歴史散策

芭蕉、子規も歩いた日光街道―草加の松原

100_0585_20220113133901  東武伊勢崎線「草加駅」を降り、駅前からすぐの交差点を左折し、旧日光街道を北に向けて草加宿を歩く。駅前にはいくつかの保育園などから小さい子供の声が響き渡っている。共稼ぎの多い若い近郊都市という感じを受けた。

  沼地を茅で埋め立てたことから「草加」という地名が名づけられ、開拓した大川図書の「大川図書本陣跡」の石碑が左側に建っている。もっとも草加という地名は、この地が綾瀬川右岸の砂地に発達した土地であり、砂地を意味する「ソガ」が草加となったという説もあげられているなど諸説がある。

  江戸時代の面影が無くなっている旧日光街道沿い宿場跡に建つ「煎餅店」の店先を見ながら歩くと突きあたりに伝右衛門川が流れている。川の向こう岸が綾瀬川に沿った「札場河岸公園」がある。

100_0578   草加市を流れる綾瀬川沿いの草加松原遊歩道の南端に整備された市営公園の「札場河岸公園」。公園入口には芭蕉の銅像が建っている。

  公園内にはかつての「河岸」の面影を今に再現している「札場河岸」がある。綾瀬川は江戸中期頃から、多くの船が行き交ったという。

  江戸時代に野口甚左衛門の私河岸だったのが、安政の大地震により移転したことから、地域の人が河岸場としていた利用されるようになった。その元の野口甚左衛門家の屋号が札場だったことから、いつしか「札場河岸」と呼ばれるようになったと云われている。

100_0600   「札場河岸公園」から綾瀬川にそった日光街道沿いに松並木が1.5キロに渡って施されている。

  草加松原についての案内石碑には「草加松原は寛永7年(1630)草加宿開宿時、または天和3年(1683)の綾瀬川改修時に松が植えられ、江戸時代から日光街道の名所として知られていた。(略)明治維新前後時は、おおむね500本前後の松並木として推移しきた」と記されている。

  しかし、戦後、昭和40年代(1965年~1974年)には、脇の日光街道を通行する車両の排気ガスや道路舗装による根の切断などにより、70本ほどに著しく本数が減っていった。

100_0599   市民の中から松並木保存の声があがる。それを受けて草加市では、平成24年(2012年)に古木・若木合わせて634本の松並木を綾瀬川沿いに復活させて現在の松並木公園遊歩道として整備してきた(草加市ホームページより)。

  こうした松並木保存の動きなどを踏まえ、綾瀬川を横目に見ながら松並木沿いに蒲生大橋に向けて歩いていく。遊歩道になっている綾瀬川沿いの松並木道を散歩やウオーキングを楽しんでいる多くの市民の人に出会うなど賑わいを見せていた。あまりにも整備され奇麗な道になっており、古の街道の面影は浮かんでこなく、少し寂しい気持ちにもなった。

100_0605   「月日は百代の過客にして、行きかう年も又旅人也」。「千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」

  元禄2年(1689)3月27日(新暦5月16日)深川から舟に乗り、午前10時ころに千住の河岸から舟をあがる。前途、三千里の思いに胸が一杯になり、この幻の世の別れ道に泪をこぼした。

 「『行春や鳥鳴き魚の目は泪』 

是を矢立の初めとして、行道をなをすゝまず」(芭蕉「おくの細道」岩波文庫)。

100_0594   この冒頭の旅立ちの文面は高校の時に出会って以来、リズム感のある文章として胸に刻まれてきて感慨深くになってしまうのだ。

  草加松原にはおくの細道の冒頭の旅立に記されている「矢立」と「百代」にちなみ名を付せた二つの橋が架けられている。その橋の上から眺める松並木と綾瀬川の光景は開放的で素晴らしい。

日光街道、根岸から草加を歩いた子規

 100_0574  「札場河岸公園」には正岡子規と

 高浜虚子の句碑がある。

 『梅を見て野を見て行きぬ草加迄』  

 《子規》

 『順禮や草加あたりを帰る雁』

 《虚子》

100_0587   個人の建立と言われている子規の句碑の背面には、「俳人、正岡子規が草加を訪れたのは明治27年3月。高浜虚子とともに郊外の梅花を探る吟行の途次である。このときの紀行文である『発句を拾ふの記』によれば、上野の根岸から草加まで歩き、茶店に休憩を求め、昼食をとり再び去った。そのわずかな有縁を証す詠句は文芸の街を〇〇する貴重な作品である。ここにその句を刻し、子規を顕彰する。平成5年3月20日」と刻字されている。〇〇の箇所は読み取れなく次回往ったとき確認をしたい。

  明治27年の3月24日に仙台第二高校を退学して子規庵に転がり込んで同居していた高浜虚子を誘い草加に向かう。虚子への俳句の指導を含めての吟行であった。この時歩いた吟行紀行文『発句を拾ふの記』だけが正岡子規が編集長になった「小日本」に掲載された

2510   『発句を拾ふの記』の収録されている改造社版「子規全集第十巻小説紀行小品」を図書館で借りて読んでみる。軽快な文章の流れの中で俳句が挿入されており、面白く読むことができた。

  この書を読んで根岸の「子規庵」から草加に向けて日光街道を歩きたいと思ってきた。しかし、コロノ禍のため妻より外出禁止が出されており歩きまわることが出来ない。よって、ブログにて「発句を拾ふの記」全文を掲載して、その行程を辿ってみる。

正岡子規著『発句を拾ふの記』

  亀戸木下川に梅を観、蒲田小向井に春を探らんは大方の人に打ち任せて、我は名もなき梅を人知らぬ野辺に訪わんと、同宿の虚子をそそのかして薄曇る空に柴の戸を出図。

   梅の中に紅梅咲くや上根岸

   松青く梅白し誰が柴の戸ぞ

   板塀や梅の根岸の幾曲り

 千住街道に出ずれば、荷馬、乗馬、肥車、郵便車、われもわれもと春めかして、都に入る人、都を出ずる人。

  下町や奥に梅さく薬師堂    虚子

  肥舟の霞んでのぼる隅田かな  同

  大橋の長さをはかる燕かな

  燕やくねりて長き千住道

市場のあとを過ぎて、散らばる菜屑を啄む鶏を驚かしつつ、行くにもとより目的もなき旅一日の行程霞みて、限りなき奥街道直うして千住を離れたり。茶屋に腰かけて村の名を問えば、面白の名や。

  鶯の梅島村に笠買はん

 野道辿れば上州野州の遠山僅かに雲を留め、左右前後の村々梅あり、藪あり、鶏犬画中に聞こゆ

  いたづらに梅老いけりな藪の中

  雨を呼ぶ春田のくろの鵠かな

  子を負ふて獨り畑打つやもめ哉

  武蔵野や刈田くろに水ぬるむ  虚子

  鍋さげて田螺ほるなり京はづれ 同

  姉妹の土筆摘むなり馬の尻   同

 ささやかなる神祠に落椿を拾い、あやしき賤の女に路程を尋ね、草加に着きぬ。

   巡礼や草加あたりを帰る雁   虚子

   梅を見て野を見て行きぬ草加迄

 八つ下る頃午餉したためて路を返し、西新井に向う。道すがらの我一句彼一句数えがたし。

   ほろほろと椿こぼるる彼岸かな

   一村の梅咲きこぞる二月かな

   栴檀のほろほろ落つる二月かな

   武蔵野や畑打広げ広げ

   茨燒けて蛇寒き二月かな  虚子

   切られたる榎芽を吹く二月かな  虚子

 大師堂を拝みて堂の後の梅園をめぐり、奥の院を廻りて門前の茶屋に憩う頃、春の日暮れなんとす。

   乞食の梅にわづらふ餘寒かな  虚子

   蝶ひらひら仁王の面の夕日かな 同

   しんかんと椿散るなり奥の院  同

   梅咲て仁王の面の赤さかな

   梅散て苔なき庭の夕寒し

   日影薄く梅の野茶屋の余寒かな

   夜道おぼろに王子の松宇亭を訪う。

   春の夜の稲荷に隣るともしかな

 最終汽車に乗りて、上野の森月暗く、電気燈明かなる頃、山づたいに帰り来る夜の夢、寝心すやすやと周公もなければ美人もなし。

 《明治27年の3月24日》

子規の吟行文と写生

011   根岸の子規庵から日光街道に出て、千住大橋を渡り、「市場のあとを過ぎて、散らばる菜屑を啄む鶏を驚かしつつ」と、千住のやっちゃ場を通り、梅嶋村などあちこちに咲く梅を眺めながら日光街道を歩いて往く。

  草加に着き、鰤(ぶり)の昼食をとる。『発句を拾ふの記』の中に記載されていないが、「鰤くふや草加の宿の梅の花」という鰤を食べた句が「寒山落木3、明治27年春」に載っている。

 Photo_20220113130801  それから西新井に引き返し、西新井大師堂に参拝して引き続き廃寺になっている延命寺の江戸六阿弥陀仏(現在の恵明寺足立区江北2丁目)を見て、「野の道や梅から梅へ六阿彌陀」(寒山落木3、明治27年春記載)と詠み、そこから王子の伊藤松宇(俳人、王子製紙、渋沢倉庫などの渋沢財閥の幹部社員)を訪ね、最終の汽車で上野に帰る。こうして歩きながら名所旧跡を見て俳句を詠む、吟行としての紀行文になっている。

  吟行とは俳句をつくるために、景色のよい所や名所旧跡などに出かけて行くことを意味するが、この子規と虚子の草加吟行文については、「近代的吟行の記念すべき初回である」という説もあるということを草加市ホームページに記されている。「写生」を基調とした吟行文ということなのかもしれない。

 Photo_20220113130901 「子規全集十巻」には草加の梅を吟行し『発句を拾ふの記』に引き続き、子規は上野公園を散策する『上野紀行』(明治27年8月)、根岸周辺の音無川、三河島周辺散策の『そぞろ歩き』(同年8月)、挿絵画家中村不折を伴って歩く『王子紀行』(同年8月)、川崎大師から六郷橋、蒲田、池上本願寺を歩く『間遊半日』(同年11月)、芋坂団子を詠った「根岸名物芋坂団子売る切れ申す候の笹の雪」が載っている『道灌山』(32年10)など、吟行文を記述していった。

Photo_20220115064801   以前にテレビドラマ「坂に上の雲」をDVDで観ながら正岡子規役の香川照之を気に入り、正岡子規著の「病牀六尺」「仰臥漫録」等を読み、正岡子規の文体にはリズム感がありその文章は明るいと感じていた。それはどこか吉田松陰の「東北遊日記」に似ているなと思っていた。

  3年前、入院病室で司馬遼太郎の「花神」を読んでいると吉田松陰と正岡子規の文体が似ていることを司馬遼太郎が記している箇所にぶつかり、「やっぱりな」とうれしくなったことが思い出される。

  司馬遼太郎は「花神」の中で、吉田松陰と正岡子規の双方の文体が似ていることを次のように記している。「異常ほどあかるいその楽天的な文体、平易な言いまわし、無用の文章の少なさ、そして双方とも大いなる観念のもちぬしでありながら、実際に見たものについて語るときがもっともいきいきして多弁になるという点などが共通でいた」と記し、「双方とも近世日本が生んだもっともすぐれた教育者である」と高い評価している。

  二人とも幼少期より漢文を読み、旅をしながら見ていくという強い行動力を持ち合わせていたことがいえる。

20_20220113130901    この明治27年3月24日の草加への梅見の吟行の前の2月に子規は挿絵洋画家中村不折と出逢い、すぐに「小日本」へ中村不折の挿絵を掲載する。当時の新聞の挿絵が浮世絵系統が多く、洋画家系の採用は思い切ったものと評されている。

  子規は手帳と鉛筆を持って吟行を試みていた。いったん戸外に出て散策すれば、まだ言葉にまみれていない場所や事物は無尽蔵にあり、途上の俳趣―平凡な景色―との出合いに満ちている世界を求め、描いている。

  伊集院静著「ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石」の中で、「子規は『写生』確立にむかいはじめた。目に映った風景、実景をそのまま俳句にする味のようなものを悟った時期であった。しかし、山と積まれた創作句を見つめて、子規はどうもこれは間違いだと感じはじめた。子規は不折の作品に惚れこんだ時から、不折に画法とその精神を問いた。

  不折は応えた。『あるものを見たままに描くのでは写生になりません。見た時の感想、例えば奇麗な花と思ったこころを描くのが写生です』。

  子規はそれまでおぼろにしかわかっていなかった『写生』の本質を、この青年画家との会話から見出した」と記している。

  ……これなんだよな。

Photo_20220113130802   小学4年のころから、私は絵に夢中になり頻繁に写生に出かけていた。描いた絵はいずれも展覧会で入選していたことも励みになっていた。しかし、6年生のある時に展示されている風景写真を見た。『自分が描いている細かい風景画は写真にはかなわない』と心に衝撃が起こり、気持ちが萎えてしまった。以後、私は写生に出かけることもなく、絵は描かなくなった。

  この時、「写生」という本質、自分が心の中に感銘などの思いをもった風景を描くということ知っていたならば、違う角度から絵に向きあえたかもしれないと思えてきた。

  正岡子規を読みながら、「銀次のブログ」を描いていく際に忘れてはならないこと。――歩いて、『見ること』『体感すること』の中から学び、自分のこころを見てブログに表していくことが肝要であることを、今一度自分に言い聞かせていくことにする。

                                             《夢野銀次》

≪参考引用文献等≫

岩波文庫[芭蕉おくのほそ道](1979年1月、岩波書店発行)/山本健吉著「奥の細道」(1989年2月講談社発行)/草加市ホームページ「おくのほそ道の風景地 草加松原」/改造社版「子規全集第十巻」(昭和4年10月発行)/ウエブ正岡子規著「寒山落木3、明治27年春」/司馬遼太郎著「新潮文庫 花神」(昭和51年8月、新潮社発行)/伊集院静著「ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石」(2013年12月、講談社発行)

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河と彫刻-春日部のまちを歩く

「カスバの女」を歌う藤圭子

1 涙じゃないのよ 浮気な雨に

  ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ

  ここは地の果て アルジェリヤ

  どうせカスバの 夜に咲く

  酒場の女の うす情け

2 唄ってあげましょ わたしでよけりゃ

  セーヌのたそがれ 瞼の都

  花はマロニエ シャンゼリゼ

  赤い風車の 踊り子の

  今更かえらぬ 身の上を

3 貴方もわたしも 買われた命

  恋してみたとて 一夜(ひとよ)の火花

  明日はチュニスか モロッコか

  泣いて手をふる うしろ影

  外人部隊の 白い服

 (「カスバの女」作詞:大高ひさを、作曲:久我山明)

  「カスバの女」は昭和30年(1955))5月にエト邦枝によって映画の主題歌として発表されたが、映画は制作されず消えていった。

  昭和42年(1967)に緑川アコがカバーしてレコードを発売するとこれがヒットとなり、以後竹越ひろ子、ちあきなおみなどが歌い、広く知られるようになっていく曲。昭和56年(1981)12月公開映画『セーラー服と機関銃』の冒頭でブリッジをしながら「♪涙じゃないの~」と17歳の薬師丸ひろ子も口ずさんで歌っていた。

Photo_20211214142502   昭和45年(1970)10月23日、渋谷公会堂における「歌いつがれて25年、藤圭子演歌を歌う」の実況録音盤CDの中に、19歳の藤圭子が歌う「カスバの女」が7曲目に収録されている。

  緑川アコやちあきなおみの歌はゆったりと歌いながら人生を捨てたような哀しさとけだるさを感じる。しかし、19歳の藤圭子が歌う「カスバの女」を聴くと、若い娘があどけない顔から突き刺すような目つきで男と女の暗い世界に夢を捨てないで生きていく姿が浮かび上がってくる。

  その夢の中にはセーヌ河があり、赤い風車ムーランルージュのステージで踊る娘たちがいる。19歳という娘ざかりと哀しさが入り混じった不思議な歌唱になっていて味わい深い歌曲になっている。

春日部市内を流れる大落古利根川(通称古利根川)

♪セーヌのたそがれ 瞼の都

 花はマロニエ シャンゼリゼ

 赤い風車の 踊り子の~

100_0310  春日部市街地の東側を流れる大落(おおおとし)古利根川。農業排水を落とす幹線排水路の意味から大落古利根川と言われているが、川の畔から眺める通称古利根川の流れは、かつての大河利根川の残像かのように悠然と流れている。

    日高昭二著の「利根川 場所の記憶」の中に医師でもある俳人の水原秋桜子が昭和19年春日部市になる前の昭和初期粕壁町付近の古利根川を著した「古利根川の岸辺」の文章が紹介記載されている。

100_0486 「『K画伯は、ここの景色と巴里郊外の景色とが、非常によく似ていると言われます」。若い中学の先生は、橋の欄 干にもたれながら、こう私に説明してくれた。私はセーヌ河と古利根川とが似ることに興味をおぼえて、指さされたままに下流の方を見渡した。なるほど西洋の画ではこういう景色を見たような気がした。

100_0481  その日の夕日は、もう町の家並みにかくれて、雲ひとつない空をなごやかに色付けていた。渡り鳥の群が二つ三つ声をおとして頭上をすぎて行った。幅70メートル程の古利根は、十分な水量を湛えて気持ちよく澄んでいた。はるか下流にもうひとつ橋が見え、そこまでの西側が粕壁の町裏である』

