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橋への思いと村芝居興行―安政6年野尻騒動

012_2  「石の多い川だな、それも大きい石ばかりだ。流れも速い」と、日野橋から眺めた大芦川の第一印象。

  新鹿沼駅から歩いて西へ3キロ、大芦川の日野橋に来る。橋の向こう側は鹿沼市野尻、加園地区になる。

 平野哲也氏は栃木県文書館研究紀要11号の中で、「大芦川は、上草久を水源とし、野尻村と酒野谷の間で荒井川と落ち合い、一里ほど下流の笹目村付近で小倉川(思川)に流れ出ていた。18世紀末期の大芦川は最上流の上草久村でも20間の川幅があり、引田村付近までくると30間ほどに広がった。川の状態は、現在と同じく、砂礫の多い『石川』であった」と記述している。その通りに大芦川は石の多い川に見えた。

008  江戸時代、大芦川と荒井川の合流地点近くにある野尻村は石高232石、人口142人、家数29軒の村落であった(天保年間、鹿沼市史による)。村を往還する石裂(おざく)街道と出流(いずる)街道の交差する交通の要衝でもあった。 

  しかし、野尻・加園村と対岸の下日向・酒野谷とを結ぶ大芦川には橋がなく、石裂権現(加蘇山神社)への参詣者や旅人、さらには例幣使・日光街道への助郷割当による人馬夫役で向かう際の渡河に難儀をしていた。板橋を架けても大雨による出水によってその都度流失をしてしまっていた。定橋架橋は村民の強い思いであり、願いでもあった。

030 安政5年(1858)に野尻村名主、石川多市は近在の村々から資金を募り、総費用800両で欄干を備えた大規模な定橋「野尻橋」を村人の夫役によって完成することができた。「野尻橋」は現在の日野橋下流300㍍付近に架けられたと云われている。

 しかし、翌年の安政6年(1859)7月の大雨洪水で「野尻橋」は流され崩壊してしまう。――多市を含めた村人は落胆、大きく失墜する。以後は簡単に取り外しのできる板橋が明治期まで架けられてあったと云われている。

  思川水系の上流から移出される材木は江戸市場で優良材として高い評価を得て、筏組みが大芦川流域の野尻村、酒野谷村と隣接する荒井川流域加園村で行なわれていた。竜ケ谷山(加園城)から石灰も産出されていた加園村と野尻村は東北自動車道栃木インターのある栃木市吹上町にあった吹上藩有馬兵庫頭1万石の領地であった。

015  「鹿沼市にある野尻村は吹上藩領だったのです。幕末の安政6年に、この野尻村で御禁制の芝居興行が行われ、100名以上の農民が関東取締出役に捕えられ、処罰されるという村騒動があったのですね。下野の村々を震撼させた安政野尻騒動と言われているのですよ」と、昨年の11月の栃木市文化講座「吹上」の中で野尻騒動のことを始めて聴いた。

  …野尻村の村騒動、どんな村騒動だったのだろうか?野尻村に行ってみようと思い立ち、昨年の12月21日の晴れた日に鹿沼市野尻を訪れた。

050_2  東武日光線新鹿沼駅西口から徒歩で真っ直ぐ西に向かって進んで40分。大芦川に架かる日野橋を渡り、少し進むと神木が伐採されている野尻稲荷神社がある。

  建久元年(1190)石川氏によって伊勢熊野の稲荷大明神から勧請され建立された野尻稲荷神社(栃木県神社誌より)。二対のきつね狛犬が奉納されている境内。

016  境内左側に野尻騒動の発端となった橋供養由来記が刻まれている石碑が安置されている。直径1.3㍍のまる型の石碑の冒頭には横文字で「日天月天」と刻字されている。

 戦後、野尻村に移住し、野尻騒動を入念に調べて昭和30年に「鹿沼郷安政野尻騒動記」を執筆、発行した腰山巌さん。その書には、「元々は日天月天石碑は『水神宮石碑』と一緒に大芦川沿いに建立されていた」ともう一つ「水天宮」の石碑があったことが記されている。そして「水天宮石碑は今宮神社神祇官の鈴木水雲が書き、日天月天石碑の由来記は興源寺眼龍の書であるとされている。(略)この供養塔は明治になって大洪水があり、石川憲一郎氏前の大芦川の淵にあったものが、ぽっくりと水に呑まれ、川底に横轉した。昭和9年に野尻在郷軍人会会員及び野尻青年至誠会員によって『日天月天石碑』のみ引き揚げられ、稲荷神社に奉納された」と安置された経緯が記されている。

