になっている。さだまさし作曲のテーマ曲をバックに北海道の大自然が浮かび上がってくる。史上まれにみる超大作のテレビドラマに成長した作品だといえる。

Sdsc080511_2 通学列車での出会いと別れを描いた映画に舟木一夫主演の「北国の街」がある。「北の国から」の勇次と蛍の世界と類似している。昭和40年(1965)3月公開の日活映画で監督は柳瀬観。脚本が意外にも倉本總であることが最近になって知った。

  ~名残りが燃える心が残る ふたりで帰るアカシアの道 今夜だけでもそばにいて 眺めていたいひとつ星 僕たちだけの喜びが住む 北国の街~(「北国の街」歌舟木一夫、作詞丘灯至夫、作曲山路進一) 

  主題歌はよく聴いてきたが、映画を観たのかどうか曖昧だったため、DVDを借りて観てみた。舟木一夫の甘い歌声と雪の中を走る蒸気機関車を数多く撮っている作品という印象だった。あわせて原作の冨島健夫著「雪の記憶」(昭和36年発行)をも読んでみた。

  通学列車の中でお互いに意識し合う高校に通学する二人。小島海彦(舟木一夫)と志野雪子(和泉雅子)。お互いに意識していた二人は遅延した混み合う列車のデッキでの飛ばされた帽子をきっかけに交際が始まる。映画では雪子は東京の大学に進むことになるが、海彦は父親の病気のため進学をあきらめ、機織り職人を目指すことになる。

014_3  映画のラストシーンは、海彦が東京に行く雪子を乗せて走る蒸気機関列車を追走し、線路上で見送る所で終わっている。雪原の中に取り残されたように立ちつくす海彦。「北の国から‘89帰郷」の勇次と蛍の別れのシーンが被さってくる。しかし、映画「北国の街」では「余命6年であることを知っている雪子が東京の大学に入学、上京していくのだろうか?」と疑問が湧き、映画の結末の別れが不自然に映ってきた。

 東京行きを雪子に促す海彦は「僕たちは若すぎる。これから多くのことを知るために君は東京の大学にいくべきだ」と言う台詞は解せない。雪子の病気のことを海彦は知らなかったにしても、東京の大学に行く必要性は感じられなかった。

  原作「雪の記憶」では、雪子をめぐることが原因で不良学生同士の争いが死者までだす大掛かりな喧嘩になる。雪子の躰を求める海彦との諍いがありながらも二人は通学していくことで終わっている。

  「撮影中に最初と最後のシーン以外は脚本を変更しました。脚本は不良学生との喧嘩を軸に書かれてあったのでね」と監督の柳瀬観が「舟木一夫青春歌謡映画」としてネット上で発言している。監督と脚本との落差が大きかったことが推察できる。倉本總はこの映画について何か発言をしていないか、探していきたいと思っている。舟木一夫主演映画ということで、雪景色と蒸気機関車の映像をバックに若い男女の交際を描けばよいとした映画だったのだろうか。

E69585e983b7e381afe7b791e381aae38_3 同じ原作「雪の記憶」で、「北国の街」から4年前に公開された昭和36年(1961)のニュー東映作品「故郷は緑なりき」(監督村山新治、脚本楠田芳子)がある。この映画でも通学する列車で二人は出会い交際するが、東京の大学に進んだ海彦は帰郷した際に雪子が病死したことを知る筋立になっている。

  私が中学一年の時に見たモノクロ作品だが、佐久間良子のセーラー服姿に強い印象を受けた映画だったと記憶している。もう一度観たい映画だが、DVDになっていないのが残念。

  映画の中で鮮明に残っているのは、海彦(水木襄)とのラブシーンだ。セーラー服の雪子(佐久間良子)を押し倒し口づけをしながらスカートのフックをはずそうとする。それをいやいやして、海彦の家から雪の中に駆け去っていく。拒否する時の佐久間良子の苦しい表情が印象に残っている。この映画の影響なのか、以後セーラー服には性としての強いあこがれを抱くようになった。

C880de321_2  西武池袋線で通学していた佐久間良子は、沿線では綺麗な女子高校生と有名になっていたことから東映にスカウトされたと「文藝春秋2月号」に本人が記述している。セーラー服の似合う女子高生の佐久間良子。もう一度観たい映画だ。

 後年、官能小説家として名をなした著者冨島健夫の初期の作品「雪の記憶」。「性の問題を回避して青春文学は成立しない」と主張していただけの描写が、映画同様に二人のラブシーンを緻密に書いてあり、新鮮な驚きを感じた。同氏の原作で他に映画化された作品として「明日への握手」(映画名「高校三年生」)、「おさな妻」等がある。十代の性への問題を正面から扱った作家として見落としてはならない作家だと思えてくる。

K141_2_2   「北の国から」の中には列車との別れのシーンが盛り込まれている。最後の別れにきた母親、令子(いしだあゆみ)が東京に帰る列車を空知川から見送る少女の蛍の走るシーンがいい。

 シナリオでこう記されている。

Yjimagexoptdy4d_3  「川のむこうをけん命に走っている少女の姿。――蛍。令子、狂ったように窓あけ外へ手をふる。(口の中で)蛍――。蛍、走っている。もうぜんと列車を追い、けん命に走る。列車の窓から見える遠ざかる蛍の姿。とうとうと流れる空知川。去っていく列車をあきらめ、つっ立っている蛍に後ろから肩を叩く草太。目に涙をためている」(「北の国から第17回」より)。

   母親との別れとして空知川に蛍をつれてきた草太(岩城滉一)。純と蛍に慕われる草太兄ちゃんの優しさが表れてくるシーンでもある。去っていく列車を空知川をはさんで追いかけてけん命に走る少女、蛍の姿は富良野駅での勇次への別れのシーンにダブっていく。

Yjimagee0rzjgoy  「北の国から」の最終回になっている「2002遺言」の中で富良野駅の別れのシーンが出てくる。音信不通であった夫の正吉のもとに快をつれて蛍が栃木へ旅立つ。見送る五郎(田中邦衛)、純(吉岡秀隆)、結(内田有紀)、雪子(竹下順子)一行。蛍と孫の快との別れを悲しむ父、五郎の姿とその姿を受けとめる息子、純の心境が描かれている。

   このシーンをシナリオでは、「蛍、快を抱きデッキに乗る。(列車の)扉閉まる。ベルが止まり――発車。窓の中から手をふる蛍と快。見送って手をふる純、結、雪子。五郎、ペタリと(列車の)ガラスに手をつけたまま、オイオイ泣いて、(走りだした列車と一緒に)走りだす。駅員、笛を吹き、危ない危ないと静止する。その手をふりほどいて列車を追う五郎。駅員をはねのけ、帽子をとばして列車を猛然と追う。二人の駅員が五郎を追う。ホームから線路に下りる五郎、そのまま線路上を必死に追いかける。追いかけてきた駅員に掴まれて雪の中に倒れ込む」

   純の語りが流れる。「恥ずかしいぐらい父さんは泣き、恥ずかしいぐらい父さんは走った。(父さーん)。でも僕はその父さんに感動していた。父さん、あなたはすてきです。あなたのそういうみっともないところを昔の僕なら軽蔑したでしょう。でも、今僕はすてきだと思います。人の目も何も一切気にせず、ただひたむきに家族を愛すること。思えば父さんのそういう生き方が、ぼくや蛍をここまで育ててくれたンだと思います。そのことにぼくは今ごろようやく、少しだけ気づきはじめたンです。父さんあなたは――すてきです」(「北の国から2002遺言」から)。

 遠ざかる列車を見送る父親の号泣する姿は家族への想いとして純は受け止めていく場面になっている。五木寛之は著書「情の力」の中で、涙と笑いは一体であると記し、「日本の文化の中で泣くべき時にきちんと泣く、泣くべきでないときは歯を食いしばって泣かないというモラルがつくらてきた。泣くこともできないような乾いたこころで、本当に腹の底から笑えるのか。大地に身を投げ出して地面を拳で叩きながら号泣するという泣き方を一度でもしたことがあるのか。深く泣くことのできる人だけが、本当に笑うことも知っている」と記している。

  遠ざかる列車に号泣する五郎の姿は五木寛之の言う、情(こころ)の世界が描かれてあると思えてくる。それは「北の国から」ドラマ全編にも言える。「泣くこと」「笑うこと」等、忘れていた人の情(こころ)の世界が随所に盛り込まれたドラマになっていることに気が付く。

10_101_6  「2002遺言」のラストはこれまでの出演した俳優名をアイウエオ順に流しているのがドラマの特色を表していると思えた。富良野市麓郷で黒板家の五郎や純、蛍、叔母の順子(竹下順子)と接する地域の人々との交流を描いているのがドラマの幅をもたらしている。

  中ちゃんこと中森和夫(地井武男)と妻のみずえ(清水まゆみ)。北村清吉(大滝秀治)と妻の正子(今井和子)、息子の草太(岩城滉一)。蛍の夫になる正吉(中澤佳仁)と母親のみどり(林美智子)、祖父の杵次(大友柳太郎)。つらら(熊谷美由紀)と兄の辰巳(塔崎健二)、涼子先生(原田美枝子)、クマさん(南雲佑介)など地域住民として数多くの出演者が登場している。