  粕壁町の安孫子病院に医師として勤務しながら古利根川に接した水原秋桜子。パリ郊外を流れるセーヌ河と似ているという古利根川……パリに行ったことのない私は、川幅70メートルの古利根川がパリに流れていっているような旅情を誘う情景が浮かんできた。

古利根公園橋の彫刻

100_0496  初めて訪れた春日部市……。

  旧日光街道かすかべ大通りを歩く。舗道には『粕壁宿案内』、『問屋場跡』、『本陣跡』などの案内標識が目につく。

   市民から史跡標識設置の要望で建てられたと郷土資料館の学芸員の方が話をしてくれた。その春日部市郷土資料館で『粕壁宿模型図』を眺め、芭蕉が宿泊したと云われる東陽寺に参拝し、市民文化会館、図書館と『匠大塚』の脇道を通り抜け古利根川畔に立った。

100_0488    静かに流れる川面を見ながら川沿いに沿って川上に足を運ぶ。

 赤い風車の代わりに麦わら帽子をイメージした高いアーチのモニュメントがある古利根公園橋が見えた。古利根川の静かな佇まいとは対照的に、なにやら近代のきらびやかな外観を呈した公園橋に辿りついたような感じがした。

100_0378    ウキペディアでは、『春日部市制30周年にあたる昭和59年に完成した古利根公園橋。街の中心を流れる古利根川に架かる全長79mの橋上公園で、「光と風」をテーマに、市の特産品である麦わら帽子をイメージした高さ14.5mのモニュメント、橋上ステージ、ブロンズ像6体などで構成するこの橋は、市政30周年(昭和59年)を記念してできた公園橋』と紹介されている。

 さらに、公園橋にある6体の彫刻はすべて青銅製の単身の人物像で、「彫刻のある街づくり」を目指した春日部市として平成2年から3年にかけて設置されていると記されている。

100_0516    千野茂『フォーム』・舟越保武『茉莉花』・山本正道『思い出』・桑原巨守『夏』・佐藤忠良『ジーンズ』・斎藤馨『春陽』と若い娘・少女を中心にした彫刻群になっている。

  中でも『夏』と『春陽』の少女の塑像が新鮮な感じを受けた。

   『夏』の作者、桑原巨守は『輝く太陽、爽やかな涼風、咲き乱れる野の花高原にすくっと立つ少女。私の抱く夏のイメージを彫刻にしてみました』とコメントを表している。はち切れそうな健康的な作品群になっている。

    公園橋から古利根川を見る。公園のベンチに腰をおろし、くつろいだひと時を甘受する。

新町橋と古隅田川

100_0383   公園橋の上流に新町橋が見える。

  新町橋は、江戸時代に大橋と呼ばれ粕壁宿から杉戸宿に向かう日光道中、古利根川に架けられた橋。幕府が費用を負担し、長さ16間(約29m)、横3間(約5m)の板橋で、高覧が付いていた。

  橋の畔は上喜蔵河岸跡になっている。わずかにマンション駐車場の脇に河岸跡の石垣が残っているが、郷土資料館の『粕壁宿模型』で表している上喜蔵河岸周辺の方が往時の姿を思い浮かべることができる。

100_0525  古利根川に注ぐ岩槻から流れてくる古隅田川が見える。かつては川の流れは今とは逆に、古利根川から古隅田川に流れが注ぎ、元荒川へ満々と水が流れていた大河であったという。ちょっと想像できない。

  …中世から徳川時代にかけての関東地方の川筋は『利根川東遷事業』によって大きく変化している。そのため、利根川と古利根川、隅田川と古隅田川、荒川と荒川放水路、中川など中世と現代では区別がつきにくく、難渋してしまう。

最勝院と千住馬車鉄道

100_0527   古隅田川に架かる十文橋を右に見て、左折し最勝寺山門に着く。

   真言宗のお寺で華林山慈恩寺最勝院といい、本尊に千手観音をまつる。境内にある立派な鳥居をくぐると春日部重行公之墳墓がある。

   案内版には春日部重行公は天皇を護衛する武者所番衆として新田義貞に仕え、後醍醐天皇の建武の新政を支持した。

100_0392   新田軍として討幕に参加し、鎌倉、箱根、京都、島根、九州など各地で幕府軍と戦う。特に鎌倉の戦いでは戦功を挙げ、延元元年(1336年)に後醍醐天皇から下河辺荘の一部である武蔵国春日部郷 (現在の埼玉県春日部市内牧地区の一部)と上総国山辺郷 (現在の千葉県千葉市緑区の一部)の地頭に任命された。同年6月30日、重行は北朝側の足利尊氏軍と京都鷺の森で戦うが敗戦し自刃した (延元の乱)。

   遺骨は長男の家縄が春日部に持ち帰り最勝院へ埋葬したと記されている。 

  春日部市では春日部の祖として毎年ゴールデンウィークに春日部重行公祭を開催している。どれくらいの規模祭礼なのだろうか?

100_0529  山門前の案内版には、『明治時代この最勝院は粕壁小学校(明治5年)や粕壁税務署(明治42年)などに利用され、広い境内は大相撲地方巡業やサーカス、村芝居の興行、各種の武道大会等に利用された。また明治26年に粕壁ら越谷、草加を経て足立区千住までを結んで開業した千住馬車鉄道は、この最勝院を起点としていた』と昭和61年3月に春日部市として記載している。

 この最勝院山門前の案内文を読んで千住町と粕壁町を結んだ「千住馬車鉄道」があったこと、最勝院山門前が『千住馬車』の起終点であったことを初めて知った。そのため、古利根公園橋左岸に雨宮一正作の千住馬車鉄道のモニュメント『トテ馬車』(記念碑)があることの意味も分かった。

100_0376  明治24年(1891)に上野―青森間の鉄道が開通した。しかし、上野―前橋間鉄道の途中から分岐することとしたため、陸羽街道(旧日光道中)沿線の千住―幸手間の人々は鉄道の恩恵を受けられなかった。

   そのため明治26年(1893)2月7日、千住馬車鉄道が千住茶釜橋から越ヶ谷町までが開通して旅客営業をはじめ、6月1日に越ヶ谷町から粕壁(最勝院付近)まで12人乗りの馬車鉄道が開通した。なお、浅草―千住間、粕壁―幸手間は普通馬車によって連絡をしたという。

28    千住―粕壁間を4時間、一日4往復であった。それでも軌道上を走る鉄道馬車は「ガタ馬車」と呼ばれ普通の馬車に比べると乗り心地がよく、車体も大型化となった。

   当初の計画は千住町中心の仲町に馬車鉄道の停車場を造る計画であったと云われているが、地元から狭い街道筋に馬車鉄道の運行は危険が伴うということで軌道敷設の強い反対があり、千住町の北、今は荒川の土手になっている茶釜橋に停車場を設置した。同じように千住近辺街道沿いにおいても馬車鉄道敷設への反対が強かった。馬車鉄道開設を希望したのは東北本線から外れた日光街道沿いの草加、越谷、粕壁、幸手の地域の人たちであったと云われている。今の東武伊勢崎線の路線を見るとこれも頷ける。

Photo_20211214153101   『春日部市史別冊千住馬車鐡道』によれば明治20年代から30年代にかけて埼玉県内では「忍・行田馬車鉄道(明治34年6月開業)」「伊勢崎・本庄馬車鉄道(明治22年計画のみ)」「入間馬車鉄道(明治32年出願のみ)」「川越馬車鉄道(明治35年5月開業)」など馬車鉄道の運行や計画が数多く出されていた。今の都電も当初は東京馬車鉄道として運行をスタートしたことになる。

   開業後の千住馬車鉄道の経営も思わしくなく、明治29年(1896)に普通馬車鉄道営業を廃止し、翌年6月には全線が廃業した。これを惜しんで草加周辺の資産家らが草加馬車鉄道を設立し、全線の営業を引き継いだ。しかし、明治32年東武鉄道の開業によって明治33年(1900)に廃業となる。明治26年から7年間の短命な馬車鉄道であった。

   馬車鉄道については鉄道史においてどれだけ研究されているか分からないが、地域を結ぶ輸送関連から学ぶ事項が多々あると思えてくる。

粕壁宿から春日部市へ

40  岩槻街道から最勝院山門前を右折すると町並10町25間(約1,130m)、人数3,701人(男1,791人、女1,910人)、家数773軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒(内飯盛女旅籠14軒)、問屋場1ヶ所、人馬35人35疋の粕壁宿になる(天保14年『日光道中宿村大概帳』より)。

  粕壁宿は日光道中(日光街道)の江戸・日本橋から数えて4番目(千住宿・草加宿・越谷宿・粕壁宿)の宿場町になっている。現在の春日部駅東口の旧街道一帯が、かつての粕壁宿ということになる。江戸・日本橋から一日歩き通すと、ちょうど1泊目となる宿場町がこの粕壁であったことから、旅人の多くはここで宿を取ったようである。

100_0351  最勝院山門から歩くと新町橋に抜ける交差点に「高札場跡」の標識がたっている。その先、公園橋西交差点の手前、りそな銀行春日部支店前に峯田敏郎作品『記念撮影―風がー』の彫刻が舗道に展示されている。

 風にとばされる麦わら帽子、そばに佇む少女の塑像。「水平、垂直の形でできている街の中に、快い空気が流れはじめたらと、この形の作品が生まれました。やわらかそうな丸い形の上に座る女性に突然風が・・ そして、帽子が、・・。」と作者の峰岸敏郎氏はコメントを寄せている。

 ――何よりも健康的で未来を見つめているような彫刻作品だと感じた。

 春日部市が平成2年から3年にかけてすすめてきた「彫刻のある街づくり」で設置されてきた彫刻は、古利根公園橋から春日部駅東口、公園西交差点からかすかべ大通り、春日部駅西口市役所にかけて22の作品が展示されている。

 今後、宿場町としての粕壁宿が現代の春日部市と変移していく一つの町づくりとして価値あるとりくみだと思えてきた。

                            《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

「新編図録春日部の歴史」(平成27年10月1日春日部市発行)/日高昭二著「利根川 場所の記憶」(2020年7月翰林書房発行)/ウエブ「まちなかで鑑賞できる春日部の彫刻」/[馬車鐡道の想い出~千住馬車鐡道展](平成15年7月春日部市郷土資料館発行)/「春日部市史別冊千住馬車鐡道」(昭和59年3月春日部市教育委員会発行)/ブログ「カスバの女三木鉱三のうた物語」/ウキペディア「古利根公園」

 

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倉賀野宿を歩く②…五貫堀川・飯盛女と倉賀野河岸

100_0168  JR高崎線倉賀野駅のホーム端から一本のレールが高崎本線から分かれて東方に伸びているのが見える。JR貨物施設「倉賀野駅貨物基地」続く側線レールである。

 一昨年の11月に倉賀野駅ホームに降りた時、石油貨物列車が側線に沿ってゆっくり移動していくのが見えた。久しぶりに長い連結貨物列車を見たような気がした。貨物列車が東にある倉賀野貨物基地に続いていることを後で知ることになった。

 貨物基地につづく側線レールのもとは岩鼻軽便鉄道であった。明治13年(1880)に陸軍は当初、製造所からの製品の輸送は、倉賀野河岸烏川の舟運を主に利用していたが、高崎線の開業後は、倉賀野駅との間に荷馬車を走らせるようになった。この荷馬車輸送から岩鼻軽便鉄道が生まれた。

 現在では輸送の主力はトラックに変わり、貨物列車をいまではあまり多く見られなくなってきているのを実感する。

100_0171  コロナ禍の影響で2年半ぶりに両毛線高崎経由で倉賀野駅を降りて駅南口に立った。

   駅前にある倉賀野小学校の塀に倉賀野宿の案内地図が掲示されていた。その先に暗渠となっている五貫堀川がある。

 五貫堀川は長野堰幹線用水路を倉賀野で分水し、烏川にむけて流れ、この地域 の水田を潤し用水路。暗渠化される以前は、水車が設けられ、魚獲りも出来たといわれている。

 100_0174 階段で暗渠になっている五貫堀川に降りることができるようになっている。さっそく五貫堀川に降りて、烏川に向けて歩く。

  飯盛女の墓石のある九品寺の屋根を右手に見ながら歩き、足元の下には水路が流れているということだ。何だか川底を歩いているような気がしてきて、変な感じになってきた。

100_0177  中山道五貫堀川に架かる「太鼓橋」を川底から見上げる。  

 「新編高崎市史通史編3」では倉賀野宿中山道沿いにあるこの太鼓橋のことを、「(宿場の)下町と中町の境の堀(五貫堀川)には長さ三間(約5.4m)、幅一丈(約3m)の橋が架けられていた。この橋は享保18年(1733)の洪水や天明3年(1783)の浅間山大噴火の影響などで何度か架け替えられたが、享和3年(1803)には宿内の旅籠屋が溜銭積金200両余を出金し、江戸木材木町の石工石田屋太右衛門に依頼して石橋を架け、太鼓橋とよばれた」と記述されている。

100_0211  旅籠屋溜銭積金200両とは飯盛女の玉代の一部の積立金であった。血の出るような飯盛女の浄財金で「太鼓橋」を造ったということになる。

  石橋アーチでできていた「太鼓橋」。板橋から石橋に掛け替えられてから昭和10年(1935)の道路改修で取つぶされるまで、百三十三年間、石橋の太鼓橋は往来する旅人や多くの飯盛女を見ていたことになる。

E0073751_9103081  「中山道倉賀野宿の飯盛女は、宿の中ほどにある太鼓橋から下を流れている川に鐚銭(びたせん…ほんのわずかのお金)を投げて拍子をうって拝むと、その日はお茶をひかないと信じられていた。お茶をひかないというのは、花街の用語でお客が来ることを意味している。したがって、夕方ともなれば飯盛女が行列をつくって太鼓橋に集まり、その夜、多くの客が登楼することを祈った」と、五十嵐富夫氏は「「飯盛女―宿場の娼婦たち」で記している。

100_0209  上州(群馬県)倉賀野宿は江戸時代、中山道の江戸日本橋から12番目の宿場で、日光例幣使街道の分岐点に当たる宿として賑わっていた。また、烏川に江戸との物資輸送の河岸もあって繁栄していた。

 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、倉賀野宿の宿内家数は297軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、飯盛旅籠32軒で宿内人口は2,032人であった。

100_0180  しかし、天保6年(1835)の宿内の大火から家の復興がなされていないため、享保3年(1718)には家数は500軒、旅籠の数は64軒以上となり、飯盛旅籠には150人~200人と多くの飯盛女がいたと云われている。4軒に1軒は飯盛女のいる旅籠となり、倉賀野宿全体は花街のようを呈していたということになる。

 100_0179 それは、旅人だけではなく、烏川舟運による倉賀野河岸の隆盛による。船の乗組員の水主(かこ)や荷物の積み降ろしや倉庫や船に運ぶ『小揚人足』など多くの河岸関連の労働者が倉賀野宿の飯盛旅籠で遊興や宿泊など利用していったからである。

 「太鼓橋」を上に見ながら五貫堀川をさらに下流に歩いていくと民家へ入ってしまいそうな石段が右側にあった。そこを上がったところにあるのが三光寺稲荷神社。倉賀野宿の旅籠屋やそこに働く飯盛女たちのから厚い信仰を集めていた。

100_0185  境内には、「明治42年、倉賀野神社に合併された時に、ここにあった社殿は前橋川曲町の諏訪神社に売られ、常夜燈と石玉垣は倉賀野神社に移築された。しかし、町の人の夢にお稲荷さん現れて、『元のところに戻りたい』と泣くということから、昭和11年に再建され冠稲荷になった」という案内標識が立っている。

 200人近くいた飯盛女の生国は大半が越後生まれであったと言われている。

 15歳で10年年季奉公として三国峠を越えて倉賀野宿の飯盛女になって働いた。しかし、年季奉公契約においては、契約は奉公人となる女性本人ではなく、人主(親か家長)と請け人と雇い主の間で交わされた。つまり、女子は奉公に行きたくなくても、奉公契約によって親や家長の決定に従わざるを得なかった。これは奉公という名の人身売買契約であった。

100_0186   ブログ「隠居の思ひ記、女郎が架けた太鼓橋」には、「高崎の散歩道 第二集」の中に、倉賀野町にある、他国出身の娘の墓を調査したデータを引用してこう記されている。「出身地を分類すると、26人中19人が越後出身。没年齢では 12~19歳が5人、20~25歳が7人、26~29歳が2人。平均没年齢は、21歳3か月だったという」。

 15歳で10年年季の飯盛女として奉公しても満期の25歳までには生きられなかったということである。

 五十嵐富夫氏は自著「飯盛女―宿場の娼婦たち」の中で、「死亡率と人別帳とを比較検討すると、6・7年が飯盛女の耐用年数で、23歳くらいが体力を消耗し悪病に犯されて死ぬ年齢のようである」と記していることから、栄養不足、梅毒などにより生まれ故郷に帰ることなく短い命を喪っていったことになる。

 この三光寺境内稲荷は村人からは冠稲荷と呼ばれ、特に宿の飯盛女の信仰を集めていた。

 社会の底辺に生きている飯盛女にとっては、何かを信仰せずには一日も生きていけなかったのである。その信仰心が玉垣の寄進という形をとったのである。

P2210121  現在の倉賀野神社には三光寺稲荷社に寄進した飯盛女たちの玉垣が移転されて現存している。鳥居横の玉垣には「金沢屋内、里津・ひろ・ぎん」名が刻まれているが、これは玉垣作成の時の飯盛女の名である。倉賀野神社境内にある冠稲荷神社を囲む玉垣には寄進者である飯盛女の名が刻まれている。

 暗渠の五貫堀川を歩いて下っていくと烏川にでることができた。暗渠から奇麗な堀川の水がとうとうと流れ出て烏川に注いでいる。

 1262000_20210713101301  美人画の英泉と歌川広重が合作のかたちで天保6年(1835年)ごろ完成させた『木曽街道六十九次』の中に英泉が描いた『木曽街道 倉賀野 宿烏川之図』の風景画がある。

 烏川は利根川の上流で江戸との間に舟運が開けていた。舟が行きかう烏川を背景に川縁に建つ茶屋が描かれている。小川に張り出した桟で女が束子で釜を洗っている。小川に流れ込む用水(五貫堀川)で子供が網で魚を捕ったり、亀を捕まえたり,水門に上がり遊びに夢中である。茶屋では菅笠と杖を脇に置いて休んでいる旅の女が子供たちの遊んでいる様子に見入っている。一見のどかな風景画に見えるが、烏川舟運と女、子供の明るい姿には違和感を覚えてくる。違う世界の倉賀野宿に見えてくるのだ。英泉は何を描こうとしていたのだろうか?

