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皇居一般参観と映画「日本のいちばん長い日」

010_2  かつては「江戸城」「宮城」と言われていた「皇居」。正月2日の日に行なわれる一般参賀と12月23日の天皇誕生日に皇居に入ることができる。それ以外は「一般参観」として皇居内に入り、見学することができる。宮内庁に予約申し込みを行ない、係員によるガイド説明を受けての皇居内見学である。

  「インターネットを操作する関係で外国人の参観者が多い。日本人は旅行会社にまかせてしまうから少ないんだ。旅行会社のあっせんでは一般参観の申し込みはできないんだョ」と幹事が語ってくれた。

 平成28年の新年1月14日に「一般参観」として皇居内を見物することができた。風のない穏やかな快晴の中、栃木県シルバー大学南校33期生で作る「健康ウォーククラブ」で企画した「皇居一般参観ツアー」に参加した。

014  午後1時に桔梗門(内桜田門)前で受付を行ない、係員の先導で桔梗門から皇居内に入る。一般参観の予約申し込みは1か月前の1日から行われる。申請には参観者全員の氏名、住所、年齢を記入し、代表者の身分証明を添えて宮内庁に行なう。

  「参観当日、身分証明を求められる場合があるから、用意しておくこと」と幹事から説明があったが、桔梗門受付ではそれはなかった。

 桔梗門の先の「窓明館(そうめいかん)」に案内され、参観者全員にビデオ説明がある。「帰路には隣にある売店が閉まっていますので、お土産は出発前に購入しておいてください」との係員の説明。菊の御紋入りのチョコレートを買った。味はともかく「菊の御紋入り」にこだわっての購入でもある。

016  午後の部の見学者80名の一行はガイドの係員によって窓明館前から歩き始める。参加者の中での高齢者は日本人。若い人たちは話す言葉で東南アジア系の外国人とすぐに分かる。

  桔梗門脇の石垣。石垣には、石を提供した大名の刻印が彫られてある。多くは伊豆半島の安岩石。船で運ばれてきている。ハンドマイクを片手に、係員が石垣の右上を指差し、「〇に十の入った薩摩島津家の御紋です」との説明がある。

  前から見たいと思っていた紋の刻まれた石垣。本当に残っていたのだ。個人で来たらどこにあるのか、見つけるのに苦労する。慶長年間に家康、秀忠による天下普請としての江戸城拡張工事。武力を背景としながら太平の世を築き始めた史跡がここに残っていると実感できる。

024_2  「石垣の高さ14.5メートル、櫓の高さが15.5メートル。石垣は加藤清正が造ったと云われています。関東大震災でも崩れませんでした」との係員からの説明がある。

  「富士見櫓」を仰ぎ見る。こんな近くでみることができた。その迫力に圧倒される。予想外のうれしさに涙がこみ上げてきた。 ――雄大な姿だ。江戸時代そのままの姿を残している。

   江戸城本丸の東南隅に現存する「富士見櫓」は万治2年(1659)に再建されたもの。江戸城の天守閣が明暦3年(1657)の大火(振袖火事)で焼失した後は復興されなかった。そのため富士見櫓が天守閣に代用されたとの係員の説明がある。これ以後、幕府に遠慮した諸大名は3層の櫓までしたか構築しなかったと云われている。

072  どっしりとした石垣。「野づら積み」の石垣は自然石をそのまま積んでいて粗い。その粗さが水はけを良くし、強固な石垣を築いていることになっている。

  石垣の右先端の方に目をやると、本丸に行ける階段通路が見える。柵が設置されているが、石段通路で上れるようになっている。曲がりくねっている石の階段の通路。ここにも昔のまま城址として残っている。

  江戸時代、西の丸と言われた「宮殿」に進む。天皇陛下はこの宮殿にお住まいにはなっていない。皇居奥の吹上御所に住んでいる。一般参観では入れない宮殿を外観から見ることができた。国賓等の接伴や文化勲章授与などの国の公式行事に使われている。

