歴史散策

土葬の墓が残る栃木市皆川城内「傑岑寺」と「床とり」

NHK大河ドラマ「篤姫」に映された「座棺」から

005  「わたしを上様のところに連れていくのじゃ!」と叫んで御錠口を超えて走る篤姫(宮崎あおい)。13代将軍家定の棺が安置されている部屋に飛び込む。

 「…上様、なぜそのようなところにいらっしゃるのですか?」と棺に取りすがり、号泣する篤姫。

 平成20年(2008)7月に放映されたNHK大河ドラマ「篤姫、第28回ふたつの遺言」の中で座棺が映しだされていた。このシーンで見慣れた寝棺ではなく、家定が安置されている座棺に違和感を覚えた。…どうしてなのか?

Img_51_2  後日、棺には「座棺(棺桶)」と「寝棺(長方形の平棺)」があることを知った。晒をまいた座棺をテレビで初めて見たから違和感を覚えたのかもしれない。「栃木市史民俗編」の中に、「座棺には一反の晒が巻きつけて座敷に安置する」と記されている通り、画面には晒がまかれている座棺が安置されていた。

  かつては土葬がほとんどであった時代、土葬の場合の埋葬は「座棺(棺桶)」であり、大きさは2尺2寸(約66.6㎝)であったと云われている。2尺2寸から22歳で嫁に行かすなというたとえも生まれたといわれている。法律では土葬(埋葬)は禁止されてはいないが、都道府県で条例等で許可をしない所がほとんどであると聞いている。しかし、栃木市では「土葬は禁止されておりません」と栃木市よりメールでの返信があった。但し、「埋葬(土葬)を行なうときは深さ地下2m以上にしなければならないと施行細則で決められている」とし「墓園や霊園によって土葬を禁止している」という回答であった。土葬を禁止していないという意外な回答であった。土葬は法律では規制できない長年の歴史風習が伴っていることを感じた。

Keirei1  平成22年(2012)3月11日の東日本大震災で多くの犠牲者を出した自治体では、一部土葬が行なわれた。多数の身元確認が困難者、ドライアイス不足、さらには地域の主要火葬場が被災し、交通網やライフラインの断絶、燃料不足などにより火葬が追いつかないという事態が発生した。そのため急遽特例措置の適用をもうけ、宮城県内では6市町村が土葬に踏み切り、1000人以上の方が土葬(埋葬)を余儀なくされたという。遺族からは、「土葬に馴染みがない」「先祖と同じお墓に入れてあげたい」「火葬して遺骨を手元においておきたい」「変わり果てた姿をそのままにした状態で土葬するのは忍びない」等と火葬を希望する人もいた。その後、3回忌を迎えるにあたり埋葬された遺体の掘り起し、いわゆる改葬が行われ、新しい棺に納め直して、火葬場へと送り出したと「墓を掘り起した人々の記録(震災取材ブログ)」に記載されている。ブログには改葬を行なった業者の苦痛も綴れていた。

詣り墓と埋め墓のある(両墓制)が残る「傑岑寺」

001_2_2  栃木市街より皆川街道を西へ5㌔先に栃木市皆川城内町を東北道が通っている。その東側のそばに「傑岑寺(けっしんじ)」がある。当初の傑岑寺は弘治元年(1555)に第2次皆川城主皆川俊宗によって皆川城濠外に西接する谷津山に創設され、翌年の弘治2年(1556)に大平町西山田の大中寺より天嶺呑補(てんれいどんぽ)和尚を招請して開堂されている(建幢山傑岑寺発行「傑岑寺の歴史」より)。

 30年後の天正14年(1586)に傑岑寺は現在地の森山に移転をする。前年の草倉山の戦いでの討死者の慰霊と皆川城の南の出城として役割を担うためであったと云われている。傑岑寺から奥に入った太平山の北側に位置する草倉山の戦いは、沼尻合戦の翌年の天正13年(1585)7月の小田原北条と皆川俊宗の継承者、皆川広照との合戦を云う。

020_2  藤岡方面から攻撃を仕掛けてきた北条方に対して、皆川広照は太平山に陣を構えたが、北条方は太平連山に大軍で突入し、太平山神社を含めた太平山を炎上させた。軍を後退させた広照は、太平山の北の草倉山に陣を移し、100日に及ぶ激しい戦闘を行なった。草倉山は太平連山の中で、最も皆川城に近い山であり、皆川勢にとって背水の陣であったと云われている。しかし、数で勝る北条方の大軍を前に皆川家臣が相次いで討ち死にを遂げていき、広照自身も自害を覚悟するほど劣勢に追い込まれていった。

  戦の情勢を見かねた徳川家康、佐竹義宣によって皆川広照に降伏が勧められ、やむなく広照は戦闘を終息させた。以後、広照は北条方に与するようになる(ウィキベディア「皆川広照」参照)。

  この草倉山の合戦で皆川家臣の大半が討ち死にをした慰霊を弔うために広照は、傑岑寺を草倉山近くの現在の森山に移転を行なった。この辺りに降伏への我慢と弔う姿勢が、改易になった広照を後々まで家臣団が慕っていった要因があるのかもしれない。

  草倉山での死者を葬った千人塚に昭和7年に千人塚の石碑が建てられている。ゴルフ場の狭間を通って、道なき道を進んだところにあるといわれており、私はまだ行って石碑を見ていない。是非、行ってみたいと思っているのだが……。

005_2  由緒ある傑岑寺の石段を登り朱塗りの門の奥に本堂がある。本堂の裏に回ると幸島、猪野、片柳家の詣り墓を見ることができる。

  「栃木市史民族編、両墓制」の項で「傑岑寺(けっしんじ)」について次のように記されている。「山内に21世帯の墓地があるが、そのうち幸島、猪野、片柳各一戸ずつが両墓制をとっている。埋め墓は本堂の南側の陽当たりの良い所にあり、詣り墓は本堂の北側にある。これらは特に寺に貢献した家をいう。この三世帯を除いた18戸は単墓制である」。

  この栃木市史民族編を読んで、かつては土葬(埋葬)であった時代には、埋葬地を埋め墓とし、詣り墓を別に設ける両墓制があったことを初めて知った。そして「傑岑寺」の両墓制を見て、由来など住職に訊ねたが、「確かに本堂裏のお墓のことをお詣り墓と言っていますが、良く分からないのですよ」とはっきりしない応えが返ってきた。

013_2  森謙二著「墓と葬送の社会史」で、両墓制とは、埋葬地(=死体を埋葬する墓地。一般的には「埋墓(うめばか)」と呼ばれている)と石塔を建てる墓地(一般的に「詣墓(まいりばか)」と呼ばれる)が離れて設けられる墓制であると定義し、柳田国夫が問題提起をし、民族学者の大間地篤三によって「両墓制」という名称が与えらえたと記している。

  そして通則的な見解として「埋葬地は死穢の場であり、それを忌避して別に祭地(=霊魂祭祀のための清浄な場)を設けたというものである」と両墓制の意味合いが記されている。また最上孝敬著の「詣り墓」では村はずれの沢等に埋葬し、近場に詣り墓を設けている事例や同じ寺の境内で埋め墓と詣り墓とがあるなど全国の事例紹介が載っている。しかし、肉体と霊魂、石塔の意味合い、地理的な関係や風葬の流れからなど、私には良く分からない世界でもある。もっと良く学ばないと理解できない分野であると思えた。

008_2 傑岑寺境内にある埋め墓は本堂の南側の坂道を上った陽当たりの良い墓地の中にあった。半間(90㎝)四方を石柱の柵で囲われている。囲いの真中に「幸島」と刻字されている30㎝ほどの高さの石塔が建っている。中には石柱の柵のない埋め墓もあるが、全部で幸島家の埋め墓は13基ある。

  しかし、片柳家や猪野家の墓石はあるが、埋め墓は見当たらない。すでに改葬を行ない埋め墓を閉めたのではないかと思えた。この辺のことは良く調べないと何とも言えないことである。石柱の柵は動物たちの墓掘り襲撃を防ぐために設けられたのかもしれないと思えた。

015_3  それにしても柵の中の埋め墓の面積は狭い…。2尺2寸(約66.66㎝)の座棺の中で膝を抱えるように納める遺骸は母の胎内にいる時の姿に似ていると云われている。

  埋め墓の中の石塔に刻まれている「幸島」という家格。江戸期にはこの地の大皆川村は武州金沢藩米倉家の領地であった。野州大皆川村、梅沢村、上永野村、下永野村など12か村9800石を統括する陣屋がi現在の皆川中学校にあったという説もある。そして大皆川村の名主が幸島家であり、屋敷跡が今も残っている。その蔵には皆川地域の貴重な史料が埋まっているのではないかと地元の人が話をしていた。幸島家の全容を記述した本がないものか、探していきたいと思っている。

  幕末には大惣代名主として幸島彦助は「永野村村民屯集事件」において栃木町の米穀商人と永野村村民との間との仲介を行ない穏便な解決にむけて活躍をしている。栃木市史にはわずかな記述になっている。中世皆川家についての研究が進んでいるが、近世から幕末、明治にかけて大皆川村名主の幸島家と武州金沢藩米倉家との関係などこれからの研究が進むことを期待したい。

今も残る土葬の名残りとしての「床とり」

60_05_011_2  葬儀において土葬の穴を掘る役割の者4人を「床とり」と言われている。現在は土葬がないことから穴掘りはないが、棺を運ぶ者を「床とり」と称して呼び名が残っている地域がある。私の住む栃木市大平町横堀地域では今でも、棺を運ぶ者を「床とり」と呼んでいる。昭和40年代まであった土葬の名残りなのである。8年前に転居してきて、葬儀の手伝いの際にこの「床とり」は何なのか分からないでまごついたものである。

  今年(平成30年)の6月に栃木県立文書館の古文書講座を受講した。「倹約の取り決めから見る村と領主」からという題で、「文久三年八月倹約筋被仰渡ニ付村方取極蓮印帳」という古文書館収蔵の「大前村文書」の古文書学習であった。

Photo  この古文書では財政の悪化から領主より村々に「冠婚葬祭の際の振る舞いを簡素にする」というお触れが出され、村から倹約の旨の文書がだされた。その中で「不幸之節、穴掘沐浴之者外一切酒差間敷候」と記され、穴掘り(床とり)以外には酒を飲まさないと記されている。葬儀の際の「床とり」は別格な扱いとしてことが記されていた。何故「床とり」は別格なのか?

  私の住む地域での「床とり」の役割をした者は葬儀の後の直合(なおらい)や精進落としの席では上座に座る習わしになっている。文書館の講師に古文書に記されている床とりについて何故別格なのかを質問をしたが、「民俗的なものでしょう」という応えしか返ってこなかった。――自分で調べるていくことにした。

Photo_2  日向野徳久著「栃木県の葬送・墓制」(「関東の葬送・墓制」に収録)の中に「床とり」のことの記述があった。

  日向野徳久氏は著書に「土葬の場合、県南の一部では、死者を埋葬する場所を葬儀当日午前中に施主が、墓穴予定地にゴザを置いてくると、組合の当番の者がこの墓を掘ることを床とり、あるいは床堀りといい、組合のなかから4人が選ばれる」と記している。そしてその役割とは、「床とりは、葬式組の役割のなかで最もぶく(穢れ)のかかりやすい役といわれ、大役である」としている。「床とり(穴掘り)の作業が終わって帰ると風呂が用意されていて、沐浴して身体を浄め、衣服も取り替えて、冷酒・塩と鰹節の削ったもの、それに冷奴で労をねぎらわれる。(略)埋葬終了後の浄めの宴(忌中払いともいう)では、床とり役が上座に着いて施主からお礼の言葉を受ける所もある」と床とりについて記載をしている。葬儀の中心の表舞台はお坊さんになるが、土葬時代の葬儀の中心的な役割が「床とり」であったことが少し理解できるようになった気がした。

563959921612x6121_2   「石工よりも船造りよりも大工りも、頑丈なものを作る奴は墓堀り人夫だ」と言いながらオフェリアの墓を掘る墓堀り人夫が登場する「ハムレット五幕一場」。墓からシャレコウベが放り出され、最後はハムレットを含めた登場人物全員の死で終わることが暗示されている場面である。

  昭和39年に俳優座による「ハムレット」日生劇場公演を姉に連れられて観ている。仲代達也のハムレット、透きとおるような声で歌う市原悦子のオフェリア。それと最も印象深かったは東野英治郎が演じた墓堀り人夫であった。ケラケラと小気味よい口調でハムレットを言い負かすその強さに感じるものがあった。この墓堀り人夫の役は東野英治郎の代表する役になっていることを後で知った。

  高校1年の時に観たこの「ハムレット」で日生劇場と演劇が好きになって、以後の私の人生に強い影響を与えた舞台公演であった。

004  私の住む集落にある共同墓地。同姓名の多い集落で一族の共同墓地から生まれていることを聞いている。昭和50年代頃までは土葬であったが、栃木市保健所より保健衛生上の問題から火葬葬儀にしてくれとの要請があり、土葬から火葬に替えたことを地域の古老から聞いた。以後、現在では火葬骨壺を墓石の下に納めるようになっている。しかし、かつての埋葬されていた共同墓地に立ってみると、土葬時代の墓地の雰囲気が漂い、地域で営まれてきた歴史の風習が匂ってくるような気がしてくる。

  今でも葬儀の際に隣保班として、葬儀場の受付と「床とり」と言われる棺の運びを行なう役を決めている。昨今の社会一般では地域の自治会では葬儀手伝をやめて、葬儀社が全部行うシステムへの移行が進んでいる。また、近隣住民の葬儀への関与がなくなったことにより、世間体を気にしない「家族葬」が増加してきているとも云われてきている。地域共同体において近隣住民と葬儀へ関わりが見直されてる時期にきているのかもしれない。

 集落の中心地にある共同墓地。亡くなってからも慣れ親しんだ地域の人々の近くでねむっていく。――ある面では幸福な終活と言えるのかしれない。

                                      《夢野銀次》

≪参考引用本≫

「皆川の歴史と文化」(平成27年3月、皆川地区街づくり協議会発行)/「傑岑寺の歴史」(平成21年9月建幢山傑岑寺発行)/「栃木市史民俗編」(昭和54年3月発行)/「栃木市史通史編」(昭和63年12月発行)/森謙二著「墓と葬送の社会史」(2014年5月吉川弘文館発行)/最上孝行敬著「詣り墓」(昭和55年4月名著出版発行)/日向野徳久著「栃木県の葬送・墓制」(昭和54年3月明玄書房発行、関東の葬送・墓制に収録)/震災ブログ「墓を掘り起した人々の記録」/ウィキベディア「皆川広照」

 

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吉原から浄閑寺を歩く―吉屋信子著「ときの声」から

栃木市の「歌麿まつり」―花魁道中

Yjimage10_2  「江戸時代の浮世絵師、喜多川歌麿は、栃木市に何度か滞在し、市内豪商の依頼で肉筆画大作『雪月花』を描いたと言われ、栃木市内に肉筆画を残しています。歌麿ゆかりの地、栃木市では平成29年10月28日(土)は『歌麿まつり』の一環として歌麿が描いた華やかな花魁道中も行われます」と昨年の栃木市観光協会の宣伝文句を目にした。

  栃木市では喜多川歌麿ゆかりの地として、歌麿を活かしたまちづくりをすすめ、毎年「歌麿まつり」を行なっている。歌麿と栃木市に関わる業績の調査の発表。歌麿の作品や足跡と研修会、講演会等を開催し、歌麿への関心を強めるイベントが催しされている。その一環として市内を練り歩く「花魁道中」を一般公募の女性によって行われている。

Image1  私はまだ一度もこの「花魁道中」を見ていない。江戸時代の栃木宿には遊廓もないのに…、何か違和感を覚えているからだ。

  花魁道中は、客に呼ばれて遊女が揚屋(置屋から高級遊女を呼んで遊んだ店屋)入りする道中のことを言うが、見世物として「きれいだな」と感じて、まつりとして見物すればいいだけの話なのだが…。

250pxyoshiya_nobuko1  「今年(大正4年)も吉原で花魁道中が行なわれる。花魁道中は売春のでデモストレーションだと言う」と吉屋信子は昭和40年に執筆した「ときの声」の作品に出てくる。

  吉屋信子は父親の吉屋雄一が明治34年に栃木町にあった下都賀郡庁舎の郡長に赴任したことから明治・大正と小学1年から栃木高等女学校を卒業するまで栃木町に育った。昭和40年執筆の「ときの声」を読むと、栃木市が行なっている「花魁道中」を少女から娘へと栃木町で育った吉屋信子はどう思うのだろうかと気にかかってくる。「あらそう」と言って無視するだろうなと思えてくる。

51ayofv05l_sx373_bo1204203200_1  救世軍広報誌の名前からとった「ときの声」という作品は、明治から昭和33年の売春防止法施行までの公娼制度廃止の戦いを救世軍・山室軍平を中心に描いている。吉屋信子はその背景にある幕府や国の公認で営まれていた廓で働く娼妓と公娼制度についての歴史的な実態を真正面から向き合い、ノンフイクション作品として書き上げている。作家としての凄さを感じる。

  同書の中で明治2年(1869)3月に元幕臣刑法官判事の津田真道が太政官に『婦女売買不可論』を建白した内容が記載されている。

  『皇国は今尚娼妓あり。娼妓は年季を限り売られたる者にて牛馬同様なるものなり。西洋諸国にて女郎となる者は懶惰淫奔(らんだいんぽん)の女自から好んで堕るにて客を取るも取らぬも勝手自由なり。我邦にては身持ち正しき女も父母伯兄等に売られて苦海に沈む。其情と懸隔を下して人身を売買することを禁止したきことなり』と牛馬同様に父母兄らに売られているという人身売買としての公娼廃止を建白した。明治日本での公娼廃止提唱の第一号であったが、太政官からは握り潰されたと記述されている。

068   吉屋信子は、「この遊廓の反人道的な《婦女売買》で成立する《公娼》の存在に、むかしから国民一般がさほど義憤を催さず見過ごしていたのは演劇、歌舞音曲にも《遊女》を美化礼讃したものが多く歌舞伎の助六の舞台の揚巻や、駕籠釣瓶の八橋の艶姿に見惚れ、浦里の雪責めにさえ観客はその悲劇に陶酔していたせいであろう」と言い切るところに著者のなみなみならぬ思いを感じ、その通りだなと思えてくる。

  栃木市が行なっている「歌麿まつり」の中の花魁道中も美化された「吉原の花魁」だけを描くのではなく、遊女の歴史的な背景を考察した現代への人権メッセージを含んだ内容で取り組めないのか、検討して欲しいと思う。

