城址訪問

皇居一般参観と映画「日本のいちばん長い日」

010_2  かつては「江戸城」「宮城」と言われていた「皇居」。正月2日の日に行なわれる一般参賀と12月23日の天皇誕生日に皇居に入ることができる。それ以外は「一般参観」として皇居内に入り、見学することができる。宮内庁に予約申し込みを行ない、係員によるガイド説明を受けての皇居内見学である。

  「インターネットを操作する関係で外国人の参観者が多い。日本人は旅行会社にまかせてしまうから少ないんだ。旅行会社のあっせんでは一般参観の申し込みはできないんだョ」と幹事が語ってくれた。

 平成28年の新年1月14日に「一般参観」として皇居内を見物することができた。風のない穏やかな快晴の中、栃木県シルバー大学南校33期生で作る「健康ウォーククラブ」で企画した「皇居一般参観ツアー」に参加した。

014  午後1時に桔梗門(内桜田門)前で受付を行ない、係員の先導で桔梗門から皇居内に入る。一般参観の予約申し込みは1か月前の1日から行われる。申請には参観者全員の氏名、住所、年齢を記入し、代表者の身分証明を添えて宮内庁に行なう。

  「参観当日、身分証明を求められる場合があるから、用意しておくこと」と幹事から説明があったが、桔梗門受付ではそれはなかった。

 桔梗門の先の「窓明館(そうめいかん)」に案内され、参観者全員にビデオ説明がある。「帰路には隣にある売店が閉まっていますので、お土産は出発前に購入しておいてください」との係員の説明。菊の御紋入りのチョコレートを買った。味はともかく「菊の御紋入り」にこだわっての購入でもある。

016  午後の部の見学者80名の一行はガイドの係員によって窓明館前から歩き始める。参加者の中での高齢者は日本人。若い人たちは話す言葉で東南アジア系の外国人とすぐに分かる。

  桔梗門脇の石垣。石垣には、石を提供した大名の刻印が彫られてある。多くは伊豆半島の安岩石。船で運ばれてきている。ハンドマイクを片手に、係員が石垣の右上を指差し、「〇に十の入った薩摩島津家の御紋です」との説明がある。

  前から見たいと思っていた紋の刻まれた石垣。本当に残っていたのだ。個人で来たらどこにあるのか、見つけるのに苦労する。慶長年間に家康、秀忠による天下普請としての江戸城拡張工事。武力を背景としながら太平の世を築き始めた史跡がここに残っていると実感できる。

024_2  「石垣の高さ14.5メートル、櫓の高さが15.5メートル。石垣は加藤清正が造ったと云われています。関東大震災でも崩れませんでした」との係員からの説明がある。

  「富士見櫓」を仰ぎ見る。こんな近くでみることができた。その迫力に圧倒される。予想外のうれしさに涙がこみ上げてきた。 ――雄大な姿だ。江戸時代そのままの姿を残している。

   江戸城本丸の東南隅に現存する「富士見櫓」は万治2年(1659)に再建されたもの。江戸城の天守閣が明暦3年(1657)の大火(振袖火事)で焼失した後は復興されなかった。そのため富士見櫓が天守閣に代用されたとの係員の説明がある。これ以後、幕府に遠慮した諸大名は3層の櫓までしたか構築しなかったと云われている。

072  どっしりとした石垣。「野づら積み」の石垣は自然石をそのまま積んでいて粗い。その粗さが水はけを良くし、強固な石垣を築いていることになっている。

  石垣の右先端の方に目をやると、本丸に行ける階段通路が見える。柵が設置されているが、石段通路で上れるようになっている。曲がりくねっている石の階段の通路。ここにも昔のまま城址として残っている。

  江戸時代、西の丸と言われた「宮殿」に進む。天皇陛下はこの宮殿にお住まいにはなっていない。皇居奥の吹上御所に住んでいる。一般参観では入れない宮殿を外観から見ることができた。国賓等の接伴や文化勲章授与などの国の公式行事に使われている。

 ――ここが「宮殿」なのかと思わず感嘆した。

034_4  昭和43年に完成した宮殿には正殿、豊明殿など7棟ある。その中で一番長い建物が「長和殿」。長和殿前の東庭を歩きながら係員の説明がつづく。

 「長さ160メートルあります長和殿。中の廊下の長さが100メートルあります。この場所で新年1月2日と天皇誕生日の12月23日の年2回、天皇皇后両陛下と皇族方が長和殿中央のバルコニーにお出ましになり、国民からのお祝を直接お受けになります」との説明がある。

  私たちの歩いている「東庭」の広さは4500坪。一般参賀などでは2万人が一度に参賀できると言う。一度来てみたいと思う。

056_3 バルコニーの高さは3メートルだが、目線の高さで見ることができる。思ったより低い。「バルコニーの前には紅い花の咲く寒椿と白く咲く山茶花の植え込み垣根がございます」と紅白を彩っていることの説明がつづく。

  東庭に入る所に「豊明殿松の塔」が建っている。「松の塔と言われています。葉と葉の間から光が灯すように造られています。先端にある輪は、ふしろという古代婦人の腕輪を形とった照明塔です。夜に明かりがともり、とても綺麗です。皆さまにはご覧いただけないのが残念です」と言われた。

 残念。…しょうがないですネ。夜間には一般人は入ることができないからな。

040_2  「これから正門鉄橋を渡ります。くれぐれも橋の欄干に近づかないでください。カメラ等落としてしまう危険があります」との注意がある。

  「左の下に見えるのが、正門めがね橋と呼ばれていますが、正式名称は正門石橋と申します。橋の右にあるのが皇居正門です」と丁寧な案内で「正門石橋」を見下ろす。崖下は深く、お濠の水が静かに漂っている。…確かに高い所に橋が架かっている。思わず橋の欄干に近づきたくなる二重橋だ。

  「皆さまがお立ちになっている橋が、正門鉄橋と申します。江戸時代には二重橋と呼んでいた橋でございます。高い位置に架かる橋のため、橋の下にもう一本の橋を架けて、橋を上下に組んでいたため二重橋と呼んでいたのです」との説明がある。しかし、どうもテレビ等で皇居が映し出されるのが、「めがね橋」を通して奥の二重橋と伏見櫓。二重橋は下の「めがね橋」と上の「正門鉄橋」の二つの橋を称して二重橋と言う場合もあるという。その方がしっくりと分かりやすいと思える。

043   正門鉄橋の反対側には「伏見櫓・多門」が優雅な姿を現していた。寛永5年(1628)に京都伏見城から移築したものだと云う。

 櫓の高さ13.4メートル。別名「月見櫓」と呼ばれ、皇居で最も美しい櫓といわれている。関東大震災でも崩れなかった石垣。関ヶ原の戦いの前哨戦として伏見城は落城した。伏見櫓をここに移築したのは、関ヶ原を忘れまいとする徳川家の強い意志の表れではなかったかと思えた。

 「正門鉄橋」から先の吹上御所には行くことはできない。ユータウンして戻ることになる。

060   帰路は宮殿長和殿を左に見ながら左折し、豊明殿と宮内庁建物の間を通り、右折して山下通りの坂を下る。宮内庁の裏側の庭には古いリアカーが置かれてあった。

 山下通りの坂道を下りながら、10名位の奉仕団の人たちが庭の掃除をしていた。若い男女のグループだ。仕事なのかの思ったら、同行者が「青森県と書かれた名札をしていたわ、皇居の奉仕団の方達よ」と教えてくれた。皇居の奉仕団は3日間の行程で全国から来る。終了後には皇族の方からねぎらいの御言葉を受けるそうだ。

  坂の下には、坂下門から乾門に通じる道が見えた。その向うにあるのが江戸城旧本丸跡地の「東御苑」だ。高い石垣が印象深い。

068  正面に坂下門が見える位置に宮内庁の建物が建っている。宮内庁の建物を右に見ながら進むと、3台のサイドカーがゆっくりと走ってきた。

  ――迫力ある走りだ。

   サイドカーと馬に乗って、「ポツダム宣言受託反対、国体護持」を掲げたビラをまきながら皇居前を走る映画のシーンが思い浮かんできた。

Psychopsycho1960img600x425139712312   黒沢年男が青年将校葉畑中少佐を演じていた。ギラギラした思いつめた眼光と汗が印象に残っている。岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」が昭和42年(1967)にモノクロ作品として公開された映画だ。

   そして昨年8月に、戦後70年の節目として松竹映画原田眞人監督による「日本のいちばん長い日」が公開されている.