 ――ここが「宮殿」なのかと思わず息をのむ。

034_4  昭和43年に完成した宮殿には正殿、豊明殿など7棟ある。その中で一番長い建物が「長和殿」。長和殿前の東庭を歩きながら係員の説明がつづく。

 「長さ160メートルあります長和殿。中の廊下の長さが100メートルあります。この場所で新年1月2日と天皇誕生日の12月23日の年2回、天皇皇后両陛下と皇族方が長和殿中央のバルコニーにお出ましになり、国民からのお祝を直接お受けになります」との説明がある。

  私たちの歩いている「東庭」の広さは4500坪。一般参賀などでは2万人が一度に参賀できると言う。一度来てみたいと思う。

056_3 バルコニーの高さは3メートルだが、目線の高さで見ることができる。思ったより低い。「バルコニーの前には紅い花の咲く寒椿と白く咲く山茶花の植え込み垣根がございます」と紅白を彩っていることの説明がつづく。

  東庭に入る所に「豊明殿松の塔」が建っている。「松の塔と言われています。葉と葉の間から光が灯すように造られています。先端にある輪は、ふしろという古代婦人の腕輪を形とった照明塔です。夜に明かりがともり、とても綺麗です。皆さまにはご覧いただけないのが残念です」と言われた。

 残念。…しょうがないですネ。夜間には一般人は入ることができないからな。

040_2  「これから正門鉄橋を渡ります。くれぐれも橋の欄干に近づかないでください。カメラ等落としてしまう危険があります」との注意がある。

  「左の下に見えるのが、正門めがね橋と呼ばれていますが、正式名称は正門石橋と申します。橋の右にあるのが皇居正門です」と丁寧な案内で「正門石橋」を見下ろす。崖下は深く、お濠の水が静かに漂っている。…確かに高い所に橋が架かっている。思わず橋の欄干に近づきたくなる二重橋だ。

  「皆さまがお立ちになっている橋が、正門鉄橋と申します。江戸時代には二重橋と呼んでいた橋でございます。高い位置に架かる橋のため、橋の下にもう一本の橋を架けて、橋を上下に組んでいたため二重橋と呼んでいたのです」との説明がある。しかし、どうもテレビ等で皇居が映し出されるのが、「めがね橋」を通して奥の二重橋と伏見櫓。二重橋は下の「めがね橋」と上の「正門鉄橋」の二つの橋を称して二重橋と言う場合もあるという。その方がしっくりと分かりやすいと思える。

043   正門鉄橋の反対側には「伏見櫓・多門」が優雅な姿を現していた。寛永5年(1628)に京都伏見城から移築したものだと云う。

 櫓の高さ13.4メートル。別名「月見櫓」と呼ばれ、皇居で最も美しい櫓といわれている。関東大震災でも崩れなかった石垣。関ヶ原の戦いの前哨戦として伏見城は落城した。伏見櫓をここに移築したのは、関ヶ原を忘れまいとする徳川家の強い意志の表れではなかったかと思えた。

 「正門鉄橋」から先の吹上御所には行くことはできない。ユータウンして戻ることになる。

060   帰路は宮殿長和殿を左に見ながら左折し、豊明殿と宮内庁建物の間を通り、右折して山下通りの坂を下る。宮内庁の裏側の庭には古いリアカーが置かれてあった。

 山下通りの坂道を下りながら、10名位の奉仕団の人たちが庭の掃除をしていた。若い男女のグループだ。仕事なのかの思ったら、同行者が「青森県と書かれた名札をしていたわ、皇居の奉仕団の方達よ」と教えてくれた。皇居の奉仕団は3日間の行程で全国から来る。終了後には皇族の方からねぎらいの御言葉を受けるそうだ。