001_2  同書には、「台座には寄附してくれた村々の名前が台石の鉢廻に記入されてあったが、後年村内諸所の清水や谷川の土橋に利用されて散失してしまった」として、2基の石碑と40か村の村名と村人の氏名が記載されている図が添付されてある。

  そして何よりもありがたったことは、由来記石碑の文面が記載されてあったことだ。記載文面は次の通りになっている。

當兩川從古来無橋而 大水之砌往来之諸人 難渡不少難澁依是輙 為渡度事敷年難思小 子等不及微力近郷進 曾頼處速為集加助力 末世迄之定橋令成就 畢就者至後年迄加修 理難無及大破事若變 心邪欲之輩出而於相 破者必蒙神罰事各々 慎而起請建之置者也

011_2 昔より大水に際には大芦川を渡ることができず、難渋してきたことが綴られ、定橋を架橋し、後の世まで維持していくことを誓う文面だと受けとめる。

  執筆した腰山巌著の「鹿沼郷安政野尻騒動記」は騒動の発端から村芝居興行、その手入れ、捕縛から江戸での裁きまでを物語調に記述されている。入念な調べで野尻村名主石川多市とその子息たちを中心に村人の思いを基調に書かれてある貴重な書籍だと思える。栃木図書館では貸出禁止本になっているため、図書館内で拝読した。以下、同書を「野尻騒動記」と記していきます。

031  日野橋を渡り、大芦川の右岸にある食堂民宿「栄川」の河原から大芦川の川の流れをみる。一昨年の9月の大雨の時、川の水嵩はどれほど川岸に迫ったのだろうかと思いが浮かんだ。

  安政6年(1859)の7月に流失してしまった「野尻橋」。翌8月に野尻村名主、多市は隣村の上酒野谷村名主、平右衛門と図り、壊れた水天宮塔の再建と由来記石碑を造り、地鎮祭を執り行うことにする。

 その地鎮祭とあわせて供養としての村芝居興行を8月21、22日に行うことを決めた。定橋「野尻橋」の流失によって意気消沈した村人の心に奮起を促すものとしての芝居興行の計画であった。村芝居は村人の心の糧になり、村を活き活きさせるものとして捉えた。今で言う、「文化が地域をつくる」という地域活性化しての芝居興行の計画であった。

Photo   しかし、江戸・京都・大坂の三大都市以外での歌舞伎興行は禁止され、村芝居、操り人形等の村においての興行はご法度、禁止になっていた。歌舞伎は奢侈、風俗の乱れ、身分制を破壊するものとして禁止されていた。

  幕府は文政10年(1827)にすでに設置していた関東取締出役の治安維持と警察活動の強化を図るため、関東の村々に寄場組合を結成させている。大惣代、小惣代と村々を組合せ、関東取締出役の指揮命令の一元化と取締りを強化させるためであった。そのうえで45条にのぼる触書を農村に通達を行なった。

Photo  その触書の主なものには、①幕府法度・五人組前書の厳守、②無宿者・長脇差・博奕・強訴・徒党の禁止、③農村内の歌舞伎・手踊り・操芝居・相撲などの禁止、④神事・祭礼・風祭・婚礼・仏事などの簡素化、⑤農村内における商業・職人手間代などの統制、⑥村費の減額奨励、改革組合村(寄場組合)の設定と囚人送りの費用負担(北島正元著「日本の歴史18」より)。という無宿者の強訴などから村を守るかのような触書であるが、実際は幕府による治安維持の強化と村々への支配統制になっている。それは農業生産品以外の生産物が商品として流通するようになってきたことによる強い村への警戒心であり、経済的な自立が増してきたことによる幕府の治政危機の表れでもあったと思える触書である。

004   現存する名主多市の家、石川さん宅は野尻稲荷神社の南前に位置し、大芦川へ続く旧道の右脇に建っている。多市は村人に潤いと楽しみ与え、元気を取り戻して前へ進めるには芝居興行を行うことだと考え、その準備を始める。

  近在の5か村(野尻・酒野谷・下日向・下加園・南摩)を中心にして、芝居小屋の木組み調達、役者の稽古と衣装の手配、舞台の引幕、大道具、小道具の借入等を進めていく。多市ら村役人たちは寄場組合村の大惣代、小惣代、名主等の村役人や関東取締出役道案内人に金銭や酒など音物(袖の下)を渡し、黙認のお願いをしていった。

