歴史散策

奥州街道白沢宿から鬼怒川渡し跡を歩く

100000009000274924_102031 ♪これこれ石の地蔵さん 西へ行くのはこっちかえ

 だまって居ては判らない 何やらさみしい旅の空 

  いとし殿御のこころの中は 雲におききと言うかえ

 (「花笠道中」昭和33年・歌:美空ひばり・作詞作曲米山正夫)

  この歌を聴くと昭和37年東映正月映画「ひばり・チエミの弥次喜多道中」を思い出す。地方都市の栃木市の映画館は封切り日から1カ月遅れの上映になっていた。しかし、正月映画ということで東京と同時に栃木の映画館でも公開上映になった。元旦の朝、新聞にはさまれていた映画館のこのチラシを見た時、何故か無性にうれしかったことを憶えている。この歌から連想して江戸時代の宿場町の面影が残されているという白沢宿に行ってみようと思い立ち、車を進めた。

 白沢宿誕生と町並み景観

019  平成30年の5月の連休、晴天の日に車を九郷半(くごうはん)川沿いにある白沢公園内の駐車場に車を駐車して、白沢宿から鬼怒川渡し跡までを歩いた。 

  宇都宮市街で日光街道と分かれる奥州街道。その最初の宿場が白沢宿になっている。明治18年(1885)に国道4号線のルートから外れたことにより、時代から取り残されたかのようにひっそりと佇んでいる印象を受けた。…それが味わいのある風景を生み出しているように見えた。

023_2  白沢宿の入口にそびえる榎。その下には江戸時代、通行人や旅人が使用されたとされる公衆便所跡が建っている。珍しくもあり、のどかな気分になる。裏から便所の中を見ることができるが…。

  慶長2年(1597)、宇都宮家臣だった宇加地一族郎党が下田原(宇都宮市下田原)より白沢村に移住し、白沢村の庄屋となり白沢村が誕生したとされている(町史年表)。河内町誌においては、「慶長10年(1605)頃より白沢村庄屋宇加地家と上岡本村庄屋福田家の両村共同の白沢宿としての往還馬継宿がつくられる」として、「慶長15年(1610)3月に幕府の役人や領主である奥平家の家老衆等が白沢まで出頭して立ち合い白沢宿として町割ができた。源六郎(福田)後見親河内と因幡(宇加地)の両人が御用を勤め、問屋を仰せつけられた」と宇加地家と福田家によって白沢宿がつくられたことが記されている。

025_2  白沢宿を誕生させ、後の白沢宿の本陣となる宇加地家と脇本陣となる福田家は慶長5年(1600)7月の会津上杉景勝討伐に際して戦功によるものとされている。

  河内町誌には、徳川勢の榊原・伊井・酒井らは阿久津・氏家まで進出した際に鬼怒川を渡った。その時に鬼怒川の瀬を案内し無事に渡河させたのが宇加地氏の先祖因幡父子と福田氏の先祖源六郎・右京之進父子であったことが記されている。

024_5  白沢宿の入口、公衆便所のある榎一帯は高台になっている。その高台を削り奥州街道を設置したことになる。街道左側、高台の北には白髭神社の社を見ることができる。その手前の家庭菜園地が「丸山砦」跡地になっている。上杉討伐軍の先発大将の家康二男の結城秀康が着陣したと云われている。宇加地文書には「眺望のよい裏の林(慶長期には林はない)の台上に丸太で砦を築いた」と河内町誌に記されている。

   丸山砦跡の高台に立つと遠方に鬼怒川が見えた。すぐ下の白沢宿は南北一筋の街道を挟んだ家並みになっている。手前西側は断崖、東側には九郷半川が流れている。川と断崖に挟まれた宿場町になっているのが分かる。

039  坂道になっている街道を下り、交差点を左折して白沢宿に入る。宇都宮の日光街道から分かれた奥州街道は白沢・氏家・喜連川・佐久山・大田原・鍋掛・越堀・芦野・白坂を通って白河宿まで11宿を往還している。起点の宇都宮から終点の白河までの距離は21里18町14間半(約84.5km)。宿の人口は369人とされ、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠13軒あった(「奥州街道白沢宿まち歩きマップ」より)。

042 河内町誌では、宿の長さが4町30間(約450m)、宿の規模としては大きいものではなかったが、下野文化史を引用して民家約80軒余、道の両側に軒を並べ、約20戸の遊女屋が花柳界を構成し、繁栄したことが記されている。

 江戸期には九郷半から引かれた用水堀が宿場の中央を流れていた。馬の飲料水から防火のため、また旅人の足洗いとしても活用されていた。現在は道の両脇を用水堀が流れている。

051  平成元年(1989)に発足した「奥州街道白澤宿の会」によって用水堀に水車が設置されるようになった。鬼怒川渡し跡を見た後に初めてお会いした白澤宿の会の住吉和夫さん。「現在の水車は3代目。半分は個人が寄贈しています」。水車を設置した理由として「デザイン」と応えてくれた。「この宿の道路は駐車禁止になっていません。ガードレールもありません」と用水掘と道路、歩道が一体となった町並み景観をつくっていく姿勢がにじみ出ていた。行政書士をしている住吉和夫さんの家は白髭神社鳥居横の「旅篭、住吉屋」になっている。

040_2  それぞれの家には「本陣」「伊勢谷」「澤屋」「井桁屋」などと書かれた板札が掛けられていて面白い。これも白澤宿の会の企画なのかと思えた。

 白髭神社鳥居の横にある駐在所。案内書には「番所」という板札が架けられていることになっているが、…ない。奥から現れたおまわりさんに聴くと、「古くなって壊れました。トイレですか?隣の陣屋にありますよ」と言われた。

  この町には江戸時代の公衆便所跡があるのに現代の公衆トイレがない。歩く旅行者にとり公衆便所の存在は大きい。もっともどの家でもトイレを貸して欲しいと頼むと快くOKの返事がもらえる雰囲気がこの町にはある。本陣敷地の奥に「手洗所」は確かにあった。

  本陣には鬼怒川渡し跡を見た帰りに寄るつもりで、宿場の突き当り北の井上清吉酒店を右折し、「白澤一里塚跡」を通り鬼怒川渡し跡を目指した。

 鬼怒川渡し跡…渡船としての繁栄

064_2  白沢宿から西鬼怒川を越えて「一里塚跡」まで1km。ここから鬼怒川まで1kmの奥州街道を歩くと鬼怒川の堤土手にぶつかる。左折して堤沿いの細い道を1kmくらい歩き、堤道路の分岐点を右下に下りたところに「鬼怒川渡し跡」と書かれた標識があった。

  標識の真中に「鬼怒川渡し跡」、左に「氏家宿」、右に「白澤宿」と記載されている。しかし、ここから河原には降りることはできない。鬼怒川の川の流れも見えない。…残念だ。以前には対岸の阿久津河岸跡を訪れた時、阿久津大橋の下の河原を歩き、川の流れを見ながら芭蕉も渡し船でこの鬼怒川を渡ったのかと感慨にふけったこともあった。

055_3  栃木県史の白沢宿鬼怒川については、「鬼怒川は、平常は広い河原で、川幅30間(約54m)であるが、出水時は8町(約872m)にも及ぶ大河で、渡船があった。雪どけの増水期からの夏期3月から10月まで渡船、11月から2月の冬の渇水期は板橋を架けた」と記されている。

  白沢宿の断崖から鬼怒川まで、確かに広々とした水田になっているが、かつては河原であったのではないかと思えてきた。明治期に東北本線古田駅から岡本駅への線路変更になった理由として、鬼怒川の増水で鉄橋の橋桁が維持できないからであったということも頷ける景色である。

  大島延次郎氏は著書「下野文化史」の中で、鬼怒川を挟んで両岸の阿久津河岸と白沢宿は鬼怒川によって繁栄したと指摘している。対岸の阿久津河岸は若目田家による鬼怒川舟運回漕業によって繁栄したことは理解できる。しかし、白沢宿の繁栄は「白沢宿は鬼怒川の歩渡しに近い」としているが、よく分からない。

054  阿久津河岸関連での氏家町史では、下野文化史を引用し、「鬼怒川渡船3割増しの賃銭(文政10年)では1人銭10文、駄馬15文、軽尻は10文だった。また天保12年(1841)より架橋の責任が上阿久津村に負わされ、毎年渡子には10石を給したこともある。ことに寛永以降参勤交代のための諸大名の往来があり、下野北部、奥州の37大名はほとんどこの渡しを通過している」と、大名行列での渡船を特徴と記されている。

  大名の渡船については格式に応じたものがあり、白沢村にも応分の報酬があったものと伺える。慶長5年の上杉討伐に際しての鬼怒川渡河の功績が底辺に流れていることを感じる。鬼怒川周辺に生きる村にとり渡船という稼業について、もっと学んでいきたい。

 白沢宿彫刻屋台-磯辺一族・磯辺敬信

045  鬼怒川渡し跡から白沢宿に戻る。本陣を訪ねたいからだ。勇気をだして本陣に声をかけることにした。

  白沢宿北の入口の橋の下を流れる九郷半(くごうはん)川。流れが急である。西鬼怒川から分流し南下する川の流れによって灌漑の及ぶ郷が9か村半ということから九郷半川と呼ばれている。

074   橋の上から川下に鎮座する北野神社が見える。境内には天保4年(1833)製作の「白沢甲部彫刻屋台」の収納庫がある。同じ下流の須賀神社前にも文化13年(1816)製作の「白沢南彫刻屋台」収納庫が設置されている。

  宇都宮教育委員会の案内標識板には両屋台とも明治5年頃に鹿沼の町内から購入し、修繕を行なっていることが記されている。2台の彫刻屋台の修繕を行なった彫師として、富田宿(現在の栃木市大平町富田)、磯辺分家三代目の磯辺敬信と記されているのに驚いた。

  磯辺敬信は幕末安政の頃から明治30年(1897)まで神社や彫刻屋台の彫師として活躍した。「氏家上阿久津屋台」、「鹿沼銀座二丁目屋台」、「小山市本沢河岸熊野神社」など彫物として現存している。

072   「栃木の水路」の中で阿久津河岸関連の彫刻屋台に関連して、手塚良徳氏は磯辺敬信について次のように記している。「磯辺敬信、本名平五郎は文政11年(1828)に二代目隆信の子として下都賀郡富山村富田に生まれた。明治30年7月に死亡するが、68年の生涯の中で、数台の屋台とかなりの作品(彫刻)を残している。彼は中肉・中背・気風のよい棟梁で、いつも4~5人の弟子を引き連れ仕事をしていたと上阿久津の人々に伝えられている」。と「いつも4~5人の弟子を引き連れて」という箇所に注目する。

  私には神社や屋台の彫師は一人ではなく、集団作業で製作をしていくというのが頭にある。栃木町在住であった後藤流の彫師渡辺正信は磯辺敬信と共同で熊野神社彫刻がある。二人の関係性に注目をしていたが、まさか、白沢宿に磯辺敬信の彫刻屋台があるとは、驚いた。

 本陣宇加地家の座敷-雛飾りと世直し一揆の痕跡

049   宿場町を構成する要素として、①人馬の継立を行なう問屋場があること。②武士や公家など貴人が宿泊・休憩する本陣があること。③宿場の両端の街道がクランク状に曲げた枡形になっていること等あげられている。

  門を入った所の敷地は広くなっている。白沢宿本陣と問屋場は宇加地家にあったことが分かる。

035   「…ごめん下さい」と宇加地家本陣屋敷の玄関前で声かけた。返事がないので、建物にそって裏に回ってみた。南側には蔵が続いている。黒い車に乗って駐車している女性がいた。「ハイ」という返事があった。「少し、お伺いしたのですが、会津藩士の墓が薬師堂の崖の上にあると聞いたのですが、どこにあるのか教えて欲しいのです」。「そうね、隣の住吉さんなら詳しいから分かると思うわ。…それと、いい、今うちでお雛様を飾っているの。見て行きませんか。まもなく閉まってしまうから」と思いがけない返事が返ってきた。宇加地家の奥様だった。そして本陣の中に入れることが分かった。

076  本陣玄関の引き戸が開かれ、中に入れていただく。重厚な玄関から座敷に案内された。座敷にはお雛様が飾られていた。「凄い!艶やかな、本物だ」とひな人形に詳しくないこの私でもその重量感に圧倒された。

  「5年に一度、お雛様を飾るのです。あとは5年後なのね」と言って、資料を渡してくれた。「奥州白沢宿 本陣宇加地家 雛人形」と書かれた文化財保護審議会資料には次のように記されている。全文を載せます。

  「宇加地家に伝わる雛人形の制作年代については『琴の箱書』に明記してあり『寛政元年己酉三月三日』(1789年つちのとり)これ以前に制作されたものと推定できます。

『御雛様』・『御内裏様』・『五人囃』・『右大臣』・『左大臣』を基本として構成されています。江戸中期の雛人形の風俗が良く理解できる大変貴重な文化遺産で歴史的資料はもちろんのこと民族学上も貴重です。付随品としては、公家の生活調度は勿論のこと、格式の高い大名駕籠の他に基盤・将棋盤・双六盤等の娯楽用品、琴・三味線等の楽器は緻密で精巧に作られ、保存状態も極めて良好です。

人形衣装は木目細やかな西陣織りで、以前は一枚ずつ下着から着せていたそうですが、現在では維持管理の都合で着せたままになっています。屏風は桃山時代様式の画風で、四季を表現しています。全体的に色彩も鮮やかに残り保存には大変気を使います」

  お雛様愛好者にとり宝ものかもしれない。必見の価値のある雛飾りだ。艶やかな雛飾りに圧倒されてもっとよく観ればよかったと後から悔やむ心が湧いた。

079  飾られてあるお雛様の座敷の隅に刃物傷跡のある柱がある。「下野世直し一揆」の跡だ。慶応4年(1868)の4月3日に宇都宮八幡山に集結した下野一揆勢3万人と宇都宮藩兵とが衝突した。宇都宮藩兵が一揆勢に発砲したため、一揆勢は二手に分散する。

  このうち北方に逃れた一手は岩倉村をへて下田原村・白沢宿で打ちこわしを行なった。白沢宿を襲った一揆勢は藩兵の追撃にあい四散したが、新たに参加者を得て騒動は氏家・桜野村に拡大した(長谷川伸三著「慶応期野州中央部の農民闘争」より)。

  下野世直し一揆勢はこの白沢宿本陣の宇加地家にも打ちこわしをおこなっていった。その痕跡として残されている柱。世直し一揆の歴史的な史料を見ることができた。

080  「この家(陣屋建物)は明治になって建てられ、以前の建物ではありません。江戸時代と間取りが違っていますのよ。先代が壊された柱等を綺麗にして建築資材として使用して建て替えたのです。傷痕のあるこの柱がそうなんですよ。こちらの部屋が明治の時に郵便局をした所です」と言って、座敷の前の洋室を示してくれた。

  明治の初めにできた郵便局は地域の名主か名家が執り行った。さすが名主と陣屋を営んできた宇加地家だと思えた。それにしてもこのご婦人、奥さんというより奥様と呼ぶにふさわしい気品がある。陣屋という時代の波を受け継いできた雰囲気をかもし出してくれるご婦人に思えた。

  「彫刻屋台の巡行は5年に1回なの。今年がその年なのよ。11月の第1土曜と日曜日ね。屋台を見ることができますよ。是非いらしてください」と彫刻屋台の巡行の日を教えてくれた。素晴らしいお雛様飾りと幕末の世直し一揆の痕跡が残る座敷を見ることができた。声をかけて良かった。そして何よりも気品あるご婦人に出会えたことが嬉しかった。宇加地家の奥様に感謝申し上げて、隣の住吉屋に向かった。

 戊辰戦争会津藩士の供養塔

033_2  「会津藩士のお墓ね。これから案内します」と私を車に乗せて案内をしてくれた住吉和夫さん。住吉家の玄関には来客用の敷居があり、奥さんはお茶を淹れてくれた。初めていきなり訪問者への心遣いがうれしく、宇加地家の奥様同様に、この白沢町の人からは温かみを感じた。

 水車や駐車禁止でない道路ことを話した住吉さんは、「一里塚の興味から歴史に入って行ったのですよ。今、白沢宿の歴史をまとめているのです」と言って、途中で寄ったご自身の行政書士事務所でその資料を渡してくれた。「まだ途中なんですけどね」と笑顔で話してくれた。

083   白沢宿北の突き当りにある地酒蔵元の井上清吉店の左斜めの急坂道を上り、台上を登りきった道を斜めに左折した道の50m先の左側に2基の供養塔が建てられてあった。

  ――会津藩士の供養塔だ。

  河内町誌に、「白沢の宇加地氏は御用川で殺された会津藩士のために明星院の上に供養の石碑を建てた」と記されている。左が大正時代、右の供養塔が殺された直後に建てらてものと思える。残念ながら会津藩士の氏名は判らない。

  案内の標識が立っていれば何の供養塔かはすぐ分かるのにと思った。

086  慶応4年(1868)4月19日に宇都宮城を攻略した旧幕府軍は4月23日に新政府軍に宇都宮城を奪還される。敗残兵の会津藩士は落ち武者狩りとして村人に殺されていったと伝わっている。

  宇都宮城を攻略した際に旧幕府軍の大鳥圭介は治安維持のため乱暴や金銭を無心した兵士は討ち取って良いとのお触れを出していた。4月23日の宇都宮城落城で旧幕府軍の敗走から多くの脱走兵が生じた。討ち取って良いというお触れから、道馬宿村や今泉村など各村々では村人たちの警戒心から容赦のない対応をしたことが大嶽浩良著の「下野の戊辰戦争」に記されている。

 会津にむけて敗走する会津藩士も警戒する村人たちによって討ち取らていったと思われる。4月3日の世直し一揆による白沢陣屋宇加地家への打ちこわしの影響もあり、強固な警戒心が生んだ事件であった。私の住む栃木市においても慶応4年の4月6日に警戒する村人によって殺害された2人の会津藩士の墓が一乗院(栃木市大町、日蓮宗)に供養されている。一揆を扇動する浪士と間違えられての殺戮であった。

 水車小屋と町づくり

012_2_2  九郷半川の清流沿いに造られた「白沢公園」。宇都宮市が製作した水車小屋を備えた水車がギー、ギーと唸りなら回転している。本格的な大きな水車を眺めながら、川の清流とあいまってのどかな田園風景を楽しんだ。