100_0195  利根川のもっとも上流にあると言われる烏川沿いの倉賀野は、江戸時代は信州や甲州そして越後から農産物や物資が集積され、中山道の途中にあり、また日光例幣使街道の起点でもあって栄えていた。さらに北は渋川、沼田と経て三国峠を越えて十日町に至る三国街道によって越後地方と結ばれており、水路、陸路双方の交通の要所でもあった。宿場の本陣の勅使河原、脇本陣の須賀庄と須賀喜は河岸問屋を兼ねていることから舟運と飯盛旅籠の花街として宿場町として、町全体が繁栄していたことになる(斎藤百合子著『越後から上州に渡った飯盛女と八木節』より)。 

 現在の倉賀野はそうした賑わいを回想することができないほどひっそりとしているが、烏川にかかる共栄橋の麓の倉賀野河岸があった場所に「倉賀野河岸跡」碑と、由来が書かれた「倉賀野河岸跡史跡」の看板建てられていた。「倉賀野河岸由来」の記念碑に は、倉賀野河岸の繁栄の様子が、次のように書かれている。

 「倉賀野河岸由来

100_0189  当河岸は江戸時代初期より利根川の上流河岸として上野、信濃、越後の広大な後背地を控え、江戸との中継地として繁栄を極めたり。三国の諸大名、旗本の廻米を初めたばこ、大豆、葦板等の特産物は碓氷、三國両峠の嶮を牛馬の背で越え、当河岸より江戸へ、また帰り舟には、塩、干魚、荒物等の生活必 需品や江戸の文化を内陸地へ伝え、その恩恵に浴さしめぬ。元禄時代の盛期には上り荷物三万駄、下り荷物二万二千駄を数え、舟問屋十軒、舟百五十余艘に達し、十四河岸組合の河岸となる。然るに明治十七年高崎線の開通によりその使命終わりぬ。時移り川の流れも変わり往古の繁栄は昔の夢となる。われら有志 当時を偲びてこの碑を建つ。

  昭和四十九年甲寅年十月吉日  大山正撰文  前沢辰雄河岸著者  根岸政雄謹書」

 共栄橋の下を通り抜けて烏川沿いから上流に歩いていくと井戸八幡宮がある。その境内に「倉賀野河岸」の歌の碑があった。地元の歌手がこの歌を歌っているとのことだ。ありし日の倉賀野河岸を連想される歌詞になっている。

『倉賀野河岸』

作詞 曽根松太郎  作曲 矢島ひろ明

100_0201 1.八幡様の御神鈴の  音まで賑わう

 倉賀野河岸よ  船乗りたちは、

 無事祈り  夜明け一番 舫網を解く

 晴れて出船の 掛け声たかく

 江戸に舳先を 向けて出帆

 

2.惚れても無駄よ 宿女郎

 俺ら船頭 川風まかせ 

 大杉神社様の 石段で

 哭いて手を振る 可愛い娘 

 紅い蹴出しが 眸にしみる 

 雁も鳴いてる 城の跡

 

3.江戸へは三日 烏川くだり

 上りは十日と 加えて七日

 信州 越後 甲斐の米

 積んで戻り荷 赤穂塩

 始発湊は 終着湊

 河岸の倉賀野 江戸の華  

 平成十二年十月吉日   曽根松太郎 建立 歌 高橋龍治

100_0202  二番の歌詞に出てくる「大杉神社様の 石段で哭いて手を振る 可愛い娘」は倉賀野宿の旅籠に働く宿女郎飯盛女のことを謡っている。河岸で働く男と飯盛女の切ない情景が浮かんでくる。

 その大杉神社はどこにあるのか?井戸八幡宮で祭りの準備をしていた人に尋ねると神社から少し下り、すぐ登り路を上がると左側の民家の庭に「大杉神社址碑」が建っていると教えてくれた。経済的事情で民間に売却されていたということなのだ。

 民家の庭に建つ大杉神社址碑から烏川を見下ろした。広々と烏川の川面が広がって見えた。舟運と旅籠で華やいだ景色の面影はどこにも残ってはいなかった。水上の守り神大杉神社と飯盛女の厚い稲荷信仰の世界は確かにここに残っているのだが、飯盛女たちの姿を垣間見ることはことができなかった。

Netoff_00014065941  私が見たいと思った景色は、黒澤明監督昨品「用心棒」に登場してくる薄汚れた宿場女郎たちの姿なのか?それとも「安永五(1776)年三月、16歳のゆいは中仙道板鼻宿にいた」と書き出しで始まる飯盛女を描いた立松和平著「浅間」なのか?

 天明三年浅間山噴火で被災する村娘ゆいを主人公に描いた「浅間」は、ゆいが3年奉公として板鼻宿で客をとる飯盛女時代の暮しが描かれている。ゆいはここで養蚕の技術を学び、3年奉公の後、村に帰り養蚕をはじめ結婚し、幸福な暮らしを営み始める。しかし、浅間山の大噴火ですべて失う世界を描いた小説になっている。

 歴史の底辺に生きた人々の息吹を捉えるのは小説や映画の世界でしかないのか?

 …河岸と遊女の関連から何が生まれ、現在に育ってきたのは何か? 一つの課題として歩んでいこう。  

                              《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

五十嵐富夫氏著「飯盛女―宿場の娼婦たち」(昭和56年1月、新人物往来社発行)/齋藤百合子著『越後から上州へ渡った飯盛女と八木節』(2014年10月、明治学院大学国際学部附属研究所流域文化圏形成の研究 Ⅲ収録)/宇佐美ミサ子著「宿場と飯盛女」(2000年8月、同成社発行)/「文献による倉賀野史第3巻」(昭和62年9月倉賀野雁会発行)/「新編高崎市史通史編3近世」(平成16年3月発行)/前沢辰雄著「上州倉賀野河岸」(昭和40年11月発行)/ブログ「「隠居の思ひ記 女郎が架けた『太鼓橋』」(2009年3月10日配信)/立松和平著「浅間」(2003年9月、新潮社発行)

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上州倉賀野宿を歩く①…飯盛女の墓石「九品寺」

31xyudfphsl1 〽つらくても がまんをすれば

 きっときますよ 春の日が

 あなたの口癖 あなたの涙

   命なげすて 育ててくれた

 子供ごころに 香りを残す

 花は越後の 花は越後の 寒椿

 (「雪椿」昭和62年6月、作詞:星野哲郎、作曲:遠藤実、歌:小林幸子)

Yjimage5 新潟生まれの小林幸子が作詞家星野哲郎に初めて作詞を依頼してできた曲「寒椿」。星野哲郎と小林幸子との間で、10歳で「嘘つき鴎」でデビューしたが、長年ドサ回りなどで苦労した頃、見守ってくれた母のことの思い出が話され、この「寒椿」の作詞が生まれたといわれている。

 星野哲郎が描く作詞には「出世街道」「兄弟仁義」「男はつらいよ」「いっぽんどっこの唄」「風雪流れ旅」など「人の世を生きる様の姿」を描いた歌が多い。「寒椿」は新潟生まれの遠藤実の曲と相まって、薄幸の中で娘を見守る母の姿と我慢強く生きる越後生まれの娘が浮かんでくる歌である。

 「雁会(かりがねかい)の人たちが、本堂脇にたくさんあった墓石の中から飯盛女の墓石を探し出したのです。その墓石をここに設けているのですよ」と飯盛女の墓石を案内してくれた九品寺の住職。果たして、うら若い飯盛女にとり、つらくても我慢をすれば春の日を迎えることができたのだろうかと問いかけながら倉賀野宿を初めて訪れた。

P2210076  室町時代の延徳3年(1491)創建の九品寺は高崎市倉賀野町にある浄土宗の古刹である。JR高崎線倉賀野駅から旧中山道に向けて歩いて5分の処にある。

 「飯盛女のお墓はどこにありますか?」と玄関口で尋ねると、住職は私を境内墓地入り口の右側に並ぶ6基の飯盛女の墓石を案内してくれた。

 「墓地に入る処に俱会一処(くえいっしょ)が建っているでしょ」と言って、境内墓地に入る手前の左側に墓石を積み上げて高くそびえる「俱会一処」の塔を示してくれた。「たしか昭和60年頃だったと思います。雁会(かりがねかい)の人たちが本堂脇に放置されていた墓石の中を丹念に飯盛女の墓石をお調べになさっておりました。取り出した飯盛女の墓石5基、後から1基が追加されまして、飯盛女の墓石としてここに設置し供養させていただいております。残りの墓石でこの俱会一処を建てたのです」

P2250025  俱会一処の塔を見ながら住職は、「この墓石の中にはまだまだ飯盛女の墓石が埋もれていると雁会の人たちは思っていたでしょうね。俱会一処はお仏さまになれば、どんな人でもみんな一緒ということを意味します」と話してくれた。

 阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができるという俱会一処の塔。これまで訪れた浄土宗の寺院にあったかもしれないが、九品寺の住職に教えられ、初めて俱会一処を知った。

 倉賀野史を調査研究していた「倉賀野雁会」は、「史料による倉賀野史1巻~3巻」等を発行するなど精力的に活動をする地域史研究会であった。しかし、帰路に立ち寄った公民館の方から現在は雁会がないことを聴いた。倉賀野の町を歩きながら歴史的な根拠を示していった活動は倉賀野地域史に大きな貢献を行ったと思えてくる。

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 整然と並べられてある5基の飯盛女の墓石を見る。わずかに「清水屋」以外に読み取ることのできないほど墓石は劣化している。飯盛旅籠の主人が供養して建立した墓石が並んである。できれば案内標識版が建っていれば飯盛女の墓石とすぐ分かるのだが…。

 5基の墓標銘については「文献による倉賀野史第3巻」(倉賀野雁金発行)とブログ「隠居の思ひ記九品寺」を参照して、写真右の墓石から順に記載していく。

①慈教信女位 田澤屋栄之助 娘はま 行歳廿才

 (左側面)越後國三島郡石地宿

 (右側面)文久二找裁七月八日

②歸眞迎観信女霊位 

 (右側面)越後國蒲原郡柴田領沼垂内山木戸村

      角蔵娘よしきく 行年廿四才

 (左側面)寛政八丙辰十二月晦日 施主 永井儀兵衛

P2210071 ③飯元教瀧信女

 (右側面)北越後長岡産、字ハ瀧、幼少より半哺乃た免、当所のちまたに奉公して龍在、疾して行年二十にしてみまかりぬ、死生の風に散りぬ念悼して是を立碑するもの也 施主日野金井 和泉屋主人

 (左側面)寛政十一年巳未四月廿二日

④越後新潟平次娘きく墓

 越後三条浦館村 こよ墓

 越後大宮嶌村 女へて墓

 越後三條久兵衛女りよ墓

 (右側面)へ観了尼享和三 六月三日

      り稀月尼文化三 正月三日

 (左側面)き旭雲尼享和四 二月十九日

      こ頼覚尼享和三 五月廿九日 清水屋

⑤法月妙性信女

 (左側面)文政二卯十一月十五日

 (右側面)越後国長岡中原町 権介娘やの

P2250028  「越後生まれの娘さんが多かったと聞いております」と住職のつぶやく言葉が聞こえた。5基の墓石で名前の刻字されている飯盛女8人はすべて越後生まれになっている。

 群馬県史や太田市史編纂等に携わってきた五十嵐富夫氏は著書「飯盛女―宿場の娼婦たち」の中で、「九品寺において発見された飯盛女の墓石26基中、越後出身と記されたものが19基と非常に多く、倉賀野宿では、越後出身の飯盛女が圧倒的に多かった」と記している。発見された26基の墓石については住職も分からないと述べていた。

 九品寺境内以外に保存されている墓石については群馬県立博物館等の学芸員に確認していく必要があるのではないかと思えてくる。

 同じく五十嵐富夫氏の同書では、中山道、奥州道中、日光例幣使道の宿場に越後出身の飯盛女が多かった理由について、佐藤信淵の越後の習俗の『越後国は赤子を殺すこと甚だ少し。その代わりに女子をば、七、八歳以上に至れば夥しく他邦へ売り出す風習とす。故に北越の買婦は一箇の物産なり』ということを引用し、いずれ売ることになるため間引きが行われなかったことを記している。

P2210062  さらに五十嵐氏は「世事見聞録にも『国々の内にも越中・越後・出羽辺りより多く出るなり』とあり、上記の国々が遊女や、飯盛女を最も多く産み出す国としてあげているが、これらの国は雪国であり、みな同じ一毛作地である。一毛作地は関東以西の二毛作地に比べて、夏季に冷害・干害・洪水に見舞われると、それが直撃弾のように一家を悲劇のどん底につき落としてしまう。それでも武士の年貢収納は容赦なく頭上におそいかかる」という一毛作地帯雪国の厳しい環境であったことを記している。

 ③の『版元教瀧信女』の墓石については「瀧は幼年より反哺(はんぽ)のため、当所のちまたに奉公して龍在、疾して行年二十にしてみまかりぬ」と20歳で病にて亡くなったことが刻まれている。「文献による倉賀野史第三巻」の中では、「反哺とは口中にある食物の意で、鳥が幼い時、親鳥に養われた恩返しとして食物を親に与えること、転じて子が成長し、親の恩に報いる孝行という語である。瀧が幼少の頃、苦しい家計を助けるために倉賀野宿の飯売(飯盛)旅籠屋へ身売りされて来たこと、これが反哺という言葉で表現しているのであろう」と記されている。

 P2210074  幼児のころに奉公にあがり、わずか20歳で亡くなっていった瀧に念悼して墓碑を建てた和泉屋の主人は近江国日野の出になっている。近江商人の流れなのか?群馬県出身の俳優の東野英治郎の祖先も近江商人であった。栃木宿も近江商人の出である善野一族があることなど、関東には近江商人が多数移住してきているのではないかと思えてくる。

P2210056   徳川幕府は 人身売買を禁止していた。しかし、10年年季奉公以内ならば奉公を認めることにした。5歳~6歳の幼児や15歳から奉公する名目は年季奉公となっていたが、実質は飯盛女としてからだの縛られる身売りになっていた。

  参勤交代などで幕藩体制の維持を図った徳川幕府。そのため5街道をはじめ脇街道に宿場を作り、街道の整備をすすめた。徳川幕府は道中奉行支配の東海道や中山道の5街道や日光例幣使道など脇街道の宿場に公儀御用の旅人と荷物の継立を行なう人馬設置を厳命した。そのための宿場の役割の第一は人馬荷物運搬の継立であり、人馬を常時確保し対応していかなければならなくなっていた。継立を円滑にすすめるためには人夫など経費がかかることになる。宿場の金回りをよくする必要があり、その方策として宿場役人は宿場に飯盛旅籠を設置し、多くの旅人を引き寄せることで宿場財政を豊にしようとした。

 近世女性史研究家の宇佐美ミサ子氏は「飯盛女は飯盛旅籠を巧みに利用し徳川幕府の権力体制である宿駅制度の維持を底辺で支えていた」と指摘をしている。厳しい年貢の取り立てと宿駅制度維持のため、必要とされた年若い娘が身売りという犠牲を強いられていったのだ。

 「文化・文政」など江戸後期の年号が刻まれた墓石が多数ある九品寺から住職にお礼を述べ、山門からすぐの旧中山道に歩みを進めた。

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 中山道倉賀野宿は江戸から12番目の宿場になっている。宿場入り口には日光例幣使道に分岐する標識石塔と常夜灯が建っている。

 私の住んでいる栃木市の大通りは日光例幣使道であり、この分岐点から栃木宿につながっていることになる。「ここからわが家まで何キロ歩けばいいのだろうか?岩鼻代官所もここから近い。今度、例幣使道を歩いみるかな」とふと思い浮かんだ。

 P2210106_20200305064001  倉賀野の宿場の長さは全長11町39間(約1.2㎞)。天保14年(1843)の『中山道宿村大概帳』では宿内家数は297軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠32軒で宿内人口は2032人であった。明治16年の鉄道敷設まで利根川に合流する烏川の舟運河岸として栄えたといわれている(ウキベリアより)。

 飯盛旅籠の数は、新編高崎市史通史篇に天保十三年(1842)の「旅籠屋渡世書上帳」に「旅籠数36軒、うち飯盛旅籠屋32軒、平旅籠屋4軒」と記載され、堅苦しい城下町であった高崎宿旅籠15軒より多かった。1軒2名と定められていた飯盛女だが、超過人を含めると飯盛女の数は70人~80人いたのではないかと推測される。いずれも十九歳がピークの飯盛女は年季明ける前に亡くなっていく定めであったとされている。