   開拓者としての村の過酷な歴史や東京と地方との対比を織り交ぜながら、出演者は大自然の厳しさとそこに暮らす生活する喜びを滲ませている。五郎の「捨てた家」の建設は喪われた物を蘇えらせていく姿として現している。遠ざかる列車から出会いが始まる生活を求めて生きていく人々がいることを作者、倉本總は描いてきていると思える。「北の国から」は人々の温かさが底辺に流れているドラマとして成っている。大事にしていきたい作品だ。

                        《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫
倉本總著「北の国から後編」(1987年5月、理論社発行)/「北の国から‘89帰郷」(1989年3月、理論社発行)/「北の国から2002遺言」(2002年8月、理論社発行)/冨島健夫著「雪の記憶」(昭和36年6月、角川書店発行)/五木寛之著「情の力」(2002年11月、講談社発行) 

 

 

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昭和からの電話が鳴る―NHK土曜ドラマ「64(ロクヨン)」

Jkt_rokuyon_011 「しっかりしてくれ!」「悔しいですよ、東京の奴ら(記者)にやられっぱなしで」「うちの県警がバカ呼ばわれるのが耐えられない」とD県警広報官、三上義信(ピエール瀧)に泣きながら攻め寄るD県警本部詰めの地元記者たち。

  誘拐事件の発生で東京から記者たちがどっと押し寄せての記者会見場。会見説明するのは若いキャリアの捜査2課長。記者からの質問にはほとんど答えられず、質問のたびごとに捜査本部に行き帰しての報告会見となってしまっている。刑事部長を記者会見に引き出すため、2課長を「伝書鳩」として往復を繰り返えさせる記者会見場。地元記者たちはたまりかねて、三上広報官へ詰め寄るシーン(第4話「顔」)。

 直前まで、広報室と記者クラブは「匿名問題」でギクシャクした関係だった。原作「64(ロクヨン)」の著者の横山秀夫は、著書の中で、こうした地元記者たちの言動を、「三上にも覚えがある。初めての勤務地は特別だ。親の庇護を離れて自活する。仕事を覚え、道を覚え、店を覚え、住み、食べ、眠り、悩み、己の両足で大地を踏みしめる。本当の自分が生まれた場所なのだ。故郷以上の故郷なのだ。その地が蹂躙された。それが悔しくて悲しくてならないのだ」と書いている。東京が地方を見下しているかのようなシーンでもある。

1280x720x64b8299d1597b8a5c7b9cb91_2  NHK土曜ドラマ「64(ロクヨン)」は昨年の平成27年(2015)4月18日から5回に渡って放送された。主役はNHKドラマ初主役になる県警広報官役としてのピエール瀧。「昭和な顔」が残っていることが決めてとなったという。原作-横山秀夫、脚本-大森寿美男、音楽-大友良英、演出—井上剛、増田静雄のスタッフ。DVDを借りて観ることができた。なかなか重厚な作品になっているというのが第1印象だ。

 この作品は平成27年度(第70回)文化庁芸術祭大賞(テレビドラマ部門)を受賞している。テレビ部門大賞は平成8年から設けられているが、私はよく知らない賞である。平成9年度フジテレビ「町」、13年度TBS「僕はあした十八になる」、15年度TBS「さとうきび畑の唄」、25年度度関西テレビ「みんなの学校」と大賞作品になっているが、私自身観ていない。映画では「文部省芸術祭参加作品」で映し出され、なじみのあった頃を思い出す。このタイトルがでると「いい映画なのだ」と子供心に思ったりしていた。文化庁芸術祭大賞は凄い賞なのかどうもピンとこない。

64efbc88e383ade382afe383a8e383b3efb  ウエブで過去のテレビ部門の芸術祭受賞作品を検索してみる。すると、昭和33年TBS「私は貝になりたい」、昭和53年NHK「天城越え」、昭和54年朝日「戦後最大の誘拐、吉展ちゃん誘拐事件」、昭和62年フジ「北の国から、87初恋」、平成3年NHK「西郷札」、平成4年フジ「北の国から、92巣立ち」、平成5年NHK「清左衛門残日記、第10回夢」、平成7年NHK「大地の子、第2部・5部」となっている。凄い作品が受賞していることにびっくりした。これらの作品はもう一度、何度でも観たいテレビドラマ作品なのだ。やっぱり評価の高い賞なのだと思えてきた。

  「64(ロクヨン)」のテレビ大賞受賞理由は、「警察内部を舞台に、『組織と個人』という永遠のテーマを、極めてダイナミックに描いて突出した面白さがあった。大森寿美男の脚本の図太い構成力、井上剛の硬質でエネルギッシな演出。そしてピエール瀧の大胆な主役起用など合わせ技が非常な濃密なドラマを成立させた。第1回、第4回、第5回の各話を通して多重な人物関係がサスペンスを増幅させてゆき、その語りの手際が群を抜いていた」との評価になっている。語りの手際というところに、物語が一本に結びついていく筋立になっているということが評価を受けての受賞なのだ。ちなみ受賞は第1回の「窓」、第4回の「顔」と第5回の「指」ということになっている。

1280x720x8df7b73a7820f4aef47864f1  「昭和からの電話なのか」と思えてくる黒電話からの呼び鈴。そのアップが印象深い作品になっている。

 ドラマは地方県警を舞台に、昭和64年と平成14年にまたがる2つの誘拐事件を、主人公の三上広報官を通して描いている。

 小渕官房長官による年号が「平成」と発表されるテレビの映像がバックに映し出される。その昭和64年の1月7日の少女誘拐殺人事件は「ロクヨン事件」と言われ未解決のまま、時効の15年目を迎える平成14年の12月。「ロクヨン事件」とまったく同じように「サトウ」と名乗る者から娘を人質に2千万円の誘拐事件が起こる。

Mig5   昭和64年の「ロクヨン事件」では、警察の電話録音の失敗で犯人の声を保存できなかった。そのミスを書いた「幸田メモ」をキーワードとして、被害者父親の雨宮芳夫(段田安則)との警察との関係不信、警察刑事部の隠ぺい、刑事部と警務部との対立、刑事部長を本庁キャリアに据えようとする人事面等を尖ったセリフ回しで描き出している。

  さらには交通事故の加害者の「匿名問題」から地元記者クラブとギクシャクな関係となる広報室。また、三上の高校1年のひとり娘失踪(家出)と夫婦の苦悩、親子の繋がりを描くなど、そのギクシャクな関係が幾筋かに絡み合って進行し、ドラマは昭和64年と同じように平成14年の誘拐事件を迎える。

B0296300_201707501  誘拐事件による報道協定の記者会見場。情報を出し渋る県警の姿勢に白兵戦さながらの記者会見場になってしまっていた。捜査本部に入室拒否されている三上広報官は独自に1課長の松岡参事官(柴田恭平)に接触する。松岡参事官とは「クロヨン事件」を共に捜査2課の刑事として捜査した間柄であった。松岡は被害者の父親だけの実名を明かすが、妻と娘の名前は「言えることと言えないことがある」として拒絶する。

  さらに三上は松岡から広報官として誘拐事件指揮車に乗ることが許される。指揮車から情報を記者会見場の部下の諏訪(新井浩文)に流す。指揮車内からの犯人と現金を運ぶ被害者父、眼崎正人(尾美としのり)とのやりとりは緊迫したシーンは臨場感があふれてくる。

M_64857761  指揮車に誘拐されていた娘が万引き犯として補導されたことの一報が入る。三上は人質の無事を早くパニック状態で現金を運んでいる父親に知らせるべきだと進言する。松岡は三上に、「この車は今、クロヨンの捜査指揮を執っている。14年前に言った筈だ。昭和64年は終わっていない。必ずホシを引きずりもどすと」。

  ――松岡の凛とした言動は14年間の捜査への執念を現しており、迫力ある柴田恭平の演技だ。

  空地に着いた眼崎は犯人の指示で身代金2千万円の紙幣を燃やす。その時、自宅の妻から娘が無事であったことの連絡が入る。犯人からメモ書きには「ロクヨンの犯人はお前だ」と書かれてあった。

Castpic_021_3  事件が終わり、帰宅した三上は妻の美那子(木村佳乃)に話す。元婦警だった美那子も「ロクヨン事件」に関与していた。そのため、ある人物がいるかどうか現認して欲しいと松岡参事官から特命を帯びて、紙幣を燃やしてしまう現場となった空地に行っていたのだ。そこで、燃え上がる紙幣の煙を見上げる雨宮を発見している。

 三上は、「参事官は確信していたのだ。無言電話から…。14年前まで警察官宅の電話番号が載っていた電話番号帳。警察関連者宅への無言電話を結んでいく。マツオカ、ミカミ、ミユキ、ムラクシ。マミムメ、…あいうえおの順番になっている。それだけではない。10日前にも眼崎の家に無言電話があった。14年前、雨宮さんはもう一度、犯人の声を聴けば、絶対に判ると言っていた」。警察官宅が載っていた14年前、昭和63年版の電話帳がヒントになっていた。美那子「雨宮さんが無言電話かけていたの?」。昭和からの電話であったことが語られてくるシーンだ。