  白沢宿は江戸時代の初めに生まれ、明治18年(1885)の国道ルートから外れることにより宿の役割が終わった。しかし、白沢宿を歩くことによって、明治維新から150年の時を経て今、蘇る何かがあるのではないかと感じた。

 「白澤宿の会」等、地域の人たちによる蘇生の動きもある。本陣に眠る歴史的史料や彫刻屋台など常設展示館や歴史資料館等がなどあれば、より多くの人が立ち寄り、白沢宿を見つめるようになっていくように思える。価値ある歴史資料がまだまだ地域の人の家の中で眠り埋もれているのではないだろうか。水車、堀の整備など外観の町づくりから内部を公開していく町づくりを目指していって欲しいと願い、帰路についた。

                                    《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

「栃木県史通史編4近世」(昭和56年3月発行)/「河内町誌」(昭和57年3月発行)/「ちょっと歩ける日光街道奥州道」(2008年3月、山と渓谷社発行)/大島延次郎著「下野文化史」(昭和31年5月発行)/「氏家町史上巻」(昭和58年3月発行)/手塚良徳著「みちのく江戸を結ぶ鬼怒川舟運」(昭和54年12月栃木県文化協会発行『栃木の水路』収録)/長谷川伸三著「慶応期野州中央部の農民闘争」(昭和49年2月雄山閣発行『幕末の農民一揆』収録)/大嶽浩良著「下野の戊辰戦争」2006年2月下野新聞社発行)/田辺昇吉著「北関東戊辰戦争」(昭和57年5月松井ビ・テ・オ印刷発行)/住吉和夫編「奥州街道白澤宿の歴史(誌)」/白沢地区景観づくり推進協議会作成「奥州街道白沢まち歩きマップ」(平成26年3月発行)

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正岡子規の歌、「しもつけやしめぢが原に春暮れて~」

001_2   しもつけや しめぢが原に 春暮れて 葉広さわらび 人も訪(と)ひ来ず    =正岡子規= 

   「明治になって、正岡子規がこの地(栃木市川原田町標茅が原)を訪れて詠んだ」と宇都宮大学教授の多々良鎮男氏が「栃木県の文学散歩」(昭和54年発行)の「歌枕標茅原」の中で正岡子規の歌として紹介をしている。

  栃木市街地の北にある川原田町、木野町は栃木市内を流れている巴波川(うずまがわ)の源流となる湧水池が多数散在している湿地帯であった。この地をしめじが原と云われ、平安時代には東国の「歌枕」として「古今和歌集」などにもよまれていた。近くには東武日光線「合戦場駅」という駅名があるように、戦国期の16世紀初めには南下する宇都宮勢と栃木皆川氏と激しい戦闘が行われた古戦場でもあった。

004_4_2   粟野街道から東へ少し入った住宅の密集する中に渇水した白地沼がある。河野守弘著『下野国誌』を基にした栃木市教育委員会作成の案内版『標茅が原』と石碑が建てられている。案内版には「平安時代以来、標茅が原と伊吹山(ここより2㎞)は東国の歌枕として都まで聞こえた名所でした。また、このあたりが標茅が原のおもかげを最もよく残しています」と書かれ、数首の和歌が記されている。

  「下野や しめつの原の さしも草 己が思ひに 身をや焼らむ」(よみ人しらず、古今和歌集六帖、河内躬恒)。「頼みこし しめぢが原の 下わらび 下にもえても 年へにしかな」(藤原俊成)。「下野や しめぢ原の 草がくれ さしもはなしに もゆる思ひぞ」(藤原光俊)

1358742928731131101221_2   「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」は芭蕉の「古池や~」とあわせてなじみの深い俳句として私たちの胸に刻まれている。その情景をも思い浮かんでくる。子規は「写生」という概念から近代的な俳句、短歌を文学的に高めたという高い評価を得ている。 

  栃木に住んでいる私にとり、「栃木県の文学散歩」を読んでから、ずーと正岡子規の「しめぢが原」の歌がどの歌集に載っているのか?気になっていた。また、多々良氏が記してる「しめぢが原」に実際に子規は訪れているのか?確かめたいとも思っていた。 

 昨年(平成29年)の12月にNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」全13話をDVDを借りて観ることができた。このドラマから香川照之の演じた正岡子規に強い印象を受けた。そこで「しめつけや しめぢが原に 春暮れて~」の子規の歌の載った歌集を栃木県立図書館にレファレンスとしてメールでの問い合わせをした。

  栃木県立図書館より、「 しもつけや しめぢが原に・・・で始まる正岡子規の短歌について『和歌文学大系25 竹乃里歌』(明治書院2016)の資料から確認しました。正岡子規が遺した歌稿「竹乃里歌」を中心として、他の著述や書簡などにより知られる作品を補った全歌集です。本文は年代順に短歌が収録されており、明治32年の項にお探しの歌を確認しました」という回答がメールにて送られてきた。

Ph_sendagi281  さっそく栃木県立図書館から同書を借りて頁を開いた。

  …あった。明治32年、240頁、1266首、竹乃里歌集の中の春の歌として記載されていた。

  …この歌がよまれたのが明治32年の春ならば、3月、4月に子規庵での歌会でよまれたことになる。すでに子規はこの時、カリエス(結核性脊椎炎)で寝たきりの状態になっていた。

 前年の明治31年の2月には新聞「日本」に10回にわたり、古典和歌から近代和歌への転換を鮮やかに記述したといわれる「歌よみに与ふる書」を記載している。子規が短歌の創作に本格的な力を入れたのは「歌よみに与ふる書」が書かれた明治31年以後であると村尾誠一氏は「和歌文学大系25竹乃里歌」の解説で記している。ちなみに明治32年が一番歌の数が多いとも記している。

  「貫之は下手な歌よみにて古今集は下らぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拝するは誠に気に知らぬこと」と痛烈に『古今和歌集』を真っ向から否定し、『万葉集』や源実朝の『金槐和歌集』を称揚するものであった。

Shikian021  司馬遼太郎は「坂の上の雲」の中で、「歌は感情をのべるものである。リクツをのべるモノではない」として、「歌よみに与ふる書」は「かれ(子規)によれば歌をよむための歌よみの歌よみの歌というのは芸術ではないという。歌は事実をよまなければならない。その事実は写生でなければならないと実例をあげて論証した」と記している。

  カリエスの強烈な激痛の中で、子規は子規庵「病牀六尺」の中で、句・歌を発表し、随筆を明治35年9月19日、34歳11カ月の亡くなるまで書き続ける。

  子規の歌う「しもつけや しめぢ原に 春暮れて 葉広さわらび 人も訪ひ来ず」は古今和歌集の歌と違い、歌枕としての「しめぢが原」の修辞を否定している。人も訪れることのない、寂寥感のある現在の白地沼一帯の情景を描いている.。古戦場跡地からか、怖さも響いてくる歌である。

  多々良鎮男氏が記した子規がしめじが原へ訪れて句を詠んだということはない。想像するに、子規は「病牀六尺」の中、食前でワラビの若芽を見て、歌枕のある下野のしめじが原を思い浮かべ句を詠んだのではないだろうか。「…人も訪ひ来ず」とは子規自身も行くことのできない深い世界へ導いていくように思えてくる歌である。

                                      《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

多々良鎮男著「栃木県の文学散歩、歌枕標茅原」(昭和54年8月、月刊さつき研究社発行)/村尾誠一著「和歌文学大系25竹乃里」(平成28年5月、明治書院発行)/正岡子規著「歌よみに与ふる書」(平成14年11月、インターネット青空文庫)/司馬遼太郎著「坂の上の雲2」(昭和49年2月文藝春秋発行)

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後藤流江戸彫りのある栃木市の寺社を歩く

038  日光東照宮造営から200年ほど経た1800年代、江戸中期から末期にかけて華麗な彫刻を施した神社仏閣が復活したと云われている。

  北関東、下野の国の栃木町は江戸と結ぶ巴波川舟運と日光例幣使街道が交差する物流拠点として宿場・問屋町として繁栄した。そして明治から大正にかけては全国に網羅した麻問屋流通によって興隆し、蔵の街栃木と譬えられるようになった。

  こうした現在の栃木市の街の中には、江戸彫り後藤流の流れをくむ霊獣「龍、サイ、獅子」などの彫物が寺社の向拝鐘掛け上の欄間や木鼻に見ることができる。江戸中期以降の社寺では高価な漆彩色の彫物ではなく、硬い槻木(つきのき、欅の古名)材を用い、木目を生かした立体感を作る木地彫が「江戸彫」の主流になっていった(大田区HP「大田区歴史探訪」より)。その江戸彫の潮流、後藤流彫刻が施されている栃木市内の社寺を探索、歩いてみた。

●定願寺(天台宗、栃木市旭町13-1)

Photo  弘仁3年(815)最澄が開山し、現在地に永禄6年(1563)に皆川俊宗によって創建された定願寺。例幣使街道から栃木市街地に入る開明橋南木戸口から蔵の街通りに入り、室町交差点先の通りを右に曲がった所にある。

  栃木市の草分けの寺院でもある定願寺は、元治元年(1864)の6月1日、太平山から筑波山に戻る際の水戸天狗党の本陣宿泊地になったり、明治4年(1873)の栃木県庁舎建築の仮庁舎になるなど、歴史を刻んできた寺院でもある。

Photo_3  文政6年(1823)に建立された境内に入る御成門の木鼻には「波彫の獅子」が施されている。駕籠彫にて木を波型にけずり、獅子の姿をなしているとし、栃木市指定文化財になっている。棟札には「工匠渡辺杢水水源完休 彫工 渡辺喜平治宗国」と誌している(栃木市史より)。

  網で覆われている「波彫の獅子」。下から見上げてみると獅子のようにも見える。くねくねした波状の彫刻の技には凄さを感じる。しかし、よく分からない彫物であるのが正直な感想だ。

Photo_4   正面、本堂の向拝鐘掛け上の欄間には2頭の龍の彫物が掲げられてある。作者は不明だが、御成門創建の頃の文政年間(1818~29)の作ではないかと想像する。 

  江戸の木彫りには、後藤流、石川流、島村流など伝統的な流派が存在したという。御成門「波彫の獅子」の彫師、渡辺喜平治宗国は幕府彫刻師、後藤重右衛門正綱の弟子渡辺喜平治正道の子息であり、大平町富田に住み大平町榎本の八坂神社本殿や定願寺御成門などを彫刻していると云われている。

Photo_6  大平町富田宿には同じ後藤重右衛門正綱の弟子から初代磯辺信秀が生まれ、磯辺一族の元祖になっている。彫刻師磯辺一族は江戸中期から明治期にかけて大平町富田から栃木県を中心に10人以上の彫師を輩出し、数多くの彫刻を社寺や鹿沼彫刻屋台などに遺している。

 渡辺喜平治正道はその磯辺信秀の兄弟子にあたり、栃木町建仁寺流宮大工の渡辺睦林の次男であると関忠次は自著「近世社寺装飾彫刻画題考、社寺の彫物を訪ねて」において記している。

Photo   栃木在から江戸に出た渡辺正道は後藤正綱のもとで木彫り師として二代目後藤重衛門を継ぎ一本立をしたと思われる(三代目は後藤重衛門は正綱の子が継ぐ)。 後藤流二代目渡辺正道の子息、渡辺喜平治宗国は大平町富田に戻り磯辺一族と共に社寺の彫り師にとなっていったと思われる。社寺の彫刻は宮大工から分化し、「宮彫り師」「木彫り師」としてて成立していったとする説に準じている。

 《江戸から栃木に流れたきた後藤流渡辺喜平治の系図》

  後藤重右衛門正綱(幕府彫刻師)―渡辺喜平治正道(栃木町宮大工渡辺睦林の次男、二代目後藤重右衛門)―渡辺喜平治宗国(正道の子息、大平町富田住、榎本八坂神社本殿・定願寺御成門彫刻)―渡辺喜平治正信(宗国の子息、栃木石町住、栃木本町長清寺・泉町雲龍寺・新井町天満宮・小山市上泉町熊野神社等の彫刻)ー弟子・田中稲村(日本画家田中一村の父)。(関忠次著「近世社寺装飾彫刻画題考、社寺の彫物を訪ねて」より)

 境内本堂脇には磯辺一族の分家、磯辺儀兵衛隆顕の彫刻のある「成就院不動堂」があるが、栃木町に住んでいたという後藤流渡辺喜平治正信の彫物に着目して歩いていきたい。

●長清寺(真言宗智山派、栃木市本町14-30)

Photo_3   「この地は字川島と言いますよ」と語る長清寺の住職。そばを流れる杢冷川の流れは、かつては二股に分流し、また合流して巴波川に注いでいたという。そのため二股に分流する地帯を川島と云われていた。

  「明治10年代頃に本堂を建てたのですが、それ以前の本堂は杢冷川の向こう岸、今の幼稚園のある所に建っていたのです。当時の住職は変わったお人でね、新しく建てられた本堂が気に入らず、泉町にある常通寺(浄土真宗)に譲ってしまい、すぐに建てられたのがこの本堂なんですよ」と住職は語ってくれた。

  本堂向拝上の鐘掛け梁の木鼻には霊獣「獅子」「バク」の彫物が鮮やかに彫られてあるのが見える。彫師は関忠次著の「社寺の彫物を訪ねて」よれば渡辺喜平治宗国の子息、渡辺喜平冶正信と記している。渡辺喜平治正信は近くの栃木石町(現在の旭町)において「提灯屋」を営み社寺の彫刻をしていたことになる。この人の弟子が、孤高の日本画家田中一村の父、田中稲村(彌吉)であると関忠次氏は指摘をしている。

Photo_5  栃木市城内の圓通寺のある地から天正年間(1580)に皆川広照による栃木城築城のために現在地に移ってきた長清寺。境内には不動尊が祀られている。「栃木町には、北は雲龍寺、南に長清寺という成田山不動尊がありました。今では当寺(長清寺)は成田山新勝寺とは離れておりますけどね」語る住職。

  栃木市史の中には、江戸中期頃より栃木町では不動尊を祀る寺院から成田山新勝寺の講が作られた。白装束をした講一行は栃木町から巴波川舟運中積河岸の部屋河岸にて大船に乗り、船中一泊し千葉県木下に上陸、成田山詣りをしていたことが記されている。江戸においても隆盛した成田山詣りは栃木町においても行われていたこと。江戸文化流行の影響を受けていた一端がここにもあったことを知った。

●不動尊雲龍寺(真言宗智山派、栃木市泉町18-8)

Photo_6   栃木市蔵の街大通りの北端にあるのが、かつての北木戸口跡の万町交番交差点。その先は昭和7年に開通した道幅10間(約18m)の北関門通りが通っている。その北関門通り万町交番交差点から200m先に右斜めに入る2m幅の狭い道がある。かつての不動尊雲龍寺の参道跡である。参道の奥には近隣から「お不動さん」と親しみをこめて呼ばれていた雲龍寺御堂が建っている。明治23年(1890)にこの地に建立され、明治29年(1896)には建てられている壮大な建築物である。境内には栃木秋まつり「泉町山車人形・諌鼓鶏」の収納庫も建てられている。

Photo_8  江戸後期の文化文政の頃(1804~1829)にかけて栃木町の成田山不動尊信仰の講が長清寺とは別に3つの講、龍王・神風・信心が存在していた。その3つの講が慶応元年(1865)に合同して栃木大護摩社が結成され、明治3年(1880)に成田山新勝寺原口照輪師によって定願寺にて開眼供養が行われた。そして明治23年に現在地に成田山不動尊雲龍寺と建立されたと栃木市史には記されている。

055_2 万町交番交差点角にあった「清水屋」の古い建物が昨年の平成28年に解体されている。雲龍寺参道に入る口にあたる旅館であった。子供の頃、よく母に連れらて清水屋の湯船につかりに行ったことの思い出が残っている。明治32年(1899)発行の「栃木繁昌記」の中で著者の柴田博陽は不動尊雲龍寺の賑わいの様子を次のように記している。

  「泉町不動尊境内に於ける夏の夕は、又特別の賑やかにして其雅俗なるは、今ここに筆にする能はざれども、涼しき風の吹き通う夏の夕。浴衣のまま、同所に飄然(ひょうぜん)と散歩せば、老となく、若となく、男となく、女となく、波の如くこの地に遊ぶべし。境内には芝居あり、手品あり、軽業あり、見世物あり、祭文あり、浪花節あり、釣魚あり、吹き矢あり、射的場あり、料理店あり、露店あり、待合あり、氷店あり、団子屋あり、その賑やかなる事実に驚くべし」と参道から境内にかけての大道芸や見世物小屋などで老若男女の集う賑わいを著し、西側にあった「ぬかり沼川」の新柳の姿、光景を東風になびくその姿、艶なりと記している。

Photo_9  柴田博陽著の「栃木繁昌記」の中に明治期の雲龍寺の写真が載っていた。この写真から、山門は現在の西側ではなく御堂の正面に立っていたことや幅広い参道が続いていたことが分かる。広い境内から数多くの見世物小屋や大道芸人、団子屋や射的場など店舗が連なっていたことが読み取れる。

 執筆した柴田博陽は何者なのかよく分からない。「栃木繁昌記」の中の栃木町諸職員爛に「下野日日新聞特派員」と記載されている。柴田博陽は同書の中で当時の栃木町に3つの提言をしている。1つは両毛線敷設から麻宇を活かした工業をおこすこと。2つ目は女子教育に力を入れるため栃木町に女学校を開校創設すること。そして3つ目は遊郭を錦着山麓につくるべしと3つの提言をしているのがおもしろい。3つ目の遊廓は錦着山麓ではなく合戦場にできたが、あとの2つの提言は実現されている。麻宇を活かした懐炉灰、下駄製造の産業と栃木女子高校も明治34年(1901)に創設されていることから、卓見の持ち主であったことが伺えてくる。

Photo_10  「雲龍寺御堂の向拝鐘掛けの上にある龍の彫物。あの彫刻はりっぱです。田中一村の父、田中彌吉が彫ったのではないかと思えるのですよ。凄い彫物です」と以前に満福寺の長沢住職は私に話してくれた。

  睨みを効かせるように鋭い眼玉をしている龍の欄間彫刻。凄さと迫力が伝わってくる。向拝の横からは太くたくましい、海老虹梁(えびこうりょう)。向拝柱上部には見返りの唐獅子の彫刻が施されている。

