歴史散策

橋への思いと村芝居興行―安政6年野尻騒動

012_2  「石の多い川だな、それも大きい石ばかりだ。流れも速い」と、日野橋から眺めた大芦川の第一印象。

  新鹿沼駅から歩いて西へ3キロ、大芦川の日野橋に来る。橋の向こう側は鹿沼市野尻、加園地区になる。

 平野哲也氏は栃木県文書館研究紀要11号の中で、「大芦川は、上草久を水源とし、野尻村と酒野谷の間で荒井川と落ち合い、一里ほど下流の笹目村付近で小倉川(思川)に流れ出ていた。18世紀末期の大芦川は最上流の上草久村でも20間の川幅があり、引田村付近までくると30間ほどに広がった。川の状態は、現在と同じく、砂礫の多い『石川』であった」と記述している。その通りに大芦川は石の多い川に見えた。

008  江戸時代、大芦川と荒井川の合流地点近くにある野尻村は石高232石、人口142人、家数29軒の村落であった(天保年間、鹿沼市史による)。村を往還する石裂(おざく)街道と出流(いずる)街道の交差する交通の要衝でもあった。 

  しかし、野尻・加園村と対岸の下日向・酒野谷とを結ぶ大芦川には橋がなく、石裂権現(加蘇山神社)への参詣者や旅人、さらには例幣使・日光街道への助郷割当による人馬夫役で向かう際の渡河に難儀をしていた。板橋を架けても大雨による出水によってその都度流失をしてしまっていた。定橋架橋は村民の強い思いであり、願いでもあった。

030 安政5年(1858)に野尻村名主、石川多市は近在の村々から資金を募り、総費用800両で欄干を備えた大規模な定橋「野尻橋」を村人の夫役によって完成することができた。「野尻橋」は現在の日野橋下流300㍍付近に架けられたと云われている。

 しかし、翌年の安政6年(1859)7月の大雨洪水で「野尻橋」は流され崩壊してしまう。――多市を含めた村人は落胆、大きく失墜する。以後は簡単に取り外しのできる板橋が明治期まで架けられてあったと云われている。

  思川水系の上流から移出される材木は江戸市場で優良材として高い評価を得て、筏組みが大芦川流域の野尻村、酒野谷村と隣接する荒井川流域加園村で行なわれていた。竜ケ谷山(加園城)から石灰も産出されていた加園村と野尻村は東北自動車道栃木インターのある栃木市吹上町にあった吹上藩有馬兵庫頭1万石の領地であった。

015  「鹿沼市にある野尻村は吹上藩領だったのです。幕末の安政6年に、この野尻村で御禁制の芝居興行が行われ、100名以上の農民が関東取締出役に捕えられ、処罰されるという村騒動があったのですね。下野の村々を震撼させた安政野尻騒動と言われているのですよ」と、昨年の11月の栃木市文化講座「吹上」の中で野尻騒動のことを始めて聴いた。

  …野尻村の村騒動、どんな村騒動だったのだろうか?野尻村に行ってみようと思い立ち、昨年の12月21日の晴れた日に鹿沼市野尻を訪れた。

050_2  東武日光線新鹿沼駅西口から徒歩で真っ直ぐ西に向かって進んで40分。大芦川に架かる日野橋を渡り、少し進むと神木が伐採されている野尻稲荷神社がある。

  建久元年(1190)石川氏によって伊勢熊野の稲荷大明神から勧請され建立された野尻稲荷神社(栃木県神社誌より)。二対のきつね狛犬が奉納されている境内。

016  境内左側に野尻騒動の発端となった橋供養由来記が刻まれている石碑が安置されている。直径1.3㍍のまる型の石碑の冒頭には横文字で「日天月天」と刻字されている。

 戦後、野尻村に移住し、野尻騒動を入念に調べて昭和30年に「鹿沼郷安政野尻騒動記」を執筆、発行した腰山巌さん。その書には、「元々は日天月天石碑は『水神宮石碑』と一緒に大芦川沿いに建立されていた」ともう一つ「水天宮」の石碑があったことが記されている。そして「水天宮石碑は今宮神社神祇官の鈴木水雲が書き、日天月天石碑の由来記は興源寺眼龍の書であるとされている。(略)この供養塔は明治になって大洪水があり、石川憲一郎氏前の大芦川の淵にあったものが、ぽっくりと水に呑まれ、川底に横轉した。昭和9年に野尻在郷軍人会会員及び野尻青年至誠会員によって『日天月天石碑』のみ引き揚げられ、稲荷神社に奉納された」と安置された経緯が記されている。

001_2  同書には、「台座には寄附してくれた村々の名前が台石の鉢廻に記入されてあったが、後年村内諸所の清水や谷川の土橋に利用されて散失してしまった」として、2基の石碑と40か村の村名と村人の氏名が記載されている図が添付されてある。

  そして何よりもありがたったことは、由来記石碑の文面が記載されてあったことだ。記載文面は次の通りになっている。

當兩川從古来無橋而 大水之砌往来之諸人 難渡不少難澁依是輙 為渡度事敷年難思小 子等不及微力近郷進 曾頼處速為集加助力 末世迄之定橋令成就 畢就者至後年迄加修 理難無及大破事若變 心邪欲之輩出而於相 破者必蒙神罰事各々 慎而起請建之置者也

011_2 昔より大水に際には大芦川を渡ることができず、難渋してきたことが綴られ、定橋を架橋し、後の世まで維持していくことを誓う文面だと受けとめる。

  執筆した腰山巌著の「鹿沼郷安政野尻騒動記」は騒動の発端から村芝居興行、その手入れ、捕縛から江戸での裁きまでを物語調に記述されている。入念な調べで野尻村名主石川多市とその子息たちを中心に村人の思いを基調に書かれてある貴重な書籍だと思える。栃木図書館では貸出禁止本になっているため、図書館内で拝読した。以下、同書を「野尻騒動記」と記していきます。

031  日野橋を渡り、大芦川の右岸にある食堂民宿「栄川」の河原から大芦川の川の流れをみる。一昨年の9月の大雨の時、川の水嵩はどれほど川岸に迫ったのだろうかと思いが浮かんだ。

  安政6年(1859)の7月に流失してしまった「野尻橋」。翌8月に野尻村名主、多市は隣村の上酒野谷村名主、平右衛門と図り、壊れた水天宮塔の再建と由来記石碑を造り、地鎮祭を執り行うことにする。

 その地鎮祭とあわせて供養としての村芝居興行を8月21、22日に行うことを決めた。定橋「野尻橋」の流失によって意気消沈した村人の心に奮起を促すものとしての芝居興行の計画であった。村芝居は村人の心の糧になり、村を活き活きさせるものとして捉えた。今で言う、「文化が地域をつくる」という地域活性化しての芝居興行の計画であった。

Photo   しかし、江戸・京都・大坂の三大都市以外での歌舞伎興行は禁止され、村芝居、操り人形等の村においての興行はご法度、禁止になっていた。歌舞伎は奢侈、風俗の乱れ、身分制を破壊するものとして禁止されていた。

  幕府は文政10年(1827)にすでに設置していた関東取締出役の治安維持と警察活動の強化を図るため、関東の村々に寄場組合を結成させている。大惣代、小惣代と村々を組合せ、関東取締出役の指揮命令の一元化と取締りを強化させるためであった。そのうえで45条にのぼる触書を農村に通達を行なった。

Photo  その触書の主なものには、①幕府法度・五人組前書の厳守、②無宿者・長脇差・博奕・強訴・徒党の禁止、③農村内の歌舞伎・手踊り・操芝居・相撲などの禁止、④神事・祭礼・風祭・婚礼・仏事などの簡素化、⑤農村内における商業・職人手間代などの統制、⑥村費の減額奨励、改革組合村(寄場組合)の設定と囚人送りの費用負担(北島正元著「日本の歴史18」より)。という無宿者の強訴などから村を守るかのような触書であるが、実際は幕府による治安維持の強化と村々への支配統制になっている。それは農業生産品以外の生産物が商品として流通するようになってきたことによる強い村への警戒心であり、経済的な自立が増してきたことによる幕府の治政危機の表れでもあったと思える触書である。

004   現存する名主多市の家、石川さん宅は野尻稲荷神社の南前に位置し、大芦川へ続く旧道の右脇に建っている。多市は村人に潤いと楽しみ与え、元気を取り戻して前へ進めるには芝居興行を行うことだと考え、その準備を始める。

  近在の5か村(野尻・酒野谷・下日向・下加園・南摩)を中心にして、芝居小屋の木組み調達、役者の稽古と衣装の手配、舞台の引幕、大道具、小道具の借入等を進めていく。多市ら村役人たちは寄場組合村の大惣代、小惣代、名主等の村役人や関東取締出役道案内人に金銭や酒など音物(袖の下)を渡し、黙認のお願いをしていった。

  村芝居興行を知った壬生宿問屋幸吉は小山宿の関東取締役道案内人、鳥の屋政市へたれこむ。どうもこの辺は木材の河川通運をめぐって大芦川・荒井川流域の野尻・加園村と下流の小倉川(思川)壬生、小山流域の村との間で、常日頃から筏流しの通行をめぐって争いがあったという平野哲也著「栃木文書館研究紀要11」の指摘から考えると、村同士の火だねの争いが背景にあったのではないかと思われる。

010   間口42間(約76m)、奥行7間(約12m)という2つの大舞台を備えた芝居小屋が大芦川近くの河原「梅の木原」に建てられ、8月21日、22日に芝居興行がおこなわれたと「安政野尻騒動記」に書かれてある。「梅の木原」はどこにあったのか?地元の人に訊いてみたが、分からなかった。

  芝居興行への手入れについては、吹上藩役所内においても協議があった。黙認しようとする吹上藩役人に対して触書通り、取締りを主張する鳥の屋政市とに相違があったことが「野尻騒動記」に記されている。

  8月22日の夜半、鳥の屋政市は合戦場宿の道案内庄兵衛や番人13人の捕り方で芝居小屋に乗り込み、舞台で演じていた役者たちに縄をかける。関東取締出役の下知であると言えば、百姓たちはひれ伏すと思っての手入れであった。しかし、芝居公演の最中に村の役者たちが捕縛される姿を見て、多市は怒り、護るための応戦を呼びかける。13人対100人。十手に対して薪と棒。猪鹿銃を捕り方に向ける村人たち。負傷した捕り方達は飛散する。

006    翌日の8月23日に3人の息子と共に多市は吹上藩役人に連行される。その際に村人は銃を持って名主奪還をはかるため屯集し、銃を構える。しかし、覚悟を決めていた多市は村人たちの怒りを抑え、縄についた。後日、関東取締出役に引き渡される(野尻騒動記より)。

   8月24日に関東取締出役、廣瀬鐘平は鹿沼宿から寄場組合に300人の捕り方大動員をかける。宇都宮戸田家藩士50名を加えた捕り方は113人を捕縛し、連行する。村の人別帳を使っての捕縛になった。関東取締出役としては村民が銃を持ち出したこと。看過できないことして、危機感の現れでもある大量捕縛へとつながっていったと思われる。

  関宿、古河、間々田、小山、栃木、鹿沼宿と分散され、厳しい吟味が続けられた。鹿沼市史では捕縛された村と人数が次のように記載されている。「野尻村32人、下加園村32人、上酒野谷村20人、下酒野谷村7人、下日向村12人、上南摩村7人、下南摩村1人、その他の村2人」と計113人になっている。とりわけ村の人口が142人の野尻村から32人が捕縛されたことは成人男性ほとんどが捕縛されたことを意味する。

Img_7853_s1_21  野尻騒動の伝聞は衝撃となって各地域の村々に伝えられた。25キロ離れた例幣使街道沿いの栃木市嘉右衛門新田村名主、岡田嘉右衛門親之は騒動の2日後の8月24日の日記にこう記している。「22日夜鹿沼宿最寄野尻、加園村ニ地芝居有之、関東御取締廣瀬鐘平様御下知ニ而小山宿鳥の屋政市・合戦場宿虎屋庄兵衛頭立廿人程手入れいたし候、近村若もの迄申合居、悉く打躑被至、廣瀬様鹿沼宿へ出役被成り候由、右一件(吹上藩主)有馬兵庫頭様領分ニ而、十躰脇差等取上ケ候持参」と騒動の概要を的確に記している。それよりも岡田嘉右衛門の素早い情報の収集に驚かされる日記である。

 まさか100人以上が捕縛されるという騒動に驚いた村々の役人たち。寄場組合の大惣代・小惣代をはじめ、名主、寺院から大量の嘆願書が関東取締にだされた。10月に入り、江戸に送られた捕縛者90人に対しても嘆願書が勘定奉行にだされ、籠訴もあった。

Rouyashiki251  小伝馬牢屋敷に入牢された29人とそれ以外の者は御用宿預かりとなり、処罰を待つ。しかし、野尻村名主多市、息子の原三郎と音八、上酒野谷名主平右衛門ら9人は病死(牢死)、御用宿預者も8人、計17人が病死をする(野尻騒動記より)。厳しい吟味と過酷な環境が牢死を招いたといえる。

  石井良助著「江戸の刑罰」の中での小伝馬牢について、「当時、牢内の病気といえば、ほとんど牢疫病であった。数年人々をこめておくので、自然と人と臭気がこもり、この臭を鼻に入れるから、みな牢疫病になるのだと言われていることは、牢内の不衛生状態をよく示すものである」と記している。

  さらに牢死者数について、「当時収容者600人から700人のうち、文政年間(1818)の牢死者が月に10人から20人であった。幕末になると、安政5年(1858)には牢死者が年に1320人、万延元年(1860)年に1931人、文久2年(1862)年に1990人、慶応2年(1866)年に1353人と2000人近くの牢死者と増加する」と記してある。月に直すと平均150人前後の牢死者がでたことになる。その原因として食糧事情の悪さと衛生状態であると石井氏は指摘をしている。しかし、私にはそれ以外に、幕府の治政の崩壊の兆しが含まれているように思えてくる。

035_2  日野橋を渡り、野尻稲荷神社の100m手前の左側の道(旧道)に入り、突き当りを左折し直進すると大芦川沿いにある食堂民宿「栄川」にぶつかる。その手前の浄水場の横に「野尻騒動供養塔」が建立されている。昭和59年9月に「明るい社会づくり野尻地区」によって建てられたものである。「南無妙法蓮華経野尻騒動受難者諸精霊之供養塔」と刻まれた石塔。その由来は記されていない。

  鹿沼市史では安政7年3月「裁許請書」をもとに処罰一覧を次のように記している。「死罪1人(病死)、遠島4人(3人病死)、重・中追放30人(7人病死)、江戸十里四方追放2人、江戸払1人、所払1人、押込1人、手鎖15人、急度御叱9人、御叱1人、過料銭5貫文55人(1人病死)、過料銭3貫文3人(1人病死)、お構いなし19人」お構いなし19人を除いた人数は123人、内病死者数は13人と野尻騒動記と人数の違いはあるが、120人以上が処罰された大騒動であった。さらには関係した村には囚人の収容食事、護送、道案内人への草鞋代など触書通りに厳しい支払の督促があるなど村々を苦しめる措置がとられた。

028 小伝馬町牢屋に入牢したのが10月。翌年の3月に厳しい裁断が下った。同年安政6年の10月に吉田松陰が小伝馬町牢屋敷で斬首され、翌年の3月には「桜田門の変」で伊井直弼が水戸浪士によって斬殺される。野尻騒動は安政の大獄と時期を同じくして、連動した動きになっている。下野の村における幕末動乱の発火点になっているのではないだろうか?