  坂の下には、坂下門から乾門に通じる道が見えた。その向うにあるのが江戸城旧本丸跡地の「東御苑」だ。高い石垣が印象深い。

068  正面に坂下門が見える位置に宮内庁の建物が建っている。宮内庁の建物を右に見ながら進むと、3台のサイドカーがゆっくりと走ってきた。

  ――迫力ある走りだ。

   サイドカーと馬に乗って、「ポツダム宣言受託反対、国体護持」を掲げたビラをまきながら皇居前を走る映画のシーンが思い浮かんできた。

Psychopsycho1960img600x425139712312   黒沢年男が青年将校葉畑中少佐を演じていた。ギラギラした思いつめた眼光と汗が印象に残っている。岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」が昭和42年(1967)にモノクロ作品として公開された映画だ。

   そして昨年8月に、戦後70年の節目として松竹映画原田眞人監督による「日本のいちばん長い日」が公開されている.

062_2  2本の映画はいずれも半藤一利著のノンフイクション「日本のいちばん長い日」を原作としている。

 昭和20年(1945)8月14 日の深夜。昭和天皇による終戦詔書の玉音を録音した宮内庁(旧宮内省)の建物を見る。そこには映画「日本いちばん長い日」を思い浮かべてしまう昭和の歴史がある。

  ポツダム宣言受託による日本軍の無条件降伏。映画は8月15日の玉音放送に至るまでの御前会議と昭和天皇の御聖断。そして敗戦を今だ経験していない陸軍軍務局青年将校によるクーデター。本土決戦の中から有利な和平を導こうとして、御聖断の再考を要求し、宮城を占拠する宮城事件。「玉音録音盤」の奪還、放送局侵入による「玉音放送」の阻止を図っていった事件など皇居内を舞台に描いている。

2015052016471889e1  岡本喜八監督作品では宮内省に保管された「玉音録音盤」を探す近衛兵の姿など活劇的な作品だったと印象に残っている。昨年公開の原田眞人監督作品では、ポツダム宣言受託に至るまでの陸軍内の軋轢、終戦内閣の閣議と昭和天皇の御聖断を中心に描いている。

  昭和20年7月26日の米英中が発したポツダム宣言では日本政府は国体(天皇を中心とした政体)を守ることはできないと判断し、ポツダム宣言を無視する。しかし、東京から地方都市に広がる空爆の激化。広島、長崎への原爆の投下。そしてソ連軍の参戦。8月13日の御前会議から14日の御聖断にてポツダム宣言受託を決め、15日の玉音放送になる。

  映画は戦争終結を決意していた鈴木貫太郎首相(山崎努)、天皇の気持ちを分かっていた阿南惟幾陸軍大臣(役所広司)、戦争終結を決断し、国体は護持されると確信していた昭和天皇(本木雅弘)の3人の思いを描きながら、ポツダム宣言受託から玉音放送まで陸軍内の動きと連動して描いている。

Main_b_large1  「阿南さんは辞めませんよ」と鈴木首相のセリフがある。この時代、陸軍大臣が辞職した時点で内閣総辞職となり、戦争終結は遠くなることになる。戦争を止めようとする天皇の想い受け止める阿南陸相。しかし、終戦詔書への字句「戦局好転せず」への修正を迫り、陸軍への想いと部下たちの戦争継続を願う気持ちをも理解する。そして苦悩しながらも切腹していく阿南陸軍大臣を役所広司がよく演じている。

  御聖断の再考を促す東条英樹元首相に対して昭和天皇は、「ナポレオンの前半生は本当によくフランスに尽くしたが、後半生は自己の名誉のためにのみ動き。その結果はフランスのためにも世界のためにもならなかった。わたしは歴史をそのように見ている。日本はその轍を踏みたくない。違うか?」。東条は黙礼して下がる。なによりも苦しむ国民のことを考えて判断した姿を描いている。