 見事な彫物の彫師は渡辺喜平治正信であると関忠次は「社寺の彫物を訪ねて」の中で指摘している。

Photo_12  関忠次氏は渡辺喜平治正信の彫刻として他に栃木市新井町にある天満宮拝殿向拝上の龍の欄間をあげている。別の日に新井町天満宮に行き、向拝鐘掛け上にある龍の彫物を見て来た。写真で見比べても雲龍寺の龍とうり二つである。同一人物の彫師であることは間違いないと分かる。

2  また、栃木市重伝建地区嘉右衛門町岡田記念館所蔵の大神輿の縁起書には「文久3年(1863)彫工、栃木石町渡辺喜平治正信」と記され、嘉右衛門町例幣使街道沿いに展示されている。

  栃木旭町の神明宮の大神輿の彫刻も渡辺喜平治正信が彫っているとされている。

Photo_14 

 他に特記するものとして、渡辺喜平治正信の彫物には、小山市上泉にある熊野神社本殿の彫刻を磯辺敬信と共に彫上げている立体感ある幽玄な彫刻がある。熊野神社は巴波川舟運本沢河岸跡の「日光山裏道」と佐野道が交差する梅の宮宿にある。

 熊野神社境内の案内標識版には当代一流の彫刻大工としての磯辺分家三代目磯辺敬信が評価され、渡辺喜平治正信も共に熊野神社本殿彫刻彫りをしたことが記されている。江戸後期から明治初期に磯辺一族とは別に栃木町には江戸後藤流の流れを受け継ぐ彫師がいたことが分かり、うれしくなってきた。後藤流江戸彫りの流れに位置づけされる彫師、渡辺喜平治正信についてこれからも注目していこうと思う。

047  雲龍寺御堂向拝鐘掛け上の龍の欄間彫刻は田中一村の父、田中彌吉が彫ったのではないかと満福寺の住職は推測している。

  「クワズイモとソテツ」など奄美の底深い世界を描いた孤高の日本画家田中一村は栃木市平柳(現在の泉町)に生まれている。雲龍寺200m東に田中一村の生家があったと云われている。大正元年(1912)、一村が4歳の時に一家は東京の麹町に転居している。一村の父、田中彌吉は稲村の号を持つ天才肌の仏像彫刻だったと云われている(中野惇夫著「アダンの画帖―田中一村伝」より)。関忠次氏は彫師渡辺喜平治正信の弟子であったと指摘をしている。

Photo_18  雲龍寺と田中彌吉とを結びつくものとして、明治29年(1896)に建てられている雲龍寺建立由来の石碑裏面の中に田中彌吉の名前が刻字されている。境内の右にある3基の真中の「雲龍寺建立の由来」の裏面には浄財をだした615人の氏名が刻字されている。当時の栃木町の豪商などそうそうたる氏名の一番下の「発起人」の一人として「田中彌吉」と刻まれている。この刻字されている「田中彌吉」とは田中一村の父親なのか?

Photo_20  中野惇夫著「アダンの画帖―田中一村伝」の最後年譜では田中彌吉は昭和10年(1935)に52歳で亡くなったと記されている。逆算すると生れは明治16年(1883)になる。明治29年建立石碑の時の田中彌吉は13歳になる。齢が若すぎる…。どうも不自然なのだ。石碑に刻まれた田中彌吉は田中一村の父とは別人なのか?中野氏の年譜が間違っているのか?龍の彫刻は御堂建立から後の明治30年代なのか?…石碑に刻字されている「田中彌吉」についてはこれからも調べていくことにする

   雲龍寺御堂の彫刻が渡辺喜平治正信によって彫られているとすれば、近隣に住んでいた弟子の田中彌吉も関わり、共同で製作したのではないかと予測できる。浮世絵の世界も共同作業であったことから神社の木彫り師の世界も同様に共同作業があったと思われるからだ。

051    御堂の右、東側には朽ちかけ崩れそうな古い建物がある。栃木市老人クラブの伝承活動「栃木の社寺Ⅱ」に記載されてある「雲龍寺、沐浴場跡」の建物ではないかと思えた。同書には、「本堂の東側に僧侶や信者の沐浴場が造られており、冷水で身を清めていられるているのがたびたび見られた」と沐浴場のことが記されている。

 泉町に住む知人に訊ねたところ「ああ、水行場のことね。白装束した坊さんたちが水を浴び、修行していた。下から水が湧いていたんだな。昭和20年代後半頃までやっていたよ」という答えが返ってきた。朽ちかけた建物だが、「水行場」といわれた「沐浴場」跡として、不動尊信仰跡地として貴重な歴史遺産ではないかと思えた。

  雲龍寺の西側には「ぬかり沼」があり、栃木の町に用水として流れ注いでいた。今はその用水の流れは暗渠になり昔日の面影はない。雲龍寺の境内もかつての老若男女の娯楽地としての面影は残っていない。しかし、御堂には龍の彫刻などが今も残っている。江戸彫りの探索は栃木の町に江戸文化の資産を捜し歩くようなものと思えるようになってきた。これからも栃木の町に残る歴史文化の遺産を探し訪ねる旅をしていきたい。

                                         《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

関忠次著「近世社寺装飾彫刻画題考 社寺の彫物を訪ねて」(平成3年6月発行)/大田区HP「日光東照宮から始まる宮彫師の伝承、江戸彫工・堂宮彫刻の世界」/「栃木市史」(昭和63年12月発行)/柴田博陽著「栃木繁昌記」(明治32年11月発行)/中野惇夫著「アダン画帖田中一村伝」(1995年4月小学館発行)/栃木市老人クラブ編「栃木の社寺Ⅱ伝承活動平成元年度」(平成2年3月発行)/泉町成田山不動尊雲龍寺世話人編「昔日の泉町お不動さん」(平成16年11月発行)

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幕末の栃木町―うずま公園「西山謙之助供養塔」

041_2  安政6年(1859)に詠われた狂歌の中に、「念仏ばし わたるゆきゝ旅人も 笠をあみだにかぶる夏の日」(岩月、鶴成)がある。夏の暑い日に阿弥陀かぶりで旅人が念仏橋を渡る光景――。何やら念仏を唱えて阿弥陀かぶりをして渡るさまが思い浮かび滑稽な感じがしておもしろい。念仏橋は現在の栃木市内を流れる巴波川に架かる「幸来橋」のことを言っている。

  念仏橋には欄干があった。弘化3年(1846)の「片柳河岸絵図」に描かれている念仏橋概要では、「長さが12間(21.8m)、幅2軒半(4.5m)、杭6本、手摺有り」と記載されている。手摺のある橋であり、栃木河岸問屋がそれなりに出資しての立派な橋だったと思われる。

028  慶応3年(1867) 12月11日(新暦1月5日)の夜半の五つ時(午後8時)。巴波川に架かる念仏橋の左岸にある西木戸は閉じられていた。念仏橋の方から「吾れ西山謙之助、開門せよ」と名乗り、木戸を開けて槍を引っ提げた騎馬2騎が供の者1人を従え栃木宿内に入ってきた。この3人は、栃木宿に先乗りしている5人の先発隊の応援のために鍋山村からやってきた西山謙之助ら薩摩出流山糾合隊の浪士たちであった。

  暗闇の中、篝火に照らされた木戸口では鉄砲、槍で武装した栃木陣屋藩士と町民兵50人が待ちかまえていた。「ズドーン」と鉄砲の合図で2頭の騎馬に陣屋勢が襲い掛かる。西山謙之助ら2人は馬から引きずり降ろされ、討ち取らていった。供の者としてついて来た国定忠治の子息、大谷刑部は逃げることができたが、岩船の戦いで捕えられ、天明河原にて斬首されていく。今から150年前の慶応3年(1867)の12月11日に出流山事件における念仏橋西木戸口での戦い。

Yjimage3  慶応3年(1867)10月15日の大政奉還を受けて京都を舞台に、天皇を中心にした新しい政治体制を廻り、権力闘争が展開されていた。徳川を倒して新政府構築を目指す討幕派の薩長。徳川を含めて新政府を構築する山内容堂、松平春嶽ら公議政体派との争い。流れは徳川を交えて諸侯会議で進める公議政体派になりつつあった。しかし、「徳川を倒してこそ王政復古は成る」とする薩摩藩は何としても徳川を倒すことを宿願として、江戸、関東を擾乱状態として武力衝突への挑発行為を画策する。

 その画策、挑発行為とは相良総三を中心に江戸薩摩屋敷に屯集した尊王攘夷の浪士、草莽の士で構成する薩摩屋敷屯集糾合隊による、下野、甲州、相模の3か所と江戸における擾乱状態を作るための挑発行為であった。この画策は徳川・庄内藩による江戸三田薩摩藩邸焼打ちを招くことになる。翌年の正月3日の鳥羽伏見において、薩摩の家来の処罰を求める「討薩之表」を掲げて京都に進軍した幕府軍と薩長連合との戦闘に繋がっていった。戊辰戦争の始まりである。このことから下野における出流山糾合隊と幕軍との戦闘、所謂「出流山事件」は、戊辰戦争の一つとして捉えられている。

024  慶応3年11月29日に下野出流山満願寺本堂前の広場で討幕挙兵した薩摩藩出流山糾合隊は170人に増加していった。地元栃木町近在の者たちは3年半前の水戸天狗党と立ち振る舞いが類似していることから、彼らを「出流天狗」と呼び、畏れた。

 増大した糾合隊はより以上の資金を必要とした。近在からの資金が思うように集まらない。そのため、足利藩栃木陣屋に薩摩藩として借入を強要していくことになる。12月10日に元浪士隊の高橋亘一行5人は栃木宿旅籠押田屋に滞在し、足利藩栃木陣屋奉行、善野司を押田屋に呼びつけ資金借入の交渉を行なう。栃木陣屋奉行、善野司は水戸天狗党対応への誤りからすでに関八州取締出役を始め近隣諸藩に討伐を要請していた。

022_3  この時、すでに関八州取締出役澁谷鷲郎に率いられた上州岩鼻陣屋の鉄砲隊を含めた200名の農兵が出兵し(樋口雄彦著「幕末の農兵」)、合戦場宿に待機していた。また、善野司は町年寄を通して警報を発し、町民兵による通りの店先の警戒、防火用水の手配、4つの木戸口を固める準備をしていた。

   翌11日に陣屋側は千両を高橋一行に渡すことを確約し、まず五百両を渡し、残りを夕刻に渡すことを通告した。そして夕刻の七つ時(午後5時)、押田屋に鉄砲隊が取り囲んだ中、関八州農兵隊が突入した。糾合隊3人が斬殺され、高橋亘ら2人は逃亡した。後日、捕えられた高橋亘は天明河原で斬首される。また斬殺された3人の内2人、斎藤泰蔵と高田国次郎は近在の粕尾村農民出の20代の若者であったと云われている。。

 栃木市蔵の街大通り、倭町交差点手前にあった旅籠「押田屋」は栃木陣屋からわずか200mの近距離であった。跡地には旅館「晃陽館」「鯉保別館」「ホテル鯉保」へと変遷し、現在ではファミリーマート店が開業している。

074  同夜、鍋山村から応援にきた西山謙之助ら3人も念仏橋西木戸にて警戒待機していた栃木陣屋の藩士、栃木町民兵によって討ち取られている。斬殺された糾合隊5人の首は瀬戸ノ原に晒され、亡骸も同所に棄てられたという。

 栃木町民にとり尊王攘夷とか王政復古とは関係なく、ただただ3年半前の「水戸天狗党愿蔵火事」への恨みをはらすということであった。町の半分の350~400軒が焼失し、罹災者700人、田中愿蔵隊に殺害された町民13名という甚大な被害をうけた。水戸天狗党とか出流山糾合隊とか関係なく「尊王攘夷」を掲げる浪士たちの憤懣と町を防衛するということでの戦いであった。

  ただ、残念なことに、この時の「栃木町民兵」については栃木市史にも出てくるが、確かな史料がなく、町民兵についての詳細は不明なままになっている。今後の研究課題の一つになっている。

  出流山満願寺山門前旅館にいた竹内啓ら糾合隊は栃木宿の戦闘を知り、おとり部隊11名を残し、12月11日の真夜中、鍋山村から唐沢山城を目指して移動をした。しかし、12日の早朝、岩船山麓にて鉄砲隊200名を主力とする1000名の幕府軍によって壊滅した。糾合隊には鉄砲がなかったと云われている。12月15日と18日に捕縛された糾合隊41名が佐野天明河原にて斬首され、戦死者を含め78名が斃れていった。 

008_2  栃木市内を流れる巴波川が左に大きく曲がる処に「うずま公園」がある。かつて、瀬戸ノ原と言われていた。このうずま公園内にある栃木市営駐車場の中に念仏橋(現幸来橋)西木戸の戦いで戦死した23歳の西山謙之助(尚義)の供養塔が建っている。西山謙之助の亡骸が埋葬されたといわれている地である。

  どうして西山謙之助だけ命名された供養塔なのか…?近在の村の者で一緒に葬られた者の供養塔はないのか?――分からない。

  この地に下都賀郡役所が建てられたのが明治16年(1879)10月。栃木宿問屋場のあった長谷川展旧本陣宅からの移転であった。

071  長谷川伸著「相楽総三とその同志」の中で瀬戸ノ原を次のように記している。当時の雰囲気が伝わってくる。

  「(栃木宿戦闘で戦死した糾合隊)の死体をセドの原の一ツ穴へ棄て葬いにした。セドは裏の意味で、宿外れの一ツ穴へ投げ込むことを宿のものはぼっこみといった。そこは大名の通行などのとき斃馬が往々にして出る、それを抛りこんだ処である。

076 後代になってその場所近くに郡役所が建つので、地盛りのために、そこから要るだけの土を掘りとった。ところが、斃馬の供養に建てた馬頭観世音の碑のある近くから、人の骨が出たので、そこだけ止めて他を掘った。その土工作業が終って、雨がたびたび降るうちに、掘った跡に水溜りが出来て、馬頭観世音の碑のある堀り残した処だけが中の島の如くなった」

  昭和35年(1960)に下都賀郡役所職員が浄財を募り、「西山謙之助供養塔」が建てられた。栃木市史では西山謙之助の老父が戦死の地を弔いたいと栃木町きたことと錦着山に記念碑が建てられていることから供養塔を建てる動機になったとしている。一昨年の平成27年の11月には地元の有志によって供養塔にりっぱな祠が設置された。馬頭観世音石碑は公園の南端、巴波川の畔に建っている。

062  美濃国(岐阜県)侍医の子として生まれた西山謙之助は慶応2年(1866)22歳の時に江戸に出て、斎藤弥九郎に剣、平田銕胤に国学を学ぶ。慶応3年(1867)10月に薩摩邸糾合所に入り、出流山事件に加わる時に故郷父母に、「あながちに文かかむと思ふだに先立つもの涙也けり」と書き出しから始まる手紙は生き残りの者によって「尚義遺芳」として出版された。勤王を志して斃れていった若者象として長谷川伸著「相楽総三とその同志」を通して世間に知られるようになっていく。

  長谷川伸は同書で書かれた手紙を引用し、「尚義儀、今般、尽忠報国の士列に加わり、遠祖以来受候、国恩の万一を奉じ賜り候心得に御座候、就ては生前拝領の儀は十分相叶儀と奉存候に付き、書中を以て謝罪労御訣別申上候とつづき、今度の挙兵は錦旗を奉じて、嘉永6年以来違勅の罪をかさぬ幕府を討つもので、事の成否はわからない。敗れたとて五百年以前の橘公のあとを行くもので、稀代の盛挙、不巧の名誉、これに過ぎたるはない。併しながら23年の高恩をうけ、殊にこの一両年はご心配をかけ塵ほど孝行せず、こういうことになるは不幸千万で恐懼の極みであるが、盛挙を知って座視して天罰に値すると、赤心を吐露した大文章で、読むものとして襟を正させる」と悼む心情を記している。

003_3 栃木市郊外の西にある錦着山。その頂きには明治11年(1878)に初代栃木県令鍋島幹によって明治維新の勤王の志士から西南戦争の際の戦死者までを合祀するための招魂社が建てられている。その招魂社本殿脇の斜面に西山謙之助の石碑が信州上田住人、義兄弟の丸山久成(金井清八郎)氏によって建てられている。

061_2  石碑の背面には、「千重の一重の石に萬代に伝へてむ」と変革の志を後世に伝え讃えていく文言が刻まれている。碑文はかすれて読めない。その碑文内容は中島勝国編「西山謙之助書簡集」に収められていた。碑文には異なる事項もあるが、記載させていただくことにしました。

  栃木市錦着山招魂社「西山尚義碑」碑文

005  「此は西山謙之助が墓ぞ。諸人等汚穢しなせそ。鳥獣よ。この益荒男はも。美濃国泳の殿人にて。古の道に志深く。吾と同く気吹舎の翁の教子となり。其学芸に居留て勤みけるに。志し慶応の三年といひとしの冬のはしめ。天皇の勅を畏まで世間を擾乱さむとする醜の奴はらを討罰めんと。同志の人々。或侯の江戸の御館の屯集り。大事を議りし時に竹内啓ぬし手に属てこの下。毛野に下り。磐船山に旗上せむとせしかも。功業不就して敵等に取囲まれ戦歿の際に臨みて数人を討取るなやめ。同き十二月十一日。年二十三にして此里の露と消えたりし。僕□皇と国とに身をまかせ命罷たるゆへ。よしの千重の一重の石の□りて、萬代に伝へてむと思起して。学問に談らひけるに。そよしれよけむと其失費さへ助け賜ひければ。やがて如此経営けるになむ。そは尚義か義兄なる。信濃国人丸山久成」(中島勝国編「西山謙之助書簡集」より)

039   幕末の栃木町。例弊使街道宿場町として、さらには巴波川舟運による物流の一大集積地として活況を呈した。

  元治元年(1864)6月6日の過激攘夷派の水戸天狗党田中愿蔵隊による「栃木町焼打ち事件」。その3年半後の慶応3年(1867)12月11日の栃木宿戦闘、「出流山事件」がおきた。こうした事件を通して栃木町は幕末の渦に巻き込まれていく。とりわけ出流山事件では、栃木宿戦闘、出流山戦闘、岩船山麓の戦闘で78人が斃れていった。この中には栃木周辺からの在地農民を始め私塾で学んでいた若者や儒学者ら参加していった。薩摩藩からの武器援助もなく、圧倒的な幕府の武力の前に壊滅をしていった。

  討幕を掲げた薩摩藩の捨石としての戦闘であったのではないかと思える。本当に必要な戦いであったのか?