062_2  2本の映画はいずれも半藤一利著のノンフイクション「日本のいちばん長い日」を原作としている。

 昭和20年(1945)8月14 日の深夜。昭和天皇による終戦詔書の玉音を録音した宮内庁(旧宮内省)の建物を見る。そこには映画「日本いちばん長い日」を思い浮かべてしまう昭和の歴史がある。

  ポツダム宣言受託による日本軍の無条件降伏。映画は8月15日の玉音放送に至るまでの御前会議と昭和天皇の御聖断。そして敗戦を今だ経験していない陸軍軍務局青年将校によるクーデター。本土決戦の中から有利な和平を導こうとして、御聖断の再考を要求し、宮城を占拠する宮城事件。「玉音録音盤」の奪還、放送局侵入による「玉音放送」の阻止を図っていった事件など皇居内を舞台に描いている。

2015052016471889e1  岡本喜八監督作品では宮内省に保管された「玉音録音盤」を探す近衛兵の姿など活劇的な作品だったと印象に残っている。昨年公開の原田眞人監督作品では、ポツダム宣言受託に至るまでの陸軍内の軋轢、終戦内閣の閣議と昭和天皇の御聖断を中心に描いている。

  昭和20年7月26日の米英中が発したポツダム宣言では日本政府は国体(天皇を中心とした政体)を守ることはできないと判断し、ポツダム宣言を無視する。しかし、東京から地方都市に広がる空爆の激化。広島、長崎への原爆の投下。そしてソ連軍の参戦。8月13日の御前会議から14日の御聖断にてポツダム宣言受託を決め、15日の玉音放送になる。

  映画は戦争終結を決意していた鈴木貫太郎首相(山崎努)、天皇の気持ちを分かっていた阿南惟幾陸軍大臣(役所広司)、戦争終結を決断し、国体は護持されると確信していた昭和天皇(本木雅弘)の3人の思いを描きながら、ポツダム宣言受託から玉音放送まで陸軍内の動きと連動して描いている。

Main_b_large1  「阿南さんは辞めませんよ」と鈴木首相のセリフがある。この時代、陸軍大臣が辞職した時点で内閣総辞職となり、戦争終結は遠くなることになる。戦争を止めようとする天皇の想い受け止める阿南陸相。しかし、終戦詔書への字句「戦局好転せず」への修正を迫り、陸軍への想いと部下たちの戦争継続を願う気持ちをも理解する。そして苦悩しながらも切腹していく阿南陸軍大臣を役所広司がよく演じている。

  御聖断の再考を促す東条英樹元首相に対して昭和天皇は、「ナポレオンの前半生は本当によくフランスに尽くしたが、後半生は自己の名誉のためにのみ動き。その結果はフランスのためにも世界のためにもならなかった。わたしは歴史をそのように見ている。日本はその轍を踏みたくない。違うか?」。東条は黙礼して下がる。なによりも苦しむ国民のことを考えて判断した姿を描いている。

  この映画を観て、憲法第9条の戦争と武力の放棄は昭和天皇の発意であったのかもしれないと思えてきた。

066_3  御前会議における御聖断がなかったら、ソ連軍が北海道に上陸し、ドイツのように日本は東西に分断されていたことになっていた。日本の共産主義化を恐れたのは時の政府や財界であり、終戦、和平への道は急務を要していたこともある。しかし、何よりも指導者は戦争で苦しむ国民がいたことを忘れてはいけないことを描いた映画だと思う。

 御前会議の開かれた吹上御所にある地下防空壕。その映像が昨年の7月に宮内庁から公開されている。内部のコンクリートはひび割れ、雨水や土砂が流れ込んでいる。戦争を終結し平和への道を歩み出した史跡として残してほしいと願う。

 宮内庁から左にある「蓮池濠」を見ながら富士見櫓の脇を通り桔梗門まで歩き、皇居参観は終了した。案内をした係員は優しい言葉での説明だったのが良かった。何よりも現在につながっている史跡を観たと実感できたのがうれしかった。

009  今回の皇居見学で、ここは徳川時代から明治、昭和、現代に至るまで、国会と異なる日本の政治の大きな舞台であったことだとしみじみ思えた。 

   テレビドラマ「天皇の料理番」の中で、進駐軍将校に主人公秋山篤蔵の師匠である宇佐美(小林薫)は、「天皇は味噌のように、なじみ深いものだ。もし、毎日口にしている味噌が無くなったら、とても寂しく、暴動さえお起きる。この私もそれに参加するでしょう」と答えるシーンがあった。天皇の存在を言いあてているセリフだと思えた。

  ずっと以前に熊本からの帰路の飛行機で皇太子殿下一行と乗り合わせることになった。「このまま飛行機が墜落したら、皇太子殿下と共に亡くなるのかな…」と不思議な何とも言えない感無量の気持ちになった経験がある。天皇とは文化なのか…。いつまでも平和を願う天皇陛下であって欲しいと願う。   

                                         《夢野銀次》

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城郭の名残り―栃木町・明治の栃木県庁堀跡

Photo  「県庁跡にある堀は押し寄せる農民一揆から県庁を守るためできていたのかな?」と、小学校に通っていた頃、県庁堀を見ながら思っていた。

  今の栃木中央小学校になった栃木第二小学校の傍を県庁掘が流れていた。小学校は栃木高校と同じく県庁堀の中にあった。平成26年2月に栃木市万町にあった福田屋跡地に移転した栃木市役所の庁舎も南側の堀沿いにあった。大正10年(1921)に建築された旧市役所別館は今も空き家として県庁堀の水門・揚場跡に建っている。文化遺産の市役所別館を「栃木市歴史資料館」として活用して欲しいと願っているのだが…。

10  県庁堀は明治6年(1873)1月から明治17年(1884)1月の間、栃木町に栃木県庁が置かれていた時に、県庁舎や官吏宿舎の敷地を囲むように造られていた。水源は堀の北側、現在の栃木高校の校舎と校庭の境目にあり、東西に現在も流れ出ている。東西約246m、南北約315mの堀と巴波川から県庁に直接舟が着くように造られた長さ120mの漕渠(そうきょ、運河)があり、合わせて総延長1260m、堀の幅3.5~5.5mとなっている。

  平成8年(1996)8月に栃木県指定文化財に登録されている。県庁堀の正式な名前は県庁堀川と称し、堀にはニシキ鯉の群れが、清流の中を生き生きと泳いでいる。平成8年に水源のある栃高の堀を含め護岸工事によって県庁堀全体が整備されている。

Photo  明治4年(1871)6月に鍋島貞幹(なべしまさだもと)日光県知事は本庁を日光から栃木町への移転と日光県から栃木県に名称を変更する願出を明治中央政府に出している。移転したい理由として、①巴波川舟運の発達により輸送が便利、②下野国の中央に位置し、道路が各方面に通じていて交通が便利、③人家が密集していて豪農商家があり、人や物資が集中する土地、④その一方、無頼の徒が流れ込んで来ることもあり、かつて足利藩が出張陣屋を設置して取り締まってきた場所だと挙げている。この時初めて「栃木県」という名称が現れたと栃木県史に記述されている。これに対する指令(返答)はなかった。

Photo_9  日光県(2万石)は明治2年(1869)7月に真岡県(8万3千石)と合わせて設置された。宇都宮藩7万石を超える10万石の支配地を有する石高となった。下野には藩や諸藩飛び地と徳川幕府・旗本領地があった。幕府領を管轄にしていたのが真岡代官所だった。慶応4年(明治元年・1868)6月に真岡代官所管轄地を中央政府の直轄地とし、真岡県と称した。その支配地は芳賀郡2ヵ町75ヵ村、河内郡4ヵ宿44ヵ村、都賀郡4ヵ宿50ヵ村、塩谷郡9ヵ村、那須郡1ヵ宿60ヵ村、5郡合わせて238ヵ村9ヵ宿2ヵ町と日光神領・旗本領合わせると下野国20%(下野国全体55万石)を占める。武蔵・相模・伊豆の幕領26万石を所管轄する韮山代官所には及ばないが、下野国最大の所管轄・石高を有する県になった。この真岡県知事に鍋島藩家士鍋島貞幹が「総野鎮撫府」(長官は鍋島藩主、鍋島直大)から任命された。

Photo_3  下野新聞社発行「明治百年野州外史」によれば、総野鎮撫府とは下総と下野の2国支配下として「一国鎮圧・政務採決」を任務とした軍政機関であった。鍋島直大(なべしまなおひろ)長官に対する命令書には『2国近辺に賊軍が出没して官軍に抵抗し、王民を苦しめ、まだ平定に至らないから、賊軍を鎮圧し、2国の各藩の動向をよく見極め、民政を取り締まり、人民が家業に安んじうるように指揮せよ』と記述されている。

  藩主が受けた命令はそのまま下野真岡県知事となった家臣の鍋島貞幹にも同様の命令となって、戊辰戦争東北の戦いという戦時下の考えで下野国支配が根底に流れていったと考えられる。謎の多い真岡代官山内原七郎処刑にもつながり、以後明治16年(1883)まで下野栃木県の知事(県令)は鍋島貞幹、藤川為親と佐賀藩士の支配下とつづくことになり、藩主の受けた命令が影響を与えていくと推察する。