1280x720x8df7b73a7820f4aef47864f2  夕暮れ時の公園の中にある公衆電話ボックス。電話ボックスに入る雨宮。手にはしわくちゃになっている古い電話帳を持っている。電話帳を見ながら電話をかけ続ける雨宮。「昭和63年当時の電話帳をめくって、アから順番に番号を押し続ける。気の遠くなる話だ。雨宮さんにとって犯人の声を探すことが生きる希望だったんだ」と語る三上。

  美那子は、「わたしも雨宮さんの無言電話を聴いたのね」と失踪した娘、ゆかりからの電話ではなかったことを知る。

538x310x8136d6502e9d22dc2ee42ca21  「…雨宮さん、ついにその声、聴いたのね」と美那子。

  ――その声、「はい、眼崎です。もしも-し。カスミだろう」。…犯人の声を聴いた雨宮。電話ボックスからはいずりながら出る。「眼崎、眼崎」とつぶやきながら電話帳のページを切りとり、よろけるように暗闇となった公園を歩きはじめる。見つけることができた。やり遂げた。雨宮の歩く姿は昭和からの電話をかけ続けた父親の執念が映し出されてくる。

 現場空地が見える橋の上。野次馬の中を歩く雨宮。「雨宮さん、ジーと空、見上げてた。誰かに、何かを報告するみたいに、ジーと空、見上げてた」と美那子のセリフがダブル。段田安則の演技が凄くいい。

160327_saitama_41_2   平成28年3月27日に監禁されていた女子中学生が東中野駅の公衆電話の前で警察に保護された。2年間にわたり監禁されていたのだ。失踪なのか、両親はビラを配るなど、娘の行方を探しつづけ、電話をずーと待っていたのだ。そして、娘からの電話があったのだ。

  警察には平成25年には「行方不明者届」が83,948人あり、年間8万人の行方不明者が発生するという。そのうち10代の失踪者は23.7%で全体の4分の1を占めている(日刊ゲンダイ「2014年7月20日」より)。

  ドラマ「64(ロクヨン)」の三上にも失踪した娘あゆみがいる。その電話を待っている。母親の美那子は三上に話す。「あゆみはネ、生きるために出ていったと思うの。きっとどこかで生きているんだと思うの」と前を向いて生きる娘を信じる。それが、ラストのあゆみからの電話なのかもしれないというシーンにつながっている。

012_021  誘拐事件の犯人がロクヨン事件の被害者であったこと。そのロクヨン事件で犯人の声を録音できなかったミス。そのミスを14年間刑事部が隠ぺいしてきたことなどを広報室3人の部下たちに話す三上。「眼崎逮捕でマスコミとの関係は死ぬ。どうやって再構築をするか各々で考えてもらいたい」と。

  部下の美雪(山本美月)は三上に言う。「わたしは、マスコミとの関係が死んでも、たとえ背中を向けられても、あきらめずに背中でもいいからノックし続けることが大切だと思います。絶えまずにです」。三上は「…絶えまずに」と自分に言い聞かせるように応える。

  記者会見場における情報の出し渋りなど、何故そうするのか分からない場面など、多々ある。しかし、同期の人事権を持つ二渡警務部調査官(吉田栄作)に三上は脅すように言う。「俺を広報室から(捜査課に)異動させるな。参事官が会見に臨む時、広報官としてお供をしたいのだ」という台詞から熱いものを感じ、気持ちよく観ることができた。美那子や美雪からのセリフからも人との関係の道筋が見えてきそうな気がしてくる。さすがテレビドラマ大賞受賞作品だと改めて感嘆した作品だ。

Yjimage7 三上広報官は捜査課の元刑事。三上刑事という刑事の名前で石原裕次郎と高倉健が演じている。昭和39年日活正月映画の「赤いハンカチ」。石原裕次郎が演った元刑事の名前が「三上次郎」。哀愁の漂う主題歌を歌う中で、男の無念と切なさを描いた裕次郎の姿が浮かんでくる。

 さらに高倉健が演じた昭和55年の倉本聡脚本「駅STATION」の刑事役名も「三上英次」だった。「舟唄」をバックに人への悲しい拒絶を描いた人間模様の名作だ。同じ「三上」という名前の刑事が3名いたことになる。偶然なのかな…。何だかうれしくなってきた。                              

                        《夢野銀次》

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皇居一般参観と映画「日本のいちばん長い日」

010_2  かつては「江戸城」「宮城」と言われていた「皇居」。正月2日の日に行なわれる一般参賀と12月23日の天皇誕生日に皇居に入ることができる。それ以外は「一般参観」として皇居内に入り、見学することができる。宮内庁に予約申し込みを行ない、係員によるガイド説明を受けての皇居内見学である。

  「インターネットを操作する関係で外国人の参観者が多い。日本人は旅行会社にまかせてしまうから少ないんだ。旅行会社のあっせんでは一般参観の申し込みはできないんだョ」と幹事が語ってくれた。

 平成28年の新年1月14日に「一般参観」として皇居内を見物することができた。風のない穏やかな快晴の中、栃木県シルバー大学南校33期生で作る「健康ウォーククラブ」で企画した「皇居一般参観ツアー」に参加した。

014  午後1時に桔梗門(内桜田門)前で受付を行ない、係員の先導で桔梗門から皇居内に入る。一般参観の予約申し込みは1か月前の1日から行われる。申請には参観者全員の氏名、住所、年齢を記入し、代表者の身分証明を添えて宮内庁に行なう。

  「参観当日、身分証明を求められる場合があるから、用意しておくこと」と幹事から説明があったが、桔梗門受付ではそれはなかった。

 桔梗門の先の「窓明館(そうめいかん)」に案内され、参観者全員にビデオ説明がある。「帰路には隣にある売店が閉まっていますので、お土産は出発前に購入しておいてください」との係員の説明。菊の御紋入りのチョコレートを買った。味はともかく「菊の御紋入り」にこだわっての購入でもある。

016  午後の部の見学者80名の一行はガイドの係員によって窓明館前から歩き始める。参加者の中での高齢者は日本人。若い人たちは話す言葉で東南アジア系の外国人とすぐに分かる。

  桔梗門脇の石垣。石垣には、石を提供した大名の刻印が彫られてある。多くは伊豆半島の安岩石。船で運ばれてきている。ハンドマイクを片手に、係員が石垣の右上を指差し、「〇に十の入った薩摩島津家の御紋です」との説明がある。

  前から見たいと思っていた紋の刻まれた石垣。本当に残っていたのだ。個人で来たらどこにあるのか、見つけるのに苦労する。慶長年間に家康、秀忠による天下普請としての江戸城拡張工事。武力を背景としながら太平の世を築き始めた史跡がここに残っていると実感できる。

024_2  「石垣の高さ14.5メートル、櫓の高さが15.5メートル。石垣は加藤清正が造ったと云われています。関東大震災でも崩れませんでした」との係員からの説明がある。

  「富士見櫓」を仰ぎ見る。こんな近くでみることができた。その迫力に圧倒される。予想外のうれしさに涙がこみ上げてきた。 ――雄大な姿だ。江戸時代そのままの姿を残している。

   江戸城本丸の東南隅に現存する「富士見櫓」は万治2年(1659)に再建されたもの。江戸城の天守閣が明暦3年(1657)の大火(振袖火事)で焼失した後は復興されなかった。そのため富士見櫓が天守閣に代用されたとの係員の説明がある。これ以後、幕府に遠慮した諸大名は3層の櫓までしたか構築しなかったと云われている。

072  どっしりとした石垣。「野づら積み」の石垣は自然石をそのまま積んでいて粗い。その粗さが水はけを良くし、強固な石垣を築いていることになっている。

  石垣の右先端の方に目をやると、本丸に行ける階段通路が見える。柵が設置されているが、石段通路で上れるようになっている。曲がりくねっている石の階段の通路。ここにも昔のまま城址として残っている。

  江戸時代、西の丸と言われた「宮殿」に進む。天皇陛下はこの宮殿にお住まいにはなっていない。皇居奥の吹上御所に住んでいる。一般参観では入れない宮殿を外観から見ることができた。国賓等の接伴や文化勲章授与などの国の公式行事に使われている。

 ――ここが「宮殿」なのかと思わず息をのむ。

034_4  昭和43年に完成した宮殿には正殿、豊明殿など7棟ある。その中で一番長い建物が「長和殿」。長和殿前の東庭を歩きながら係員の説明がつづく。

 「長さ160メートルあります長和殿。中の廊下の長さが100メートルあります。この場所で新年1月2日と天皇誕生日の12月23日の年2回、天皇皇后両陛下と皇族方が長和殿中央のバルコニーにお出ましになり、国民からのお祝を直接お受けになります」との説明がある。

  私たちの歩いている「東庭」の広さは4500坪。一般参賀などでは2万人が一度に参賀できると言う。一度来てみたいと思う。

056_3 バルコニーの高さは3メートルだが、目線の高さで見ることができる。思ったより低い。「バルコニーの前には紅い花の咲く寒椿と白く咲く山茶花の植え込み垣根がございます」と紅白を彩っていることの説明がつづく。

  東庭に入る所に「豊明殿松の塔」が建っている。「松の塔と言われています。葉と葉の間から光が灯すように造られています。先端にある輪は、ふしろという古代婦人の腕輪を形とった照明塔です。夜に明かりがともり、とても綺麗です。皆さまにはご覧いただけないのが残念です」と言われた。