  幕府は捕り方、役人に対して百姓たちが銃を構えて向かおうとしたことに強い危機感を持った。それが120人におよぶ捕縛と処罰になって異常な反応を示した。

  意気消沈した村を活性化するための芝居興行。それを壊す者に対して村人は銃を構え戦った。村を守るために銃を持った百姓。幕府が創設した歩兵(農兵)とは違う強い信念をもった百姓たちの像が浮かんでくる。その姿に脱帽する。

065   帰路は野尻から大芦川の向い側にある「鹿沼市高齢者福祉センター」の大風呂に入浴する。温泉と表示されている広い浴槽。「筋肉痛」と記載されている効能の中に「軽い喘息と肺気腫」という文字を見つける。この病に効く温泉を探していた私には朗報である。

 入浴後に大芦川の土手堤を歩く。「野尻橋」が架けられたのはこの辺と思われるが、跡は何も残っていない。「…この付近に橋を架けたのかな」と思い浮かべ、長い深呼吸をした。

  鹿沼市史には、「芝居興行に手入れを行なった小山宿の道案内人の鳥の屋政市は、5年後の慶応元年(1865)5月に長脇差をもった5人の者に自宅に押し入れられ殺害される。殺害状況から、関東取締出役の手先となっての活動が恨みになったもの」とさりげなく記している。執筆者の気持ちが表れている結末文だと思えた。

                                         《夢野銀次》

≪参考、引用本等≫

腰山巌著「鹿沼郷、安政野尻騒動記」(昭和30年7月発行)/「鹿沼市史通史編近世154頁」(平成18年8月発行)/平野哲也著「江戸時代後期における地域資源の活用と生業連関―下野国都賀郡大芦川・荒井川流域を事例に」(栃木県立文書館研究紀要11号、平成11年3月発行)/北島正元著「日本の歴史18、幕藩制の苦悶」(昭和42年11月、中央公論社発行)/石井良助著「読みなおす日本史、江戸の刑罰」(平成25年3月、吉川弘文館発行)/田中正弘編「幕末維新期の胎動と展開、岡田嘉右衛門親之日記第1巻」(平成24年3月、栃木市発行)

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江戸からの継承ーとちぎ秋まつり「山車人形」

082  山車の最上部に鉾をかまえて立つ「張飛」。前方を鋭い眼鏡で睨み、「張飛、これにあり、死にたい奴は勝負しろ!」と曹操軍に叫び、劉備を逃がす「三国志・長坂の戦い」。東京日本橋の雛人形師、三代目原舟月が製作した山車人形を見上げる。

  三国志の中で劉備、関羽と義兄弟を結び、最も豪放磊落な猛将と詠われた張飛翼徳。一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛され、一世を風靡する剛勇の持ち主であったと云われている。まさにその風貌、風格が山車人形として再現されている。

 …巡行前の「張飛」の山車人形。もう一度見上げる。鬼気迫る風格を漂わせてくる。

039_3   山車の上段幕には「朱雀」「青竜」「白虎」「玄武」の四神刺繍となっており、金糸・銀糸で施されている。お囃子の台座には朱塗りの金箔の竜の彫物。黒檀地板には眼鏡の光る唐獅子の彫物が施されている。高度な技は艶やかな山車になっている。高さ7.6mの高い壇上から見下ろす「張飛」に圧倒される。

102  平成28年11月13日の「とちぎ秋まつり」。快晴の小春日和の中で絢爛豪華な山車人形9台が栃木市蔵の街大通りを華やかにお囃子にのって巡行する山車人形を観る。

  町内から練出し、巡行する山車人形は、「劉備」(万町1丁目)、「関羽」(万町2丁目)、「張飛」(万町3丁目)の三国志に「静御前」(倭町3丁目)、「神武天皇」(倭町2丁目)、「仁徳天皇」(嘉右衛門町)、「弁慶」(大町)、「諌鼓鶏」(泉町)、「桃太郎」(室町)、都合9台の山車人形と「獅子頭一対」(倭町1丁目)。

  2年に1回のとちぎ秋まつり山車人形巡行は、神社の祭事としてではなく、実行委員会形式による市民イベントとして開催していることに特徴がある。

095_3  明治7年(1874)、倭町3丁目有志が江戸日本橋から購入した「静御前山車人形」と宇都宮から購入した泉町有志の「諌鼓鶏山車人形」が、栃木町にあった栃木県庁舎内神武祭に曳かれたことが始まりになっている。

 これを機に栃木町民の山車への関心が高まり、明治26年(1893)の栃木県最初の商業会議所開設の際に、3台の「三国志山車人形」と「神武天皇人形」の計6台の山車人形で商業会議所開設祝典に巡行されている。「張飛」を含むこの4台の山車人形は日本橋雛人形師原舟月から購入したもので栃木町問屋商人の新たな拠点としての商業会議所開設を祝った。

  その後には、明治39年(1906)の栃木町神明宮・招魂社祭事では室町の「桃太郎」が参加し、大町の「武蔵坊弁慶」、嘉右衛門町の「仁徳天皇」と次々と作成され、天皇ご大典奉祝祭、市制施行祝賀祭に加わるようになる。そして、昭和36年(1965)の市制25周年記念祝典より5年に1回の定期開催とした。山車人形の保存と常設会場として、平成7年(1995)に「山車会館」が建てられ、これを機に平成18年(2006)以後から2年に一回の隔年開催になった。

Sizuka1105_2  明治7年(1874)に、嘉永元年(1848)作品と言われている松雲斎徳山の山車人形「静御前」は、東京日本橋瀬戸物町、小田原町、伊勢町の3町から栃木町倭町3丁目有志によって688両で売却された。おそらく日本橋から巴波川舟運で「静御前山車人形」は栃木町に運ばれたきたものと思われる。

  昭和55年(1980)に千代田区教育委員会が明治以後に「天下祭」で巡行し、地方に流失されていった「江戸型山車」について調査を行ない、「江戸型山車のゆくえ」と題して報告書を発行している。今回、栃木県立図書館でこの「江戸型山車にゆくえ」を閲覧拝読することができた。

088  報告書に「栃木市の山車」の項目があり、現地調査を含めた報告が記載されている。昭和12年(1937)に栃木の大工、竹政栄吉によって静御前山車人形の社台が大修理されたこと。山車は錦絵「東都日枝大神祭礼練込之図」の山車と全く同じものであることが記されている。また同一の「静御前」は青梅市にあることから、日本橋の3町では「静御前」をそれぞれ売却していったと記述されている。

  尚、報告書では栃木の山車について「青梅市のように改造によって原形を失った山車と違い、祭礼番附や錦絵で見るような山車が、江戸以来の姿で飾り付けられていること」に驚きと称賛の報告になっている。

026 報告書では、「江戸型 天下祭の山車の原型は牛車に曳かせる二輪車(これが三輪ないし四輪に改造または発達)の上に人形が飾られ、しかもその人形が上下するものである」と江戸型山車人形を規定している。

  さらに「三層の構造物からなっている山車人形には、最上部には人形が飾られ、つぎの層は水引幕に取り囲まれた枠で、人形はこの二層目の枠内を上下できるようにつくられている。二段上下可変式のカラクリ(機構)を持っているのが特徴になっている。基部の前半部はお囃子方が乗るスペースがある」と分かりやすい解説が記載されている。

031 「江戸城内、吹上上覧所を経て常盤橋門外で解散し、再び自分の町に帰るまでに、俗に江戸城36見付と呼ばれた城門を6から12回くぐらなければならなかった。江戸城城門の門扉の高さは約4.4m。城門を通過する場合、高さ4mが限界とされているため、江戸型山車は二段階のくり上げ・くり下げ装置(エレベーター)が必要としたのだ」と記述されている。

  徳川時代、江戸城守護を司る日枝神社と江戸の町の守護神、神田明神の御神輿・山車は江戸城に入城し、三代将軍家光以来、歴代の将軍が上覧拝礼するところから「天下祭」と称されてきた。最盛期には神輿3基、山車60台の大行列が江戸城内から江戸の町を巡行していたと云う。

068_3 将軍家の公式行事として扱われた「天下祭」には祭祀に必要な調度品の費用や助成金の交付、大名旗本からの動員が行なわれるなど、幕府からの手厚い保護のもとに存続してきた。しかし、明治の御一新によって、徳川幕府は崩壊し、「天下祭」が終焉した。

 日本橋界隈を中心にした町内は山車人形の維持が難しくなり、地方への山車の放出につながっていくことになる。

   とちぎの山車人形の巡行を観ながら、大阪城築城の石垣の石を運ぶ絵を思い浮かんできた。山車は石垣を運ぶ台車に似ている。報告書「江戸型山車のゆくえ」の中にも、慶長8年(1607)から始められた江戸城拡張工事としての天下普請に江戸型山車の起源があると記されている。江戸城築城における 巨大な石を運ぶ光景は「山車人形」という姿になり、天下祭として江戸町民の心を捉えた祭になっていったのかもしれない。

058   明治26年(1893)に三代目原舟月より購入した三国志の「劉備玄徳」、「雲朝関羽」、「翼徳張飛」の人形は綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)の衣服に覆われ豪華な姿を放っている。しかし、日清戦争の勃発により、敵国の英雄を飾ることに異論が出された。そのため追加人形として「天照大神」、「日本武命」、「豊臣秀吉」、「素盞鳴尊」(いずれも三代目原舟月作)が作られた。そのため現存の山車9台に対して人形は13体になっている。

 ただし「秀吉」人形は馬に乗っていて人物が小さいということで、現在は山車会館での展示のみになって、山車人形として巡行はしない。

046  その明治26年の山車の製作費として、栃木市史民俗編の中で「万町1丁目2,000円、万町2丁目に2,500円、万町3丁目に3,000円を要したと伝えられている」と記述されている。山車3台、人形7体の製作費7,500円を原舟月に支払ったことになる。現在の価格で言えば、1円を2万円とするならば1億5千万円になる。

 報告書「江戸型山車のゆくえ」では、祖父から聞いたとび職の石関三郎氏の話として、「原舟月の方から3台で4500円でという申し入れがあり、万町3丁目の素封家、桜井源右衛門氏が、3台中もっとも気に入った山車(張飛)を2,000円で買取る契約をし、他の2台については万町1、2丁目にまかせたという。その結果、1丁目が1,500円、2丁目が1,000円でそれぞれ買うことが決まった」と3台を選んで購入したことが記載されている。

  さらに、薬屋を営む高田安平氏夫人の話として、「東京の原舟月に山車を注文したのが明治25年の8月。値段は3,500円で出来上がったのは翌26年3月のこと。その間にうちの父は舟月のところに何度も行きました。日本橋石町に住んでいて、仕事場は岩附町(現在の中央区本町3丁目辺り)にあった。舟月さんは小柄な人で丁髷を結っていた」と注文から納品までの期間を記載している。

094  この2人の話から、報告書「江戸型山車のゆくえ」では山車購入の価格より、3台の山車から桜井氏が1台を選んだということと注文から納入までの期間が7か月という短期間であったことに着目し、3台の山車は予め出来上がっていたと推測している。

  そこから、「当時東京では不要になった山車が、続々と地方に流出していた時期であり、舟月も仲秀英(同時期の雛人形師)と同じく流出の周旋を業としていたことの一端が、現在の栃木の山車に伝承として残された」と記し、「重要なことは、山車を注文制作させたのか、放出品を買ったのかということは問題にならない。この超一流の江戸型山車が栃木市の山車保存によって、受け継がれていることに大きな意義がある」と指摘を行なっている。江戸型山車が完璧に継承されてきていることに惜しみない賛辞が記されている。

072  「栃木市史」に記述さている山車人形の価格が7,500円。現在の価格で1億5千万円とするならば、高額な金額になる。町内の有志で購入できたことは、当時の栃木町民の持つ財政力は相当なものだったと改めて驚かされる。

  江戸後期から明治の初めにかけて、江戸東京と結ぶ巴波川舟運によって麻問屋・荒物問屋などが関西・東北方面に進出をし、「問屋町栃木」の名を全国に広めていった時期である。それは、明治17年(1884)1月の宇都宮への県庁移転や明治18年の東北線が栃木を通らなくなっても栃木の問屋支配網は崩れることなく拡大発展をしていったと云われている。全国麻生産の9割を占めた栃木県南西部に位置する栃木町の問屋商家。おそらく、国民皆兵による軍隊の創設が麻使用の軍服や軍備品の需要によって麻の増加が飛躍したのではないかと推測する。

007 明治4年に栃木町に総額8296両で建設された県庁舎。そのうちの42%にあたる3708両は地域住民が負担している。栃木町民、とりわけ栃木の問屋商家が中心に負担していると予測できる。

 さらに、明治34年(1901)の栃木女学校(現在の栃木女子高)創設費用3万円の内、1万円を地域住民からの寄付で賄われている。現在の1億5千万円。これも栃木町の問屋商家が中心に負担していると予測できる。詳細な史料がないのが残念だが、栃木町の問屋商家の財政力の中身の凄さについては、これからも研さんしていきたいと思っている。

056 「ピーヒャリ、テンツクテンテン」とお囃子代台から聴こえる「日之出流」と「小松流」のお囃子演奏。神田囃子の本流を伝えるものだという。

 お囃子の演奏を栃木市役所の向い側に立って聴く。55年前に今の市役所前の大通りのこの場所から栃木の山車祭を観ていた。見物人で溢れ出ている大通り。商店街アーケードの屋根の間から「神武天皇」の山車人形を人混みの中で観ていた記憶が何故か浮かんできた。

 今回は、新聞で報道されている「ぶっつけ」という、山車が向き合わせてお囃子が競い合う光景に出合うことができなかった。2年後には夜のライトに照らされた山車人形と合わせて観に来ようと思った。

092  栃木県庁舎があった敷地には県庁堀が史跡として残っている。明治7年(1874)の神武祭では「静御前」と「諌鼓鶏」の山車人形が巴波川の幸来橋を渡り、皆川街道から栃木県庁舎表門から庁舎内に入り、神武社に拝礼練行している。19年後の商業会議所開設祝典に巡行した江戸型山車人形。問屋町栃木は江戸の流れを引き継ぐ山車人形の保存を長く行なってきた。…凄いことだと感心する。

 「栃木市では別段、山車人形の維持管理への助成金を定めてはおりません。修理修繕費用につては県指定有形文化財にそって支給を行ないます」と栃木観光課のお話。「とちぎ秋まつり」では、行政は実行委員会に加わり、応分の負担をしているが、山車はあくまで町内の所有物としている。その所有者の町内では高齢化、町内人口の減少により山車人形の維持管理が年々難しくなってきていると聞こえる。栃木観光協会を中心に「伝承会」という山車保存に協力していく会を立ち上げて、賛同者の入会を勧めていく動きもある。

 町内の祭から栃木市民による祭へと発展させていくことが、山車祭を永く存続していくことに繋がる。それには、今一度「山車祭」の意義とあり方、参加体制について、広く市民の間で論議していく必要があると思えてくる。江戸の流れを継承する「山車人形」。今の時代と向き合う祭として再考していく必要があると思えてきた。

                                      《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

千代田区教育委員会編纂報告書「江戸型山車のゆくえ」(昭和55年10月発行)/池田貞夫・黒崎孝雄著「とちぎ屋台と山車」(平成10年3月発行)/絵守すみよし著「人形師原舟月三代の記」(平成15年9月青蛙房発行/「栃木市史民俗編」(昭和61年1月栃木市発行)

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江戸の香りが漂う―栃木市杢冷川、旭町「本橋」界隈

005  川幅約3mの杢冷川(もくれいがわ)は日ノ出町の水源堀から栃木市街地の東側を流れ、巴波川に合流する全長1660mのコンパクトな川の流れになっている。

  「杢冷川って、響きのいい名前だな…」と感じて、名前の由来が気になり調べてみた。しかし、栃木市史や栃木市文化課、知人に聴いてみたが、その由来は分からなかった。

  勝手な想いとして、栃木市街を流れる巴波川は別名「鶉妻川」と記されていた。巴波川の東側を流れる川から、「鶉」と関連して、鶉杢目のように細い網目模様を形作っている河川。その川筋には冷たい湧き水湧き出していることから「杢冷川」と呼ばれるようになったのかなあと想像したりしてみた。

011   「私達の住む日ノ出町自治会は、昔は栃木町大字城内の大和、榎堂、杢冷、川島と栃木町大字栃木榎堂、杢冷、大和の7つの字を称して城内大和と呼ばれていました」と昭和62年3月に発行された「日ノ出町史」(栃木市日ノ出町自治会発行)に記載されている野川自治会長の冒頭あいさつ文。城内村から別れた時期に、字杢冷という地名が2か所あったことが記されている。

  栃木市日ノ出町にある杢冷川の水源堀のそばに石碑が建っている。石碑には杢冷川灌漑用水の由来として、荒れていた平等庵所有の湧水池の埋立を大蔵製鋼社が耕作者たちのことを思い、中止にしたこと。昭和21年に水利組合と市当局の援助で灌漑用水として蘇らせたこと等が記されている。

009_2_2  この石碑から、杢冷川は灌漑用水堀川として使用されていたことが分かった。ということは、用水掘の呼び名は地域名を使用することが多いし、村人にとっても便利でもある。そのことから「城内村字杢冷」の地域を中心に流れる用水掘川であることから「杢冷川」と呼ばれるようになった。と理解するのが自然である。何だか胸におちた感じがした。

  また、水源堀敷地の所有者が石碑には平等庵であることが記されているのには驚いた。「現在も日ノ出町公民館の地代は自治会で平等寺に支払っていますよ」と地域の人から聞いた。

   日ノ出町公民館は水源堀から小金井街道を挟んだ向かい側に建っている。その敷地は、かつて三角沼と言われ、私の子どもころの水遊びの湧水沼であった。冷たい湧き水に身体を浸した暑い夏の日が思い出される所だ。

018_2  杢冷川に架かる栃木市旭町「本橋」から「一二三橋」にかけては、栃木町の花柳界として知られていた地域である。

  「季節ごとに芸者たちは着物を購入することが多く、呉服商はとくに繁昌していた。三味線の音が聞こえ、夕方になると桃割れ姿の半玉や高島田の芸者たちをみることができた」と村田弘子著の「壬子倶楽部と町のにぎわい」の中で、明治期後半の栃木町本橋周辺の様子が記述されている。

  本橋の畔には湧水池のある老舗料亭「壬子倶楽部(じんしくらぶ)」があり、少し上流の左岸には料亭「桃坂」もあった。橋の南東側には「釜仲」の店舗跡と「平等寺」がある。

019_2  平等寺の境内には御堂と石塔が建っている。あまりの整然とした佇まいの境内から、教化活動をしていない寺院ではないかと思えてきた。御堂の左側に建っている石塔。真ん中の古い石塔には宝暦十辰天八月吉日と刻まれていることが読み取れる。

 平等寺はかつては「平等庵」という寺院名であったことが明治39年(1906)年発行の「栃木市六千分一尺図」に記され確認することができた。

  渡辺達也著の「歌麿と栃木」の中で、「平等庵の湧水池、真清水」として狂歌等が詠まれた寺院として紹介されている。平等庵が平等寺になったいきさつを知りたくなった。

027_5  「栃木市にある平等寺は霊雲寺の末寺です。平等庵が平等寺に名前が変わったのは、宗教法人法の改正によるものです」と湯島天神そばの本寺、霊雲寺を訪ねた私に事務員の人が教えてくれた。それ以上の詳しい話は担当者がいないということで断られた。平等寺はかつては平等庵と称し、東京都文京区湯島にある真言宗霊雲寺派総本山「霊雲寺」の末寺になっていることが分かった。

    霊雲寺で渡された冊子によれば、元禄4年(1691)に淨厳律師によって文京区湯島に創建開基され、柳沢吉保を通して5代将軍徳川綱吉の尽力によるとされている。同冊子の霊雲寺略史の中で、「永享3年(1746)~宝暦6年(1756)にかけて霊雲寺の末寺60か寺となる。その所在は武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野・相模」と記されている。このことから、宝暦10年(1760)と刻字されている石塔のある現在の平等寺は、宝暦年間(1751~1763)に「平等庵」として創建されたものと思われる。