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  「昔からここを大手前と言っていて、盆踊りなどいろんな地域の行事をやっていた。桜も植えられていた。今は両側に家が建っているが幅の広い道路と言うよりも広場だったんだ。この道路は第一小学校の敷地の一部だと役所は言っているな」と第一小学校校門前の皆川街道沿いに建つ設備会社「ナガサワ」の会長が話してくれた。
Photo_2   地図に記載されていない「大手前」という地域で使われてきている道路の名称。「ナガサワ」の店舗にその看板が掲げられている。「ナガサワ」の店舗から第一小学校の校門を見る。校舎の北側に県庁堀があり、この道路は県庁の表門へと繋がっていることが分かる。表門は城の大手門を意味する。大手門に繋がる道として「大手前」と呼んでいることになる。地域の人の間には県庁舎を城郭として見ていたのではないかと思えてくる。

 
  明治4年(1871)の廃藩置県を前に明治3年(1870)7月に日光県は足利藩と村々の交換を行っている。足利藩領だった栃木城内村が日光県に組み入れらたことにより栃木町は足利藩栃木陣屋の支配から日光県管轄地となった。この領地交換については栃木市史では鍋島貞幹が栃木町に県庁を移転させるため行なったと記述している。栃木県史では領地交換の結果として、群馬県館林藩を含め地理的中間地の栃木町が栃木県庁設置となったとしている。明治17年(1884)1月の栃木県庁宇都宮への移転の関係で市史と県史では微妙に違っている。

Photo_4   栃木町が日光県になったことから鍋島県知事は明治4年(1871)5月に宇都宮の手前にあった日光県石橋出庁所を栃木町旭町の定願寺に移転させている。そして明治4年7月の廃藩置県、11月の全国の県改廃を受け、下野国は栃木県と宇都宮県の2県に整理統合された。県知事の名称が県令に変わった。この時、初めて「栃木県」の県名が登場した。栃木県の管轄区域は下野国の足利郡、梁田郡、寒川郡、阿蘇郡、都賀郡に加え館林県である上野国邑楽(おうら)・新田・山田の三郡が栃木県の管轄となった。

  どうして上野(群馬県)の館林県三郡が栃木県の管轄となったか?明治4年11月に栃木県が誕生した時に上野国三郡は栃木県管轄に入ったと群馬県史には理由の記載もなく記述されている。

 高野澄著「廃藩置県物語・館林藩」の中で「館林県が群馬県から除外されたのは渡良瀬川をはさんで下野国につながる関係の強さが考慮されたからだろう」と指摘している。上野三郡と下野国の梁田と足利は利根川と渡良瀬川に挟まれたこの地域では、幕府領と私領が入り乱れているため水利の配水を間違えると不穏な情勢になる。これまで管理をしてきた徳川幕府から慶応4年の4月、田植えを前にこの地域の水利の管理を明治新政府は館林藩に委譲した。このことが館林県が栃木県の管轄になった大きな理由だとしている。

 やがて明治9年(1876)には埼玉県統合により熊谷県が廃され、上野三郡は栃木県から元の上野国群馬県に帰属していく。この上野三郡の群馬県への帰属は栃木県の県庁所在地が地理的に南に偏っていることから栃木町から宇都宮町への県庁移転への理由のひとつになってくる。

013_3 栃木県設置にともない、定願寺(栃木市旭町)を仮庁舎として翌5年(1872)5月に栃木町園部村(現栃木市入舟町)に県庁舎建築の伺いをたて、8月着工11月に落成させている。翌明治6年(1873)1月に新県庁舎で執務が開始された。明治5年は太陽暦変更のために12月3日をもって明治6年(1873)1月1日となる。そして明治6年6月15日に宇都宮県が栃木県に編入となり下野国は栃木県という一つの県になった。

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  新庁舎の建物は地域住民の文明開化をはかるため西洋建築として造営され、明治17年(1884)1月の県庁移転まで栃木県庁舎として使われたと栃木県史に記述されている。

  敷地は2万654坪5合5勺で総工費8296両永9文6分で費用負担は4587両永184文6分は官費(1/3)と郡割(2/3)、残りの3708両3分永75文は一般からの献金・献夫となっている(とちぎ市民学舎講座「栃木町と栃木県庁」資料)。実に45%が一般からの献金で県庁舎が建築されていることに驚く。当時の県庁舎の建築負担は何も栃木県だけではなく、江戸時代と同じく命令として町民・村民に下していた。しかし、明治5年頃の栃木町の商家は徳川幕府消滅で衰退した日本橋から山車(静御前人形)を購入するなど財力が豊富だったこともあり、負担を受けられた理由になる。

Photo_10  当初、敷地は水田のため盛土と堀が必要であったが、建物下のみの盛土と外廻り小土手のみが許可されたにすぎなかった。しかし、周囲一面が水田であるため、盛土がなければ県庁への往来に差支えることや、強雨の際には巴波川からの押水の被害が懸念されるため悪水堀はどうしても必要なことから、再度伺書を提出した結果、県庁・官舎地面の盛土と周囲堀など聞届けられたと栃木県史に記述されている。

  悪水堀(排水処理用)として造られた県庁堀は城郭としての堀と果たしていえるのだろうか?考察していくことにした。

Photo_8  栃木市の東方にある田村町に律令時代の下野国府政庁跡地がある。南北96.6m、東西94.5mの周囲を版築土塁と濠に囲まれていたとされている。濠の存在は確認できないが、栃木町にあった栃木県庁庁舎と類似している。古代律令体制の中での政庁(国府)は中央政権を確立維持するため出先機関施設として築城という手段を用いた。実際、下野国府政庁は天慶2年(939)の11月の「天慶の乱」で平将門に攻められ、落城している。

  三代目県令となった三島通庸は明治9年(1876)に統一山形県ができた時に山形県庁舎を新たに建築している。丸山光太郎著「土木県令三島通庸」の中で山形県庁舎建築の項で「坪数3841坪の敷地全般に盛土をし、西北で10尺以上、東南で7,8尺を盛り上げ、土塁は亀甲型の間知石積とした。その土留石積の外に堀を設けることにした」と記述されている。現在は堀は確認されていないが、盛土と堀は一対となっていることが読み取れる。

Photo_10  西ヶ谷恭弘著「日本史小百科・城郭」の中で、城は人間の生命、生活空間、財産を守るために構築した施設である。城は土でできている構築施設であり、これをさらに取り囲む郭(かく)が生まれ、城郭と称されるようになった。城という『土を掘り土を盛る』行為は、原始以後変わることなく、城づくりの基本」と規定している。盛土と堀は一対だと指摘しているのだ。

  さらに築城者からみた城郭の最大の目的を「土豪や武士階級による在地支配の拠点、または軍事目的として築城」と西ヶ谷恭弘氏は記述をしている。

  地域支配の拠点として鍋島貞幹栃木県令は堀を巡らせ、人民に城郭としての県庁舎を見せるために造ったのではないかと思えてくる。第一小学校校門前を現在でも「大手前」と呼ばれ、使われていることにつながってくる。

Photo_13  明治新政府の地方支配の拠点としての県庁の果たす役割は大きかった。農民一揆が多発しているなか、中央集権化(富国強兵)に向け、明治4年の廃藩置県での統一国家、明治5年の戸籍法の実施で人民の掌握、明治6年の徴兵令発布と地租改正と続く制度の改定実施は一般民衆に大きな影響を与えている。

  とりわけ壬申(明治5年)の戸籍と言われる戸籍制度ができることにより、これまでその筋(寺社奉行と代官)からのみの適用であった治安取締りが地域全体を網羅できることになり、県庁の支配権限が拡大されていくことになる。獄舎も備えている県庁には警察制度が整い警察力も強化されていく。物納年貢から金券納入としたことによる農民の負担増加が増してきた。「中央からの指揮監督のもとに中央の政策法令を施行する純然たる行政機関」と井上清氏は「日本の歴史20・明治維新」(中央公論社版)で府県を位置づけをしている。

Photo_14  片岡写真館蔵の「明治10年代ころの県庁堀」の写真を見ると、幅広い水堀は城を防衛する本格的な水堀として城郭の姿に見えてくる。戦国時代の長槍は5メートル。その長槍が届かない距離が堀の幅だったとされている。

  明治初期、真岡代官から受け継いだ下野国の地方支配としての栃木県庁舎。排水処理のみでなく堀を巡らせた城郭としての建造物を地域に見せること。それは強固な権力誇示であり支配力を目で見せることにあったと思える。しかし、県庁官舎建設に多額の献金をして支えた栃木町の商人にとっては、県庁堀から見える県庁官舎は「武士の城」から「商人の城」に変貌したことを実感したのではないだろうかと思えてくるのだ。

