古戦場

巴波川の上流―沼地と古戦場・川原田を歩く

1  「湧き水がある、凄いなあ」思わずうれしがこみあがる。ボコボコと水があふれてくる。この湧き水のある湧泉池は栃木市総合運動公園の北東の先端にある。

  湧泉池から流れる水流は親水池に流れ、公園内を縦貫している荒川に合流している。西方町小倉堰から用水として流れてきた荒川は、この運動公園内を流れ、巴波川に合流している。

   栃木市川原田町にある栃木市総合運動公園は昭和54年に開設されている。最初に出来上がった総合体育館は、昭和55年の栃の葉国体のハンドボール、フェンシング会場になっている。都市公園として供用しながら整備を行ない、平成8年3月に全面開設になっている。

09203002_161  総面積369,000㎡の敷地内には総合体育館、陸上競技場、サブ競技場、硬式野球場、軟式野球場4面、多目的広場、ソフトボール場、テニスコート16面、弓道場、屋内・屋外プール等がある。スポーツを楽しみ、広い公園内を散策する多くの市民が集う場所だ。

  硬式野球場に私は春・夏・秋の高校野球を自転車に乗り、栃商応援によく観戦に来る。駐車場はあるが、土日は満杯になることが多いからだ。また、バス旅行の際には運動公園内の駐車場を待ち合わせとして利用している市民も多い。

Photo_2   「栃木町の歴史はうずま川の歴史であるといっても過言ではない。うずま川の故に繁栄し、うずま川の故に衰微した」と明言が記されている日向野徳久著の「改訂、北関東における一封建都市の研究」は昭和35年(1960)に改訂版として発行され、今なお読み継がれている名著である。

  同書には「むかし栃木は小倉川のはんらん原であったことがあり、室町時代頃までは、うずま川・杢冷川等の蛇行する原野であった」と栃木まち周辺一帯を「はんらん原」であったと記述している。うずま川へのロマンを秘めた文言には氏特有の哀愁を感じさせる。栃商時代に、日向野先生に近づいてもっと教えを乞うしておけばよかったと悔の念が湧いてくる。

015  さらに同書には、「栃木市は北関東の中央部を占め、その西北方に連なる足尾山塊は、西北部に高くそれより東南部に傾斜し、その傾斜にしたがって幾多の河川が流出している。(略)これらの河川はいずれも多量の土砂を運搬、沖積し、扇状地をそれぞれ形成している。栃木市北部より西北部にかけて、皆川村の大皆川・泉川・新井・吹上野中村の南部をつらねる弧状の線を中心として、東は赤津川、西は永野川はんらん原に連続する線に湧泉が存在する。土砂の堆積している扇状地は、水が地中に浸みこみやすく、これが末端にいたって泉となって湧き出るものであり、これらはいずれも下流の水田耕作地帯に無限の灌漑用水を提供している」と湧泉の多い栃木町周辺の地歴的特徴点を言い当ている記述になっている。

Photo_4    昨年(平成27年)の9月10日の大豪雨の際には、栃木市街地は床上浸水を含めた冠水状態となり、大きな被害をもたらした。溢れ出た地下水も冠水の一因になっていると言われている。

  読売新聞の4月3日朝刊の「とちぎ見聞録」のコラム欄で「とちぎ」の地名の由来を考古学者、塙静夫説の紹介記事が記載されていた。

   「栃木という漢字から木をイメージするが、大切なのは『とちぎ』という音に戻ること。『場所』を意味する接頭語『と』と、動詞『ちぎる』に由来する『ちぎ』の組み合わせで、川の氾濫による浸食・崩壊をたびたび受けた地域という意味があります」として、「水害に遭いやすい場所」から栃木の地名が生まれたのではないかと記述されていた。いろいろある栃木の地名の由来の中で、この説が一番説得があると前から思っていた。

2  総合運動公園のある栃木市川原田町は巴波川の上流に位置する。かつて「しめじが原」と云われ、沼地・湿地帯となし、「はんらん原」の一角を占めていた地域でもある。栃木市街地を流れる巴波川の上流・源流を探りながら古戦場を思い浮かべ、想像なのか夢想なのかを楽しみながら総合運動公園から歩き始める。