  宝暦年間は、円説と三悦の二人の坊が壬生町興生寺から栃木町へ移住してきたとされている年代と重なる。二人の坊は中の坊、上の坊と称し、釜喜善野喜兵衛と釜佐善野佐次兵衛ら共に、質屋業として江戸後期の栃木町の金融経済を仕切る豪商になっていく。文久2年(1862)の栃木町「本陣火事」において平等庵は釣鐘を残して焼失する。唯一残った釣鐘は現在の旭町「定願寺」の釣鐘として現存している。寛政4年(1792)11月に造られたその釣鐘の施主の中に円説と三悦の名が刻まれている。平等庵と豪商との結びつきを強く表している銘文だと渡辺達也氏は「歌麿と栃木」の中で記している。

014  杢冷川「本橋」南東の角に建つ「釜中」店舗跡の裏手にある駐車場が、湧水池だったと地元の知人が教えてくれた。かつては平等庵の敷地内であった湧水池跡を本橋の欄干から見る。

   「この辺り一帯は何処でも湧き水が湧出し、平等庵は特に清水の湧き出る所で有名であった」と渡辺達也著の「歌麿と栃木」で記述されている。さらに、安政6年(1856)に発行「狂歌扶桑名所名物集下野」の中から、「湧出る平等庵の真清水をくめバ夏行きなり」、「真清水を結へハ夏を王(わ)すれぬり平等庵の秋の者川(はつ)風」(結べば=掬えば)」と平等庵の湧水を見ながら狂歌が詠まれていたことの紹介が書かれてある。ただ私には、変体仮名で詠まれる「狂歌」は馴染みが薄く、その世界になかなか入ることはできない。

 「歌麿と栃木」を読み、杢冷川沿いの「本橋」周辺にはたくさんの湧水があり、埋め立てられた池もあれば、今も現存している湧水池があることが分かった。。

067   「最初に池があり、そこに建物をもってきたのですね。普通ですと建物を建てて、そこから眺めの良い庭を造るのですけど」と、初めに湧水池があったことを女将さんは、私達、「歴史と文化を歩く会栃木」一行18人に説明してくれた。

  本橋の北西の畔に建つ、大正元年(1912)創業の老舗料亭「壬子倶楽部(じんしくらぶ)」。庭園には30m四方の湧水池があり、鯉が泳いでいる。壬子倶楽部の座敷で用意してくれた昼食弁当をいただく私達。個人ではとてもあがることのできない料亭の和風座敷。座敷から見える湧水池のある庭園と木造家屋…。栃木町の隠れた奥座敷なのかと、しばし見渡す。

009  「大正元年の壬子(きのえね)の年に開業しました。子(ね)は終わりから始まる縁起の良さと倶楽部という当時のハイカラな意味から、祖母が壬子倶楽部という名前を付けたのだと思います。かわせみが飛んできますので、池のまわりの何処かにきっと巣を作っているのですね」と三代目の女将さんが私達に説明してくれた。

  小石の底から地下水がボコボコと湧き出ているのが見える池。鯉が泳いでいる。池の南側には杢冷川に流れ出ていく水口が見える。大正元年に建てた家屋には庇の痛みが目に付くが、内部の和室、座敷の拵えはしっくりした作りになっている。

007 渓流で釣り糸をたれている老子の掛軸が掛けられてある床の間。別の座敷の床の間には艶やかな活け花が飾られてある。「私たちのために用意してくれたのよ」と同行者の人が耳元でささやいてくれた。女将さんの心配りにありがたく、喜ぶ。

006

 

  案内する女将さんの立ち振る舞いを見ながら、「浮世絵のような美人画を描きたくなる…」。そうした雰囲気のある座敷。廊下を歩く仲居さんと奥に見える湧水池が浮かび上がる。ふと、異次元の世界にひたる気分になってくる。それは、江戸の余薫(よくん)が漂う、浮世絵の香りのする光景でもある。栃木の町にしっとりとした江戸文化の香りが残っていたことを見つけたようで、うれしい気分になってきた。

013    平成19年(2007)栃木市発行の「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」の中で、村田弘子氏が壬子倶楽部三代の女将さんのことを次のように書いている。

  「大正元年(1912)に壬子倶楽部は開業した。遠藤セイが26歳のときである。セイは明治19年(1886)栃木町に生まれ、仲居として栃木町の料理屋で働いた。『壬子倶楽部の経営の一端を担うに際して、そのときの経験が大いに役立っていたようだ』とセイの養女遠藤今子は話す。壬子倶楽部は商人たちの商談の場として、また碁を打ったり俳句を詠んだり、趣味の場、社交場として使用された。客のあしらいをまかされていたのが遠藤セイである。今子がセイから壬子倶楽部を引き継いだのは戦後、昭和34年(1959)である。戦時中は企業の寮や軍関係の宿舎に使用された。祖母(セイ)、母(今子)、娘(智恵子)の3名の仲居の働きにより現在に至ったといっても過言ではない。当時、ビリヤードとして使用された洋館と日本庭園を背景とした日本家屋が今も残る」。

  この内容から、江戸時代からの料亭仲居としてのもてなし方を受け継いできたことが伺える。女将さんの仲居としての立ち振る舞いは、湧水池と日本家屋、格式ある料亭の佇まいと合致した風情になっており、格式ある料亭としての気品と伝統を感じた。…是非残しておきたい栃木町の文化遺産である。

005_2   壬子倶楽部の前の通りを隔てた向かい側の敷地。駐車場になっている跡地は栃木の名のある商店主の屋敷跡地である。その跡地の敷地の下の岸辺から杢冷川へ注ぎ出てくる地下水が見える。かつての湧水池の名残りでもある。

  この屋敷跡の前の前の持ち主が、釜喜、善野喜兵衛の別宅だった教えてくれた人がいた。確証はないが、江戸期に釜喜の別宅だったとすると、平等庵ー中の坊円説ー釜喜・善野喜兵衛―狂歌との繋がりの中で「喜多川歌麿」の影が浮かび上がってくる。歌麿は天明期(1781)から寛政期(1800)にかけて栃木の町に度々訪れていたと伝わっている。

051_3   栃木市では歌麿作の肉筆画、「深川の雪」「品川の月」「吉原の花」三幅対、「雪・月・花」の高精細複製画を作成し、市役所4階に12月24日まで展示を行なっている。

  「江戸時代、例幣使街道宿場町と江戸に通じる巴波川の舟運として栄えた栃木町は江戸との交流から狂歌文化が花開きました」と展示場の解説に書かれてある。さらに「自らも筆綾丸(ふでのあやまる)の狂歌名を持つ歌麿は、狂歌を通じて栃木の豪商と親交がありました。歌麿の肉筆画大作「雪・月・花」は、栃木の豪商、善野家の依頼とされている」と解説している。

022  釜喜、善野喜兵衛の狂歌名は通用亭徳成と称し、長寿を祝う大量の狂歌短冊の中に、歌麿自筆の短冊が発見されているなど、栃木町と歌麿、善野家との関係について研究が進めらている。

 ――とは言っても、江戸時代に驚異的なブームを巻起した狂歌熱は明治になり衰退。俳句のように継承されてこなかった狂歌。理解しがたい分野になってしまっている。狂歌の面白さや素晴らしさを分からないというのが現状だと思える。

 江戸後期、栃木町の経済と文化、狂歌を支えた栃木町の豪商たちについて、これからも研究していく課題は多々ある。 

030_3   歌麿が描いた「雪・月・花」の三幅対。幕末の大火の中で保存もされていた。そして、栃木のどの家で三幅対を描いたのだろうか?興味がある。

  「深川の雪」の画は198・8㎝×341.1㎝と非常に大き肉筆画になっている。中の坊円説(現在の栃木郷土参考館)宅の巴波川沿いの離れで描いた説を述べる人がいる。だが、私には、本橋界隈の「壬子倶楽部」の前の家、釜屋善野喜兵衛の別宅地で描いたのではないかと思えてくる。「巴波川」ではなく「杢冷川」と湧水池こそが、歌麿が描く「浮世絵」の世界に相通じるものがあるのではないかと想像する。私の「歌麿ロマン」の世界でもある。

  江戸の香りが漂う「本橋」界隈。「狂歌」や「浮世絵」の世界を思い浮かべながら杢冷川沿いを歩くのも、また良しとしよう。

 杢冷川は旧栃木刑務所時代に堀の役割をした栃木市文化会館とあさひ公園の脇を流れ、巴波川に合流していく。子ども頃に泳いだ湧き水のある水源沼。水の冷たさを今でも私の肌は憶えている。杢冷川湧水の清流は、これからも栃木の町を流れていく。

                                            《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

「町政50周年記念、日ノ出町史」(昭和62年3月、栃木市日ノ出町自治会発行)/「霊雲寺」紹介冊子/渡辺達也著「歌麿と栃木」(平成23年10月三刷歌麿と栃木研究会発行)/栃木市地域女性史編さん委員会編「私たちが綴る栃木市の女性たち」(平成19年3月栃木市発行)/ブログ巴波川日記「杢冷川―栃木市街地を流れるもう一つの河川」(2014年11月) 

 

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栃木街の中心地ー倭町交差点「イシハラ洋品店」と道路元標

041_2   「栃木街の中心地、真ん中にうちの店はあるのです。真ん中としての役割を考えて、時代にそった店舗づくりをしていきます。そのためには、この建物を取り壊して、ミツワ通りと繋がる新たな店舗を共同で作っていくのです。大通り沿いを広くして風通しを良くし、駐車場を設置し広くしていきたいですね。街にお客さんをひきつける。そうした店づくりをしていきます」と私に熱い思いを語るイシハラ洋品店4代目の店主、石原靖弘さん。

   「イシハラ洋品店」の店舗はすぐ近くの銀座通り西端に移転を行ない、高校の制服を中心に従来通りに店を構えていく。そして新たな店舗造りを現在の倭町交差点角を中心にした店舗共同開発として建てていくという話になっている。

010_4  「イシハラ洋品店が店閉まいするんだって」とある会合でその話を聞き、「エッ、本当?」と驚いた私は、倭町交差点角に建つイシハラ洋品店に行った。ショウウインドウには「店舗移転の為 閉店SALE 当地区の再開発の為、店舗を移転することになりました」と店閉まいではなく、再開発を進めるための移転であると明記されていた。48年前に建築された屋上のある5階建ての店舗を解体して、新築する。それも地域の商店と共同開発として進めていくことを聞いて、何故かホットした。

  「栃木にもエレベーターのあるお店ができた」と当時、誇らしく思った記憶が浮かんでくる。「エレベーターは今もありますが、電源は入っていません。エスカレーターもありましたよ」と石原靖弘さんは語ってくれた。屋上のある5階の部屋で小学校時代の絵の先生が個展を開いたのもこのイシハラ洋品店だ。ただ屋上から眺めたはずの栃木街の屋根瓦の光景が浮かんでこない。

015_2 イシハラ洋品店は栃木市倭町交差点の南西角に建っている。栃木市の一等地であり、倭町交差点は街の中心地に位置する。江戸時代には足利藩栃木陣屋の入り口として高札場が設置されていた所でもある。街の中央を南北に往還する蔵の街大通り(旧例幣使街道)とこの交差点を起点とする栃木県道75号栃木佐野線(皆川街道)が交差している地点でもある。

  大通り商店街からミツワ通り、幸来橋へと続く銀座通りを中心に昭和40年代頃までは栃木街の商店街は買い物客や高校生でごった返す人通りの多い町であった。栃木市に初めて信号機が設置されたのもこの交差点であった。小学校時代に先生に引率され、点滅する信号機を確認しながら交差点を渡る指導を受けた思い出がある。栃木のまちはここから始まっているのかもしれない。

007  イシハラ洋品店の向いにある足利銀行店舗の解体工事が始まっている。新店舗は奥に出来上がり、すでに営業を行なっている。更地となり駐車場になっていく。

  この倭町交差点には県道11号と75号の道路標識が建ってある。その標識の下に大正10年(1921)に設置された50㎝ほどの石塔、道路元標(どうろげんぴょう)がある。道路側に「栃木町道路元標」と刻まれている。歩道側からでは見えないため、ただの石塔にしか見えない。

09tochigi011   大正8年(1919)の道路法によって各市町村の中心地に設置された道路元標は、主な幹線道路の起点や終点を示し、地点間の距離を測定する基準としていた。昭和27年(1952)施行の新たな道路法により道路元標は道路の付属物とされ、設置場所や道路元標を路線の起終点にする規定はなくなった。そのため大正時代に設置された道路元標は道路工事や宅地開発などで撤去され、いつの間にかなくなってしまっていった。

040  栃木市と近郊との合併は、昭和29年(1954)に大宮・皆川・吹上・寺尾の4村、昭和32年(1957)国府村、平成22年(2010)の大平・都賀・藤岡の3町、平成23年(2011)の西方町と合併をしながら、いずれの町村において道路元標は消失してしまっている。栃木市内で唯一、倭町交差点に建っている大正10年設置の道路元標の石塔。ここだけに現存しているということになる。

  栃木市では市文化財に指定しているが、周囲には文化財であることを知らせる看板はない。そのため車や自転車はもちろん歩行者も目に留める人はなく、ポツンと置き去りされて建っている。

  平成25年(2013)8月29日の下野新聞にはこの「栃木町道路元標」の石塔について、「1世紀近くにわたって蔵の街の歴史を見守ってきた“生き証人”だ」と記述されていた。

  現在の倭町交差点は県道75号皆川街道の起点になっている。他の栃木市街地の県道起終点は市内の主な交差点に位置している。例えば万町交番交差点が、県道2号宇都宮栃木線(栃木街道)、3号宇都宮亀和田栃木線(鹿沼街道)、11号栃木藤岡線の3つの県道終点地になっている。河合町交差点は、31号栃木小山線、153号小林栃木線の終点地。日ノ出町交差点は44号栃木二宮線(小金井街道)の起点地。箱森粟野街道入口交差点は37号栃木粟野線の起点地になっている。現在の大半の道路起終地は交差点に定めてあることが伺える。確認していないが、「栃木まであと〇〇キロ」という標識版は道路起終地にそって表示されているのかもしれない。

Yamaguchitomoko20081  「へー、やだあー、建物なくなるんだ、と取り壊しのことを聴いて、トモちゃんが驚いていましたよ」と、イシハラ洋品店の店主、石原靖弘さんが私に話してくれた。トモちゃんとは女優の山口智子のことだ。

  山口智子の実家は平成17年(2005)8月に廃業した「ホテル鯉保」の老舗旅館であった。ホテルはイシハラ洋品店の先向いにあった。現在はその地にコンビニストアの「ファミリイマート」が建っている。

  山口智子を娘のように育てたのが女将でもある祖母の山口礼子さんだった。すでに亡くなっているが、戦中戦後を通して「ホテル鯉保」を切り盛りした女将であった。その山口礼子さんはイシハラ洋品店の創業者、石原豊吉氏の長女として大正10年(1921)に生まれ、当時「鯉保別館」と言っていた山口恭平氏に昭和15年(1940)12月の暮れに嫁いでいる。イシハラ洋品店とは非常に親しい親戚筋になっている。

016  鯉保の先祖は江戸期に日本橋で「鯉屋」という魚商であった。主人の鯉屋藤左衛門は俳号を杉風(さんぷう)と称して、松尾芭蕉の高弟でもあった。鯉屋藤左衛門の末裔が明治治9年(1876)に料理店「鯉屋」を栃木万町で開業。その後、屋号を鯉屋から、明治14年(1881)鯉保と改め、旅館業も兼ねていった。

  鯉保の主人、山口平三郎氏は昭和4年(1929)に倭町にあった「晃陽館」という旅館を買収し、子息の山口恭平氏(山口智子の祖父)に跡を取らせ「鯉保別館」として開業した。昭和32年(1957)に恭平氏が亡くなり、夫人の礼子さんが女将として采配し、「鯉保別館」から「ホテル鯉保」へと成長させた。孫娘の山口智子は幼少期より祖母、礼子さんを母親のように慕い育ったと言われている(「栃木市の企業と人物、㈱ホテル鯉保、代表取締役山口礼子」より)。

   大正10年生れの山口礼子さんは20代で戦中戦後の混乱期を迎えたことになる。栃木市が平成19年(2007)に昭和を生きた市内の女性の体験談を中心に編纂した「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」を発行している。その書の中に「旅館のおかみ」の表題で山口礼子さんの口述筆記が次のように記載されている。

050   「嫁にきたのは20歳だったんですよ。嫁にくるときは、なにもしないでいいからぜひぜひといわれて嫁にきたんですよね。だけど結婚すると暮、正月はいそがしいもんですから、新婚旅行も行かないで春になったらもう妊娠しちゃいましてね。主人は昭和18年招集、南方へ行ったんですよ。働いている若い衆はみんな徴用にとられて、それからものは闇で買わなくっちゃならないですよね。父がこんなにたいへんじゃやめたほうがいいじゃないかっていうんで商売をやめたんです。中島飛行機へ寮みたいに貸したの。

 戦後また旅館を始めんたんです。米はお泊りさんがもってくる。お米を持参した人だけ泊める時代でした。そのうちだんだん闇でものが動くようになったのでお金で泊る人がでてきました。(略)主人が(昭和32年)になくなってからそれからずっとわたしが社長さんでやってきた。考えてみると60年も働いてきましたもの。だって朝は6時ですよ。朝飯ださなくちゃならないもの。夜は芸者さんが帰るのは1時、2時はざらですよ。だからね、どうやってくらしてきたかなあと思いますけど、立ってでも寝られましたね」と、立って寝るという女将としての責任あるバイタリティを感じる。商いをしていくうえでの「闇」とか「旅館のやめる、始める」「人手」とかという言葉から、時代を見つめ判断をしながら旅館業を営んできたことが伺える。