  もし第一小学校の建物がなく、大手前通りから県庁表門まで歩くことができれば、明治初期の栃木県庁舎が浮かびあがってくるような気がしてくる。南側堀には県庁表門跡地には移転した元栃木庁舎が建っている。せめて南側の堀の中間あたりに「旧栃木県庁舎表門跡地」という標識を建ててくれるとありがたい。そうすれば憲法に地方自治権のなかった時代の明治期の役人様と対面できるかもしれない。そう勝手に想像してみると、県庁堀は城郭として水掘りに見えてきた。

※関連ブログ―「銀次のブログ、四方を流れる栃木県庁堀―水源のある栃木高校

≪参考・引用資料≫

栃木県史・栃木市史・群馬県史(通史)、井上清著中央公論社版「日本の歴史20・明治維新」、下野新聞社発行村上喜彦執筆「明治百年野州外史」、高野澄著「廃藩置県物語」。西ヶ谷恭弘著「日本史小百科・城郭」、丸山光太郎著「土木県令三島通庸」、とちぎ市民学舎講座「栃木町と栃木県庁」(講師:栃木県立文書館丸茂博)、栃木市民大学講座「県庁があった時代の栃木町」(講師;大原悦子)、片岡写真館、その他ネット記載のブログ「栃木県庁堀」関連記事多数。

                                        《夢野銀次》

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三宝寺池の畔にある石神井城

Photo  「近所の子らが自転車を乗り回していてね、滅茶苦茶に荒らしていたの。だから東京都でフェンスを作り、中に入れないようにしたのよ」と三宝寺池の畔にある茶店の女将さんが言った。「どうして、石神井城の郭の周りにフェンスがあるの。空壕と土塁の所を歩けない」と言った私の嘆きの質問の答えだった。

  石神井城は練馬区石神井公園内の三宝寺池南側の畔にひっそりと佇んでいる。築城は鎌倉後期に秩父平氏の豊島氏とされている。三宝寺池からの水の支配のために、この地に建てたとされている。 

   武蔵関公園から流れる石神井川と三宝寺池(石神井公園)を起点に延びる谷との間に挟まれた舌状(せんじょう)台地上に位置するとある。舌状台地とはちょうど舌を伸ばしたような細長く突き出た台地のことを言う。確かに三宝寺池の南側にある小高い城址は細長い台地に見える。

Photo_2  昭和42年に東京都が発掘調査を行い、折れを伴った堀・土塁によって場内が複数の郭に区画されていた事が判ったとされている。しかし、行って見ても、中心内の郭に入ることができず、土塁を歩けないことが残念だ。茶店の女将さんの話では年に一回、フェンスが開かれ、見ることができると言う。

 空壕と土塁を見ながら散策できる道を作って一般公開すれば、石神井城は広く知れ渡る筈だ。

 中心内部主郭跡の案内板には「平成10年から6年間、市民参加の発掘調査を行い、調査地点では堀は12㍍、深さ6㍍、底面は3㍍幅で平にて『箱堀』であった」と記載されていた。市民参加の発掘調査を行なっているならば、なおさら主郭内の散策コースができて良いと思える。

 Photo_6 この石神井城は文明9年(1477)の4月、扇谷上杉家宰、太田道灌によって落城し、廃城となっている。城主の豊島泰経(やすつね)が上野平井城の長尾景春に与したからだ。上杉家の家宰は長尾家だが、三家ある長尾家の中で長春が家宰になれなったことに対して、管領上杉家に反旗を翻し、鉢形城に籠った。管領上杉と争っていた古河公方と対峙するため、岩槻城、河越城、江戸城を起点として進出してきていた太田道灌。太田道灌が近くに進出してきたことにより対立を深めていたのが近くの豊島氏だった。おそらく豊島氏の権益を新参者の太田道灌は害していたのではないかと思える。豊島泰経が管領上杉に反旗した長尾景春に与したことにより、太田道灌が豊島氏討伐として江戸城から出陣した。生涯30数回の戦闘で大田道灌は負けを知らなかったと云われている。江古田・沼袋原の合戦で豊島氏は大敗を期して、石神井城も攻められ、落城した。

  杉並区には太田道灌関連の史跡として青梅街道沿いの荻窪警察署前にある荻窪八幡神社境内に太田道灌が戦勝祈願として植えた「槇の木」がある。石神井城攻めの際に本陣としたことを聞いたことがあるが、確かめていない。また杉並区今川には「道灌公園」、上井草には「道灌橋公園」がある。この二つの公園は荻窪八幡神社から石神井城(石神井公園)まで一直線に繋がっている地点にある。おそらく石神井城攻撃の際の陣地跡地だったのかもしれない。杉並区においてずーと以前に「太田道灌の足跡を訪ねる」 を行なっていたことを思い出した。参加しなかったことが悔やまれる。

Photo_4  太田道灌の戦闘では「足軽隊」が出てくる。傭兵としてではなく組織的な足軽隊を作ったとされている。足軽隊の弓、槍を使っての戦法はその後の戦国期の戦の形態となったとされている。具体的な戦闘の記述があったら読みたいと思っている。

  三宝寺池の奥に湧き水を見ることができる。野鳥の鳴き声、整備された湿原地の中の遊歩道。平日にもかかわらず、多くの方が三宝寺池を散策していた。

  平成8年(1996)に「三宝寺池の鳥と水と樹々の音」が、環境庁選定の「残したい日本の音風景100選」に選ばれていることが納得できる地だ。

038 「せっかく植えた苗木を夜持ち去る人が、以前は多かったのですよ。今は自然や風景をみんなで大切しようということが広がってきているわね」と前述の茶店の女将は嬉しそうに言っていた。「カルガモ、カワセミ、オナガガモ」など表示している「三宝寺池の野鳥たち」の案内板や「タチシオスミレ、セントウソウ」と竹で表示している小さな野草の花を見ることができた。

 武蔵野の三大池として、井の頭公園池、善福寺公園池、石神井公園三宝寺池。その中で一番ひっそりと武蔵野の面影を残しているのが、この三宝寺池だ。酔って騒ぐ花見の客は一人もいない。このことが何よりも三宝寺池を森閑とした雰囲気を漂わせている。公園内を歩く人もこの静寂な風景を吸い込み、清々しい気分にさせてくれているように思えた。野草を見る人。野鳥を双眼鏡で見る人。カメラを構える人。絵を描く人。夫婦で歩く高齢者の方々がたくさんいた。それでも静かな佇まいの公園だ。

 帰路には三宝寺山門横の移築してある「勝海舟宅の長屋門」を見てきた。

                                   《夢野銀次》

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侵入を許さなかった北出丸-会津若松籠城戦

Photo   薩長土を主力とした新政府軍の会津若松城下への侵攻は素早かった。慶応4年(1868)8月21日に母成峠が破られ、8月23日の早朝には若松城本丸に迫ってきていた。土砂降りの中、会津若松城下は混乱の渦となっていた。城内に入らなく最初から足手まといになることを拒否し、自刃した婦女子が230人以上ともいるとされている。この時会津城下には老人・婦女子・白虎隊の少年兵らわずかの軍勢しかいなく、籠城の準備をしていなかった。

  素早い侵攻を許したのは『会津藩攻撃は仙台藩の後だ』と読んでいた会津藩軍事局にあるとされている。さらに会津藩は勢至堂口、中山口を警戒し、母成峠のある石筵口(いしむしろぐち)〈二本松、本宮から熱海、石筵を経て、母成峠を越え、猪苗代に入る間道)は想定外だった。

 母成峠を守っていた大鳥圭介は南柯紀行で「山も坦夷(Map1_2たんい・平坦)なるをもって防ぐには甚だ難渋なり」と記述し、全体700人で守ることは不可能だとし増員を要求していた。会津の手薄なところを狙っての攻撃だった。さらに、若松城下への侵攻を誘導したのは石筵集落の農民であった。会津軍は薩長軍の宿営地になる事を恐れ、集落を焼き払ってしまった。そのため農民の恨みをかうことになり、亀裂が生じていた。二本松に集結し、母成峠を目指している情報も入ってきていなかった。

  他藩が実施してきた農民を含めての軍の再編成を会津藩は京都治安に抹殺され、進めることができなかった。さらに石筵集落等の農民対策の遅れは戦場に大きな影響を与えたことにもなった。おそらく藩の重臣達の中には、時代の流れとしての戦は武士階級だけがするのではなく、地域を守るため、農民、町人を含めて行なうという軍制改革の必要性が分かっていたと思える。しかし、それができなかった。農民と武士との乖離が会津戦争の特徴だと指摘とされている。