 残念。…しょうがないですネ。夜間には一般人は入ることができないからな。

040_2  「これから正門鉄橋を渡ります。くれぐれも橋の欄干に近づかないでください。カメラ等落としてしまう危険があります」との注意がある。

  「左の下に見えるのが、正門めがね橋と呼ばれていますが、正式名称は正門石橋と申します。橋の右にあるのが皇居正門です」と丁寧な案内で「正門石橋」を見下ろす。崖下は深く、お濠の水が静かに漂っている。…確かに高い所に橋が架かっている。思わず橋の欄干に近づきたくなる二重橋だ。

  「皆さまがお立ちになっている橋が、正門鉄橋と申します。江戸時代には二重橋と呼んでいた橋でございます。高い位置に架かる橋のため、橋の下にもう一本の橋を架けて、橋を上下に組んでいたため二重橋と呼んでいたのです」との説明がある。しかし、どうもテレビ等で皇居が映し出されるのが、「めがね橋」を通して奥の二重橋と伏見櫓。二重橋は下の「めがね橋」と上の「正門鉄橋」の二つの橋を称して二重橋と言う場合もあるという。その方がしっくりと分かりやすいと思える。

043   正門鉄橋の反対側には「伏見櫓・多門」が優雅な姿を現していた。寛永5年(1628)に京都伏見城から移築したものだと云う。

 櫓の高さ13.4メートル。別名「月見櫓」と呼ばれ、皇居で最も美しい櫓といわれている。関東大震災でも崩れなかった石垣。関ヶ原の戦いの前哨戦として伏見城は落城した。伏見櫓をここに移築したのは、関ヶ原を忘れまいとする徳川家の強い意志の表れではなかったかと思えた。

 「正門鉄橋」から先の吹上御所には行くことはできない。ユータウンして戻ることになる。

060   帰路は宮殿長和殿を左に見ながら左折し、豊明殿と宮内庁建物の間を通り、右折して山下通りの坂を下る。宮内庁の裏側の庭には古いリアカーが置かれてあった。

 山下通りの坂道を下りながら、10名位の奉仕団の人たちが庭の掃除をしていた。若い男女のグループだ。仕事なのかの思ったら、同行者が「青森県と書かれた名札をしていたわ、皇居の奉仕団の方達よ」と教えてくれた。皇居の奉仕団は3日間の行程で全国から来る。終了後には皇族の方からねぎらいの御言葉を受けるそうだ。

  坂の下には、坂下門から乾門に通じる道が見えた。その向うにあるのが江戸城旧本丸跡地の「東御苑」だ。高い石垣が印象深い。

068  正面に坂下門が見える位置に宮内庁の建物が建っている。宮内庁の建物を右に見ながら進むと、3台のサイドカーがゆっくりと走ってきた。

  ――迫力ある走りだ。

   サイドカーと馬に乗って、「ポツダム宣言受託反対、国体護持」を掲げたビラをまきながら皇居前を走る映画のシーンが思い浮かんできた。

Psychopsycho1960img600x425139712312   黒沢年男が青年将校葉畑中少佐を演じていた。ギラギラした思いつめた眼光と汗が印象に残っている。岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」が昭和42年(1967)にモノクロ作品として公開された映画だ。

   そして昨年8月に、戦後70年の節目として松竹映画原田眞人監督による「日本のいちばん長い日」が公開されている.

062_2  2本の映画はいずれも半藤一利著のノンフイクション「日本のいちばん長い日」を原作としている。

 昭和20年(1945)8月14 日の深夜。昭和天皇による終戦詔書の玉音を録音した宮内庁(旧宮内省)の建物を見る。そこには映画「日本いちばん長い日」を思い浮かべてしまう昭和の歴史がある。

  ポツダム宣言受託による日本軍の無条件降伏。映画は8月15日の玉音放送に至るまでの御前会議と昭和天皇の御聖断。そして敗戦を今だ経験していない陸軍軍務局青年将校によるクーデター。本土決戦の中から有利な和平を導こうとして、御聖断の再考を要求し、宮城を占拠する宮城事件。「玉音録音盤」の奪還、放送局侵入による「玉音放送」の阻止を図っていった事件など皇居内を舞台に描いている。

2015052016471889e1  岡本喜八監督作品では宮内省に保管された「玉音録音盤」を探す近衛兵の姿など活劇的な作品だったと印象に残っている。昨年公開の原田眞人監督作品では、ポツダム宣言受託に至るまでの陸軍内の軋轢、終戦内閣の閣議と昭和天皇の御聖断を中心に描いている。

  昭和20年7月26日の米英中が発したポツダム宣言では日本政府は国体(天皇を中心とした政体)を守ることはできないと判断し、ポツダム宣言を無視する。しかし、東京から地方都市に広がる空爆の激化。広島、長崎への原爆の投下。そしてソ連軍の参戦。8月13日の御前会議から14日の御聖断にてポツダム宣言受託を決め、15日の玉音放送になる。

  映画は戦争終結を決意していた鈴木貫太郎首相(山崎努)、天皇の気持ちを分かっていた阿南惟幾陸軍大臣(役所広司)、戦争終結を決断し、国体は護持されると確信していた昭和天皇(本木雅弘)の3人の思いを描きながら、ポツダム宣言受託から玉音放送まで陸軍内の動きと連動して描いている。

Main_b_large1  「阿南さんは辞めませんよ」と鈴木首相のセリフがある。この時代、陸軍大臣が辞職した時点で内閣総辞職となり、戦争終結は遠くなることになる。戦争を止めようとする天皇の想い受け止める阿南陸相。しかし、終戦詔書への字句「戦局好転せず」への修正を迫り、陸軍への想いと部下たちの戦争継続を願う気持ちをも理解する。そして苦悩しながらも切腹していく阿南陸軍大臣を役所広司がよく演じている。

  御聖断の再考を促す東条英樹元首相に対して昭和天皇は、「ナポレオンの前半生は本当によくフランスに尽くしたが、後半生は自己の名誉のためにのみ動き。その結果はフランスのためにも世界のためにもならなかった。わたしは歴史をそのように見ている。日本はその轍を踏みたくない。違うか?」。東条は黙礼して下がる。なによりも苦しむ国民のことを考えて判断した姿を描いている。

  この映画を観て、憲法第9条の戦争と武力の放棄は昭和天皇の発意であったのかもしれないと思えてきた。

066_3  御前会議における御聖断がなかったら、ソ連軍が北海道に上陸し、ドイツのように日本は東西に分断されていたことになっていた。日本の共産主義化を恐れたのは時の政府や財界であり、終戦、和平への道は急務を要していたこともある。しかし、何よりも指導者は戦争で苦しむ国民がいたことを忘れてはいけないことを描いた映画だと思う。

 御前会議の開かれた吹上御所にある地下防空壕。その映像が昨年の7月に宮内庁から公開されている。内部のコンクリートはひび割れ、雨水や土砂が流れ込んでいる。戦争を終結し平和への道を歩み出した史跡として残してほしいと願う。

 宮内庁から左にある「蓮池濠」を見ながら富士見櫓の脇を通り桔梗門まで歩き、皇居参観は終了した。案内をした係員は優しい言葉での説明だったのが良かった。何よりも現在につながっている史跡を観たと実感できたのがうれしかった。

009  今回の皇居見学で、ここは徳川時代から明治、昭和、現代に至るまで、国会と異なる日本の政治の大きな舞台であったことだとしみじみ思えた。 

   テレビドラマ「天皇の料理番」の中で、進駐軍将校に主人公秋山篤蔵の師匠である宇佐美(小林薫)は、「天皇は味噌のように、なじみ深いものだ。もし、毎日口にしている味噌が無くなったら、とても寂しく、暴動さえお起きる。この私もそれに参加するでしょう」と答えるシーンがあった。天皇の存在を言いあてているセリフだと思えた。

  ずっと以前に熊本からの帰路の飛行機で皇太子殿下一行と乗り合わせることになった。「このまま飛行機が墜落したら、皇太子殿下と共に亡くなるのかな…」と不思議な何とも言えない感無量の気持ちになった経験がある。天皇とは文化なのか…。いつまでも平和を願う天皇陛下であって欲しいと願う。   

                          《夢野銀次》

 

 

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演劇の持つ楽しさと怖さ―映画「幕が上がる」

812ptn4vnrl_sl1500_1 「地区大会なら勝てる。地区大会、県大会、ブロック大会までいったとする。ただ、そうなると君たちは1月まで拘束される。この先、本気で勝ちにいくなら、楽しいだけじゃ済まされない。君たちにそれ相応の覚悟を求めることになります。結果…、人生を狂わせることになるかもしれない。――私は行きたいです、君たちと全国に、行こうよ全国に」と吉岡美佐子教師(黒木華)は演劇部3年生3人に迫る。

  富士ケ丘高校、新任の美術教師の吉岡美佐子の指導を受けて、地区大会止まりだった弱小演劇部が県大会、全国大会(全国高等学校演劇大会)出場を目指し、全力で高校演劇を打ち込んでいく姿を描いた作品、2015年2月公開の「幕が上がる」をDVDを借りて観る。