019   鯉保別館の建っていた敷地は幕末期に「旅篭押田屋」があった。元治元年(1864)6月の水戸天狗党「愿蔵火事」や慶応3年(1867)12月の出流山事件(出流天狗)における「栃木宿戦闘」など、栃木陣屋との交渉場所として押田屋を舞台に展開された歴史ある場所でもある。また、鯉保別館脇の小山街道沿いは終戦直後、闇市がたっていた。

  私には鯉保別館時代の黒塀沿いを自転車で走る記憶がある。ラジオから流れるメルボルンオリンピックの水泳競技、山中選手の泳ぐ実況放送を聴いていた姿が残像として残っている。黒く長い塀の先に明るい大通りが見えていたような気がする。

   「イシハラ洋品店の開発は民間開発です。お問い合わせがあった場合には市としては景観条例についてのお話を述べるだけです。栃木市の一等地です。民間開発とはいえ、気になりますね」と栃木市都市計画課の職員は述べていた。

  イシハラ洋品店を中心にした店舗建て替えの開発事業計画は、これからより具体性を帯びてくると思える。市役所庁舎も大通りに移転してきている。民間の活力を生かした店舗建て替え開発としての事業。その先にはたくさんの市民が訪れる町づくりが見えてくる。「蔵の街」からの脱却と飛躍が構想の中にあるような気がする。栃木の真ん中で商いをするイシハラ洋品店は歴史と時代の流れを見据えて歩み始めていると受け止めた。

                                               《夢野銀次》

《参考引用資料本》

明治40年10月発行「栃木県営業便覧」/下野新聞2013年(平成25年)8月29日号「マチある記㊺」/「栃木市の企業と人物」平成6年10月、土筆書房発行/「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」平成19年3月栃木市発行

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水郷に流れる潮来節~船頭小唄・娘船頭さん・おんな船頭唄

033_4  「おめでとうー」と両岸からの見物人のかけ声と拍手が湧きあがる。拍手は嫁入り舟を見ることができたうれしさの表れなのだ

   5月28日から始まっている「水郷潮来あやめまつり」。市の係員に先導された白無垢姿の花嫁一行は前川あやめ園内を四歩進み停まりながら乗船河岸にて手漕ぎ舟に乗る。

  花嫁と付添(仲人)を乗せた手漕ぎの嫁入り舟はギッチラ、ギッチラと潮来市内を流れる前川を下る。常陸利根川に合流する水門手前の河岸にはお婿さんが嫁入り舟を出迎える。「何年振りだろう、野外で花嫁さんを見るのは…」。結婚式と披露宴はホテルで行ない、昔のように花嫁姿でご近所へ挨拶する光景を見ることはない。 

017_3  6月14日にシルバー大学栃木南校33期生「健康ウォーククラブ」の「潮来あやめまつり見学ツアー」に参加した。栃木市からは潮来市は遠い。それでも一度は行ってみたい町であった。水郷の町、歌の町としていつも私の頭の中にあったからだ。

  嫁入り舟に乗る花嫁を潮来市は毎年、全国に募集を行なっている。条件は一年以内に結婚もしくは結婚したカップルになっている。着付け代は自己負担だが花嫁衣裳は無料で貸与される。毎年全国から80組くらいの応募があり、抽選になるほどの人気イベントとして定着をしている。 

  「潮来は周囲を水に囲まれ、水路が縦横にはりめぐされていたため、サッパ舟(櫓を使う手漕ぎ舟)によって隣近所などの日常の生活が水路で繋がれていた」と潮来市ホームページに水郷の町であったことが紹介されている。そして「嫁入りする際の花嫁や嫁入り道具等を運搬する時にもサッパ舟が使われており、これが『嫁入り舟』の始まり」と記載されている。 

029  「♪潮来花嫁さんは 潮来花嫁さんは舟でいく~」と花村菊枝が歌う「潮来花嫁さん」が昭和35年に大ヒットとなり、「嫁入り舟」は全国に知られるようになる。 

  生活を結ぶ水路とともに姿の消えた嫁入り舟は昭和60年の「つくば国際科学技術博覧会」の際にイベントとして復活する。そのことがきっかけで、現在のあやめまつりの中で嫁入り舟が行なわれるようになり、潮来を代表する「あやめまつり・嫁入り舟」観光行事になっている。 

  実際の花嫁とお婿さんが参加する嫁入り舟。潮来市と市民の手によって、嫁入り舟が毎年、継続して続けられてきている。疑似体験でない本物の花嫁が舟に乗るところに長く続けられてきている要因になっているのだと思えた。 

  「潮来花嫁さん」と同じ年の昭和35年には、橋幸夫が歌った「潮来笠」も大ヒットする。2曲のメロディから水郷潮来の明るさが高度成長時代へ突入していく時代を表している。しかし、一方では、「…おれは河原の枯れすすき~」と、潮来水郷のもの哀しさ、寂しく暗い世界へと誘う歌もある。あやめの花、嫁入り舟の華やかな光景を見た後にきた、この暗さと明るさのギャップは何なのだろうか?水郷潮来を詠った歌の中から「潮来の情感」を辿ってみた。 

047 ~己は河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき 

~枯れた真菰(まこも)に照らしてる 潮来出島のお月さん わたしゃこれから利根川の 船の船頭で暮らすのよ 

『船頭小唄』大正10年(1921) 作詞:野口雨情、作曲:中山晋平。 

 潮来市観光案内ボラティアの方から、源頼朝が創建した「長勝寺」と裏の稲荷山公園にある「野口雨情記念詩碑」を案内していただいた。 

  大きな石碑のそばには『雄大な利根川の流れに詩情をたぎらせ、潮来出島の風向をひろく天下に紹介した』として、昭和40年(1965)5月に潮来町野口雨情顕彰会によって詩碑が建てられている。「船頭小唄」の歌詞が刻字されている詩碑のある稲荷山から、潮来の町と常陸利根川、利根川を見渡すことができる。 

Yjimage4tsigjzo_2  長田暁二著「日本の愛唱歌」の中で、『船頭小唄』の生まれる逸話が記載されている。 

  「大正8年に作詞した原題『枯れ芒』を野口雨情は面識のなかった中山晋平に作曲を始めて依頼した。しかし、中山晋平は預かった詩稿があまりにも内容が暗く曲想がまとまらず、一年が過ぎた。たまりかねた雨情は強硬に督促をした。晋平は作曲がはかどらない理由を言ったところ、雨情は茨城県民謡の『潮来がえし』らしいメロディを低く口ずさんでみせた。それがなんとも素朴で、魂の叫びのような響きがあったので、(よし、これでいってみよう)ということになる。雨情のうたった『雨情節』を基調に、晋平の発想を加え、この曲ができた」と記してある。 

  そのため、「大正10年3月の出版楽譜(再版から『船頭小唄』に改題)の作曲は中山晋平と晋平の別名、萱間三平の連名になっている。この曲は完全なる自分の創作ではなく、『雨情節』が混入しているという衒(てら)いがあったのでしょう」と野口雨情が口じさんだ「茨城県民謡潮来節」らしいメロディが「船頭小唄」に入っていることを指摘している。 

…雨情が口ずさんだ「潮来がえし、潮来節」とは、どんな曲だったのだろうか。 

 ネットで検索していくと、潮来節の中の「潮来音頭」に(返し)が記載されていた。 

~潮来出島の真菰の中に あやめ咲くとはしおらしや ションガイナー 

 (返し)しおらしや あやめさくとはしおらしや ションガイナー 

~此処は前川十二の橋よ 行こか戻ろうか思案橋 ションガイナー  

 (返し)思案橋 行こか戻ろか思案橋 ションガイナー 

(『潮来音頭』より)

050_2  「潮来節の原型の『潮来出島の真菰の中に あやめ咲くとはしおらしや』のあやめ咲くとは遊女のことである。潮来節は、河岸の船乗・水主(かこ)や小場人足などが、非常に貧しい過酷な生活から生まれた労働歌の一つであったという」と川名登氏は著書「河岸」で記述している。 

  「この労働歌(潮来節)が潮来遊廓の御座敷歌となり、それが船頭・水主や遊女たちの口から『木下茶船(きおろしぶね)』などに乗って三社参詣や銚子磯めぐりなどにやってくる遊客に覚えられて、利根川を遡って江戸に伝えられ、江戸から全国各地に広がって有名になった」と潮来節が遊廓、参詣と舟運を通して全国に広がっていったことの指摘をしている。 

  木下茶船とは利根川下流、香取・鹿島・息栖(いきす)の三社めぐり等をおこなう貸切遊覧船のことを言い、江戸時代の文化文政時代(1804~1830年)に多くの旅人で賑わったとされている(ウエブ「世界百科事典」より)。 

  潮来節は佐渡おけさ、徳島阿波おどり、長唄藤娘など全国に広まり、派生していった。野口雨情が口ずさんだ潮来節が船頭小唄の中のどこにあるのか?音楽に疎い私には分からない。調べて行こうと思う…。 

  「潮来出島」は、デルタ地帯として、この前川あやめ園あたりを指していますね。網の目のように水路がありました。今は埋め立てられて、昔の面影は残っていません。潮来遊廓はあやめ園の向こう岸、前川の右岸下流にありました」と嫌がらずに観光ボランティアの方が教えてくれた。 

Yjimage5_2  過大な借金、離婚、水戸での「地で這うような生活」の中から野口雨情は「枯れ芒」を作詞した。バイオリンの奏でる哀切さを感じる「船頭小唄」は演歌師によって歌われ、関東大震災を経て全国に広がる。それはやがて戦後の昭和32年の映画「雨情物語」で主人公、森繁久彌が歌った「船頭小唄」で今日まで受け継がれてきている。 

  実生活や民俗、郷土等の身近な生活を見据えたところの表現、考え方を表すと言われている大正デモクラシー。その思想を背景として「船頭小唄」が生まれてきたと思えてくる。 

Saijo_yaso_and_nakayama_shimpei1 大正12年9月1日の関東大震災。東京下町が燃え広がる夜、上野の山には多くの避難した人がいた。どこからともなくハーモニカのメロディーが流れてきた。少年が奏でるハーモニカ。うるさいという声があがることなく、じっと聴き入り、落着きと自分を取り戻していった避難者たちを西條八十は見ていた。月島の兄の安否を訪ねていった仏文学者、西條八十も上野の山で避難者と一緒にハーモニカを聴いていたのだ。俗謡(歌謡曲)の中に人々の安らぎ、生きる心の糧が生まれることを、西條八十は見出した。この日をきっかけに歌謡曲の作詞を始める(西條八十著「唄の自叙伝」より)。 

  「♪父も夢みた母も見た 旅路のはてのその涯の 青い山脈みどり旅へ~」(「青い山脈」昭和24年)。明治生まれの人によって引き起こされたアジア太平洋戦争で大正生まれの父や母が戦場や空襲で亡くなった。昭和生まれの若者は大正生まれの父や母が夢見た民主主義(大正デモクラシー)の世界を目指して進む。――と西條八十作詞の「青い山脈」の歌声は呼び掛ける。 

  西條八十は終戦の昭和20年の8月に早稲田大学教授を辞職する。「サーカスの唄」(昭和8年)、「旅の夜風」(昭和14年)、「誰か故郷を想わざる」(昭和15年)と歌謡曲でヒットを飛ばす。そうした西條八十に対する教授たちの、歌謡曲に対する侮蔑などの軋轢があったのではないかと推測する。 

201106051602461 ~娘十八口紅させど 私しゃ淋しい船頭娘 つばめ来るのに便りなくて 見るはあやめの ヨウ花ばかり 

 ~鐘が鳴ります潮来の空で 月に墨絵の十二の橋を こいで戻れど別れた人と 水の流れは ヨウ返りゃせぬ 

 『娘船頭さん』(昭和30年、歌:美空ひばり、作詞:西條八十、作曲:古賀政男) 

 水郷潮来の情景を娘船頭を通して歌っている「娘船頭さん」。美空ひばりの歌を始めて作曲した古賀政男のメロディに乗せてゆっくりと船が進んで行く光景が浮かぶ。西條八十が美空ひばりの歌を作詞したのは、昭和25年「越後獅子の唄」、26年「角兵獅子の唄」、30年「娘船頭さん」、40年「芸道一代」の4曲と意外と少ない。 

  筒井清忠著「西條八十」の中で、「西條八十の家の前には、戦前、正月になると越後獅子が来ていた。その子どもたちが芸をしながらいつも怖い目つきの親方を怖れていたことを思いだして『越後獅子の唄』を作詞した」ことが書かれてある。「13歳の天才少女への世間の眼は冷たく、新聞では『ゲテモノ』と叩かれていた美空ひばり。この曲は社会的に冷たい目で見られて、大人の歌手の歌手の間で肩身の狭い思いしていたひばり自身のことなのだ」と「越後獅子の唄」が出来上がった逸話が紹介されている。 

066_2 「娘船頭さん」では、18歳の美空ひばりを「私しゃ淋しい船頭娘」と西條八十は越後獅子同様にひばり自身をイメージして描いている。 

  映画「娘船頭さん」(監督萩原徳三)でも前年の映画『伊豆の踊り子』(監督野村芳太郎)の旅芸人役を意識して、旅芸人と船頭が相通じる世界を描いている。街道暮しの旅芸人と潮来水郷の渡し船の娘船頭。艪を漕ぎながら歌うひばりの「娘船頭さん」は哀切あふれる情感のこもった歌声で水郷潮来を描いている映画になっている。 

  ちなみに「芸道一代」では「♪小粒ながらもひばりの鳥は 泣いて元気で青空のぼる 麦の畑の小さな巣には わたしみている母がある 母がある~」と身長153㎝の小粒な美空ひばりと母の姿、芸に生きる母娘を描いている。西條八十は、ひばりそのものを対象として作詞することに視点を置いていたと思えてくる。 

  北原白秋・野口雨情と共に西條八十は大正期の三大詩人と呼ばれていた。水郷潮来を情景にした「娘船頭さん」を作詞する際に、西條八十は野口雨情の「船頭小唄」を意識したのであろうか?私は強い意識はなく、美空ひばりという一代稀有な天才歌手に潜む情感を潮来水郷、渡し船を漕ぐ美空ひばりをイメージして作詞をしたと思えてくる。 

  映画「娘船頭さん」の中で映し出される潮来の情景、ロケーションは貴重な水郷の歴史的資料なっている。映画の中で、わかさぎ漁、帆引き船で歌う美空ひばりの歌声のシーンは圧巻である。「♪アーア潮来出島のまこもの中で あやめ咲くとはしほらしや~」と低音から高音への伸びる「潮来節」のひばりの歌声は、ただ唸るばかりだ…。 

Yjimageu5chj9h2 ~嬉しがらせて 泣かせて消えた にくいあの夜の旅の風 思い出すさえ ざんざら真菰 鳴るなうつろな この胸に 

 ~利根で生まれて 十三七つ 月よわたしも同じ年 かわいそうなは みなしごどうし 今日もお前と つなぐ舟 

『おんな船頭唄』(昭和30年、歌:三橋美智也、作詞:藤間哲郎、作曲:山口敏郎) 

  潮来節の詞と密接に繋がっている歌だと思えてくる。民謡で鍛えたハリのある高音が哀愁を呼び起こす「おんな船頭唄」。少年の頃から民謡界の天才と言われた三橋美智也は昭和30年、この曲の大ヒットで歌謡界を代表する歌手になる。 

01_3 私はずーと以前から、「にくいあの夜の旅の風」という意味が理解できなかった。しかし、川名登著の「河岸」に「船女房」という記述で分かってきた。 

 それは、「遠方から来た船が河岸に着くと、小舟にのって漕ぎ寄せ、船に上がって船の中の掃除や洗濯、綻びの繕いなどまでして、一夜を共に過ごす。翌朝は朝食を作り、船中をきれいに掃除してから船を下り、名残りを惜しんで別れていく。これは単なる売春ではなく、半分は男にはできない家事を頼んでいる」という河岸には『船女房』という稼業があったことを知った。「おんな船頭唄」の世界はここに出てくる一夜限りの船女房の世界だなと思えてきたのだ。 ざんざら(ざわざわした)真菰が茂る船の中で、ひっそりと抱かれる女船頭の姿があやめの花に被さっていく情景が浮かんでくる。

  江戸初期の潮来は奥州諸藩の物産を江戸に向かう千石船が銚子河口から利根川に入り、潮来で高瀬船に積替える中継港(河岸)として賑わい大いに繁栄していた。しかし、元文年間(1736~1740)の大洪水で利根川の本流が佐原に移ると中継港としての機能を失った(潮来市ホームページ)。 

140041  昭和15年頃発行の水郷汽船会社の利根川流域・霞が浦周辺を中心にした汽船航路周辺の観光名所となっている鳥瞰図をみる。 

 地図の真中の下に佐原と香取神宮がある。一番上の真中には鹿島神宮と記されている。右端の少し上のところに息栖(いきす)神社と記されてある。潮来は地図の真中の十二橋と記されたデルタ地帯に位置する。潮来の町を通る前川が鹿島神宮に続いている。潮来は香取神宮・鹿島神宮・息栖神社に「木下茶船(きおろしちゃぶね)」などでお参りする際の遊び場、遊廓としてにぎわいをみせたといわれている。三社の真中に位置する潮来が中継港としての繁栄を失った江戸時代の後期、遊廓、遊興の地になっていったのも頷ける。そうしたことから、「潮来節」にはかつての繁栄した河岸としての辛苦が含まれていると思えてきた。 

021  初めて潮来市を訪れ、「潮来あやめまつり・嫁入り舟」などの華やか行事を見ながら、「船頭小唄」のような「暗さ」「寂しさ」とのギャップはどこからきているのか?という疑問から、書き綴ってみた。 