貸座敷として公娼制度は存続した 

240pxyoshiwara_circa_18721  明治5年(1872)のマリア・ルーズ号事件の際、「日本では国家が人身売買を公認している」と指摘を受けた明治政府は、太政官布告で芸妓・娼妓の解放令を出した。

  「前借金無効の司法省達」(明治5年司法省達第22号)により、前借金で縛られた年季奉公人である遊女たちは妓楼から解放された。ただし、売春そのものを禁止しておらず、また、元遊女たちの次の就職先が用意されてあったわけではなかった。

  そのため、その翌年の明治6年に管轄を警視庁に属させ、廓の各妓楼は売春窟兼旅館の類だったのを《貸座敷》と指定して場所を貸与する形態とした。そこで働く女は自由意志で貸座敷を使用して売春を業として存続することになる。偽装である。こうした偽装により、遊廓は人身売買の身代金は《前借り》として以前と変わらぬ女奴隷の市場として公娼制度は存続をした。

240px82_yoshiwara_girls1   明治33年(1900)当時の吉原には妓楼総数66戸、娼妓2922人、妓夫1323人、他に雑役の男女の使用人1582人、台屋(料理仕出し)従業員228人、引手茶屋男女雇人366人、女髪結102人、車夫1000人、ほかに芸妓、幇間、洗濯屋、按摩を合わせて約5000人以上が一つの売春の街に生活をたてていたと吉屋信子は「ときの声」の中で記している。

   遊廓自体を廃止することはなく、遊女屋は「貸座敷」と名を変えて、貸座敷のある区域は「遊廓」として帰り先のない遊女たちを吸収し、借金による年季付きの人身売買は太平洋戦争後まで存続した。

吉原を囲むお歯ぐろ溝(どぶ)の跡地

045  「お歯ぐろどぶの跡地ね…。最近多いですよ、訊ねてくる人が」と、吉原大門から仲之町通りを先に進んだところにある吉原神社。そこの巫女さんに「お歯ぐろどぶ跡地」を教えてもらった。両脇にあるソープランドの店先からは呼び込みの声はかからなかった。

  「吉原大門のとこに交番があるの。そこを曲がると公園がすぐあるわ。そこの公園と道路が段差になって盛り上がっているのね。はっきり分かるわよ、お歯ぐろどぶ跡が」。

  樋口一葉の「たけくらべ」には、「廻れば大門の見返り柳いと長けれどお歯ぐろ溝(どぶ)に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来ははかり知れぬ全盛をうらなひて」とお歯ぐろどぶに映る吉原楼閣のにぎわいが描かれている。

040_2  吉原大門の手前にある交番を右に曲がった通りが「お歯ぐろどぶ跡」になっている。外界から隔離する目的で、遊廓の周りを柵と堀で囲んだ。遊女を柵で囲った。

  掘の幅は最初は5間(約9m)、後に2間(約3.6m)ありお歯ぐろ溝(どぶ)と言われていた。出入り口は大門が一つで治安の維持に努めた。掘は、どぶといわれたように、汚い下水路だったいう。遊廓全体が田圃に盛土をして造成されたので、今でも階段段差となっており盛り上がっており、当時の爪跡として残っている。

020_2   NHK「ブラタモリ」で平成24年(2012)1月に「吉原」が放映されている。ユーチューブで見ることができた。渡辺憲司立教大学教授の案内で吉原を囲んでいたお歯ぐろどぶの跡地がでてくる。

 交番の右脇道に入り公園裏口の階段となっている所が映される。公園と道路の段差を測った渡辺氏はタモリに、「段差の高さが163mあります。(道路の向い側を測りながら)堀の幅は9m、5間ですから飛び越えることはできませんね」と道路の向こう側まで堀の幅があったことを示した。堀は娼妓の自由の拘束と脱走防止でもあったのだ。

 この地に台東区として「お歯ぐろ溝(どぶ)跡地」という標識を建てたらいいなと思った。…触れたくないのかもしれない。吉原から浄閑寺に行く際に道路から見えるソープランドのある敷地は一段と盛り上がっているのが分かった。

投げ込み寺―浄閑寺

027  「心中片割れのお墓ね。先代住職が言っていたあのお墓かな…」といって浄閑寺の職員の方が私を本堂裏のケヤキの木の下にある小さな墓石に案内をしてくれた。「多分このお墓ですよ。訪ねてくる人はいませんね。吉屋信子の『ときの声』にでてくるお話しですか?」。

  墓石の碑面には《秋月普通照信女》、その下の台石には《草島》と刻字されているのが確認できた。間違いなく吉屋信子の「ときの声」に出てくる逸話のお墓であった。

  浄閑寺住職が吉屋信子に話した逸話が「ときの声」に次のように記されている。

021_2_2 「生き残った男が生涯、毎月の命日に来て、墓の前で経をあげていました。過去帳の本名が草島小十九です。明治4年生まれだから、情死した明治26年はまだ22でしたな。吉原楼内で男が先に女を刺した刃で自分の咽喉を突いたが、これは助かり女は絶命…。男はこの墓を建ててから必ず毎月17日の命日にここに来て、墓をまるで抱くようにして経本を読む。(略)やがて、太平洋戦争下空襲の烈しくなった昭和20年春からぷっつりと姿を見せなくなった。戦後も幾たび10月17日が来ても現れなかった。(和尚さん、もしわたしが死んだら遺骨の一片をぜひこの墓の下に埋めていただきたい)、と頼まれていたから気になって…」。

  住職は電話帳から彼の棲居を突き止めた。電話口に出たのは娘で、父が独身の若い時に吉原で心中を仕損じたことを知って吃驚仰天した。早速浄閑寺に来て秋月普照信女の墓前に合唱した。男は疎開先の郷里で老衰で亡くなって、その土地の寺に葬られていた。遺骨の一片をここに埋められませんでしたと住職が残念そうに語った。

  「お墓を抱くように経本を読む」という姿に胸がうたれ、そのお墓を是非見てみたいと思った。ケヤキの下に小さくひっそりとたつ墓石。可愛いお墓である。浄閑寺を訪ねたのはこの逸話からでもある。無縁仏として葬られた数多くの娼妓達のお墓を見守る先代の住職の温かい眼差しが浮かんできた。

003  隅田川から吉原を経て流れる山谷堀は浄閑寺へと続く。深夜、小舟でむしろにつつんだ娼妓の遺骸を浄閑寺境内墓所そばまで運び、本堂裏のケヤキの木の下の穴に投げ込んだとも云われている。

  地下鉄日比谷線「三ノ輪駅」、大関横丁交差点を南東に入った所にある。下を地下鉄が走っている。山谷堀は山門前を流れ、寺に沿って右折して流れていたから舟で運ぶに都合がよかった。今では堀は暗渠になり低い道路が通っている。投げ込まれた遺骸はやがて白骨になり、住職によって掘り返され骨壺に収められた。

  吉屋信子が引用した台東区発行「新吉原史考」の箇所を読んでみる。

012_2_2  「遊女は自分の躰を資本にした商売をしていたのであり、まして主人や客から商品視されていたのであるからその生活は悲惨なものであった。廓から外へ自由に出ることはできなかった。しかも主人の厳しい監視下にあったので全く自由は束縛されていた。しかし自由を拘束され主人や客から商品視されながらも。太夫とか全盛の遊女達は絢爛豪華な生活を送っていた。ただしこれは特殊な例であり、大半は惨めな毎日を過ごしていたのである。遊女が死ぬとその遺骸は三ノ輪浄閑寺門前に放置し、浄閑寺で無縁仏として葬るのが普通であった。そのため浄閑寺には投げ込み寺の異名があったが、そこの過去帳をみると二十代で死亡した遊女が非常に多い。(中略) 二十代の若さで病死した遊女達が多かったというのはその生活が悲惨であったことを物語っている。満足できないような食事で酷使されていたからこそ、遊女達の間に若くして病歿する傾向が見られた」と新吉原史考には綴られている。投げ込み寺浄閑寺を通して吉原の遊女の姿を的確に表している文面である。

020_3  「過去帳は以前にお見せしていましたが、今はお断りしているのです」と浄閑寺の職員の声を聴きながら再び本堂裏に回る。

 本堂裏の境内に立派な石積みの塔が聳(そび)え立つ。遊女たちを祀った「新吉原総霊塔」である。遊女たちの霊を慰めるために建てられたもので、基壇には花又花酔の川柳、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と刻まれた石版が埋め込まれている。

 新吉原総霊塔基壇の中に収められた骨壺は2万5千体。むき出しの骨壺が見られる。背筋が「ゾッ」としてきた。基壇の中には骨壺が積み重なり異様な雰囲気を漂わせてきた。吉原の歴史を感じた。

吉原弁財天―吉原名残碑

063  吉原神社の先、区立台東病院の向い側に弁財天が祀られている。かつては花園池・弁天池と呼ばれた大きな池があったと云う。

  大正12年(1923)の関東大震災で廓内で火災が起こったが、大門は閉められていたため、逃げ場を失った遊女たちは弁天池に殺到し、池に逃れ折り重なるように490人が溺死した。その遺骸も浄閑寺に葬られたと云われている。

057_5  弁天池は電話局建設のために昭和34年(1959)に埋められている。弁財天内の築山には大きな観音像が、溺死した人々のため大正15年(1926)に建立されている。境内には池一面を溺死した無残な遊女たちの骸で埋め尽くされた写真等が掲示されている。壮絶極まりない光景の写真である。

 昭和33年(1958)3月31日に売春防止法が実施、成立によって遊廓公娼は廃止された。その名残を記す石碑は弁財天内に昭和35年(1960)に地域有志によって建てられてた。碑文は共立大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古によって書かれてある。

  そこには「江戸文化の淵叢(えんそう=物事の寄り集まる場所)となれり。名妓研(美)を競い、万客粋を争い、世にいふ『吉原知らざるものは人に非ず』と」、と当時の隆盛を伝えている。江戸文化は吉原の華美を探究するとこから始まるのか?いやいや吉原の深淵に隠されたものこそ、日本の人間社会がもつ残虐性が浮きぼりになってくる。

065  アメリカ国務省の「人身売買に関する年次報告書」(2012年)によると、日本は「Tier2」(人身売買撲滅のための最低基準を十分に満たしていないが、満たすべく著しく努力している国)に分類され、人身売買の目的国、供給国、通過国であるとその不十分性が指摘されている。

  ウエブ記載石原歩氏の論文、「公娼制度と救世軍の廃娼運動一考」の中で、人身売買は世界的に深刻な課題になっている。その中で日本の人身売買、公娼制度の歴史の中で「賞賛すべき業績」として救世軍による廃娼運動を高く評価している。しかし、救世軍のとりくんできた廃娼運動については広く理解されていないことの指摘を行なっている。

 遊女奉公は前借金と呼ばれる身代金を負わされ、私娼でない限り合法的な行為で、親兄弟、家のために遊女になる娘は孝行者であったとする考え方は根強く生きている。貧困から逃れるために親が子を売るという道徳観は諸外国からは「奴隷制度」と見なされている。古屋信子著の「ときの声」を読み救世軍が公娼全廃を訴え、明治・大正・昭和と活動してきたことを知ることができた。日本の人身売買としての公娼制度の歴史について見つめていく必要を感じた。

                                   《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

吉屋信子著「ときの声」(昭和51年1月15日朝日新聞社発行『吉屋信子全集12』)/「台東業書新吉原史考」(昭和35年12月1日台東区発行)/石原歩著「公娼制度と救世軍の廃娼運動一考—現代に至る人身売買の存在要因を考える—」(ウエブ検索による)

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奥州街道白沢宿から鬼怒川渡し跡を歩く

100000009000274924_102031 ♪これこれ石の地蔵さん 西へ行くのはこっちかえ

 だまって居ては判らない 何やらさみしい旅の空 

  いとし殿御のこころの中は 雲におききと言うかえ

 (「花笠道中」昭和33年・歌:美空ひばり・作詞作曲米山正夫)

  この歌を聴くと昭和37年東映正月映画「ひばり・チエミの弥次喜多道中」を思い出す。地方都市の栃木市の映画館は封切り日から1カ月遅れの上映になっていた。しかし、正月映画ということで東京と同時に栃木の映画館でも公開上映になった。元旦の朝、新聞にはさまれていた映画館のこのチラシを見た時、何故か無性にうれしかったことを憶えている。この歌から連想して江戸時代の宿場町の面影が残されているという白沢宿に行ってみようと思い立ち、車を進めた。

 白沢宿誕生と町並み景観

019  平成30年の5月の連休、晴天の日に車を九郷半(くごうはん)川沿いにある白沢公園内の駐車場に車を駐車して、白沢宿から鬼怒川渡し跡までを歩いた。 

  宇都宮市街で日光街道と分かれる奥州街道。その最初の宿場が白沢宿になっている。明治18年(1885)に国道4号線のルートから外れたことにより、時代から取り残されたかのようにひっそりと佇んでいる印象を受けた。…それが味わいのある風景を生み出しているように見えた。

023_2  白沢宿の入口にそびえる榎。その下には江戸時代、通行人や旅人が使用されたとされる公衆便所跡が建っている。珍しくもあり、のどかな気分になる。裏から便所の中を見ることができるが…。

  慶長2年(1597)、宇都宮家臣だった宇加地一族郎党が下田原(宇都宮市下田原)より白沢村に移住し、白沢村の庄屋となり白沢村が誕生したとされている(町史年表)。河内町誌においては、「慶長10年(1605)頃より白沢村庄屋宇加地家と上岡本村庄屋福田家の両村共同の白沢宿としての往還馬継宿がつくられる」として、「慶長15年(1610)3月に幕府の役人や領主である奥平家の家老衆等が白沢まで出頭して立ち合い白沢宿として町割ができた。源六郎(福田)後見親河内と因幡(宇加地)の両人が御用を勤め、問屋を仰せつけられた」と宇加地家と福田家によって白沢宿がつくられたことが記されている。

025_2  白沢宿を誕生させ、後の白沢宿の本陣となる宇加地家と脇本陣となる福田家は慶長5年(1600)7月の会津上杉景勝討伐に際して戦功によるものとされている。

  河内町誌には、徳川勢の榊原・伊井・酒井らは阿久津・氏家まで進出した際に鬼怒川を渡った。その時に鬼怒川の瀬を案内し無事に渡河させたのが宇加地氏の先祖因幡父子と福田氏の先祖源六郎・右京之進父子であったことが記されている。

024_5  白沢宿の入口、公衆便所のある榎一帯は高台になっている。その高台を削り奥州街道を設置したことになる。街道左側、高台の北には白髭神社の社を見ることができる。その手前の家庭菜園地が「丸山砦」跡地になっている。上杉討伐軍の先発大将の家康二男の結城秀康が着陣したと云われている。宇加地文書には「眺望のよい裏の林(慶長期には林はない)の台上に丸太で砦を築いた」と河内町誌に記されている。

   丸山砦跡の高台に立つと遠方に鬼怒川が見えた。すぐ下の白沢宿は南北一筋の街道を挟んだ家並みになっている。手前西側は断崖、東側には九郷半川が流れている。川と断崖に挟まれた宿場町になっているのが分かる。

039  坂道になっている街道を下り、交差点を左折して白沢宿に入る。宇都宮の日光街道から分かれた奥州街道は白沢・氏家・喜連川・佐久山・大田原・鍋掛・越堀・芦野・白坂を通って白河宿まで11宿を往還している。起点の宇都宮から終点の白河までの距離は21里18町14間半(約84.5km)。宿の人口は369人とされ、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠13軒あった(「奥州街道白沢宿まち歩きマップ」より)。

042 河内町誌では、宿の長さが4町30間(約450m)、宿の規模としては大きいものではなかったが、下野文化史を引用して民家約80軒余、道の両側に軒を並べ、約20戸の遊女屋が花柳界を構成し、繁栄したことが記されている。

 江戸期には九郷半から引かれた用水堀が宿場の中央を流れていた。馬の飲料水から防火のため、また旅人の足洗いとしても活用されていた。現在は道の両脇を用水堀が流れている。

051  平成元年(1989)に発足した「奥州街道白澤宿の会」によって用水堀に水車が設置されるようになった。鬼怒川渡し跡を見た後に初めてお会いした白澤宿の会の住吉和夫さん。「現在の水車は3代目。半分は個人が寄贈しています」。水車を設置した理由として「デザイン」と応えてくれた。「この宿の道路は駐車禁止になっていません。ガードレールもありません」と用水掘と道路、歩道が一体となった町並み景観をつくっていく姿勢がにじみ出ていた。行政書士をしている住吉和夫さんの家は白髭神社鳥居横の「旅篭、住吉屋」になっている。

040_2  それぞれの家には「本陣」「伊勢谷」「澤屋」「井桁屋」などと書かれた板札が掛けられていて面白い。これも白澤宿の会の企画なのかと思えた。

 白髭神社鳥居の横にある駐在所。案内書には「番所」という板札が架けられていることになっているが、…ない。奥から現れたおまわりさんに聴くと、「古くなって壊れました。トイレですか?隣の陣屋にありますよ」と言われた。

  この町には江戸時代の公衆便所跡があるのに現代の公衆トイレがない。歩く旅行者にとり公衆便所の存在は大きい。もっともどの家でもトイレを貸して欲しいと頼むと快くOKの返事がもらえる雰囲気がこの町にはある。本陣敷地の奥に「手洗所」は確かにあった。

  本陣には鬼怒川渡し跡を見た帰りに寄るつもりで、宿場の突き当り北の井上清吉酒店を右折し、「白澤一里塚跡」を通り鬼怒川渡し跡を目指した。

 鬼怒川渡し跡…渡船としての繁栄

064_2  白沢宿から西鬼怒川を越えて「一里塚跡」まで1km。ここから鬼怒川まで1kmの奥州街道を歩くと鬼怒川の堤土手にぶつかる。左折して堤沿いの細い道を1kmくらい歩き、堤道路の分岐点を右下に下りたところに「鬼怒川渡し跡」と書かれた標識があった。

  標識の真中に「鬼怒川渡し跡」、左に「氏家宿」、右に「白澤宿」と記載されている。しかし、ここから河原には降りることはできない。鬼怒川の川の流れも見えない。…残念だ。以前には対岸の阿久津河岸跡を訪れた時、阿久津大橋の下の河原を歩き、川の流れを見ながら芭蕉も渡し船でこの鬼怒川を渡ったのかと感慨にふけったこともあった。

055_3  栃木県史の白沢宿鬼怒川については、「鬼怒川は、平常は広い河原で、川幅30間(約54m)であるが、出水時は8町(約872m)にも及ぶ大河で、渡船があった。雪どけの増水期からの夏期3月から10月まで渡船、11月から2月の冬の渇水期は板橋を架けた」と記されている。