 若い娘にとり過酷な環境の中で生きる支えは何であったのだろうか?そうしたことを考えながら旧中山道倉賀野宿を歩いていきたい。 

                《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

「文献による倉賀野史第三巻」(昭和62年9月倉賀野雁会発行)/五十嵐富夫著「飯盛女ー宿場の娼婦たち」(昭和56年1月、新人物往来社発行)/ブログ「隠居の思ひつ記・史跡看板散歩ー54九品寺」(2017年7月22日配信)/宇佐美ミサ子著「宿場と飯盛女」(2000年8月、興英文化社発行)

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千住宿を歩く③ー千住大橋を渡る思い

P1310003    地下鉄南千住駅からコツ通りを経て国道4号線、日光街道に出て右折する。「スサノウ神社」「誓願寺」が並ぶ日光街道沿いの歩道を進むと「千住大橋」が見えてきた。

 歩道を行き交う人たちの中にはチャイルドシートの付いた子供乗せ自転車で急いでペダルを踏んで行く女性たちの姿が目立つ。

  保育園に子供を預けて、これから出勤していくのだと見えた。

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 「…迫力ある橋だ。――歴史を秘めている重さを感じる橋」と、下り車線専用になっている千住大橋を眺めながら思った。

 昭和2年(1927)の春に架設されたタイドアーチ橋の千住大橋。全長92.5m、幅24.2mの千住大橋は関東大震災復興事業の一環として架設され、近代橋梁の名作の一つにも挙げられている。交通量の増加のため昭和48年(1973)には下流側の上り車線専用の新橋が全長502.5m、幅18.9mで架設されている。

Img_20060313t1325560821  天保5年(1834)~天保7年(1836)に発刊された江戸名所図会には、「千住大橋 荒川の流れに架す。奥州街道の咽喉(いんこう)なり。橋上の人馬は絡釋(らくえき)として間断なし。橋の北一、二町経て駅舎(とまり)あり。この橋は、その始め文禄三年甲午九月、伊奈備前守奉行として普請ありしより、今に連綿たり」と、奥州街道の喉元として記されている。

 橋長66間(120m)、幅4間(7m)の千住大橋を中心に描かれている江戸名所図会。荒川(隅田川)の左岸北側には稲荷の祠、奥の方には日光道中「河原町」と記されている。右岸の浅草南側の橋詰め近くの小塚ケ原には橋の守り神であった「熊野社」や「誓願寺」などが書き込まれている。千住大橋を中心にのびのびと壮大に描かれている図である。

P1310009  千住大橋手前左に「千住の河岸」の標識が建っている。両岸が材木などの集散地として賑わったことが記されている。その標識を左に曲がり狭い道を進むと「熊野神社」が鎮座している。

  …境内には入れない。門扉に鍵が掛けられてあったからだ。門扉の横には熊野神社の案内標識が建てられてある。「大橋を荒川(現隅田川)にかける時、奉行伊奈備前守は当社に成就を祈願し、文禄3年(1594)橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行った。以後、大橋のかけかえごとの祈願と社殿修理が慣例となった」と千住大橋と熊野神社のつながりが記されている。

 境内に入ることができないため、隣家の塀越しから本殿社を拝顔した。こじんまりした質素な本殿社であるが、趣きを漂わせ静寂さを呼び込んでいるように感じた。

P1310011  杉本苑子は「東京の中の江戸名所図会千住大橋」の中で、「前九年、後三年にわたった例の奥州征伐のさい、八幡太郎義家が兵馬を進めて千住の地に至り、荒川を渡ろうとしたとき奇瑞(きずい)があった。そこで鎧櫃(よろいびつ)に秘めてはるばる奉載してきた紀州熊野の権現の神幣(みてぐら)を、川岸に斎(いつ)き祀ったのがこのお社の始まりだという」ことを記している。

 ここでいうめでたいという奇瑞があったと記しているが、どういう現象なのかどうも分からない。

P1310007

 熊野神社近辺の路地からは高い岸壁で隅田川を見ることはできない。もと来た千住大橋に戻る。

 昭和2年(1927)鉄橋になった千住大橋を渡り、歩く。橋からは左の隅田川上流が千住水道管に阻まれて見ることができないのが残念。

 竣工された同時期に東京市電が南千住から延長され、千住大橋を渡り千住4丁目まで走ることになる。市電は日光街道を走るため旧日光街道の商店街は一時寂びれることになったという(日光街道千住宿民俗誌より)。

Img8772d9bezik9zj1  橋を渡っている川筋は、徳川家康によって千住大橋が架設される以前には「戸田の渡し」と呼ばれた渡船場であった。当時の奥州道は現在の白髭橋付近にあった「橋場の渡し」を経由していたが、千住大橋が架設されることにより奥州道は千住大橋経由になっていく。 

 架設当時の名称は「大川(隅田川」に架かる唯一の橋であったから、単に「大橋」と呼ばれていたが、67年後に隅田川の第二の橋「大橋(両国橋)」が架橋されることにより、千住の地名を冠した「千住大橋」と呼ばれるようになった(ウキベリア「千住大橋」より)。

  この地が選ばれたのは、江戸城から奥州方面に向かう最短直線コースであったこと。隅田川の川幅が一段と狭くなっており、架設が容易であったと考えられている。そこには家康にとり、新領地の関東支配の強化や仙台伊達藩との好みを深めていくことを考え、江戸に着く早々急いで奥州道の整備をしていくための架設ではなかったかと推測する。

 その後、徳川幕府開設に伴い、5街道の整備が行われ、千住宿は奥州道中、日光道中の初宿となり、幕藩体制を支える宿駅制度を担っていくことになる。

300pxsenjyu_ohashi_old1   幸田露伴は明治40年(1907)に「蝸牛庵夜譂」の中で、「千住の大橋は千住駅の南組中組の間にかかれる橋にして、東京より陸羽に至る街道に当たるをもて、人馬の往来絶ゆること無くして、たゞ川船、伝馬、小舟の類の帆を張り艫櫂を使ひて上下するのみならば、閑静の趣を愛して夏の日の暑熱を川風に忘れん人等(略)。およそ此処の橋より下は永代橋に至るまで小蒸気船の往来絶ゆる暇無く、石炭の烟、機関の響、いと勇ましくも忙しく、浮世の人を載せ去る戴せくるなり」(荒川ふるさと文化館「千住大橋展」図録より)と記している。

 何隻もの小蒸気船が行き交う下流と対比して橋の上流はのんびりとして蛇行する川船の様子を執筆している。下町の工場を支える燃料として、明治期から隅田川沿岸の石炭積荷の往来が頻繁にあったことが伺い知ることができる。

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 千住大橋を渡ると大橋公園がある。歩道際に平成27年に建立された葛飾北斎の「冨獄三十六景、従千住花街眺望ノ不二」の画と顕彰碑が展示されている。

 公園の奥の方に松尾芭蕉が六百里の旅、「おくのほそ道」の始まりの句を詠んだといわれている俳文が記されている「おくのほそ道矢立初の地の碑」の記念碑がある。松尾芭蕉は元禄2年(1689)3月に弟子の曾良を伴って深川から隅田川を遡上して千住に降り立ち、陸奥へと旅立っていく。

P2070010  俳文紀行「おくのほそ道」には「千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻(まぼろし)のちまたに離別の泪をそゝぐ」「行春や鳥啼魚の目は泪」「これを矢立(やだて)の初めとして、行道なをすゝまず。人々は途中に立ちならびて、後ろかげのみゆる迄はと、見送るなるべし」と記している。

  千住宿や品川宿など江戸初宿には見送り、出迎いの習俗があり、芭蕉一行を見送る情景が描かれている。なお矢立とは筆と墨壺を組み合わせた携帯用筆記用具のことだそうだ。また、千住大橋は足立区と荒川区の境になっている。芭蕉一行が隅田川から下船したのがどちらの河岸であったか足立区と荒川区がもめた時期があったと聞く。芭蕉は千住大橋を渡って奥州へ旅立って行ったとは思えない。

P1310026  大橋公園の左の岸辺にかかる階段を昇ると上流からの千住大橋を見ることができた。ゆったりと流れる隅田川の岸辺に降りることができるようになっている。

 「…やっと隅田川を見ることができたな」と胸がホットした。向こう岸からは高い岸壁で隅田川を眺めることができなかったからだ。

 岸辺の護岸通りは橋の真下を通り、下流の護岸岸辺に行くことができるようになっていた。

P2070012     橋の真下には平成16年(2004)に千住大橋下を東西に結ぶテラス連絡橋「千住小橋」という小さな橋が架けられてあった。

 この千住小橋付近の川面にブイが浮かんでいたが、その下に江戸時代の木杭が今なお残っているということを後で知った。確かめないできたことが悔やまれる。次回、何かの折りに橋の下のブイを見つけ、木杭を確認していきたい。しかし、川はけっこう濁っていたので、見えるか分からない。

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 千住小橋を渡ると「千住大橋際御上り場」という板の案内看板が掲示されている。将軍家、日光門主など高貴な人物が利用していた湊を千住大橋際御上り場と言っていたという解説文が記載されている。

 江戸城堀から道三掘~日本橋川~隅田川~千住大橋湊へと船にて遡上し、日光街道への社参する行程があったことが分かった。

 千住大橋の真下に千住小橋があったことは知らなったし、水辺を歩くことができたことは良かった。願わくば江戸時代の木杭も見たかった。

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 下流側から昭和通りにつながる千住大橋の新橋を見る。大きな橋だが何故か愛想のない橋に見えた。

 目線を下流に転じる。ゆっくりと流れる隅田川の右岸の先には白髭橋のある南千住3丁目になっている。美空ひばりの母親、加藤喜美枝が生まれたのも南千住3丁目である。

 幸田露伴の前述の文面の中で、「橋より下は永代橋に至るまで小蒸気船の往来絶ゆる暇無しく、石炭の烟、機関の響、いと勇ましくも忙はしく」の通り、大正、昭和の初期にかけて工場の燃料となる石炭を積んだ幅の広い達磨船が運航していた。

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 大下英治著「美空ひばりー時代を歌う」の中で、ひばりの母、加藤喜美枝が生まれた南千住三丁目界隈のことを次のように記している。

 「大正3年南千住三丁目に生まれた加藤喜美枝の家々は石炭を燃料にしていた。夕食時になると、家々の軒先に七輪を出し、石炭をたいた。まわりの人たちは、喜美枝の家のあたりを汽車長屋と呼んだ。(略)トタン屋根の平屋で6畳2間くらいの小さな家であった。父親の又吉は、牛に大八を引かせて、藁莚(わらむしろ)の袋であるカマスに入れた石炭を売り歩いていた。(略)南千住三丁目には隅田川の水路と陸路から、北は、北海道、福島の常磐、南は九州から、石炭がつぎつぎに運ばれてきた。町には、石炭の卸商や小売商の店が立ち並んでいた」と当時の貨物船である達磨船から石炭が運び込まれてくる様子が描かれている。

P1310021_20200208051501  白髭橋下流へと流れていく隅田川を眺めながら美空ひばりのステージが思い浮かんできた。最初に見た新宿コマ劇場での「美空ひばりショウ」。演出構成は母親の加藤喜美枝であった。

 一番後ろの席に座り観たそのステージ。舞台は下町特有のけばけばしさを感じたが、何よりも美空ひばりの歌声がズシンと胸に入ってきた。一番後ろの客席に座った自分の心に響いてくる美空ひばりの迫力ある歌唱力に感動した記憶がある。

 それでも、…あのけばけばしいギンギンラした舞台装置には驚いた。今思えば、加藤喜美枝が生まれ育った隅田川沿いの南千住三丁目界隈の石炭積卸しの匂いが発散されていたのではないかと思えてきた。

Tower_48664601 〽安い貸間の貼り紙を

 さがし歩いたあの頃は

 お前とお茶を飲むたびに

 マッチの箱が増えてった

 街も賑わう年の暮

 着たきり雀のジーパンはいて

 千住大橋たたずめば

 頬にポツンと小雪が落ちてきた

 何かやりそな顔をして

 なんにもできない俺だった

 (昭和50年10月、作詞:喜多条忠/作曲:叶玄太/歌:石橋正次)

 昭和50年(1975)の青春ドラマ「俺たちの旅」の第11話「男はみんなロマンチストなのです」の挿入歌を石橋正次が歌っている。荒川ふるさと文化館発行の「千住大橋展図録」にこの曲が紹介記載されており、初めて知った。地方出身の若者が抱いたであろうやりきれなさを描いたと図録に記述されてある。

 ユーチューブでこの歌を聴いてみたが、「何かやりそうな顔をしてなんにもできない俺だった」というフレーズが自分のことを言っているようで気に入った。作詞は「神田川」「赤ちょうちん」を書いた喜多条忠だ。千住大橋を渡り歩きながら、なんにもできない若者の焦りと惨めさがにじみ出てくる詞である。

P2070004     もう何年前だろう。40歳前後の頃、高校の同窓会に出席した。その時、高校の演劇部だった女子から、「あなたはこういう同窓会に出席してこない人だと思っていた。ただの人だったのね」と平凡な人物であったと見下されたような気がして、グサリと胸に突き刺さる言葉を受けた。普通の勤め人になっていた自分を言い当ててもいた。その通りですと言い返せなかった自分を恥じることはないと思って黙した。彼女はその時も地域で演劇を続けて頑張っていた。だから演劇をやめた自分に言えた言葉だったのかもしれない。

 千住大橋という大きな歴史ある橋には何かを包み込むような雰囲気がある。隅田川に架かる千住大橋を渡っていった多くの若者たちが昔も今もいる。橋の向こうに見えたものは何だったのだろうか。冷たくもあり優しくもある橋。若い頃に渡っていたら「何やってんだ、夢はどうした!」と叱られたかもしれない、この千住大橋に…。

                           《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

ブログ「江戸図会を読む」/鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会下巻」(昭和50年1月角川書店発行)/杉本苑子著「東京の中の江戸名所図会」(昭和50年12月北洋社発行)/佐々木勝・佐々木美智子著「日光街道千住宿民族誌」(昭和60年10月名著出版発行)/荒川ふるさと文化館「千住大橋展図録」(平成19年度荒川ふるさと文化館発行)/萩原恭男校注「芭蕉おくのほそ道」(2013年6月岩波書店発行)/大下英治著「美空ひばりー時代を歌う」(平成元年7月新潮社発行)

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千住宿を歩く②ーかんかん地蔵・なかよし地蔵尊・めやみ地蔵堂

  かもんじゅくミニ公園内『江戸後期絵図』

P9140058     「分かりやすい絵図だな…。でもこの関札所ってなんだろう?他の宿場町ではあまり聞いたことがない。木戸口のことなのかな」と千住宿江戸後期絵図が載っている「かもんじゅく案内掲示版」を眺めながらつぶやいた。

 旧日光街道千住宿は江戸に物資を運ぶための中継地点として青物市場、通称「やっちゃば」が軒を並べ、賑わいをみせていた。その千住宿場町の一つであったやっちゃば跡掃部宿の通り沿いに、足立区がミニ公園「掃部宿憩いのプチテラス」を平成27年(2015)にオープンしている。

 旧日光街道千住宿通りを歩いていて、ベンチが置かれた小さな公園で暫し休憩する。公園の端に絵図入りにの千住掃部宿案内版あるのを見つける。眺めたこの絵図、どの絵図よりも江戸期の千住宿を表していると思えた。江戸後期と書かれた絵図には、千住大橋から南北に道幅5間の宿通りを経て、左北端日光街道への出入り口までが描かれている。

 Dsc025671 絵図の中に千住大橋を渡るとすぐに「関札所」と記されているのを見つける。現在の京成線ガード附近になる。同じく宿の北端日光街道出入り口、今の千住新橋あたりにも「関札所」と記され、南北の宿出入り口に置かれているのが分かる。木戸口を表しているのではないかと思い、ネットで調べてみる。木戸口ではなく、「高札場と似たような施設で、本陣の利用状況を知らせるものであった」とブログでの解説説明が記載されていた。

 画像がないかなと思ったが、わずかに高札場を小さくしたものということで、具体的な画像は見当たらなかったが、掲示板として立っていた施設だったのだろうかと思えた。

Dsc025681   勝山準四郎著「千住宿と足立」の中でお関札として記載があった。それは、「参勤交代で千住宿を使用する大名は、他家との差合いをさけるため、木の看板のようなような宿札(関札)を三枚作成し、本陣と北は千住5丁目のはずれ、南は河原町はずれにこの『お関札』を掲示した。古図によると関札所は四方を竹矢来で囲われた中に一本太い柱が立っている。関札は本陣と2か所の関札所に掲げられたものである。休泊当日には本陣亭主と問屋場役人が関札下まで出迎え、先導して本陣に案内した」とある。

 大名の出迎え送りはこの関札所で行ったということは、宿場の出入り口を意味しているということなのだ。

 宿場の出入り口にあたる関札所には千住宿本陣や脇本陣を利用する大名や高官の名前が掲示され、他の大名や高官がかち合わないように、また知らないで宿内に入って、宿泊中の大名や高官に無礼が無いように知らしめる意味があったのだ。こうした関札所があったということは,参勤交代で日光街道、水戸街道を通る大名等が数多く千住宿を活用、頻繁に通ったことが伺える。

D0183387_134714591  さらに絵図には神社仏閣が多く記載されている。日光街道宿場通りを挟み、西側には源長寺、慈眼寺、不動院、勝専寺、安養院があり、東側には関屋天満氷川神社、金蔵寺、長円寺、清亮寺と記されている。

 それ以外にも「大千住マップ」ガイドには、千住河原町稲荷稲荷神社、八幡神社、千住神社、千住本氷川神社、千潮金比羅宮、千住4丁目氷川神社と数多くの神社仏閣が存在している。とりわけ何故か氷川神社が多いのが目立つ…。

 家数2,370軒、人口9,456人で成り立っていた千住宿場町。その規模から、神社仏閣数は多いように思えてくる。しかし数多く寺院仏閣のある千住宿には近郊近在から人が訪れる何かがそなわっていたのだろう。磁石のように人を引き寄せた「まち」としての魅力は何か?それは何であったのだろうか?そうしたことを見つけようと思い、宿場町通りを歩いていくことにする。

安養院の「かんかん地蔵」と「なかよし地蔵尊」

Pc120161  宿場通りの北端、日光街道出入り口の手前を左に入ると立派な山門のある安養院。千住最古の寺院と云われている。鎌倉時代執権5代北条時頼が建立、小田原北条氏政の祈願所があったという。関東制覇を目論んだ小田原北条氏の匂いが残っているのか?