  かつての繁栄から衰退をみせた河岸は遊興の地として名を馳せた。「潮来節」の曲や歌詞の底辺に流れている水郷に生きる船頭や遊女の辛苦の表れが「船頭小唄」「娘船頭さん」「おんな船頭唄」に含まれている。そして「潮来花嫁さん」「潮来笠」の「華やかさ」と表裏を成している。これらの歌謡曲の原型は「潮来節」にあることが少し分かってきたような気がしてきた。 

  水郷としての昔日の面影が残っていなくても、「潮来出島の真菰の中にあやめ咲く~」という潮来節の詞は残り、潮来を歌う歌に生き続けていくと思える。 

  潮来節を元にした「潮来節―歌謡歌まつり」などを開き、潮来節と現代の歌とを探求する場を設ける。…と、勝手に無責任な夢想を始めた。今度、潮来に行った時には、前川の手漕ぎ舟に乗ってみよう。 

                                  《夢野銀次》 

≪参考引用資料≫ 

潮来市ホームページ観光課/長田暁二著「日本の愛唱歌」(2006年6月、ヤマハミュージックメデア発行)/筒井清忠著「西條八十」(2005年3月、中央公論社)/中野英男・大嶽浩良著「若き日の野口雨情」(2016年3月、下野新聞社)/大下英治著「美空ひばり」(平成元年7月、新潮社)/西條八十著「唄の自叙伝」(1997年6月、日本図書センター)/川名登著「河岸」(2007年8月、法政大学出版部)/DVD「娘船頭さん」(昭和30年4月公開映画、萩原徳三監督、美空ひばり主演)

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孤高の日本画家・田中一村が眠る栃木市「満福寺」

416b1y0dyql_sx258_bo1204203200_1_2  平成26年(2014)11月に亡くなった俳優の高倉健は、「あなたに褒められたくて」「旅の途中」などの著書を書き残している。さらに子どもむけに、健さん自身も朗読している絵本とCD「南極のペンギン」を発行している。その絵本の中に、奄美の孤高の日本画家・田中一村とハンセン病療養所「和光園」の少女との心温まる交流を描いた「奄美の画家と少女」が収められている。

  親元から引き離され、療養所で暮らす少女。その少女が肌身離さずに持っていた母の写真が田中一村の手で鮮やかな絵になってよみがえり、喜ぶ少女の様子がつづられている。

Toppage_r04_c61  高倉健は、「田中一村というのがこの画家の名前だ。奄美でひたすら自分のかきたい絵をかきつづけた。絵をかくために、生まれてきたと信じた。生きているあいだ、彼の絵は世の中に認めれなかった。それでも、絶望しなかった。貧しさにも負けなかった。そのはげしい生き方は、『アダンの画帖』にくわしく書かれている。一村が亡くなったあと、ぼくはその絵をはじめて見た。南の島のたくましい命があふれている。自分の命があふれている。自分の命をけずって、絵の具にとかしたような絵だ」と記して結んでいる。

  このお話を、私は4月24日に栃木文化会館で開かれた「栃木市文化まちづくり協議会」主催の「栃木の魅力ある文化とまちづくり」の講演会で、講師、寺元晴一郎氏より初めて聴いた。箱根小涌谷の岡田美術館の副館長である寺元氏は美術商・美術研究家として活躍をしている人である。 

Ts140725_01_11  講演の後、さっそく「南極のペンギン」を購入して、読みながら関連をブログで検索してみる。実際に高倉健は奄美の「和光園」を訪れた形跡はない。しかし、田中一村の没後に本や画集が出版され、そこで一村と入所者の話を知り、「優しい心の出会い」をメッセージとして語りたかったのだと思えてきた。健さんの温かい心が伝わってくる絵本になっている。

  昭和33年(1958)12月に千葉の家を売り払い、「生涯最後の絵をここで描く」として奄美に移住してきた50歳の田中一村。画業10年計画を立て、54歳から奄美の紬工房で働き、5年後に紬工房を辞め、以後は貧窮、菜食生活を送りながら絵画制作に専念する。亡くなる昭和52年(1977)9月11日までの19年間に『アダンの木』『クワズイモとソテツ』『ビロウとアカンショウビ』等20数点の絵を描き残している。

51wz6b5rnzl1  一村の死後、奄美の人々の手によって昭和54年(1979)11月に遺作展が開かれた。その遺作展に携わった記者、中野惇夫氏によって田中一村のことが南日本新聞地方面のトップ記事として記載される。このことが契機となり、5年を経た昭和59年(1984)の12月にNHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜―異端の画家田中一村」が全国に放送された。

  紹介された絵の数々、中央の画壇に背を向けて奄美での画業生活。この放送は再放送をもたらすなど異常な反響を呼び起こした。亜熱帯の島の自然を相手に描き続けた一村の絵は、「日本画の異端」「昭和の若冲」「孤高の画家」「日本のゴーギャン」と称され、田中一村ブームを引き起こした。テレビ東京放映の「何でも鑑定団」の中で、鑑定士田中大氏は「奄美時代の一村作品であれば一点一千万円をくだることはない」との評価が下されるようになった。

20100907_17649601_3   閻魔大王への土産品だと知人あての手紙に書いた『クワズイモとソテツ』の画。写真でしか見ることができないが、全体に覆いかぶさるように迫ってくる熱帯植物群。その中央に遥かに見える三角形の岩―立神が描かれてある。神々が海上からやってくるとき、神はまず岬の小岩島に上陸するという。これが立神といわれるている岩。―そこには一人で生きる、言い知れぬ己の願望を見るような気がする。実際の絵を見たら、圧倒されるだろうなと思われてくる気がしてくる。

036  田中一村は亡くなった姉、喜美子の遺骨を墓地に埋葬するために昭和52年(1977)の5月に生まれ故郷の栃木市に訪れている。奄美のホテルで初めて個展を開くことになり、千葉にある自分の作品を収集するため奄美からやってきたのだった。

  田中家の墓地のある栃木市旭町「満福寺」を訪れた時の情景を中野惇夫は著書「アダンの画帖―田中一村伝」の中で、こう記述している。

  「このとき一村は、姉喜美子の遺骨を抱いて帰っていた。型の古くなった黒い革靴をはき、作業ズボンに半袖シャツの姿でやや腰を曲げたかっこうで歩いてきた。首にふろしき包みを巻き、ようやくたどりついたという様子で寺のくりやに入ってきた」

031  「満福寺の先代住職の妻長沢泰子さんが、このとき一村と対応した。一村はまず、『田中家の墓はどうなっておるのでしょうか』とたずねた。『まだそのままにしてございます』と答えたところ、一村はほっとした様子で、『私が死ねば、田中家の墓も無縁墓になります』といい、身の上話をぽつりぽつりと語りはじめた。ちょうど昼時だったので、長沢さんがソバを作って差し出すと、一村は、うまそうにはしを動かし、『ああ、おいしかった』といって礼を述べた」

  「一村は田中家の墓がまだ残っており、姉喜美子と自分が入る場所があったことを知って安心し、またとぼとぼと千葉へ帰って行った。千葉の川村幾三氏宅にたどり着いた一村は、倒れるように寝ついてしまった」

044   さらに同書には、「栃木へ訪れた同年の昭和52年9月11日の夜、引っ越して間もない奄美有屋の借家で田中一村は心不全で息を引き取る。69年の生涯であった。遺骨は千葉からきた妹の新山房子さんと、長男宏さんによって、父母や姉の眠る栃木市満福寺の田中家の墓地に埋葬された」と記述されている。

  私は田中一村の遺骨は奄美にあり、満福寺には「供養塔」だけがあるものと思い込んでいた。実際に満福寺の田中家の墓地に遺骨が埋葬されていることを知り、驚き、栃木市に住んでいながら己の無知に恥ずかしさを覚えた。

  「お墓は妹さんの息子さんが守っております。貝殻を持って奄美の方々もいらっしゃいましたよ」と、満福寺の住坊で私に応対してくれた奥さんから聞くことができた。墓石の前には貝殻が置かれてある。奄美の貝殻なのだ。

  二度目の訪問の時に住職の長沢弘隆さんにお会いすることができた。「お墓は2基。いずれも父親の彌吉さんがお建てになっております。左側の少し大きい墓石が彌吉さんのお父さん、一村さんの祖父のお墓です。右側が彌吉さんの祖父のお墓になっております。関西から田中一村さんのお墓を訪ねてくる方が多かったので、分かるようにと案内立札を建てさせていただきました」と丁寧な説明を受けることができた。

002_2   長沢住職は大師堂の裏の境内に「田中一村供養碑」を建てている。その碑文には、「田中一村。日本画家。明治41年、栃木県下都賀郡栃木町(現栃木市)、田中家に生まれる。幼少より画才を発揮し、東京美術学校(現東京芸大)に学ぶ。才能に恵まれるも、中央画壇に背を向け、貧窮のなかで絵の良心だけを信じ、ひたすら絵かき人生を歩む。没後、終焉の地奄美大島の人々とNHKテレビ日曜美術館番組関係者方等の手により、その作品と画業が紹介されるや閉塞状況の物質文明社会に感動とブームを巻起す。時あたかも市政60年記念として個展が開催されるに当り、茲に碑一基を建立し、その偉業を顕彰し、供養に併せてその名を永く後世にとどめんとす。本名、田中孝 享年69歳 平成8年11月 満福寺第三十世 弘隆 識」と記されている。 

  「田中家は檀家でありますので供養塔を建てさせていただきました」と、檀家と答えた長沢住職の一村に対する思いを受けとめることができた。

046  一村が4歳の時の大正2年(1912)、田中一家は栃木から東京の麹町に移転する。一村の母親の実家が四谷界隈にあり、絵を学ばさせるため栃木の生家を引き払い、上京したのだ。

 「4歳まで過ごした栃木町の時代、一村の生家はどのあたりあったのですか?」という私の質問に、長沢住職は、「以前、番地まで調べたんですけど、昔の字平柳、今の泉町ですね。おおよその場所は、万町交番を右折して、壬生街道を300m位行ったところにある『市川』という呉服店あたりだった思いますよ。番地の載った史料がどこかにいってしまっているのですよ」とすまなそうに答えてれた。

013_2  住職が教えてくれた壬生街道沿いの泉町界隈は私の生家があった万町4丁目から道路を隔てた所だと知り、びっくりした。

  さっそく自転車で泉町界隈に行く。子どものころ通った床屋や歯医者。栃木に帰る度に食べた「やまと屋の中華ソバ」。紙芝居を見たこと。狭い路地裏を通って平柳町にある親父と兄が営んでいた製材所に行ったことなど思い浮かんできた。家々は新しい建物になっているが、狭い路地は昔と変わらない。

  長沢住職は、「一村さんの住所を調べていたら、近くにある雲龍寺の御堂の向拝にある彫刻、どうも父親の彌吉さんが彫ったものらしいのです。その史料があればもっとはっきりと言えるのですが…。一度、雲龍寺の御堂の向拝にある彫刻物、見てご覧なさい。見事な彫物ですよ。近くに住んでいた彫刻師としての彌吉さんに頼んだのかもしれませんね」と教えてくれた。

  一村の父、田中彌吉は稲村と号し、仏像彫刻家だったことから、雲龍寺向拝の彫り物を頼まれて作ることもあり得る話だと考えられる。

054  中野惇夫著「アダンの画帖—田中一村伝」に父彌吉と栃木の生家の雰囲気が書かれてある。「父彌吉は、稲村の号を持つ天才肌の仏像彫刻家だった。おっとりした性格で、栃木の家にいるころは、広い屋敷の周囲を全部切り払い、草を生やして、コオロギやカジカの鳴く声に独り縁側で耳を傾け、楽しむという風流人だったと言う」と記されている。

  しかし、泉町界隈において著書に書かれてある「広い屋敷の周囲を全部切り払い」という家は想像できない。

  明治初期の栃木の町は舟運、荷馬車による物流の発展や麻問屋商家の隆盛により、近在の農家の次男三男が多数移住してきて、町の拡大が進み住宅が建ち始めた時期でもある。その一角の地域に住宅街として泉町があった。祖父も彫刻家だっと言われている田中家。田中家は仏像彫刻に携わる職人の家系ではなかったのだろうか?

020   昔から「お不動さん」と親しまれてきた成田山雲龍寺は栃木市泉町18-8にある。境内には明治23年に建てられた御堂がある(栃木郷土史より)。栃木特有の強い西風にも負けない大きな屋根瓦が回りを圧倒する御堂の建築物である。

 その御堂の向拝にある龍の彫物。鋭い眼をした表情と引き締まった龍。長沢住職が言う、迫力ある龍の彫刻だ。

 誰が彫った龍の彫物なのか?

014_5  一村の生家から御堂までは裏通り沿いのすぐそばの距離である。仏像彫刻師田中彌吉の作ではないかという住職の話、十分あり得る。しかし、考えてみると年齢が合わないのだ。彌吉は昭和10年(1935)に52歳で亡くなっている。逆算すると生れは明治16年(1883)。御堂建立が明治23年。その時の年齢は7歳ということになる。

   満福寺にある彌吉が建てた父親のお墓。その墓石には明治35年没「田中喜作」と刻字されている。明治20年~30年代にかけて一村の祖父、喜作は彫刻師として油の乗った年齢になることになる。そのことから御堂の向拝の龍の彫物は、むしろ祖父の田中喜作が彫ったのではないかと、私の推測になってしまった。

045   翌日、満福寺を訪問して、長沢住職に雲龍寺の御堂の龍の彫物の作者は一村の祖父だったのではないかと話をしてみた。「御堂を建てた後、数年して彫物を備えることがありますが…。とにかく史料がないのが残念です」との応えであった。

  雲龍寺御堂向拝の龍の彫物が田中一村の祖父、喜作が作っているとしたら、一村の家系の流れが分かってくるような気がする。

  江戸末期、日光山寺の豪華な彫刻の流れをくむ鹿沼の彫刻屋台を作り上げてきたといわれる富田宿(現栃木市大平町)の磯部氏とその系統。下野南部の社寺の木彫刻などを手がけている(栃木県郷土史散歩より)。

  ひょっとして、田中一村の家系が、その磯部氏系統の仏像彫刻師の職人であったとしたら…?と、根拠のない妄想が湧いてきた。いずれにしても、雲龍寺御堂の見事な彫物、泉町関係者から話を訊きながら、作者は誰なのか、調べていこうと思う。

004   田中一村の墓所の傍に明治17年(1884)9月の加波山事件で死刑になった元相馬中村藩士の子息、杉浦吉福(きっぷく)のお墓と供養塔が建立されている。

  そのいきさつを長沢住職は、「隣にある裁判所には当時、処刑場もあったのです。明治19年に杉浦吉福の死刑が、その裁判所内で執行されたのです。福島県の実家ではご遺体の受け取りを拒否したのです。よくあるお話しです。そのため代言人(弁護士)だった榊原経武(つねたけ)さん、後の栃木市の初代の市長になった方ですが、その榊原さんから、裁判所と隣接している当寺で葬ってほしいと頼まれ、埋葬しました。供養塔は下毛有志で建てられていますが、建立者の名前は記されておりません。名を伏せたのですね。民権運動に理解ある栃木町の商家の方々もこの供養塔を建てる際に裏で資金援助をしたと伝わっております」と語ってくれた。民権運動激化事件として位置づけされているが、加波山事件に関わった栃木の民権運動家は多い。栃木の自由民権運動の歴史が満福寺境内にも横たわっていることを感じた。

034   田中一村が眠る真言宗智山派の満福寺は鎌倉時代に創建された。天正年間には皆川広照の栃木城の築城と栃木町つくりのために太平山麓から現在地(栃木市旭町22-27)へ移転してきた。

  江戸期には杢冷川にかかる東木戸の守りを務め、隆盛した寺院。しかし、幕末の栃木町四大火事の一つである文久2年(1862)の「本陣火事」で強い西風に煽られ、大伽藍等の御堂をことごとく失うなど辛苦の時代を経てきた。しかし、全山焼失の本陣火事から110年後の昭和47年(1972)に現住職、長沢弘隆氏が晋住し、復興の機運を得て本堂を再建し、昭和60年(1985)には客殿・住坊を建設。さらに、平成23年(2011)、開創750年を期に新本堂「大毘廬遮那殿」を建立。旧本堂は大師堂となり、同時に境内も大規模整備された(ウエブ「ウィキペデイア、栃木市満福寺」より)。

 昭和27年栃木市発行の「栃木郷土史」の中で、「明治12年に建築された栃木裁判所の正門は、その昔満福寺の表門であった」と記述されている。以前から江戸期に栃木町の東木戸を守る満福寺の表門が奥にあるのが変だなと思っていた。表門が街道に面していたことで、木戸番としての役割をしていた寺院であったことが分かった。

  大師堂から新本堂を見渡す。古い歴史を内包しながら、満福寺は大きく変わろうとしていることを実感する。田中一村への関わり方を寺院として見ると、住職のゆったりと姿勢、お話しから人への温かさを感じた。歴史的にも、地理的にも興味のある寺院として注視していくつもりだ。

043_2   4月24日の栃木文化会館における寺元晴一郎氏の講演、「栃木の魅力ある文化とまちづくり」の中で、「歌麿と一村」の二人を中心にしたまちづくりの大胆な提起があった。

  それは、「栃木市では歌麿三部作等を高度な複製画で制作し、常設展示をしている。田中一村の作品も同じように高度な複製画を作成して展示をしていったらどうか。栃木市は東京から近いことから、栃木市のアピールにもなる。歌麿と同様に田中一村と栃木を結ぶものを是非検証していって欲しい。ただし、実行する時期とハンドルのまわし方には十分に検討を要しますよ」との暗示ある寺元氏の提案があった。