  村芝居興行を知った壬生宿問屋幸吉は小山宿の関東取締役道案内人、鳥の屋政市へたれこむ。どうもこの辺は木材の河川通運をめぐって大芦川・荒井川流域の野尻・加園村と下流の小倉川(思川)壬生、小山流域の村との間で、常日頃から筏流しの通行をめぐって争いがあったという平野哲也著「栃木文書館研究紀要11」の指摘から考えると、村同士の火だねの争いが背景にあったのではないかと思われる。

010   間口42間(約76m)、奥行7間(約12m)という2つの大舞台を備えた芝居小屋が大芦川近くの河原「梅の木原」に建てられ、8月21日、22日に芝居興行がおこなわれたと「安政野尻騒動記」に書かれてある。「梅の木原」はどこにあったのか?地元の人に訊いてみたが、分からなかった。

  芝居興行への手入れについては、吹上藩役所内においても協議があった。黙認しようとする吹上藩役人に対して触書通り、取締りを主張する鳥の屋政市とに相違があったことが「野尻騒動記」に記されている。

  8月22日の夜半、鳥の屋政市は合戦場宿の道案内庄兵衛や番人13人の捕り方で芝居小屋に乗り込み、舞台で演じていた役者たちに縄をかける。関東取締出役の下知であると言えば、百姓たちはひれ伏すと思っての手入れであった。しかし、芝居公演の最中に村の役者たちが捕縛される姿を見て、多市は怒り、護るための応戦を呼びかける。13人対100人。十手に対して薪と棒。猪鹿銃を捕り方に向ける村人たち。負傷した捕り方達は飛散する。

006    翌日の8月23日に3人の息子と共に多市は吹上藩役人に連行される。その際に村人は銃を持って名主奪還をはかるため屯集し、銃を構える。しかし、覚悟を決めていた多市は村人たちの怒りを抑え、縄についた。後日、関東取締出役に引き渡される(野尻騒動記より)。

   8月24日に関東取締出役、廣瀬鐘平は鹿沼宿から寄場組合に300人の捕り方大動員をかける。宇都宮戸田家藩士50名を加えた捕り方は113人を捕縛し、連行する。村の人別帳を使っての捕縛になった。関東取締出役としては村民が銃を持ち出したこと。看過できないことして、危機感の現れでもある大量捕縛へとつながっていったと思われる。

  関宿、古河、間々田、小山、栃木、鹿沼宿と分散され、厳しい吟味が続けられた。鹿沼市史では捕縛された村と人数が次のように記載されている。「野尻村32人、下加園村32人、上酒野谷村20人、下酒野谷村7人、下日向村12人、上南摩村7人、下南摩村1人、その他の村2人」と計113人になっている。とりわけ村の人口が142人の野尻村から32人が捕縛されたことは成人男性ほとんどが捕縛されたことを意味する。

Img_7853_s1_21  野尻騒動の伝聞は衝撃となって各地域の村々に伝えられた。25キロ離れた例幣使街道沿いの栃木市嘉右衛門新田村名主、岡田嘉右衛門親之は騒動の2日後の8月24日の日記にこう記している。「22日夜鹿沼宿最寄野尻、加園村ニ地芝居有之、関東御取締廣瀬鐘平様御下知ニ而小山宿鳥の屋政市・合戦場宿虎屋庄兵衛頭立廿人程手入れいたし候、近村若もの迄申合居、悉く打躑被至、廣瀬様鹿沼宿へ出役被成り候由、右一件(吹上藩主)有馬兵庫頭様領分ニ而、十躰脇差等取上ケ候持参」と騒動の概要を的確に記している。それよりも岡田嘉右衛門の素早い情報の収集に驚かされる日記である。

 まさか100人以上が捕縛されるという騒動に驚いた村々の役人たち。寄場組合の大惣代・小惣代をはじめ、名主、寺院から大量の嘆願書が関東取締にだされた。10月に入り、江戸に送られた捕縛者90人に対しても嘆願書が勘定奉行にだされ、籠訴もあった。

Rouyashiki251  小伝馬牢屋敷に入牢された29人とそれ以外の者は御用宿預かりとなり、処罰を待つ。しかし、野尻村名主多市、息子の原三郎と音八、上酒野谷名主平右衛門ら9人は病死(牢死)、御用宿預者も8人、計17人が病死をする(野尻騒動記より)。厳しい吟味と過酷な環境が牢死を招いたといえる。