  白沢宿の断崖から鬼怒川まで、確かに広々とした水田になっているが、かつては河原であったのではないかと思えてきた。明治期に東北本線古田駅から岡本駅への線路変更になった理由として、鬼怒川の増水で鉄橋の橋桁が維持できないからであったということも頷ける景色である。

  大島延次郎氏は著書「下野文化史」の中で、鬼怒川を挟んで両岸の阿久津河岸と白沢宿は鬼怒川によって繁栄したと指摘している。対岸の阿久津河岸は若目田家による鬼怒川舟運回漕業によって繁栄したことは理解できる。しかし、白沢宿の繁栄は「白沢宿は鬼怒川の歩渡しに近い」としているが、よく分からない。

054  阿久津河岸関連での氏家町史では、下野文化史を引用し、「鬼怒川渡船3割増しの賃銭(文政10年)では1人銭10文、駄馬15文、軽尻は10文だった。また天保12年(1841)より架橋の責任が上阿久津村に負わされ、毎年渡子には10石を給したこともある。ことに寛永以降参勤交代のための諸大名の往来があり、下野北部、奥州の37大名はほとんどこの渡しを通過している」と、大名行列での渡船を特徴と記されている。

  大名の渡船については格式に応じたものがあり、白沢村にも応分の報酬があったものと伺える。慶長5年の上杉討伐に際しての鬼怒川渡河の功績が底辺に流れていることを感じる。鬼怒川周辺に生きる村にとり渡船という稼業について、もっと学んでいきたい。

 白沢宿彫刻屋台-磯辺一族・磯辺敬信

045  鬼怒川渡し跡から白沢宿に戻る。本陣を訪ねたいからだ。勇気をだして本陣に声をかけることにした。

  白沢宿北の入口の橋の下を流れる九郷半(くごうはん)川。流れが急である。西鬼怒川から分流し南下する川の流れによって灌漑の及ぶ郷が9か村半ということから九郷半川と呼ばれている。

074   橋の上から川下に鎮座する北野神社が見える。境内には天保4年(1833)製作の「白沢甲部彫刻屋台」の収納庫がある。同じ下流の須賀神社前にも文化13年(1816)製作の「白沢南彫刻屋台」収納庫が設置されている。

  宇都宮教育委員会の案内標識板には両屋台とも明治5年頃に鹿沼の町内から購入し、修繕を行なっていることが記されている。2台の彫刻屋台の修繕を行なった彫師として、富田宿(現在の栃木市大平町富田)、磯辺分家三代目の磯辺敬信と記されているのに驚いた。

  磯辺敬信は幕末安政の頃から明治30年(1897)まで神社や彫刻屋台の彫師として活躍した。「氏家上阿久津屋台」、「鹿沼銀座二丁目屋台」、「小山市本沢河岸熊野神社」など彫物として現存している。

072   「栃木の水路」の中で阿久津河岸関連の彫刻屋台に関連して、手塚良徳氏は磯辺敬信について次のように記している。「磯辺敬信、本名平五郎は文政11年(1828)に二代目隆信の子として下都賀郡富山村富田に生まれた。明治30年7月に死亡するが、68年の生涯の中で、数台の屋台とかなりの作品(彫刻)を残している。彼は中肉・中背・気風のよい棟梁で、いつも4~5人の弟子を引き連れ仕事をしていたと上阿久津の人々に伝えられている」。と「いつも4~5人の弟子を引き連れて」という箇所に注目する。

  私には神社や屋台の彫師は一人ではなく、集団作業で製作をしていくというのが頭にある。栃木町在住であった後藤流の彫師渡辺正信は磯辺敬信と共同で熊野神社彫刻がある。二人の関係性に注目をしていたが、まさか、白沢宿に磯辺敬信の彫刻屋台があるとは、驚いた。

 本陣宇加地家の座敷-雛飾りと世直し一揆の痕跡

049   宿場町を構成する要素として、①人馬の継立を行なう問屋場があること。②武士や公家など貴人が宿泊・休憩する本陣があること。③宿場の両端の街道がクランク状に曲げた枡形になっていること等あげられている。

  門を入った所の敷地は広くなっている。白沢宿本陣と問屋場は宇加地家にあったことが分かる。

035   「…ごめん下さい」と宇加地家本陣屋敷の玄関前で声かけた。返事がないので、建物にそって裏に回ってみた。南側には蔵が続いている。黒い車に乗って駐車している女性がいた。「ハイ」という返事があった。「少し、お伺いしたのですが、会津藩士の墓が薬師堂の崖の上にあると聞いたのですが、どこにあるのか教えて欲しいのです」。「そうね、隣の住吉さんなら詳しいから分かると思うわ。…それと、いい、今うちでお雛様を飾っているの。見て行きませんか。まもなく閉まってしまうから」と思いがけない返事が返ってきた。宇加地家の奥様だった。そして本陣の中に入れることが分かった。

076  本陣玄関の引き戸が開かれ、中に入れていただく。重厚な玄関から座敷に案内された。座敷にはお雛様が飾られていた。「凄い!艶やかな、本物だ」とひな人形に詳しくないこの私でもその重量感に圧倒された。

  「5年に一度、お雛様を飾るのです。あとは5年後なのね」と言って、資料を渡してくれた。「奥州白沢宿 本陣宇加地家 雛人形」と書かれた文化財保護審議会資料には次のように記されている。全文を載せます。

  「宇加地家に伝わる雛人形の制作年代については『琴の箱書』に明記してあり『寛政元年己酉三月三日』(1789年つちのとり)これ以前に制作されたものと推定できます。

『御雛様』・『御内裏様』・『五人囃』・『右大臣』・『左大臣』を基本として構成されています。江戸中期の雛人形の風俗が良く理解できる大変貴重な文化遺産で歴史的資料はもちろんのこと民族学上も貴重です。付随品としては、公家の生活調度は勿論のこと、格式の高い大名駕籠の他に基盤・将棋盤・双六盤等の娯楽用品、琴・三味線等の楽器は緻密で精巧に作られ、保存状態も極めて良好です。

人形衣装は木目細やかな西陣織りで、以前は一枚ずつ下着から着せていたそうですが、現在では維持管理の都合で着せたままになっています。屏風は桃山時代様式の画風で、四季を表現しています。全体的に色彩も鮮やかに残り保存には大変気を使います」

  お雛様愛好者にとり宝ものかもしれない。必見の価値のある雛飾りだ。艶やかな雛飾りに圧倒されてもっとよく観ればよかったと後から悔やむ心が湧いた。

079  飾られてあるお雛様の座敷の隅に刃物傷跡のある柱がある。「下野世直し一揆」の跡だ。慶応4年(1868)の4月3日に宇都宮八幡山に集結した下野一揆勢3万人と宇都宮藩兵とが衝突した。宇都宮藩兵が一揆勢に発砲したため、一揆勢は二手に分散する。

  このうち北方に逃れた一手は岩倉村をへて下田原村・白沢宿で打ちこわしを行なった。白沢宿を襲った一揆勢は藩兵の追撃にあい四散したが、新たに参加者を得て騒動は氏家・桜野村に拡大した(長谷川伸三著「慶応期野州中央部の農民闘争」より)。

  下野世直し一揆勢はこの白沢宿本陣の宇加地家にも打ちこわしをおこなっていった。その痕跡として残されている柱。世直し一揆の歴史的な史料を見ることができた。

080  「この家(陣屋建物)は明治になって建てられ、以前の建物ではありません。江戸時代と間取りが違っていますのよ。先代が壊された柱等を綺麗にして建築資材として使用して建て替えたのです。傷痕のあるこの柱がそうなんですよ。こちらの部屋が明治の時に郵便局をした所です」と言って、座敷の前の洋室を示してくれた。

  明治の初めにできた郵便局は地域の名主か名家が執り行った。さすが名主と陣屋を営んできた宇加地家だと思えた。それにしてもこのご婦人、奥さんというより奥様と呼ぶにふさわしい気品がある。陣屋という時代の波を受け継いできた雰囲気をかもし出してくれるご婦人に思えた。

  「彫刻屋台の巡行は5年に1回なの。今年がその年なのよ。11月の第1土曜と日曜日ね。屋台を見ることができますよ。是非いらしてください」と彫刻屋台の巡行の日を教えてくれた。素晴らしいお雛様飾りと幕末の世直し一揆の痕跡が残る座敷を見ることができた。声をかけて良かった。そして何よりも気品あるご婦人に出会えたことが嬉しかった。宇加地家の奥様に感謝申し上げて、隣の住吉屋に向かった。

 戊辰戦争会津藩士の供養塔

033_2  「会津藩士のお墓ね。これから案内します」と私を車に乗せて案内をしてくれた住吉和夫さん。住吉家の玄関には来客用の敷居があり、奥さんはお茶を淹れてくれた。初めていきなり訪問者への心遣いがうれしく、宇加地家の奥様同様に、この白沢町の人からは温かみを感じた。

 水車や駐車禁止でない道路ことを話した住吉さんは、「一里塚の興味から歴史に入って行ったのですよ。今、白沢宿の歴史をまとめているのです」と言って、途中で寄ったご自身の行政書士事務所でその資料を渡してくれた。「まだ途中なんですけどね」と笑顔で話してくれた。

083   白沢宿北の突き当りにある地酒蔵元の井上清吉店の左斜めの急坂道を上り、台上を登りきった道を斜めに左折した道の50m先の左側に2基の供養塔が建てられてあった。

  ――会津藩士の供養塔だ。

  河内町誌に、「白沢の宇加地氏は御用川で殺された会津藩士のために明星院の上に供養の石碑を建てた」と記されている。左が大正時代、右の供養塔が殺された直後に建てらてものと思える。残念ながら会津藩士の氏名は判らない。

  案内の標識が立っていれば何の供養塔かはすぐ分かるのにと思った。

086  慶応4年(1868)4月19日に宇都宮城を攻略した旧幕府軍は4月23日に新政府軍に宇都宮城を奪還される。敗残兵の会津藩士は落ち武者狩りとして村人に殺されていったと伝わっている。

  宇都宮城を攻略した際に旧幕府軍の大鳥圭介は治安維持のため乱暴や金銭を無心した兵士は討ち取って良いとのお触れを出していた。4月23日の宇都宮城落城で旧幕府軍の敗走から多くの脱走兵が生じた。討ち取って良いというお触れから、道馬宿村や今泉村など各村々では村人たちの警戒心から容赦のない対応をしたことが大嶽浩良著の「下野の戊辰戦争」に記されている。

 会津にむけて敗走する会津藩士も警戒する村人たちによって討ち取らていったと思われる。4月3日の世直し一揆による白沢陣屋宇加地家への打ちこわしの影響もあり、強固な警戒心が生んだ事件であった。私の住む栃木市においても慶応4年の4月6日に警戒する村人によって殺害された2人の会津藩士の墓が一乗院(栃木市大町、日蓮宗)に供養されている。一揆を扇動する浪士と間違えられての殺戮であった。

 水車小屋と町づくり

012_2_2  九郷半川の清流沿いに造られた「白沢公園」。宇都宮市が製作した水車小屋を備えた水車がギー、ギーと唸りなら回転している。本格的な大きな水車を眺めながら、川の清流とあいまってのどかな田園風景を楽しんだ。

  白沢宿は江戸時代の初めに生まれ、明治18年(1885)の国道ルートから外れることにより宿の役割が終わった。しかし、白沢宿を歩くことによって、明治維新から150年の時を経て今、蘇る何かがあるのではないかと感じた。

 「白澤宿の会」等、地域の人たちによる蘇生の動きもある。本陣に眠る歴史的史料や彫刻屋台など常設展示館や歴史資料館等がなどあれば、より多くの人が立ち寄り、白沢宿を見つめるようになっていくように思える。価値ある歴史資料がまだまだ地域の人の家の中で眠り埋もれているのではないだろうか。水車、堀の整備など外観の町づくりから内部を公開していく町づくりを目指していって欲しいと願い、帰路についた。

                                    《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

「栃木県史通史編4近世」(昭和56年3月発行)/「河内町誌」(昭和57年3月発行)/「ちょっと歩ける日光街道奥州道」(2008年3月、山と渓谷社発行)/大島延次郎著「下野文化史」(昭和31年5月発行)/「氏家町史上巻」(昭和58年3月発行)/手塚良徳著「みちのく江戸を結ぶ鬼怒川舟運」(昭和54年12月栃木県文化協会発行『栃木の水路』収録)/長谷川伸三著「慶応期野州中央部の農民闘争」(昭和49年2月雄山閣発行『幕末の農民一揆』収録)/大嶽浩良著「下野の戊辰戦争」2006年2月下野新聞社発行)/田辺昇吉著「北関東戊辰戦争」(昭和57年5月松井ビ・テ・オ印刷発行)/住吉和夫編「奥州街道白澤宿の歴史(誌)」/白沢地区景観づくり推進協議会作成「奥州街道白沢まち歩きマップ」(平成26年3月発行)

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正岡子規の歌、「しもつけやしめぢが原に春暮れて~」

001_2   しもつけや しめぢが原に 春暮れて 葉広さわらび 人も訪(と)ひ来ず    =正岡子規= 

   「明治になって、正岡子規がこの地(栃木市川原田町標茅が原)を訪れて詠んだ」と宇都宮大学教授の多々良鎮男氏が「栃木県の文学散歩」(昭和54年発行)の「歌枕標茅原」の中で正岡子規の歌として紹介をしている。

  栃木市街地の北にある川原田町、木野町は栃木市内を流れている巴波川(うずまがわ)の源流となる湧水池が多数散在している湿地帯であった。この地をしめじが原と云われ、平安時代には東国の「歌枕」として「古今和歌集」などにもよまれていた。近くには東武日光線「合戦場駅」という駅名があるように、戦国期の16世紀初めには南下する宇都宮勢と栃木皆川氏と激しい戦闘が行われた古戦場でもあった。

004_4_2   粟野街道から東へ少し入った住宅の密集する中に渇水した白地沼がある。河野守弘著『下野国誌』を基にした栃木市教育委員会作成の案内版『標茅が原』と石碑が建てられている。案内版には「平安時代以来、標茅が原と伊吹山(ここより2㎞)は東国の歌枕として都まで聞こえた名所でした。また、このあたりが標茅が原のおもかげを最もよく残しています」と書かれ、数首の和歌が記されている。

  「下野や しめつの原の さしも草 己が思ひに 身をや焼らむ」(よみ人しらず、古今和歌集六帖、河内躬恒)。「頼みこし しめぢが原の 下わらび 下にもえても 年へにしかな」(藤原俊成)。「下野や しめぢ原の 草がくれ さしもはなしに もゆる思ひぞ」(藤原光俊)

1358742928731131101221_2   「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」は芭蕉の「古池や~」とあわせてなじみの深い俳句として私たちの胸に刻まれている。その情景をも思い浮かんでくる。子規は「写生」という概念から近代的な俳句、短歌を文学的に高めたという高い評価を得ている。 

  栃木に住んでいる私にとり、「栃木県の文学散歩」を読んでから、ずーと正岡子規の「しめぢが原」の歌がどの歌集に載っているのか?気になっていた。また、多々良氏が記してる「しめぢが原」に実際に子規は訪れているのか?確かめたいとも思っていた。 

 昨年(平成29年)の12月にNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」全13話をDVDを借りて観ることができた。このドラマから香川照之の演じた正岡子規に強い印象を受けた。そこで「しめつけや しめぢが原に 春暮れて~」の子規の歌の載った歌集を栃木県立図書館にレファレンスとしてメールでの問い合わせをした。

  栃木県立図書館より、「 しもつけや しめぢが原に・・・で始まる正岡子規の短歌について『和歌文学大系25 竹乃里歌』(明治書院2016)の資料から確認しました。正岡子規が遺した歌稿「竹乃里歌」を中心として、他の著述や書簡などにより知られる作品を補った全歌集です。本文は年代順に短歌が収録されており、明治32年の項にお探しの歌を確認しました」という回答がメールにて送られてきた。

Ph_sendagi281  さっそく栃木県立図書館から同書を借りて頁を開いた。

  …あった。明治32年、240頁、1266首、竹乃里歌集の中の春の歌として記載されていた。

  …この歌がよまれたのが明治32年の春ならば、3月、4月に子規庵での歌会でよまれたことになる。すでに子規はこの時、カリエス(結核性脊椎炎)で寝たきりの状態になっていた。

 前年の明治31年の2月には新聞「日本」に10回にわたり、古典和歌から近代和歌への転換を鮮やかに記述したといわれる「歌よみに与ふる書」を記載している。子規が短歌の創作に本格的な力を入れたのは「歌よみに与ふる書」が書かれた明治31年以後であると村尾誠一氏は「和歌文学大系25竹乃里歌」の解説で記している。ちなみに明治32年が一番歌の数が多いとも記している。

  「貫之は下手な歌よみにて古今集は下らぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拝するは誠に気に知らぬこと」と痛烈に『古今和歌集』を真っ向から否定し、『万葉集』や源実朝の『金槐和歌集』を称揚するものであった。

Shikian021  司馬遼太郎は「坂の上の雲」の中で、「歌は感情をのべるものである。リクツをのべるモノではない」として、「歌よみに与ふる書」は「かれ(子規)によれば歌をよむための歌よみの歌よみの歌というのは芸術ではないという。歌は事実をよまなければならない。その事実は写生でなければならないと実例をあげて論証した」と記している。

  カリエスの強烈な激痛の中で、子規は子規庵「病牀六尺」の中で、句・歌を発表し、随筆を明治35年9月19日、34歳11カ月の亡くなるまで書き続ける。

  子規の歌う「しもつけや しめぢ原に 春暮れて 葉広さわらび 人も訪ひ来ず」は古今和歌集の歌と違い、歌枕としての「しめぢが原」の修辞を否定している。人も訪れることのない、寂寥感のある現在の白地沼一帯の情景を描いている.。古戦場跡地からか、怖さも響いてくる歌である。

  多々良鎮男氏が記した子規がしめじが原へ訪れて句を詠んだということはない。想像するに、子規は「病牀六尺」の中、食前でワラビの若芽を見て、歌枕のある下野のしめじが原を思い浮かべ句を詠んだのではないだろうか。「…人も訪ひ来ず」とは子規自身も行くことのできない深い世界へ導いていくように思えてくる歌である。