  十分に検討を要する話の内容であった。

013_6401  田中一村の絵の中で、私は昭和23年の千葉時代に描いた「秋晴れ」が一番魅かれる。黄金色した空を背景に大木の幹の枝に干された大根。大根の白さがあざやかに浮かび上がってくる。大木の下では争っている軍鶏が見える。のどかな農村風景だが、どこか不気味な険しさが感じられる絵だ。家庭菜園をしているからかもしれないが、大根は野菜の王様だなあ…と。この絵を見て改めて思えてきた。

   展覧会以外に田中一村の絵を見たいと思っても、「奄美」だ…。やはり遠い、気軽に行ける所ではない。

  寺元氏が提起した、一村が生まれた栃木のまちの中で歌麿同様に一村の複製画を常設で展示を行う。東京から近い場所。一村が眠る「満福寺」、一村が生まれた「泉町界隈」、一村の父か祖父が作ったかもしれない「雲龍寺御堂向拝の龍の彫物」。その光景を思い浮かべながら、奄美以外に一村と接する東京から近い町、栃木かなあ…、と思ってきた。

  「田中一村と栃木を結ぶもの」。――考えながら調べていこう。

                                                     《夢野銀次》

≪参考・引用資料本等≫

高倉健著「南極のペンギン」(2001年2月、集英社発行)/中野惇夫著「アダンの画帖―田中一村伝」(1995年4月、小学館発行)/大矢鞆音著「田中一村―豊饒の奄美」(2004年4月、日本放送出版協会発行)/「田中一村の世界」(NHK出版編集発行)/「栃木県郷土史散歩」(1980年1月、朝日新聞社宇都宮支局編集、落合書房発行)/「栃木郷土史」(昭和27年9月、栃木市役所発行)/ウエブ「ウィキペディア・栃木市満福寺」

 

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巴波川の上流―沼地と古戦場・川原田を歩く

1  「湧き水がある、凄いなあ」思わずうれしがこみあがる。ボコボコと水があふれてくる。この湧き水のある湧泉池は栃木市総合運動公園の北東の先端にある。

  湧泉池から流れる水流は親水池に流れ、公園内を縦貫している荒川に合流している。西方町小倉堰から用水として流れてきた荒川は、この運動公園内を流れ、巴波川に合流している。

   栃木市川原田町にある栃木市総合運動公園は昭和54年に開設されている。最初に出来上がった総合体育館は、昭和55年の栃の葉国体のハンドボール、フェンシング会場になっている。都市公園として供用しながら整備を行ない、平成8年3月に全面開設になっている。

09203002_161  総面積369,000㎡の敷地内には総合体育館、陸上競技場、サブ競技場、硬式野球場、軟式野球場4面、多目的広場、ソフトボール場、テニスコート16面、弓道場、屋内・屋外プール等がある。スポーツを楽しみ、広い公園内を散策する多くの市民が集う場所だ。

  硬式野球場に私は春・夏・秋の高校野球を自転車に乗り、栃商応援によく観戦に来る。駐車場はあるが、土日は満杯になることが多いからだ。また、バス旅行の際には運動公園内の駐車場を待ち合わせとして利用している市民も多い。

Photo_2   「栃木町の歴史はうずま川の歴史であるといっても過言ではない。うずま川の故に繁栄し、うずま川の故に衰微した」と明言が記されている日向野徳久著の「改訂、北関東における一封建都市の研究」は昭和35年(1960)に改訂版として発行され、今なお読み継がれている名著である。

  同書には「むかし栃木は小倉川のはんらん原であったことがあり、室町時代頃までは、うずま川・杢冷川等の蛇行する原野であった」と栃木まち周辺一帯を「はんらん原」であったと記述している。うずま川へのロマンを秘めた文言には氏特有の哀愁を感じさせる。栃商時代に、日向野先生に近づいてもっと教えを乞うしておけばよかったと悔の念が湧いてくる。

015  さらに同書には、「栃木市は北関東の中央部を占め、その西北方に連なる足尾山塊は、西北部に高くそれより東南部に傾斜し、その傾斜にしたがって幾多の河川が流出している。(略)これらの河川はいずれも多量の土砂を運搬、沖積し、扇状地をそれぞれ形成している。栃木市北部より西北部にかけて、皆川村の大皆川・泉川・新井・吹上野中村の南部をつらねる弧状の線を中心として、東は赤津川、西は永野川はんらん原に連続する線に湧泉が存在する。土砂の堆積している扇状地は、水が地中に浸みこみやすく、これが末端にいたって泉となって湧き出るものであり、これらはいずれも下流の水田耕作地帯に無限の灌漑用水を提供している」と湧泉の多い栃木町周辺の地歴的特徴点を言い当ている記述になっている。

Photo_4    昨年(平成27年)の9月10日の大豪雨の際には、栃木市街地は床上浸水を含めた冠水状態となり、大きな被害をもたらした。溢れ出た地下水も冠水の一因になっていると言われている。

  読売新聞の4月3日朝刊の「とちぎ見聞録」のコラム欄で「とちぎ」の地名の由来を考古学者、塙静夫説の紹介記事が記載されていた。

   「栃木という漢字から木をイメージするが、大切なのは『とちぎ』という音に戻ること。『場所』を意味する接頭語『と』と、動詞『ちぎる』に由来する『ちぎ』の組み合わせで、川の氾濫による浸食・崩壊をたびたび受けた地域という意味があります」として、「水害に遭いやすい場所」から栃木の地名が生まれたのではないかと記述されていた。いろいろある栃木の地名の由来の中で、この説が一番説得があると前から思っていた。

2  総合運動公園のある栃木市川原田町は巴波川の上流に位置する。かつて「しめじが原」と云われ、沼地・湿地帯となし、「はんらん原」の一角を占めていた地域でもある。栃木市街地を流れる巴波川の上流・源流を探りながら古戦場を思い浮かべ、想像なのか夢想なのかを楽しみながら総合運動公園から歩き始める。

  歩く道順は、総合運動公園内にある親水池(湧水池)、御手洗池と荒川合流地を見て、北側にある三日月神社・川原田公民館にでる。そこから、一兵淵…川原田城址…鹿島神社…天神淵…川原田上水場…笹淵…大淵沼…粟野街道…白地沼…粟野街道…栃木市総合運動公園とした。吉根沼の所在は確認できないため、後日調べ直してくることにした。

  平成15年(2003)6月に栃木自由大学現地研修ツアー「巴波川の水源を訪ねて」と題して実施した研修報告がウエブネットに記載されていた。実施を行なった「ネットワークとちぎ」の関係者から当時の地図や資料を戴くことができた。これを参照しながら歩いていく。

  戴いた資料の中に「大正2年下都賀郡吹上村略図」があった。かつての総合運動公園の敷地には「鹿島神社」が鎮座しており、永野川への分流前の赤津川の蛇行する川筋が記載されいる。貴重な資料として大切にしていく。

Photo_6  総合運動公園内には小倉堰から流れてくる「荒川」と「御手洗沼」、「親水池」がある。ウエブに記載されている栃木自由大学現地研修ツアーでは、現地案内を栃木市議会議員の故森戸常吉氏が「今昔話」をしながら歩いた報告になっている。この「今昔話」を引用しながら歩くことにする。

  荒川に合流している御手洗沼について森戸氏は、「ゆうに長さ約100mはある広さで、水深は、夏場は深いところで3mくらいの沼だった。水浴びしていても10分も入っていられない冷たさ。沼底にはマコモという葉の長い水草が群生しており、子供たちが素潜りすると足にからんだ。地元のがき大将は、それを刈り取って遊び場も作った」と記されいる。また、公園東の出口付近にあったと云われている吉根沼については、「語源が植物の『よし』であるように葦が密生していた。水深は、御手洗沼と同じくらい深かった」と語っている。

 湧き水特有の水の冷たさが伝ってくる。今は整備されているが、当時の沼の水深が3mというから、かなりの深さであったこと。それだけ水量が豊富であったということが分かってくる。

Photo_8  総合運動公園の北側に豆腐をお供えする「三日月神社」がある。そのすぐ東にある川原田公民館の脇道から北上すると、細長い「一兵淵」という地帯に出る。

  森戸氏今昔話では、「一兵淵では、割り上げという手方で、水圧を上げ、田に水を引いた。一部は、水を送るための足踏み水車もあった。ニワトリのえさになる『たしゅろもく』という水草が密生していた。昭和30年ごろは、渇水期の冬場には、リアカー2台分くらいのザリガニが捕れた」と語っている。

  「足踏み水車」は分かるが、「割り上げ手方」につてはどういうものなか分からない。課題として、調べていくことにする。

Photo_9  「一兵淵」の先を歩くと左側に「館跡地」がある。土塁のような盛り地。そのそばには空堀が通っているように見える。現在の敷地内では畑と「タテ製作所」としての工場が操業している。

  森戸氏今昔話では、「(上流の)天神淵から南に3本の堀が延びていた。昔の館跡と思われる館があり、今でも『館』という屋号のある家の西側を南下する『館堀』、一兵淵から吉根沼へ続く『中堀』、そして淵から南東方面に伸びる『長瀞』。長瀞は実にゆっくりした流れだった」と地理的特徴を伝えている。

054  現在の盛り地のそばの空堀を「中堀」と言い、その「中堀」は、今歩いて来た「一兵淵」から総合運動公園内にあった「吉根沼」まで続いていたということになる。右手東側を流れている川がかつての『長瀞』であった。ということは中堀と長瀞で「二重堀」を構成する中世の「館・城郭」であったのではないかと思われてくる。

  平成27年(2015)3月栃木市発行の「栃木市遺跡分布地図」の中には、この地を「川原田城址」として黒枠で囲っている。詳細は不明としながら「台地、現状水田、畑地、中世以降時期不明、170m×200m」と記されている。大正2年吹上村地図には「館」と記されている。中世以降の戦国期、城郭または館として存在していたということになる。

  それにしても34,000平方m(約1万300坪)は広い敷地を有した館跡としての「川原田城址」になる。観光地図にも出てこない館跡・城址があることに驚かされる。第1次皆川宗員の子孫に「河原田氏」が出てくるが、その河原田氏の「館跡」だったのだろうか?

Photo_5 「其男宗成始めて皆川宮内将輔と号す。大永3年(1523)11月3日、宇都宮忠綱と、都賀郡川原田に於いて合戦して討ち死す」と始めて長沼から皆川と名乗る皆川宗成のことが記述され、川原田合戦で討ち死にしたことも記されている河野守弘著「下野国誌」。川原田合戦の数少ない史料になっている。

  鹿沼南摩地方から南進してきた宇都宮忠綱1800名の軍勢は白地沼北に本陣を構える。迎える皆川宗成・宗勝父子1000名の軍勢は「川原田城」と「平川城」を拠点にして迎える。双方の激しい戦いは平川城を守る宗成の弟、宗明が討ち死にする。さらに皆川城主の宗成も討ち死にをする等、形勢は皆川勢が押され、不利な戦いになっていた。しかし、小山・結城勢による宇都宮本陣後方からの援護攻撃により、宇都宮勢は撤退においこまれていったという川原田合戦(大森隆司著「下野の動乱」より参考に記述)。
  東武日光線「合戦場駅」の北東に川原田合戦における戦死者を葬ったという「升塚」が史跡としてある。

Photo_6  栃木市遺跡分布地図に記されている「川原田城址」。川原田合戦の際に皆川城主の皆川宗成が川原田城を陣構いとして出撃していったのか?確かな史料はない。しかし、宇都宮勢の本陣が白地沼の後方、現在の県南自動車学校付近と考えるならば、この川原田城と一直線に相対する布陣になってくる。

  白地沼から粟野街道を挟んで「川原田上水場」「笹淵」にかけての一帯は、双方で250人を死者をだす大激戦の古戦場であったことに今更ながら驚く。

 「天神淵の深いところは、南側は大人の膝くらい、小さい子どもでも水浴びができた。北側の淵は、水深4~5m。危険な個所があって、10歳くらいの子がおぼれて亡くなった」と語る森戸氏の今昔話。

076_6 この今昔話の中に昭和35年頃から淵の水が干しあがってきたことが語られてくる。

 「天神淵から笹淵へ行く途中、川原田上水場は土地が低く、麦も発芽しない土壌で、昭和50年に市民の水道確保のために作られたものだが、地下深く50mから水を吸い上げている。その頃、巴波川水源の淵の水が完全に干しあがったこともあり、因果関係が取りざたされたが、上水場ができる前、昭和35年頃には淵の水はすでに夏場の大雨の時期を除いては干しあがっていた。淵の水が干しあがった原因は、周辺住民の増加に伴う生活用水の需要が増えたことと、アスファルトの舗装道路整備などにより、土地の保水力が落ちたことによるものと考えている」と語ったことが記されている。本当にこれだけの理由だけなのか?疑問が残る。

Photo_21 ここまで歩いてきた水辺の景色の中で一番ゆったりとした気分にさせてくれたのが「笹淵」。川の流れが緩く穏やかになっている。美空ひばりの歌う「川の流れのように」が浮かんでくる。

 今昔話では「笹淵の鯉は、よく育ち、ダルマ鯉とも呼ばれるほど鯛みたいに太い姿であった」と語られている。

  「天神淵」から「笹淵」にかけて湧き水は見当たらない。また、川の水が深く淀むと言う「淵」とは言えない川の姿になっている。しかし、この川を流れる水は何処からきているのか?という疑問が湧いてきた。

 今昔話は続く。「大淵沼は、その名のとおり広い沼のような淵で、養魚を試みた人もいた。他の淵と同じように、昭和35年頃、淵の水は干しあがり、空堀りのような今の姿になってしまった」と語り終えている。

Photo_22 広大な「大淵沼(だいぶちぬま)」には水はない。水害を防ぐ遊休地として枯草が沼地を覆うっている状態だ。荒涼と索漠した池の跡地の畔に地蔵尊が建っている。

 大淵沼の脇を流れる川は下流の「笹淵」「天神淵」を流れ、総合運動公園に注いでいる。「この川の水は何処からきているのかな?」と、また浮かんできた。大淵沼を歩きながら探しに行こうかとふと思った。上流を辿って行けばよいが、今回はここから「白地沼」を回って行くことにした。

Photo_23  「川原田合戦」で日向野徳久氏は都賀町町史の中で「討ち死にした皆川宗成の子、成勝の川原田合戦後の家臣団、周辺地区の在地土豪への対策が功を奏して、宗成時代より支配圏が拡大することになった」と意義付けをしている。

  江田郁夫氏は著書「下野長沼氏」で宗成の祖父である長沼秀宗が子の氏秀とともに奥州南山(南会津)より皆川荘に入部してきたのが15世紀後半中頃(1480年頃か)と指摘をしている。

  皆川荘にいた第一次皆川氏は150年前にすでに断絶をしている。皆川秀宗父子の入部には古河公方、足利政氏が関わっているとしている。それから約40年後に「川原田合戦」がおこっている。

 鎌倉御家人名家、長沼氏の流れを継ぐ皆川氏は、南進策を進めてきた宇都宮氏にとって制圧する地帯の武将としていきなり出現したことになる。「川原田合戦」以後も俊宗、広照と数度との戦いが展開されることには、宇都宮氏の南進へのこだわりがあったのではないかと思えてくる。名門、長沼の血を継ぐ皆川氏の栃木支配圏の活躍と拡大は、今歩いてきた川原田から始まったのだと思えてきた。

  白地沼から粟野街道に出て、総合運動公園に戻ってきた。約2時間30分の行程だった。

  森戸氏の「今昔話」にでてくる「川遊び」や「淵や沼の水の深さ」から水量の豊富さを思い浮かべることができる。今回は淵からの湧き水を見つけることはできなかった。次回、川原田を歩く時には涌き水を発見したい。……しかし、地下水は無限ではないことを今一度検証していく必要があると思えてきた。

                                        《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

日向野徳久著「改訂、北関東における一封建都市の研究」(昭和34年4月発行)/「栃木市遺跡分布地図」(平成27年3月、栃木市発行)/河野守弘著「下野国誌」(1966年8月、徳田浩淳校訂、下野新聞社発行)/大森隆司著「下野の動乱」(1987年7月、下野新聞社発行/「都賀町町史」(平成元年3月、都賀町発行)/江田郁夫著「下野長沼氏」(2012年6月、戎光祥出版発行)/ウエブ・ネットワークとちぎ現地研修報告「巴波川の水源を訪ねて―昔かたり」(2003年2月・6月)

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皇居一般参観と映画「日本のいちばん長い日」

010_2  かつては「江戸城」「宮城」と言われていた「皇居」。正月2日の日に行なわれる一般参賀と12月23日の天皇誕生日に皇居に入ることができる。それ以外は「一般参観」として皇居内に入り、見学することができる。宮内庁に予約申し込みを行ない、係員によるガイド説明を受けての皇居内見学である。

  「インターネットを操作する関係で外国人の参観者が多い。日本人は旅行会社にまかせてしまうから少ないんだ。旅行会社のあっせんでは一般参観の申し込みはできないんだョ」と幹事が語ってくれた。

 平成28年の新年1月14日に「一般参観」として皇居内を見物することができた。風のない穏やかな快晴の中、栃木県シルバー大学南校33期生で作る「健康ウォーククラブ」で企画した「皇居一般参観ツアー」に参加した。

014  午後1時に桔梗門(内桜田門)前で受付を行ない、係員の先導で桔梗門から皇居内に入る。一般参観の予約申し込みは1か月前の1日から行われる。申請には参観者全員の氏名、住所、年齢を記入し、代表者の身分証明を添えて宮内庁に行なう。

  「参観当日、身分証明を求められる場合があるから、用意しておくこと」と幹事から説明があったが、桔梗門受付ではそれはなかった。

 桔梗門の先の「窓明館(そうめいかん)」に案内され、参観者全員にビデオ説明がある。「帰路には隣にある売店が閉まっていますので、お土産は出発前に購入しておいてください」との係員の説明。菊の御紋入りのチョコレートを買った。味はともかく「菊の御紋入り」にこだわっての購入でもある。