  歩く道順は、総合運動公園内にある親水池(湧水池)、御手洗池と荒川合流地を見て、北側にある三日月神社・川原田公民館にでる。そこから、一兵淵…川原田城址…鹿島神社…天神淵…川原田上水場…笹淵…大淵沼…粟野街道…白地沼…粟野街道…栃木市総合運動公園とした。吉根沼の所在は確認できないため、後日調べ直してくることにした。

  平成15年(2003)6月に栃木自由大学現地研修ツアー「巴波川の水源を訪ねて」と題して実施した研修報告がウエブネットに記載されていた。実施を行なった「ネットワークとちぎ」の関係者から当時の地図や資料を戴くことができた。これを参照しながら歩いていく。

  戴いた資料の中に「大正2年下都賀郡吹上村略図」があった。かつての総合運動公園の敷地には「鹿島神社」が鎮座しており、永野川への分流前の赤津川の蛇行する川筋が記載されいる。貴重な資料として大切にしていく。

Photo_6  総合運動公園内には小倉堰から流れてくる「荒川」と「御手洗沼」、「親水池」がある。ウエブに記載されている栃木自由大学現地研修ツアーでは、現地案内を栃木市議会議員の故森戸常吉氏が「今昔話」をしながら歩いた報告になっている。この「今昔話」を引用しながら歩くことにする。

  荒川に合流している御手洗沼について森戸氏は、「ゆうに長さ約100mはある広さで、水深は、夏場は深いところで3mくらいの沼だった。水浴びしていても10分も入っていられない冷たさ。沼底にはマコモという葉の長い水草が群生しており、子供たちが素潜りすると足にからんだ。地元のがき大将は、それを刈り取って遊び場も作った」と記されいる。また、公園東の出口付近にあったと云われている吉根沼については、「語源が植物の『よし』であるように葦が密生していた。水深は、御手洗沼と同じくらい深かった」と語っている。

 湧き水特有の水の冷たさが伝ってくる。今は整備されているが、当時の沼の水深が3mというから、かなりの深さであったこと。それだけ水量が豊富であったということが分かってくる。

Photo_8  総合運動公園の北側に豆腐をお供えする「三日月神社」がある。そのすぐ東にある川原田公民館の脇道から北上すると、細長い「一兵淵」という地帯に出る。

  森戸氏今昔話では、「一兵淵では、割り上げという手方で、水圧を上げ、田に水を引いた。一部は、水を送るための足踏み水車もあった。ニワトリのえさになる『たしゅろもく』という水草が密生していた。昭和30年ごろは、渇水期の冬場には、リアカー2台分くらいのザリガニが捕れた」と語っている。

  「足踏み水車」は分かるが、「割り上げ手方」につてはどういうものなか分からない。課題として、調べていくことにする。

Photo_9  「一兵淵」の先を歩くと左側に「館跡地」がある。土塁のような盛り地。そのそばには空堀が通っているように見える。現在の敷地内では畑と「タテ製作所」としての工場が操業している。

  森戸氏今昔話では、「(上流の)天神淵から南に3本の堀が延びていた。昔の館跡と思われる館があり、今でも『館』という屋号のある家の西側を南下する『館堀』、一兵淵から吉根沼へ続く『中堀』、そして淵から南東方面に伸びる『長瀞』。長瀞は実にゆっくりした流れだった」と地理的特徴を伝えている。

054  現在の盛り地のそばの空堀を「中堀」と言い、その「中堀」は、今歩いて来た「一兵淵」から総合運動公園内にあった「吉根沼」まで続いていたということになる。右手東側を流れている川がかつての『長瀞』であった。ということは中堀と長瀞で「二重堀」を構成する中世の「館・城郭」であったのではないかと思われてくる。

  平成27年(2015)3月栃木市発行の「栃木市遺跡分布地図」の中には、この地を「川原田城址」として黒枠で囲っている。詳細は不明としながら「台地、現状水田、畑地、中世以降時期不明、170m×200m」と記されている。大正2年吹上村地図には「館」と記されている。中世以降の戦国期、城郭または館として存在していたということになる。

  それにしても34,000平方m(約1万300坪)は広い敷地を有した館跡としての「川原田城址」になる。観光地図にも出てこない館跡・城址があることに驚かされる。第1次皆川宗員の子孫に「河原田氏」が出てくるが、その河原田氏の「館跡」だったのだろうか?