                                      《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

多々良鎮男著「栃木県の文学散歩、歌枕標茅原」(昭和54年8月、月刊さつき研究社発行)/村尾誠一著「和歌文学大系25竹乃里」(平成28年5月、明治書院発行)/正岡子規著「歌よみに与ふる書」(平成14年11月、インターネット青空文庫)/司馬遼太郎著「坂の上の雲2」(昭和49年2月文藝春秋発行)

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後藤流江戸彫りのある栃木市の寺社を歩く

038  日光東照宮造営から200年ほど経た1800年代、江戸中期から末期にかけて華麗な彫刻を施した神社仏閣が復活したと云われている。

  北関東、下野の国の栃木町は江戸と結ぶ巴波川舟運と日光例幣使街道が交差する物流拠点として宿場・問屋町として繁栄した。そして明治から大正にかけては全国に網羅した麻問屋流通によって興隆し、蔵の街栃木と譬えられるようになった。

  こうした現在の栃木市の街の中には、江戸彫り後藤流の流れをくむ霊獣「龍、サイ、獅子」などの彫物が寺社の向拝鐘掛け上の欄間や木鼻に見ることができる。江戸中期以降の社寺では高価な漆彩色の彫物ではなく、硬い槻木(つきのき、欅の古名)材を用い、木目を生かした立体感を作る木地彫が「江戸彫」の主流になっていった(大田区HP「大田区歴史探訪」より)。その江戸彫の潮流、後藤流彫刻が施されている栃木市内の社寺を探索、歩いてみた。

●定願寺(天台宗、栃木市旭町13-1)

Photo  弘仁3年(815)最澄が開山し、現在地に永禄6年(1563)に皆川俊宗によって創建された定願寺。例幣使街道から栃木市街地に入る開明橋南木戸口から蔵の街通りに入り、室町交差点先の通りを右に曲がった所にある。

  栃木市の草分けの寺院でもある定願寺は、元治元年(1864)の6月1日、太平山から筑波山に戻る際の水戸天狗党の本陣宿泊地になったり、明治4年(1873)の栃木県庁舎建築の仮庁舎になるなど、歴史を刻んできた寺院でもある。

Photo_3  文政6年(1823)に建立された境内に入る御成門の木鼻には「波彫の獅子」が施されている。駕籠彫にて木を波型にけずり、獅子の姿をなしているとし、栃木市指定文化財になっている。棟札には「工匠渡辺杢水水源完休 彫工 渡辺喜平治宗国」と誌している(栃木市史より)。

  網で覆われている「波彫の獅子」。下から見上げてみると獅子のようにも見える。くねくねした波状の彫刻の技には凄さを感じる。しかし、よく分からない彫物であるのが正直な感想だ。

Photo_4   正面、本堂の向拝鐘掛け上の欄間には2頭の龍の彫物が掲げられてある。作者は不明だが、御成門創建の頃の文政年間(1818~29)の作ではないかと想像する。 

  江戸の木彫りには、後藤流、石川流、島村流など伝統的な流派が存在したという。御成門「波彫の獅子」の彫師、渡辺喜平治宗国は幕府彫刻師、後藤茂右衛門正綱の弟子渡辺喜平治正道の子息であり、大平町富田に住み大平町榎本の八坂神社本殿や定願寺御成門などを彫刻していると云われている。

Photo_6  大平町富田宿には同じ後藤茂右衛門正綱の弟子から初代磯辺信秀が生まれ、磯辺一族の元祖になっている。彫刻師磯辺一族は江戸中期から明治期にかけて大平町富田から栃木県を中心に10人以上の彫師を輩出し、数多くの彫刻を社寺や鹿沼彫刻屋台などに遺している。

 渡辺喜平治正道はその磯辺信秀の兄弟子にあたり、栃木町建仁寺流宮大工の渡辺睦林の次男であると関忠次は自著「近世社寺装飾彫刻画題考、社寺の彫物を訪ねて」において記している。

Photo   栃木在から江戸に出た渡辺正道は後藤正綱のもとで木彫り師として二代目後藤茂衛門を継ぎ一本立をしたと思われる(三代目は後藤茂衛門は正綱の子が継ぐ)。 後藤流二代目渡辺正道の子息、渡辺喜平治宗国は大平町富田に戻り磯辺一族と共に社寺の彫り師にとなっていったと思われる。社寺の彫刻は宮大工から分化し、「宮彫り師」「木彫り師」としてて成立していったとする説に準じている。

 《江戸から栃木に流れたきた後藤流渡辺喜平治の系図》

  後藤茂右衛門正綱(幕府彫刻師)―渡辺喜平治正道(栃木町宮大工渡辺睦林の次男、二代目後藤茂右衛門)―渡辺喜平治宗国(正道の子息、大平町富田住、榎本八坂神社本殿・定願寺御成門彫刻)―渡辺喜平治正信(宗国の子息、栃木石町住、栃木本町長清寺・泉町雲龍寺・新井町天満宮・小山市上泉町熊野神社等の彫刻)ー弟子・田中稲村(日本画家田中一村の父)。(関忠次著「近世社寺装飾彫刻画題考、社寺の彫物を訪ねて」より)

 境内本堂脇には磯辺一族の分家、磯辺儀兵衛隆顕の彫刻のある「成就院不動堂」があるが、栃木町に住んでいたという後藤流渡辺喜平治正信の彫物に着目して歩いていきたい。

●長清寺(真言宗智山派、栃木市本町14-30)

Photo_3   「この地は字川島と言いますよ」と語る長清寺の住職。そばを流れる杢冷川の流れは、かつては二股に分流し、また合流して巴波川に注いでいたという。そのため二股に分流する地帯を川島と云われていた。

  「明治10年代頃に本堂を建てたのですが、それ以前の本堂は杢冷川の向こう岸、今の幼稚園のある所に建っていたのです。当時の住職は変わったお人でね、新しく建てられた本堂が気に入らず、泉町にある常通寺(浄土真宗)に譲ってしまい、すぐに建てられたのがこの本堂なんですよ」と住職は語ってくれた。

  本堂向拝上の鐘掛け梁の木鼻には霊獣「獅子」「バク」の彫物が鮮やかに彫られてあるのが見える。彫師は関忠次著の「社寺の彫物を訪ねて」よれば渡辺喜平治宗国の子息、渡辺喜平冶正信と記している。渡辺喜平治正信は近くの栃木石町(現在の旭町)において「提灯屋」を営み社寺の彫刻をしていたことになる。この人の弟子が、孤高の日本画家田中一村の父、田中稲村(彌吉)であると関忠次氏は指摘をしている。

Photo_5  栃木市城内の圓通寺のある地から天正年間(1580)に皆川広照による栃木城築城のために現在地に移ってきた長清寺。境内には不動尊が祀られている。「栃木町には、北は雲龍寺、南に長清寺という成田山不動尊がありました。今では当寺(長清寺)は成田山新勝寺とは離れておりますけどね」語る住職。

  栃木市史の中には、江戸中期頃より栃木町では不動尊を祀る寺院から成田山新勝寺の講が作られた。白装束をした講一行は栃木町から巴波川舟運中積河岸の部屋河岸にて大船に乗り、船中一泊し千葉県木下に上陸、成田山詣りをしていたことが記されている。江戸においても隆盛した成田山詣りは栃木町においても行われていたこと。江戸文化流行の影響を受けていた一端がここにもあったことを知った。

●不動尊雲龍寺(真言宗智山派、栃木市泉町18-8)

Photo_6   栃木市蔵の街大通りの北端にあるのが、かつての北木戸口跡の万町交番交差点。その先は昭和7年に開通した道幅10間(約18m)の北関門通りが通っている。その北関門通り万町交番交差点から200m先に右斜めに入る2m幅の狭い道がある。かつての不動尊雲龍寺の参道跡である。参道の奥には近隣から「お不動さん」と親しみをこめて呼ばれていた雲龍寺御堂が建っている。明治23年(1890)にこの地に建立され、明治29年(1896)には建てられている壮大な建築物である。境内には栃木秋まつり「泉町山車人形・諌鼓鶏」の収納庫も建てられている。

Photo_8  江戸後期の文化文政の頃(1804~1829)にかけて栃木町の成田山不動尊信仰の講が長清寺とは別に3つの講、龍王・神風・信心が存在していた。その3つの講が慶応元年(1865)に合同して栃木大護摩社が結成され、明治3年(1880)に成田山新勝寺原口照輪師によって定願寺にて開眼供養が行われた。そして明治23年に現在地に成田山不動尊雲龍寺と建立されたと栃木市史には記されている。

055_2 万町交番交差点角にあった「清水屋」の古い建物が昨年の平成28年に解体されている。雲龍寺参道に入る口にあたる旅館であった。子供の頃、よく母に連れらて清水屋の湯船につかりに行ったことの思い出が残っている。明治32年(1899)発行の「栃木繁昌記」の中で著者の柴田博陽は不動尊雲龍寺の賑わいの様子を次のように記している。

  「泉町不動尊境内に於ける夏の夕は、又特別の賑やかにして其雅俗なるは、今ここに筆にする能はざれども、涼しき風の吹き通う夏の夕。浴衣のまま、同所に飄然(ひょうぜん)と散歩せば、老となく、若となく、男となく、女となく、波の如くこの地に遊ぶべし。境内には芝居あり、手品あり、軽業あり、見世物あり、祭文あり、浪花節あり、釣魚あり、吹き矢あり、射的場あり、料理店あり、露店あり、待合あり、氷店あり、団子屋あり、その賑やかなる事実に驚くべし」と参道から境内にかけての大道芸や見世物小屋などで老若男女の集う賑わいを著し、西側にあった「ぬかり沼川」の新柳の姿、光景を東風になびくその姿、艶なりと記している。

Photo_9  柴田博陽著の「栃木繁昌記」の中に明治期の雲龍寺の写真が載っていた。この写真から、山門は現在の西側ではなく御堂の正面に立っていたことや幅広い参道が続いていたことが分かる。広い境内から数多くの見世物小屋や大道芸人、団子屋や射的場など店舗が連なっていたことが読み取れる。

 執筆した柴田博陽は何者なのかよく分からない。「栃木繁昌記」の中の栃木町諸職員爛に「下野日日新聞特派員」と記載されている。柴田博陽は同書の中で当時の栃木町に3つの提言をしている。1つは両毛線敷設から麻宇を活かした工業をおこすこと。2つ目は女子教育に力を入れるため栃木町に女学校を開校創設すること。そして3つ目は遊郭を錦着山麓につくるべしと3つの提言をしているのがおもしろい。3つ目の遊廓は錦着山麓ではなく合戦場にできたが、あとの2つの提言は実現されている。麻宇を活かした懐炉灰、下駄製造の産業と栃木女子高校も明治34年(1901)に創設されていることから、卓見の持ち主であったことが伺えてくる。

Photo_10  「雲龍寺御堂の向拝鐘掛けの上にある龍の彫物。あの彫刻はりっぱです。田中一村の父、田中彌吉が彫ったのではないかと思えるのですよ。凄い彫物です」と以前に満福寺の長沢住職は私に話してくれた。

  睨みを効かせるように鋭い眼玉をしている龍の欄間彫刻。凄さと迫力が伝わってくる。向拝の横からは太くたくましい、海老虹梁(えびこうりょう)。向拝柱上部には見返りの唐獅子の彫刻が施されている。

 見事な彫物の彫師は渡辺喜平治正信であると関忠次は「社寺の彫物を訪ねて」の中で指摘している。

Photo_12  関忠次氏は渡辺喜平治正信の彫刻として他に栃木市新井町にある天満宮拝殿向拝上の龍の欄間をあげている。別の日に新井町天満宮に行き、向拝鐘掛け上にある龍の彫物を見て来た。写真で見比べても雲龍寺の龍とうり二つである。同一人物の彫師であることは間違いないと分かる。

2  また、栃木市重伝建地区嘉右衛門町岡田記念館所蔵の大神輿の縁起書には「文久3年(1863)彫工、栃木石町渡辺喜平治正信」と記され、嘉右衛門町例幣使街道沿いに展示されている。

  栃木旭町の神明宮の大神輿の彫刻も渡辺喜平治正信が彫っているとされている。

Photo_14 

 他に特記するものとして、渡辺喜平治正信の彫物には、小山市上泉にある熊野神社本殿の彫刻を磯辺敬信と共に彫上げている立体感ある幽玄な彫刻がある。熊野神社は巴波川舟運本沢河岸跡の「日光山裏道」と佐野道が交差する梅の宮宿にある。

 熊野神社境内の案内標識版には当代一流の彫刻大工としての磯辺分家三代目磯辺敬信が評価され、渡辺喜平治正信も共に熊野神社本殿彫刻彫りをしたことが記されている。江戸後期から明治初期に磯辺一族とは別に栃木町には江戸後藤流の流れを受け継ぐ彫師がいたことが分かり、うれしくなってきた。後藤流江戸彫りの流れに位置づけされる彫師、渡辺喜平治正信についてこれからも注目していこうと思う。

047  雲龍寺御堂向拝鐘掛け上の龍の欄間彫刻は田中一村の父、田中彌吉が彫ったのではないかと満福寺の住職は推測している。

  「クワズイモとソテツ」など奄美の底深い世界を描いた孤高の日本画家田中一村は栃木市平柳(現在の泉町)に生まれている。雲龍寺200m東に田中一村の生家があったと云われている。大正元年(1912)、一村が4歳の時に一家は東京の麹町に転居している。一村の父、田中彌吉は稲村の号を持つ天才肌の仏像彫刻だったと云われている(中野惇夫著「アダンの画帖―田中一村伝」より)。関忠次氏は彫師渡辺喜平治正信の弟子であったと指摘をしている。

Photo_18  雲龍寺と田中彌吉とを結びつくものとして、明治29年(1896)に建てられている雲龍寺建立由来の石碑裏面の中に田中彌吉の名前が刻字されている。境内の右にある3基の真中の「雲龍寺建立の由来」の裏面には浄財をだした615人の氏名が刻字されている。当時の栃木町の豪商などそうそうたる氏名の一番下の「発起人」の一人として「田中彌吉」と刻まれている。この刻字されている「田中彌吉」とは田中一村の父親なのか?

Photo_20  中野惇夫著「アダンの画帖―田中一村伝」の最後年譜では田中彌吉は昭和10年(1935)に52歳で亡くなったと記されている。逆算すると生れは明治16年(1883)になる。明治29年建立石碑の時の田中彌吉は13歳になる。齢が若すぎる…。どうも不自然なのだ。石碑に刻まれた田中彌吉は田中一村の父とは別人なのか?中野氏の年譜が間違っているのか?龍の彫刻は御堂建立から後の明治30年代なのか?…石碑に刻字されている「田中彌吉」についてはこれからも調べていくことにする

   雲龍寺御堂の彫刻が渡辺喜平治正信によって彫られているとすれば、近隣に住んでいた弟子の田中彌吉も関わり、共同で製作したのではないかと予測できる。浮世絵の世界も共同作業であったことから神社の木彫り師の世界も同様に共同作業があったと思われるからだ。

051    御堂の右、東側には朽ちかけ崩れそうな古い建物がある。栃木市老人クラブの伝承活動「栃木の社寺Ⅱ」に記載されてある「雲龍寺、沐浴場跡」の建物ではないかと思えた。同書には、「本堂の東側に僧侶や信者の沐浴場が造られており、冷水で身を清めていられるているのがたびたび見られた」と沐浴場のことが記されている。

 泉町に住む知人に訊ねたところ「ああ、水行場のことね。白装束した坊さんたちが水を浴び、修行していた。下から水が湧いていたんだな。昭和20年代後半頃までやっていたよ」という答えが返ってきた。朽ちかけた建物だが、「水行場」といわれた「沐浴場」跡として、不動尊信仰跡地として貴重な歴史遺産ではないかと思えた。

  雲龍寺の西側には「ぬかり沼」があり、栃木の町に用水として流れ注いでいた。今はその用水の流れは暗渠になり昔日の面影はない。雲龍寺の境内もかつての老若男女の娯楽地としての面影は残っていない。しかし、御堂には龍の彫刻などが今も残っている。江戸彫りの探索は栃木の町に江戸文化の資産を捜し歩くようなものと思えるようになってきた。これからも栃木の町に残る歴史文化の遺産を探し訪ねる旅をしていきたい。

                                         《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

関忠次著「近世社寺装飾彫刻画題考 社寺の彫物を訪ねて」(平成3年6月発行)/大田区HP「日光東照宮から始まる宮彫師の伝承、江戸彫工・堂宮彫刻の世界」/「栃木市史」(昭和63年12月発行)/柴田博陽著「栃木繁昌記」(明治32年11月発行)/中野惇夫著「アダン画帖田中一村伝」(1995年4月小学館発行)/栃木市老人クラブ編「栃木の社寺Ⅱ伝承活動平成元年度」(平成2年3月発行)/泉町成田山不動尊雲龍寺世話人編「昔日の泉町お不動さん」(平成16年11月発行)

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幕末の栃木町―うずま公園「西山謙之助供養塔」

041_2  安政6年(1859)に詠われた狂歌の中に、「念仏ばし わたるゆきゝ旅人も 笠をあみだにかぶる夏の日」(岩月、鶴成)がある。夏の暑い日に阿弥陀かぶりで旅人が念仏橋を渡る光景――。何やら念仏を唱えて阿弥陀かぶりをして渡るさまが思い浮かび滑稽な感じがしておもしろい。念仏橋は現在の栃木市内を流れる巴波川に架かる「幸来橋」のことを言っている。

  念仏橋には欄干があった。弘化3年(1846)の「片柳河岸絵図」に描かれている念仏橋概要では、「長さが12間(21.8m)、幅2軒半(4.5m)、杭6本、手摺有り」と記載されている。手摺のある橋であり、栃木河岸問屋がそれなりに出資しての立派な橋だったと思われる。

028  慶応3年(1867) 12月11日(新暦1月5日)の夜半の五つ時(午後8時)。巴波川に架かる念仏橋の左岸にある西木戸は閉じられていた。念仏橋の方から「吾れ西山謙之助、開門せよ」と名乗り、木戸を開けて槍を引っ提げた騎馬2騎が供の者1人を従え栃木宿内に入ってきた。この3人は、栃木宿に先乗りしている5人の先発隊の応援のために鍋山村からやってきた西山謙之助ら薩摩出流山糾合隊の浪士たちであった。

  暗闇の中、篝火に照らされた木戸口では鉄砲、槍で武装した栃木陣屋藩士と町民兵50人が待ちかまえていた。「ズドーン」と鉄砲の合図で2頭の騎馬に陣屋勢が襲い掛かる。西山謙之助ら2人は馬から引きずり降ろされ、討ち取らていった。供の者としてついて来た国定忠治の子息、大谷刑部は逃げることができたが、岩船の戦いで捕えられ、天明河原にて斬首されていく。今から150年前の慶応3年(1867)の12月11日に出流山事件における念仏橋西木戸口での戦い。