016  午後の部の見学者80名の一行はガイドの係員によって窓明館前から歩き始める。参加者の中での高齢者は日本人。若い人たちは話す言葉で東南アジア系の外国人とすぐに分かる。

  桔梗門脇の石垣。石垣には、石を提供した大名の刻印が彫られてある。多くは伊豆半島の安岩石。船で運ばれてきている。ハンドマイクを片手に、係員が石垣の右上を指差し、「〇に十の入った薩摩島津家の御紋です」との説明がある。

  前から見たいと思っていた紋の刻まれた石垣。本当に残っていたのだ。個人で来たらどこにあるのか、見つけるのに苦労する。慶長年間に家康、秀忠による天下普請としての江戸城拡張工事。武力を背景としながら太平の世を築き始めた史跡がここに残っていると実感できる。

024_2  「石垣の高さ14.5メートル、櫓の高さが15.5メートル。石垣は加藤清正が造ったと云われています。関東大震災でも崩れませんでした」との係員からの説明がある。

  「富士見櫓」を仰ぎ見る。こんな近くでみることができた。その迫力に圧倒される。予想外のうれしさに涙がこみ上げてきた。 ――雄大な姿だ。江戸時代そのままの姿を残している。

   江戸城本丸の東南隅に現存する「富士見櫓」は万治2年(1659)に再建されたもの。江戸城の天守閣が明暦3年(1657)の大火(振袖火事)で焼失した後は復興されなかった。そのため富士見櫓が天守閣に代用されたとの係員の説明がある。これ以後、幕府に遠慮した諸大名は3層の櫓までしたか構築しなかったと云われている。

072  どっしりとした石垣。「野づら積み」の石垣は自然石をそのまま積んでいて粗い。その粗さが水はけを良くし、強固な石垣を築いていることになっている。

  石垣の右先端の方に目をやると、本丸に行ける階段通路が見える。柵が設置されているが、石段通路で上れるようになっている。曲がりくねっている石の階段の通路。ここにも昔のまま城址として残っている。

  江戸時代、西の丸と言われた「宮殿」に進む。天皇陛下はこの宮殿にお住まいにはなっていない。皇居奥の吹上御所に住んでいる。一般参観では入れない宮殿を外観から見ることができた。国賓等の接伴や文化勲章授与などの国の公式行事に使われている。

 ――ここが「宮殿」なのかと思わず感嘆した。

034_4  昭和43年に完成した宮殿には正殿、豊明殿など7棟ある。その中で一番長い建物が「長和殿」。長和殿前の東庭を歩きながら係員の説明がつづく。

 「長さ160メートルあります長和殿。中の廊下の長さが100メートルあります。この場所で新年1月2日と天皇誕生日の12月23日の年2回、天皇皇后両陛下と皇族方が長和殿中央のバルコニーにお出ましになり、国民からのお祝を直接お受けになります」との説明がある。

  私たちの歩いている「東庭」の広さは4500坪。一般参賀などでは2万人が一度に参賀できると言う。一度来てみたいと思う。

056_3 バルコニーの高さは3メートルだが、目線の高さで見ることができる。思ったより低い。「バルコニーの前には紅い花の咲く寒椿と白く咲く山茶花の植え込み垣根がございます」と紅白を彩っていることの説明がつづく。

  東庭に入る所に「豊明殿松の塔」が建っている。「松の塔と言われています。葉と葉の間から光が灯すように造られています。先端にある輪は、ふしろという古代婦人の腕輪を形とった照明塔です。夜に明かりがともり、とても綺麗です。皆さまにはご覧いただけないのが残念です」と言われた。

 残念。…しょうがないですネ。夜間には一般人は入ることができないからな。

040_2  「これから正門鉄橋を渡ります。くれぐれも橋の欄干に近づかないでください。カメラ等落としてしまう危険があります」との注意がある。

  「左の下に見えるのが、正門めがね橋と呼ばれていますが、正式名称は正門石橋と申します。橋の右にあるのが皇居正門です」と丁寧な案内で「正門石橋」を見下ろす。崖下は深く、お濠の水が静かに漂っている。…確かに高い所に橋が架かっている。思わず橋の欄干に近づきたくなる二重橋だ。

  「皆さまがお立ちになっている橋が、正門鉄橋と申します。江戸時代には二重橋と呼んでいた橋でございます。高い位置に架かる橋のため、橋の下にもう一本の橋を架けて、橋を上下に組んでいたため二重橋と呼んでいたのです」との説明がある。しかし、どうもテレビ等で皇居が映し出されるのが、「めがね橋」を通して奥の二重橋と伏見櫓。二重橋は下の「めがね橋」と上の「正門鉄橋」の二つの橋を称して二重橋と言う場合もあるという。その方がしっくりと分かりやすいと思える。

043   正門鉄橋の反対側には「伏見櫓・多門」が優雅な姿を現していた。寛永5年(1628)に京都伏見城から移築したものだと云う。

 櫓の高さ13.4メートル。別名「月見櫓」と呼ばれ、皇居で最も美しい櫓といわれている。関東大震災でも崩れなかった石垣。関ヶ原の戦いの前哨戦として伏見城は落城した。伏見櫓をここに移築したのは、関ヶ原を忘れまいとする徳川家の強い意志の表れではなかったかと思えた。

 「正門鉄橋」から先の吹上御所には行くことはできない。ユータウンして戻ることになる。

060   帰路は宮殿長和殿を左に見ながら左折し、豊明殿と宮内庁建物の間を通り、右折して山下通りの坂を下る。宮内庁の裏側の庭には古いリアカーが置かれてあった。

 山下通りの坂道を下りながら、10名位の奉仕団の人たちが庭の掃除をしていた。若い男女のグループだ。仕事なのかの思ったら、同行者が「青森県と書かれた名札をしていたわ、皇居の奉仕団の方達よ」と教えてくれた。皇居の奉仕団は3日間の行程で全国から来る。終了後には皇族の方からねぎらいの御言葉を受けるそうだ。

  坂の下には、坂下門から乾門に通じる道が見えた。その向うにあるのが江戸城旧本丸跡地の「東御苑」だ。高い石垣が印象深い。

068  正面に坂下門が見える位置に宮内庁の建物が建っている。宮内庁の建物を右に見ながら進むと、3台のサイドカーがゆっくりと走ってきた。

  ――迫力ある走りだ。

   サイドカーと馬に乗って、「ポツダム宣言受託反対、国体護持」を掲げたビラをまきながら皇居前を走る映画のシーンが思い浮かんできた。

Psychopsycho1960img600x425139712312   黒沢年男が青年将校葉畑中少佐を演じていた。ギラギラした思いつめた眼光と汗が印象に残っている。岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」が昭和42年(1967)にモノクロ作品として公開された映画だ。

   そして昨年8月に、戦後70年の節目として松竹映画原田眞人監督による「日本のいちばん長い日」が公開されている.

062_2  2本の映画はいずれも半藤一利著のノンフイクション「日本のいちばん長い日」を原作としている。

 昭和20年(1945)8月14 日の深夜。昭和天皇による終戦詔書の玉音を録音した宮内庁(旧宮内省)の建物を見る。そこには映画「日本いちばん長い日」を思い浮かべてしまう昭和の歴史がある。

  ポツダム宣言受託による日本軍の無条件降伏。映画は8月15日の玉音放送に至るまでの御前会議と昭和天皇の御聖断。そして敗戦を今だ経験していない陸軍軍務局青年将校によるクーデター。本土決戦の中から有利な和平を導こうとして、御聖断の再考を要求し、宮城を占拠する宮城事件。「玉音録音盤」の奪還、放送局侵入による「玉音放送」の阻止を図っていった事件など皇居内を舞台に描いている。

2015052016471889e1  岡本喜八監督作品では宮内省に保管された「玉音録音盤」を探す近衛兵の姿など活劇的な作品だったと印象に残っている。昨年公開の原田眞人監督作品では、ポツダム宣言受託に至るまでの陸軍内の軋轢、終戦内閣の閣議と昭和天皇の御聖断を中心に描いている。

  昭和20年7月26日の米英中が発したポツダム宣言では日本政府は国体(天皇を中心とした政体)を守ることはできないと判断し、ポツダム宣言を無視する。しかし、東京から地方都市に広がる空爆の激化。広島、長崎への原爆の投下。そしてソ連軍の参戦。8月13日の御前会議から14日の御聖断にてポツダム宣言受託を決め、15日の玉音放送になる。

  映画は戦争終結を決意していた鈴木貫太郎首相(山崎努)、天皇の気持ちを分かっていた阿南惟幾陸軍大臣(役所広司)、戦争終結を決断し、国体は護持されると確信していた昭和天皇(本木雅弘)の3人の思いを描きながら、ポツダム宣言受託から玉音放送まで陸軍内の動きと連動して描いている。

Main_b_large1  「阿南さんは辞めませんよ」と鈴木首相のセリフがある。この時代、陸軍大臣が辞職した時点で内閣総辞職となり、戦争終結は遠くなることになる。戦争を止めようとする天皇の想い受け止める阿南陸相。しかし、終戦詔書への字句「戦局好転せず」への修正を迫り、陸軍への想いと部下たちの戦争継続を願う気持ちをも理解する。そして苦悩しながらも切腹していく阿南陸軍大臣を役所広司がよく演じている。

  御聖断の再考を促す東条英樹元首相に対して昭和天皇は、「ナポレオンの前半生は本当によくフランスに尽くしたが、後半生は自己の名誉のためにのみ動き。その結果はフランスのためにも世界のためにもならなかった。わたしは歴史をそのように見ている。日本はその轍を踏みたくない。違うか?」。東条は黙礼して下がる。なによりも苦しむ国民のことを考えて判断した姿を描いている。

  この映画を観て、憲法第9条の戦争と武力の放棄は昭和天皇の発意であったのかもしれないと思えてきた。

066_3  御前会議における御聖断がなかったら、ソ連軍が北海道に上陸し、ドイツのように日本は東西に分断されていたことになっていた。日本の共産主義化を恐れたのは時の政府や財界であり、終戦、和平への道は急務を要していたこともある。しかし、何よりも指導者は戦争で苦しむ国民がいたことを忘れてはいけないことを描いた映画だと思う。

 御前会議の開かれた吹上御所にある地下防空壕。その映像が昨年の7月に宮内庁から公開されている。内部のコンクリートはひび割れ、雨水や土砂が流れ込んでいる。戦争を終結し平和への道を歩み出した史跡として残してほしいと願う。

 宮内庁から左にある「蓮池濠」を見ながら富士見櫓の脇を通り桔梗門まで歩き、皇居参観は終了した。案内をした係員は優しい言葉での説明だったのが良かった。何よりも現在につながっている史跡を観たと実感できたのがうれしかった。

009  今回の皇居見学で、ここは徳川時代から明治、昭和、現代に至るまで、国会と異なる日本の政治の大きな舞台であったことだとしみじみ思えた。 

   テレビドラマ「天皇の料理番」の中で、進駐軍将校に主人公秋山篤蔵の師匠である宇佐美(小林薫)は、「天皇は味噌のように、なじみ深いものだ。もし、毎日口にしている味噌が無くなったら、とても寂しく、暴動さえお起きる。この私もそれに参加するでしょう」と答えるシーンがあった。天皇の存在を言いあてているセリフだと思えた。

  ずっと以前に熊本からの帰路の飛行機で皇太子殿下一行と乗り合わせることになった。「このまま飛行機が墜落したら、皇太子殿下と共に亡くなるのかな…」と不思議な何とも言えない感無量の気持ちになった経験がある。天皇とは文化なのか…。いつまでも平和を願う天皇陛下であって欲しいと願う。   

                                         《夢野銀次》

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結城市「孝顕寺」―御朱印堀と戊辰戦争結城の戦い

010_2  「不許葷酒入山門」と刻まれた石碑が孝顕寺参道入り口に建ってある。

  「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」と読み、肉やニンニクなど生臭い野菜を食べたり酒を呑んだ者は、修行の場にふさわしくないので立ち入りを禁ずるという意味。結城市観光ボラティアガイドさんからの説明を聞く。「曹洞宗、禅寺のお寺でよく見かけると思いまよ」と言われたたが、こうした石碑を初めて見る。知らなかった。これからは禅宗のお寺さんに行ったら見てみよう。

 12月19日の土曜日、「歴史と文化を歩く会ー栃木」の一行として結城市の歴史見学を行なった。案内をしてくれたのは「結城市観光ボランティアガイド協会」の歴史に詳しいガイドさんだった。栃木市から両毛線で小山から水戸線に乗りかえ、320円の運賃が示すように結城市へは近い距離。しかし、どこか遠い町のような気がしていた。

019_2   禅宗「孝顕寺」は結城城から見て南西の方角に建っている寺院だ。

 江戸時代に建てられている雄大な三門。

 「孝顕寺」の案内標識版が立ってある。「永生12年(1515)に結城城西側の玉岡の池に結城家15代政朝によって建立され、18代秀康(家康の次男)によって現在地に移転建立された。当初は永生寺と称したが、政朝の法名が永生寺殿宗明孝顕大居士であることから孝顕寺と改称された」と記されてある。

  さらに案内版には「元禄13年(1700)に結城藩主となった水野氏の菩提寺になっている。境内の西側に秀康が城の西側に新たに新城下町を建設した際に、周囲にめぐらせた御朱印堀の一部が残されている」との記述がある。扉を設けていない三門を通り、境内に入る。

013_2   本堂の手前左に「小場兵馬自刃之處」と刻まれた石碑が建ってある。石碑には昭和17年11月に建てられたことの刻字がされている。石碑の左下に「御朱印堀」への矢印の標識がある。矢印の奥に進む。「史跡御朱印堀」の石碑が建ってある。鬱蒼とした生い茂った藪の中に空堀が見えた。底はかなり埋まっている空堀になっている。

 案内ガイドさんの「御朱印堀」の説明が簡単でよく分からなかったため、ウエブ検索で調べてみた。結城市ホームページでは、「堀の大きさは、上幅7.5m、底幅0.5m、深さ3m、堀の内側には幅7m、高さ3mほどの土塁。戦国末期、結城18代秀康の時代に、城の西側に明確な都市計画に基づいた新たな城下町が建設された」と記載されている。防御用の空堀にして幅が小さい。郭内を囲い込むため造られた空堀ということなのだ。

022_2_2  その郭内(城下町)を囲い込む空堀建設の具体的な記述として結城市史では、「町の中心には東西に伸びる三本の道路と、それを結ぶ南北の四本の道路を作り、そこに四方から入る七本の道路をとりつけて、町の周囲には御朱印堀と呼ばれる大きな堀をめぐらせた」と記述されている。さらに江戸時代には「御朱印堀に囲まれた新城下町は地子御免(じしごめん)という固定資産税が免除された」との記載がある。

  天正18年(1580)の8月に羽柴秀康は結城氏18代を継承し、結城秀康となる。

024   10万1千石結城領に入部した秀康は城下を整備した。結城城は標高40mの台地上にあり、周囲は田川、鬼怒川からなる低湿地に取り囲まれた堅固な城であった。城下には増加した家臣団の屋敷地をまず確保する。そして新たに町人町として東西を三本の道路で結ぶ西の町、大町、浦町を中心に町屋づくりを行なう。さらに城の南西には多数の寺院を移転させ、その周囲を掘(御朱印掘)で囲む城下の町づくりをおこなったと結城市史に記されている。

   江戸時代には堀で囲まれた町人には「地子御免」という固定資産免除の特権が与えられた。徳川幕府にその証拠として「結城町内地御免之事」という証文を提出して容認させていると云われている。よってこの堀のことを「御朱印堀」と云われている。幕府をも納得させるほど町の強固な自治組織を作ったのが「結城十人衆」だったとしている(「結城市史」より)。

077   「江戸時代、結城の町には結城十人衆という家がありました。現在も子孫の方が続いております。結城秀康が越前福井に国替えなることになります。鎌倉時代から四百年、結城氏に仕えてきた家臣たちの中で、結城氏の菩提を護っていくために結城に残った人たちがおりました。その方たちが結城十人衆と呼ばれるようになり、名主など町役人を務め強い自治組織を作っていったのです」と案内ガイドさんからの説明があった。

 結城市史の中にも、他の町よりも名主としての強い権限があったとして、傷害事件の調査や訴訟和解など奉行に変わる町政などの運営をしたと記されている。

001_2   「結城の歴史」の中に、木戸が7カ所、辻番所が23カ所置かれたと書かれてある「享保19年2月の結城絵図」が載っている。

  御朱印堀の太い線は孝顕寺の西側から弘経寺(ぐぎょうじ)の右側を通り、金福寺などたくさん並ぶ寺院の左側を通り、北に曲がり、城の手前を右折し南に続いている。御朱印堀が町を囲んでいるように描いている。

    秀康の行なった結城城下の町づくり。――皆川広照が行なった栃木の町づくりと似ている。天正18年直後の同時期だったからかもしれない。栃木町の場合、城の西側の巴波川を掘割として、一本の太い南北道路を作り武家屋敷とする。寺院を西側に移転させる。北から東にかけては沼沢地。違いは広照失脚後に皆川家臣団による巴波川舟運を活用して商業としての栃木町づくりなどが行われた。しかし、結城市同様に近世後半には近江商人が入ってくる。じっくり比較検討したい事項だと思えてくる。

 歩きながら寺院の多い町だと感じた。「結城市史」の中で寺院は37、茨城県内では土浦の46、水戸市の41についで多い市になっている。なかでも山伏関係の堂屋や真言宗が多いのが特徴としている。中世に繁栄してきた町の様相を呈している。 