Photo_5 「其男宗成始めて皆川宮内将輔と号す。大永3年(1523)11月3日、宇都宮忠綱と、都賀郡川原田に於いて合戦して討ち死す」と始めて長沼から皆川と名乗る皆川宗成のことが記述され、川原田合戦で討ち死にしたことも記されている河野守弘著「下野国誌」。川原田合戦の数少ない史料になっている。

  鹿沼南摩地方から南進してきた宇都宮忠綱1800名の軍勢は白地沼北に本陣を構える。迎える皆川宗成・宗勝父子1000名の軍勢は「川原田城」と「平川城」を拠点にして迎える。双方の激しい戦いは平川城を守る宗成の弟、宗明が討ち死にする。さらに皆川城主の宗成も討ち死にをする等、形勢は皆川勢が押され、不利な戦いになっていた。しかし、小山・結城勢による宇都宮本陣後方からの援護攻撃により、宇都宮勢は撤退においこまれていったという川原田合戦(大森隆司著「下野の動乱」より参考に記述)。
  東武日光線「合戦場駅」の北東に川原田合戦における戦死者を葬ったという「升塚」が史跡としてある。

Photo_6  栃木市遺跡分布地図に記されている「川原田城址」。川原田合戦の際に皆川城主の皆川宗成が川原田城を陣構いとして出撃していったのか?確かな史料はない。しかし、宇都宮勢の本陣が白地沼の後方、現在の県南自動車学校付近と考えるならば、この川原田城と一直線に相対する布陣になってくる。

  白地沼から粟野街道を挟んで「川原田上水場」「笹淵」にかけての一帯は、双方で250人を死者をだす大激戦の古戦場であったことに今更ながら驚く。

 「天神淵の深いところは、南側は大人の膝くらい、小さい子どもでも水浴びができた。北側の淵は、水深4~5m。危険な個所があって、10歳くらいの子がおぼれて亡くなった」と語る森戸氏の今昔話。

076_6 この今昔話の中に昭和35年頃から淵の水が干しあがってきたことが語られてくる。

 「天神淵から笹淵へ行く途中、川原田上水場は土地が低く、麦も発芽しない土壌で、昭和50年に市民の水道確保のために作られたものだが、地下深く50mから水を吸い上げている。その頃、巴波川水源の淵の水が完全に干しあがったこともあり、因果関係が取りざたされたが、上水場ができる前、昭和35年頃には淵の水はすでに夏場の大雨の時期を除いては干しあがっていた。淵の水が干しあがった原因は、周辺住民の増加に伴う生活用水の需要が増えたことと、アスファルトの舗装道路整備などにより、土地の保水力が落ちたことによるものと考えている」と語ったことが記されている。本当にこれだけの理由だけなのか?疑問が残る。

Photo_21 ここまで歩いてきた水辺の景色の中で一番ゆったりとした気分にさせてくれたのが「笹淵」。川の流れが緩く穏やかになっている。美空ひばりの歌う「川の流れのように」が浮かんでくる。

 今昔話では「笹淵の鯉は、よく育ち、ダルマ鯉とも呼ばれるほど鯛みたいに太い姿であった」と語られている。

  「天神淵」から「笹淵」にかけて湧き水は見当たらない。また、川の水が深く淀むと言う「淵」とは言えない川の姿になっている。しかし、この川を流れる水は何処からきているのか?という疑問が湧いてきた。

 今昔話は続く。「大淵沼は、その名のとおり広い沼のような淵で、養魚を試みた人もいた。他の淵と同じように、昭和35年頃、淵の水は干しあがり、空堀りのような今の姿になってしまった」と語り終えている。