Photo_2  星亮一著「会津籠城戦の三十日」の中で、薩摩藩の兵士が記した「慶応出軍戦状」の引用紹介が出てくる。「8月24日、大手口へ出て攻撃した。城は堅固で、防御は厳整だった。味方の諸隊は、昼夜の連戦なので、ひと先ず引いて、武士小路を焼き払い、大砲で遠くから攻撃するほかないと、軍議で決した。よって火を放って諸屋敷を焼き、兵を引き揚げて大手口、天寧寺口、三日町口、六日町口を堅め、昼夜の別なく発砲」とある。大手口からの攻撃を防御した郭は北出丸と二の丸伏兵郭であった。新政府軍は城内には侵入することができなく、後退して大手門の北出丸の前の北から東側に陣を敷いた。(城略図の上の北側)。会津藩降伏の際にはこの北出丸から降伏の白旗が掲げられるなど、若松城の正門、大手門(追手門)であった。

Photo_3 城内二の丸にある若松城案内表示版には『蒲生氏郷によって七層の天守閣を築き城郭は甲州流の縄張りを用いて整備し黒川の名を若松と改め城の名を鶴ヶ城と命名した』と記載されている通り、この大手門北出丸は武田信玄の軍師山本勘助が考案されたと云われている丸馬出・角馬出になっている。

馬出は一般に本丸・二の丸・三の丸などの曲輪の出入り口(虎口)の前面に設けられた小さな曲輪のことを言っている。通常は四方を堀で囲まれ、木橋か土橋で前後を連絡し、虎口前面に突出しており、内側の本曲輪を防御する曲輪のことをいっている。さらには外部への出撃する拠点にものなる。若松城の北出丸は石垣でできている角馬出であった(丸馬出は土塁で三日月堀)。大手門の両脇には火縄銃を順番に交替して撃つ大腰掛けが残っていた。初めて見ることができた。

001  この馬出ですぐ思い浮かべるのは大坂冬の陣の『真田丸』だ。真田信繁(幸村)が大坂城の平野口に構築した出城(曲輪、防御構造物)。真田丸は甲州流築城術の丸馬出、西洋築城術の稜堡に相当し、単独で機能する小城砦となっていた。父の真田昌幸が指揮した上田城の戦い(第二次)において馬出しを利用した戦術を参考とし、南からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城を築き、徳川方の攻撃を食い止めたことで有名だ。

 10月26日、日帰り会津若松城見学バスツアーに参加した。35年ぶりの若松城訪問だ。城は来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」一色のように幟旗が目立っていた。そのツアー参加者で男は自分を含め2人で、あとの27人は女性だった。そのため観光案内ボランテイアの担当者は女性客受けの説明だけで「時の鐘」や「廊下橋」の説明がないため少し腹を立てた。「私は無料で案内をしているのですよ」とそのボランテイアの方は言い返してきた。自由解散の時、その人から「伏兵郭」の場所を聞き、単独で行った。

Photo  戊辰戦争研究会・村井雅子著の「鶴ヶ城」では、この二の丸伏兵郭について「西軍が侵入して来られたのは茶店附近(鶴ヶ城会館駐車場あたり)までだった。左に目をやるとお濠の向こう側に土塁が広がっているのがみえる。これは二の丸の北方にある伏兵郭である。北出丸側からは分らないが、この郭からは大手門入口が丸見えで攻め入ってくる兵士を狙い撃ちするには最適の場所だった」と記述している。実際、その場所に立ってみると北出丸大手門は間近かに感じられ、かたや北出丸からは伏兵郭が分かりづらかった。また、この伏兵郭は籠城戦の際には亡骸を埋めた所でもある。今はテニスコートとなっていたのが残念だ。何らかの案内表示が欲しかった。

 3日目の8月25日、陣将内藤介右衛門率いる白河口の精鋭一千人、日光口からは山川大蔵が彼岸獅子を先頭に秋祭りの行列を装い西出丸から入城し、籠城戦の態勢が整った。籠城する兵は約三千、婦女子、老人を入れて約五千人が若松城にたてこもった。

017  村井雅子氏の「鶴ヶ城」では鶴ヶ城のことを「本丸と帯郭を合わせた全体の形は五画形に近い形をしていた。五画形の城と言えば、函館の五稜郭が有名だが、一般的に五画形の城郭は死角がなく防御には最適の形と言われている。実際に一か月の籠城戦では、敵は一人も城内に入ることができなかった。城の東側には濠を隔てて二の丸があり、さらに濠を隔てて三の丸があった。一方、城の西側には西の出丸が、北側には北出丸がある。そして南側は複雑に石垣が組んであり、守りは完璧であった」と深い分析をしており、大変参考となった。

  しかし、この城の欠点は星亮一が指摘するように城を見下ろす小田山が近いことだった。小田山の存在に気づいた時には新政府が占拠していた。東側にあるこの小田山から最新のアームストロング砲やメリケンボート砲で若松城めがけて砲撃が行われた。「会津籠城は8月23日より9月23日まで満30日間であって、その間、1日として砲弾及び銃弾の見舞わない日はなかった」と松平容保近習、後の明治学院総長を歴任した井深梶之助氏が回想した通り、悲惨で壮絶な籠城戦だった思える。

 明治10年の西南戦争。熊本籠城戦では攻撃側の西郷軍桐野利秋、52日にわたって攻撃をしのいだ城将、谷干城はこの会津若松城攻撃軍に共に参戦していた。熊本籠城戦の時、二人は若松城籠城戦を想いだしたのかな…、とふと想像した。

 私は会津若松籠城戦を含めて会津戊辰戦争についてはまだまだ勉強不足であると思っている。今度は三の丸から城郭全体と会津の士風の教育・日新館、齋藤一と会津藩・旧幕府軍兵士の墓のある阿弥陀寺などを訪問し、体感していきたい。

 (参考・引用文献)

 星亮一著『会津籠城戦の三十日』、

 村井雅子著『鶴ヶ城』(「会津籠城戦の三十日」に収録)

 歴史読本編集部『カメラが撮らえた会津戊辰戦争』

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固い防御の城-氏家「勝山城」

Photo_14  勝山城は栃木県さくら市氏家(旧氏家町)、JR氏家駅から南へ約2キロの鬼怒川の東岸にある。この勝山城を起点とした宝積寺段丘は鬼怒川左岸に展開し、高根沢町から茨城県下館市までに及ぶ広大な平面が発達している。

 勝山城の城郭は最北端丘陵上にある。城の西側は断崖となり、鬼怒川の川床から10メートルの比高がある。南北420メートル、東西370メートルの鬼怒川の段丘面を天然の要害にした典型的な崖端城(がいだんじょう)となっている。

Katuyama11 略図の本丸左、西側は鬼怒川に面した絶壁で天然の要害となり、略図上の二の丸北郭の本丸側は丘陵先端部を利用して直角状の土塁と空堀をめぐらしている。さらにこの二の丸北郭の北側に北郭と区分する土塁と空堀がある。土塁の高さは城外から2.3メートル、城内から1.5メートルと低いが二重堀と土塁になっており、外側の堀は東に下って、そのまま二の丸東郭に続く通路になっている。

 大手口には平成5年には発掘調査に基づいた橋が復元されている。

Photo_15 大手口は土塁を外側に張り出して櫓台を備えた「横矢掛け」となっている。大手口に入る橋は直線ではなく斜めに建っている。張り出た土塁に面しているため敵が橋を渡り本丸に侵入する時、この土塁・櫓から弓を放てる作りとなっている。この橋の作りを筋交い橋と言い、逆井城の橋と同じ作りとなっている。

 本丸南西部に鍵状の搦め手口(裏口)があり土塁の「折」を見ることが出来る。本丸西側の土塁と堀を経て鬼怒川の絶壁となっている。鬼怒川を見下ろすことになる。ここの本丸西側の堀、昭和50年に土塁が削平され堀が埋められた。さらに削平された所に6層のレジャー施設としての天守閣、その他結婚式場が建てられ勝山城史跡が破壊されていった。

Photo_17 しかし、昭和54年本丸跡のレジャー施設が停止した際に、氏家町として勝山城史跡保存と再建に本格的に乗り出した。本丸跡を取得し発掘調査を重ね、西側の堀の再構築、大手口橋の建設を行い、平成4年5月には博物館「ミュ-ジアム氏家」(現在のさくら市ミュージアム-荒井寛方記念館)を建設する所まできた。民間から公有地として史跡保存への移行は大変なことである。掘り返された本丸西側の土塁と堀は他の堀に比べて綺麗に整地されている。

 大手口前の二の丸東郭は敷地が広い。恐らく出陣前に勢ぞろいする場所だったのかもしれない。さらにその東、二の丸の外堀(今の勝山城公園入り口前の通り)があったが、明治17年に県令三島通庸により陸羽国道に埋められた。勝山城史跡破壊の最初の人である。