 もとは千住元町にあったが、慶長3年(1598)兵火の火災にあい、現在地に移った。

 享保年間に8代将軍徳川吉宗が立ち寄り、その際に吉宗の子が長福丸(ながとみまる)であったことから寺の名を長福寺から長福寺安養院に変えたと云われている。歴代の住職と檀家の努力で江戸末期から明治初期にかけては真言密教の壇林となり、多くの仏弟子を世に送ったともいわれている。

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 中央図書館に向かう道路の右側に安養院の表札が架かった山門がある。その山門から本堂に向かう手前に3体の「かんかん地蔵」と「なかよし地蔵尊」が並んで祀られている。

 右2体のお地蔵さんが「なかよし地蔵尊」。左が寛文4年(1664)、右が寛文10年(1670)の建立ということから、歴史ある古いお地蔵さまということになる。

 嫁や姑の諍いや近隣との関係に悩み苦しんでいた人は「なかよし地蔵尊」を拝み、心の救いを求めたのだろうかと思い描く。お地蔵さまのお顔は穏やかで優しい表情をして親しみがわいてくる。

 …精神的な安らぎを求めていくお地蔵さんなんだ。

Pc240035 元禄12年(1699)に作られたという「かんかん地蔵」。

 自分の体の痛い(病んでいる)部分と地蔵の同じ部分や地蔵さまの頭を石で叩くと良くなるといわれ、このときに出る音から「かんかん地蔵」と呼ばれている。このため、叩かれた部分がへっこんでいて、顔がすり減り、のっぺらぼう状態になっている。奇妙な姿をしたお地蔵さまだが、人々の苦痛を引き受けている尊いお姿に見えてくる。

 わが家の飼い猫「ポン太」が口内炎になり医者通いをしている。早速かんかん地蔵さまの右側の口辺りに置かれてある小石で「かんかん」と叩いてみて、早く治ることを祈願する。

Pc240037_20200104142401    お地蔵さまは、お釈迦さまが「自分の亡くなった後の衆生(しゅじょう)の苦しみを助けよ」と後を委嘱された仏さまといわれている。

   お地蔵さまへのお経の中に147字の『地蔵軟偈(じぞうなんげ)があり、地獄の責苦を代わりに受けるという「代受苦」という文言がある。お地蔵さまが身代わりになって引き受けようとする。そのお姿に誓願をする(太田久紀著「お地蔵さんのお経」より)。各地にある「身代わり地蔵尊」の基になるお経ということになる。

 リュウマチや神経痛で痛む人がお参りして、小石でお地蔵さまの頭や体を叩き、治癒を痛みが和らぐことを祈願したのだろうと思い描く。

 安養院境内には庶民の苦しみや苦しさを救うものとしてお地蔵さまがいることを知ることができた。

長円寺「めやみ地蔵堂」

Pc240028   戦災で焼失した千住通り沿いの中で、伝馬屋敷の面影を今も残している横山住宅。昔トイレで使った再生紙の浅草紙の問屋でもあった。

 横山住宅の脇には長円寺に続く参道があった。参道入り口脇には「石地蔵」が置かれていた(子育て地蔵)。この参道は大正の終わり頃まで両側にからたちの生垣が続いていた。このことから参道の奥にある長円寺は『からたち寺』と言われ、親しまれていたお寺であった。

Pc120193  長円寺の山門横には足立区教育委員会案内版がある。「新義真言宗の当寺は、寛永4年(1627)出羽湯殿山の行者、雲海がここに庵を結ぶ。後に、賢俊が開山する。9代将軍家重の享保年間16世栄照の代は、殊に栄えた」と記されている。

 古来より山岳信仰の対象の湯殿山の行者が庵を結んだとある。松尾芭蕉は『おくのほそ道』における湯殿山の部分について、「総じてこの山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よって筆をとどめてしるさず」と記し、『語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな』と句を詠むにとどめている。出羽三山には行ったことはないが、どこか神秘に満ちた句である。芭蕉は深川から隅田川を伝い千住大橋で舟を降り、奥州へ旅立っていった。この日光街道千住宿を通っていった松尾芭蕉一行。…その姿を思い浮かべるのも歴史散策の面白さである。

Pc240013_20200104093601   長円寺山門左横に「子育て地蔵堂」がある。通称「めやみ地蔵堂」と呼ばれ、古くから目を病んだ人たちがお参りに来ることで知られている。もともとは参道入り口、横山家住宅の脇にあったのが現在の処に移ってきているが、それが何時頃なのかは分からない。

 花や線香をあげる人はもとより、参道先の千住宿通りにある絵馬屋で買い求めた「向い目」という柄の眼病祈願の経木千住絵馬が数多く奉納されているのが目につく。

 お堂の扉には鍵が掛けられており、中のお地蔵さまは暗くて見ることができないのが残念だ。これも「めやみ地蔵尊」と言われる由縁なのかと勝手に思ったりしてしまう。

Pc240011  お堂の前横に後生車(輪廻車)が立てられている。

 …初めて見る後生車。木の角柱の一部をくりぬき、車輪状のものをはめ込んで心棒を通したものになっている。なかば朽ちかけているように見えたが、車輪は勢いよく回った。

 後生車は亡き人を供養するものと一般的に言われている。千住の「めやみ地蔵尊」は眼病平癒に功徳があるとされる地蔵尊であることから、その願いをする際に車輪を回し祈願するということなのだと思える。お地蔵さまに直接強く祈願を伝えるということなのか。

 しかし、足立史談会編集の「足立区歴史散歩」と「千住歴史ウオークガイドブック」の「長円寺、後生車」の紹介では「お百度参りの数取り道具である。上に回すと来世で、下に回すと今世で願いが叶うという言い伝え」とだけ記している。この車輪を回しながらお百度参りの数取りができるのか?具体的なイメージが浮かばない。――分からない。「千住街の駅」で地元の古老に尋ねると「数取り道具という記述は間違っているのではないか」という指摘があった。

 どうも胸におちないため、足立区にメールで問い合わせたところ、足立区郷土博物館の学芸員の方から「後生車(輪廻車)」の回答が寄せられた、分かりやすいメールになっているので、前半を省略して記載することにする。

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 回答メールでは、「(後生車・輪廻車)は念仏を唱えることと同じ効果、功徳があるとされるもので、お参りの際に回すものということだと思います。しかしながら、人々がこれを使用していくにおいて、様々な解釈で信仰されることとなります。そして、その土地、その場で言い伝えられ、様々なバリエーションができるということになります。

 勢いよく回して、ぴたりと止まると極楽往生できる。回し終わったときに逆回転すると地獄に落ちる。また上に回すと来世で、下に回すと今生で願いが叶うなどです。

Pc120191   ただし、お百度参りの際に回すということはあっても、後生車では直接その数はわかりません。ここに、小石や串を置く。あるいは何かに結ぶなどしないと数はとれないかと思います。地蔵堂前に置かれているのは、地蔵尊へのお参りの際、念仏を唱えるということだと思います。後生車については、とくに地蔵尊に限るものではありません。ただ、念仏を唱えるという点では、地蔵尊は身近な仏であると思います。

 長円寺の地蔵は、眼病平癒に功徳があるとされる地蔵尊なので、その願いをする際に、車を回したものと思われます(足立区郷土博物館学芸員)」と後生車の基本的な考えを教えていただいた。しかし、お百度参りの数取り道具については、後生車だけではできないという見解であった。お百度参りの道具であるという規定から頭が混乱してしまう。千住史談会の再考を促したい。

Pc120188  日本民俗学会理事の井之口章次氏は「お地蔵さんと神信仰」の中で、水神との関連から、木村博氏が「後生車を廻すことが手を洗う代わりになる。川瀬垢離(かわせごり)と同じ意味合いものだ」ということを聞いたことを紹介し、「そのとき、川の水をすくってかける動作と、地蔵車を下から上に廻す動作とに、何かしら共通点があるように感じた」と記述している。

 車輪を回すことが、川の水で身を清め祈願する行為でもあるという。いろいろな解釈があるのだと思えてくる。それでもお地蔵さまに眼病治癒を願うことには変わりがない。後生車を回し、祈願をしていく。それで良いのだと思い、気持ちが落ち着いた。

Pc240039  クリスマスを迎え、餃子1人前100円、デコレーションケーキが1500円と宿場町通り商店街は活気に満ちていた。

 千住宿通りの北端には接骨医院として江戸時代から有名な「名倉医院」の旧診療所、長屋門などの建物が保存されている。一日に300人~500人の患者が受診したと云われている。この千住4丁目、5丁目には「なかよし地蔵尊」「かんかん地蔵尊」「めやみ地蔵尊」「名倉医院」と並んでいる。

 近代の「病い」は医学的に除去、征服されるものであるという考えが根底にある。しかし、江戸時代の「病い」とは、なだめ、鎮めるものだと捉えられていた。そのため薬種や医師による治療とあわせて医療信仰が盛んに行われていた。それはたんなる地蔵信仰ではなく、当時においては医療そのものであったと言うことができる。

 身体の痛み、眼病、精神疾患等を癒し、鎮めることを求め千住宿に足を運んできた人がたくさんいたのだ。そうしたことから千住宿には人を引き寄せる磁石の一つとしてお地蔵さまを含めた医療関連の施設が多く存在していたことが分かってきた。まだまだ千住宿には人を引き寄せる磁石があるように思え、さらに歩いていくことにする。

                       《夢野銀次》

≪参考引用文献等≫

佐々木勝・佐々木美智子著「千住宿民俗誌ー宿場町の近代生活」(昭和60年10月名著出版発行)/勝山準四郎著「千住宿と足立」(昭和56年6月足立史談会発行)/足立史談会編集「足立区歴史散歩」(1992年6月学芸社発行)/「千住宿歴史ウオークガイドブック」(2016年3月千住文化普及会編集発行」/太田久紀著「お地蔵さんのお経」・井之口章次著「お地蔵さんと神信仰」(昭和59年10月大法輪閣発行「地蔵さま入門」に収録)/岩波文庫「芭蕉おくのほそ道」(1979年1月岩波書店発行)/足立区郷土博物館配信メール「後生車・輪廻車について」(令和元年12月受信)

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千住宿を歩く…水戸街道、清亮寺「槍掛け松」「解剖人墓」

Pc120164  栃木駅から東京都心にでるには、東武日光線・伊勢崎線に乗車し、北千住駅で地下鉄日比谷線に乗り換えて行くことになる。

 電車が北千住駅手前の荒川鉄橋をガタンゴーン、ガタンゴーンと響かせながら渡りきると、すぐに右側車窓から高架線下にある寺院の屋根瓦が見えてくる。「何というお寺さんなのだろうか?」と通過する度に思っていた。

 東武伊勢崎線高架下にある寺院は「清亮寺(せいりょうじ)と称し、旧水戸街道に面し、元和5年(1619)身延山久遠寺末として創建された千住地区では唯一の日蓮宗の古刹であることが門前に立って分かった。

Pc150001  旧日光街道千住宿の賑わう商店街を北に歩く。名倉医院の手前に、「東へ旧水戸佐倉道・北へ旧日光道中」と書かれた分岐点標識から右に入り水戸街道沿いを歩いて行く。

 荒川でこの旧水戸街道は途切れてしまうが、幅6mの水戸街道を歩いているのだなと実感する。常磐線高架線の下を通り、荒川土手堤を後ろに見て、左側の高い塀沿いに歩くと東武伊勢崎線高架が見えてきた。高架線手前の左側に清亮寺山門があった。

 清亮寺は日光街道から分岐した水戸街道最初の寺院になることになる。

Pc120176 どっしりとした山門をくぐると正面に本堂が建っている。

 本殿の建物は「天保4年(1833)に再建の総檜造りで、随所に江戸期の建築様式を遺しているすぐれた建造である」と足立教育委員会作成の案内掲示板に書かれてある。

 正面から見る本堂はコンパクトではあるが、風格を備えた歴史を感じさせてくる。総檜造りのもつ木目の柔らかさが本堂建物全体を包んでいるように感じられ、優しい建物に映ってきた。

Pc120166  寺院の逸話「槍掛け松」として、関東大震災前に撮影された「ありし日の槍掛け松」の写真が境内参道脇に掲示されている。

 樹齢350年の松の木は昭和20年に枯れて、今はない。屈曲した松の枝は街道の向こう側の民家まで伸びていた。そのため、参勤交代で通る大名行列の槍を倒さなければ通過できないことになる。槍持ちにとり槍を倒すことは許されないことになる。松の枝を切ることになる。

Pc150007  水戸藩主、水戸光圀は張り出した枝を切るには惜しいとして、この松に槍を立て掛けて休み、出立の時に槍持ちが松の向こう側に行ってから槍を取り直せば槍を倒したことにならないという粋な計らいをした。

 以来、この松は「槍掛け松」と称され、ここを通る大名行列は、門前で松に槍をかけて休むようになったと云われている(案内掲示版説明文より)。

 なんだか昔話を聞いているような気がするが、どこかほのぼのとする感じがしてくる。文政4年(1824)頃には江戸参勤の大名は、日光街道4、奥州街道37、水戸街道23、計64の大名が千住宿を往来したと云われている。奥州街道からくる大名は混雑する日光街道を避けて、水戸街道沿いで東上した大名を数多かったと云われている。

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 本堂手前の境内右側に庵造りの休憩所が設けてある。境内にベンチが置かれてている寺院はよく見かけるが、休憩場をわざわざ設けている寺院はあまり見かけない。これも「槍掛け松」の由来なのかと思えてくる。

 早速休憩所のベンチに腰を下ろして境内を見る。墓地内に樹木が多いのに気が付く。昔日の想いを浮かべて欲しいと寺院側の優しい配慮を感じた。本堂と墓地の裏手には荒川の土手堤が見えた。荒川の対岸には死刑執行を待つ服役者のいる小菅の「東京拘置所」がある。明治維新直後には小菅県が置かれ、囚人をも収容していたが、小菅県が廃止されると小菅集治監に変わる。荒川がなかった時代は非常に近い距離にあったことから清亮寺に囚人墓地が設けられた。

 清亮寺には4基の囚人墓地が昭和46年頃まであったが、東武線の複々線工事に伴い豊島区の雑司ヶ谷霊園に移され、解剖人墓だけが境内に残った(「江戸四宿を歩く千住篇」より)。

Pc120173  「解剖人のお墓は何処にありますか?」と箒を持って本堂裏手から現れた寺院の人に尋ねた。その人は私に無言で「解剖人墓」と刻字されている墓石を差し示してくれた。

 本堂の左手にある解剖人墓。明治3年から4年(1870~1871)にかけて、この寺で医学解剖された死刑囚の遺体を葬った墓である。

 墓石は前後に2基ある。後列にある「解剖人墓」の右側面には明治5年申2月建立と刻まれ、左側面には「取刀」としての3人の医師の名前が刻まれている。

 前列の墓石は墓碑として昭和42年6月に建立されたいきさつと11人の解剖された人の名前、年齢、村名、戒名が記されている。

Pc120174  解剖人墓と記された前列の墓石には、「明治初年日本医学のあけぼのの時代、明治3年8月当山で解剖が行われました。人のふわけさせる者などだれもいないころでした。被解剖者はすべて死罪人でした。執刀は福井順道が一人、大久保適斉が九人、亜米利加人ヤンハンが一人、いずれも日本医学のパイオニアたちでした。

 それら解剖された死罪人の霊をとむらうべく墓を明治5年2月建てましたが、破損してきましたのでここに新しく石碑を建立しました。昭和42年6月当山二十七世日香」と記されている。

 下段に記された被解剖者の戒名には「皆刃信士」「受刃信士」といずれも「刃」の入った戒名になっている。「斬首刑」ということを現わしている。また、年齢では55歳の一人を除き、あとは20代から30代と壮年層になっている。

Pc120169  かつての牢獄は不衛生からくる牢死者を多く輩出していた。しかし、解剖するには内臓を含めて壮健な者を望んでいく。そのために死罪人が人体解剖に最も適していたことになる。

 以前に壬生町を観光ボランティアの案内で歩いた時、黒川のほとりで死罪になったばかりの遺体を壬生藩の蘭学者が解剖を行ったことを聴いている。医学の発展の陰で死罪人の遺体が付与されてきたことを改めて知ることができた。

 水戸徳川家は参勤交代を行なわない江戸常駐の定府大名であった。そのため国許である水戸と当主の居住する江戸との間で緊密に連絡を取り合う必要があった。水戸街道には徳川家専用の施設(小金の水戸御殿等)が多数設けられていた。

Pc150015  江戸と水戸との連絡が緊密であったが故に「戊午の密勅」をめぐり、水戸領内から藩士、百姓、郷士らが小金宿を中心にその数1万人規模が集結し、「南上」といわれた抗議行動が江戸水戸藩邸、幕閣に対して起こった。安政の大獄で井伊直弼はこの「南上」からの危機感を踏まえ、幕閣の強さを示すために水戸藩に重い処罰を与える。そのことが「桜田門外の変」を生み、時代は急激に変化をしてきた。

   水戸街道はどこか幕末争乱の街道につながっていくような気がする。吉村昭の「桜田門外ノ変」で水戸藩家老の安島帯刀が幕府から処罰されるところがこう記されている。「評定所で申渡し(切腹)をうけると、ただちに処刑のため伝馬町へ護送された。牢屋敷に入ると、安島(帯刀)の駕籠が、まず仕置き場へ入った。牢役人の合図で駕籠が素早く旋回させられた。安島が眼をまわしたしたところを小役人が駕籠の外に引きずり出しして、ただちに首をはねた。切腹の判決であったが、斬首されたのである」と斬首する際の手立てをリアルに描いている。土壇場での斬首ではなく、いきなり眼をまわさせての斬首には井伊大老の憎しみが混じっていたのではないかと思えてくる。

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 江戸四宿(東海道品川宿、日光街道千住宿、中山道板橋宿、甲州街道内藤新宿)の一つ千住宿は日光街道の初宿となり、水戸街道の分岐する宿駅であった。「日光道中宿村大概帳」には天保14年(1843)には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒が設けれ、家数は237軒、人口は9,456人であったとその賑わいが記されている。

 旧日光街道の千住商店街を歩いていくと、人、人で現在も賑わっている商店街。どこからこの賑わいが生まれてくるのかを知りたくなってきた。飯盛女のいる旅籠なのか、街道を往来する武士や近在の農民なのか?