Yjimage3  慶応3年(1867)10月15日の大政奉還を受けて京都を舞台に、天皇を中心にした新しい政治体制を廻り、権力闘争が展開されていた。徳川を倒して新政府構築を目指す討幕派の薩長。徳川を含めて新政府を構築する山内容堂、松平春嶽ら公議政体派との争い。流れは徳川を交えて諸侯会議で進める公議政体派になりつつあった。しかし、「徳川を倒してこそ王政復古は成る」とする薩摩藩は何としても徳川を倒すことを宿願として、江戸、関東を擾乱状態として武力衝突への挑発行為を画策する。

 その画策、挑発行為とは相良総三を中心に江戸薩摩屋敷に屯集した尊王攘夷の浪士、草莽の士で構成する薩摩屋敷屯集糾合隊による、下野、甲州、相模の3か所と江戸における擾乱状態を作るための挑発行為であった。この画策は徳川・庄内藩による江戸三田薩摩藩邸焼打ちを招くことになる。翌年の正月3日の鳥羽伏見において、薩摩の家来の処罰を求める「討薩之表」を掲げて京都に進軍した幕府軍と薩長連合との戦闘に繋がっていった。戊辰戦争の始まりである。このことから下野における出流山糾合隊と幕軍との戦闘、所謂「出流山事件」は、戊辰戦争の一つとして捉えられている。

024  慶応3年11月29日に下野出流山満願寺本堂前の広場で討幕挙兵した薩摩藩出流山糾合隊は170人に増加していった。地元栃木町近在の者たちは3年半前の水戸天狗党と立ち振る舞いが類似していることから、彼らを「出流天狗」と呼び、畏れた。

 増大した糾合隊はより以上の資金を必要とした。近在からの資金が思うように集まらない。そのため、足利藩栃木陣屋に薩摩藩として借入を強要していくことになる。12月10日に元浪士隊の高橋亘一行5人は栃木宿旅籠押田屋に滞在し、足利藩栃木陣屋奉行、善野司を押田屋に呼びつけ資金借入の交渉を行なう。栃木陣屋奉行、善野司は水戸天狗党対応への誤りからすでに関八州取締出役を始め近隣諸藩に討伐を要請していた。

022_3  この時、すでに関八州取締出役澁谷鷲郎に率いられた上州岩鼻陣屋の鉄砲隊を含めた200名の農兵が出兵し(樋口雄彦著「幕末の農兵」)、合戦場宿に待機していた。また、善野司は町年寄を通して警報を発し、町民兵による通りの店先の警戒、防火用水の手配、4つの木戸口を固める準備をしていた。

   翌11日に陣屋側は千両を高橋一行に渡すことを確約し、まず五百両を渡し、残りを夕刻に渡すことを通告した。そして夕刻の七つ時(午後5時)、押田屋に鉄砲隊が取り囲んだ中、関八州農兵隊が突入した。糾合隊3人が斬殺され、高橋亘ら2人は逃亡した。後日、捕えられた高橋亘は天明河原で斬首される。また斬殺された3人の内2人、斎藤泰蔵と高田国次郎は近在の粕尾村農民出の20代の若者であったと云われている。。

 栃木市蔵の街大通り、倭町交差点手前にあった旅籠「押田屋」は栃木陣屋からわずか200mの近距離であった。跡地には旅館「晃陽館」「鯉保別館」「ホテル鯉保」へと変遷し、現在ではファミリーマート店が開業している。

074  同夜、鍋山村から応援にきた西山謙之助ら3人も念仏橋西木戸にて警戒待機していた栃木陣屋の藩士、栃木町民兵によって討ち取られている。斬殺された糾合隊5人の首は瀬戸ノ原に晒され、亡骸も同所に棄てられたという。

 栃木町民にとり尊王攘夷とか王政復古とは関係なく、ただただ3年半前の「水戸天狗党愿蔵火事」への恨みをはらすということであった。町の半分の350~400軒が焼失し、罹災者700人、田中愿蔵隊に殺害された町民13名という甚大な被害をうけた。水戸天狗党とか出流山糾合隊とか関係なく「尊王攘夷」を掲げる浪士たちの憤懣と町を防衛するということでの戦いであった。

  ただ、残念なことに、この時の「栃木町民兵」については栃木市史にも出てくるが、確かな史料がなく、町民兵についての詳細は不明なままになっている。今後の研究課題の一つになっている。

  出流山満願寺山門前旅館にいた竹内啓ら糾合隊は栃木宿の戦闘を知り、おとり部隊11名を残し、12月11日の真夜中、鍋山村から唐沢山城を目指して移動をした。しかし、12日の早朝、岩船山麓にて鉄砲隊200名を主力とする1000名の幕府軍によって壊滅した。糾合隊には鉄砲がなかったと云われている。12月15日と18日に捕縛された糾合隊41名が佐野天明河原にて斬首され、戦死者を含め78名が斃れていった。 

008_2  栃木市内を流れる巴波川が左に大きく曲がる処に「うずま公園」がある。かつて、瀬戸ノ原と言われていた。このうずま公園内にある栃木市営駐車場の中に念仏橋(現幸来橋)西木戸の戦いで戦死した23歳の西山謙之助(尚義)の供養塔が建っている。西山謙之助の亡骸が埋葬されたといわれている地である。

  どうして西山謙之助だけ命名された供養塔なのか…?近在の村の者で一緒に葬られた者の供養塔はないのか?――分からない。

  この地に下都賀郡役所が建てられたのが明治16年(1879)10月。栃木宿問屋場のあった長谷川展旧本陣宅からの移転であった。

071  長谷川伸著「相楽総三とその同志」の中で瀬戸ノ原を次のように記している。当時の雰囲気が伝わってくる。

  「(栃木宿戦闘で戦死した糾合隊)の死体をセドの原の一ツ穴へ棄て葬いにした。セドは裏の意味で、宿外れの一ツ穴へ投げ込むことを宿のものはぼっこみといった。そこは大名の通行などのとき斃馬が往々にして出る、それを抛りこんだ処である。

076 後代になってその場所近くに郡役所が建つので、地盛りのために、そこから要るだけの土を掘りとった。ところが、斃馬の供養に建てた馬頭観世音の碑のある近くから、人の骨が出たので、そこだけ止めて他を掘った。その土工作業が終って、雨がたびたび降るうちに、掘った跡に水溜りが出来て、馬頭観世音の碑のある堀り残した処だけが中の島の如くなった」

  昭和35年(1960)に下都賀郡役所職員が浄財を募り、「西山謙之助供養塔」が建てられた。栃木市史では西山謙之助の老父が戦死の地を弔いたいと栃木町きたことと錦着山に記念碑が建てられていることから供養塔を建てる動機になったとしている。一昨年の平成27年の11月には地元の有志によって供養塔にりっぱな祠が設置された。馬頭観世音石碑は公園の南端、巴波川の畔に建っている。

062  美濃国(岐阜県)侍医の子として生まれた西山謙之助は慶応2年(1866)22歳の時に江戸に出て、斎藤弥九郎に剣、平田銕胤に国学を学ぶ。慶応3年(1867)10月に薩摩邸糾合所に入り、出流山事件に加わる時に故郷父母に、「あながちに文かかむと思ふだに先立つもの涙也けり」と書き出しから始まる手紙は生き残りの者によって「尚義遺芳」として出版された。勤王を志して斃れていった若者象として長谷川伸著「相楽総三とその同志」を通して世間に知られるようになっていく。

  長谷川伸は同書で書かれた手紙を引用し、「尚義儀、今般、尽忠報国の士列に加わり、遠祖以来受候、国恩の万一を奉じ賜り候心得に御座候、就ては生前拝領の儀は十分相叶儀と奉存候に付き、書中を以て謝罪労御訣別申上候とつづき、今度の挙兵は錦旗を奉じて、嘉永6年以来違勅の罪をかさぬ幕府を討つもので、事の成否はわからない。敗れたとて五百年以前の橘公のあとを行くもので、稀代の盛挙、不巧の名誉、これに過ぎたるはない。併しながら23年の高恩をうけ、殊にこの一両年はご心配をかけ塵ほど孝行せず、こういうことになるは不幸千万で恐懼の極みであるが、盛挙を知って座視して天罰に値すると、赤心を吐露した大文章で、読むものとして襟を正させる」と悼む心情を記している。

003_3 栃木市郊外の西にある錦着山。その頂きには明治11年(1878)に初代栃木県令鍋島幹によって明治維新の勤王の志士から西南戦争の際の戦死者までを合祀するための招魂社が建てられている。その招魂社本殿脇の斜面に西山謙之助の石碑が信州上田住人、義兄弟の丸山久成(金井清八郎)氏によって建てられている。

061_2  石碑の背面には、「千重の一重の石に萬代に伝へてむ」と変革の志を後世に伝え讃えていく文言が刻まれている。碑文はかすれて読めない。その碑文内容は中島勝国編「西山謙之助書簡集」に収められていた。碑文には異なる事項もあるが、記載させていただくことにしました。

  栃木市錦着山招魂社「西山尚義碑」碑文

005  「此は西山謙之助が墓ぞ。諸人等汚穢しなせそ。鳥獣よ。この益荒男はも。美濃国泳の殿人にて。古の道に志深く。吾と同く気吹舎の翁の教子となり。其学芸に居留て勤みけるに。志し慶応の三年といひとしの冬のはしめ。天皇の勅を畏まで世間を擾乱さむとする醜の奴はらを討罰めんと。同志の人々。或侯の江戸の御館の屯集り。大事を議りし時に竹内啓ぬし手に属てこの下。毛野に下り。磐船山に旗上せむとせしかも。功業不就して敵等に取囲まれ戦歿の際に臨みて数人を討取るなやめ。同き十二月十一日。年二十三にして此里の露と消えたりし。僕□皇と国とに身をまかせ命罷たるゆへ。よしの千重の一重の石の□りて、萬代に伝へてむと思起して。学問に談らひけるに。そよしれよけむと其失費さへ助け賜ひければ。やがて如此経営けるになむ。そは尚義か義兄なる。信濃国人丸山久成」(中島勝国編「西山謙之助書簡集」より)

039   幕末の栃木町。例弊使街道宿場町として、さらには巴波川舟運による物流の一大集積地として活況を呈した。

  元治元年(1864)6月6日の過激攘夷派の水戸天狗党田中愿蔵隊による「栃木町焼打ち事件」。その3年半後の慶応3年(1867)12月11日の栃木宿戦闘、「出流山事件」がおきた。こうした事件を通して栃木町は幕末の渦に巻き込まれていく。とりわけ出流山事件では、栃木宿戦闘、出流山戦闘、岩船山麓の戦闘で78人が斃れていった。この中には栃木周辺からの在地農民を始め私塾で学んでいた若者や儒学者ら参加していった。薩摩藩からの武器援助もなく、圧倒的な幕府の武力の前に壊滅をしていった。

  討幕を掲げた薩摩藩の捨石としての戦闘であったのではないかと思える。本当に必要な戦いであったのか?

Bb882c4bb9752d4080a0b98b26059f1d1  天皇を中心とした王政復古の政体は徳川慶喜も描いての「大政奉還」であった。坂本龍馬が暗殺される直前の11月に土佐藩重役に示した坂本龍馬自筆で記した「新政府綱領八義」。公議政体を基本とした大政奉還後の議会制度、官制、外交、大典(憲法)の撰定、軍政などに加えて、最後に「右預メ二三ノ明眼士と議定シ諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々〇〇〇自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下万民ニ公布云々強抗非礼公議ニ違フ者ハ断然征討ス権門貴族モ貸借スル事ナシ  慶応丁卯十一月 坂本直柔」との政体案を示している。

  文中の〇〇〇部分は島津久光説、山内容堂説、徳川慶喜説、大統領説などあり、今も通説は定まっていない。しかし、大政奉還からつながる坂本龍馬政体案こそが、日本のすすめていく方向ではなかったかと思える。新たな明治の世を築く坂本龍馬新政体案でいっていたならば「戊辰戦争」などは起こらず、出流山事件等無駄な死はなかった筈だ。しかし、薩摩藩西郷、大久保は慶喜を絶対に許さず、慶喜の、〇〇〇盟主阻止にむけて武力討幕へと進んでいった。… 龍馬暗殺の背後には薩摩、西郷がいると思えてくる。

  大政奉還、龍馬暗殺、出流山事件は今から丁度150年前におきた出来事だ。150年を節目にうずま公園に建つ「西山謙之助供養塔」は、今一度明治維新を問い直すべきだと私に語りかけてきていると思えてきた。

                                          《夢野銀次》

≪参考資料引用書籍≫

「安政六年狂歌扶桑名所名物集下野」(1988年栃木史心会発行)/長谷川伸著「相楽総三とその同志」(昭和46年12月朝日新聞社発行「長谷川伸全集第7巻」収録)/中島勝国編「可児歴史業書西山謙之助書簡集」(1983年発行)/「栃木市史通史編」(昭和63年12月栃木市発行)/稲葉誠太郎著「水戸天狗党栃木町焼打事件」(昭和58年11月ふろんていあ発行)/樋口雄彦著「幕末の農兵」(2017年12月現代書館発行)
 

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水戸天狗党と関わった川連虎一郎碑銘の石碑

047  満開の桜が散り始めた4月14日に巴波川に合流する永野川沿いを「歴史と文化を歩く会—栃木」の仲間と共に、栃木市大平町の真弓、榎本地区を歩いた。菜の花が土手堤一面に咲きほこり、陽春の香りに包まれての歩行だった。

  大平町誌には、「東山道を通って西から入ってきた仏教文化は永野川(出流川)、巴波川を逆のぼり、大平町には寺社が50有余を超えた」と記されている。

  確かに歩いたコースには磯山諏訪神社、法王寺(時宗)、法宣寺(日蓮宗)、聖天院(真言宗)、総徳寺(曹洞宗)、妙性院(曹洞宗)、榎本大中寺(曹洞宗)、八坂神社、東明寺(天台宗)、武尊神社等と多くの寺社が散在していた。 鹿沼市の彫刻屋台を数多く手がけた彫刻師磯辺一族が大平町富田宿で生まれたことも頷ける寺社の数だと思える。また、西から文化は流れてきていたことを改めて認識をした。

048_2  榎本城址標識のある手前の永野川土手堤から左に曲がり、道なりの左奥に崩れかけた廃屋の屋敷があった。「川連虎一郎の生家ですよ」と地元の会員の人が教えてくれた。子孫は近辺に住んでいるが、屋敷はそのまま現存している。

  「この家が幕末関宿藩佐幕派によって斬殺された川連虎一郎の生家なのか」としばし佇む…。ずっと以前に江東区木場「洲崎神社」に行った時に「川連虎一郎」の石碑が境内にあったことを思いだした。石碑を見た時に「どうして大平町の川連虎一郎の石碑が洲崎神社にあるのか?」と不思議な印象を受けた記憶がある。

  大平町の幕末の志士としては、横堀村の国分義胤、富田村の松本暢、真弓村の川連虎一郎が知られていることを後から知った。

037  横堀村と真弓村は関宿藩久世家の領分であった。村名主の国分義胤と川連虎一郎は文久2年(1862)に関宿藩が百余名の郷兵(農兵)を結成する際に教頭として積極的に関わっていったとされている。

  富田村名主の次男として生まれた松本暢は師の藤森弘庵の媒酌で壬生藩御典医4代目の石崎正達の娘婿養子となり誠庵を名乗り、5代目を継ぐ。しかし、元治元年(1864)3月に筑波山にて挙兵した水戸天狗党に協力、関与したことにより壬生藩内からの暗殺を逃れるため脱藩をし、石崎家からも除籍になる。

   脱藩後の松本暢は明治維新の際に尾張藩を通して新政府の刑部省の判事になる。晩年に隠居所の名前を「盤峰園(ばんぽうえん)」と名付けて大平町富田に隠居してくる。その子孫、やしゃごが現在も「盤峰園」という名前でブドウ園を運営している。

034_3   栃木市大平町西山田にある「おおひら歴史民俗資料館」に川連虎一郎の陣羽織や「君のため世のため何か惜しむからむ捨てて甲斐ある命ならば」という書等が展示されている。

   紹介文では、「川連虎一郎(かわつれこいちろう)諱は義路。天保12年(1841)7月29日、関宿藩領真弓村(現栃木市大平町真弓)の大庄屋、川連一郎兵衛義種の子として生まれた。幼少より水代村峰岸休文に学び、後に江戸に上って儒学者藤森弘庵に師事した。武術は神道無念流斎藤弥九郎道場で師範代、野原正一郎(壬生出身)に指南された。その紹介者は松本暢である。関宿藩が郷兵を組織すると虎一郎はその教頭に任じられた。水戸天狗党が太平山に滞在した時は、藤田小四郎と通じて軍用金や兵糧の調達にあたっている。藩の同志たちと図り水戸天狗党を応援しようとして露見し、江戸に逃れたが、佐幕派の家老杉山対軒派に誘いだされ、元治元年8月3日、江戸洲崎海岸(現江東区深川)で斬殺された。行年23歳であった。なお虎一郎の墓は真弓地内川連家累代墓地にある」と記されている。松本暢と同じく安政の大獄で江戸中追放となる藤森弘庵に師事していることが分かる。

027_2  ただ、この紹介文の中の「佐幕派の家老杉山対軒に誘いだされ」と書かれてあるが、当時の杉山対軒は家老職を辞しており、また佐幕派ではなく勤王派のリーダーであった。杉山対軒は誤記であり、訂正した方が良い。

  展示品の中に大正4年11月22日付の報知新聞の写しがある。川連虎一郎が靖国神社に合祀され、「従五位」が贈られたことの報道記事である。ただこの記事で洲崎海岸で虎一郎が斬殺された時に検視をしたのが、栃木市初代市長の榊原径武弁護士の父親(榊原儀太夫)と記述されている。意外な人物が斬殺に関わっており、本当なのかと思えた。元関宿藩士を父に持つ榊原経武は代言人の資格を取り、明治13年(1880)頃に栃木町に移住してしてきて、加波山事件など自由民権運動とその弁護活動を行ない、栃木町の町長、栃木市長を歴任している。

057  さらにこの記事の中では、明治2年(1880)4月20日に杉山対軒が江戸から関宿に帰る途中、杉戸町並塚で暗殺される。その暗殺の動機が川連虎一郎斬殺の恨みをはらすために横堀村の富山道徳が行なったと記述されている。虎一郎斬殺と対軒暗殺はつながっているのか?この記事の信憑性に疑問が湧いてきた。2つの事件のあらましを調べてみることにした。