  石井良助著「江戸の刑罰」の中での小伝馬牢について、「当時、牢内の病気といえば、ほとんど牢疫病であった。数年人々をこめておくので、自然と人と臭気がこもり、この臭を鼻に入れるから、みな牢疫病になるのだと言われていることは、牢内の不衛生状態をよく示すものである」と記している。

  さらに牢死者数について、「当時収容者600人から700人のうち、文政年間(1818)の牢死者が月に10人から20人であった。幕末になると、安政5年(1858)には牢死者が年に1320人、万延元年(1860)年に1931人、文久2年(1862)年に1990人、慶応2年(1866)年に1353人と2000人近くの牢死者と増加する」と記してある。月に直すと平均150人前後の牢死者がでたことになる。その原因として食糧事情の悪さと衛生状態であると石井氏は指摘をしている。しかし、私にはそれ以外に、幕府の治政の崩壊の兆しが含まれているように思えてくる。

035_2  日野橋を渡り、野尻稲荷神社の100m手前の左側の道(旧道)に入り、突き当りを左折し直進すると大芦川沿いにある食堂民宿「栄川」にぶつかる。その手前の浄水場の横に「野尻騒動供養塔」が建立されている。昭和59年9月に「明るい社会づくり野尻地区」によって建てられたものである。「南無妙法蓮華経野尻騒動受難者諸精霊之供養塔」と刻まれた石塔。その由来は記されていない。

  鹿沼市史では安政7年3月「裁許請書」をもとに処罰一覧を次のように記している。「死罪1人(病死)、遠島4人(3人病死)、重・中追放30人(7人病死)、江戸十里四方追放2人、江戸払1人、所払1人、押込1人、手鎖15人、急度御叱9人、御叱1人、過料銭5貫文55人(1人病死)、過料銭3貫文3人(1人病死)、お構いなし19人」お構いなし19人を除いた人数は123人、内病死者数は13人と野尻騒動記と人数の違いはあるが、120人以上が処罰された大騒動であった。さらには関係した村には囚人の収容食事、護送、道案内人への草鞋代など触書通りに厳しい支払の督促があるなど村々を苦しめる措置がとられた。

028 小伝馬町牢屋に入牢したのが10月。翌年の3月に厳しい裁断が下った。同年安政6年の10月に吉田松陰が小伝馬町牢屋敷で斬首され、翌年の3月には「桜田門の変」で伊井直弼が水戸浪士によって斬殺される。野尻騒動は安政の大獄と時期を同じくして、連動した動きになっている。下野の村における幕末動乱の発火点になっているのではないだろうか?

  幕府は捕り方、役人に対して百姓たちが銃を構えて向かおうとしたことに強い危機感を持った。それが120人におよぶ捕縛と処罰になって異常な反応を示した。

  意気消沈した村を活性化するための芝居興行。それを壊す者に対して村人は銃を構え戦った。村を守るために銃を持った百姓。幕府が創設した歩兵(農兵)とは違う強い信念をもった百姓たちの像が浮かんでくる。その姿に脱帽する。

065   帰路は野尻から大芦川の向い側にある「鹿沼市高齢者福祉センター」の大風呂に入浴する。温泉と表示されている広い浴槽。「筋肉痛」と記載されている効能の中に「軽い喘息と肺気腫」という文字を見つける。この病に効く温泉を探していた私には朗報である。

 入浴後に大芦川の土手堤を歩く。「野尻橋」が架けられたのはこの辺と思われるが、跡は何も残っていない。「…この付近に橋を架けたのかな」と思い浮かべ、長い深呼吸をした。

  鹿沼市史には、「芝居興行に手入れを行なった小山宿の道案内人の鳥の屋政市は、5年後の慶応元年(1865)5月に長脇差をもった5人の者に自宅に押し入れられ殺害される。殺害状況から、関東取締出役の手先となっての活動が恨みになったもの」とさりげなく記している。執筆者の気持ちが表れている結末文だと思えた。