 ――千住宿をもっと歩いていこうと思う。

                      《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

「江戸四宿を歩く」(2001年12月、街と暮らし社発行)/「千住宿歴史ウォークガイドブック」(2018年3月、NPO法人千住文化普及会発行)/吉村昭著「桜田門外ノ変」(平成2年8月、新潮社発行) 

 

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土葬の墓が残る栃木市皆川城内「傑岑寺」と「床とり」

NHK大河ドラマ「篤姫」に映された「座棺」から

005  「わたしを上様のところに連れていくのじゃ!」と叫んで御錠口を超えて走る篤姫(宮崎あおい)。13代将軍家定の棺が安置されている部屋に飛び込む。

 「…上様、なぜそのようなところにいらっしゃるのですか?」と棺に取りすがり、号泣する篤姫。

 平成20年(2008)7月に放映されたNHK大河ドラマ「篤姫、第28回ふたつの遺言」の中で座棺が映しだされていた。このシーンで見慣れた寝棺ではなく、家定が安置されている座棺に違和感を覚えた。…どうしてなのか?

Img_51_2 後日、棺には「座棺(棺桶)」と「寝棺(長方形の平棺)」があることを知った。晒をまいた座棺をテレビで初めて見たから違和感を覚えたのかもしれない。「栃木市史民俗編」の中に、「座棺には一反の晒が巻きつけて座敷に安置する」と記されている通り、画面には晒がまかれている座棺が安置されていた。

  かつては土葬がほとんどであった時代、土葬の場合の埋葬は「座棺(棺桶)」であり、大きさは2尺2寸(約66.6㎝)であったと云われている。2尺2寸から22歳で嫁に行かすなというたとえも生まれたといわれている。法律では土葬(埋葬)は禁止されてはいないが、都道府県で条例等で許可をしない所がほとんどであると聞いている。しかし、栃木市では「土葬は禁止されておりません」と栃木市よりメールでの返信があった。但し、「埋葬(土葬)を行なうときは深さ地下2m以上にしなければならないと施行細則で決められている」とし「墓園や霊園によって土葬を禁止している」という回答であった。土葬を禁止していないという意外な回答であった。土葬は法律では規制できない長年の歴史風習が伴っていることを感じた。

Keirei1  平成23年(2011)3月11日の東日本大震災で多くの犠牲者を出した自治体では、一部土葬が行なわれた。多数の身元確認が困難者、ドライアイス不足、さらには地域の主要火葬場が被災し、交通網やライフラインの断絶、燃料不足などにより火葬が追いつかないという事態が発生した。そのため急遽特例措置の適用をもうけ、宮城県内では6市町村が土葬に踏み切り、1000人以上の方が土葬(埋葬)を余儀なくされたという。遺族からは、「土葬に馴染みがない」「先祖と同じお墓に入れてあげたい」「火葬して遺骨を手元においておきたい」「変わり果てた姿をそのままにした状態で土葬するのは忍びない」等と火葬を希望する人もいた。その後、3回忌を迎えるにあたり埋葬された遺体の掘り起し、いわゆる改葬が行われ、新しい棺に納め直して、火葬場へと送り出したと「墓を掘り起した人々の記録(震災取材ブログ)」に記載されている。ブログには改葬を行なった業者の苦痛も綴れていた。

詣り墓と埋め墓のある(両墓制)が残る「傑岑寺」

001_2_2  栃木市街より皆川街道を西へ5㌔先に栃木市皆川城内町を東北道が通っている。その東側のそばに「傑岑寺(けっしんじ)」がある。当初の傑岑寺は弘治元年(1555)に第2次皆川城主皆川俊宗によって皆川城濠外に西接する谷津山に創設され、翌年の弘治2年(1556)に大平町西山田の大中寺より天嶺呑補(てんれいどんぽ)和尚を招請して開堂されている(建幢山傑岑寺発行「傑岑寺の歴史」より)。

  30年後の天正14年(1586)に傑岑寺は現在地の森山に移転をする。前年の草倉山の戦いでの討死者の慰霊と皆川城の南の出城として役割を担うためであったと云われている。傑岑寺から奥に入った太平山の北側に位置する草倉山の戦いは、沼尻合戦の翌年の天正13年(1585)7月の小田原北条と皆川俊宗の継承者、皆川広照との合戦を云う。

020_2  藤岡方面から攻撃を仕掛けてきた北条方に対して、皆川広照は太平山に陣を構えたが、北条方は太平連山に大軍で突入し、太平山神社を含めた太平山を炎上させた。軍を後退させた広照は、太平山の北の草倉山に陣を移し、100日に及ぶ激しい戦闘を行なった。草倉山は太平連山の中で、最も皆川城に近い山であり、皆川勢にとって背水の陣であったと云われている。しかし、数で勝る北条方の大軍を前に皆川家臣が相次いで討ち死にを遂げていき、広照自身も自害を覚悟するほど劣勢に追い込まれていった。

  戦の情勢を見かねた徳川家康、佐竹義宣によって皆川広照に降伏が勧められ、やむなく広照は戦闘を終息させた。以後、広照は北条方に与するようになる(ウィキベディア「皆川広照」参照)。

  この草倉山の合戦で皆川家臣の大半が討ち死にをした慰霊を弔うために広照は、傑岑寺を草倉山近くの現在の森山に移転を行なった。この辺りに降伏への我慢と弔う姿勢が、改易になった広照を後々まで家臣団が慕っていった要因があるのかもしれない。

  草倉山での死者を葬った千人塚に昭和7年に千人塚の石碑が建てられている。ゴルフ場の狭間を通って、道なき道を進んだところにあるといわれており、私はまだ行って石碑を見ていない。是非、行ってみたいと思っているのだが……。

005_2  由緒ある傑岑寺の石段を登り朱塗りの門の奥に本堂がある。本堂の裏に回ると幸島、猪野、片柳家の詣り墓を見ることができる。

  「栃木市史民族編、両墓制」の項で「傑岑寺(けっしんじ)」について次のように記されている。「山内に21世帯の墓地があるが、そのうち幸島、猪野、片柳各一戸ずつが両墓制をとっている。埋め墓は本堂の南側の陽当たりの良い所にあり、詣り墓は本堂の北側にある。これらは特に寺に貢献した家をいう。この三世帯を除いた18戸は単墓制である」。

  この栃木市史民族編を読んで、かつては土葬(埋葬)であった時代には、埋葬地を埋め墓とし、詣り墓を別に設ける両墓制があったことを初めて知った。そして「傑岑寺」の両墓制を見て、由来など住職に訊ねたが、「確かに本堂裏のお墓のことをお詣り墓と言っていますが、良く分からないのですよ」とはっきりしない応えが返ってきた。

013_2  森謙二著「墓と葬送の社会史」で、両墓制とは、埋葬地(=死体を埋葬する墓地。一般的には「埋墓(うめばか)」と呼ばれている)と石塔を建てる墓地(一般的に「詣墓(まいりばか)」と呼ばれる)が離れて設けられる墓制であると定義し、柳田国夫が問題提起をし、民族学者の大間地篤三によって「両墓制」という名称が与えらえたと記している。

  そして通則的な見解として「埋葬地は死穢の場であり、それを忌避して別に祭地(=霊魂祭祀のための清浄な場)を設けたというものである」と両墓制の意味合いが記されている。また最上孝敬著の「詣り墓」では村はずれの沢等に埋葬し、近場に詣り墓を設けている事例や同じ寺の境内で埋め墓と詣り墓とがあるなど全国の事例紹介が載っている。しかし、肉体と霊魂、石塔の意味合い、地理的な関係や風葬の流れからなど、私には良く分からない世界でもある。もっと良く学ばないと理解できない分野であると思えた。

008_2 傑岑寺境内にある埋め墓は本堂の南側の坂道を上った陽当たりの良い墓地の中にあった。半間(90㎝)四方を石柱の柵で囲われている。囲いの真中に「幸島」と刻字されている30㎝ほどの高さの石塔が建っている。中には石柱の柵のない埋め墓もあるが、全部で幸島家の埋め墓は13基ある。

  しかし、片柳家や猪野家の墓石はあるが、埋め墓は見当たらない。すでに改葬を行ない埋め墓を閉めたのではないかと思えた。この辺のことは良く調べないと何とも言えないことである。石柱の柵は動物たちの墓掘り襲撃を防ぐために設けられたのかもしれないと思えた。

015_3  それにしても柵の中の埋め墓の面積は狭い…。2尺2寸(約66.66㎝)の座棺の中で膝を抱えるように納める遺骸は母の胎内にいる時の姿に似ていると云われている。

  埋め墓の中の石塔に刻まれている「幸島」という家格。江戸期にはこの地の大皆川村は武州金沢藩米倉家の領地であった。野州大皆川村、梅沢村、上永野村、下永野村など12か村9800石を統括する陣屋がi現在の皆川中学校にあったという説もある。そして大皆川村の名主が幸島家であり、屋敷跡が今も残っている。その蔵には皆川地域の貴重な史料が埋まっているのではないかと地元の人が話をしていた。幸島家の全容を記述した本がないものか、探していきたいと思っている。

  幕末には大惣代名主として幸島彦助は「永野村村民屯集事件」において栃木町の米穀商人と永野村村民との間との仲介を行ない穏便な解決にむけて活躍をしている。栃木市史にはわずかな記述になっている。中世皆川家についての研究が進んでいるが、近世から幕末、明治にかけて大皆川村名主の幸島家と武州金沢藩米倉家との関係などこれからの研究が進むことを期待したい。

今も残る土葬の名残りとしての「床とり」

60_05_011_2  葬儀において土葬の穴を掘る役割の者4人を「床とり」と言われている。現在は土葬がないことから穴掘りはないが、棺を運ぶ者を「床とり」と称して呼び名が残っている地域がある。私の住む栃木市大平町横堀地域では今でも、棺を運ぶ者を「床とり」と呼んでいる。昭和40年代まであった土葬の名残りなのである。8年前に転居してきて、葬儀の手伝いの際にこの「床とり」は何なのか分からないでまごついたものである。

  今年(平成30年)の6月に栃木県立文書館の古文書講座を受講した。「倹約の取り決めから見る村と領主」からという題で、「文久三年八月倹約筋被仰渡ニ付村方取極蓮印帳」という古文書館収蔵の「大前村文書」の古文書学習であった。

Photo  この古文書では財政の悪化から領主より村々に「冠婚葬祭の際の振る舞いを簡素にする」というお触れが出され、村から倹約の旨の文書がだされた。その中で「不幸之節、穴掘沐浴之者外一切酒差間敷候」と記され、穴掘り(床とり)以外には酒を飲まさないと記されている。葬儀の際の「床とり」は別格な扱いとしてことが記されていた。何故「床とり」は別格なのか?

  私の住む地域での「床とり」の役割をした者は葬儀の後の直合(なおらい)や精進落としの席では上座に座る習わしになっている。文書館の講師に古文書に記されている床とりについて何故別格なのかを質問をしたが、「民俗的なものでしょう」という応えしか返ってこなかった。――自分で調べるていくことにした。

Photo_2  日向野徳久著「栃木県の葬送・墓制」(「関東の葬送・墓制」に収録)の中に「床とり」のことの記述があった。

  日向野徳久氏は著書に「土葬の場合、県南の一部では、死者を埋葬する場所を葬儀当日午前中に施主が、墓穴予定地にゴザを置いてくると、組合の当番の者がこの墓を掘ることを床とり、あるいは床堀りといい、組合のなかから4人が選ばれる」と記している。そしてその役割とは、「床とりは、葬式組の役割のなかで最もぶく(穢れ)のかかりやすい役といわれ、大役である」としている。「床とり(穴掘り)の作業が終わって帰ると風呂が用意されていて、沐浴して身体を浄め、衣服も取り替えて、冷酒・塩と鰹節の削ったもの、それに冷奴で労をねぎらわれる。(略)埋葬終了後の浄めの宴(忌中払いともいう)では、床とり役が上座に着いて施主からお礼の言葉を受ける所もある」と床とりについて記載をしている。葬儀の中心の表舞台はお坊さんになるが、土葬時代の葬儀の中心的な役割が「床とり」であったことが少し理解できるようになった気がした。

563959921612x6121_2   「石工よりも船造りよりも大工りも、頑丈なものを作る奴は墓堀り人夫だ」と言いながらオフェリアの墓を掘る墓堀り人夫が登場する「ハムレット五幕一場」。墓からシャレコウベが放り出され、最後はハムレットを含めた登場人物全員の死で終わることが暗示されている場面である。

  昭和39年に俳優座による「ハムレット」日生劇場公演を姉に連れられて観ている。仲代達也のハムレット、透きとおるような声で歌う市原悦子のオフェリア。それと最も印象深かったは東野英治郎が演じた墓堀り人夫であった。ケラケラと小気味よい口調でハムレットを言い負かすその強さに感じるものがあった。この墓堀り人夫の役は東野英治郎の代表する役になっていることを後で知った。

  高校1年の時に観たこの「ハムレット」で日生劇場と演劇が好きになって、以後の私の人生に強い影響を与えた舞台公演であった。

004  私の住む集落にある共同墓地。同姓名の多い集落で一族の共同墓地から生まれていることを聞いている。昭和50年代頃までは土葬であったが、栃木市保健所より保健衛生上の問題から火葬葬儀にしてくれとの要請があり、土葬から火葬に替えたことを地域の古老から聞いた。以後、現在では火葬骨壺を墓石の下に納めるようになっている。しかし、かつての埋葬されていた共同墓地に立ってみると、土葬時代の墓地の雰囲気が漂い、地域で営まれてきた歴史の風習が匂ってくるような気がしてくる。

  今でも葬儀の際に隣保班として、葬儀場の受付と「床とり」と言われる棺の運びを行なう役を決めている。昨今の社会一般では地域の自治会では葬儀手伝をやめて、葬儀社が全部行うシステムへの移行が進んでいる。また、近隣住民の葬儀への関与がなくなったことにより、世間体を気にしない「家族葬」が増加してきているとも云われてきている。地域共同体において近隣住民と葬儀へ関わりが見直されてる時期にきているのかもしれない。

 集落の中心地にある共同墓地。亡くなってからも慣れ親しんだ地域の人々の近くでねむっていく。――ある面では幸福な終活と言えるのかしれない。

                                 《夢野銀次》

≪参考引用本≫

「皆川の歴史と文化」(平成27年3月、皆川地区街づくり協議会発行)/「傑岑寺の歴史」(平成21年9月建幢山傑岑寺発行)/「栃木市史民俗編」(昭和54年3月発行)/「栃木市史通史編」(昭和63年12月発行)/森謙二著「墓と葬送の社会史」(2014年5月吉川弘文館発行)/最上孝行敬著「詣り墓」(昭和55年4月名著出版発行)/日向野徳久著「栃木県の葬送・墓制」(昭和54年3月明玄書房発行、関東の葬送・墓制に収録)/震災ブログ「墓を掘り起した人々の記録」/ウィキベディア「皆川広照」

 

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吉原から浄閑寺を歩く―吉屋信子著「ときの声」から

栃木市の「歌麿まつり」―花魁道中

Yjimage10_2  「江戸時代の浮世絵師、喜多川歌麿は、栃木市に何度か滞在し、市内豪商の依頼で肉筆画大作『雪月花』を描いたと言われ、栃木市内に肉筆画を残しています。歌麿ゆかりの地、栃木市では平成29年10月28日(土)は『歌麿まつり』の一環として歌麿が描いた華やかな花魁道中も行われます」と昨年の栃木市観光協会の宣伝文句を目にした。