  この映画を観て、憲法第9条の戦争と武力の放棄は昭和天皇の発意であったのかもしれないと思えてきた。

066_3  御前会議における御聖断がなかったら、ソ連軍が北海道に上陸し、ドイツのように日本は東西に分断されていたことになっていた。日本の共産主義化を恐れたのは時の政府や財界であり、終戦、和平への道は急務を要していたこともある。しかし、何よりも指導者は戦争で苦しむ国民がいたことを忘れてはいけないことを描いた映画だと思う。

 御前会議の開かれた吹上御所にある地下防空壕。その映像が昨年の7月に宮内庁から公開されている。内部のコンクリートはひび割れ、雨水や土砂が流れ込んでいる。戦争を終結し平和への道を歩み出した史跡として残してほしいと願う。

 宮内庁から左にある「蓮池濠」を見ながら富士見櫓の脇を通り桔梗門まで歩き、皇居参観は終了した。案内をした係員は優しい言葉での説明だったのが良かった。何よりも現在につながっている史跡を観たと実感できたのがうれしかった。

009  今回の皇居見学で、ここは徳川時代から明治、昭和、現代に至るまで、国会と異なる日本の政治の大きな舞台であったことだとしみじみ思えた。 

   テレビドラマ「天皇の料理番」の中で、進駐軍将校に主人公秋山篤蔵の師匠である宇佐美(小林薫)は、「天皇は味噌のように、なじみ深いものだ。もし、毎日口にしている味噌が無くなったら、とても寂しく、暴動さえお起きる。この私もそれに参加するでしょう」と答えるシーンがあった。天皇の存在を言いあてているセリフだと思えた。

  ずっと以前に熊本からの帰路の飛行機で皇太子殿下一行と乗り合わせることになった。「このまま飛行機が墜落したら、皇太子殿下と共に亡くなるのかな…」と不思議な何とも言えない感無量の気持ちになった経験がある。天皇とは文化なのか…。いつまでも平和を願う天皇陛下であって欲しいと願う。   

                          《夢野銀次》

 

 

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65歳を迎えて―小津安二郎「東京物語」から

Photo   「世界に先駆けて日本は超高齢社会を迎えた。80歳を超えてからの人生設計を組むことが必要だ」と五木寛之は語る。6月8日放送の阿川佐和子のトーク番組「サワコの朝」においてだ。さらに「80歳からの人生は誰も教えてくれない。今を一つ一つ積み重ねていくことが大切だ」と80歳になった五木寛之は阿川佐和子に淡々と語っていた。

 9月1日で私は65歳を迎えた。「介護保険証」も届き、高齢者の仲間入りとなった。総人口においての65歳上の割合を示す高齢化率が、平成24年(2012)では23.3パーセントを示した。高齢化率が20パーセントを超えれば「超高齢社会」と定義されている。17年後の高齢化率は28パーセントと予測されている。世界に先駆けて日本はどの国も経験していない本格的な「超高齢社会」を迎えてきた。

Tokyo_monogatari_poster_21  介護や介護保険、社会保障費の増加等数ある高齢化社会問題の中で高齢者の「孤立」が問われてきている。核家族化がすすむ中で65歳以上の単身者高齢者がこの30年間で88万人から480万人と急増してきたからだ。

 昨年の平成24年版高齢社会白書の中で「地域社会のなかでの人間関係を含め、地域力や仲間力が弱体化、喪失する中で、社会的孤立や孤立死の問題が出てきた」と地域社会の崩壊を指摘し、「新たな超高齢社会に適合した地域社会の再構築の必要性」が強調されている。

 昭和28年(1953)公開の小津安二郎監督、笠智衆主演の「東京物語」のDVDを図書館から借りて来て観た。戦後から8年がたち、核家族化が進む中で家族の崩壊を描いた優れた作品だと思えた。 「年老いた両親の一世一代の東京旅行を通じて、家族の絆、夫婦と子供、老いと死、人間の一生を冷徹な視線で描いた作品である。今日の核家族化と高齢化の問題を先取りした作品だ」と批評家の評価を待つものではない。