  川連虎一郎斬殺の動機については、佐幕派関宿藩家老の木村正右衛門が「戊辰後経歴」で、「天狗党と称する者尊王攘夷を唱え暴威を遣わし扇動する。関宿藩士も密かに通じる者あり、広周君に天狗党の隊長竹田耕雲斎(ママ)を謁見させ、深川藩邸を貸与するなど、公儀に不憚不敬の動きに憤慨する者あり、領分野州都賀郡農小一郎(川連虎一郎のこと)なる者は水戸留学によって天狗党となり古川瀧蔵と二人を天狗党誅罰の後、公儀を憚り深川洲崎邸にて暗殺せしと云う」と記している。佐幕派藩士の虎一郎斬殺は幕府の天狗党への誅罰をうけて天狗党に便宜をはかり、藩士の怒りを招いて深川藩邸の藩士(佐幕派)によって斬殺されると記している。

010   一方の杉山対軒が暗殺された場所、杉戸町並塚に「杉山対軒遭難の石碑」が建てられている。遭難石碑のブログ記載者から所在地の場所を教えていただき、車で国道4号線杉戸町から左折し行ってきた。並塚交差点先の左脇道に入った所に石碑が建っていた。農道の脇に建つ石碑はポツン田圃に囲まれていた。

 杉戸町ホームページでは杉山対軒遭難之碑を次のように紹介している。

 「杉山対軒は久世氏の家臣で代々関宿藩の家老職を務める家でした。対軒は明治維新の際に幼君を助けて勤王の実を挙げ、藩論を導こうとしました。しかし、(明治2年)4月20日に江戸藩邸を出た対軒は、同じ関宿藩の井口小十郎と冨山匡之助により、並塚村の庄内古川近くで暗殺され、39歳の無残な最期を遂げました。昭和24年に暗殺された場所近くに杉山対軒遭難之碑が建立されました」と記され、石碑は鈴木孝雄(終戦時の内閣総理大臣鈴木貫太郎の弟、靖国神社宮司)が書いている。

  これだけでは、何故対軒が暗殺されたのか、わからない。関宿町に近いことから車を進め、江戸川に架かる関宿橋を渡り、関宿城博物館の関宿藩展示コーナーを見ていくことにした。

042  利根川と江戸川の分岐点に建っている三層天守閣の千葉県立関宿城博物館。博物館3階に幕末の関宿藩の紹介解説と展示コーナーが設けられていた。そこには明治維新を迎えるに際して関宿藩は勤王派と佐幕派が2分して争う「久世騒動」があったことが紹介されている。

  慶応4年(1868)の4月に会津藩士が関宿を通過する際に助けるかどうかで騒動の発端が生じた。その後に熊本藩新政府軍が関宿城に入城することにより、約500人の藩士のうち200人の佐幕派藩士が脱藩して江戸に向かった。半数近い藩士が脱藩する。凄い人数だ。

061  脱藩した佐幕派藩士は家老の木村正右衛門を中心に幼少の藩主広文を擁して江戸において活動を行う。慶応4年閏4月、元家老杉山対軒は勤王派の藩士30名を率いて江戸深川藩邸にいる藩主広文を取り戻すために邸内に入ったが、乱闘となり5名の佐幕派藩士が即死し、藩主を取り戻すことができなかった。

  5月に木村正右衛門たち60名が彰義隊上野戦争に「卍隊」として参加していく。敗北のあと藩主広文は佐倉に逃れ、関宿に帰る。翌年の明治2年(1869)4月に対軒は新政府からの取り調べを受けるが許される。その帰路、関宿に帰る途中の杉戸町並塚で藩内反対派の手によって暗殺された(「三百藩家臣人名事典3関宿藩」より)。

  このことから、暗殺は川連虎一郎の恨みをはらすことではなく、藩内の激化していた派閥の争いから生じたことと捉えるべきである。むしろ川連虎一郎斬殺の恨みをはらすならば、木村正右衛門を狙うことになるからでもある。木村正右衛門の最後は「静岡師範学校の校長を歴任し、明治33年に71歳で亡くなる」と中村正巳著「戊辰後経歴」に記されている。

  久世騒動の余韻は明治初期の関宿にも強い影響があったと推測する。脱藩して戻ってきた藩士は肩身の狭い生活を送ることになったと思える。終戦の内閣総理大臣鈴木貫太郎の父親も関宿藩士であったのだが、群馬県前橋に一家は移転をしている。関宿藩「久世騒動」後始末に嫌気をさしての移転だったと思える。初代栃木市長を務めた榊原経武もまた同じような経緯で関宿を離れて行ったのかもしれないと想像する。

114  3年前の平成26年(2014)4月に富岡八幡宮の横綱石碑を見た帰り、洲崎神社から深川木場を歩いた。その時、洲崎神社境内にある「川連虎一郎碑銘」の石碑をただ眺め通り過ぎた。「洲崎パラダイス」の名残りを探すことに気持ちが向いていた。

 映画、熊井啓監督の「忍ぶ川』で映し出された「洲崎パラダイス』の光景が印象に残っていたからでもある。

142995669002471162177_pdvd_000_20_3  「志乃は忍ぶ川の女であった」と綴られている三浦哲郎著の「忍ぶ川」。栗原小巻が演じた「志乃」は深川生まれで、栃木に疎開し、父と弟妹が今も栃木に住んでいる小料理屋「忍ぶ川」の仲居として設定されている。

  深川と栃木を結ぶ短編小説として高校時代に書店で立ち読みをしたことを憶えている。また、吉永小百合が映画化を望んだが、裸のシーンがあるということで父親の反対で断念をしている。吉永小百合の「志乃』も観たかった作品でもある。

 改めて、「川連虎一郎銘碑」の石碑を見たく、5月18日に江東区深川木場にある「洲崎神社」へ行ってきた。

018_3  洲崎神社は、江戸期に弁財天社と言われ、江戸城紅葉山の弁財天を元禄13年(1700)に遷座して創建されている。海岸に浮かぶ弁財天であり、多くの文人墨客を集めていた。

   「江戸切絵図深川」に描かれている洲崎弁財天社の隣には長い洲崎海岸になっている。境内には「波除碑(なみよけひ)」が建っている。

  寛政3年(1791)9月4日、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者がでた。幕府は洲崎弁財天社から西のあたり一帯5467坪を買い上げて空地し、これより海側に人が住むことを禁じた。そして空地の東北地点(洲崎神社)と西南地点(平久橋の袂)に波除碑を建てたとしている。

119   「川連虎一郎碑銘」と刻字されている石碑は本殿裏にある。左上はすで欠けており、文字自体が不鮮明になってきている。碑銘されている文言はよく理解できない。大筋として虎一郎の生涯が綴られ、「尊攘の大義に報わんとしたが、江戸に誘いだされ、甲子(元治元年)八月三日に命を落とす。義路通称虎一郎、都賀郡真弓村人、藤森弘庵に従い水戸源治(天狗党)を助ける、行年二十三、藩人たちが謀り石碑を建てることになり予が碑銘する」と碑銘されている。

   「藩人たちが謀り石碑を建てる」と記されているその「藩人」とは関宿藩士を指してはいない。同時代に生きた同志に近い志士であると思える。

   石碑の最期の刻字が「〇巳秋 八月 東京田口大丈文蔵撰弁書」と記されている。建立年月日は己巳(つちのとみ)年で明治2年の秋、8月になるのではないか。そして、石碑の文面は儒学者田口文蔵によって書かれてある。虎一郎の師であった藤森弘庵は文久2年(1862)に亡くなっていることから、親交のあった儒学者田口文蔵が碑銘したのだと思える。儒学者同士の繋がりを表している。

003   田口文蔵については「太田胃酸」の創業者である壬生藩士太田信義を記した松本宏道著「壬生藩士太田信義と太田胃酸」の中で、 「(田口文蔵は)下谷・入谷で門弟に儒学などを教授している尊王論者で、攘夷論者の藤森恭助(弘庵)などと親交を深めがら、国事に励んだ」と紹介されている。

  同書には、「太田信義も松本暢と同様に水戸天狗党に協力することにより壬生藩を脱藩し、師の田口文蔵を頼って江戸に出る。辛苦の暮しの中、彰義隊上野戦争で新政府軍に協力することにより明治元年に壬生藩公用人として復帰していく。明治14年(1881)の初めに『雲湖堂の胃酸』として売薬を始めた」ことが記述されている。130年を経た今日でも「太田胃酸」は飲み続けられている馴染み深い胃腸薬である。この本によって、私は太田胃酸を生み出した太田信義が壬生藩士であったことと天狗党挙兵に影響を受けた人物がここにもいたことを知ることができた。

Photo   「江戸切絵図深川」の中央に流れているのが小名木川。栃木から巴波川舟運により関宿からの江戸川を下り、小名木川を通り江戸深川まで1日半でくることができた。下野都賀郡と江戸は近い距離にあった。

  絵図の小名木川の下の左にあるのが関宿藩深川藩邸(現在の清澄庭園)。その下に富岡八幡宮。絵図の真中一番下に弁財天社(洲崎神社)とその左横が川連虎一郎が斬殺された洲崎海岸がある。

051_3  川連虎一郎の石碑を建てたのは、藤森弘庵や田口文蔵から学んだ尊王論者の志士たちだっと思える。とりわけ、同郷で水戸天狗党への協力で狙われ脱藩した松本暢や太田信義など中心になって「川連虎一郎碑銘」の石碑を建てたのではないかと妄想、推測する。

  幕末動乱の引き金になった水戸天狗党の筑波山挙兵.。1月半に及ぶ太平山での帯陣と戦闘行動は近辺の若者に強い影響を与えた。大義を諭す若者たちは時代に生きていくことの証として天狗党への協力,参加をおこなっていった。結果、道半ばで斃れた者への想いが「川連虎一郎碑銘」石碑に表れているのでないだろうか。川連虎一郎の石碑を建立した人たち…。石碑からは塾舎を通した若者たちのネットワークが存在していたことを語りかけてくるように私には思えてきた。

                                《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

「大平町誌」(1982年3月、大平町発行)/中村勝著「三百藩家臣人名事典3関宿藩」(昭和63年4月、新人物往来社発行)/小針計一郎著「日本近世人名事典」(平成17年12月、吉川弘文館発行)/中村正己著「史料戊辰後経歴(1)」(平成29年3月、千葉県立関宿城博物館発行、研究報告第21号に収録)/三浦哲郎著「忍ぶ川」(昭和36年6月、新潮社発行)/松本宏道著「壬生藩士太田信義と太田胃酸」(2013年4月、獨協出版会発行とちぎメディカルヒストリーに収録)

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橋への思いと村芝居興行―安政6年野尻騒動

012_2  「石の多い川だな、それも大きい石ばかりだ。流れも速い」と、日野橋から眺めた大芦川の第一印象。

  新鹿沼駅から歩いて西へ3キロ、大芦川の日野橋に来る。橋の向こう側は鹿沼市野尻、加園地区になる。

 平野哲也氏は栃木県文書館研究紀要11号の中で、「大芦川は、上草久を水源とし、野尻村と酒野谷の間で荒井川と落ち合い、一里ほど下流の笹目村付近で小倉川(思川)に流れ出ていた。18世紀末期の大芦川は最上流の上草久村でも20間の川幅があり、引田村付近までくると30間ほどに広がった。川の状態は、現在と同じく、砂礫の多い『石川』であった」と記述している。その通りに大芦川は石の多い川に見えた。

008  江戸時代、大芦川と荒井川の合流地点近くにある野尻村は石高232石、人口142人、家数29軒の村落であった(天保年間、鹿沼市史による)。村を往還する石裂(おざく)街道と出流(いずる)街道の交差する交通の要衝でもあった。 

  しかし、野尻・加園村と対岸の下日向・酒野谷とを結ぶ大芦川には橋がなく、石裂権現(加蘇山神社)への参詣者や旅人、さらには例幣使・日光街道への助郷割当による人馬夫役で向かう際の渡河に難儀をしていた。板橋を架けても大雨による出水によってその都度流失をしてしまっていた。定橋架橋は村民の強い思いであり、願いでもあった。

030 安政5年(1858)に野尻村名主、石川多市は近在の村々から資金を募り、総費用800両で欄干を備えた大規模な定橋「野尻橋」を村人の夫役によって完成することができた。「野尻橋」は現在の日野橋下流300㍍付近に架けられたと云われている。

 しかし、翌年の安政6年(1859)7月の大雨洪水で「野尻橋」は流され崩壊してしまう。――多市を含めた村人は落胆、大きく失墜する。以後は簡単に取り外しのできる板橋が明治期まで架けられてあったと云われている。

  思川水系の上流から移出される材木は江戸市場で優良材として高い評価を得て、筏組みが大芦川流域の野尻村、酒野谷村と隣接する荒井川流域加園村で行なわれていた。竜ケ谷山(加園城)から石灰も産出されていた加園村と野尻村は東北自動車道栃木インターのある栃木市吹上町にあった吹上藩有馬兵庫頭1万石の領地であった。

015  「鹿沼市にある野尻村は吹上藩領だったのです。幕末の安政6年に、この野尻村で御禁制の芝居興行が行われ、100名以上の農民が関東取締出役に捕えられ、処罰されるという村騒動があったのですね。下野の村々を震撼させた安政野尻騒動と言われているのですよ」と、昨年の11月の栃木市文化講座「吹上」の中で野尻騒動のことを始めて聴いた。

  …野尻村の村騒動、どんな村騒動だったのだろうか?野尻村に行ってみようと思い立ち、昨年の12月21日の晴れた日に鹿沼市野尻を訪れた。

050_2  東武日光線新鹿沼駅西口から徒歩で真っ直ぐ西に向かって進んで40分。大芦川に架かる日野橋を渡り、少し進むと神木が伐採されている野尻稲荷神社がある。

  建久元年(1190)石川氏によって伊勢熊野の稲荷大明神から勧請され建立された野尻稲荷神社(栃木県神社誌より)。二対のきつね狛犬が奉納されている境内。

016  境内左側に野尻騒動の発端となった橋供養由来記が刻まれている石碑が安置されている。直径1.3㍍のまる型の石碑の冒頭には横文字で「日天月天」と刻字されている。

 戦後、野尻村に移住し、野尻騒動を入念に調べて昭和30年に「鹿沼郷安政野尻騒動記」を執筆、発行した腰山巌さん。その書には、「元々は日天月天石碑は『水神宮石碑』と一緒に大芦川沿いに建立されていた」ともう一つ「水天宮」の石碑があったことが記されている。そして「水天宮石碑は今宮神社神祇官の鈴木水雲が書き、日天月天石碑の由来記は興源寺眼龍の書であるとされている。(略)この供養塔は明治になって大洪水があり、石川憲一郎氏前の大芦川の淵にあったものが、ぽっくりと水に呑まれ、川底に横轉した。昭和9年に野尻在郷軍人会会員及び野尻青年至誠会員によって『日天月天石碑』のみ引き揚げられ、稲荷神社に奉納された」と安置された経緯が記されている。

001_2  同書には、「台座には寄附してくれた村々の名前が台石の鉢廻に記入されてあったが、後年村内諸所の清水や谷川の土橋に利用されて散失してしまった」として、2基の石碑と40か村の村名と村人の氏名が記載されている図が添付されてある。

  そして何よりもありがたったことは、由来記石碑の文面が記載されてあったことだ。記載文面は次の通りになっている。

當兩川從古来無橋而 大水之砌往来之諸人 難渡不少難澁依是輙 為渡度事敷年難思小 子等不及微力近郷進 曾頼處速為集加助力 末世迄之定橋令成就 畢就者至後年迄加修 理難無及大破事若變 心邪欲之輩出而於相 破者必蒙神罰事各々 慎而起請建之置者也

011_2 昔より大水に際には大芦川を渡ることができず、難渋してきたことが綴られ、定橋を架橋し、後の世まで維持していくことを誓う文面だと受けとめる。

  執筆した腰山巌著の「鹿沼郷安政野尻騒動記」は騒動の発端から村芝居興行、その手入れ、捕縛から江戸での裁きまでを物語調に記述されている。入念な調べで野尻村名主石川多市とその子息たちを中心に村人の思いを基調に書かれてある貴重な書籍だと思える。栃木図書館では貸出禁止本になっているため、図書館内で拝読した。以下、同書を「野尻騒動記」と記していきます。

031  日野橋を渡り、大芦川の右岸にある食堂民宿「栄川」の河原から大芦川の川の流れをみる。一昨年の9月の大雨の時、川の水嵩はどれほど川岸に迫ったのだろうかと思いが浮かんだ。

  安政6年(1859)の7月に流失してしまった「野尻橋」。翌8月に野尻村名主、多市は隣村の上酒野谷村名主、平右衛門と図り、壊れた水天宮塔の再建と由来記石碑を造り、地鎮祭を執り行うことにする。

 その地鎮祭とあわせて供養としての村芝居興行を8月21、22日に行うことを決めた。定橋「野尻橋」の流失によって意気消沈した村人の心に奮起を促すものとしての芝居興行の計画であった。村芝居は村人の心の糧になり、村を活き活きさせるものとして捉えた。今で言う、「文化が地域をつくる」という地域活性化しての芝居興行の計画であった。

Photo   しかし、江戸・京都・大坂の三大都市以外での歌舞伎興行は禁止され、村芝居、操り人形等の村においての興行はご法度、禁止になっていた。歌舞伎は奢侈、風俗の乱れ、身分制を破壊するものとして禁止されていた。

  幕府は文政10年(1827)にすでに設置していた関東取締出役の治安維持と警察活動の強化を図るため、関東の村々に寄場組合を結成させている。大惣代、小惣代と村々を組合せ、関東取締出役の指揮命令の一元化と取締りを強化させるためであった。そのうえで45条にのぼる触書を農村に通達を行なった。

Photo  その触書の主なものには、①幕府法度・五人組前書の厳守、②無宿者・長脇差・博奕・強訴・徒党の禁止、③農村内の歌舞伎・手踊り・操芝居・相撲などの禁止、④神事・祭礼・風祭・婚礼・仏事などの簡素化、⑤農村内における商業・職人手間代などの統制、⑥村費の減額奨励、改革組合村(寄場組合)の設定と囚人送りの費用負担(北島正元著「日本の歴史18」より)。という無宿者の強訴などから村を守るかのような触書であるが、実際は幕府による治安維持の強化と村々への支配統制になっている。それは農業生産品以外の生産物が商品として流通するようになってきたことによる強い村への警戒心であり、経済的な自立が増してきたことによる幕府の治政危機の表れでもあったと思える触書である。