Photo_22 広大な「大淵沼(だいぶちぬま)」には水はない。水害を防ぐ遊休地として枯草が沼地を覆うっている状態だ。荒涼と索漠した池の跡地の畔に地蔵尊が建っている。

 大淵沼の脇を流れる川は下流の「笹淵」「天神淵」を流れ、総合運動公園に注いでいる。「この川の水は何処からきているのかな?」と、また浮かんできた。大淵沼を歩きながら探しに行こうかとふと思った。上流を辿って行けばよいが、今回はここから「白地沼」を回って行くことにした。

Photo_23  「川原田合戦」で日向野徳久氏は都賀町町史の中で「討ち死にした皆川宗成の子、成勝の川原田合戦後の家臣団、周辺地区の在地土豪への対策が功を奏して、宗成時代より支配圏が拡大することになった」と意義付けをしている。

  江田郁夫氏は著書「下野長沼氏」で宗成の祖父である長沼秀宗が子の氏秀とともに奥州南山(南会津)より皆川荘に入部してきたのが15世紀後半中頃(1480年頃か)と指摘をしている。

  皆川荘にいた第一次皆川氏は150年前にすでに断絶をしている。皆川秀宗父子の入部には古河公方、足利政氏が関わっているとしている。それから約40年後に「川原田合戦」がおこっている。

 鎌倉御家人名家、長沼氏の流れを継ぐ皆川氏は、南進策を進めてきた宇都宮氏にとって制圧する地帯の武将としていきなり出現したことになる。「川原田合戦」以後も俊宗、広照と数度との戦いが展開されることには、宇都宮氏の南進へのこだわりがあったのではないかと思えてくる。名門、長沼の血を継ぐ皆川氏の栃木支配圏の活躍と拡大は、今歩いてきた川原田から始まったのだと思えてきた。

  白地沼から粟野街道に出て、総合運動公園に戻ってきた。約2時間30分の行程だった。

  森戸氏の「今昔話」にでてくる「川遊び」や「淵や沼の水の深さ」から水量の豊富さを思い浮かべることができる。今回は淵からの湧き水を見つけることはできなかった。次回、川原田を歩く時には涌き水を発見したい。……しかし、地下水は無限ではないことを今一度検証していく必要があると思えてきた。

                                        《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

日向野徳久著「改訂、北関東における一封建都市の研究」(昭和34年4月発行)/「栃木市遺跡分布地図」(平成27年3月、栃木市発行)/河野守弘著「下野国誌」(1966年8月、徳田浩淳校訂、下野新聞社発行)/大森隆司著「下野の動乱」(1987年7月、下野新聞社発行/「都賀町町史」(平成元年3月、都賀町発行)/江田郁夫著「下野長沼氏」(2012年6月、戎光祥出版発行)/ウエブ・ネットワークとちぎ現地研修報告「巴波川の水源を訪ねて―昔かたり」(2003年2月・6月)

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なだらか喜連川丘陵―早乙女坂古戦場

Photo  早乙女坂古戦場跡地の「弥五郎殿」は栃木県さくら市氏家から喜連川に向けて国道293号を直進し、喜連川丘陵前の右カーブの道を右折せず、直線して旧道(奥州道)の坂道を昇る。日帰り温泉の「早乙女温泉」の手前の右側に早乙女坂古戦場の標識と石段がある。石段を昇ると宇都宮氏20代領主尚綱の供養塔を祀る祠が建っている。

  このなだらかな喜連川丘陵地帯にて天文18年(1549)9月27日辰の刻(午前8時―10時)に宇都宮尚綱二千騎と那須高資参百騎との合戦が行われた。時期については『関八州古戦禄』では天文15年(1546)となっているが、『下野国誌』引用から天文18年説が定説になっているという(氏家町史)。いずれにしても合戦の時期が数説あるということは、一回限りの衝突ではなく数回に渡って行われたことになる。