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 この「東京物語」の中で、わたしの胸にズシーンと突き刺さったシーンがラストに出てきた。

 それは、母とみ(東山千栄子)の葬儀が終わった後、長女の志げ(杉村春子)は次女の京子(香川京子)に、母とみの形見の品をよこすよう催促する。そして志げは、とみよりも父周吉(笠智衆)が先に死ぬのが望ましかったと主張し、長男の幸一(佐分利信)もそれに同調する。そして、戦死した次男の嫁、紀子(原節子)以外の子供たちは、葬儀が終わらるとそくそくと帰って行った。父と尾道で暮らす小学校教諭の京子は帰って行った兄や姉の姿勢に憤慨する。紀子は京子に「歳を取れば誰でも自分の生活が一番大切になるものだ」と諭す。その京子も東京に帰る時、義父の周吉に再婚を考えていることを打ち明ける。

Tokyostory2ssss1_2  これらのシーンから母の葬儀の際にそくそく帰ってしまったわたしの姿が見えた。この映画の通りだった。自分の生活を優先させる「わたし」がいたからだ。

 平成23年(2012)、10年おきに行われている英国映画協会の「世界で最も優れた映画50選」で、358人の映画監督が選ぶ(監督部門)で小津安二郎監督の「東京物語」が1位となった。日常の出来事の中で誰もが向き合っていく別れを行間と言葉に思いを込めて、それぞれが持つ孤独を演出する最高傑作としての評価を得ての1位だった。

 若い頃見た時の小津作品は「こんにちわ」などの日常挨拶のセリフが多く、見る気を無くしていた。しかし、日常の挨拶の言葉から人間関係が始まることがようやく最近わかってきた。「おはよう」と言いながら心ではさらに「お元気ですか」ということを追加してく挨拶。

P6210304_2  今から2年半前にこの地に引っ越してきた。自治会は4つの坪から構成されている。江戸期の年貢米を納める集落単位のことを「坪」ということを最近になって知ることができた。葬儀では地域の人が墓の穴を掘る床取り(とことり)という役割が今なお存続してる。さらに全戸総出で用水溝の「堀ざらい」や神社の草むしり等を取り組む。都会暮らしのわたしには、当初戸惑いを感じた。しかし、最近ではこれらの役割や行事を行うことが地域の人々を結ぶ支えになっているのではないかと思うようになってきた。江戸期の農村社会の分野を身近に学ぶ機会を得たと思ってきている。

 「地域社会の崩壊」から「新たな地域社会の構築」を国や地方自治体での施策が進められると思う。超高齢社会では、より社会参加の姿勢が重要になってくる。「生涯学習」を基本に身近な地域社会と向き合い、「栃木のまち」を変えていくとりくみに参加していくつもりだ。 65歳を迎えたわたしの心づもりとしていく。

                          《夢野銀次》

 

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何を忘れてきたのか-映画「北のカナリアたち」

Poster1  「俺は何を忘れてきたのかな」と島の分教場から鈴木信人(森山未來)護送する時、定年間近かの刑事(石橋蓮司)がつぶやく。

 ~ 歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか  いえいえそれはかわいそう  歌を忘れたカナリアは背戸の小薮に埋けましょか  いえいえ それはなりませぬ  歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか いえいえ それはかわいそう  歌を忘れたカナリアは象牙の舟に銀のかい  月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す~ 

 童謡「かなりあ」(詩、西条八十)

 大正期、国が主導した唱歌ではなく「子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないでこれを優しく育むような歌と曲」を作っていくとして童謡が生まれたという。

 湊かなえの連作ミステリー「往復書簡」(幻冬舎刊)に収められている「二十年後の宿題」を原案に、吉永小百合主演、阪本順治監督。脚本「北の零年」の那須真知子。撮影「劔岳」の木村大作で平成24年(2012)11月3日公開、東映創立60周年記念作品「北のカナリアたち」を観た。