Bb882c4bb9752d4080a0b98b26059f1d1  天皇を中心とした王政復古の政体は徳川慶喜も描いての「大政奉還」であった。坂本龍馬が暗殺される直前の11月に土佐藩重役に示した坂本龍馬自筆で記した「新政府綱領八義」。公議政体を基本とした大政奉還後の議会制度、官制、外交、大典(憲法)の撰定、軍政などに加えて、最後に「右預メ二三ノ明眼士と議定シ諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々〇〇〇自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下万民ニ公布云々強抗非礼公議ニ違フ者ハ断然征討ス権門貴族モ貸借スル事ナシ  慶応丁卯十一月 坂本直柔」との政体案を示している。

  文中の〇〇〇部分は島津久光説、山内容堂説、徳川慶喜説、大統領説などあり、今も通説は定まっていない。しかし、大政奉還からつながる坂本龍馬政体案こそが、日本のすすめていく方向ではなかったかと思える。新たな明治の世を築く坂本龍馬新政体案でいっていたならば「戊辰戦争」などは起こらず、出流山事件等無駄な死はなかった筈だ。しかし、薩摩藩西郷、大久保は慶喜を絶対に許さず、慶喜の、〇〇〇盟主阻止にむけて武力討幕へと進んでいった。… 龍馬暗殺の背後には薩摩、西郷がいると思えてくる。

  大政奉還、龍馬暗殺、出流山事件は今から丁度150年前におきた出来事だ。150年を節目にうずま公園に建つ「西山謙之助供養塔」は、今一度明治維新を問い直すべきだと私に語りかけてきていると思えてきた。

                                          《夢野銀次》

≪参考資料引用書籍≫

「安政六年狂歌扶桑名所名物集下野」(1988年栃木史心会発行)/長谷川伸著「相楽総三とその同志」(昭和46年12月朝日新聞社発行「長谷川伸全集第7巻」収録)/中島勝国編「可児歴史業書西山謙之助書簡集」(1983年発行)/「栃木市史通史編」(昭和63年12月栃木市発行)/稲葉誠太郎著「水戸天狗党栃木町焼打事件」(昭和58年11月ふろんていあ発行)/樋口雄彦著「幕末の農兵」(2017年12月現代書館発行)
 

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水戸天狗党と関わった川連虎一郎碑銘の石碑

047  満開の桜が散り始めた4月14日に巴波川に合流する永野川沿いを「歴史と文化を歩く会—栃木」の仲間と共に、栃木市大平町の真弓、榎本地区を歩いた。菜の花が土手堤一面に咲きほこり、陽春の香りに包まれての歩行だった。

  大平町誌には、「東山道を通って西から入ってきた仏教文化は永野川(出流川)、巴波川を逆のぼり、大平町には寺社が50有余を超えた」と記されている。

  確かに歩いたコースには磯山諏訪神社、法王寺(時宗)、法宣寺(日蓮宗)、聖天院(真言宗)、総徳寺(曹洞宗)、妙性院(曹洞宗)、榎本大中寺(曹洞宗)、八坂神社、東明寺(天台宗)、武尊神社等と多くの寺社が散在していた。 鹿沼市の彫刻屋台を数多く手がけた彫刻師磯辺一族が大平町富田宿で生まれたことも頷ける寺社の数だと思える。また、西から文化は流れてきていたことを改めて認識をした。

048_2  榎本城址標識のある手前の永野川土手堤から左に曲がり、道なりの左奥に崩れかけた廃屋の屋敷があった。「川連虎一郎の生家ですよ」と地元の会員の人が教えてくれた。子孫は近辺に住んでいるが、屋敷はそのまま現存している。

  「この家が幕末関宿藩佐幕派によって斬殺された川連虎一郎の生家なのか」としばし佇む…。ずっと以前に江東区木場「洲崎神社」に行った時に「川連虎一郎」の石碑が境内にあったことを思いだした。石碑を見た時に「どうして大平町の川連虎一郎の石碑が洲崎神社にあるのか?」と不思議な印象を受けた記憶がある。

  大平町の幕末の志士としては、横堀村の国分義胤、富田村の松本暢、真弓村の川連虎一郎が知られていることを後から知った。

037  横堀村と真弓村は関宿藩久世家の領分であった。村名主の国分義胤と川連虎一郎は文久2年(1862)に関宿藩が百余名の郷兵(農兵)を結成する際に教頭として積極的に関わっていったとされている。

  富田村名主の次男として生まれた松本暢は師の藤森弘庵の媒酌で壬生藩御典医4代目の石崎正達の娘婿養子となり誠庵を名乗り、5代目を継ぐ。しかし、元治元年(1864)3月に筑波山にて挙兵した水戸天狗党に協力、関与したことにより壬生藩内からの暗殺を逃れるため脱藩をし、石崎家からも除籍になる。

   脱藩後の松本暢は明治維新の際に尾張藩を通して新政府の刑部省の判事になる。晩年に隠居所の名前を「盤峰園(ばんぽうえん)」と名付けて大平町富田に隠居してくる。その子孫、やしゃごが現在も「盤峰園」という名前でブドウ園を運営している。

034_3   栃木市大平町西山田にある「おおひら歴史民俗資料館」に川連虎一郎の陣羽織や「君のため世のため何か惜しむからむ捨てて甲斐ある命ならば」という書等が展示されている。

   紹介文では、「川連虎一郎(かわつれこいちろう)諱は義路。天保12年(1841)7月29日、関宿藩領真弓村(現栃木市大平町真弓)の大庄屋、川連一郎兵衛義種の子として生まれた。幼少より水代村峰岸休文に学び、後に江戸に上って儒学者藤森弘庵に師事した。武術は神道無念流斎藤弥九郎道場で師範代、野原正一郎(壬生出身)に指南された。その紹介者は松本暢である。関宿藩が郷兵を組織すると虎一郎はその教頭に任じられた。水戸天狗党が太平山に滞在した時は、藤田小四郎と通じて軍用金や兵糧の調達にあたっている。藩の同志たちと図り水戸天狗党を応援しようとして露見し、江戸に逃れたが、佐幕派の家老杉山対軒派に誘いだされ、元治元年8月3日、江戸洲崎海岸(現江東区深川)で斬殺された。行年23歳であった。なお虎一郎の墓は真弓地内川連家累代墓地にある」と記されている。松本暢と同じく安政の大獄で江戸中追放となる藤森弘庵に師事していることが分かる。

027_2  ただ、この紹介文の中の「佐幕派の家老杉山対軒に誘いだされ」と書かれてあるが、当時の杉山対軒は家老職を辞しており、また佐幕派ではなく勤王派のリーダーであった。杉山対軒は誤記であり、訂正した方が良い。

  展示品の中に大正4年11月22日付の報知新聞の写しがある。川連虎一郎が靖国神社に合祀され、「従五位」が贈られたことの報道記事である。ただこの記事で洲崎海岸で虎一郎が斬殺された時に検視をしたのが、栃木市初代市長の榊原径武弁護士の父親(榊原儀太夫)と記述されている。意外な人物が斬殺に関わっており、本当なのかと思えた。元関宿藩士を父に持つ榊原経武は代言人の資格を取り、明治13年(1880)頃に栃木町に移住してしてきて、加波山事件など自由民権運動とその弁護活動を行ない、栃木町の町長、栃木市長を歴任している。

057  さらにこの記事の中では、明治2年(1880)4月20日に杉山対軒が江戸から関宿に帰る途中、杉戸町並塚で暗殺される。その暗殺の動機が川連虎一郎斬殺の恨みをはらすために横堀村の富山道徳が行なったと記述されている。虎一郎斬殺と対軒暗殺はつながっているのか?この記事の信憑性に疑問が湧いてきた。2つの事件のあらましを調べてみることにした。

  川連虎一郎斬殺の動機については、佐幕派関宿藩家老の杉山正右衛門が「戊辰後経歴」で、「天狗党と称する者尊王攘夷を唱え暴威を遣わし扇動する。関宿藩士も密かに通じる者あり、広周君に天狗党の隊長竹田耕雲斎(ママ)を謁見させ、深川藩邸を貸与するなど、公儀に不憚不敬の動きに憤慨する者あり、領分野州都賀郡農小一郎(川連虎一郎のこと)なる者は水戸留学によって天狗党となり古川瀧蔵と二人を天狗党誅罰の後、公儀を憚り深川洲崎邸にて暗殺せしと云う」と記している。佐幕派藩士の虎一郎斬殺は幕府の天狗党への誅罰をうけて天狗党に便宜をはかり、藩士の怒りを招いて深川藩邸の藩士(佐幕派)によって斬殺されると記している。

010   一方の杉山対軒が暗殺された場所、杉戸町並塚に「杉山対軒遭難の石碑」が建てられている。遭難石碑のブログ記載者から所在地の場所を教えていただき、車で国道4号線杉戸町から左折し行ってきた。並塚交差点先の左脇道に入った所に石碑が建っていた。農道の脇に建つ石碑はポツン田圃に囲まれていた。

 杉戸町ホームページでは杉山対軒遭難之碑を次のように紹介している。

 「杉山対軒は久世氏の家臣で代々関宿藩の家老職を務める家でした。対軒は明治維新の際に幼君を助けて勤王の実を挙げ、藩論を導こうとしました。しかし、(明治2年)4月20日に江戸藩邸を出た対軒は、同じ関宿藩の井口小十郎と冨山匡之助により、並塚村の庄内古川近くで暗殺され、39歳の無残な最期を遂げました。昭和24年に暗殺された場所近くに杉山対軒遭難之碑が建立されました」と記され、石碑は鈴木孝雄(終戦時の内閣総理大臣鈴木貫太郎の弟、靖国神社宮司)が書いている。

  これだけでは、何故対軒が暗殺されたのか、わからない。関宿町に近いことから車を進め、江戸川に架かる関宿橋を渡り、関宿城博物館の関宿藩展示コーナーを見ていくことにした。

042  利根川と江戸川の分岐点に建っている三層天守閣の千葉県立関宿城博物館。博物館3階に幕末の関宿藩の紹介解説と展示コーナーが設けられていた。そこには明治維新を迎えるに際して関宿藩は勤王派と佐幕派が2分して争う「久世騒動」があったことが紹介されている。

  慶応4年(1868)の4月に会津藩士が関宿を通過する際に助けるかどうかで騒動の発端が生じた。その後に熊本藩新政府軍が関宿城に入城することにより、約500人の藩士のうち200人の佐幕派藩士が脱藩して江戸に向かった。半数近い藩士が脱藩する。凄い人数だ。

061  脱藩した佐幕派藩士は家老の木村正右衛門を中心に幼少の藩主広文を擁して江戸において活動を行う。慶応4年閏4月、元家老杉山対軒は勤王派の藩士30名を率いて江戸深川藩邸にいる藩主広文を取り戻すために邸内に入ったが、乱闘となり5名の佐幕派藩士が即死し、藩主を取り戻すことができなかった。

  5月に木村正右衛門たち60名が彰義隊上野戦争に「卍隊」として参加していく。敗北のあと藩主広文は佐倉に逃れ、関宿に帰る。翌年の明治2年(1869)4月に対軒は新政府からの取り調べを受けるが許される。その帰路、関宿に帰る途中の杉戸町並塚で藩内反対派の手によって暗殺された(「三百藩家臣人名事典3関宿藩」より)。

  このことから、暗殺は川連虎一郎の恨みをはらすことではなく、藩内の激化していた派閥の争いから生じたことと捉えるべきである。むしろ川連虎一郎斬殺の恨みをはらすならば、木村正右衛門を狙うことになるからでもある。木村正右衛門の最後は「静岡師範学校の校長を歴任し、明治33年に71歳で亡くなる」と中村正巳著「戊辰後経歴」に記されている。

  久世騒動の余韻は明治初期の関宿にも強い影響があったと推測する。脱藩して戻ってきた藩士は肩身の狭い生活を送ることになったと思える。終戦の内閣総理大臣鈴木貫太郎の父親も関宿藩士であったのだが、群馬県前橋に一家は移転をしている。関宿藩「久世騒動」後始末に嫌気をさしての移転だったと思える。初代栃木市長を務めた榊原経武もまた同じような経緯で関宿を離れて行ったのかもしれないと想像する。

114  3年前の平成26年(2014)4月に富岡八幡宮の横綱石碑を見た帰り、洲崎神社から深川木場を歩いた。その時、洲崎神社境内にある「川連虎一郎碑銘」の石碑をただ眺め通り過ぎた。「洲崎パラダイス」の名残りを探すことに気持ちが向いていた。

 映画、熊井啓監督の「忍ぶ川』で映し出された「洲崎パラダイス』の光景が印象に残っていたからでもある。

142995669002471162177_pdvd_000_20_3  「志乃は忍ぶ川の女であった」と綴られている三浦哲郎著の「忍ぶ川」。栗原小巻が演じた「志乃」は深川生まれで、栃木に疎開し、父と弟妹が今も栃木に住んでいる小料理屋「忍ぶ川」の仲居として設定されている。

  深川と栃木を結ぶ短編小説として高校時代に書店で立ち読みをしたことを憶えている。また、吉永小百合が映画化を望んだが、裸のシーンがあるということで父親の反対で断念をしている。吉永小百合の「志乃』も観たかった作品でもある。

 改めて、「川連虎一郎銘碑」の石碑を見たく、5月18日に江東区深川木場にある「洲崎神社」へ行ってきた。

018_3  洲崎神社は、江戸期に弁財天社と言われ、江戸城紅葉山の弁財天を元禄13年(1700)に遷座して創建されている。海岸に浮かぶ弁財天であり、多くの文人墨客を集めていた。

   「江戸切絵図深川」に描かれている洲崎弁財天社の隣には長い洲崎海岸になっている。境内には「波除碑(なみよけひ)」が建っている。

  寛政3年(1791)9月4日、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者がでた。幕府は洲崎弁財天社から西のあたり一帯5467坪を買い上げて空地し、これより海側に人が住むことを禁じた。そして空地の東北地点(洲崎神社)と西南地点(平久橋の袂)に波除碑を建てたとしている。

119   「川連虎一郎碑銘」と刻字されている石碑は本殿裏にある。左上はすで欠けており、文字自体が不鮮明になってきている。碑銘されている文言はよく理解できない。大筋として虎一郎の生涯が綴られ、「尊攘の大義に報わんとしたが、江戸に誘いだされ、甲子(元治元年)八月三日に命を落とす。義路通称虎一郎、都賀郡真弓村人、藤森弘庵に従い水戸源治(天狗党)を助ける、行年二十三、藩人たちが謀り石碑を建てることになり予が碑銘する」と碑銘されている。

   「藩人たちが謀り石碑を建てる」と記されているその「藩人」とは関宿藩士を指してはいない。同時代に生きた同志に近い志士であると思える。

   石碑の最期の刻字が「〇巳秋 八月 東京田口大丈文蔵撰弁書」と記されている。建立年月日は己巳(つちのとみ)年で明治2年の秋、8月になるのではないか。そして、石碑の文面は儒学者田口文蔵によって書かれてある。虎一郎の師であった藤森弘庵は文久2年(1862)に亡くなっていることから、親交のあった儒学者田口文蔵が碑銘したのだと思える。儒学者同士の繋がりを表している。

003   田口文蔵については「太田胃酸」の創業者である壬生藩士太田信義を記した松本宏道著「壬生藩士太田信義と太田胃酸」の中で、 「(田口文蔵は)下谷・入谷で門弟に儒学などを教授している尊王論者で、攘夷論者の藤森恭助(弘庵)などと親交を深めがら、国事に励んだ」と紹介されている。

  同書には、「太田信義も松本暢と同様に水戸天狗党に協力することにより壬生藩を脱藩し、師の田口文蔵を頼って江戸に出る。辛苦の暮しの中、彰義隊上野戦争で新政府軍に協力することにより明治元年に壬生藩公用人として復帰していく。明治14年(1881)の初めに『雲湖堂の胃酸』として売薬を始めた」ことが記述されている。130年を経た今日でも「太田胃酸」は飲み続けられている馴染み深い胃腸薬である。この本によって、私は太田胃酸を生み出した太田信義が壬生藩士であったことと天狗党挙兵に影響を受けた人物がここにもいたことを知ることができた。

Photo   「江戸切絵図深川」の中央に流れているのが小名木川。栃木から巴波川舟運により関宿からの江戸川を下り、小名木川を通り江戸深川まで1日半でくることができた。下野都賀郡と江戸は近い距離にあった。

  絵図の小名木川の下の左にあるのが関宿藩深川藩邸(現在の清澄庭園)。その下に富岡八幡宮。絵図の真中一番下に弁財天社(洲崎神社)とその左横が川連虎一郎が斬殺された洲崎海岸がある。

051_3  川連虎一郎の石碑を建てたのは、藤森弘庵や田口文蔵から学んだ尊王論者の志士たちだっと思える。とりわけ、同郷で水戸天狗党への協力で狙われ脱藩した松本暢や太田信義など中心になって「川連虎一郎碑銘」の石碑を建てたのではないかと妄想、推測する。

  幕末動乱の引き金になった水戸天狗党の筑波山挙兵.。1月半に及ぶ太平山での帯陣と戦闘行動は近辺の若者に強い影響を与えた。大義を諭す若者たちは時代に生きていくことの証として天狗党への協力,参加をおこなっていった。結果、道半ばで斃れた者への想いが「川連虎一郎碑銘」石碑に表れているのでないだろうか。川連虎一郎の石碑を建立した人たち…。石碑からは塾舎を通した若者たちのネットワークが存在していたことを語りかけてくるように私には思えてきた。

                                《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

「大平町誌」(1982年3月、大平町発行)/中村勝著「三百藩家臣人名事典3関宿藩」(昭和63年4月、新人物往来社発行)/小針計一郎著「日本近世人名事典」(平成17年12月、吉川弘文館発行)/中村正己著「史料戊辰後経歴(1)」(平成29年3月、千葉県立関宿城博物館発行、研究報告第21号に収録)/三浦哲郎著「忍ぶ川」(昭和36年6月、新潮社発行)/松本宏道著「壬生藩士太田信義と太田胃酸」(2013年4月、獨協出版会発行とちぎメディカルヒストリーに収録)