  監督は「踊る大捜査線」シリーズを手がけた本広克行。脚本は「桐島、部活やめるってよ」の喜安浩平。原作の「幕が上がる」は劇作家である平田オリザが、自らもワークショップなどで関わりを持ち続けてきた高校演劇をテーマに2012年に書き下ろした青春小説作品。

Image5_2 主演はももいろクローバーZの百田夏菜子・玉井詩織・佐々木彩夏・有安杏果・高城れいの5人にベルリン国際映画祭で最優秀女優賞を受賞した黒木華。出演者や演劇に興味がない人であっても楽しめる作品に仕上がっていると、映画関係者・評論家は評価している(ウィキペディアより)。確かにその通りだ。観終って、この映画はすごくおもしろい。

 主演のももいろクローバーのことはまったく知らなかった。ネットで検索すると、略してももクロと言い、数人の客しか集まらなかった路上ライブから始まり、女性グループ初となる国立競技場ライブ公演まで行なうになっている人気アイドルグループと紹介されている。紅白にも出場していることを知る。最近は紅白を見ていないので歌の世界と縁遠くなっている。本広監督は「今、もっとも輝いている少女たちを演じてもらいたいとの想いがあった」とバックストップ100でコメンとを載せている。彼女らが舞台で演じる前へ進む姿は躍動感となって伝わってくる。決してこの映画はアイドル映画ではない。

Yjimage2  「公演、肖像画を演ってみたら」と吉岡先生は提案する。「何でもいいのよ、自分のことだったら。一人づつ創って、つなげる。一番気になってること、興味があること、今思ってること。テーマを家族等どう」。部長の高橋さおり(百田夏菜子)は「やって見せてよ」と吉岡先生に反発する。新入生向けのオリエンテーションでの「ロミオとジュリエット」を簡単に否定されたからでもある。

  短い沈黙の後、頷いた吉岡先生はいきなり窓を開け、自分の母のことを語り始める。その演技の迫力にさおりと他の2人、橋爪裕子(玉井詩織)と西条美紀(高橋れに)たちは「神様が降りてきた」と衝撃を受ける。吉岡先生が学生演劇の女王だったことを知り、指導をお願いする。素直な演技が光る百田夏菜子だ。

96958a9f889deae1e0e0e2e2e4e2e3e4e2e 加藤明美(佐々木彩夏)が演じる「お父さんの手」から始まる肖像画「われわれのモロモロ」のシーンはいい。ももクロの演技は教室という狭い空間を使って、何でもない日常生活の中にある家族のつながりを表現している。実際に山形の高校で演じているという「肖像画」。自分のこと、家族のことを楽しく表現し、観客席で観ている母親が感動するこのシーンはまさに演劇入門と言える。家族を誘って公演をする発想がおもしろい。

 原作者の演劇人、平田オリザのこともこの映画で初めて知った。ウィキぺデイアでは次のように紹介されている。

130pxoriza_hirata_speaking_at_tokyo  「平田オリザ(1962年11月8日生)は日本の劇作家、演出家。劇団青年団主宰、こまば劇場支配人。代表作に『東京ノート』など。現代口語演劇理論の提唱者であり、自然な会話とやりとりで進行していく『静かな演劇』の作術を定着させた戯曲集のほか『現代口語演劇のために』などの理論的な著書も多い」。

  そして現代口語演劇理論については、「日本における近代演劇は西洋演劇の輸入と翻訳にウェイトを置いて始まったものであり、戯曲の創作までもが西洋的な理論に即って行われてきた。このため、その後の日本の演劇は、日本語を離れた無理のある文体、口調と論理構成によって行われ、またそれにリアリティを持たせるため俳優の演技も歪んだ形になっていったと考えた。これを改善するために提唱したのが、現代口語演劇理論である。日本人の生活を基点に演劇を見直し、1980年代に見られた絶叫型の劇に対して、『静かな演劇』と称された1990年代の小劇場演劇の流れをつくった」としている。

  生活を基点とした演劇は「肖像画」のシーンで描かれている。また、「静かな演劇」の世界にも関心がでてきた。60年~70年代初頭の唐十郎、鈴木忠志、清水邦夫など「劇的なものを求めた」芝居と大きく様変わりしていることなのだと、改めて知った。今度、平田オリザが主宰する「こまばアゴラ劇場」に行ってみようと思う。映画の中の舞台演劇については、平田オリザがワークショップなどを通してももクロを指導したという。

201505242323311 演劇の強かった高校から中西悦子(有安杏果)が転校してくる。演劇部への加入を勧めるさおりと共に二人は茨城全国大会へボランテイアスタッフとして参加してみる。

  開演前の仕込みから、複数の高校の公演シーンが映し出されてくる。このシーンを観た人がブログに、「もし高校野球の女子マネージャーが青森の‟イタコ”を呼んだら」という青森中央高校の演劇部が出演公演しているのを懐かしく観たと記載している。どのシーンなのか分からないが、画面から全国大会の高校演劇のレベルの高さを感じた。

Img_0_m1 この全国大会の帰り、さおりと中西は「比奈駅」のホームで語り合う。(さおり)「どうして転校してきたの?」、(中西)「皆に迷惑かけ、追いつけなくなった。逃げたの」、(さおり)「私は演劇部に入り楽しいってこと分かった。皆と話ができるようになった。演劇って一人じゃできない」、(中西)「人は一人だよ」、(さおり)「でもここにいるのは二人だよ。中西さん、演劇を私とやりませんか、一緒に」と演劇への復帰を促す。一度演劇をやめた人にとり、このシーンはインパクトを与える。

  撮影した「比奈駅」は静岡県富士市を走っている岳南電車の無人駅だという。ホームの明かりと走る電車が「銀河鉄道の夜」を連想され、大会参加台本が「銀河鉄道の夜」にきまる。

  東京代々木青少年総合センターで合宿を行う。夜、芝居を観たあとに吉岡先生は皆を新宿高層ビル街の夜景を見せる。そして、「ちょっと前まで通っていたの、この街で。私は大学に行って、バイトをして、稽古に通って…。一杯いるんだよ、そんな人がこの街には。それこそ星の数ほど…。今は君たちもその一員」と語る。美しい夜景から将来を夢見る部員たち。しかし、この台詞が後の吉岡先生の決断の伏線になっている。

1312191  地区大会に入賞し、県大会への出場が決まる。この決まる瞬間はコンクール独特の緊張感が出ている。また地区大会の舞台上での先生役の佐々木彩夏が鐘を落とす。一年生の芳根京子の舞台上でのつまづき。舞台袖で見守るさおりの表情など、本番公演のもつ緊張感と人があがると動きが硬くなる怖さをも描いている。凄いと思った。

 吉岡先生の演技指導は「演劇は一発勝負じゃないの。本番のたびに同じことを繰り返さないといけないの。偶然に頼らない。最後に勝つのは計算された演技だけ」、「稽古を想いだすのよ」と地区大会での演技を想定して教えている。

  しかし、いざ本番の公演になると力をなかなか発揮できない役者の苛立ち、不安感、緊張感などをこの映画はよく表している。

1424963243004185001  県大会を1か月に迫った日、吉岡先生が突然教師をやめ、女優の道に進むことが演劇部員に告げられる。きっかけは夏の合宿の時に演劇仲間からのオーデイションへの誘いであった。復帰する吉岡先生は部員へ手紙でそのいきさつを語る。

 「そのオーデションは本当に楽しかった。一流のスタッフ、一流の出演者。その中に混ざって一緒に何かを創っていくことは私にはたまらない喜びでした」、教師から女優への道を歩む。それは母を裏切り、演劇部員を裏切る。それでも演劇の道を進むことが記してあった。そして「あなた達に出会い、あなた達を見て私は演劇の豊かさ思い出したのです」と育てる教師から自ら演じる側への選択したことの語りが画面に綴られてくる。演劇の持つ楽しさ、素晴らしさと喜び、そして演劇の持つ怖さが出てくるシーンだ。

Yjimage3  吉岡先生が去って元気を失ったさおりは滝田先生(志賀康太郎)の国語の授業で奮起を呼びこむ。

 滝田先生は地区大会での公演が素晴らしかったと誉め、「宇宙は光の速さで広がっていく。だから私たちはどうやっても宇宙の果てまでたどり着けない。たどり着けようがない。でも切符だけは持っている。どこまでもゆける切符。君たちの作品(銀河鉄道の夜)を観ながらそんなことを感じました」という言葉がさおりの胸に響く。高校の教師を教諭というのはこういう先生のことをいうのかなと思えてくるシーンだ。

  さおりは息を吹き返す。部員を前に「銀河鉄道の夜」の台本を手にして、「私たちは舞台の上ならどこにでも行ける。想像するだけなら無限だよ。でもたどり着けないんだ、宇宙の果てには…。それが不安ってことなんだ。私たちのことなんだなあって。でもみんなのことがつまっている、この台本。ここでやめるわけにはいかない。だってやめることは自分自身をやめるってことだから。――私はづづけます。行こう、全国に」とみんなの思いがつまっている台本・舞台こそが私たちなんだと言い切り、前へ進もうと語る。