Photo_2 下野の三大豪族(宇都宮氏・小山氏・那須氏)の一つ那須氏は上那須、下那須と分裂していた。永正13年(1516)に烏山城主下那須の資房によって統合されることにより、那須氏の下野中央への進出が進む。一方の宇都宮氏においても一族重臣芳賀氏との内訌を抱えながらも勝山城を中心に那須氏への防御を強化していた。

  早乙女坂の合戦の原因として氏家町史では①古河公方足利晴氏の命で宇都宮勢が攻撃を仕掛けた、②宇都宮氏の領土野心、③那須勢の宇都宮領土内への侵入、④宇都宮尚綱に殺害された芳賀高経の養子、高照のため那須氏の挙兵と数説を氏家町史に記載され、合わせて宇都宮氏の内紛が利害関係を結びつけ合って、領土進攻と考えられると記述されている。

Photo_3  合戦は勝山城から出撃した宇都宮尚綱を中心に同族・配下の諸氏や氏家郷の郷士を含めた宇都宮軍二千騎に対して那須軍は参百騎と圧倒的な差で宇都宮勢が優位を占めていた。

  那須勢方の伊王野氏の家臣、鮎ケ瀬弥五郎実光により宇都宮総大将尚綱は射殺され形勢は大逆転し、那須軍の勝利となった。統制が乱れ戦意を失いない敗走する宇都宮勢の中で笠間幹綱の手の満川民部丞が加勢人として敗走したのでは面目がたたないとして踏み留まり、追手の那須勢と戦い、戦死した。『一人当千の侍なりと敵も味方も感心せり』と関八州古戦録に記載されている。那須高資は鮎ケ瀬弥五郎に宇都宮勢を敗走させた戦功として感状と太刀と銭10貫文を与えた。鮎ケ瀬弥五郎はその10貫文の賞金で尚綱討ち死の早乙女坂に五輪塔を建てて敵将の菩提を供養した(氏家町史)。

105  早乙女坂古戦場跡地は『弥五郎殿』と言われている。また石段の右側に松尾弥五郎標柱が建っている。昭和3年に建てられたこの石標の裏面に「敗走する宇都宮勢の中で加勢人の松尾弥五郎が踏み留まって奮戦激闘し、壮烈な戦死を遂げた。合戦後、宇都宮氏は松尾弥五郎博垣の忠死を供養するため永楽銭10貫文を掛けて五輪塔を建立し墳墓とした。それからこの場所を“十貫塚”と呼び、早乙女坂を“弥五郎坂”と改称した」と確認をしなかったが『喜連川町誌』から引用して記述しているという。しかし、松尾弥五郎は架空人物であり、敵地に宇都宮氏が供養塔を建てる筈がない。明治44年編纂の喜連川町誌では早乙女坂合戦の史料を『塩谷記』のみの引用したため誤解を招いたと氏家町史で記述されている。しかし、難病平癒の神とされ民間信仰が盛んになったため「弥五郎殿」と呼ばれるようになったとしている。

  このためなのか「弥五郎坂」はさくら市観光ガイドの載っていない。当初、国道沿いにあると思い早乙女坂を上り、喜連川町に出てしまった。早乙女坂にあるお店に聞いても分らないという返事。古戦場訪問をあきらめ早乙女温泉に入っていくつもりで旧道を昇って行ったら「早乙女坂古戦場の標識」を偶然に見つけた次第。

  五輪塔祠から見る喜連川丘陵はなだらかな斜面となっている。その先に氏家郷が見えて、眺めがよい。那須氏をこの穀倉地帯が欲しかったのかなと思えた。

                              《夢野銀次》

 

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小手指原古戦場から堀兼へ

Photo_20  元弘3年(1333年)の5月8日に上州新田、生品明神にて挙兵した新田義貞は5月11日には入間川を渡り、北岸に陣を敷いた。挙兵の際、『太平記』では弟の脇屋義助は『弓矢の道、死を軽んじて名を重んずるを以て義とせり。運命を天に任せて、ただ一騎なりとも

   (小手指原古戦場跡)