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橋への思いと村芝居興行―安政6年野尻騒動

012_2  「石の多い川だな、それも大きい石ばかりだ。流れも速い」と、日野橋から眺めた大芦川の第一印象。

  新鹿沼駅から歩いて西へ3キロ、大芦川の日野橋に来る。橋の向こう側は鹿沼市野尻、加園地区になる。

 平野哲也氏は栃木県文書館研究紀要11号の中で、「大芦川は、上草久を水源とし、野尻村と酒野谷の間で荒井川と落ち合い、一里ほど下流の笹目村付近で小倉川(思川)に流れ出ていた。18世紀末期の大芦川は最上流の上草久村でも20間の川幅があり、引田村付近までくると30間ほどに広がった。川の状態は、現在と同じく、砂礫の多い『石川』であった」と記述している。その通りに大芦川は石の多い川に見えた。

008  江戸時代、大芦川と荒井川の合流地点近くにある野尻村は石高232石、人口142人、家数29軒の村落であった(天保年間、鹿沼市史による)。村を往還する石裂(おざく)街道と出流(いずる)街道の交差する交通の要衝でもあった。 

  しかし、野尻・加園村と対岸の下日向・酒野谷とを結ぶ大芦川には橋がなく、石裂権現(加蘇山神社)への参詣者や旅人、さらには例幣使・日光街道への助郷割当による人馬夫役で向かう際の渡河に難儀をしていた。板橋を架けても大雨による出水によってその都度流失をしてしまっていた。定橋架橋は村民の強い思いであり、願いでもあった。

030 安政5年(1858)に野尻村名主、石川多市は近在の村々から資金を募り、総費用800両で欄干を備えた大規模な定橋「野尻橋」を村人の夫役によって完成することができた。「野尻橋」は現在の日野橋下流300㍍付近に架けられたと云われている。

 しかし、翌年の安政6年(1859)7月の大雨洪水で「野尻橋」は流され崩壊してしまう。――多市を含めた村人は落胆、大きく失墜する。以後は簡単に取り外しのできる板橋が明治期まで架けられてあったと云われている。

  思川水系の上流から移出される材木は江戸市場で優良材として高い評価を得て、筏組みが大芦川流域の野尻村、酒野谷村と隣接する荒井川流域加園村で行なわれていた。竜ケ谷山(加園城)から石灰も産出されていた加園村と野尻村は東北自動車道栃木インターのある栃木市吹上町にあった吹上藩有馬兵庫頭1万石の領地であった。

015  「鹿沼市にある野尻村は吹上藩領だったのです。幕末の安政6年に、この野尻村で御禁制の芝居興行が行われ、100名以上の農民が関東取締出役に捕えられ、処罰されるという村騒動があったのですね。下野の村々を震撼させた安政野尻騒動と言われているのですよ」と、昨年の11月の栃木市文化講座「吹上」の中で野尻騒動のことを始めて聴いた。

  …野尻村の村騒動、どんな村騒動だったのだろうか?野尻村に行ってみようと思い立ち、昨年の12月21日の晴れた日に鹿沼市野尻を訪れた。

050_2  東武日光線新鹿沼駅西口から徒歩で真っ直ぐ西に向かって進んで40分。大芦川に架かる日野橋を渡り、少し進むと神木が伐採されている野尻稲荷神社がある。

  建久元年(1190)石川氏によって伊勢熊野の稲荷大明神から勧請され建立された野尻稲荷神社(栃木県神社誌より)。二対のきつね狛犬が奉納されている境内。

016  境内左側に野尻騒動の発端となった橋供養由来記が刻まれている石碑が安置されている。直径1.3㍍のまる型の石碑の冒頭には横文字で「日天月天」と刻字されている。

 戦後、野尻村に移住し、野尻騒動を入念に調べて昭和30年に「鹿沼郷安政野尻騒動記」を執筆、発行した腰山巌さん。その書には、「元々は日天月天石碑は『水神宮石碑』と一緒に大芦川沿いに建立されていた」ともう一つ「水天宮」の石碑があったことが記されている。そして「水天宮石碑は今宮神社神祇官の鈴木水雲が書き、日天月天石碑の由来記は興源寺眼龍の書であるとされている。(略)この供養塔は明治になって大洪水があり、石川憲一郎氏前の大芦川の淵にあったものが、ぽっくりと水に呑まれ、川底に横轉した。昭和9年に野尻在郷軍人会会員及び野尻青年至誠会員によって『日天月天石碑』のみ引き揚げられ、稲荷神社に奉納された」と安置された経緯が記されている。

001_2  同書には、「台座には寄附してくれた村々の名前が台石の鉢廻に記入されてあったが、後年村内諸所の清水や谷川の土橋に利用されて散失してしまった」として、2基の石碑と40か村の村名と村人の氏名が記載されている図が添付されてある。

  そして何よりもありがたったことは、由来記石碑の文面が記載されてあったことだ。記載文面は次の通りになっている。

當兩川從古来無橋而 大水之砌往来之諸人 難渡不少難澁依是輙 為渡度事敷年難思小 子等不及微力近郷進 曾頼處速為集加助力 末世迄之定橋令成就 畢就者至後年迄加修 理難無及大破事若變 心邪欲之輩出而於相 破者必蒙神罰事各々 慎而起請建之置者也

011_2 昔より大水に際には大芦川を渡ることができず、難渋してきたことが綴られ、定橋を架橋し、後の世まで維持していくことを誓う文面だと受けとめる。

  執筆した腰山巌著の「鹿沼郷安政野尻騒動記」は騒動の発端から村芝居興行、その手入れ、捕縛から江戸での裁きまでを物語調に記述されている。入念な調べで野尻村名主石川多市とその子息たちを中心に村人の思いを基調に書かれてある貴重な書籍だと思える。栃木図書館では貸出禁止本になっているため、図書館内で拝読した。以下、同書を「野尻騒動記」と記していきます。

031  日野橋を渡り、大芦川の右岸にある食堂民宿「栄川」の河原から大芦川の川の流れをみる。一昨年の9月の大雨の時、川の水嵩はどれほど川岸に迫ったのだろうかと思いが浮かんだ。

  安政6年(1859)の7月に流失してしまった「野尻橋」。翌8月に野尻村名主、多市は隣村の上酒野谷村名主、平右衛門と図り、壊れた水天宮塔の再建と由来記石碑を造り、地鎮祭を執り行うことにする。

 その地鎮祭とあわせて供養としての村芝居興行を8月21、22日に行うことを決めた。定橋「野尻橋」の流失によって意気消沈した村人の心に奮起を促すものとしての芝居興行の計画であった。村芝居は村人の心の糧になり、村を活き活きさせるものとして捉えた。今で言う、「文化が地域をつくる」という地域活性化しての芝居興行の計画であった。

Photo   しかし、江戸・京都・大坂の三大都市以外での歌舞伎興行は禁止され、村芝居、操り人形等の村においての興行はご法度、禁止になっていた。歌舞伎は奢侈、風俗の乱れ、身分制を破壊するものとして禁止されていた。

  幕府は文政10年(1827)にすでに設置していた関東取締出役の治安維持と警察活動の強化を図るため、関東の村々に寄場組合を結成させている。大惣代、小惣代と村々を組合せ、関東取締出役の指揮命令の一元化と取締りを強化させるためであった。そのうえで45条にのぼる触書を農村に通達を行なった。

Photo  その触書の主なものには、①幕府法度・五人組前書の厳守、②無宿者・長脇差・博奕・強訴・徒党の禁止、③農村内の歌舞伎・手踊り・操芝居・相撲などの禁止、④神事・祭礼・風祭・婚礼・仏事などの簡素化、⑤農村内における商業・職人手間代などの統制、⑥村費の減額奨励、改革組合村(寄場組合)の設定と囚人送りの費用負担(北島正元著「日本の歴史18」より)。という無宿者の強訴などから村を守るかのような触書であるが、実際は幕府による治安維持の強化と村々への支配統制になっている。それは農業生産品以外の生産物が商品として流通するようになってきたことによる強い村への警戒心であり、経済的な自立が増してきたことによる幕府の治政危機の表れでもあったと思える触書である。

004   現存する名主多市の家、石川さん宅は野尻稲荷神社の南前に位置し、大芦川へ続く旧道の右脇に建っている。多市は村人に潤いと楽しみ与え、元気を取り戻して前へ進めるには芝居興行を行うことだと考え、その準備を始める。

  近在の5か村(野尻・酒野谷・下日向・下加園・南摩)を中心にして、芝居小屋の木組み調達、役者の稽古と衣装の手配、舞台の引幕、大道具、小道具の借入等を進めていく。多市ら村役人たちは寄場組合村の大惣代、小惣代、名主等の村役人や関東取締出役道案内人に金銭や酒など音物(袖の下)を渡し、黙認のお願いをしていった。

  村芝居興行を知った壬生宿問屋幸吉は小山宿の関東取締役道案内人、鳥の屋政市へたれこむ。どうもこの辺は木材の河川通運をめぐって大芦川・荒井川流域の野尻・加園村と下流の小倉川(思川)壬生、小山流域の村との間で、常日頃から筏流しの通行をめぐって争いがあったという平野哲也著「栃木文書館研究紀要11」の指摘から考えると、村同士の火だねの争いが背景にあったのではないかと思われる。

010   間口42間(約76m)、奥行7間(約12m)という2つの大舞台を備えた芝居小屋が大芦川近くの河原「梅の木原」に建てられ、8月21日、22日に芝居興行がおこなわれたと「安政野尻騒動記」に書かれてある。「梅の木原」はどこにあったのか?地元の人に訊いてみたが、分からなかった。

  芝居興行への手入れについては、吹上藩役所内においても協議があった。黙認しようとする吹上藩役人に対して触書通り、取締りを主張する鳥の屋政市とに相違があったことが「野尻騒動記」に記されている。

  8月22日の夜半、鳥の屋政市は合戦場宿の道案内庄兵衛や番人13人の捕り方で芝居小屋に乗り込み、舞台で演じていた役者たちに縄をかける。関東取締出役の下知であると言えば、百姓たちはひれ伏すと思っての手入れであった。しかし、芝居公演の最中に村の役者たちが捕縛される姿を見て、多市は怒り、護るための応戦を呼びかける。13人対100人。十手に対して薪と棒。猪鹿銃を捕り方に向ける村人たち。負傷した捕り方達は飛散する。

006    翌日の8月23日に3人の息子と共に多市は吹上藩役人に連行される。その際に村人は銃を持って名主奪還をはかるため屯集し、銃を構える。しかし、覚悟を決めていた多市は村人たちの怒りを抑え、縄についた。後日、関東取締出役に引き渡される(野尻騒動記より)。

   8月24日に関東取締出役、廣瀬鐘平は鹿沼宿から寄場組合に300人の捕り方大動員をかける。宇都宮戸田家藩士50名を加えた捕り方は113人を捕縛し、連行する。村の人別帳を使っての捕縛になった。関東取締出役としては村民が銃を持ち出したこと。看過できないことして、危機感の現れでもある大量捕縛へとつながっていったと思われる。

  関宿、古河、間々田、小山、栃木、鹿沼宿と分散され、厳しい吟味が続けられた。鹿沼市史では捕縛された村と人数が次のように記載されている。「野尻村32人、下加園村32人、上酒野谷村20人、下酒野谷村7人、下日向村12人、上南摩村7人、下南摩村1人、その他の村2人」と計113人になっている。とりわけ村の人口が142人の野尻村から32人が捕縛されたことは成人男性ほとんどが捕縛されたことを意味する。

Img_7853_s1_21  野尻騒動の伝聞は衝撃となって各地域の村々に伝えられた。25キロ離れた例幣使街道沿いの栃木市嘉右衛門新田村名主、岡田嘉右衛門親之は騒動の2日後の8月24日の日記にこう記している。「22日夜鹿沼宿最寄野尻、加園村ニ地芝居有之、関東御取締廣瀬鐘平様御下知ニ而小山宿鳥の屋政市・合戦場宿虎屋庄兵衛頭立廿人程手入れいたし候、近村若もの迄申合居、悉く打躑被至、廣瀬様鹿沼宿へ出役被成り候由、右一件(吹上藩主)有馬兵庫頭様領分ニ而、十躰脇差等取上ケ候持参」と騒動の概要を的確に記している。それよりも岡田嘉右衛門の素早い情報の収集に驚かされる日記である。

 まさか100人以上が捕縛されるという騒動に驚いた村々の役人たち。寄場組合の大惣代・小惣代をはじめ、名主、寺院から大量の嘆願書が関東取締にだされた。10月に入り、江戸に送られた捕縛者90人に対しても嘆願書が勘定奉行にだされ、籠訴もあった。

Rouyashiki251  小伝馬牢屋敷に入牢された29人とそれ以外の者は御用宿預かりとなり、処罰を待つ。しかし、野尻村名主多市、息子の原三郎と音八、上酒野谷名主平右衛門ら9人は病死(牢死)、御用宿預者も8人、計17人が病死をする(野尻騒動記より)。厳しい吟味と過酷な環境が牢死を招いたといえる。

  石井良助著「江戸の刑罰」の中での小伝馬牢について、「当時、牢内の病気といえば、ほとんど牢疫病であった。数年人々をこめておくので、自然と人と臭気がこもり、この臭を鼻に入れるから、みな牢疫病になるのだと言われていることは、牢内の不衛生状態をよく示すものである」と記している。

  さらに牢死者数について、「当時収容者600人から700人のうち、文政年間(1818)の牢死者が月に10人から20人であった。幕末になると、安政5年(1858)には牢死者が年に1320人、万延元年(1860)年に1931人、文久2年(1862)年に1990人、慶応2年(1866)年に1353人と2000人近くの牢死者と増加する」と記してある。月に直すと平均150人前後の牢死者がでたことになる。その原因として食糧事情の悪さと衛生状態であると石井氏は指摘をしている。しかし、私にはそれ以外に、幕府の治政の崩壊の兆しが含まれているように思えてくる。

035_2  日野橋を渡り、野尻稲荷神社の100m手前の左側の道(旧道)に入り、突き当りを左折し直進すると大芦川沿いにある食堂民宿「栄川」にぶつかる。その手前の浄水場の横に「野尻騒動供養塔」が建立されている。昭和59年9月に「明るい社会づくり野尻地区」によって建てられたものである。「南無妙法蓮華経野尻騒動受難者諸精霊之供養塔」と刻まれた石塔。その由来は記されていない。

  鹿沼市史では安政7年3月「裁許請書」をもとに処罰一覧を次のように記している。「死罪1人(病死)、遠島4人(3人病死)、重・中追放30人(7人病死)、江戸十里四方追放2人、江戸払1人、所払1人、押込1人、手鎖15人、急度御叱9人、御叱1人、過料銭5貫文55人(1人病死)、過料銭3貫文3人(1人病死)、お構いなし19人」お構いなし19人を除いた人数は123人、内病死者数は13人と野尻騒動記と人数の違いはあるが、120人以上が処罰された大騒動であった。さらには関係した村には囚人の収容食事、護送、道案内人への草鞋代など触書通りに厳しい支払の督促があるなど村々を苦しめる措置がとられた。

028 小伝馬町牢屋に入牢したのが10月。翌年の3月に厳しい裁断が下った。同年安政6年の10月に吉田松陰が小伝馬町牢屋敷で斬首され、翌年の3月には「桜田門の変」で伊井直弼が水戸浪士によって斬殺される。野尻騒動は安政の大獄と時期を同じくして、連動した動きになっている。下野の村における幕末動乱の発火点になっているのではないだろうか?