Sub_large1  映画は東京の図書館を定年退職した元分教場の教師だった川島はる(吉永小百合)は教え子・鈴木信人(森山未來)の事件をきっかけに、教え子に会うため最北の島、礼文島・利尻島に向かう。分教場には6人の生徒がいた。「先生が来るまで学校がつまらなかった」とこぼしていた子供たちの顔にも歌を通して笑顔が溢れるようになる。大自然に響き渡る透き通る歌声は優しく劇場を包みこんでいく。川島はるは6人の生徒たち(森山未來、満島ひかり、勝地涼、宮崎あおい、小池栄子、松田龍平)と久しぶりに再会する。そして20年前の事件を彼らの口から語られる。生徒たちが20年間言えずにいた想いと抱えていた後悔。そのことが大きな傷となり、今も心に残っていたことを元教師川島はるは知る。そして自身もまた、心に閉じ込めていた想いを6人に明かしていく。

  8801cbd3_6401_2映画のラスト、分教場の教室で「歌を忘れたカナリア」を元教師と6人の生徒が歌う。歌を忘れた先生と6人の生徒たち。自分の居場所を見つけることができれば再び美しい声で歌うことができるところで終わる。吉永小百合の笑顔を素直に見ることができた。何故か涙がこぼれてきてしまった自分がいた。

 「自分は何を忘れてきたのかな」と映画終了後、誰もいない映画館の座席で思った。

 心に閉じ込めていたこと。勉強するために入学した大学を満足に卒業できなかったことを亡くなった両親に今でも済まないと想っていること。今は何を勉強したかったからではない。その時にもっていた気持。学んでいく姿勢を大事にしていくことが自分の居場所なのだと、この映画から受け止めた。 

  画面に映し出させる吉永小百合は確かに存在感のある女優だと改めて感じた。40歳代と60歳代でも年齢の変わらない表情や動作。何故か違和感を感じさせなかった。吉永小百合は吉永小百合なのだということを描いている。煙突に昇るシーン、キスシーン、少し猫背で歩く姿。最後に自分の居場所を見出そうとする時の表情は穏やかな表情は美しいと思った。その表情は50年間、吉永小百合を支えてきてくれた全国の吉永小百合ファンに暖かな眼差しとして画面に映しだしていた。そう感じたのは自分だけなのかな…。

                           《夢野銀次》

 

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栃木の街には映画館がたくさんあった

 Photo 昨年(平成24年)の5月、第5回目となる「栃木・蔵の街かど映画祭」の中で、「とちぎに映画館があった頃」をテーマに「六人姉妹」が上映されていた。残念ながら栃木駅や第一小学校前が撮影されている続編ではないため観ないで帰った。

 昭和30年代、栃木の街には松竹・大映の上映館として「松竹館」、東映・日活の上映館「日活文化会館」、東宝・新東宝の上映館「明治座」、洋画の上映館として「白百合座→スカラ座」があった。そして、その後には「栃木東映」が出来て、あわせて5館の映画館もあった。たくさんあったのだ。栃木東映ができたことで日活文化会館は日活上映専門館となった。さらに明治座が焼失してしまい「ひかり座」となり、「セントラル座」となった記憶があるが、定かではない。(注・記憶で記述しているため間違いはご容赦ください)

  東京での生活は世田谷三軒茶屋、杉並区荻窪、吉祥寺、練馬高野台、新所沢と住居が変わっていった。しかし、住む場所の近くには「映画館」があり、歩いて映画館に行くことができ、たくさんの想いでが蓄積されてもきた。栃木の街に映画館があった頃の思い出を綴っていく。

Photo_2《洋画のスカラ座》

 万町交番の先、北にまっすぐ合戦場に行く道が出来たのが昭和7年。それまでは万町交番を左折し、すぐ右斜めの道「例幣使道」に入り、嘉右衛門町、大町を通り合戦場に出ていた。万町交番から新しく合戦場に繋がった北関門道路の200メートル先の左側に「白百合座」があった。