Photo_19 勝山城築城の通説では「下野国誌」では宇都宮三代目の領主、宇都宮朝綱が祖父宗円のゆかりの地、勝山の霊場に3男の公頼を送り城を築いたとされている。しかし、近年では「銅版曼荼羅」に「橘公頼」と刻まれていたことから、「今宮祭祀録」から橘氏の系譜を引き継ぎ、宇都宮朝綱の妹との縁組で婿となったのが橘公頼だったのではないかと長嶋元重氏が「勝山城の興亡とその時代」で指摘している。

 長嶋元重によれば、氏家氏の始祖氏家公頼から3代か4代までは今の氏家小学校がある御前城を居城としていて、南北朝動乱のころ、この勝山城に移ってきたと述べている。その理由として鎌倉期と南北朝から戦国期にかけて城の縄張り、構造がまったく違う様相を示しているからだとしている。

Photo_18 当初の武士の館・城は屋敷に堀を廻らし、土塁を備え役所の部分として住んだ所が中心だった。しかし、鎌倉後期から南北朝期の激動の時代を迎え、一重の土塁・堀を二重にしたり、四方形の土塁に「折れ」を加えたり防備を固める城郭へと変化してきていた。天然の地形を利用し、攻めにくいところを選び、防備に有利な地点を選び城を築くようになってきた。氏家4代目の氏家公宗がこの勝山城を築城したとしている。

 勝山城は南北朝期には宇都宮氏綱・芳賀禅可によって南朝の北畠親房の八木岡城や益子城、飛山城攻撃など下野攻略と戦い、さらには足利尊氏・直義兄弟による「観応の擾乱」の戦闘を経て芳賀氏が勝山城の城主となり戦国期を迎える。その間に芳賀氏により強固な防御の城にしたことが推測できる。

Photo_20 宇都宮氏・芳賀氏は宇都宮城を中心とした外枠の城として、壬生城・上三川城・飛山城・勝山城等を配置して、下野の領主(皆川氏・那須氏・小山氏)と戦っている。

 那須氏との攻防では喜連川丘陵を境として勝山城を中心に阿久津城、高根沢城を配していた。拠点としての勝山城はたび重なる攻防の中、落城しなかったとされている。

 二の丸北郭の二重堀と土塁は那須氏との攻防の際に固い防御の役目をしたのかと勝手に推測する。飛山城にも二重堀・土塁があるという。今度行ってみよう。それのしても河川の断崖を活用しての崖端城、多くあるな。思川沿いの小山祇園城、鷲城、鬼怒川沿いの飛山城と勝山城、群馬の利根川沿いの沼田城、名胡桃城等々。

Photo_20 司馬遼太郎の「関ヶ原」の中に桑名城主氏家行広がでてくる。行広は東西の軍にはつかず中立を表明した。しかし関ヶ原の戦い後に改易され、大阪夏の陣で荻野道喜の名で参陣し、秀頼に殉じて自刃している。父は美濃三人衆の一人氏家友国(または直元、卜全)。その祖先は氏家三代経朝の弟仲綱の三男で越中に移住した重定で、その子重国が新田義貞の首級を捕ったことで美濃に入り、名をはせている。

 全国の氏家の名のルーツが、この勝山城にある。

《参考資料》

ミュージアム氏家作成「勝山城~氏家氏栄光の時代~」

氏家町史」

                                 《夢野銀次》

 

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夫婦で登れる山城―上州新田・金山城

Photo   「群馬県太田市と栃木県足利市とがこんなに近いとは思わなかった」。東武伊勢崎線の電車の窓から金山城を見ながらそう思った。太田駅からタクシ―で金山城麓の金龍寺まで行く。そこからすぐの「金山城址ガイダンス施設」で案内パンフを戴き、南コースで頂上の本丸・実城(みじょう)・新田神社を目指し、急な斜面のハイキングコースの山道を一気に登った。山頂部の標高239メートル、比高差約170メートルの金山城は関東平野に突き出るような丘陵に築かれた戦国期の山城だ。また、関東七名城の一つとして数えられている。

 ※関東の七名城=唐沢山城(佐野市)、太田城(茨城県太田市)、厩橋城(前橋市)、宇都宮城、川越城、忍城(行田市)、金山城(群馬県太田市)。

Photo_2   太田市教育委員会は平成4年(1992)から金山城の発掘調査を始め、想像以上の石垣・石敷が多用されていることが分かって来た。そのため案内パンフレットでは、平成12年(2001)にかけての第一期整備事業において、金山城を「憩の場・歴史学習の場とすることを目的とし、皆に親しまれるよう、分かりやすい整備を目標に進めたとしている。その内容は金山城における『戦国時代の複雑な通路形態を元に戻す』ことを整備のコンセプト(構想)とし、数百年前の金山城の姿を可能な限り再現することにに努めたことの記述がある。Photo_3 さらに、『石の山城』としての特徴をイメージしていくため、段状に積み上げて高さを出す技法に基づいて、石垣を当時の高さまで完全復元したとしている。

  発掘調査は大手虎口につながる月の池南側の現地説明会の開催等を行う等、現在も続いている。

  本丸の実城から裏手にある当時の現存する石垣を見て、二の丸、三の丸、日の池、大手虎口、月の池を見ながら西尾根に続く整備された金山城内の通路の道を進む。Photo_18
   満面と水を湛えた日の池、月の池を見ると、古代より雨乞いの場でもあったことが分かる。 さらに大きな堀切、馬場曲輪、物見台、馬場下通路、竪堀、物見台下虎口、物見台下の堀切、西矢倉台等攻撃と防戦を想像しながら駐車場のある西城に出る。広い駐車場を通り過ぎ、見附出丸の土塁を見て、ハイキングコースに添って山を下り、金龍寺の裏手に出た。本当は逆コースで西城から尾根伝いに本丸・実城に向かうことが戦国時代の山城の複雑な通路を体験できることになるということが分かった。「金山城は整備され過ぎて、戦国時代の荒涼とした山城の感覚が味わえない」という話を聞くことがある。Photo_19
  奈良大学教授の城郭研究家の千田嘉博著の『戦国の城を歩く』の中で「城跡はそれ自体が謎にみちていて、ただ訪ねて歩き、痕跡をたしかめ、自然につつまれるだけで楽しいのです。(略)城の堀や土塁を見つけるよろこびの大きさ。そして堀底に降り、切岸(きりぎし)を登り、曲輪を歩き、土塁をたどって城のかたちを知り、そこに込められた古人のくふうを体感しつつ読み解いていく感動。城をただ訪ねるだけでなく、遺跡を読み解くことができれば、私たちは発見にまさる深いよろこびを無限に見だすことができます。なぜならば発見の喜びを自分で感じるだけでなく、数百年前に城を築き、守り、維持した直接会うことはできないPhoto_14人びとの努力や苦心を、城跡を通じて聞き、語り合うことができるからです。これは城跡を歩く人だけが味うことを許される特別な体験といってよいでしょう」と記述している。城址訪問を趣味として山城訪問者の気持ちを良く著している。

 ※切岸(きりぎし)=中世では石垣を基本的に用いないため、曲輪のまわりの斜面を急角度にカットした人口急斜面。

  だが、そのことだけでは一部の人の城址訪問者だけのことであり、多くの人が城址訪問、活用できる山城には繋がらないそのことを千田嘉博氏は去る2月25日に佐野市文化会館で開かれた『唐沢山城址国指定史跡化に向けて』の講演で、現在の城ブームにとして名古屋のPhoto_17イケメン武将や城のマスコットの登場など例に『城を楽しもう』という事例を挙げて、遺跡として城址を調べ城址を現代に活かす工夫の必要性を訴えた。

 とりわけ21世紀の城跡整備について『ベルギー・エーナム遺跡』ではAR(拡張現実)を遺跡整備に導入していることの紹介があった。具体的には遺跡のそばの三角点からIDを使用して復元した城が見えるということだ。建造物のない石垣や土塁の上にアイフォン等を使Photo_6用して櫓や塀が復元され、現在と当時の空間をつなげ、体感できる仕組みとだ述べていた。日本の城でAR(拡張現実)を試みている城として、名古屋城(愛知県)、松坂城(三重県)、高松城(香川県)、上ノ国勝山城(北海道)をあげていた。AR使用しての城跡を現代に活かし、体験ではなく『体感』できる城跡活用の考えなど同氏の今後の研究が楽しみであり、注目していきたい。

  整備されているが故に金山城をハイキングとして訪れ、楽しんでいる人が多いと感じた。それも高齢の夫婦。実城・本丸を目指す登りの時や頂上での昼食の時、西尾根伝いの下りの帰路、平日にも関わらず5組以上の夫婦のハイカーとすれ違った。いずれも高齢者と見受けたが、元気にお互い励ましあいながら山を登り降りをしていた。この光景はこれからの城址訪問の姿に重なって見えた。金山城は夫婦で登れる城であり、堀切、竪堀、虎口を見て、木橋、土橋など歩くことなど、これが山城だということを体験できる城跡だと思えた。