  幕府は捕り方、役人に対して百姓たちが銃を構えて向かおうとしたことに強い危機感を持った。それが120人におよぶ捕縛と処罰になって異常な反応を示した。

  意気消沈した村を活性化するための芝居興行。それを壊す者に対して村人は銃を構え戦った。村を守るために銃を持った百姓。幕府が創設した歩兵(農兵)とは違う強い信念をもった百姓たちの像が浮かんでくる。その姿に脱帽する。

065   帰路は野尻から大芦川の向い側にある「鹿沼市高齢者福祉センター」の大風呂に入浴する。温泉と表示されている広い浴槽。「筋肉痛」と記載されている効能の中に「軽い喘息と肺気腫」という文字を見つける。この病に効く温泉を探していた私には朗報である。

 入浴後に大芦川の土手堤を歩く。「野尻橋」が架けられたのはこの辺と思われるが、跡は何も残っていない。「…この付近に橋を架けたのかな」と思い浮かべ、長い深呼吸をした。

 明治の世になっても大芦川には橋は架からず、鹿沼へは上流の上日向を経由し、大回りを強いられていた。ようやく昭和55年(1980)の国民体育大会に際し、象間峠一帯に鹿沼市総合運動公園が作られ、日向と野尻を結ぶ「日野橋」が架かった。かつての「野尻騒動」があった面影は消えたかに見える。しかし、騒動に加わり痛みを味わった村民の子孫は忘れていない。「恨みに時効はない」からである。

  鹿沼市史には、「芝居興行に手入れを行なった小山宿の道案内人の鳥の屋政市は、5年後の慶応元年(1865)5月に長脇差をもった5人の者に自宅に押し入れられ殺害される。殺害状況から、関東取締出役の手先となっての活動が恨みになったもの」とさりげなく記している。執筆者の気持ちが表れている結末文だと思えた。

                                         《夢野銀次》

≪参考、引用本等≫

腰山巌著「鹿沼郷、安政野尻騒動記」(昭和30年7月発行)/「鹿沼市史通史編近世154頁」(平成18年8月発行)/平野哲也著「江戸時代後期における地域資源の活用と生業連関―下野国都賀郡大芦川・荒井川流域を事例に」(栃木県立文書館研究紀要11号、平成11年3月発行)/北島正元著「日本の歴史18、幕藩制の苦悶」(昭和42年11月、中央公論社発行)/石井良助著「読みなおす日本史、江戸の刑罰」(平成25年3月、吉川弘文館発行)/田中正弘編「幕末維新期の胎動と展開、岡田嘉右衛門親之日記第1巻」(平成24年3月、栃木市発行)/桑野正光著「栃木の峠」(2010年3月随想舎発行)

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江戸からの継承ーとちぎ秋まつり「山車人形」

082  山車の最上部に鉾をかまえて立つ「張飛」。前方を鋭い眼鏡で睨み、「張飛、これにあり、死にたい奴は勝負しろ!」と曹操軍に叫び、劉備を逃がす「三国志・長坂の戦い」。東京日本橋の雛人形師、三代目原舟月が製作した山車人形を見上げる。

  三国志の中で劉備、関羽と義兄弟を結び、最も豪放磊落な猛将と詠われた張飛翼徳。一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛され、一世を風靡する剛勇の持ち主であったと云われている。まさにその風貌、風格が山車人形として再現されている。

 …巡行前の「張飛」の山車人形。もう一度見上げる。鬼気迫る風格を漂わせてくる。

039_3   山車の上段幕には「朱雀」「青竜」「白虎」「玄武」の四神刺繍となっており、金糸・銀糸で施されている。お囃子の台座には朱塗りの金箔の竜の彫物。黒檀地板には眼鏡の光る唐獅子の彫物が施されている。高度な技は艶やかな山車になっている。高さ7.6mの高い壇上から見下ろす「張飛」に圧倒される。

102  平成28年11月13日の「とちぎ秋まつり」。快晴の小春日和の中で絢爛豪華な山車人形9台が栃木市蔵の街大通りを華やかにお囃子にのって巡行する山車人形を観る。

  町内から練出し、巡行する山車人形は、「劉備」(万町1丁目)、「関羽」(万町2丁目)、「張飛」(万町3丁目)の三国志に「静御前」(倭町3丁目)、「神武天皇」(倭町2丁目)、「仁徳天皇」(嘉右衛門町)、「弁慶」(大町)、「諌鼓鶏」(泉町)、「桃太郎」(室町)、都合9台の山車人形と「獅子頭一対」(倭町1丁目)。

  2年に1回のとちぎ秋まつり山車人形巡行は、神社の祭事としてではなく、実行委員会形式による市民イベントとして開催していることに特徴がある。

095_3  明治7年(1874)、倭町3丁目有志が江戸日本橋から購入した「静御前山車人形」と宇都宮から購入した泉町有志の「諌鼓鶏山車人形」が、栃木町にあった栃木県庁舎内神武祭に曳かれたことが始まりになっている。

 これを機に栃木町民の山車への関心が高まり、明治26年(1893)の栃木県最初の商業会議所開設の際に、3台の「三国志山車人形」と「神武天皇人形」の計6台の山車人形で商業会議所開設祝典に巡行されている。「張飛」を含むこの4台の山車人形は日本橋雛人形師原舟月から購入したもので栃木町問屋商人の新たな拠点としての商業会議所開設を祝った。

  その後には、明治39年(1906)の栃木町神明宮・招魂社祭事では室町の「桃太郎」が参加し、大町の「武蔵坊弁慶」、嘉右衛門町の「仁徳天皇」と次々と作成され、天皇ご大典奉祝祭、市制施行祝賀祭に加わるようになる。そして、昭和36年(1965)の市制25周年記念祝典より5年に1回の定期開催とした。山車人形の保存と常設会場として、平成7年(1995)に「山車会館」が建てられ、これを機に平成18年(2006)以後から2年に一回の隔年開催になった。

Sizuka1105_2  明治7年(1874)に、嘉永元年(1848)作品と言われている松雲斎徳山の山車人形「静御前」は、東京日本橋瀬戸物町、小田原町、伊勢町の3町から栃木町倭町3丁目有志によって688両で売却された。おそらく日本橋から巴波川舟運で「静御前山車人形」は栃木町に運ばれたきたものと思われる。

  昭和55年(1980)に千代田区教育委員会が明治以後に「天下祭」で巡行し、地方に流失されていった「江戸型山車」について調査を行ない、「江戸型山車のゆくえ」と題して報告書を発行している。今回、栃木県立図書館でこの「江戸型山車にゆくえ」を閲覧拝読することができた。

088  報告書に「栃木市の山車」の項目があり、現地調査を含めた報告が記載されている。昭和12年(1937)に栃木の大工、竹政栄吉によって静御前山車人形の社台が大修理されたこと。山車は錦絵「東都日枝大神祭礼練込之図」の山車と全く同じものであることが記されている。また同一の「静御前」は青梅市にあることから、日本橋の3町では「静御前」をそれぞれ売却していったと記述されている。

  尚、報告書では栃木の山車について「青梅市のように改造によって原形を失った山車と違い、祭礼番附や錦絵で見るような山車が、江戸以来の姿で飾り付けられていること」に驚きと称賛の報告になっている。

026 報告書では、「江戸型 天下祭の山車の原型は牛車に曳かせる二輪車(これが三輪ないし四輪に改造または発達)の上に人形が飾られ、しかもその人形が上下するものである」と江戸型山車人形を規定している。

  さらに「三層の構造物からなっている山車人形には、最上部には人形が飾られ、つぎの層は水引幕に取り囲まれた枠で、人形はこの二層目の枠内を上下できるようにつくられている。二段上下可変式のカラクリ(機構)を持っているのが特徴になっている。基部の前半部はお囃子方が乗るスペースがある」と分かりやすい解説が記載されている。

031 「江戸城内、吹上上覧所を経て常盤橋門外で解散し、再び自分の町に帰るまでに、俗に江戸城36見付と呼ばれた城門を6から12回くぐらなければならなかった。江戸城城門の門扉の高さは約4.4m。城門を通過する場合、高さ4mが限界とされているため、江戸型山車は二段階のくり上げ・くり下げ装置(エレベーター)が必要としたのだ」と記述されている。

  徳川時代、江戸城守護を司る日枝神社と江戸の町の守護神、神田明神の御神輿・山車は江戸城に入城し、三代将軍家光以来、歴代の将軍が上覧拝礼するところから「天下祭」と称されてきた。最盛期には神輿3基、山車60台の大行列が江戸城内から江戸の町を巡行していたと云う。

068_3 将軍家の公式行事として扱われた「天下祭」には祭祀に必要な調度品の費用や助成金の交付、大名旗本からの動員が行なわれるなど、幕府からの手厚い保護のもとに存続してきた。しかし、明治の御一新によって、徳川幕府は崩壊し、「天下祭」が終焉した。

 日本橋界隈を中心にした町内は山車人形の維持が難しくなり、地方への山車の放出につながっていくことになる。

   とちぎの山車人形の巡行を観ながら、大阪城築城の石垣の石を運ぶ絵を思い浮かんできた。山車は石垣を運ぶ台車に似ている。報告書「江戸型山車のゆくえ」の中にも、慶長8年(1607)から始められた江戸城拡張工事としての天下普請に江戸型山車の起源があると記されている。江戸城築城における 巨大な石を運ぶ光景は「山車人形」という姿になり、天下祭として江戸町民の心を捉えた祭になっていったのかもしれない。

058   明治26年(1893)に三代目原舟月より購入した三国志の「劉備玄徳」、「雲朝関羽」、「翼徳張飛」の人形は綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)の衣服に覆われ豪華な姿を放っている。しかし、日清戦争の勃発により、敵国の英雄を飾ることに異論が出された。そのため追加人形として「天照大神」、「日本武命」、「豊臣秀吉」、「素盞鳴尊」(いずれも三代目原舟月作)が作られた。そのため現存の山車9台に対して人形は13体になっている。

 ただし「秀吉」人形は馬に乗っていて人物が小さいということで、現在は山車会館での展示のみになって、山車人形として巡行はしない。

046  その明治26年の山車の製作費として、栃木市史民俗編の中で「万町1丁目2,000円、万町2丁目に2,500円、万町3丁目に3,000円を要したと伝えられている」と記述されている。山車3台、人形7体の製作費7,500円を原舟月に支払ったことになる。現在の価格で言えば、1円を2万円とするならば1億5千万円になる。

 報告書「江戸型山車のゆくえ」では、祖父から聞いたとび職の石関三郎氏の話として、「原舟月の方から3台で4500円でという申し入れがあり、万町3丁目の素封家、桜井源右衛門氏が、3台中もっとも気に入った山車(張飛)を2,000円で買取る契約をし、他の2台については万町1、2丁目にまかせたという。その結果、1丁目が1,500円、2丁目が1,000円でそれぞれ買うことが決まった」と3台を選んで購入したことが記載されている。

  さらに、薬屋を営む高田安平氏夫人の話として、「東京の原舟月に山車を注文したのが明治25年の8月。値段は3,500円で出来上がったのは翌26年3月のこと。その間にうちの父は舟月のところに何度も行きました。日本橋石町に住んでいて、仕事場は岩附町(現在の中央区本町3丁目辺り)にあった。舟月さんは小柄な人で丁髷を結っていた」と注文から納品までの期間を記載している。

094  この2人の話から、報告書「江戸型山車のゆくえ」では山車購入の価格より、3台の山車から桜井氏が1台を選んだということと注文から納入までの期間が7か月という短期間であったことに着目し、3台の山車は予め出来上がっていたと推測している。

  そこから、「当時東京では不要になった山車が、続々と地方に流出していた時期であり、舟月も仲秀英(同時期の雛人形師)と同じく流出の周旋を業としていたことの一端が、現在の栃木の山車に伝承として残された」と記し、「重要なことは、山車を注文制作させたのか、放出品を買ったのかということは問題にならない。この超一流の江戸型山車が栃木市の山車保存によって、受け継がれていることに大きな意義がある」と指摘を行なっている。江戸型山車が完璧に継承されてきていることに惜しみない賛辞が記されている。

072  「栃木市史」に記述さている山車人形の価格が7,500円。現在の価格で1億5千万円とするならば、高額な金額になる。町内の有志で購入できたことは、当時の栃木町民の持つ財政力は相当なものだったと改めて驚かされる。

  江戸後期から明治の初めにかけて、江戸東京と結ぶ巴波川舟運によって麻問屋・荒物問屋などが関西・東北方面に進出をし、「問屋町栃木」の名を全国に広めていった時期である。それは、明治17年(1884)1月の宇都宮への県庁移転や明治18年の東北線が栃木を通らなくなっても栃木の問屋支配網は崩れることなく拡大発展をしていったと云われている。全国麻生産の9割を占めた栃木県南西部に位置する栃木町の問屋商家。おそらく、国民皆兵による軍隊の創設が麻使用の軍服や軍備品の需要によって麻の増加が飛躍したのではないかと推測する。

007 明治4年に栃木町に総額8296両で建設された県庁舎。そのうちの42%にあたる3708両は地域住民が負担している。栃木町民、とりわけ栃木の問屋商家が中心に負担していると予測できる。

 さらに、明治34年(1901)の栃木女学校(現在の栃木女子高)創設費用3万円の内、1万円を地域住民からの寄付で賄われている。現在の1億5千万円。これも栃木町の問屋商家が中心に負担していると予測できる。詳細な史料がないのが残念だが、栃木町の問屋商家の財政力の中身の凄さについては、これからも研さんしていきたいと思っている。

056 「ピーヒャリ、テンツクテンテン」とお囃子代台から聴こえる「日之出流」と「小松流」のお囃子演奏。神田囃子の本流を伝えるものだという。

 お囃子の演奏を栃木市役所の向い側に立って聴く。55年前に今の市役所前の大通りのこの場所から栃木の山車祭を観ていた。見物人で溢れ出ている大通り。商店街アーケードの屋根の間から「神武天皇」の山車人形を人混みの中で観ていた記憶が何故か浮かんできた。

 今回は、新聞で報道されている「ぶっつけ」という、山車が向き合わせてお囃子が競い合う光景に出合うことができなかった。2年後には夜のライトに照らされた山車人形と合わせて観に来ようと思った。

092  栃木県庁舎があった敷地には県庁堀が史跡として残っている。明治7年(1874)の神武祭では「静御前」と「諌鼓鶏」の山車人形が巴波川の幸来橋を渡り、皆川街道から栃木県庁舎表門から庁舎内に入り、神武社に拝礼練行している。19年後の商業会議所開設祝典に巡行した江戸型山車人形。問屋町栃木は江戸の流れを引き継ぐ山車人形の保存を長く行なってきた。…凄いことだと感心する。

 「栃木市では別段、山車人形の維持管理への助成金を定めてはおりません。修理修繕費用につては県指定有形文化財にそって支給を行ないます」と栃木観光課のお話。「とちぎ秋まつり」では、行政は実行委員会に加わり、応分の負担をしているが、山車はあくまで町内の所有物としている。その所有者の町内では高齢化、町内人口の減少により山車人形の維持管理が年々難しくなってきていると聞こえる。栃木観光協会を中心に「伝承会」という山車保存に協力していく会を立ち上げて、賛同者の入会を勧めていく動きもある。

 町内の祭から栃木市民による祭へと発展させていくことが、山車祭を永く存続していくことに繋がる。それには、今一度「山車祭」の意義とあり方、参加体制について、広く市民の間で論議していく必要があると思えてくる。江戸の流れを継承する「山車人形」。今の時代と向き合う祭として再考していく必要があると思えてきた。

                                      《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

千代田区教育委員会編纂報告書「江戸型山車のゆくえ」(昭和55年10月発行)/池田貞夫・黒崎孝雄著「とちぎ屋台と山車」(平成10年3月発行)/絵守すみよし著「人形師原舟月三代の記」(平成15年9月青蛙房発行/「栃木市史民俗編」(昭和61年1月栃木市発行)

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江戸の香りが漂う―栃木市杢冷川、旭町「本橋」界隈

005  川幅約3mの杢冷川(もくれいがわ)は日ノ出町の水源堀から栃木市街地の東側を流れ、巴波川に合流する全長1660mのコンパクトな川の流れになっている。

  「杢冷川って、響きのいい名前だな…」と感じて、名前の由来が気になり調べてみた。しかし、栃木市史や栃木市文化課、知人に聴いてみたが、その由来は分からなかった。

  勝手な想いとして、栃木市街を流れる巴波川は別名「鶉妻川」と記されていた。巴波川の東側を流れる川から、「鶉」と関連して、鶉杢目のように細い網目模様を形作っている河川。その川筋には冷たい湧き水湧き出していることから「杢冷川」と呼ばれるようになったのかなあと想像したりしてみた。

011   「私達の住む日ノ出町自治会は、昔は栃木町大字城内の大和、榎堂、杢冷、川島と栃木町大字栃木榎堂、杢冷、大和の7つの字を称して城内大和と呼ばれていました」と昭和62年3月に発行された「日ノ出町史」(栃木市日ノ出町自治会発行)に記載されている野川自治会長の冒頭あいさつ文。城内村から別れた時期に、字杢冷という地名が2か所あったことが記されている。

  栃木市日ノ出町にある杢冷川の水源堀のそばに石碑が建っている。石碑には杢冷川灌漑用水の由来として、荒れていた平等庵所有の湧水池の埋立を大蔵製鋼社が耕作者たちのことを思い、中止にしたこと。昭和21年に水利組合と市当局の援助で灌漑用水として蘇らせたこと等が記されている。

009_2_2  この石碑から、杢冷川は灌漑用水堀川として使用されていたことが分かった。ということは、用水掘の呼び名は地域名を使用することが多いし、村人にとっても便利でもある。そのことから「城内村字杢冷」の地域を中心に流れる用水掘川であることから「杢冷川」と呼ばれるようになった。と理解するのが自然である。何だか胸におちた感じがした。

  また、水源堀敷地の所有者が石碑には平等庵であることが記されているのには驚いた。「現在も日ノ出町公民館の地代は自治会で平等寺に支払っていますよ」と地域の人から聞いた。

   日ノ出町公民館は水源堀から小金井街道を挟んだ向かい側に建っている。その敷地は、かつて三角沼と言われ、私の子どもころの水遊びの湧水沼であった。冷たい湧き水に身体を浸した暑い夏の日が思い出される所だ。

018_2  杢冷川に架かる栃木市旭町「本橋」から「一二三橋」にかけては、栃木町の花柳界として知られていた地域である。

  「季節ごとに芸者たちは着物を購入することが多く、呉服商はとくに繁昌していた。三味線の音が聞こえ、夕方になると桃割れ姿の半玉や高島田の芸者たちをみることができた」と村田弘子著の「壬子倶楽部と町のにぎわい」の中で、明治期後半の栃木町本橋周辺の様子が記述されている。

  本橋の畔には湧水池のある老舗料亭「壬子倶楽部(じんしくらぶ)」があり、少し上流の左岸には料亭「桃坂」もあった。橋の南東側には「釜仲」の店舗跡と「平等寺」がある。

019_2  平等寺の境内には御堂と石塔が建っている。あまりの整然とした佇まいの境内から、教化活動をしていない寺院ではないかと思えてきた。御堂の左側に建っている石塔。真ん中の古い石塔には宝暦十辰天八月吉日と刻まれていることが読み取れる。

 平等寺はかつては「平等庵」という寺院名であったことが明治39年(1906)年発行の「栃木市六千分一尺図」に記され確認することができた。

  渡辺達也著の「歌麿と栃木」の中で、「平等庵の湧水池、真清水」として狂歌等が詠まれた寺院として紹介されている。平等庵が平等寺になったいきさつを知りたくなった。

027_5  「栃木市にある平等寺は霊雲寺の末寺です。平等庵が平等寺に名前が変わったのは、宗教法人法の改正によるものです」と湯島天神そばの本寺、霊雲寺を訪ねた私に事務員の人が教えてくれた。それ以上の詳しい話は担当者がいないということで断られた。平等寺はかつては平等庵と称し、東京都文京区湯島にある真言宗霊雲寺派総本山「霊雲寺」の末寺になっていることが分かった。

    霊雲寺で渡された冊子によれば、元禄4年(1691)に淨厳律師によって文京区湯島に創建開基され、柳沢吉保を通して5代将軍徳川綱吉の尽力によるとされている。同冊子の霊雲寺略史の中で、「永享3年(1746)~宝暦6年(1756)にかけて霊雲寺の末寺60か寺となる。その所在は武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野・相模」と記されている。このことから、宝暦10年(1760)と刻字されている石塔のある現在の平等寺は、宝暦年間(1751~1763)に「平等庵」として創建されたものと思われる。