 小さい頃観た映画の記憶は畳敷きの二階席から「お化け映画」だった。その後、洋画専用の映画館「スカラ座」が新装となった。一階だけの映画館は初めてだった。隣は八百屋で絶えず威勢の良い掛け声が切符売り場まで聞こえていた。近くには毎日通った河津珠算塾もあった。

Photo_3  「史上最大の作戦」「大脱走」「終着駅」「鳥」等あるが、最も印象に残っているのは「ローマの休日」だ。リバイバル上映だったが、世の中にこれほど可憐な女性がいるのかと、中学生の自分の胸をかきむしったことはなかった。深夜には市内にある映画ポスター掲示板のところに行き、オードリーヘップバーンの王女姿のポスターをはがし、机の引き出しに閉まっていた。その残像からか、高校に入り、長い黒髪の上級生の女学生に憧れ恋をした。冬休み、誰もいない校舎の教室で二人きりで高校卒業後について話した思い出が残っている。木造だった校舎は今は鉄筋となり昔日の面影はないのが残念だ。攻めて木造の図書館ぐらい残しておいてほしかった。

Photo_4《古い建物の明治座》

 二階脇には桟敷席のある古い映画館だった。戦後間もない時に美空ひばりがこの明治座で歌謡ショウをした話を父から聞いたことがある。新東宝、渡辺那夫監督、美空ひばり主演の「雪の丞変化」前・後編をこの明治座で観たナ。東宝の若大将シリーズ、黒澤明監督「七人の侍」。さらには栃木市内で撮影されている「路傍の石」や落語「死神」を原作としたフランキー堺・香川京子・有島一郎の「幽霊繁盛記」など記憶にある。フランキー堺と香川京子が巴波川の木橋の欄干での夜間ロケーションを見に行ったりした。橋の下に置いた「たらい」にライトを当てて、二人の顔に波の影を反射させていた。

 その「明治座」が焼けてしまい、大映上映の「ひかり座」に変わった。若尾文子の「越前竹人形」のたらいでの行水など思う浮かぶ。高田美和・舟木一夫の「高校三年生」ではセーラー服の女子高生で館内が立ち見で一杯になっていた。そのあと洋画や東映の時代劇が上映され、「セントラル」と館名が変わったのではないかと思う。

Photo_5《うずま川沿いにあった日活文化会館》

 小学校の帰り道にあつた映画館だ。今村昌平監督「にっぽん昆虫記」、左幸子の左乳首が吸われているポスターが大きく掲げられていたのが印象に残っている。小学生の自分には刺激すぎた映画として、舞妓さんに扮した浅丘ルリ子と津川雅彦とが海辺でのキスシーンが強烈だったことを覚えている。

 東映時代劇で超満員となっている時には右わきのトイレから舞台袖に出て、舞台袖に座り、「忠臣蔵」を観た。自動車レースの映画では二階席で朝からずーと観ていたため、家から迎えがきた。帰ってお腹が痛いので栃木病院の先生が往診に来て、「腹が減っているからお腹が痛いのだ」と診察され、倭屋からラーメン出前をしてもらい食べた。あの倭屋のラーメンは今は食べられない。

Photo  多くの映画は封切りから1か月後に栃木での上映となる。しかし、正月映画だけは東京と同時の上映となる。美空ひばり「花笠道中」正月映画として観に行った。

 吉永小百合の「草を刈る娘」、新鮮な女の子の印象を受け、この映画で吉永小百合のファンになった。斜め前には「ぶんか食堂」がある。今も営業していた。薄味のラーメン一杯食べながら「大相撲」のテレビ中継を座敷に座って観ていた。その頃の上映映画は「若乃花物語」や力道山物語としての「怒涛の男」だった。寒い冬の夜の映画、石原裕次郎の「青春とは何だ」では、長椅子の下には熱い湯の通った鉄管があり、足を乗せて映画を観た。上映終了後には「ナイトショウ」として三益愛子の母ものの映画を母や姉に連れられて観た記憶がある。フランク永井や田代みどりなどの歌謡ショウもきていた。