  映画は県大会公演会場に来ている演劇部員の明るい家族の姿を映し出す。そして舞台の幕が上がるところで終わる。明るく気持ちの良いラストシーンになっている。

Image2_2 この映画の感想が「Togetter、映画『幕があがる』を観て~舞台という麻薬の演劇界」に記述されている。印象深い内容になっている。

  そこには、 「高校演劇というものをきちんと完璧に描いている作品です。素晴らしいです。しかし、舞台に立ったことを過去にできない人にとり、この映画は劇薬です。なぜなら、かつて味わった、あるいはその片鱗をかすかに知った、舞台に立つことの素晴らしさを綺麗に、美しく描ききっているからです」と指摘をしている。

 さらに裏切っていく吉岡先生の選択は「役者として正しい。この選択がなければ役者にはなれない」として、「一瞬の舞台が本当にきらめいて、どんな苦労にだって代えてもいいから、舞台にたちたいと思ってしまう。その美しさを知ったら、もう逃げられない」と舞台への復帰を選択した吉岡先生の気持ちを代弁している。そして「たくさんの人が、自分を表現することを楽しめる。そんな時代がきたらいい」と結んでいる。

 私もまったくこの感想と同感なのだ。記載者は高校演劇を経験してきた人だと思える。

Yjimagepyvxjs3b_2  原作の「幕が上がる」の中で、著者の平田オリザは吉岡先生を通して演出家を目指すさおりに、こう記述している。

  「最近出てきた新しい仕事で、ドラマターグという職種もあります。制作的な視点を持ちながら、劇作家や演出家にアドバイスをしたり、資料を揃えたりして、演出の補佐をしていくような仕事です。幸い、そういうことを学べる大学もいくつか出てきました。普通の大学の文学部に入って、現場でそれを学ぶ道もあります。そういうことを学んでおけば、プロの演出家になれなくても、たとえば故郷に帰って、公共ホールとかで働く可能性も開けます」と、その道への計画のアドバイスをしている。

   「好きだからやる」のでは世の中、そう、うまく生きていくわけにはいかない。感情や偶然に流されず、冷静に計算することだ。吉岡先生の計算された演技指導とダブる。ただこの本を読んで、高校演劇から上に進む道は広がってきていると思えてきた。高校演劇をしている人には是非読んで欲しい本だ。

  また平田オリザは自著「演劇のことば」(岩波書店)の中で、「東京芸大には音楽・美術があっても演劇科はない。公教育に演劇科がないことは、音楽や美術の分野でのプロを志し、志半ばでそれをあきらめても、教師になるという選択が残されている。しかし、演劇にはない」ことを指摘し、そこから「演劇を志し、それを続けることは、一種の大きな冒険であり、冒険であるからには、必ずそこにヒロイズム、自己陶酔がつきまとう。だから演劇は熱くなる」と選択の幅が少ないことを記述している。同書には明治以降、日本の近代演劇が歩んできた歴史を見つめながら演劇の持つ特異性を指摘している。吉岡先生の選択を、映画「幕が上がる」中でその一端を描いているのではないかと思えた。

Sub_b_large1_2  最近の地方自治体では、文化が地域を豊かにするとして公益法人文化芸術団体を設立して、文化芸術への力を注ぎ始めている。演劇・音楽に精通した人をアドバイザイザーにして、市民会館・美術館・博物館等を拠点として文化芸術団体が企画運営を行ない、文化の推進に務めてきている。文化会館などの運営公演には舞台プロデュサー、演出家など地方から求められてきているのだ。

  地域で活動している合唱団、朗読会、ミニ楽団、むかし語りなどの公演開催をしていくうえで、出演者の自己満足・自己充足の世界から、観客に感動を与え、ともに感動を共有する空間を創るということが求められている。そのためには広告宣伝、舞台制作から演技技能をも高めるシステム作りの構築が急務になってきていると思える。 

   映画の中で吉岡先生は問いかける。「あなたの人生を狂わせることになるかもしれない。それでも芝居をやっていきたい?」と…。その先に待っていたものは、何もかも失う世界だった。――でも後悔はしていない。その後、ちゃんと人生を歩んできた自分がいると応える。でも、…ちょっと悔しいなぁ。やり残したことがあった筈だ。何だかこの映画を観て、忘れていた頃の年代を思い出してきた。やばいかな。何が? ――また突き進むこと。

                          《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

平田オリザ著「幕が上がる」(講談社・2012年11月発行)/平田オリザ著「演劇のことば」(岩波書店・2004年11月発行)

 

 

 

 

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ハーモニーで綴るTBS金曜ドラマ「表参道高校合唱部」

Yjimage1 「地球にはハーモニーが必要である。こうして歌っていると、もしかしたらこのハーモニーで世界に奇跡を起こすかもしれない、なんて思ったりする。だから私は今日も歌う」と主人公、香川真琴(茅根京子)のナレーションで「表参道高校合唱部」第10話の最終回で終わる。

  TBS系金曜テレビドラマとして夜10時から平成27年7月15日から9月25日まで10回に渡り放映された作品。このドラマをネット配信で観ることができた。

  東京・原宿の表参道にある「表参道高校」が舞台の青春学園ドラマ。かつて合唱の名門校であった同校の合唱部は部員不足から廃部寸前になっていた。そんな中、香川真琴が香川県小豆島から転校してきて、部員の募集、呼び掛け、退廃的だった合唱部を立て直す。合唱の奏でるハーモニー、歌の力で仲間との出会いを描く、楽しくなるドラマになっている。そして何よりも忘れていた歌の魅力を思い起こしてくれた作品になっていることだ。

B150723_0021  《第1話》 「知っとるか?歌の語源はうったえる。ほんまの気持ち、声で伝えて歌うんや。ええか、合唱では仲間外れは許されん。全員が全員の為に歌う。それでやっとひとつの歌声になるんやから」と音楽時間に小学生の真琴に諭す鈴木有明(城田優)教育実習生。合唱に加わわり歌うことの素晴らしさ説く。東京から小豆島に転校してきて、クラスになじめなかった真琴が合唱と出会う場面になっている。

 ドラマは冒頭、10秒ジャンプしながらスポットを浴びた真琴の独白から始まる。「合唱とはいくつかのパートを複数人で同時に歌うことを意味する言葉である。地球にはハーモニーが必要である」と人との和が語られる。バックには桟橋で見送る小豆島高校の合唱部の「涙そうそう」の歌声が流れている。ドラマ全体に流れるメッセージとして受け止めるシーンでもある。

2015072200085828lisn0003view1 ~夜に堕ちたらここにおいで 教えてあげる最高のメロディ あなたはいつも泣いてい るように笑っていた (中略)  あたしだけの秘密の場所 夏のにおい追いかけて あぁ夢はいつまでも覚めない 歌う風のように…~ (「OverDrive」歌:JUDY AND MARY/作詞:YUKI/作曲:TAKYA/1995年)

  裏切ろうとした引田里奈(森川葵)は「♪ここにおいで」と舞台で歌う合唱部の歌を聴き、客席から立ち上がり口ずさみながら檀上に昇り合唱部に合流する。里奈は歌う。「♪歌う風のように~」と笑顔の里奈の歌声が講堂全体に透きとおるように響き渡る。ネットの中の世界から人前で歌うことの喜びを表している場面。とってもいい。歌詞と里奈の気持ちが合唱となって流れてくる。こうした歌は縁もゆかりもない私にとって、合唱曲として抵抗なく聴くことができた。

2015072700086501lisn0001view1  《第2話》 「私は今のままの合唱部なら歌えない。仲間を裏切ったままで、いい合唱になんてなるはずないから」と真琴は一人で歌いだす。

 濡れ衣を着せられ閉じこもる幽霊合唱部員の宮崎裕(高杉真宙)を引き戻すため家の前の路上で「♪いまわたしの願いごとがかなうならば翼がほしい」と歌いだす。合唱部員も合流し、「♪この背中に鳥のように 白い翼をつけてください この大空に翼をひろげ 飛んで行きたいよ 悲しみのない自由な空へ 翼はためかせ 行きたい」(「翼をください」/歌:赤い鳥/作詞:山上路夫/作曲:村井邦彦/1971年)

  「翼」とは人への信頼、自分自身の拠り所、居場所などが浮かんでくる場面。「悲しみのない自由な空へ」…。「閉塞感」の漂う現代社会に飛び立つ「翼」とは何なのかを問われてくるシーンで胸が熱くなった。

  このシーンについて日刊スポーツコラムで森川葵氏が専門的にこう記述している。「最初に真琴が主旋律をソロで歌い、後でやって来た里奈が主旋律を引継ぎ、真琴が低音ハモリに自然に切り替える。この切り替えがあまりにスムーズで、絶妙なハーモニーを奏でている。(合唱部員)そろって合唱したところは鳥肌モノ」と絶賛している。

  70年代初頭に生まれた「翼をください」。今なお歌い続けられている意味は大きいと思えてくる。歌の持つ意味を考えていこう。

34335tbs_07312015_omote_news1  《第3話》 退部をかけて野球部の紅白試合に出場する桜庭大輔(堀井新太)。事情を知った真琴ら合唱部は、大輔の好きな岡本真夜の「TOMORROW」を応援歌として合唱する。

 ~涙の数だけ強くなれる アスファルトに咲く花のように 見るものすべてに おびえないで 明日は来るよ 君のために~

(「TOMORROW」/歌:岡本真夜/作詞:岡本真夜・真名杏樹/作曲:岡本真夜/1995年)