004   現存する名主多市の家、石川さん宅は野尻稲荷神社の南前に位置し、大芦川へ続く旧道の右脇に建っている。多市は村人に潤いと楽しみ与え、元気を取り戻して前へ進めるには芝居興行を行うことだと考え、その準備を始める。

  近在の5か村(野尻・酒野谷・下日向・下加園・南摩)を中心にして、芝居小屋の木組み調達、役者の稽古と衣装の手配、舞台の引幕、大道具、小道具の借入等を進めていく。多市ら村役人たちは寄場組合村の大惣代、小惣代、名主等の村役人や関東取締出役道案内人に金銭や酒など音物(袖の下)を渡し、黙認のお願いをしていった。

  村芝居興行を知った壬生宿問屋幸吉は小山宿の関東取締役道案内人、鳥の屋政市へたれこむ。どうもこの辺は木材の河川通運をめぐって大芦川・荒井川流域の野尻・加園村と下流の小倉川(思川)壬生、小山流域の村との間で、常日頃から筏流しの通行をめぐって争いがあったという平野哲也著「栃木文書館研究紀要11」の指摘から考えると、村同士の火だねの争いが背景にあったのではないかと思われる。

010   間口42間(約76m)、奥行7間(約12m)という2つの大舞台を備えた芝居小屋が大芦川近くの河原「梅の木原」に建てられ、8月21日、22日に芝居興行がおこなわれたと「安政野尻騒動記」に書かれてある。「梅の木原」はどこにあったのか?地元の人に訊いてみたが、分からなかった。

  芝居興行への手入れについては、吹上藩役所内においても協議があった。黙認しようとする吹上藩役人に対して触書通り、取締りを主張する鳥の屋政市とに相違があったことが「野尻騒動記」に記されている。

  8月22日の夜半、鳥の屋政市は合戦場宿の道案内庄兵衛や番人13人の捕り方で芝居小屋に乗り込み、舞台で演じていた役者たちに縄をかける。関東取締出役の下知であると言えば、百姓たちはひれ伏すと思っての手入れであった。しかし、芝居公演の最中に村の役者たちが捕縛される姿を見て、多市は怒り、護るための応戦を呼びかける。13人対100人。十手に対して薪と棒。猪鹿銃を捕り方に向ける村人たち。負傷した捕り方達は飛散する。

006    翌日の8月23日に3人の息子と共に多市は吹上藩役人に連行される。その際に村人は銃を持って名主奪還をはかるため屯集し、銃を構える。しかし、覚悟を決めていた多市は村人たちの怒りを抑え、縄についた。後日、関東取締出役に引き渡される(野尻騒動記より)。

   8月24日に関東取締出役、廣瀬鐘平は鹿沼宿から寄場組合に300人の捕り方大動員をかける。宇都宮戸田家藩士50名を加えた捕り方は113人を捕縛し、連行する。村の人別帳を使っての捕縛になった。関東取締出役としては村民が銃を持ち出したこと。看過できないことして、危機感の現れでもある大量捕縛へとつながっていったと思われる。

  関宿、古河、間々田、小山、栃木、鹿沼宿と分散され、厳しい吟味が続けられた。鹿沼市史では捕縛された村と人数が次のように記載されている。「野尻村32人、下加園村32人、上酒野谷村20人、下酒野谷村7人、下日向村12人、上南摩村7人、下南摩村1人、その他の村2人」と計113人になっている。とりわけ村の人口が142人の野尻村から32人が捕縛されたことは成人男性ほとんどが捕縛されたことを意味する。

Img_7853_s1_21  野尻騒動の伝聞は衝撃となって各地域の村々に伝えられた。25キロ離れた例幣使街道沿いの栃木市嘉右衛門新田村名主、岡田嘉右衛門親之は騒動の2日後の8月24日の日記にこう記している。「22日夜鹿沼宿最寄野尻、加園村ニ地芝居有之、関東御取締廣瀬鐘平様御下知ニ而小山宿鳥の屋政市・合戦場宿虎屋庄兵衛頭立廿人程手入れいたし候、近村若もの迄申合居、悉く打躑被至、廣瀬様鹿沼宿へ出役被成り候由、右一件(吹上藩主)有馬兵庫頭様領分ニ而、十躰脇差等取上ケ候持参」と騒動の概要を的確に記している。それよりも岡田嘉右衛門の素早い情報の収集に驚かされる日記である。

 まさか100人以上が捕縛されるという騒動に驚いた村々の役人たち。寄場組合の大惣代・小惣代をはじめ、名主、寺院から大量の嘆願書が関東取締にだされた。10月に入り、江戸に送られた捕縛者90人に対しても嘆願書が勘定奉行にだされ、籠訴もあった。

Rouyashiki251  小伝馬牢屋敷に入牢された29人とそれ以外の者は御用宿預かりとなり、処罰を待つ。しかし、野尻村名主多市、息子の原三郎と音八、上酒野谷名主平右衛門ら9人は病死(牢死)、御用宿預者も8人、計17人が病死をする(野尻騒動記より)。厳しい吟味と過酷な環境が牢死を招いたといえる。

  石井良助著「江戸の刑罰」の中での小伝馬牢について、「当時、牢内の病気といえば、ほとんど牢疫病であった。数年人々をこめておくので、自然と人と臭気がこもり、この臭を鼻に入れるから、みな牢疫病になるのだと言われていることは、牢内の不衛生状態をよく示すものである」と記している。

  さらに牢死者数について、「当時収容者600人から700人のうち、文政年間(1818)の牢死者が月に10人から20人であった。幕末になると、安政5年(1858)には牢死者が年に1320人、万延元年(1860)年に1931人、文久2年(1862)年に1990人、慶応2年(1866)年に1353人と2000人近くの牢死者と増加する」と記してある。月に直すと平均150人前後の牢死者がでたことになる。その原因として食糧事情の悪さと衛生状態であると石井氏は指摘をしている。しかし、私にはそれ以外に、幕府の治政の崩壊の兆しが含まれているように思えてくる。

035_2  日野橋を渡り、野尻稲荷神社の100m手前の左側の道(旧道)に入り、突き当りを左折し直進すると大芦川沿いにある食堂民宿「栄川」にぶつかる。その手前の浄水場の横に「野尻騒動供養塔」が建立されている。昭和59年9月に「明るい社会づくり野尻地区」によって建てられたものである。「南無妙法蓮華経野尻騒動受難者諸精霊之供養塔」と刻まれた石塔。その由来は記されていない。

  鹿沼市史では安政7年3月「裁許請書」をもとに処罰一覧を次のように記している。「死罪1人(病死)、遠島4人(3人病死)、重・中追放30人(7人病死)、江戸十里四方追放2人、江戸払1人、所払1人、押込1人、手鎖15人、急度御叱9人、御叱1人、過料銭5貫文55人(1人病死)、過料銭3貫文3人(1人病死)、お構いなし19人」お構いなし19人を除いた人数は123人、内病死者数は13人と野尻騒動記と人数の違いはあるが、120人以上が処罰された大騒動であった。さらには関係した村には囚人の収容食事、護送、道案内人への草鞋代など触書通りに厳しい支払の督促があるなど村々を苦しめる措置がとられた。

028 小伝馬町牢屋に入牢したのが10月。翌年の3月に厳しい裁断が下った。同年安政6年の10月に吉田松陰が小伝馬町牢屋敷で斬首され、翌年の3月には「桜田門の変」で伊井直弼が水戸浪士によって斬殺される。野尻騒動は安政の大獄と時期を同じくして、連動した動きになっている。下野の村における幕末動乱の発火点になっているのではないだろうか?

  幕府は捕り方、役人に対して百姓たちが銃を構えて向かおうとしたことに強い危機感を持った。それが120人におよぶ捕縛と処罰になって異常な反応を示した。

  意気消沈した村を活性化するための芝居興行。それを壊す者に対して村人は銃を構え戦った。村を守るために銃を持った百姓。幕府が創設した歩兵(農兵)とは違う強い信念をもった百姓たちの像が浮かんでくる。その姿に脱帽する。

065   帰路は野尻から大芦川の向い側にある「鹿沼市高齢者福祉センター」の大風呂に入浴する。温泉と表示されている広い浴槽。「筋肉痛」と記載されている効能の中に「軽い喘息と肺気腫」という文字を見つける。この病に効く温泉を探していた私には朗報である。

 入浴後に大芦川の土手堤を歩く。「野尻橋」が架けられたのはこの辺と思われるが、跡は何も残っていない。「…この付近に橋を架けたのかな」と思い浮かべ、長い深呼吸をした。

 明治の世になっても大芦川には橋は架からず、鹿沼へは上流の上日向を経由し、大回りを強いられていた。ようやく昭和55年(1980)の国民体育大会に際し、象間峠一帯に鹿沼市総合運動公園が作られ、日向と野尻を結ぶ「日野橋」が架かった。かつての「野尻騒動」があった面影は消えたかに見える。しかし、騒動に加わり痛みを味わった村民の子孫は忘れていない。「恨みに時効はない」からである。

  鹿沼市史には、「芝居興行に手入れを行なった小山宿の道案内人の鳥の屋政市は、5年後の慶応元年(1865)5月に長脇差をもった5人の者に自宅に押し入れられ殺害される。殺害状況から、関東取締出役の手先となっての活動が恨みになったもの」とさりげなく記している。執筆者の気持ちが表れている結末文だと思えた。

                                         《夢野銀次》

≪参考、引用本等≫

腰山巌著「鹿沼郷、安政野尻騒動記」(昭和30年7月発行)/「鹿沼市史通史編近世154頁」(平成18年8月発行)/平野哲也著「江戸時代後期における地域資源の活用と生業連関―下野国都賀郡大芦川・荒井川流域を事例に」(栃木県立文書館研究紀要11号、平成11年3月発行)/北島正元著「日本の歴史18、幕藩制の苦悶」(昭和42年11月、中央公論社発行)/石井良助著「読みなおす日本史、江戸の刑罰」(平成25年3月、吉川弘文館発行)/田中正弘編「幕末維新期の胎動と展開、岡田嘉右衛門親之日記第1巻」(平成24年3月、栃木市発行)/桑野正光著「栃木の峠」(2010年3月随想舎発行)

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江戸からの継承ーとちぎ秋まつり「山車人形」

082  山車の最上部に鉾をかまえて立つ「張飛」。前方を鋭い眼鏡で睨み、「張飛、これにあり、死にたい奴は勝負しろ!」と曹操軍に叫び、劉備を逃がす「三国志・長坂の戦い」。東京日本橋の雛人形師、三代目原舟月が製作した山車人形を見上げる。

  三国志の中で劉備、関羽と義兄弟を結び、最も豪放磊落な猛将と詠われた張飛翼徳。一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛され、一世を風靡する剛勇の持ち主であったと云われている。まさにその風貌、風格が山車人形として再現されている。

 …巡行前の「張飛」の山車人形。もう一度見上げる。鬼気迫る風格を漂わせてくる。

039_3   山車の上段幕には「朱雀」「青竜」「白虎」「玄武」の四神刺繍となっており、金糸・銀糸で施されている。お囃子の台座には朱塗りの金箔の竜の彫物。黒檀地板には眼鏡の光る唐獅子の彫物が施されている。高度な技は艶やかな山車になっている。高さ7.6mの高い壇上から見下ろす「張飛」に圧倒される。

102  平成28年11月13日の「とちぎ秋まつり」。快晴の小春日和の中で絢爛豪華な山車人形9台が栃木市蔵の街大通りを華やかにお囃子にのって巡行する山車人形を観る。

  町内から練出し、巡行する山車人形は、「劉備」(万町1丁目)、「関羽」(万町2丁目)、「張飛」(万町3丁目)の三国志に「静御前」(倭町3丁目)、「神武天皇」(倭町2丁目)、「仁徳天皇」(嘉右衛門町)、「弁慶」(大町)、「諌鼓鶏」(泉町)、「桃太郎」(室町)、都合9台の山車人形と「獅子頭一対」(倭町1丁目)。

  2年に1回のとちぎ秋まつり山車人形巡行は、神社の祭事としてではなく、実行委員会形式による市民イベントとして開催していることに特徴がある。

095_3  明治7年(1874)、倭町3丁目有志が江戸日本橋から購入した「静御前山車人形」と宇都宮から購入した泉町有志の「諌鼓鶏山車人形」が、栃木町にあった栃木県庁舎内神武祭に曳かれたことが始まりになっている。

 これを機に栃木町民の山車への関心が高まり、明治26年(1893)の栃木県最初の商業会議所開設の際に、3台の「三国志山車人形」と「神武天皇人形」の計6台の山車人形で商業会議所開設祝典に巡行されている。「張飛」を含むこの4台の山車人形は日本橋雛人形師原舟月から購入したもので栃木町問屋商人の新たな拠点としての商業会議所開設を祝った。

  その後には、明治39年(1906)の栃木町神明宮・招魂社祭事では室町の「桃太郎」が参加し、大町の「武蔵坊弁慶」、嘉右衛門町の「仁徳天皇」と次々と作成され、天皇ご大典奉祝祭、市制施行祝賀祭に加わるようになる。そして、昭和36年(1965)の市制25周年記念祝典より5年に1回の定期開催とした。山車人形の保存と常設会場として、平成7年(1995)に「山車会館」が建てられ、これを機に平成18年(2006)以後から2年に一回の隔年開催になった。

Sizuka1105_2  明治7年(1874)に、嘉永元年(1848)作品と言われている松雲斎徳山の山車人形「静御前」は、東京日本橋瀬戸物町、小田原町、伊勢町の3町から栃木町倭町3丁目有志によって688両で売却された。おそらく日本橋から巴波川舟運で「静御前山車人形」は栃木町に運ばれたきたものと思われる。

  昭和55年(1980)に千代田区教育委員会が明治以後に「天下祭」で巡行し、地方に流失されていった「江戸型山車」について調査を行ない、「江戸型山車のゆくえ」と題して報告書を発行している。今回、栃木県立図書館でこの「江戸型山車にゆくえ」を閲覧拝読することができた。

088  報告書に「栃木市の山車」の項目があり、現地調査を含めた報告が記載されている。昭和12年(1937)に栃木の大工、竹政栄吉によって静御前山車人形の社台が大修理されたこと。山車は錦絵「東都日枝大神祭礼練込之図」の山車と全く同じものであることが記されている。また同一の「静御前」は青梅市にあることから、日本橋の3町では「静御前」をそれぞれ売却していったと記述されている。

  尚、報告書では栃木の山車について「青梅市のように改造によって原形を失った山車と違い、祭礼番附や錦絵で見るような山車が、江戸以来の姿で飾り付けられていること」に驚きと称賛の報告になっている。

026 報告書では、「江戸型 天下祭の山車の原型は牛車に曳かせる二輪車(これが三輪ないし四輪に改造または発達)の上に人形が飾られ、しかもその人形が上下するものである」と江戸型山車人形を規定している。

  さらに「三層の構造物からなっている山車人形には、最上部には人形が飾られ、つぎの層は水引幕に取り囲まれた枠で、人形はこの二層目の枠内を上下できるようにつくられている。二段上下可変式のカラクリ(機構)を持っているのが特徴になっている。基部の前半部はお囃子方が乗るスペースがある」と分かりやすい解説が記載されている。

031 「江戸城内、吹上上覧所を経て常盤橋門外で解散し、再び自分の町に帰るまでに、俗に江戸城36見付と呼ばれた城門を6から12回くぐらなければならなかった。江戸城城門の門扉の高さは約4.4m。城門を通過する場合、高さ4mが限界とされているため、江戸型山車は二段階のくり上げ・くり下げ装置(エレベーター)が必要としたのだ」と記述されている。

  徳川時代、江戸城守護を司る日枝神社と江戸の町の守護神、神田明神の御神輿・山車は江戸城に入城し、三代将軍家光以来、歴代の将軍が上覧拝礼するところから「天下祭」と称されてきた。最盛期には神輿3基、山車60台の大行列が江戸城内から江戸の町を巡行していたと云う。

068_3 将軍家の公式行事として扱われた「天下祭」には祭祀に必要な調度品の費用や助成金の交付、大名旗本からの動員が行なわれるなど、幕府からの手厚い保護のもとに存続してきた。しかし、明治の御一新によって、徳川幕府は崩壊し、「天下祭」が終焉した。

 日本橋界隈を中心にした町内は山車人形の維持が難しくなり、地方への山車の放出につながっていくことになる。

   とちぎの山車人形の巡行を観ながら、大阪城築城の石垣の石を運ぶ絵を思い浮かんできた。山車は石垣を運ぶ台車に似ている。報告書「江戸型山車のゆくえ」の中にも、慶長8年(1607)から始められた江戸城拡張工事としての天下普請に江戸型山車の起源があると記されている。江戸城築城における 巨大な石を運ぶ光景は「山車人形」という姿になり、天下祭として江戸町民の心を捉えた祭になっていったのかもしれない。

058   明治26年(1893)に三代目原舟月より購入した三国志の「劉備玄徳」、「雲朝関羽」、「翼徳張飛」の人形は綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)の衣服に覆われ豪華な姿を放っている。しかし、日清戦争の勃発により、敵国の英雄を飾ることに異論が出された。そのため追加人形として「天照大神」、「日本武命」、「豊臣秀吉」、「素盞鳴尊」(いずれも三代目原舟月作)が作られた。そのため現存の山車9台に対して人形は13体になっている。

 ただし「秀吉」人形は馬に乗っていて人物が小さいということで、現在は山車会館での展示のみになって、山車人形として巡行はしない。

046  その明治26年の山車の製作費として、栃木市史民俗編の中で「万町1丁目2,000円、万町2丁目に2,500円、万町3丁目に3,000円を要したと伝えられている」と記述されている。山車3台、人形7体の製作費7,500円を原舟月に支払ったことになる。現在の価格で言えば、1円を2万円とするならば1億5千万円になる。

 報告書「江戸型山車のゆくえ」では、祖父から聞いたとび職の石関三郎氏の話として、「原舟月の方から3台で4500円でという申し入れがあり、万町3丁目の素封家、桜井源右衛門氏が、3台中もっとも気に入った山車(張飛)を2,000円で買取る契約をし、他の2台については万町1、2丁目にまかせたという。その結果、1丁目が1,500円、2丁目が1,000円でそれぞれ買うことが決まった」と3台を選んで購入したことが記載されている。

  さらに、薬屋を営む高田安平氏夫人の話として、「東京の原舟月に山車を注文したのが明治25年の8月。値段は3,500円で出来上がったのは翌26年3月のこと。その間にうちの父は舟月のところに何度も行きました。日本橋石町に住んでいて、仕事場は岩附町(現在の中央区本町3丁目辺り)にあった。舟月さんは小柄な人で丁髷を結っていた」と注文から納品までの期間を記載している。