Photo_9《一番新しくできた栃木東映》

 一番新しくできた映画館。万町交番の斜め前にあったのが「栃木東映」だ。東映映画専門劇場でスタートした。中村錦之介の「宮本武蔵」や北大路欣也・松方弘樹らの新しい時代劇など上映していた。夜の最期の一本の映画では35円の料金で観ることができた。切符もぎり場で一円玉で払おうとしたら、タダで入れてくれた。面倒臭かったのだろう。

 大川橋蔵が栃木にきた時に栃木東映にも舞台挨拶をした。私は中央公民館で大川橋蔵と「愛ちゃんはお嫁に」の鈴木三重子の歌謡ショウを観ていた。閉鎖した映画館の後にはパチンコ店ができていた。

 

Photo_10《今はパチンコ店となっている松竹館》

  ミツワ通り沿いで家から遠いため自転車で行った映画館。坂本九の「九ちゃん音頭」を観た後、自転車で暗い夜道を帰った記憶がある。三橋美智也の「リンゴ村から」、佐田啓二・高峯秀子「喜びも悲しみも幾年」、長谷川一夫「雪の渡り鳥」、勝新太郎「座頭市」など松竹と大映の映画館だった。さらには黒澤明の「赤ひげ」「天国と地獄」など東宝系も上映するようになった。上映後に舞台で「のど自慢大会」もやっていた。その時の上映作品が田村高広の時代劇だった。今はパチンコ店となっている。

 小学校から中学校にかけて映画館の思い出をだらだら綴ってきたのは、自分自身の記憶を残すことと、「映画館」のある街とは何かを考えたかったからでもある。

Photo_11 宇都宮大学国際学部行政学の中村祐司教授は「蔵の街栃木市」について、地域活性化として栃木市の景観は美しく様変わりし、情緒あふれる街並みとへ変わったことを評価したうえで、次のような指摘をもしている。「商店街にはシャッターの下りた店が多く人通りも少なく、人々は郊外のショッピングセンターへ行っている。今回栃木市を散策して感じたことは蔵の街の意識が強いのと、対象とする層が偏っていることである。中心市街地の活性化に取り組んだ金融機関、宿泊施設、飲食店、百貨店などで若者や家族連れが来るような遊び場がなく、どちらかというと車を利用しない高齢者向きのようで感じた。まちづくり事業を推進する上で時の流れに応じ現代にあったまちづくりで若者や家族みんなで遊べる場所である映画館やショッピング街などを取り入れる必要がある。外からの観光客を呼び込むのも大切だが地元市民を呼び込むのはもっと大切であり、中心市街地の活性化に繋がっていく」。この指摘は常設の映画館のない栃木の街は何処か文化から置いてきぼりにされているように感じていた私の考えと一致しているのだ。

 「街は人と情報を引き寄せ、再び解き放つ磁場だった」と読売新聞文化部長の福士千恵子氏が指摘している。IT情報など時代の変化があっても、街は情報を共有すしあえる場であり、情報を発信する場でもある。そのことが人々を呼び込む魅力に満ちて溢れてくる。日常的に栃木の街を散策する若者や家族連れの人々で生き交う「まちづくり」をしていくことが地域活性化の街づくりでもある。その具体策として「銀座通り」や「ミツワ通り」の商店街を行政として活性化していく施策が今一番求められているのではないかと思える。蔵の街としての歴史ある街づくりと若者や家族連れで賑わうショッピング街、「古さと新しさが対比するまちづくり」を目指す。そんな目標を掲げていったらどうだろうかと考えていきたい。

                      《夢野銀次》

 

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