  球場に響き渡る「TOMORROW」のハーモニーは改めて合唱の魅力を引き出している。「明日は来る」ことの確信を受け取ることのできるシーンとして描かれている。素晴らしいシーンだ。しかし、高校野球の試合で応援曲「TOMORROW」をまだ球場で一度も聴いたことがない。どこかの高校で使用しているか、注視していこう。

2015081700089190lisn000view1  《第5話》 離婚した父はホームレスになっている。父を慕う谷優里亞(吉本実憂)はタレントになるため、その父を他人だと突き放す。しかしオーデイション会場前の路上で合唱する「トレイン トレイン」を聴き、父を慕う気持ちを思い出し、正直になろうと走り出す。故郷に帰る父を見送に行くために。走る姿は歌詞と重なり応援したくなるシーンになっている。

  ~栄光に向かって走る あの列車に乗って行こう 裸足のままで飛び出して あの列車に乗って行こう (中略) 見えない自由が欲しくて 見えない銃で撃ちまくる 本当の声を聞かせておくれ Train-Train 走ってゆく

 Train-Train 何処までも Train-Train走ってゆく Train-Train何処までも

(「Train-Train」 歌:ブルーハーツ/作詞作曲:真島昌利/1988年)

  公園でホームレスの優里亞の父と真琴の父雄司(川平慈英)の会話の中で「娘への気持ちは覚めない恋だから」という台詞にドキッとした。このドラマは「歌を忘れた中高年」に向けたドラマになっていると思えてきた。

20150822020311  《第6話》 合唱部と共に歌い終えた大曾根校長(高畑敦子)は「簡単なことだったのね。あの人が歌えないなら、その分を私が歌えばいい。あの人が歌った歌はそこにある」と合唱部員の前で語る。

 亡き夫と共に歌った「心の瞳」を再び歌うことができたことへの想いが出てくるシーンだ。

 ~心の瞳で君を見つめれば 愛すること それがどんなことだか 分かりかけてきた 言葉で言えない胸の暖かさ 遠回りをした人生だけど 君だけが 今では愛の全て 時の歩み いつもそばで分かち合える たとえ明日が少しずつ見えてきても それは生きてきた足跡が あるからさ (中略) 心の瞳で君を見つめれば (「心の瞳」/歌:坂本九/作詞:荒木とよひさ/作曲:三木たかし)

  ドラマの中で高畑敦子が「坂本九さんの遺作よ」と「心の瞳」を真琴に紹介する。九ちゃんではなく九さんと語るところに坂本九への想いがでている。私は知らなかった。「心の瞳」が合唱曲として広く歌われている坂本九の遺作であることを。最後に残していたのかと驚き、改めて坂本九への感謝の念が湧いた。

2015090600091830lisn000view1  《第7話》 廃部寸前だった合唱部がコンクールに出場することになる。選んだ曲が「ハナミズキ」。心臓手術で意識が回復しない夏目快人(志尊淳)が好きな曲であり、彼の回復を願い、入賞を目指し合唱する。

  ~手を伸ばす君 五月のこと どうか来てほしい 水際まで来てほしい づぼみをあげよう 庭のハナミズキ 薄紅色の可愛い君のね 果てない夢がちゃんと 終わりますように 君と好きな人が 百年続きますように

  (「ハナミズキ」/歌:一青窈/作詞:一青窈/作曲マシコタツタロウ/2004年)

  この曲には「君と好きな人が百年続きますように~」というように全ての人がずっと平和で暮らせるようにという願いが込められているという。ハナミズキの花言葉は「私の想いを受け取ってください」。意識の戻らない快人に合唱部員の「想い」がコンクール会場に響き渡る。「ドラマ開始当初はほとんど合唱したことのなかったいうキャスト達が日々のトレーニングを重ね、成長してきた」との評価がネットで記載されている。

2015082000089578lisn000view1_2  ドラマは第10話の真琴の両親が「愛の歌」の合唱で離婚することなく、表参道高校で合唱を続けて行くところで終わる。

  梅田恵子は日刊スポーツ「梅ちゃんねる」(8月18日配信ネット)で「(表参道高校合唱部は)実際、歌声は視聴者の心をつかんでいる。視聴率は5%前後で推移しているものの、視聴者満足の高さは夏のドラマの中でも群を抜く」と高い評価をしている。さらに高成麻衣子プロデューサーの言葉引用し「声を和するとか、仲間を信じるとか、今の時代に足りないものが合唱にある。メールとSNS、アプリを通したコミュニケーションがちょっと息苦しくなってきた時代に、生の声のやりとりというアナログコミュニケーションの力を再認識したいタイミング」と合唱を通してのドラマ作りに高い評価をしている。

 合唱には、「自分の気持ちを伝える」「仲間と声を合わせる喜び」「ハーモニーは新鮮な音楽空間を創る」「共に喜びを味わう機会を得る」「相手の声を注意深く聴く」「合唱する仲間は聴き手である」「とても参加しやすい」「上手く歌えなくても優しく包み込む懐の深さがある」「人の声での協和音は気持ちがよいもの」という要素がある(清水敬一著・監修「必ず役立つ合唱の本」より)。テレビドラマ「表参道高校合唱部」は合唱の持つハーモニーによって生きることへの喜びを如実に表現したドラマであると思えた。

  「表参道合唱部」を観ながら、流れてくる合唱曲はずーと以前から続いている歌に感じられた。ジャンル別に区分けされている音楽の世界ではない、底辺に流れる音楽の道標を示していると思えてきた。現在の音楽を「意味不明、分からない」「うるさい」など拒否をしないで、向き合っていくつもりだ。ただし、いいなあと感じた曲だけにする。

1280x720uph1_3  香川真琴役の茅根京子は吉永小百合の日活青春時代の映画を思い出してくれた。土臭さをもった女子高校生の役を演じている。顧問の鈴木有明先生に曲のアレンジを頼むシーン等、自然体の演技が微笑ましく清々しさを感じ、観ていて気持ちがいい。

  また引田里奈役の森川葵は1話の暗い女子高生から「♪風のように~」を歌いだすシーンは印象深い。そして4話における「原宿まつり」ステージでの「学園天国」の冒頭の“アー・ユー・レディ”という掛け声はグッとくるタイミングを披露している。茅根京子とあわせて森川葵も注目していきたい。

 夜の10時代の放映。青春学園ドラマとしているが、やっぱり中高年が涙流して、歌を聴きながらドラマを観るような気もする。それでも良い。温かくなるドラマは貴重だ。素晴らしいドラマありがとう。

≪参考引用資料本≫

清水敬一監修「必ず役立つ合唱の本」(株式会社ヤマハミュージックメディア、2013年2月発行)

                         《夢野銀次》

 

 

 

 

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所詮、剣は武器なのか…。中村錦之助「宮本武蔵」

Img_31 小次郎を倒した武蔵は厳流島を後にする。舟に乗る武蔵は右手で強く握っていた櫂を放す。その手のひらには赤い血が広がっていた。

 「―あれから10年。己を高めるため剣に励んできた。しかし、この空虚…。所詮、剣は武器なのか…」と武蔵の独白で映画「宮本武蔵」全5作品が終わる。

 東映映画作品、内田吐夢監督、中村(萬屋)錦之助主演による「宮本武蔵」は昭和36年(1961)5月公開の第1作から昭和40年(1965)9月公開「巌流島の決闘」の5作まで、5年間を費やして宮本武蔵を描いた大型時代劇映画だ。

  私が中学から高校にかけて公開された映画だったが、今回DVDを借りて全5作品を観た。

581_3  改めて観たこの作品。宮本武蔵17歳、慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦から慶長19年(1614)4月の厳流島決斗までの14年間。相手を倒すことが死に至らしめるという武芸者としての苦悩、迷いながら生死をかけた勝負に挑む剣豪武蔵の内面を鋭く描いている作品だ。

  主演の中村錦之介も29歳から34歳とあふれる精神力で宮本武蔵に挑み、円熟味を増した武蔵を演じている。 

Sim1_3  宗彭沢庵(三国連太郎)に諭され、白鷺城天守閣内の開かずの間での3年間、学問を究め己の自己変革を経ていく。幽閉の間から沢庵に導かれ、武蔵は新たな世に旅立つ。

 「魂としての剣を通して己を高める」と武蔵は武芸者への道を歩み出す。21歳青年武蔵のすがすがしさを錦之助は演じている。しかし、花田橋にて待っていたお通(入江若葉)への気持ちを断ち切る。情愛の世界を拒否する武蔵の苦悩をも描く。

041_2_5  宝蔵院長槍の道場。阿厳(山本麟一)の槍を一打で倒す武蔵。

  長槍を振り回し、槍を構える山本麟一の引き締めた表情は迫力ある。強さと優しを表す俳優で東映の好きな役者の一人だった。

  2作目「般若坂の決斗」のラストの殺陣シーンは4作目の「一乗寺の決斗」と並び迫力がある。1人で大勢と闘う際に走る剣。足を止めた時には負けが来るからだ。武蔵は浪人たちを斬っていく。そこには逃げられない生きるという執念さを表している。般若坂の決斗には意外な策があった。奉行と宝蔵院による浪人狩りだった。武蔵を利用しての浪人狩りだった。浪人たちの亡骸に念仏をとなえる日観(月形龍之介)。武蔵は「殺しておいて何が念仏だ。嘘だ。違う違う。剣は命だ」と絶叫する。策に踊らされた己への怒りなのか…。