  宝暦年間は、円説と三悦の二人の坊が壬生町興生寺から栃木町へ移住してきたとされている年代と重なる。二人の坊は中の坊、上の坊と称し、釜喜善野喜兵衛と釜佐善野佐次兵衛ら共に、質屋業として江戸後期の栃木町の金融経済を仕切る豪商になっていく。文久2年(1862)の栃木町「本陣火事」において平等庵は釣鐘を残して焼失する。唯一残った釣鐘は現在の旭町「定願寺」の釣鐘として現存している。寛政4年(1792)11月に造られたその釣鐘の施主の中に円説と三悦の名が刻まれている。平等庵と豪商との結びつきを強く表している銘文だと渡辺達也氏は「歌麿と栃木」の中で記している。

014  杢冷川「本橋」南東の角に建つ「釜中」店舗跡の裏手にある駐車場が、湧水池だったと地元の知人が教えてくれた。かつては平等庵の敷地内であった湧水池跡を本橋の欄干から見る。

   「この辺り一帯は何処でも湧き水が湧出し、平等庵は特に清水の湧き出る所で有名であった」と渡辺達也著の「歌麿と栃木」で記述されている。さらに、安政6年(1856)に発行「狂歌扶桑名所名物集下野」の中から、「湧出る平等庵の真清水をくめバ夏行きなり」、「真清水を結へハ夏を王(わ)すれぬり平等庵の秋の者川(はつ)風」(結べば=掬えば)」と平等庵の湧水を見ながら狂歌が詠まれていたことの紹介が書かれてある。ただ私には、変体仮名で詠まれる「狂歌」は馴染みが薄く、その世界になかなか入ることはできない。

 「歌麿と栃木」を読み、杢冷川沿いの「本橋」周辺にはたくさんの湧水があり、埋め立てられた池もあれば、今も現存している湧水池があることが分かった。。

004   「最初に池があり、そこに建物をもってきたのですね。普通ですと建物を建てて、そこから眺めの良い庭を造るのですけど」と、初めに湧水池があったことを女将さんは、私達、「歴史と文化を歩く会栃木」一行18人に説明してくれた。

  本橋の北西の畔に建つ、大正元年(1912)創業の老舗料亭「壬子倶楽部(じんしくらぶ)」。庭園には30m四方の湧水池があり、鯉が泳いでいる。壬子倶楽部の座敷で用意してくれた昼食弁当をいただく私達。個人ではとてもあがることのできない料亭の和風座敷。座敷から見える湧水池のある庭園と木造家屋…。栃木町の隠れた奥座敷なのかと、しばし見渡す。

009  「大正元年の壬子(きのえね)の年に開業しました。子(ね)は終わりから始まる縁起の良さと倶楽部という当時のハイカラな意味から、祖母が壬子倶楽部という名前を付けたのだと思います。かわせみが飛んできますので、池のまわりの何処かにきっと巣を作っているのですね」と三代目の女将さんが私達に説明してくれた。

  小石の底から地下水がボコボコと湧き出ているのが見える池。鯉が泳いでいる。池の南側には杢冷川に流れ出ていく水口が見える。大正元年に建てた家屋には庇の痛みが目に付くが、内部の和室、座敷の拵えはしっくりした作りになっている。

007 渓流で釣り糸をたれている老子の掛軸が掛けられてある床の間。別の座敷の床の間には艶やかな活け花が飾られてある。「私たちのために用意してくれたのよ」と同行者の人が耳元でささやいてくれた。女将さんの心配りにありがたく、喜ぶ。

006

  案内する女将さんの立ち振る舞いを見ながら、「浮世絵のような美人画を描きたくなる…」。そうした雰囲気のある座敷。廊下を歩く仲居さんと奥に見える湧水池が浮かび上がる。ふと、異次元の世界にひたる気分になってくる。それは、江戸の余薫(よくん)が漂う、浮世絵の香りのする光景でもある。栃木の町にしっとりとした江戸文化の香りが残っていたことを見つけたようで、うれしい気分になってきた。

013    平成19年(2007)栃木市発行の「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」の中で、村田弘子氏が壬子倶楽部三代の女将さんのことを次のように書いている。

  「大正元年(1912)に壬子倶楽部は開業した。遠藤セイが26歳のときである。セイは明治19年(1886)栃木町に生まれ、仲居として栃木町の料理屋で働いた。『壬子倶楽部の経営の一端を担うに際して、そのときの経験が大いに役立っていたようだ』とセイの養女遠藤今子は話す。壬子倶楽部は商人たちの商談の場として、また碁を打ったり俳句を詠んだり、趣味の場、社交場として使用された。客のあしらいをまかされていたのが遠藤セイである。今子がセイから壬子倶楽部を引き継いだのは戦後、昭和34年(1959)である。戦時中は企業の寮や軍関係の宿舎に使用された。祖母(セイ)、母(今子)、娘(智恵子)の3名の仲居の働きにより現在に至ったといっても過言ではない。当時、ビリヤードとして使用された洋館と日本庭園を背景とした日本家屋が今も残る」。

  この内容から、江戸時代からの料亭仲居としてのもてなし方を受け継いできたことが伺える。女将さんの仲居としての立ち振る舞いは、湧水池と日本家屋、格式ある料亭の佇まいと合致した風情になっており、格式ある料亭としての気品と伝統を感じた。…是非残しておきたい栃木町の文化遺産である。

005_2   壬子倶楽部の前の通りを隔てた向かい側の敷地。駐車場になっている跡地は栃木の名のある商店主の屋敷跡地である。その跡地の敷地の下の岸辺から杢冷川へ注ぎ出てくる地下水が見える。かつての湧水池の名残りでもある。

  この屋敷跡の前の前の持ち主が、釜喜、善野喜兵衛の別宅だった教えてくれた人がいた。確証はないが、江戸期に釜喜の別宅だったとすると、平等庵ー中の坊円説ー釜喜・善野喜兵衛―狂歌との繋がりの中で「喜多川歌麿」の影が浮かび上がってくる。歌麿は天明期(1781)から寛政期(1800)にかけて栃木の町に度々訪れていたと伝わっている。

051_3   栃木市では歌麿作の肉筆画、「深川の雪」「品川の月」「吉原の花」三幅対、「雪・月・花」の高精細複製画を作成し、市役所4階に12月24日まで展示を行なっている。

  「江戸時代、例幣使街道宿場町と江戸に通じる巴波川の舟運として栄えた栃木町は江戸との交流から狂歌文化が花開きました」と展示場の解説に書かれてある。さらに「自らも筆綾丸(ふでのあやまる)の狂歌名を持つ歌麿は、狂歌を通じて栃木の豪商と親交がありました。歌麿の肉筆画大作「雪・月・花」は、栃木の豪商、善野家の依頼とされている」と解説している。

022  釜喜、善野喜兵衛の狂歌名は通用亭徳成と称し、長寿を祝う大量の狂歌短冊の中に、歌麿自筆の短冊が発見されているなど、栃木町と歌麿、善野家との関係について研究が進めらている。

 ――とは言っても、江戸時代に驚異的なブームを巻起した狂歌熱は明治になり衰退。俳句のように継承されてこなかった狂歌。理解しがたい分野になってしまっている。狂歌の面白さや素晴らしさを分からないというのが現状だと思える。

 江戸後期、栃木町の経済と文化、狂歌を支えた栃木町の豪商たちについて、これからも研究していく課題は多々ある。 

030_3   歌麿が描いた「雪・月・花」の三幅対。幕末の大火の中で保存もされていた。そして、栃木のどの家で三幅対を描いたのだろうか?興味がある。

  「深川の雪」の画は198・8㎝×341.1㎝と非常に大き肉筆画になっている。中の坊円説(現在の栃木郷土参考館)宅の巴波川沿いの離れで描いた説を述べる人がいる。だが、私には、本橋界隈の「壬子倶楽部」の前の家、釜屋善野喜兵衛の別宅地で描いたのではないかと思えてくる。「巴波川」ではなく「杢冷川」と湧水池こそが、歌麿が描く「浮世絵」の世界に相通じるものがあるのではないかと想像する。私の「歌麿ロマン」の世界でもある。

  江戸の香りが漂う「本橋」界隈。「狂歌」や「浮世絵」の世界を思い浮かべながら杢冷川沿いを歩くのも、また良しとしよう。

 杢冷川は旧栃木刑務所時代に堀の役割をした栃木市文化会館とあさひ公園の脇を流れ、巴波川に合流していく。子ども頃に泳いだ湧き水のある水源沼。水の冷たさを今でも私の肌は憶えている。杢冷川湧水の清流は、これからも栃木の町を流れていく。

                                            《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

「町政50周年記念、日ノ出町史」(昭和62年3月、栃木市日ノ出町自治会発行)/「霊雲寺」紹介冊子/渡辺達也著「歌麿と栃木」(平成23年10月三刷歌麿と栃木研究会発行)/栃木市地域女性史編さん委員会編「私たちが綴る栃木市の女性たち」(平成19年3月栃木市発行)/ブログ巴波川日記「杢冷川―栃木市街地を流れるもう一つの河川」(2014年11月) 

 

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栃木街の中心地ー倭町交差点「イシハラ洋品店」と道路元標

041_2   「栃木街の中心地、真ん中にうちの店はあるのです。真ん中としての役割を考えて、時代にそった店舗づくりをしていきます。そのためには、この建物を取り壊して、ミツワ通りと繋がる新たな店舗を共同で作っていくのです。大通り沿いを広くして風通しを良くし、駐車場を設置し広くしていきたいですね。街にお客さんをひきつける。そうした店づくりをしていきます」と私に熱い思いを語るイシハラ洋品店4代目の店主、石原靖弘さん。

   「イシハラ洋品店」の店舗はすぐ近くの銀座通り西端に移転を行ない、高校の制服を中心に従来通りに店を構えていく。そして新たな店舗造りを現在の倭町交差点角を中心にした店舗共同開発として建てていくという話になっている。

010_4  「イシハラ洋品店が店閉まいするんだって」とある会合でその話を聞き、「エッ、本当?」と驚いた私は、倭町交差点角に建つイシハラ洋品店に行った。ショウウインドウには「店舗移転の為 閉店SALE 当地区の再開発の為、店舗を移転することになりました」と店閉まいではなく、再開発を進めるための移転であると明記されていた。48年前に建築された屋上のある5階建ての店舗を解体して、新築する。それも地域の商店と共同開発として進めていくことを聞いて、何故かホットした。

  「栃木にもエレベーターのあるお店ができた」と当時、誇らしく思った記憶が浮かんでくる。「エレベーターは今もありますが、電源は入っていません。エスカレーターもありましたよ」と石原靖弘さんは語ってくれた。屋上のある5階の部屋で小学校時代の絵の先生が個展を開いたのもこのイシハラ洋品店だ。ただ屋上から眺めたはずの栃木街の屋根瓦の光景が浮かんでこない。

015_2 イシハラ洋品店は栃木市倭町交差点の南西角に建っている。栃木市の一等地であり、倭町交差点は街の中心地に位置する。江戸時代には足利藩栃木陣屋の入り口として高札場が設置されていた所でもある。街の中央を南北に往還する蔵の街大通り(旧例幣使街道)とこの交差点を起点とする栃木県道75号栃木佐野線(皆川街道)が交差している地点でもある。

  大通り商店街からミツワ通り、幸来橋へと続く銀座通りを中心に昭和40年代頃までは栃木街の商店街は買い物客や高校生でごった返す人通りの多い町であった。栃木市に初めて信号機が設置されたのもこの交差点であった。小学校時代に先生に引率され、点滅する信号機を確認しながら交差点を渡る指導を受けた思い出がある。栃木のまちはここから始まっているのかもしれない。

007  イシハラ洋品店の向いにある足利銀行店舗の解体工事が始まっている。新店舗は奥に出来上がり、すでに営業を行なっている。更地となり駐車場になっていく。

  この倭町交差点には県道11号と75号の道路標識が建ってある。その標識の下に大正10年(1921)に設置された50㎝ほどの石塔、道路元標(どうろげんぴょう)がある。道路側に「栃木町道路元標」と刻まれている。歩道側からでは見えないため、ただの石塔にしか見えない。

09tochigi011   大正8年(1919)の道路法によって各市町村の中心地に設置された道路元標は、主な幹線道路の起点や終点を示し、地点間の距離を測定する基準としていた。昭和27年(1952)施行の新たな道路法により道路元標は道路の付属物とされ、設置場所や道路元標を路線の起終点にする規定はなくなった。そのため大正時代に設置された道路元標は道路工事や宅地開発などで撤去され、いつの間にかなくなってしまっていった。

040  栃木市と近郊との合併は、昭和29年(1954)に大宮・皆川・吹上・寺尾の4村、昭和32年(1957)国府村、平成22年(2010)の大平・都賀・藤岡の3町、平成23年(2011)の西方町と合併をしながら、いずれの町村において道路元標は消失してしまっている。栃木市内で唯一、倭町交差点に建っている大正10年設置の道路元標の石塔。ここだけに現存しているということになる。

  栃木市では市文化財に指定しているが、周囲には文化財であることを知らせる看板はない。そのため車や自転車はもちろん歩行者も目に留める人はなく、ポツンと置き去りされて建っている。

  平成25年(2013)8月29日の下野新聞にはこの「栃木町道路元標」の石塔について、「1世紀近くにわたって蔵の街の歴史を見守ってきた“生き証人”だ」と記述されていた。

  現在の倭町交差点は県道75号皆川街道の起点になっている。他の栃木市街地の県道起終点は市内の主な交差点に位置している。例えば万町交番交差点が、県道2号宇都宮栃木線(栃木街道)、3号宇都宮亀和田栃木線(鹿沼街道)、11号栃木藤岡線の3つの県道終点地になっている。河合町交差点は、31号栃木小山線、153号小林栃木線の終点地。日ノ出町交差点は44号栃木二宮線(小金井街道)の起点地。箱森粟野街道入口交差点は37号栃木粟野線の起点地になっている。現在の大半の道路起終地は交差点に定めてあることが伺える。確認していないが、「栃木まであと〇〇キロ」という標識版は道路起終地にそって表示されているのかもしれない。

Yamaguchitomoko20081  「へー、やだあー、建物なくなるんだ、と取り壊しのことを聴いて、トモちゃんが驚いていましたよ」と、イシハラ洋品店の店主、石原靖弘さんが私に話してくれた。トモちゃんとは女優の山口智子のことだ。

  山口智子の実家は平成17年(2005)8月に廃業した「ホテル鯉保」の老舗旅館であった。ホテルはイシハラ洋品店の先向いにあった。現在はその地にコンビニストアの「ファミリイマート」が建っている。

  山口智子を娘のように育てたのが女将でもある祖母の山口礼子さんだった。すでに亡くなっているが、戦中戦後を通して「ホテル鯉保」を切り盛りした女将であった。その山口礼子さんはイシハラ洋品店の創業者、石原豊吉氏の長女として大正10年(1921)に生まれ、当時「鯉保別館」と言っていた山口恭平氏に昭和15年(1940)12月の暮れに嫁いでいる。イシハラ洋品店とは非常に親しい親戚筋になっている。

016  鯉保の先祖は江戸期に日本橋で「鯉屋」という魚商であった。主人の鯉屋藤左衛門は俳号を杉風(さんぷう)と称して、松尾芭蕉の高弟でもあった。鯉屋藤左衛門の末裔が明治治9年(1876)に料理店「鯉屋」を栃木万町で開業。その後、屋号を鯉屋から、明治14年(1881)鯉保と改め、旅館業も兼ねていった。

  鯉保の主人、山口平三郎氏は昭和4年(1929)に倭町にあった「晃陽館」という旅館を買収し、子息の山口恭平氏(山口智子の祖父)に跡を取らせ「鯉保別館」として開業した。昭和32年(1957)に恭平氏が亡くなり、夫人の礼子さんが女将として采配し、「鯉保別館」から「ホテル鯉保」へと成長させた。孫娘の山口智子は幼少期より祖母、礼子さんを母親のように慕い育ったと言われている(「栃木市の企業と人物、㈱ホテル鯉保、代表取締役山口礼子」より)。

   大正10年生れの山口礼子さんは20代で戦中戦後の混乱期を迎えたことになる。栃木市が平成19年(2007)に昭和を生きた市内の女性の体験談を中心に編纂した「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」を発行している。その書の中に「旅館のおかみ」の表題で山口礼子さんの口述筆記が次のように記載されている。

050   「嫁にきたのは20歳だったんですよ。嫁にくるときは、なにもしないでいいからぜひぜひといわれて嫁にきたんですよね。だけど結婚すると暮、正月はいそがしいもんですから、新婚旅行も行かないで春になったらもう妊娠しちゃいましてね。主人は昭和18年招集、南方へ行ったんですよ。働いている若い衆はみんな徴用にとられて、それからものは闇で買わなくっちゃならないですよね。父がこんなにたいへんじゃやめたほうがいいじゃないかっていうんで商売をやめたんです。中島飛行機へ寮みたいに貸したの。

 戦後また旅館を始めんたんです。米はお泊りさんがもってくる。お米を持参した人だけ泊める時代でした。そのうちだんだん闇でものが動くようになったのでお金で泊る人がでてきました。(略)主人が(昭和32年)になくなってからそれからずっとわたしが社長さんでやってきた。考えてみると60年も働いてきましたもの。だって朝は6時ですよ。朝飯ださなくちゃならないもの。夜は芸者さんが帰るのは1時、2時はざらですよ。だからね、どうやってくらしてきたかなあと思いますけど、立ってでも寝られましたね」と、立って寝るという女将としての責任あるバイタリティを感じる。商いをしていくうえでの「闇」とか「旅館のやめる、始める」「人手」とかという言葉から、時代を見つめ判断をしながら旅館業を営んできたことが伺える。

019   鯉保別館の建っていた敷地は幕末期に「旅篭押田屋」があった。元治元年(1864)6月の水戸天狗党「愿蔵火事」や慶応3年(1867)12月の出流山事件(出流天狗)における「栃木宿戦闘」など、栃木陣屋との交渉場所として押田屋を舞台に展開された歴史ある場所でもある。また、鯉保別館脇の小山街道沿いは終戦直後、闇市がたっていた。

  私には鯉保別館時代の黒塀沿いを自転車で走る記憶がある。ラジオから流れるメルボルンオリンピックの水泳競技、山中選手の泳ぐ実況放送を聴いていた姿が残像として残っている。黒く長い塀の先に明るい大通りが見えていたような気がする。

   「イシハラ洋品店の開発は民間開発です。お問い合わせがあった場合には市としては景観条例についてのお話を述べるだけです。栃木市の一等地です。民間開発とはいえ、気になりますね」と栃木市都市計画課の職員は述べていた。