国中に打ち出で、義兵を挙げたらんに、勢付かばやがて鎌倉を責め落とすべし。勢付かずんば、ただ鎌倉を枕にして、打死するより外の事や候ふべきPhoto_16 正義の道を優先し、武勇を重んじることを進言し、挙兵と繋がったと記している。生品明神に集まった150騎は利根川を渡るころには1000騎を超え、小手指原に着陣の時、1700騎と勢いが付いていた。

  (白旗の塚) Photo_19

 小手指原古戦場跡は西武線『小手指駅』からバイバス通りを入間に向かい『誓詞橋』交差点を左折し、『所沢埋蔵センター』の裏てにあり、白旗の塚もそばにある。 5月11日の鎌倉方との小手指原の合戦の前に誓詞橋にて勝利を全軍に鼓吹し、あわせて白旗塚に源氏の白旗を掲げたという伝承がある。しかし、現在の白旗塚は江戸時代に作られたとい説があり、不明でもある。

誓詞橋交差点にある橋)

Photo_21  5月15日の武蔵府中、分倍河原の合戦では新田方は鎌倉方の増援部隊により敗れ、太平記ではただ『堀金指して引き退く』と記してある。

 現在の堀兼神社は江戸時代まで浅間神社と称し、小高い岡の上にあり、2月には富士山をみることが出来る。境内に

(狭山市堀兼の堀兼神社)

は『堀兼の井』のあとがある。堀兼には当時『まいまい井戸』が多数あったとされている。義貞が退いた堀兼はこのあたりなのか?

 所沢の北岩岡にある富岡公民館の東側のネオポリス分譲地の脇を鎌倉街道が通っている。鎌倉街道は御家人の舘を結ぶ枝状になっており、直線道路でもある。

Photo_18  退却する新田方を追撃すれば、新田義貞はその時歴史から去った。しかし、鎌倉方はしなかった。翌16日に三浦義勝の加勢を得た新田義貞は分倍河原にて鎌倉方を破り、そのまま鎌倉に突き進むことになった。これも時の勢いなのか。       

                                    (堀兼につづく鎌倉街道)

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大谷吉継が秀吉の子ならば―関が原

Photo_15  慶長5年(1600年)9月15日の関が原合戦において大谷吉継は自刃した。介錯は湯浅五郎とされ、病の頭を敵にさらされないため、関が原の奥の山林に埋めた。それを藤堂高虎の甥、仁右衛門に見つかったという。

(関が原、 大谷吉継の墓。左が湯浅五郎の墓)

 湯浅五郎は「代わりに私の首を差し出す から見逃してくれ」と叫び、自らの首を斬ったとされている。家康は湯浅五郎の首があるなら、吉継の首のあるはずと問い詰めたが、仁右衛門は黙したとされている。相次ぐ裏切りの中、互角に戦った大谷吉継隊への畏敬の念が働き、藤堂家によって墓が関が原の地に建立されている。隣りには目の見えない吉継の眼となり戦況を随時報告し、指示を仰いだ湯浅五郎の墓が並ぶ。墓は関ヶ原古戦場から山深く入った所に建っていた。

Photo_12  大谷吉継は吉を継ぐと書く。秀吉を継ぐとも言われている。一説には吉継の母「東殿」は大坂城中の北の政所の取次役を務めていたされている。この東殿が秀吉の子を宿し、それに嫉妬したねねが幼少のおりから吉継に毒をもり、失明させたとも言われている説があることを聞いたことがある。

 (関が原決戦地、後方が石田三成陣地、笹尾山)Photo_13  

  真田幸村(信繁)の奥方は大谷吉継の娘であり、大坂城にて秀頼とともに自刃した嫡男、大助は吉継の孫となる。 幸村が吉継が秀吉の子とされていることを知っていたならば、大坂城に参戦する理由の一つにあげられるとおもえるのだが、推測にすぎない。 

(上・下、笹尾山からの関が原古戦場) 

Photo  大坂夏の陣の最後、幸村は吉継の息子吉勝と共に、家康本陣へ果敢な突入を繰り広げた。その執念は関が原への想いもあったのかもしれない。

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