Yki_hideyasu1  17代当主の結城晴朝は宇都宮国綱の弟、朝勝という家督相続者がいるにもかかわらず、秀吉に「無継子」あるとし、養子願いをしている。天正18年(1590)3月に小田原城包囲前に家康の関東入りが内定していたという。7月には、秀康の結城氏継承が公表された。

  晴朝は結城氏の安泰を図るため養子継嗣を秀吉に臨んだのだ。小田原以後の秀吉の関東大名への仕置。小山氏、壬生氏、白河結城氏への取りつぶし処分。慶長2年(1601)の宇都宮国綱の改易など、晴朝は秀吉の関東支配の動きを読みこんでいたことが伺える。

 秀吉にとり関東の要害地、結城に自らの縁者を送り込むことは関東、奥州への備えとなり豊臣政権の前線基地になる。また家康にとっても実子の配置は関東における地位を確かなものになる。こうした背景で秀康は結城城主になっていった。その画策を行なったのが、結城氏重臣下館城主の水野勝俊であると市村高男氏は考察指摘している。水野勝俊は皆川広照の従兄弟であり、広照の小田原城からの離脱を家康に橋渡しも行なっているとしている(江田郁夫編集「下野宇都宮氏」より)。

  北関東をめぐる家康と豊臣政権の思惑など、新しい時代を迎える権力者の興味ある時代背景でもある。

  城下の南西側を囲む御朱印堀は小田原城の総構えを想像させる。そして下野の戦国大名を仮想敵して造られた掘割ではないかと思えてくる。掘や寺院配置から下野、奥州への前線基地としての結城城下町を秀康は作っていったようにも思える。

029  御朱印堀のある孝顕寺境内左奥の西側に「小場家」の墓所がある。慶応4年(1868)4月14日にこの墓地で結城藩水野家の国家老、小場兵馬が切腹をしている(中村彰彦著「臥牛(がぎゅう)城の虜」より)。墓地の右奥には同年3月25日の戦闘で討ち死にした兵馬の長男、平八郎の墓石が建っているのが見える。

  元禄16年(1703)に秀康の福井転封によって廃城、代官支配から新たに水野1万8千石が成立、結城城が再構築された。そして慶応4年の3月の戊辰戦争を迎え、藩主水野勝知が自分の居城、結城城を攻めるという、戊辰戦争史上、他に類をみない結城城の攻防戦が展開された。

   慶応4年正月の鳥羽伏見戦い後に結城藩江戸の佐幕派と国元の恭順派とに分かれた。藩主水野勝知は3月に旧幕府より彰義隊付属指揮役を受け、江戸藩邸を佐幕派で固めた。

036_3  これに対して国家老の小場兵馬らは結城藩の存続を考え、前藩主の水野勝進の末子勝寛を擁立し、新政府への恭順の動きを始めた。これを知った藩主、勝知は憤慨し、江戸藩士30名と彰義隊60名の応援を得て、江戸から結城城鎮撫に向かう。小山宿では国家老の小場兵馬は彰義隊に捕獲されるてしまう。

  孝顕寺西側の御朱印堀は金福寺と弘経寺(ぐぎょうじ)の間を北上している。城から西に大町通りを進むと小山に続く街道の西口木戸に突き当たる。そこは三本の道路が合流するくの字型の辻にもなっている。

  城方主力はこの西口木戸に、両脇にある御朱印掘を挟み、小場平八郎の指揮のもと30~40名の藩士で畳の塁壁と巨岩を積み上げた強固な陣地を構築した。

016  3月25日の明方、小山街道から結城城下に入ろうとする藩主側と応援の彰義隊は古河藩から借りた野砲と銃で西口陣地への攻撃を開始した。夜半に結城城を襲撃した部隊も藩主側に合流した。城方側も銃で応戦する。右前北側には弘経寺参道入り口があり、陣地両脇には御朱印堀がある。藩主側の放った野砲はj陣地には当たらなかった。しかし、強固な陣地で護り通しながら城方は小場平八郎ら7名が討ち死にした。

 藩主側は城方の護る陣地を破ることができず、戦闘は膠着し、昼頃まで行われた。城方は藩主がいることを認め、城に引き上げる。その後、城中で藩主に刃を向けるわけにはいかないとの判断を行ない、城に火を放ち城外に退避した。

 翌3月26日に藩主水野勝知は居城の結城城に入る。

 月が明けた4月5日に新政府軍、香川宇都宮救援隊の祖式(そしき)金八郎信頼支隊150名によって結城城は奪回される。応援の彰義隊はすでに上野山に引き上げており、少数となった藩主方は新政府軍攻撃の前に逃亡し、戦闘は行われなかった。藩主勝知は上野彰義隊に合流するが、新政府軍攻撃前日の5月14日に上野山から実家の二本松藩丹羽家に逃れている。そして、国家老の小場兵馬は孝顕寺にある先祖墓前で今回の責任をとり切腹をした。(参考資料ー「結城市史」、「結城の歴史」、「臥牛城の城」、「戊辰戦争事典」、「復古記11、水野忠愛家記」)

047   「この墓地を訪れる観光客の人たちは少ないのですよ。私も久しぶりに参りました」と小場兵馬の墓石の前で観光案内ガイドさんが私たちの前で灌漑深く語ってくれた。

  小場兵馬の墓所は結城第一高等学校の南西側の住宅地に挟まれて建立されている。敷地は私有地だと聞いている。

 墓石には「嗚呼可惜哀哉忠臣小場兵馬之墓」と刻字されている。戊辰戦争結城の戦いを書いた小説に中村彰彦著「臥牛城の虜」がある。その中で、祖式金八郎が配下の者に「小場兵馬は、おのれの命と引きかえに結城藩を存続させようと願うて死んだ忠臣じゃ。城のよう見える城南の地を選んで、墓を建てちゃれ」と命じたと記されている。そのためにこの地に小場兵馬の墓があるのかもしれない。しかし、結城城は建物に遮られていてこの墓所からは見ることができない。

070  私たちを案内してくれた観光ボランテイアガイドさんは、「明治40年に行なわれた陸軍特別大演習の時、明治天皇をお迎えして結城小学校に大本営が設置されました。当時の陸軍の有力者たちがたくさんお見えになっての大規模な演習でした。当時の交通便を考えても凄いことでした。これも小場兵馬のお話があったから、結城において大演習が行われたのではないかと思っています」と墓石を見ながら語ってくれたのが印象に残った。

 何よりも結城の歴史、寺院、史跡に誇りを持って案内、説明してくれたガイドさんだった。それにしても結城市を歩いてみて、大変歴史ある奥深い町だということが私の一番の印象だった。

  戊辰戦争の中で結城の戦いを藩内父子の内紛としてとらえる考え方がある。しかし、時代の変動期における養子として藩主となった勝知の思いと役割。藩を存続するための冷静な判断を下す小場兵馬など重臣たちの思い。さまざまな角度からまだまだ考察していく必要があると思う。

                                         《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

ウエブ「結城市ホームページ」/「結城市史」(昭和55年10月発行)/「結城の歴史」(平成7年発行)/市村高男著「近世成立期東国社会の動向―結城朝勝の動向を中心として」(江田郁夫編集「下野宇都宮氏」2011年戎光祥出版発行)/中村彰彦著「臥牛城の虜」(平成6年文藝春秋発行)/太田俊穂監修「戊辰戦争事典」(昭和55年3月新人物往来社発行)/ウエブ「復古記11.水野忠愛家記」

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正月三日、豆腐をお供えしてお参りする栃木市「三日月神社」

040  「ここにもあるんだ。日向野先生が書いた石碑文が…」。三日月神社境内の社務所脇に建つ石碑。その石碑を見上げながら、日向野徳久氏の栃木史に対する足跡の多さに驚く。

  「三日月神社由来記」と刻まれた石碑。「片柳用水記石碑」同様に日向野徳久氏が撰文をし、池澤洸氏が謹書している。台座から3メートル高さに建っている石碑。栃木商高時代にお世話になった先生方達だ。

  「日向野さんは何回も来て下さって、詳しく神社のお話を訊いてくださいました」と神職の息子さんは私に話してくれた。

   栃木市川原田町535番地に鎮座する三日月神社。栃木市総合運動公園のはずれ、北東に位置する。木造亜鉛巻の神明鳥居には月の神「月讀命(つきよみのみこと)」を現す「朏尊(ひそん)」の額が掲げられてある。拝殿手前の神楽殿は建て替え工事中だった。以前に栃木総合公園野球場へ高校野球を観に来た時、駐車場が満杯のため、この付近に車を停めたことを思い出した。

036   昭和60年11月に建てられた石碑には、三日月神社建立の起因から江戸時代の神社の賑わい、旗本渋谷氏の江戸屋敷への御神体の移動から再び当地に戻り祀られ、明治期の神社の存続などが記されている。

  神職芹澤氏は石碑文から常陸国の大掾氏(だいじょうし)の出自から皆川氏に仕え、帰農した家柄と伺える。闇夜の中、7名の兇族に襲われながら三日月丸にて賊を退避させたことから三日月丸を御神体として月讀命=朏尊(ひそん)を祀る社殿を創建したとしている。

 石碑には「三日月神社は歳月を経るしたがってその霊験のあらたなことが知れわたり、縁日には除禍招福を願う人々が遠近より集まり、参道の両側には露店が数多連なって賑わうに至った」と当時の賑わいが記されている。

044_2  参道の露店では三日月神社に供える豆腐を売っていたことが「栃木の街道」の中で記述されている。同書の日光例幣使街道の章を日向野徳久氏が次のように執筆している。

  「正月3日・3月3日は縁日として(三日月神社は)非常なにぎわいをみせた。縁日には参道の両側に豆腐屋が何軒も戸板をならべて店をはった。お参りに来た善男善女がその豆腐を神様に供えるので、豆腐はまさに飛ぶように売れた。神社がわでは供えられた豆腐を、裏から豆腐屋に払い下げる。豆腐屋はまたそれを売る」と記述されている。

 お供えものの豆腐を繰り返し売っていったというのだ。何故豆腐をお供えしたのだろうか?

032_4  芹澤神職の息子さんは、「豆腐を板の上に載せて売っていたと聞いている。何回もお供えに使うことによって、豆腐のかどがとれて丸くなるってことですね」と社務所の縁側に座った私に語ってくれた。ただ、どうして三日月神社へのお供えに豆腐なのかは、はっきりとは解からないとも話してくれた。

  陰暦の3日の日に初めて月が姿を現す。「吾に七難八苦を与えたまえ」と言ったという山中鹿之助ではないが、月光に照らしだされてくる風景は何か神秘性を感じてくる。

  三日月神社では現在でも正月3日に豆腐をお供えしてのお参りが続けられている。社務所の前でお供え用の豆腐を売る。どのくらい豆腐を用意するのかは話してくれなかったが、参拝者は購入した豆腐をお供えしてお参りをする。「今でも…!」と驚いた私に、「参拝者の中には豆腐を縁起ものと思い、家に持って帰る人がいるんです。本当は豆腐はお供えもので食べてはいけないことになっているのですけど」と苦笑しながら語ってくれた。「今度のお正月3日、お越しください」との誘いを受けた。豆腐をお供えしてのお参りを見てみようと思う。

048_2  豆腐を三日月神社に供えて参拝する風習はつくば市にある朏神社(みかづきじんじゃ)にもあることがネット上に記載されていた。

 また、ブログ「月と季節の暦第二話三日月信仰 志賀勝」のなかでも、根岸鎮衛(もりやす)著の「耳袋」を引用してのお供え豆腐について、「病気治癒を願う三日月信仰がいつ発生したか不明だが、江戸時代末期には人気ある習俗だったことが分かる。いぼのほかにも、できものや眼病など様々な病いの予防、回復が祈願された」と記述されている。

  この「耳袋」は旗本・南町奉行の根岸鎮衛が江戸時代の中期から後半の天明から文化にかけて同僚や古老から聞き取った話を書いた随筆集になっている。

 栃木図書館で借りてききて「耳袋」(岩波文庫版)の本を開いて読む。岩波文庫下巻の中の「いぼの呪(まじない)いの事」にこう記述されている。「いぼの呪い品々あるなれど、三日月へ豆腐壱丁を備え念頃に祈る時は、其の治る事妙也。右豆腐は川へ流し捨る事也。あやまって其の豆腐喰うものは、いぼ其の喰う者へ生ずる事また奇妙のよし、人の語りぬ」と、当時の三日月神社への豆腐のお供えの風潮が記述されていておもしろい。

050_2   「ずーと昔、栃木の三日月神社に行った時、参拝に来ていたご婦人に聴いたことがある。そのご婦人はつるつるした肌になりたいから豆腐をお供えするのですと答えてくれていたな」と私の知人は電話の向こうで話してくれた。

 「いぼ」「できもの」「肌」と「豆腐」「月」を重ねてイメージしていくと類似していることに気がつく。類感性というのだろうか。理由はともあれ、豆腐に自分の想いこめて祈願する。それで良いのでないかと納得してきた。

 「とーふー、とーふ、とーふー」とラッパを鳴らしての自転車豆腐売りや町内に一軒はあった豆腐屋。豆腐は手軽な食べ物であり、今でも食卓には欠かせないものとして調法されている。豆腐のお供えは祈願する参拝者の手ごろなお供えものとして、現在まで続いている習俗なのだと思えてきた。 

006   栃木市嘉右衛門町を縦断している日光例幣使街道。その中頃に自然石でできている庚申塔がある。

  「右日光 おさく道 左三日月」という道標が刻まれている。三日月神社へはこの庚申塔から斜め左へ北に3キロ進むことになる。江戸時代から栃木町の多くの人はこの参道を伝って三日月神社にお参りしたのかもしれない。

  私も庚申塔を斜めに左折しては道幅約3mの狭い参道を自転車を押しながら歩いて進む。参道の下は長沼からの用水が暗渠となり分流している。

007   参道裏からの「油伝味噌・蔵造り」を右に見ながら、長沼跡水源地、川上稲荷神社、平岩幸吉の眠る「ならび塚」を過ぎ、巴波川が流れていた川筋公園からバイパスに出る。巴波川とバイパスを渡り、粟野街道の左脇の狭い道に入り、北上する。雷電神社境内を右に見て、田圃の中の参道を進み、栃木市総合運動公園通りに出る。公園東駐車場の端にある脇道に入り、進むと、田圃に囲まれた三日月神社の杜が見えた。神社の前は荒川の流れる運動公園になっている。運動公園ができる前は何もない辺鄙な場所だったことが分かる。

028   三日月神社を創建した芹澤氏は皆川氏に仕えた武士であったと云われている。

  天正18年(1580)の秀吉による小田原北条征伐以後に下野の主な大名である小山氏、壬生氏、宇都宮氏などは改易になっていった。さらに慶長年間に入ると栃木の皆川氏も改易され、主家を失った武士たちが多く生まれた。

  栃木町周辺の土地は扇状地帯としての沼地、湿地帯であった。戦のなくなった新しい時代の流れを受けて開拓開墾を必要とした。そのため、皆川家臣団等の多くの武士たちは帰農者となり、田畑の開墾、開拓に力を注ぎ始めていく。

  芹澤氏もその一人として、戦さ跡の残る川原田村を中心に開拓開墾をはじめ、やがて名主になっていったと思える。三日月神社の御神体である三日月丸は土地開拓者としての覚悟として祀ったのではないか。

  江戸時代の初期や明治期の初期など、時代の変わり目を迎えた栃木の町の歴史には隠されたものがたくさん眠っている。これからも栃木のまちを歩きながら見つけていこう。

                                   《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

「栃木の街道」(栃木県文化協会、昭和53年10月発行)/根岸鎮衛著「耳袋」(岩波文庫下巻、1991年6月発行)/ウエブ「月と季節の暦第二話三日月信仰 志賀勝」/日向野徳久撰文「三日月神社由来記石碑文」(昭和60年11月)

(三日月神社石碑刻字文)

 『三日月神社由来記  芹澤家は常陸国の名族大掾氏より出、皆川氏と婚姻後同氏の出自と伝えている。某年陰暦五月晦日の夜兇族七名に襲われ、咄嗟に三尺二寸の宝刀三日月丸を以て迎え撃つと、闇夜にもかかわらず賊の挙措すべて月明の下に見るようであったので、賊は畏怖して逃げ去った。来れ朏尊の神佑であることを悟り、地を割き社殿を創建した。激闘の地は野中町地内にありいまも血祭畑といい、当時牛蒡畑であったことから同氏は牛蒡の栽培を禁忌としている。

三日月神社は歳月を経るにしたがってその霊験のあらたなことが知れわたり、縁日には除禍招福を願う人々が遠近より集まり、参道の両側には露店が数多連なって賑わうに至った。地頭澁谷氏はこれを聞き同家の守護神として江戸屋敷に遷した。芹澤氏は澁谷氏の地代官としてこれを拒むことができなかった。しかし、神霊これを容れざるが不可思議な示現が再三にわたったので澁谷氏は恐縮して旧に復し、これより明治維新に至るまで毎歳白米一俵を奉献して敬仰の誠を尽くした。

明治初年、制度の変革により同社は廃祀の危機に瀕したが、その由緒を認められて存続することを得、当主彦八が神職に任ぜられた。この神を信ずる者には不可思議なる感応あるは、世に広く伝えるところである。彦八の孝孫豊このことを忘却されることを虞れ、真石に刻み後世に伝えんと事由を具して余にこの文を依頼された。

嗚呼、芹澤氏帰農してすでに四百余年、時代に推移によって時に隆替を見るも、その間朏霊つねに同家と共にあることを信じて祭祀を怠らなかったことは誠に感激に堪えず、ここにその事由を述べる次第である。 

  昭和六十年月齢十一月三日

  栃木県文化財保護審議委員 日向野徳久 撰  書友会 会長  畔蒲 池澤洸 謹書 』                     

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