Photo_7  戦国期の山城城址訪問をする際、私は攻城と防衛戦、そして落城のイメージを想像して楽しむ。しかし、天正12年(1584)12月、北条氏による金山城の落城はどうも解せなくすっきりしていない。

  太田市『金山城ホームページ』には「天正12年(1584)小田原北条氏に金山城由良国繁とその弟で館林城主長尾顕長が幽閉され、金山城は北条氏により攻撃されましたが、二人の帰還を条件に金山城を北条氏に明け渡すこととなり、由良氏は桐生城に退きました。金山城には北条氏の家臣が配置されました」と記載されている。同じように小和田哲男監修『日本の名城・古城』、峰岸純夫・齋藤慎一編集『関東の名城を歩く北関東編』においても北条氏に国繁と顕長が拘束されての籠城戦で、二人の帰還を条件に城を明け渡したことになっている。

Photo_13   豊富な史料、古文書を基に書き上げた市村高男著『東国の戦国合戦』では「12月なかばに北条軍の金山・館林両城への攻撃が開始されると、由良・長尾両氏は北条氏の計略によって城を奪われ、講和して帰城の後、改めて金山・館林両城を明け渡し、由良氏は桐生城へ、長尾氏は足利城へ退去することを余儀なくされた」(「松田充雄氏所蔵文書」「阿久澤文書」「佐竹文書」)とあり、二人が北条方に拘束、幽閉されたことの記述がなく計略によって城を奪われたと記述されている。東国の戦国期末の「沼尻の合戦」(栃木県岩舟町、藤岡町辺り)に焦点をあてた齋藤慎一著『戦国時代の終焉』では、天正12年7月に北条と反北条(佐竹、宇都宮、結城氏等)と和解し、双方の対陣が解かれた。しかし、北条は沼尻の合戦の原因(反北条への翻意)を作った由良国繁の金山城と長尾顕長の館林城を8月に攻めたが、落とすことができなかった。(略)12月には由良・長尾攻めを再開する。上野国内に在陣していた北条氏照は12月10日には伊勢崎方面の備えを払い、敵方の藤岡城(栃木市藤岡町)に軍勢を向かわせている。伊勢崎方面の備えとは由良国繁の金山城を攻める拠点を指すことから、12月初旬には由良国繁の居城金山城は北条方に渡っていたことになる。沼尻の合戦に火を付けた当事者としては実にあっけない開城だった」と具体的な攻防戦、落城の記述は出てこない。市村高男氏の「北条氏の計略によって城を奪われた」のところがひっかかる。いずれ古文書を読んで自分なりに解明していきたいと思っている。

                                《夢野銀次》

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皆川・宇都宮激戦の山城―都賀町深沢『布袋が岡城』

Photo 布袋が岡(ほていがおか)城は栃木市都賀町深沢にあり、別名深沢城とも云われている。築城は天慶(938頃)の昔、藤原秀郷が築いたとされるが、廃城となり、永正年間(1504頃)皆川成勝が再興されたと、島遼伍監修の『栃木の城』に記述されている。

  この地は皆川氏にとって、東北は宇都宮氏一族の西方城、北は佐野氏傘下の粟野城と西北の尻内城があり、西南には吹上城を経て皆川城につづく要の城になっていた。天正16年(1588)3月に『皆川正中禄』『都賀町史』『栃木の城』には宇都宮国綱・佐竹義重による赤Photo_13津川を挟んでの布袋が岡城の攻城と城を守る皆川広照との戦闘・落城が記述されている。

 『城跡は標高210メートルの山城で東西二丁三十間(約270メートル)、南北二十三間(約41メートル)、土塁を以って囲み、一方隆起して物見櫓のありし如き遺跡を存せれり』と栃木県誌に説明がある(都賀町史より)。城跡は私有地のため、東側より入ることができず、西の麓にある『花の木』事務所より頂上に登ることができた。頂上にある本曲輪の跡地のそばには中世の城の特徴でもある『磐座(いわくら)』の跡地あった。というより磐座がそのまま残っている状態だと私には見えた。

Photo_11本曲輪の周りには土塁が残っており、そこから西北から東北にかけて藪を通して眺めることができた。
 地図の東側には幾段かの腰曲輪(こしくるわ)が見られるが、残念ながら頂上から降りてこの曲輪を見ることができなかった。Photo_16
  布袋が岡城は南北朝から室町初期にかけて築城された山城の特徴を持っている。 本曲輪から南に尾根つづきの曲輪(平場)があり、堀切を用いて仕切り、曲輪を分けている。痩せ尾根式の山城築城法だ。尾根伝いを仕切る堀切や竪堀を見ることができた。Photo_14

 これより前の天正13年(1585)3月、皆川広照は佐野氏を含む小田原北条方に太平山から攻め込まれるなど激しい戦闘(草鞍山の戦い)の結果、北条方と和睦をした。徳川家康が佐竹義宣を仲介として北条氏政を説得し和睦させたとしている。家康にとり対秀吉への対抗措置として北関東の防御安定することを重点としてものと考えられている。広照と家康の関係は、家康が広照を信長への仲介したところから始まるといわれ、以後、親密で不思議な関係へと発展していく謎の多いところだと思える。

 小田原北条との和睦により皆川広照は小田原北条に占拠されていた布袋が岡城が返還された。このことにより粟野城方面にむけて拡張を進め、天正14年には宇都宮城を攻めたと記されている(都賀町史)。Photo_15                                    すでに天正13年(1585)には下野の南部の小山氏・壬生氏・皆川氏・佐野氏等の豪族は小田原北条氏の傘下となってしまっている。そのため宇都宮国綱は小田原北条に対して防御を固めるため、同年の9月に平城の宇都宮城から山城の多気山城に本拠を移している。この多気山城がこれ以降、慶長2年(1597)の宇都宮改易まで宇都宮国綱の本拠の城となっている。

 宇都宮国綱の対小田原北条への危機意識が天正16年3月の皆川広照・布袋が岡城への攻撃となる。かつて、大永3年(1523)川原田合戦。広照の父、皆川俊宗による元亀元年(1570)の宇都宮乗っ取り事件「皆川俊宗の乱」。その反撃としての元亀3年(1572)12月~翌年3月にかけての宇都宮・佐竹連合による皆川方10城への落城攻撃。天正13年8月、小倉川(現在の思川)と名が変わる「黄瀬川の合戦」と宇都宮と皆川の戦いは60年余りつづいてきた。ある時は味方、ある時は敵対関係など近親憎悪にも似た関係になっていた。017_2 そして、布袋が岡城が落城する天正16年(1588)3月の最後の攻城戦。

 『皆川正中禄』(考註・日向野徳久)によれば、寄せ手の宇都宮・佐竹勢九千騎、守る籠城の皆川勢は二千五百騎。西方城に後詰めを置いた宇都宮国綱は赤津川の東側ほとりにある神楽岡城から西方勢を先頭に二千五百騎。北の真名子から紀清両党三千騎。東の富張から佐竹義重三千騎が一斉に攻めるとの記述がある。とりわけ布袋が岡城と赤津川の間のある底なし田における戦闘は激しく、死人は山をなし、この血が滝川のような川原に流れだし川は血に染まった。このことから、この川を赤津川となったこと。さらに宇都宮、佐竹の連合軍は一気に布袋が岡城に攻め登り、一斉に火矢を打つ込み、城はたちまち火に包まれ落城したと『栃木の城』にも記述がされている。落城の後、小田原北条の支援があるとし、宇都宮勢は本城の皆川城を攻めることなく、撤退している。003_5
   戦国時代に下野は一つの国に結合することができなかった。このことが宇都宮と皆川の最後までの戦いとなっていってしまっている。宇都宮氏・小山氏と鎌倉以来の名門の豪族がいたにも関わらず。やがて古河公方・上杉・北条の攻防から関東支配をめぐり、下野一国の争いから秀吉と家康による天下覇権の流れとなってきていた。天正16年のこの『布袋が岡城攻防』は実際にあったかどうか、私としてはまだ確証を得ていない。しかし『皆川正中禄』を読み、皆川氏のような小国の領主が自立した領国にしていくためには、古河公方から上杉・宇都宮へ寄り、そして小田原北条の傘下になるなどして生き延びる方策を取らざるを得なかったことが分かる。

  この皆川正中禄は最期に徳川の家臣となっていく皆川氏の姿と戦国期の戦闘をよく描いている『軍記物』だが、登場してくる武将の名前が身近に感じられる。何故ならば、この布袋が岡城の城代館は自分の祖先の地でもあるからだ。史実とかけ離れて記述されている書物との指摘があるが、自分としては検証していくつもりだ。