101_2 73人対1人の一乗寺下り松の殺陣のシーンは圧巻。

  吉岡一門弟、多数を相手に田圃に足を取られながら二刀で戦う殺陣は獣の争いを彷彿させる。

  モノクロ画面から浮かびあがる下がり松。水墨画を連想させるシーンだ。派手な衣装の吉岡一門名代12歳の源次郎を武蔵は戦の道理として突き殺す。このことが、以後の武蔵の歩みに暗い影となっていく。

 「やらなければ己が死ぬ」、「12歳の少年を名代にした吉岡一門こそが間違っている」。その通りだが、画面を見ながら、他の方法もあったのではないかと思えてくる。どこかしっくりいかない、後味の良くないラストだなと感じた。それとも戦の非情さを汲みとるべきなのか…。考えていこう。

061_3   全編を覆うセットが素晴らしい。

   京都清水寺参拝道、奈良の武蔵が泊まる家のセットの重厚さや光悦宅の門から屋敷内の陶器釜から刀鍛冶場へのセットなど時代絵巻をリアルに映し出している。東映太秦京都撮影所の凄さに感心させられる映像だ。

  さらにこの一連の5作品の映画は当時の町の風景や牛車、川船、舟橋などの街道沿いの様子を画面に見せてくれている。――おもしろいのだ。

T02200165_06400480102926438141_3  大和路に向かう街道で城太郎(竹内満)が米12俵を積んだ牛車に乗るシーン(第2作「般若坂の決斗」)。

  荷馬車など車での陸路輸送は江戸期にはなかった。徳川幕府が陸路での荷馬車での輸送を禁じていたからだ。わずかに牛車による輸送が限られた区間(京都大津間や駿府や江戸)だった。荷を運ぶ牛車シーンを見ることができた。

  どうして、荷馬車など車での輸送を幕府は禁じていたのか?寛政の改革のおり、老中松平定信に儒者中井竹山が荷車に使用をしての陸運の効率化を提言したとされている。しかし、その返答は宿場伝場制が維持されないとして、採用されなかった。駄馬では2俵しか運搬できないが、中井竹山提言ではその数倍も運搬できる。交通の効率化など当時の幕府は考えていなかった。

  荷車は「街道のわだち堀れ(路面の凹状態)や橋梁の荷重制限を理由に参勤交代が大幅に緩和される文久2年(1862)まで禁止されていた」と谷釜尋徳著「幕末期における旅人の移動手段と荷車の登場」に記述されていることをネットで知ることができた。今度読んでみようと思う。

141119a11_2  第3作目「二刀流開眼」から佐々木小次郎(高倉健)が登場してくる。

   淀川べり土手にて小次郎と吉岡門弟との斬り合うシーンで淀川を上る川船がでてくる。この川船を4人の水夫たちが竿を使って川を船で上っていく。土手から綱で引っ張って上っていく川船ではない。さらにこの船は藁屋になっている。その藁屋はみすぼらく出来ている。藁屋の中には客が乗っている川船。初めて見ることができた。

   また、板を互い違いに並べている舟橋などが出てくる。「本物の時代劇」を描こうとしている姿勢が伺えた。

  高倉健の佐々木小次郎。高慢で自信にみちた小次郎を演じている。しかし、ラストの厳流島の対決の時には武蔵の「心の剣」に」対して「剣は力と技」として強い剣客として成長している小次郎を描いている。高倉健が演じた小次郎、武蔵と異なり相手の命を奪ってはいない。しかし、朱美(丘さとみ)を通して不気味さを漂わせ、怖さを感じさせている小次郎を演じている。華麗な剣士の中に強靭さを備えた高倉健だ。

Sim1_2_2  この映画で涙腺が緩んだシーンがある。

 5作目の巌流島での決斗を告示する高札場の近くで、又八とお杉婆とが再会するシーンだ。

  高札場からお通を通してカメラが移動する。四辻の角で子をあやす朱美がいる。お通が近寄る。朱美も又八の許嫁だったお通と分かる。そこにもらい乳をもってきた又八(木村功)が現れ、お通と再会し、子が又八と朱美の子であると分かるお通。

  この光景を木の陰が見ていたお杉婆(浪花千栄子)が涙を浮かべ、「わしの孫…。えーい、そのような子は知らぬ。知らぬ、知らぬ、知らぬわい。本位田の血ではない。みなしてこの婆を笑いものにするがよい、知らぬ、知らぬ」と泣き叫ぶ。お杉婆に3人は気がつき、お通がお杉婆にそばによる。「このような可愛いお子です」とお通はお杉婆に子を差し出す。又八が泣き叫ぶ母、お杉婆をなだめる。――このシーン、涙がでてきた。

  さらに巌流島に旅立つ武蔵を見送るお杉婆の表情がいいのだ。その表情は昔年の恨みが解けた表情になっている。感動的な場面だ。

  武蔵を追い求め、突き詰めていた緊張感が解き放たれ、湧いてくる「うれしさ」を整理できないで泣き叫ぶお杉婆。恨みが解けた表情。浪花千栄子の演技には動作があって台詞がでてくる。台詞と動作、表情が重なり、味わい深い演技だなあと感心した。

  最初に浪花千栄子の映画を観たのが「大坂物語」だった。貧しい一家が大阪船積場で落ちている米粒を親子で一粒一粒拾い集めていくシーンが印象に残っている。やがて両替商になっていく映画。東京の叔父さんの家の近くの東武線曳舟駅前の映画館で見た映画だ。貧しい中に貪欲に生きる映像が強く印象に残っている。

Photo_2  「そこは下総国行徳村からずっと一里程ある寒村だった。いや村というほど戸数もない。一面に篠や蘆や雑木の生えている荒野であった。里の者は、法典ケ原といっている」(吉川英治著「宮本武蔵・空の巻」より)。

    黒沢明監督「七人の侍」のヒントになったのではないかと言われている宮本武蔵が村人と共に収穫米を収奪にきた野盗と戦う「法典ケ原」の冒頭の書き出し部分。

  実際に武蔵が船橋法典に来たかどうか史実にはないと云われている。吉川英治の創作上の「法典ケ原の戦い」。原作に書かれてある市川市行徳にある徳願寺。その境内には「宮本武蔵供養地蔵」が祀られている。

  「法典ヶ原の戦い」は5作目「巌流島の決斗」の前半の山場として荒地を耕す武蔵の姿と野盗との戦いを描いている。少年、三沢伊織(金子吉延)の家にて荒地を開墾、鍬を持ち、米作りをする武蔵。吉岡一門を倒して6年後の武蔵の容姿は求道者のようになっている。

  収穫した米2俵を伊織と共に村に納める。その夜に収奪にきた野盗を武蔵は村人を指揮して撃退していく。翌朝には武蔵は伊織をつれて村を去る。伊織の家の玄関板に貼られてある『村の者心得べき事』と記された文。その文を徳願寺に来ていた長岡佐渡(片岡千恵蔵)が読む。

 「鍬も剣なり 剣も鍬なり 土にいて乱をわすれず 乱にいて土をわすれず 分に依って一に帰る 又常に 常々の道にたがわざる事」

  小倉藩細川家の家老長岡佐渡は「武蔵という者、相当な人物だな」と唸る。やがて巌流島決斗へと伏線になっていく。「鍬は大地を耕すもの。剣は心を耕すもの。されど一つなり」。原作では耕作しながら川の氾濫から、謙虚に自然と向き合うことを会得する武蔵を吉川英治は書いている。万物はみな一つなり。自分としてもこの言葉、もっともっと吟味していきたい。

Imgd8d421c0zik1zj1_3  吉川英治が朝日新聞に連載をしたのが昭和10年から15年。日本が戦争へと突入していく時代を背景にして出来上がった小説だった。生きることと死ぬことが今よりももっと切実に感じられる世相になっていた。

 「今の時代、何が必要なのか。それは自分をしっかりもって強く生きていく精神力だ。そのために少しでも役立ちたいと、この小説(宮本武蔵)を書いた」と吉川英治は「随筆・窓辺雑草」で記述しているという。

  昭和29年に中国から遅れて復員してきた内田吐夢監督。関ヶ原の戦いの敗残からの14年間の宮本武蔵の生きざまを描いた映画として完成させた。昭和20年の敗戦から高度成長へと進んできた昭和35年。映画「宮本武蔵」を撮る。戦後の15年間、監督自身を含めて生きてきた像を「宮本武蔵」に投射する姿勢でこの映画を撮ったと思える。

  生死をかけた勝負は負けたら命はない。勝っても敗者への想いを背負っていく。それでも己を高める生き方をしてくことを望む。内田吐夢の描いた武蔵像は生身の苦悩し、道筋を求める青年像を描いている。

 生死をかけての人生を歩む心構え。自分はそれを行なって歩んできたのか…? 

――改めて生死をかけての心構えに向き合っていく。

 「この映画、後世に残る映画だな」と観終った時の素直な感想を抱いた。

                           《夢野銀次》

 

 

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