094  この2人の話から、報告書「江戸型山車のゆくえ」では山車購入の価格より、3台の山車から桜井氏が1台を選んだということと注文から納入までの期間が7か月という短期間であったことに着目し、3台の山車は予め出来上がっていたと推測している。

  そこから、「当時東京では不要になった山車が、続々と地方に流出していた時期であり、舟月も仲秀英(同時期の雛人形師)と同じく流出の周旋を業としていたことの一端が、現在の栃木の山車に伝承として残された」と記し、「重要なことは、山車を注文制作させたのか、放出品を買ったのかということは問題にならない。この超一流の江戸型山車が栃木市の山車保存によって、受け継がれていることに大きな意義がある」と指摘を行なっている。江戸型山車が完璧に継承されてきていることに惜しみない賛辞が記されている。

072  「栃木市史」に記述さている山車人形の価格が7,500円。現在の価格で1億5千万円とするならば、高額な金額になる。町内の有志で購入できたことは、当時の栃木町民の持つ財政力は相当なものだったと改めて驚かされる。

  江戸後期から明治の初めにかけて、江戸東京と結ぶ巴波川舟運によって麻問屋・荒物問屋などが関西・東北方面に進出をし、「問屋町栃木」の名を全国に広めていった時期である。それは、明治17年(1884)1月の宇都宮への県庁移転や明治18年の東北線が栃木を通らなくなっても栃木の問屋支配網は崩れることなく拡大発展をしていったと云われている。全国麻生産の9割を占めた栃木県南西部に位置する栃木町の問屋商家。おそらく、国民皆兵による軍隊の創設が麻使用の軍服や軍備品の需要によって麻の増加が飛躍したのではないかと推測する。

007 明治4年に栃木町に総額8296両で建設された県庁舎。そのうちの42%にあたる3708両は地域住民が負担している。栃木町民、とりわけ栃木の問屋商家が中心に負担していると予測できる。

 さらに、明治34年(1901)の栃木女学校(現在の栃木女子高)創設費用3万円の内、1万円を地域住民からの寄付で賄われている。現在の1億5千万円。これも栃木町の問屋商家が中心に負担していると予測できる。詳細な史料がないのが残念だが、栃木町の問屋商家の財政力の中身の凄さについては、これからも研さんしていきたいと思っている。

056 「ピーヒャリ、テンツクテンテン」とお囃子代台から聴こえる「日之出流」と「小松流」のお囃子演奏。神田囃子の本流を伝えるものだという。

 お囃子の演奏を栃木市役所の向い側に立って聴く。55年前に今の市役所前の大通りのこの場所から栃木の山車祭を観ていた。見物人で溢れ出ている大通り。商店街アーケードの屋根の間から「神武天皇」の山車人形を人混みの中で観ていた記憶が何故か浮かんできた。

 今回は、新聞で報道されている「ぶっつけ」という、山車が向き合わせてお囃子が競い合う光景に出合うことができなかった。2年後には夜のライトに照らされた山車人形と合わせて観に来ようと思った。

092  栃木県庁舎があった敷地には県庁堀が史跡として残っている。明治7年(1874)の神武祭では「静御前」と「諌鼓鶏」の山車人形が巴波川の幸来橋を渡り、皆川街道から栃木県庁舎表門から庁舎内に入り、神武社に拝礼練行している。19年後の商業会議所開設祝典に巡行した江戸型山車人形。問屋町栃木は江戸の流れを引き継ぐ山車人形の保存を長く行なってきた。…凄いことだと感心する。

 「栃木市では別段、山車人形の維持管理への助成金を定めてはおりません。修理修繕費用につては県指定有形文化財にそって支給を行ないます」と栃木観光課のお話。「とちぎ秋まつり」では、行政は実行委員会に加わり、応分の負担をしているが、山車はあくまで町内の所有物としている。その所有者の町内では高齢化、町内人口の減少により山車人形の維持管理が年々難しくなってきていると聞こえる。栃木観光協会を中心に「伝承会」という山車保存に協力していく会を立ち上げて、賛同者の入会を勧めていく動きもある。

 町内の祭から栃木市民による祭へと発展させていくことが、山車祭を永く存続していくことに繋がる。それには、今一度「山車祭」の意義とあり方、参加体制について、広く市民の間で論議していく必要があると思えてくる。江戸の流れを継承する「山車人形」。今の時代と向き合う祭として再考していく必要があると思えてきた。

                                      《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

千代田区教育委員会編纂報告書「江戸型山車のゆくえ」(昭和55年10月発行)/池田貞夫・黒崎孝雄著「とちぎ屋台と山車」(平成10年3月発行)/絵守すみよし著「人形師原舟月三代の記」(平成15年9月青蛙房発行/「栃木市史民俗編」(昭和61年1月栃木市発行)

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江戸の香りが漂う―栃木市杢冷川、旭町「本橋」界隈

005  川幅約3mの杢冷川(もくれいがわ)は日ノ出町の水源堀から栃木市街地の東側を流れ、巴波川に合流する全長1660mのコンパクトな川の流れになっている。

  「杢冷川って、響きのいい名前だな…」と感じて、名前の由来が気になり調べてみた。しかし、栃木市史や栃木市文化課、知人に聴いてみたが、その由来は分からなかった。

  勝手な想いとして、栃木市街を流れる巴波川は別名「鶉妻川」と記されていた。巴波川の東側を流れる川から、「鶉」と関連して、鶉杢目のように細い網目模様を形作っている河川。その川筋には冷たい湧き水湧き出していることから「杢冷川」と呼ばれるようになったのかなあと想像したりしてみた。

011   「私達の住む日ノ出町自治会は、昔は栃木町大字城内の大和、榎堂、杢冷、川島と栃木町大字栃木榎堂、杢冷、大和の7つの字を称して城内大和と呼ばれていました」と昭和62年3月に発行された「日ノ出町史」(栃木市日ノ出町自治会発行)に記載されている野川自治会長の冒頭あいさつ文。城内村から別れた時期に、字杢冷という地名が2か所あったことが記されている。

  栃木市日ノ出町にある杢冷川の水源堀のそばに石碑が建っている。石碑には杢冷川灌漑用水の由来として、荒れていた平等庵所有の湧水池の埋立を大蔵製鋼社が耕作者たちのことを思い、中止にしたこと。昭和21年に水利組合と市当局の援助で灌漑用水として蘇らせたこと等が記されている。

009_2_2  この石碑から、杢冷川は灌漑用水堀川として使用されていたことが分かった。ということは、用水掘の呼び名は地域名を使用することが多いし、村人にとっても便利でもある。そのことから「城内村字杢冷」の地域を中心に流れる用水掘川であることから「杢冷川」と呼ばれるようになった。と理解するのが自然である。何だか胸におちた感じがした。

  また、水源堀敷地の所有者が石碑には平等庵であることが記されているのには驚いた。「現在も日ノ出町公民館の地代は自治会で平等寺に支払っていますよ」と地域の人から聞いた。

   日ノ出町公民館は水源堀から小金井街道を挟んだ向かい側に建っている。その敷地は、かつて三角沼と言われ、私の子どもころの水遊びの湧水沼であった。冷たい湧き水に身体を浸した暑い夏の日が思い出される所だ。

018_2  杢冷川に架かる栃木市旭町「本橋」から「一二三橋」にかけては、栃木町の花柳界として知られていた地域である。

  「季節ごとに芸者たちは着物を購入することが多く、呉服商はとくに繁昌していた。三味線の音が聞こえ、夕方になると桃割れ姿の半玉や高島田の芸者たちをみることができた」と村田弘子著の「壬子倶楽部と町のにぎわい」の中で、明治期後半の栃木町本橋周辺の様子が記述されている。

  本橋の畔には湧水池のある老舗料亭「壬子倶楽部(じんしくらぶ)」があり、少し上流の左岸には料亭「桃坂」もあった。橋の南東側には「釜仲」の店舗跡と「平等寺」がある。

019_2  平等寺の境内には御堂と石塔が建っている。あまりの整然とした佇まいの境内から、教化活動をしていない寺院ではないかと思えてきた。御堂の左側に建っている石塔。真ん中の古い石塔には宝暦十辰天八月吉日と刻まれていることが読み取れる。

 平等寺はかつては「平等庵」という寺院名であったことが明治39年(1906)年発行の「栃木市六千分一尺図」に記され確認することができた。

  渡辺達也著の「歌麿と栃木」の中で、「平等庵の湧水池、真清水」として狂歌等が詠まれた寺院として紹介されている。平等庵が平等寺になったいきさつを知りたくなった。

027_5  「栃木市にある平等寺は霊雲寺の末寺です。平等庵が平等寺に名前が変わったのは、宗教法人法の改正によるものです」と湯島天神そばの本寺、霊雲寺を訪ねた私に事務員の人が教えてくれた。それ以上の詳しい話は担当者がいないということで断られた。平等寺はかつては平等庵と称し、東京都文京区湯島にある真言宗霊雲寺派総本山「霊雲寺」の末寺になっていることが分かった。

    霊雲寺で渡された冊子によれば、元禄4年(1691)に淨厳律師によって文京区湯島に創建開基され、柳沢吉保を通して5代将軍徳川綱吉の尽力によるとされている。同冊子の霊雲寺略史の中で、「永享3年(1746)~宝暦6年(1756)にかけて霊雲寺の末寺60か寺となる。その所在は武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野・相模」と記されている。このことから、宝暦10年(1760)と刻字されている石塔のある現在の平等寺は、宝暦年間(1751~1763)に「平等庵」として創建されたものと思われる。

  宝暦年間は、円説と三悦の二人の坊が壬生町興生寺から栃木町へ移住してきたとされている年代と重なる。二人の坊は中の坊、上の坊と称し、釜喜善野喜兵衛と釜佐善野佐次兵衛ら共に、質屋業として江戸後期の栃木町の金融経済を仕切る豪商になっていく。文久2年(1862)の栃木町「本陣火事」において平等庵は釣鐘を残して焼失する。唯一残った釣鐘は現在の旭町「定願寺」の釣鐘として現存している。寛政4年(1792)11月に造られたその釣鐘の施主の中に円説と三悦の名が刻まれている。平等庵と豪商との結びつきを強く表している銘文だと渡辺達也氏は「歌麿と栃木」の中で記している。

014  杢冷川「本橋」南東の角に建つ「釜中」店舗跡の裏手にある駐車場が、湧水池だったと地元の知人が教えてくれた。かつては平等庵の敷地内であった湧水池跡を本橋の欄干から見る。

   「この辺り一帯は何処でも湧き水が湧出し、平等庵は特に清水の湧き出る所で有名であった」と渡辺達也著の「歌麿と栃木」で記述されている。さらに、安政6年(1856)に発行「狂歌扶桑名所名物集下野」の中から、「湧出る平等庵の真清水をくめバ夏行きなり」、「真清水を結へハ夏を王(わ)すれぬり平等庵の秋の者川(はつ)風」(結べば=掬えば)」と平等庵の湧水を見ながら狂歌が詠まれていたことの紹介が書かれてある。ただ私には、変体仮名で詠まれる「狂歌」は馴染みが薄く、その世界になかなか入ることはできない。

 「歌麿と栃木」を読み、杢冷川沿いの「本橋」周辺にはたくさんの湧水があり、埋め立てられた池もあれば、今も現存している湧水池があることが分かった。。

004   「最初に池があり、そこに建物をもってきたのですね。普通ですと建物を建てて、そこから眺めの良い庭を造るのですけど」と、初めに湧水池があったことを女将さんは、私達、「歴史と文化を歩く会栃木」一行18人に説明してくれた。

  本橋の北西の畔に建つ、大正元年(1912)創業の老舗料亭「壬子倶楽部(じんしくらぶ)」。庭園には30m四方の湧水池があり、鯉が泳いでいる。壬子倶楽部の座敷で用意してくれた昼食弁当をいただく私達。個人ではとてもあがることのできない料亭の和風座敷。座敷から見える湧水池のある庭園と木造家屋…。栃木町の隠れた奥座敷なのかと、しばし見渡す。

009  「大正元年の壬子(きのえね)の年に開業しました。子(ね)は終わりから始まる縁起の良さと倶楽部という当時のハイカラな意味から、祖母が壬子倶楽部という名前を付けたのだと思います。かわせみが飛んできますので、池のまわりの何処かにきっと巣を作っているのですね」と三代目の女将さんが私達に説明してくれた。

  小石の底から地下水がボコボコと湧き出ているのが見える池。鯉が泳いでいる。池の南側には杢冷川に流れ出ていく水口が見える。大正元年に建てた家屋には庇の痛みが目に付くが、内部の和室、座敷の拵えはしっくりした作りになっている。

007 渓流で釣り糸をたれている老子の掛軸が掛けられてある床の間。別の座敷の床の間には艶やかな活け花が飾られてある。「私たちのために用意してくれたのよ」と同行者の人が耳元でささやいてくれた。女将さんの心配りにありがたく、喜ぶ。

006

  案内する女将さんの立ち振る舞いを見ながら、「浮世絵のような美人画を描きたくなる…」。そうした雰囲気のある座敷。廊下を歩く仲居さんと奥に見える湧水池が浮かび上がる。ふと、異次元の世界にひたる気分になってくる。それは、江戸の余薫(よくん)が漂う、浮世絵の香りのする光景でもある。栃木の町にしっとりとした江戸文化の香りが残っていたことを見つけたようで、うれしい気分になってきた。

013    平成19年(2007)栃木市発行の「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」の中で、村田弘子氏が壬子倶楽部三代の女将さんのことを次のように書いている。

  「大正元年(1912)に壬子倶楽部は開業した。遠藤セイが26歳のときである。セイは明治19年(1886)栃木町に生まれ、仲居として栃木町の料理屋で働いた。『壬子倶楽部の経営の一端を担うに際して、そのときの経験が大いに役立っていたようだ』とセイの養女遠藤今子は話す。壬子倶楽部は商人たちの商談の場として、また碁を打ったり俳句を詠んだり、趣味の場、社交場として使用された。客のあしらいをまかされていたのが遠藤セイである。今子がセイから壬子倶楽部を引き継いだのは戦後、昭和34年(1959)である。戦時中は企業の寮や軍関係の宿舎に使用された。祖母(セイ)、母(今子)、娘(智恵子)の3名の仲居の働きにより現在に至ったといっても過言ではない。当時、ビリヤードとして使用された洋館と日本庭園を背景とした日本家屋が今も残る」。

  この内容から、江戸時代からの料亭仲居としてのもてなし方を受け継いできたことが伺える。女将さんの仲居としての立ち振る舞いは、湧水池と日本家屋、格式ある料亭の佇まいと合致した風情になっており、格式ある料亭としての気品と伝統を感じた。…是非残しておきたい栃木町の文化遺産である。

005_2   壬子倶楽部の前の通りを隔てた向かい側の敷地。駐車場になっている跡地は栃木の名のある商店主の屋敷跡地である。その跡地の敷地の下の岸辺から杢冷川へ注ぎ出てくる地下水が見える。かつての湧水池の名残りでもある。

  この屋敷跡の前の前の持ち主が、釜喜、善野喜兵衛の別宅だった教えてくれた人がいた。確証はないが、江戸期に釜喜の別宅だったとすると、平等庵ー中の坊円説ー釜喜・善野喜兵衛―狂歌との繋がりの中で「喜多川歌麿」の影が浮かび上がってくる。歌麿は天明期(1781)から寛政期(1800)にかけて栃木の町に度々訪れていたと伝わっている。

051_3   栃木市では歌麿作の肉筆画、「深川の雪」「品川の月」「吉原の花」三幅対、「雪・月・花」の高精細複製画を作成し、市役所4階に12月24日まで展示を行なっている。

  「江戸時代、例幣使街道宿場町と江戸に通じる巴波川の舟運として栄えた栃木町は江戸との交流から狂歌文化が花開きました」と展示場の解説に書かれてある。さらに「自らも筆綾丸(ふでのあやまる)の狂歌名を持つ歌麿は、狂歌を通じて栃木の豪商と親交がありました。歌麿の肉筆画大作「雪・月・花」は、栃木の豪商、善野家の依頼とされている」と解説している。

022  釜喜、善野喜兵衛の狂歌名は通用亭徳成と称し、長寿を祝う大量の狂歌短冊の中に、歌麿自筆の短冊が発見されているなど、栃木町と歌麿、善野家との関係について研究が進めらている。

 ――とは言っても、江戸時代に驚異的なブームを巻起した狂歌熱は明治になり衰退。俳句のように継承されてこなかった狂歌。理解しがたい分野になってしまっている。狂歌の面白さや素晴らしさを分からないというのが現状だと思える。

 江戸後期、栃木町の経済と文化、狂歌を支えた栃木町の豪商たちについて、これからも研究していく課題は多々ある。 

030_3   歌麿が描いた「雪・月・花」の三幅対。幕末の大火の中で保存もされていた。そして、栃木のどの家で三幅対を描いたのだろうか?興味がある。

  「深川の雪」の画は198・8㎝×341.1㎝と非常に大き肉筆画になっている。中の坊円説(現在の栃木郷土参考館)宅の巴波川沿いの離れで描いた説を述べる人がいる。だが、私には、本橋界隈の「壬子倶楽部」の前の家、釜屋善野喜兵衛の別宅地で描いたのではないかと思えてくる。「巴波川」ではなく「杢冷川」と湧水池こそが、歌麿が描く「浮世絵」の世界に相通じるものがあるのではないかと想像する。私の「歌麿ロマン」の世界でもある。

  江戸の香りが漂う「本橋」界隈。「狂歌」や「浮世絵」の世界を思い浮かべながら杢冷川沿いを歩くのも、また良しとしよう。

 杢冷川は旧栃木刑務所時代に堀の役割をした栃木市文化会館とあさひ公園の脇を流れ、巴波川に合流していく。子ども頃に泳いだ湧き水のある水源沼。水の冷たさを今でも私の肌は憶えている。杢冷川湧水の清流は、これからも栃木の町を流れていく。

                                            《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

「町政50周年記念、日ノ出町史」(昭和62年3月、栃木市日ノ出町自治会発行)/「霊雲寺」紹介冊子/渡辺達也著「歌麿と栃木」(平成23年10月三刷歌麿と栃木研究会発行)/栃木市地域女性史編さん委員会編「私たちが綴る栃木市の女性たち」(平成19年3月栃木市発行)/ブログ巴波川日記「杢冷川―栃木市街地を流れるもう一つの河川」(2014年11月) 

 

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