                             《夢野銀次》

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上田城石垣は『たそがれ清兵衛』のロケ地にある

Photo  上田城本丸の西虎口、西櫓の向かい側には石垣がない。この石垣は上田市新町、矢出沢川に架かる高橋の上流の左側にあることが最近、判明した。

Photo_2     

   上田城は明治7年(1874)に上田に置かれていた東京鎮台第二文営が廃止に伴ない民間に払い下げられた。上田城本丸全域を上田市常磐城の丸山平八郎氏が払い下げを受けた。その後、明治12年に本丸内に松平神社創建の話と城址を公園として保存しようという事がおこり、本丸の大部分の土地を所有していた丸山平八郎氏は寄付したことにより上田城公園化の第一歩が踏み出された。

Photo_5 日本城郭史学会の評議員、奥田好範氏が丸山邸の石垣について上田市教育委員会に問い合わせたところ、教育委員会では丸山邸で使用されている石垣の石が上田城で使用されている石垣と同じ石材で太郎山から産出された緑色凝灰岩であることを現地にて確認を行なった。そして、教育委員会の見解では、城域払い下げの時、本丸の松や杉を払い下げた記録が残っており、西虎口の石垣も払い下げられた可能性は充分考えられること。 丸山邸の石垣の上にある『丸山稲荷』は上田城本丸から移設されてることから、上田城の石垣の石を移築したということには、断定できないが、100%に近い確立であることの回答があった。

Photo_7 この矢出沢川に架かる高橋からの上流左岸の河原は映画『たそがれ清兵衛』のロケ地としても地元では有名な所だ。

 この河原にて、たそがれ清兵衛こと井口清兵衛(真田広之)は短木棒にて果し合いを行なう。兄のはからいで酒乱の前夫の甲田太郎(大杉蓮)と離縁した朋江(宮沢りえ)のために甲田太郎を一撃にて倒すシーンは妻を亡くし、老母と小さい娘2人の生活をみる、たそがれ時刻にそくそくと帰宅する武士から豹変する姿を見事に表しているシーンでもある。

Photo_3 上田市は映画のロケ地としても名高い。『犬神家の一族』『私は貝になりたい』などがあるが、私は昭和41年(1966)の『けんかえれじい』(日活作品、鈴木清順監督)のロケ地として上田市を始めて知ったことがなつかしい。後年、『ゲバ棒』をオーバーラップする全共闘運動を予感させた映画として評価を受けた。

 喜六こと高橋英樹が通う岡山の中学校の撮影の学校。三の丸にある作事跡地の『清明小学校』の塀の見ながら、もしかしたらと思った(確認はしていない)

Photo_4  また、喜六が会津若松の中学校に転校し、その冒頭の会津の中学校の校門のシーンがある。この門は藩主屋敷門跡(現、上田高校正門)ではないだろうかと思ったりした。映画の中で自殺した日活俳優の緑川宏が演じる『北一輝』の薄暗いカフェイでの激しい争いを行なうバンカラ中学生に向ける『優しい薄笑い』の表情。着物姿カフエの女・松尾嘉代のあやしげな立ち振る舞いと長い」黒髪、浅野順子の清純な姿などが印象として残っている映画だった。映画のラスト、『今度は国とけんかするや』と決意し、上京する列車で終わっている。

 帰宅してから映画『ラストゲーム、最後の早慶戦』の早慶戦試合のシーンが上田城址野球場にて撮影されていたことが分かった。野球場三塁側のトイレに入り、何と古い野球場だと思い素通りしてきた事が悔やまれる。

 

               《夢野銀次》

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小山義政をささえた鷲城―広大な空堀

Photo 小山市外城にある鷲城は思川の断崖に立つ城跡である。

 平成元年(1989)の6月、この鷲城郭内にマンション建設の話が小山市文化財保護審議会で明るみになった。しかし、市民団体による鷲城保存運動により保護が決まった。中城は私有地のため、郭内に畑がある。

Photo_2 小山正光から10代目の小山義政は先祖の所領であった武蔵国太田庄の鎮守鷲宮(埼玉県鷲宮町)を応安五年(1372)に修築し、守護神である鷲宮の神を小山の本城に勧請して、その名をとって鷲城と名づけている。この5年前の貞治六年(1367)に小山氏

          (中城内にある鷲宮神社)

の最大のライバルである宇都宮氏は河越氏らの平一揆と結び蜂起したが鎌倉公方足利氏満に降参した。これにより小山義政の所領拡大路線が始まったとされている。

Photo_3  康暦二年(1380)5月、下野国茂原において所領争いから小山義政は宇都宮陣所を攻め、守護職の宇都宮基綱を討つことにより『小山義政の乱』が始まった。義政の乱は鎌倉公方、足利氏満と康暦二年(1380)6月~9月の第一次。翌年

(中城の周りを深い空堀が現存)

永徳元年(1381)5月~12月の第二次。永徳二年(1382)3月~4月の義政自刃の第三次まで戦いが続けられた。

 とりわけ第二次の義政の乱では鷲城中久喜城・長福城・祇園城・宿城             

Photo_4 (小山氏の居宅)で戦闘が行なわれた。粟宮口での野臥(ゲリラ戦)、戸張口(城柵・バリケード)での戦闘、城と思川の断崖面の切岸での激突、城堀に草を投じて浅くして攻め込む城埋等があったが、半年間持ちこたえ義政は「降参」した。降参する際の交渉内容

(中城から見る土塁と畑)

が大きく違っているとし、義政は思川の上流、粟野町の寺窪城に立て篭もり、滅びた。

Photo_5  その後、子息の犬若丸の反撃を入れると「小山義政の乱」は17年間続いた。

 原因には諸説があり、はっきりしていない。考えられるのは鎌倉公方、氏満の執拗な小山義政への攻撃。その背景には、小山氏の所領拡大で

             (思川を臨む断崖)

足利氏の所領である古河への進出危惧。鎌倉時代から南北朝にかけての西大寺の諸国国分寺の末寺化による小山氏との連携の動きの危惧。有力豪族における鎌倉公方への見下しなどあげられている。

Photo_6 さらにこの時代には武士間の武力私闘には『故戦防戦の法』という慣習法があったが室町幕府は訴訟に切り替え、故戦者(この場合小山義政)は所領没収、防戦者(宇都宮基綱)は理があれば無罪とした。また同じく

(運動公園からの鷲城)

慣習法で『降参の法』があり、降参した場合は命は助けられ先祖伝来の本領は没収されないこととされていた。勝った氏満と負けた義政側との慣習法と室町幕府の考えとが大きく違っていたのかもしれない。

 この戦には、上野、北武蔵の白幡一揆が加わり、第三次の寺窪城攻撃には主力部隊となっている。何故なのかは今後詰めていきたい。

 この鷲城の空堀は幅10メートル、深さ6メートル、長さが70メートルと中城をとりめぐり、見事に現存してる。小田原本城の空堀に匹敵する雄大で広大な空堀である。

 この空堀を見ると、義政は鎌倉公方に対して鷲城を中心とした籠城戦に自信をもって臨めたと感じる。

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丘陵台地の先端―志村城

Photo  志村城跡は都営地下鉄三田線志村三丁目駅から南へ徒歩5分の坂を登る所にある。

 城址の北、西、南の三方は垂直に近い急な傾斜の断崖になっている。城址公園入り口から傾斜の断崖を登り、その北側には荒川が見える筈が、ビルの陰で荒川は見えない。

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  江戸の地は広大な丘陵台地によってできている。その台地の最先端に志村城がある。

 二の丸には熊野神社がある。秩父氏系列の武蔵野武士団の多くは熊野神社を勧進している。熊野神社本殿は本丸より位置が高い。

 本殿前の敷地から弥生時代の遺物が発堀され、すでにこの地は環濠があることから本殿は前方後円墳とされている。

Photo_7 また、本殿の右横に三基の板碑が並ぶ。右から明応(1492)、大永(1521)、永正(1504)年間と刻まれている。因みにこの志村城址から徒歩10分の所にある延命寺には関東で2番目に古い板碑がある。

 

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 熊野神社本殿の左側に空堀と土塁跡がある。二の丸と本丸の間に立ち、本丸側を見た。そこには高層マンションが建っていた。

 板橋区はどうして保存をしなかったのか。

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  断崖の下は整備された城址公園となっており、断崖より湧き水が流れている。

 丘陵の先端にある坂の上の城址 だが、太田道灌に滅ぼされた豊島氏一族の志村氏。最後は北条と共に廃城となった。

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城址公園が完成した時、門に鯱を置いた。しかし過去3回盗難のあい今は無いが隣りのトイレの上に一対の鯱がある。

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