  栃木市では喜多川歌麿ゆかりの地として、歌麿を活かしたまちづくりをすすめ、毎年「歌麿まつり」を行なっている。歌麿と栃木市に関わる業績の調査の発表。歌麿の作品や足跡と研修会、講演会等を開催し、歌麿への関心を強めるイベントが催しされている。その一環として市内を練り歩く「花魁道中」を一般公募の女性によって行われている。

Image1  私はまだ一度もこの「花魁道中」を見ていない。江戸時代の栃木宿には遊廓もないのに…、何か違和感を覚えているからだ。

  花魁道中は、客に呼ばれて遊女が揚屋(置屋から高級遊女を呼んで遊んだ店屋)入りする道中のことを言うが、見世物として「きれいだな」と感じて、まつりとして見物すればいいだけの話なのだが…。

250pxyoshiya_nobuko1 「今年(大正4年)も吉原で花魁道中が行なわれる。花魁道中は売春のでデモストレーションだと言う」と吉屋信子は昭和40年に執筆した「ときの声」の作品に出てくる。

  吉屋信子は父親の吉屋雄一が明治34年に栃木町にあった下都賀郡庁舎の郡長に赴任したことから明治・大正と小学1年から栃木高等女学校を卒業するまで栃木町に育った。昭和40年執筆の「ときの声」を読むと、栃木市が行なっている「花魁道中」を少女から娘へと栃木町で育った吉屋信子はどう思うのだろうかと気にかかってくる。「あらそう」と言って無視するだろうなと思えてくる。

51ayofv05l_sx373_bo1204203200_1  救世軍広報誌の名前からとった「ときの声」という作品は、明治から昭和33年の売春防止法施行までの公娼制度廃止の戦いを救世軍・山室軍平を中心に描いている。吉屋信子はその背景にある幕府や国の公認で営まれていた廓で働く娼妓と公娼制度についての歴史的な実態を真正面から向き合い、ノンフイクション作品として書き上げている。作家としての凄さを感じる。

  同書の中で明治2年(1869)3月に元幕臣刑法官判事の津田真道が太政官に『婦女売買不可論』を建白した内容が記載されている。

 『皇国は今尚娼妓あり。娼妓は年季を限り売られたる者にて牛馬同様なるものなり。西洋諸国にて女郎となる者は懶惰淫奔(らんだいんぽん)の女自から好んで堕るにて客を取るも取らぬも勝手自由なり。我邦にては身持ち正しき女も父母伯兄等に売られて苦海に沈む。其情と懸隔を下して人身を売買することを禁止したきことなり』と牛馬同様に父母兄らに売られているという人身売買としての公娼廃止を建白した。明治日本での公娼廃止提唱の第一号であったが、太政官からは握り潰されたと記述されている。

068   吉屋信子は、「この遊廓の反人道的な《婦女売買》で成立する《公娼》の存在に、むかしから国民一般がさほど義憤を催さず見過ごしていたのは演劇、歌舞音曲にも《遊女》を美化礼讃したものが多く歌舞伎の助六の舞台の揚巻や、駕籠釣瓶の八橋の艶姿に見惚れ、浦里の雪責めにさえ観客はその悲劇に陶酔していたせいであろう」と言い切るところに著者のなみなみならぬ思いを感じ、その通りだなと思えてくる。

  栃木市が行なっている「歌麿まつり」の中の花魁道中も美化された「吉原の花魁」だけを描くのではなく、遊女の歴史的な背景を考察した現代への人権メッセージを含んだ内容で取り組めないのか、検討して欲しいと思う。

貸座敷として公娼制度は存続した 

240pxyoshiwara_circa_18721  明治5年(1872)のマリア・ルーズ号事件の際、「日本では国家が人身売買を公認している」と指摘を受けた明治政府は、太政官布告で芸妓・娼妓の解放令を出した。

  「前借金無効の司法省達」(明治5年司法省達第22号)により、前借金で縛られた年季奉公人である遊女たちは妓楼から解放された。ただし、売春そのものを禁止しておらず、また、元遊女たちの次の就職先が用意されてあったわけではなかった。

  そのため、その翌年の明治6年に管轄を警視庁に属させ、廓の各妓楼は売春窟兼旅館の類だったのを《貸座敷》と指定して場所を貸与する形態とした。そこで働く女は自由意志で貸座敷を使用して売春を業として存続することになる。偽装である。こうした偽装により、遊廓は人身売買の身代金は《前借り》として以前と変わらぬ女奴隷の市場として公娼制度は存続をした。

240px82_yoshiwara_girls1   明治33年(1900)当時の吉原には妓楼総数66戸、娼妓2922人、妓夫1323人、他に雑役の男女の使用人1582人、台屋(料理仕出し)従業員228人、引手茶屋男女雇人366人、女髪結102人、車夫1000人、ほかに芸妓、幇間、洗濯屋、按摩を合わせて約5000人以上が一つの売春の街に生活をたてていたと吉屋信子は「ときの声」の中で記している。

   遊廓自体を廃止することはなく、遊女屋は「貸座敷」と名を変えて、貸座敷のある区域は「遊廓」として帰り先のない遊女たちを吸収し、借金による年季付きの人身売買は太平洋戦争後まで存続した。

吉原を囲むお歯ぐろ溝(どぶ)の跡地

045  「お歯ぐろどぶの跡地ね…。最近多いですよ、訊ねてくる人が」と、吉原大門から仲之町通りを先に進んだところにある吉原神社。そこの巫女さんに「お歯ぐろどぶ跡地」を教えてもらった。両脇にあるソープランドの店先からは呼び込みの声はかからなかった。

 「吉原大門のとこに交番があるの。そこを曲がると公園がすぐあるわ。そこの公園と道路が段差になって盛り上がっているのね。はっきり分かるわよ、お歯ぐろどぶ跡が」。

  樋口一葉の「たけくらべ」には、「廻れば大門の見返り柳いと長けれどお歯ぐろ溝(どぶ)に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来ははかり知れぬ全盛をうらなひて」とお歯ぐろどぶに映る吉原楼閣のにぎわいが描かれている。

040_2  吉原大門の手前にある交番を右に曲がった通りが「お歯ぐろどぶ跡」になっている。外界から隔離する目的で、遊廓の周りを柵と堀で囲んだ。遊女を柵で囲った。

  掘の幅は最初は5間(約9m)、後に2間(約3.6m)ありお歯ぐろ溝(どぶ)と言われていた。出入り口は大門が一つで治安の維持に努めた。掘は、どぶといわれたように、汚い下水路だったいう。遊廓全体が田圃に盛土をして造成されたので、今でも階段段差となっており盛り上がっており、当時の爪跡として残っている。

020_2   NHK「ブラタモリ」で平成24年(2012)1月に「吉原」が放映されている。ユーチューブで見ることができた。渡辺憲司立教大学教授の案内で吉原を囲んでいたお歯ぐろどぶの跡地がでてくる。

 交番の右脇道に入り公園裏口の階段となっている所が映される。公園と道路の段差を測った渡辺氏はタモリに、「段差の高さが163mあります。(道路の向い側を測りながら)堀の幅は9m、5間ですから飛び越えることはできませんね」と道路の向こう側まで堀の幅があったことを示した。堀は娼妓の自由の拘束と脱走防止でもあったのだ。

 この地に台東区として「お歯ぐろ溝(どぶ)跡地」という標識を建てたらいいなと思った。…触れたくないのかもしれない。吉原から浄閑寺に行く際に道路から見えるソープランドのある敷地は一段と盛り上がっているのが分かった。

投げ込み寺―浄閑寺

027  心中片割れのお墓ね。先代住職が言っていたあのお墓かな…」といって浄閑寺の職員の方が私を本堂裏のケヤキの木の下にある小さな墓石に案内をしてくれた。「多分このお墓ですよ。訪ねてくる人はいませんね。吉屋信子の『ときの声』にでてくるお話しですか?」。

  墓石の碑面には《秋月普通照信女》、その下の台石には《草島》と刻字されているのが確認できた。間違いなく吉屋信子の「ときの声」に出てくる逸話のお墓であった。

  浄閑寺住職が吉屋信子に話した逸話が「ときの声」に次のように記されている。

021_2_2 「生き残った男が生涯、毎月の命日に来て、墓の前で経をあげていました。過去帳の本名が草島小十九です。明治4年生まれだから、情死した明治26年はまだ22でしたな。吉原楼内で男が先に女を刺した刃で自分の咽喉を突いたが、これは助かり女は絶命…。男はこの墓を建ててから必ず毎月17日の命日にここに来て、墓をまるで抱くようにして経本を読む。(略)やがて、太平洋戦争下空襲の烈しくなった昭和20年春からぷっつりと姿を見せなくなった。戦後も幾たび10月17日が来ても現れなかった。(和尚さん、もしわたしが死んだら遺骨の一片をぜひこの墓の下に埋めていただきたい)、と頼まれていたから気になって…」。

 住職は電話帳から彼の棲居を突き止めた。電話口に出たのは娘で、父が独身の若い時に吉原で心中を仕損じたことを知って吃驚仰天した。早速浄閑寺に来て秋月普照信女の墓前に合唱した。男は疎開先の郷里で老衰で亡くなって、その土地の寺に葬られていた。遺骨の一片をここに埋められませんでしたと住職が残念そうに語った。

 「お墓を抱くように経本を読む」という姿に胸がうたれ、そのお墓を是非見てみたいと思った。ケヤキの下に小さくひっそりとたつ墓石。可愛いお墓である。浄閑寺を訪ねたのはこの逸話からでもある。無縁仏として葬られた数多くの娼妓達のお墓を見守る先代の住職の温かい眼差しが浮かんできた。

003  隅田川から吉原を経て流れる山谷堀は浄閑寺へと続く。深夜、小舟でむしろにつつんだ娼妓の遺骸を浄閑寺境内墓所そばまで運び、本堂裏のケヤキの木の下の穴に投げ込んだとも云われている。

  地下鉄日比谷線「三ノ輪駅」、大関横丁交差点を南東に入った所にある。下を地下鉄が走っている。山谷堀は山門前を流れ、寺に沿って右折して流れていたから舟で運ぶに都合がよかった。今では堀は暗渠になり低い道路が通っている。投げ込まれた遺骸はやがて白骨になり、住職によって掘り返され骨壺に収められた。

  吉屋信子が引用した台東区発行「新吉原史考」の箇所を読んでみる。

012_2_2  「遊女は自分の躰を資本にした商売をしていたのであり、まして主人や客から商品視されていたのであるからその生活は悲惨なものであった。廓から外へ自由に出ることはできなかった。しかも主人の厳しい監視下にあったので全く自由は束縛されていた。しかし自由を拘束され主人や客から商品視されながらも。太夫とか全盛の遊女達は絢爛豪華な生活を送っていた。ただしこれは特殊な例であり、大半は惨めな毎日を過ごしていたのである。遊女が死ぬとその遺骸は三ノ輪浄閑寺門前に放置し、浄閑寺で無縁仏として葬るのが普通であった。そのため浄閑寺には投げ込み寺の異名があったが、そこの過去帳をみると二十代で死亡した遊女が非常に多い。(中略) 二十代の若さで病死した遊女達が多かったというのはその生活が悲惨であったことを物語っている。満足できないような食事で酷使されていたからこそ、遊女達の間に若くして病歿する傾向が見られた」と新吉原史考には綴られている。投げ込み寺浄閑寺を通して吉原の遊女の姿を的確に表している文面である。

020_3 「過去帳は以前にお見せしていましたが、今はお断りしているのです」と浄閑寺の職員の声を聴きながら再び本堂裏に回る。

 本堂裏の境内に立派な石積みの塔が聳(そび)え立つ。遊女たちを祀った「新吉原総霊塔」である。遊女たちの霊を慰めるために建てられたもので、基壇には花又花酔の川柳、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と刻まれた石版が埋め込まれている。

 新吉原総霊塔基壇の中に収められた骨壺は2万5千体。むき出しの骨壺が見られる。背筋が「ゾッ」としてきた。基壇の中には骨壺が積み重なり異様な雰囲気を漂わせてきた。吉原の歴史を感じた。

吉原弁財天―吉原名残碑

063  吉原神社の先、区立台東病院の向い側に弁財天が祀られている。かつては花園池・弁天池と呼ばれた大きな池があったと云う。

  大正12年(1923)の関東大震災で廓内で火災が起こったが、大門は閉められていたため、逃げ場を失った遊女たちは弁天池に殺到し、池に逃れ折り重なるように490人が溺死した。その遺骸も浄閑寺に葬られたと云われている。

057_5  弁天池は電話局建設のために昭和34年(1959)に埋められている。弁財天内の築山には大きな観音像が、溺死した人々のため大正15年(1926)に建立されている。境内には池一面を溺死した無残な遊女たちの骸で埋め尽くされた写真等が掲示されている。壮絶極まりない光景の写真である。

  昭和33年(1958)3月31日に売春防止法が実施、成立によって遊廓公娼は廃止された。その名残を記す石碑は弁財天内に昭和35年(1960)に地域有志によって建てられてた。碑文は共立大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古によって書かれてある。

  そこには「江戸文化の淵叢(えんそう=物事の寄り集まる場所)となれり。名妓研(美)を競い、万客粋を争い、世にいふ『吉原知らざるものは人に非ず』と」、と当時の隆盛を伝えている。江戸文化は吉原の華美を探究するとこから始まるのか?いやいや吉原の深淵に隠されたものこそ、日本の人間社会がもつ残虐性が浮きぼりになってくる。

065  アメリカ国務省の「人身売買に関する年次報告書」(2012年)によると、日本は「Tier2」(人身売買撲滅のための最低基準を十分に満たしていないが、満たすべく著しく努力している国)に分類され、人身売買の目的国、供給国、通過国であるとその不十分性が指摘されている。

  ウエブ記載石原歩氏の論文、「公娼制度と救世軍の廃娼運動一考」の中で、人身売買は世界的に深刻な課題になっている。その中で日本の人身売買、公娼制度の歴史の中で「賞賛すべき業績」として救世軍による廃娼運動を高く評価している。しかし、救世軍のとりくんできた廃娼運動については広く理解されていないことの指摘を行なっている。

  遊女奉公は前借金と呼ばれる身代金を負わされ、私娼でない限り合法的な行為で、親兄弟、家のために遊女になる娘は孝行者であったとする考え方は根強く生きている。貧困から逃れるために親が子を売るという道徳観は諸外国からは「奴隷制度」と見なされている。古屋信子著の「ときの声」を読み救世軍が公娼全廃を訴え、明治・大正・昭和と活動してきたことを知ることができた。日本の人身売買としての公娼制度の歴史について見つめていく必要を感じた。

                        《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

吉屋信子著「ときの声」(昭和51年1月15日朝日新聞社発行『吉屋信子全集12』)/「台東業書新吉原史考」(昭和35年12月1日台東区発行)/石原歩著「公娼制度と救世軍の廃娼運動一考—現代に至る人身売買の存在要因を考える—」(ウエブ検索による)

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奥州街道白沢宿から鬼怒川渡し跡を歩く

100000009000274924_102031 ♪これこれ石の地蔵さん 西へ行くのはこっちかえ

 だまって居ては判らない 何やらさみしい旅の空 

  いとし殿御のこころの中は 雲におききと言うかえ

 (「花笠道中」昭和33年・歌:美空ひばり・作詞作曲米山正夫)

  この歌を聴くと昭和37年東映正月映画「ひばり・チエミの弥次喜多道中」を思い出す。地方都市の栃木市の映画館は封切り日から1カ月遅れの上映になっていた。しかし、正月映画ということで東京と同時に栃木の映画館でも公開上映になった。元旦の朝、新聞にはさまれていた映画館のこのチラシを見た時、何故か無性にうれしかったことを憶えている。この歌から連想して江戸時代の宿場町の面影が残されているという白沢宿に行ってみようと思い立ち、車を進めた。

 白沢宿誕生と町並み景観

019  平成30年の5月の連休、晴天の日に車を九郷半(くごうはん)川沿いにある白沢公園内の駐車場に車を駐車して、白沢宿から鬼怒川渡し跡までを歩いた。 

  宇都宮市街で日光街道と分かれる奥州街道。その最初の宿場が白沢宿になっている。明治18年(1885)に国道4号線のルートから外れたことにより、時代から取り残されたかのようにひっそりと佇んでいる印象を受けた。…それが味わいのある風景を生み出しているように見えた。

023_2  白沢宿の入口にそびえる榎。その下には江戸時代、通行人や旅人が使用されたとされる公衆便所跡が建っている。珍しくもあり、のどかな気分になる。裏から便所の中を見ることができるが…。

  慶長2年(1597)、宇都宮家臣だった宇加地一族郎党が下田原(宇都宮市下田原)より白沢村に移住し、白沢村の庄屋となり白沢村が誕生したとされている(町史年表)。河内町誌においては、「慶長10年(1605)頃より白沢村庄屋宇加地家と上岡本村庄屋福田家の両村共同の白沢宿としての往還馬継宿がつくられる」として、「慶長15年(1610)3月に幕府の役人や領主である奥平家の家老衆等が白沢まで出頭して立ち合い白沢宿として町割ができた。源六郎(福田)後見親河内と因幡(宇加地)の両人が御用を勤め、問屋を仰せつけられた」と宇加地家と福田家によって白沢宿がつくられたことが記されている。

025_2  白沢宿を誕生させ、後の白沢宿の本陣となる宇加地家と脇本陣となる福田家は慶長5年(1600)7月の会津上杉景勝討伐に際して戦功によるものとされている。