  イシハラ洋品店を中心にした店舗建て替えの開発事業計画は、これからより具体性を帯びてくると思える。市役所庁舎も大通りに移転してきている。民間の活力を生かした店舗建て替え開発としての事業。その先にはたくさんの市民が訪れる町づくりが見えてくる。「蔵の街」からの脱却と飛躍が構想の中にあるような気がする。栃木の真ん中で商いをするイシハラ洋品店は歴史と時代の流れを見据えて歩み始めていると受け止めた。

                                               《夢野銀次》

《参考引用資料本》

明治40年10月発行「栃木県営業便覧」/下野新聞2013年(平成25年)8月29日号「マチある記㊺」/「栃木市の企業と人物」平成6年10月、土筆書房発行/「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」平成19年3月栃木市発行

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水郷に流れる潮来節~船頭小唄・娘船頭さん・おんな船頭唄

033_4  「おめでとうー」と両岸からの見物人のかけ声と拍手が湧きあがる。拍手は嫁入り舟を見ることができたうれしさの表れなのだ

   5月28日から始まっている「水郷潮来あやめまつり」。市の係員に先導された白無垢姿の花嫁一行は前川あやめ園内を四歩進み停まりながら乗船河岸にて手漕ぎ舟に乗る。

  花嫁と付添(仲人)を乗せた手漕ぎの嫁入り舟はギッチラ、ギッチラと潮来市内を流れる前川を下る。常陸利根川に合流する水門手前の河岸にはお婿さんが嫁入り舟を出迎える。「何年振りだろう、野外で花嫁さんを見るのは…」。結婚式と披露宴はホテルで行ない、昔のように花嫁姿でご近所へ挨拶する光景を見ることはない。 

017_3  6月14日にシルバー大学栃木南校33期生「健康ウォーククラブ」の「潮来あやめまつり見学ツアー」に参加した。栃木市からは潮来市は遠い。それでも一度は行ってみたい町であった。水郷の町、歌の町としていつも私の頭の中にあったからだ。

  嫁入り舟に乗る花嫁を潮来市は毎年、全国に募集を行なっている。条件は一年以内に結婚もしくは結婚したカップルになっている。着付け代は自己負担だが花嫁衣裳は無料で貸与される。毎年全国から80組くらいの応募があり、抽選になるほどの人気イベントとして定着をしている。 

  「潮来は周囲を水に囲まれ、水路が縦横にはりめぐされていたため、サッパ舟(櫓を使う手漕ぎ舟)によって隣近所などの日常の生活が水路で繋がれていた」と潮来市ホームページに水郷の町であったことが紹介されている。そして「嫁入りする際の花嫁や嫁入り道具等を運搬する時にもサッパ舟が使われており、これが『嫁入り舟』の始まり」と記載されている。 

029  「♪潮来花嫁さんは 潮来花嫁さんは舟でいく~」と花村菊枝が歌う「潮来花嫁さん」が昭和35年に大ヒットとなり、「嫁入り舟」は全国に知られるようになる。 

  生活を結ぶ水路とともに姿の消えた嫁入り舟は昭和60年の「つくば国際科学技術博覧会」の際にイベントとして復活する。そのことがきっかけで、現在のあやめまつりの中で嫁入り舟が行なわれるようになり、潮来を代表する「あやめまつり・嫁入り舟」観光行事になっている。 

  実際の花嫁とお婿さんが参加する嫁入り舟。潮来市と市民の手によって、嫁入り舟が毎年、継続して続けられてきている。疑似体験でない本物の花嫁が舟に乗るところに長く続けられてきている要因になっているのだと思えた。 

  「潮来花嫁さん」と同じ年の昭和35年には、橋幸夫が歌った「潮来笠」も大ヒットする。2曲のメロディから水郷潮来の明るさが高度成長時代へ突入していく時代を表している。しかし、一方では、「…おれは河原の枯れすすき~」と、潮来水郷のもの哀しさ、寂しく暗い世界へと誘う歌もある。あやめの花、嫁入り舟の華やかな光景を見た後にきた、この暗さと明るさのギャップは何なのだろうか?水郷潮来を詠った歌の中から「潮来の情感」を辿ってみた。 

047 ~己は河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき 

~枯れた真菰(まこも)に照らしてる 潮来出島のお月さん わたしゃこれから利根川の 船の船頭で暮らすのよ 

『船頭小唄』大正10年(1921) 作詞:野口雨情、作曲:中山晋平。 

 潮来市観光案内ボラティアの方から、源頼朝が創建した「長勝寺」と裏の稲荷山公園にある「野口雨情記念詩碑」を案内していただいた。 

  大きな石碑のそばには『雄大な利根川の流れに詩情をたぎらせ、潮来出島の風向をひろく天下に紹介した』として、昭和40年(1965)5月に潮来町野口雨情顕彰会によって詩碑が建てられている。「船頭小唄」の歌詞が刻字されている詩碑のある稲荷山から、潮来の町と常陸利根川、利根川を見渡すことができる。 

Yjimage4tsigjzo_2  長田暁二著「日本の愛唱歌」の中で、『船頭小唄』の生まれる逸話が記載されている。 

  「大正8年に作詞した原題『枯れ芒』を野口雨情は面識のなかった中山晋平に作曲を始めて依頼した。しかし、中山晋平は預かった詩稿があまりにも内容が暗く曲想がまとまらず、一年が過ぎた。たまりかねた雨情は強硬に督促をした。晋平は作曲がはかどらない理由を言ったところ、雨情は茨城県民謡の『潮来がえし』らしいメロディを低く口ずさんでみせた。それがなんとも素朴で、魂の叫びのような響きがあったので、(よし、これでいってみよう)ということになる。雨情のうたった『雨情節』を基調に、晋平の発想を加え、この曲ができた」と記してある。 

  そのため、「大正10年3月の出版楽譜(再版から『船頭小唄』に改題)の作曲は中山晋平と晋平の別名、萱間三平の連名になっている。この曲は完全なる自分の創作ではなく、『雨情節』が混入しているという衒(てら)いがあったのでしょう」と野口雨情が口じさんだ「茨城県民謡潮来節」らしいメロディが「船頭小唄」に入っていることを指摘している。 

…雨情が口ずさんだ「潮来がえし、潮来節」とは、どんな曲だったのだろうか。 

 ネットで検索していくと、潮来節の中の「潮来音頭」に(返し)が記載されていた。 

~潮来出島の真菰の中に あやめ咲くとはしおらしや ションガイナー 

 (返し)しおらしや あやめさくとはしおらしや ションガイナー 

~此処は前川十二の橋よ 行こか戻ろうか思案橋 ションガイナー  

 (返し)思案橋 行こか戻ろか思案橋 ションガイナー 

(『潮来音頭』より)

050_2  「潮来節の原型の『潮来出島の真菰の中に あやめ咲くとはしおらしや』のあやめ咲くとは遊女のことである。潮来節は、河岸の船乗・水主(かこ)や小場人足などが、非常に貧しい過酷な生活から生まれた労働歌の一つであったという」と川名登氏は著書「河岸」で記述している。 

  「この労働歌(潮来節)が潮来遊廓の御座敷歌となり、それが船頭・水主や遊女たちの口から『木下茶船(きおろしぶね)』などに乗って三社参詣や銚子磯めぐりなどにやってくる遊客に覚えられて、利根川を遡って江戸に伝えられ、江戸から全国各地に広がって有名になった」と潮来節が遊廓、参詣と舟運を通して全国に広がっていったことの指摘をしている。 

  木下茶船とは利根川下流、香取・鹿島・息栖(いきす)の三社めぐり等をおこなう貸切遊覧船のことを言い、江戸時代の文化文政時代(1804~1830年)に多くの旅人で賑わったとされている(ウエブ「世界百科事典」より)。 

  潮来節は佐渡おけさ、徳島阿波おどり、長唄藤娘など全国に広まり、派生していった。野口雨情が口ずさんだ潮来節が船頭小唄の中のどこにあるのか?音楽に疎い私には分からない。調べて行こうと思う…。 

  「潮来出島」は、デルタ地帯として、この前川あやめ園あたりを指していますね。網の目のように水路がありました。今は埋め立てられて、昔の面影は残っていません。潮来遊廓はあやめ園の向こう岸、前川の右岸下流にありました」と嫌がらずに観光ボランティアの方が教えてくれた。 

Yjimage5_2  過大な借金、離婚、水戸での「地で這うような生活」の中から野口雨情は「枯れ芒」を作詞した。バイオリンの奏でる哀切さを感じる「船頭小唄」は演歌師によって歌われ、関東大震災を経て全国に広がる。それはやがて戦後の昭和32年の映画「雨情物語」で主人公、森繁久彌が歌った「船頭小唄」で今日まで受け継がれてきている。 

  実生活や民俗、郷土等の身近な生活を見据えたところの表現、考え方を表すと言われている大正デモクラシー。その思想を背景として「船頭小唄」が生まれてきたと思えてくる。 

Saijo_yaso_and_nakayama_shimpei1 大正12年9月1日の関東大震災。東京下町が燃え広がる夜、上野の山には多くの避難した人がいた。どこからともなくハーモニカのメロディーが流れてきた。少年が奏でるハーモニカ。うるさいという声があがることなく、じっと聴き入り、落着きと自分を取り戻していった避難者たちを西條八十は見ていた。月島の兄の安否を訪ねていった仏文学者、西條八十も上野の山で避難者と一緒にハーモニカを聴いていたのだ。俗謡(歌謡曲)の中に人々の安らぎ、生きる心の糧が生まれることを、西條八十は見出した。この日をきっかけに歌謡曲の作詞を始める(西條八十著「唄の自叙伝」より)。 

  「♪父も夢みた母も見た 旅路のはてのその涯の 青い山脈みどり旅へ~」(「青い山脈」昭和24年)。明治生まれの人によって引き起こされたアジア太平洋戦争で大正生まれの父や母が戦場や空襲で亡くなった。昭和生まれの若者は大正生まれの父や母が夢見た民主主義(大正デモクラシー)の世界を目指して進む。――と西條八十作詞の「青い山脈」の歌声は呼び掛ける。 

  西條八十は終戦の昭和20年の8月に早稲田大学教授を辞職する。「サーカスの唄」(昭和8年)、「旅の夜風」(昭和14年)、「誰か故郷を想わざる」(昭和15年)と歌謡曲でヒットを飛ばす。そうした西條八十に対する教授たちの、歌謡曲に対する侮蔑などの軋轢があったのではないかと推測する。 

201106051602461 ~娘十八口紅させど 私しゃ淋しい船頭娘 つばめ来るのに便りなくて 見るはあやめの ヨウ花ばかり 

 ~鐘が鳴ります潮来の空で 月に墨絵の十二の橋を こいで戻れど別れた人と 水の流れは ヨウ返りゃせぬ 

 『娘船頭さん』(昭和30年、歌:美空ひばり、作詞:西條八十、作曲:古賀政男) 

 水郷潮来の情景を娘船頭を通して歌っている「娘船頭さん」。美空ひばりの歌を始めて作曲した古賀政男のメロディに乗せてゆっくりと船が進んで行く光景が浮かぶ。西條八十が美空ひばりの歌を作詞したのは、昭和25年「越後獅子の唄」、26年「角兵獅子の唄」、30年「娘船頭さん」、40年「芸道一代」の4曲と意外と少ない。 

  筒井清忠著「西條八十」の中で、「西條八十の家の前には、戦前、正月になると越後獅子が来ていた。その子どもたちが芸をしながらいつも怖い目つきの親方を怖れていたことを思いだして『越後獅子の唄』を作詞した」ことが書かれてある。「13歳の天才少女への世間の眼は冷たく、新聞では『ゲテモノ』と叩かれていた美空ひばり。この曲は社会的に冷たい目で見られて、大人の歌手の歌手の間で肩身の狭い思いしていたひばり自身のことなのだ」と「越後獅子の唄」が出来上がった逸話が紹介されている。 

066_2 「娘船頭さん」では、18歳の美空ひばりを「私しゃ淋しい船頭娘」と西條八十は越後獅子同様にひばり自身をイメージして描いている。 

  映画「娘船頭さん」(監督萩原徳三)でも前年の映画『伊豆の踊り子』(監督野村芳太郎)の旅芸人役を意識して、旅芸人と船頭が相通じる世界を描いている。街道暮しの旅芸人と潮来水郷の渡し船の娘船頭。艪を漕ぎながら歌うひばりの「娘船頭さん」は哀切あふれる情感のこもった歌声で水郷潮来を描いている映画になっている。 

  ちなみに「芸道一代」では「♪小粒ながらもひばりの鳥は 泣いて元気で青空のぼる 麦の畑の小さな巣には わたしみている母がある 母がある~」と身長153㎝の小粒な美空ひばりと母の姿、芸に生きる母娘を描いている。西條八十は、ひばりそのものを対象として作詞することに視点を置いていたと思えてくる。 

  北原白秋・野口雨情と共に西條八十は大正期の三大詩人と呼ばれていた。水郷潮来を情景にした「娘船頭さん」を作詞する際に、西條八十は野口雨情の「船頭小唄」を意識したのであろうか?私は強い意識はなく、美空ひばりという一代稀有な天才歌手に潜む情感を潮来水郷、渡し船を漕ぐ美空ひばりをイメージして作詞をしたと思えてくる。 

  映画「娘船頭さん」の中で映し出される潮来の情景、ロケーションは貴重な水郷の歴史的資料なっている。映画の中で、わかさぎ漁、帆引き船で歌う美空ひばりの歌声のシーンは圧巻である。「♪アーア潮来出島のまこもの中で あやめ咲くとはしほらしや~」と低音から高音への伸びる「潮来節」のひばりの歌声は、ただ唸るばかりだ…。 

Yjimageu5chj9h2 ~嬉しがらせて 泣かせて消えた にくいあの夜の旅の風 思い出すさえ ざんざら真菰 鳴るなうつろな この胸に 

 ~利根で生まれて 十三七つ 月よわたしも同じ年 かわいそうなは みなしごどうし 今日もお前と つなぐ舟 

『おんな船頭唄』(昭和30年、歌:三橋美智也、作詞:藤間哲郎、作曲:山口敏郎) 

  潮来節の詞と密接に繋がっている歌だと思えてくる。民謡で鍛えたハリのある高音が哀愁を呼び起こす「おんな船頭唄」。少年の頃から民謡界の天才と言われた三橋美智也は昭和30年、この曲の大ヒットで歌謡界を代表する歌手になる。 

01_3 私はずーと以前から、「にくいあの夜の旅の風」という意味が理解できなかった。しかし、川名登著の「河岸」に「船女房」という記述で分かってきた。 

 それは、「遠方から来た船が河岸に着くと、小舟にのって漕ぎ寄せ、船に上がって船の中の掃除や洗濯、綻びの繕いなどまでして、一夜を共に過ごす。翌朝は朝食を作り、船中をきれいに掃除してから船を下り、名残りを惜しんで別れていく。これは単なる売春ではなく、半分は男にはできない家事を頼んでいる」という河岸には『船女房』という稼業があったことを知った。「おんな船頭唄」の世界はここに出てくる一夜限りの船女房の世界だなと思えてきたのだ。 ざんざら(ざわざわした)真菰が茂る船の中で、ひっそりと抱かれる女船頭の姿があやめの花に被さっていく情景が浮かんでくる。

  江戸初期の潮来は奥州諸藩の物産を江戸に向かう千石船が銚子河口から利根川に入り、潮来で高瀬船に積替える中継港(河岸)として賑わい大いに繁栄していた。しかし、元文年間(1736~1740)の大洪水で利根川の本流が佐原に移ると中継港としての機能を失った(潮来市ホームページ)。 

140041  昭和15年頃発行の水郷汽船会社の利根川流域・霞が浦周辺を中心にした汽船航路周辺の観光名所となっている鳥瞰図をみる。 

 地図の真中の下に佐原と香取神宮がある。一番上の真中には鹿島神宮と記されている。右端の少し上のところに息栖(いきす)神社と記されてある。潮来は地図の真中の十二橋と記されたデルタ地帯に位置する。潮来の町を通る前川が鹿島神宮に続いている。潮来は香取神宮・鹿島神宮・息栖神社に「木下茶船(きおろしちゃぶね)」などでお参りする際の遊び場、遊廓としてにぎわいをみせたといわれている。三社の真中に位置する潮来が中継港としての繁栄を失った江戸時代の後期、遊廓、遊興の地になっていったのも頷ける。そうしたことから、「潮来節」にはかつての繁栄した河岸としての辛苦が含まれていると思えてきた。 

021  初めて潮来市を訪れ、「潮来あやめまつり・嫁入り舟」などの華やか行事を見ながら、「船頭小唄」のような「暗さ」「寂しさ」とのギャップはどこからきているのか?という疑問から、書き綴ってみた。 

  かつての繁栄から衰退をみせた河岸は遊興の地として名を馳せた。「潮来節」の曲や歌詞の底辺に流れている水郷に生きる船頭や遊女の辛苦の表れが「船頭小唄」「娘船頭さん」「おんな船頭唄」に含まれている。そして「潮来花嫁さん」「潮来笠」の「華やかさ」と表裏を成している。これらの歌謡曲の原型は「潮来節」にあることが少し分かってきたような気がしてきた。 

  水郷としての昔日の面影が残っていなくても、「潮来出島の真菰の中にあやめ咲く~」という潮来節の詞は残り、潮来を歌う歌に生き続けていくと思える。 

  潮来節を元にした「潮来節―歌謡歌まつり」などを開き、潮来節と現代の歌とを探求する場を設ける。…と、勝手に無責任な夢想を始めた。今度、潮来に行った時には、前川の手漕ぎ舟に乗ってみよう。 

                                  《夢野銀次》 

≪参考引用資料≫ 

潮来市ホームページ観光課/長田暁二著「日本の愛唱歌」(2006年6月、ヤマハミュージックメデア発行)/筒井清忠著「西條八十」(2005年3月、中央公論社)/中野英男・大嶽浩良著「若き日の野口雨情」(2016年3月、下野新聞社)/大下英治著「美空ひばり」(平成元年7月、新潮社)/西條八十著「唄の自叙伝」(1997年6月、日本図書センター)/川名登著「河岸」(2007年8月、法政大学出版部)/DVD「娘船頭さん」(昭和30年4月公開映画、萩原徳三監督、美空ひばり主演)

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