  河内町誌には、徳川勢の榊原・伊井・酒井らは阿久津・氏家まで進出した際に鬼怒川を渡った。その時に鬼怒川の瀬を案内し無事に渡河させたのが宇加地氏の先祖因幡父子と福田氏の先祖源六郎・右京之進父子であったことが記されている。

024_5  白沢宿の入口、公衆便所のある榎一帯は高台になっている。その高台を削り奥州街道を設置したことになる。街道左側、高台の北には白髭神社の社を見ることができる。その手前の家庭菜園地が「丸山砦」跡地になっている。上杉討伐軍の先発大将の家康二男の結城秀康が着陣したと云われている。宇加地文書には「眺望のよい裏の林(慶長期には林はない)の台上に丸太で砦を築いた」と河内町誌に記されている。

   丸山砦跡の高台に立つと遠方に鬼怒川が見えた。すぐ下の白沢宿は南北一筋の街道を挟んだ家並みになっている。手前西側は断崖、東側には九郷半川が流れている。川と断崖に挟まれた宿場町になっているのが分かる。

039  坂道になっている街道を下り、交差点を左折して白沢宿に入る。宇都宮の日光街道から分かれた奥州街道は白沢・氏家・喜連川・佐久山・大田原・鍋掛・越堀・芦野・白坂を通って白河宿まで11宿を往還している。起点の宇都宮から終点の白河までの距離は21里18町14間半(約84.5km)。宿の人口は369人とされ、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠13軒あった(「奥州街道白沢宿まち歩きマップ」より)。

042 河内町誌では、宿の長さが4町30間(約450m)、宿の規模としては大きいものではなかったが、下野文化史を引用して民家約80軒余、道の両側に軒を並べ、約20戸の遊女屋が花柳界を構成し、繁栄したことが記されている。

 江戸期には九郷半から引かれた用水堀が宿場の中央を流れていた。馬の飲料水から防火のため、また旅人の足洗いとしても活用されていた。現在は道の両脇を用水堀が流れている。

051  平成元年(1989)に発足した「奥州街道白澤宿の会」によって用水堀に水車が設置されるようになった。鬼怒川渡し跡を見た後に初めてお会いした白澤宿の会の住吉和夫さん。「現在の水車は3代目。半分は個人が寄贈しています」。水車を設置した理由として「デザイン」と応えてくれた。「この宿の道路は駐車禁止になっていません。ガードレールもありません」と用水掘と道路、歩道が一体となった町並み景観をつくっていく姿勢がにじみ出ていた。行政書士をしている住吉和夫さんの家は白髭神社鳥居横の「旅篭、住吉屋」になっている。

040_2  それぞれの家には「本陣」「伊勢谷」「澤屋」「井桁屋」などと書かれた板札が掛けられていて面白い。これも白澤宿の会の企画なのかと思えた。

 白髭神社鳥居の横にある駐在所。案内書には「番所」という板札が架けられていることになっているが、…ない。奥から現れたおまわりさんに聴くと、「古くなって壊れました。トイレですか?隣の陣屋にありますよ」と言われた。

  この町には江戸時代の公衆便所跡があるのに現代の公衆トイレがない。歩く旅行者にとり公衆便所の存在は大きい。もっともどの家でもトイレを貸して欲しいと頼むと快くOKの返事がもらえる雰囲気がこの町にはある。本陣敷地の奥に「手洗所」は確かにあった。

  本陣には鬼怒川渡し跡を見た帰りに寄るつもりで、宿場の突き当り北の井上清吉酒店を右折し、「白澤一里塚跡」を通り鬼怒川渡し跡を目指した。

 鬼怒川渡し跡…渡船としての繁栄

064_2  白沢宿から西鬼怒川を越えて「一里塚跡」まで1km。ここから鬼怒川まで1kmの奥州街道を歩くと鬼怒川の堤土手にぶつかる。左折して堤沿いの細い道を1kmくらい歩き、堤道路の分岐点を右下に下りたところに「鬼怒川渡し跡」と書かれた標識があった。

  標識の真中に「鬼怒川渡し跡」、左に「氏家宿」、右に「白澤宿」と記載されている。しかし、ここから河原には降りることはできない。鬼怒川の川の流れも見えない。…残念だ。以前には対岸の阿久津河岸跡を訪れた時、阿久津大橋の下の河原を歩き、川の流れを見ながら芭蕉も渡し船でこの鬼怒川を渡ったのかと感慨にふけったこともあった。

055_3  栃木県史の白沢宿鬼怒川については、「鬼怒川は、平常は広い河原で、川幅30間(約54m)であるが、出水時は8町(約872m)にも及ぶ大河で、渡船があった。雪どけの増水期からの夏期3月から10月まで渡船、11月から2月の冬の渇水期は板橋を架けた」と記されている。

  白沢宿の断崖から鬼怒川まで、確かに広々とした水田になっているが、かつては河原であったのではないかと思えてきた。明治期に東北本線古田駅から岡本駅への線路変更になった理由として、鬼怒川の増水で鉄橋の橋桁が維持できないからであったということも頷ける景色である。

  大島延次郎氏は著書「下野文化史」の中で、鬼怒川を挟んで両岸の阿久津河岸と白沢宿は鬼怒川によって繁栄したと指摘している。対岸の阿久津河岸は若目田家による鬼怒川舟運回漕業によって繁栄したことは理解できる。しかし、白沢宿の繁栄は「白沢宿は鬼怒川の歩渡しに近い」としているが、よく分からない。

054  阿久津河岸関連での氏家町史では、下野文化史を引用し、「鬼怒川渡船3割増しの賃銭(文政10年)では1人銭10文、駄馬15文、軽尻は10文だった。また天保12年(1841)より架橋の責任が上阿久津村に負わされ、毎年渡子には10石を給したこともある。ことに寛永以降参勤交代のための諸大名の往来があり、下野北部、奥州の37大名はほとんどこの渡しを通過している」と、大名行列での渡船を特徴と記されている。

  大名の渡船については格式に応じたものがあり、白沢村にも応分の報酬があったものと伺える。慶長5年の上杉討伐に際しての鬼怒川渡河の功績が底辺に流れていることを感じる。鬼怒川周辺に生きる村にとり渡船という稼業について、もっと学んでいきたい。

 白沢宿彫刻屋台-磯辺一族・磯辺敬信

045  鬼怒川渡し跡から白沢宿に戻る。本陣を訪ねたいからだ。勇気をだして本陣に声をかけることにした。

  白沢宿北の入口の橋の下を流れる九郷半(くごうはん)川。流れが急である。西鬼怒川から分流し南下する川の流れによって灌漑の及ぶ郷が9か村半ということから九郷半川と呼ばれている。

074   橋の上から川下に鎮座する北野神社が見える。境内には天保4年(1833)製作の「白沢甲部彫刻屋台」の収納庫がある。同じ下流の須賀神社前にも文化13年(1816)製作の「白沢南彫刻屋台」収納庫が設置されている。

  宇都宮教育委員会の案内標識板には両屋台とも明治5年頃に鹿沼の町内から購入し、修繕を行なっていることが記されている。2台の彫刻屋台の修繕を行なった彫師として、富田宿(現在の栃木市大平町富田)、磯辺分家三代目の磯辺敬信と記されているのに驚いた。

  磯辺敬信は幕末安政の頃から明治30年(1897)まで神社や彫刻屋台の彫師として活躍した。「氏家上阿久津屋台」、「鹿沼銀座二丁目屋台」、「小山市本沢河岸熊野神社」など彫物として現存している。

072   「栃木の水路」の中で阿久津河岸関連の彫刻屋台に関連して、手塚良徳氏は磯辺敬信について次のように記している。「磯辺敬信、本名平五郎は文政11年(1828)に二代目隆信の子として下都賀郡富山村富田に生まれた。明治30年7月に死亡するが、68年の生涯の中で、数台の屋台とかなりの作品(彫刻)を残している。彼は中肉・中背・気風のよい棟梁で、いつも4~5人の弟子を引き連れ仕事をしていたと上阿久津の人々に伝えられている」。と「いつも4~5人の弟子を引き連れて」という箇所に注目する。

  私には神社や屋台の彫師は一人ではなく、集団作業で製作をしていくというのが頭にある。栃木町在住であった後藤流の彫師渡辺正信は磯辺敬信と共同で熊野神社彫刻がある。二人の関係性に注目をしていたが、まさか、白沢宿に磯辺敬信の彫刻屋台があるとは、驚いた。

 本陣宇加地家の座敷-雛飾りと世直し一揆の痕跡

049   宿場町を構成する要素として、①人馬の継立を行なう問屋場があること。②武士や公家など貴人が宿泊・休憩する本陣があること。③宿場の両端の街道がクランク状に曲げた枡形になっていること等あげられている。

  門を入った所の敷地は広くなっている。白沢宿本陣と問屋場は宇加地家にあったことが分かる。

035   「…ごめん下さい」と宇加地家本陣屋敷の玄関前で声かけた。返事がないので、建物にそって裏に回ってみた。南側には蔵が続いている。黒い車に乗って駐車している女性がいた。「ハイ」という返事があった。「少し、お伺いしたのですが、会津藩士の墓が薬師堂の崖の上にあると聞いたのですが、どこにあるのか教えて欲しいのです」。「そうね、隣の住吉さんなら詳しいから分かると思うわ。…それと、いい、今うちでお雛様を飾っているの。見て行きませんか。まもなく閉まってしまうから」と思いがけない返事が返ってきた。宇加地家の奥様だった。そして本陣の中に入れることが分かった。

076  本陣玄関の引き戸が開かれ、中に入れていただく。重厚な玄関から座敷に案内された。座敷にはお雛様が飾られていた。「凄い!艶やかな、本物だ」とひな人形に詳しくないこの私でもその重量感に圧倒された。

  「5年に一度、お雛様を飾るのです。あとは5年後なのね」と言って、資料を渡してくれた。「奥州白沢宿 本陣宇加地家 雛人形」と書かれた文化財保護審議会資料には次のように記されている。全文を載せます。

  「宇加地家に伝わる雛人形の制作年代については『琴の箱書』に明記してあり『寛政元年己酉三月三日』(1789年つちのとり)これ以前に制作されたものと推定できます。

『御雛様』・『御内裏様』・『五人囃』・『右大臣』・『左大臣』を基本として構成されています。江戸中期の雛人形の風俗が良く理解できる大変貴重な文化遺産で歴史的資料はもちろんのこと民族学上も貴重です。付随品としては、公家の生活調度は勿論のこと、格式の高い大名駕籠の他に基盤・将棋盤・双六盤等の娯楽用品、琴・三味線等の楽器は緻密で精巧に作られ、保存状態も極めて良好です。

人形衣装は木目細やかな西陣織りで、以前は一枚ずつ下着から着せていたそうですが、現在では維持管理の都合で着せたままになっています。屏風は桃山時代様式の画風で、四季を表現しています。全体的に色彩も鮮やかに残り保存には大変気を使います」

  お雛様愛好者にとり宝ものかもしれない。必見の価値のある雛飾りだ。艶やかな雛飾りに圧倒されてもっとよく観ればよかったと後から悔やむ心が湧いた。

079  飾られてあるお雛様の座敷の隅に刃物傷跡のある柱がある。「下野世直し一揆」の跡だ。慶応4年(1868)の4月3日に宇都宮八幡山に集結した下野一揆勢3万人と宇都宮藩兵とが衝突した。宇都宮藩兵が一揆勢に発砲したため、一揆勢は二手に分散する。

  このうち北方に逃れた一手は岩倉村をへて下田原村・白沢宿で打ちこわしを行なった。白沢宿を襲った一揆勢は藩兵の追撃にあい四散したが、新たに参加者を得て騒動は氏家・桜野村に拡大した(長谷川伸三著「慶応期野州中央部の農民闘争」より)。

  下野世直し一揆勢はこの白沢宿本陣の宇加地家にも打ちこわしをおこなっていった。その痕跡として残されている柱。世直し一揆の歴史的な史料を見ることができた。

080 「この家(陣屋建物)は明治になって建てられ、以前の建物ではありません。江戸時代と間取りが違っていますのよ。先代が壊された柱等を綺麗にして建築資材として使用して建て替えたのです。傷痕のあるこの柱がそうなんですよ。こちらの部屋が明治の時に郵便局をした所です」と言って、座敷の前の洋室を示してくれた。

  明治の初めにできた郵便局は地域の名主か名家が執り行った。さすが名主と陣屋を営んできた宇加地家だと思えた。それにしてもこのご婦人、奥さんというより奥様と呼ぶにふさわしい気品がある。陣屋という時代の波を受け継いできた雰囲気をかもし出してくれるご婦人に思えた。

  「彫刻屋台の巡行は5年に1回なの。今年がその年なのよ。11月の第1土曜と日曜日ね。屋台を見ることができますよ。是非いらしてください」と彫刻屋台の巡行の日を教えてくれた。素晴らしいお雛様飾りと幕末の世直し一揆の痕跡が残る座敷を見ることができた。声をかけて良かった。そして何よりも気品あるご婦人に出会えたことが嬉しかった。宇加地家の奥様に感謝申し上げて、隣の住吉屋に向かった。

 戊辰戦争会津藩士の供養塔

033_2  「会津藩士のお墓ね。これから案内します」と私を車に乗せて案内をしてくれた住吉和夫さん。住吉家の玄関には来客用の敷居があり、奥さんはお茶を淹れてくれた。初めていきなり訪問者への心遣いがうれしく、宇加地家の奥様同様に、この白沢町の人からは温かみを感じた。

 水車や駐車禁止でない道路ことを話した住吉さんは、「一里塚の興味から歴史に入って行ったのですよ。今、白沢宿の歴史をまとめているのです」と言って、途中で寄ったご自身の行政書士事務所でその資料を渡してくれた。「まだ途中なんですけどね」と笑顔で話してくれた。

083   白沢宿北の突き当りにある地酒蔵元の井上清吉店の左斜めの急坂道を上り、台上を登りきった道を斜めに左折した道の50m先の左側に2基の供養塔が建てられてあった。

  ――会津藩士の供養塔だ。

  河内町誌に、「白沢の宇加地氏は御用川で殺された会津藩士のために明星院の上に供養の石碑を建てた」と記されている。左が大正時代、右の供養塔が殺された直後に建てらてものと思える。残念ながら会津藩士の氏名は判らない。

  案内の標識が立っていれば何の供養塔かはすぐ分かるのにと思った。

086  慶応4年(1868)4月19日に宇都宮城を攻略した旧幕府軍は4月23日に新政府軍に宇都宮城を奪還される。敗残兵の会津藩士は落ち武者狩りとして村人に殺されていったと伝わっている。

  宇都宮城を攻略した際に旧幕府軍の大鳥圭介は治安維持のため乱暴や金銭を無心した兵士は討ち取って良いとのお触れを出していた。4月23日の宇都宮城落城で旧幕府軍の敗走から多くの脱走兵が生じた。討ち取って良いというお触れから、道馬宿村や今泉村など各村々では村人たちの警戒心から容赦のない対応をしたことが大嶽浩良著の「下野の戊辰戦争」に記されている。

  会津にむけて敗走する会津藩士も警戒する村人たちによって討ち取らていったと思われる。4月3日の世直し一揆による白沢陣屋宇加地家への打ちこわしの影響もあり、強固な警戒心が生んだ事件であった。私の住む栃木市においても慶応4年の4月6日に警戒する村人によって殺害された2人の会津藩士の墓が一乗院(栃木市大町、日蓮宗)に供養されている。一揆を扇動する浪士と間違えられての殺戮であった。

 水車小屋と町づくり

012_2_2  九郷半川の清流沿いに造られた「白沢公園」。宇都宮市が製作した水車小屋を備えた水車がギー、ギーと唸りなら回転している。本格的な大きな水車を眺めながら、川の清流とあいまってのどかな田園風景を楽しんだ。

  白沢宿は江戸時代の初めに生まれ、明治18年(1885)の国道ルートから外れることにより宿の役割が終わった。しかし、白沢宿を歩くことによって、明治維新から150年の時を経て今、蘇る何かがあるのではないかと感じた。

 「白澤宿の会」等、地域の人たちによる蘇生の動きもある。本陣に眠る歴史的史料や彫刻屋台など常設展示館や歴史資料館等がなどあれば、より多くの人が立ち寄り、白沢宿を見つめるようになっていくように思える。価値ある歴史資料がまだまだ地域の人の家の中で眠り埋もれているのではないだろうか。水車、堀の整備など外観の町づくりから内部を公開していく町づくりを目指していって欲しいと願い、帰路についた。

                          《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

「栃木県史通史編4近世」(昭和56年3月発行)/「河内町誌」(昭和57年3月発行)/「ちょっと歩ける日光街道奥州道」(2008年3月、山と渓谷社発行)/大島延次郎著「下野文化史」(昭和31年5月発行)/「氏家町史上巻」(昭和58年3月発行)/手塚良徳著「みちのく江戸を結ぶ鬼怒川舟運」(昭和54年12月栃木県文化協会発行『栃木の水路』収録)/長谷川伸三著「慶応期野州中央部の農民闘争」(昭和49年2月雄山閣発行『幕末の農民一揆』収録)/大嶽浩良著「下野の戊辰戦争」2006年2月下野新聞社発行)/田辺昇吉著「北関東戊辰戦争」(昭和57年5月松井ビ・テ・オ印刷発行)/住吉和夫編「奥州街道白澤宿の歴史(誌)」/白沢地区景観づくり推進協議会作成「奥州街道白沢まち歩きマップ」(平成26年3月発行)

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