                                         《夢野銀次》

≪参考、引用本等≫

腰山巌著「鹿沼郷、安政野尻騒動記」(昭和30年7月発行)/「鹿沼市史通史編近世154頁」(平成18年8月発行)/平野哲也著「江戸時代後期における地域資源の活用と生業連関―下野国都賀郡大芦川・荒井川流域を事例に」(栃木県立文書館研究紀要11号、平成11年3月発行)/北島正元著「日本の歴史18、幕藩制の苦悶」(昭和42年11月、中央公論社発行)/石井良助著「読みなおす日本史、江戸の刑罰」(平成25年3月、吉川弘文館発行)/田中正弘編「幕末維新期の胎動と展開、岡田嘉右衛門親之日記第1巻」(平成24年3月、栃木市発行)

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水郷に流れる潮来節~船頭小唄・娘船頭さん・おんな船頭唄

033_4  「おめでとうー」と両岸からの見物人のかけ声と拍手が湧きあがる。拍手は嫁入り舟を見ることができたうれしさの表れなのだ

   5月28日から始まっている「水郷潮来あやめまつり」。市の係員に先導された白無垢姿の花嫁一行は前川あやめ園内を四歩進み停まりながら乗船河岸にて手漕ぎ舟に乗る。

  花嫁と付添(仲人)を乗せた手漕ぎの嫁入り舟はギッチラ、ギッチラと潮来市内を流れる前川を下る。常陸利根川に合流する水門手前の河岸にはお婿さんが嫁入り舟を出迎える。「何年振りだろう、野外で花嫁さんを見るのは…」。結婚式と披露宴はホテルで行ない、昔のように花嫁姿でご近所へ挨拶する光景を見ることはない。 

017_3  6月14日にシルバー大学栃木南校33期生「健康ウォーククラブ」の「潮来あやめまつり見学ツアー」に参加した。栃木市からは潮来市は遠い。それでも一度は行ってみたい町であった。水郷の町、歌の町としていつも私の頭の中にあったからだ。

  嫁入り舟に乗る花嫁を潮来市は毎年、全国に募集を行なっている。条件は一年以内に結婚もしくは結婚したカップルになっている。着付け代は自己負担だが花嫁衣裳は無料で貸与される。毎年全国から80組くらいの応募があり、抽選になるほどの人気イベントとして定着をしている。 

  「潮来は周囲を水に囲まれ、水路が縦横にはりめぐされていたため、サッパ舟(櫓を使う手漕ぎ舟)によって隣近所などの日常の生活が水路で繋がれていた」と潮来市ホームページに水郷の町であったことが紹介されている。そして「嫁入りする際の花嫁や嫁入り道具等を運搬する時にもサッパ舟が使われており、これが『嫁入り舟』の始まり」と記載されている。 

029  「♪潮来花嫁さんは 潮来花嫁さんは舟でいく~」と花村菊枝が歌う「潮来花嫁さん」が昭和35年に大ヒットとなり、「嫁入り舟」は全国に知られるようになる。 

  生活を結ぶ水路とともに姿の消えた嫁入り舟は昭和60年の「つくば国際科学技術博覧会」の際にイベントとして復活する。そのことがきっかけで、現在のあやめまつりの中で嫁入り舟が行なわれるようになり、潮来を代表する「あやめまつり・嫁入り舟」観光行事になっている。 

  実際の花嫁とお婿さんが参加する嫁入り舟。潮来市と市民の手によって、嫁入り舟が毎年、継続して続けられてきている。疑似体験でない本物の花嫁が舟に乗るところに長く続けられてきている要因になっているのだと思えた。 

  「潮来花嫁さん」と同じ年の昭和35年には、橋幸夫が歌った「潮来笠」も大ヒットする。2曲のメロディから水郷潮来の明るさが高度成長時代へ突入していく時代を表している。しかし、一方では、「…おれは河原の枯れすすき~」と、潮来水郷のもの哀しさ、寂しく暗い世界へと誘う歌もある。あやめの花、嫁入り舟の華やかな光景を見た後にきた、この暗さと明るさのギャップは何なのだろうか?水郷潮来を詠った歌の中から「潮来の情感」を辿ってみた。 

047 ~己は河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき 

~枯れた真菰(まこも)に照らしてる 潮来出島のお月さん わたしゃこれから利根川の 船の船頭で暮らすのよ 

『船頭小唄』大正10年(1921) 作詞:野口雨情、作曲:中山晋平。 

 潮来市観光案内ボラティアの方から、源頼朝が創建した「長勝寺」と裏の稲荷山公園にある「野口雨情記念詩碑」を案内していただいた。 

  大きな石碑のそばには『雄大な利根川の流れに詩情をたぎらせ、潮来出島の風向をひろく天下に紹介した』として、昭和40年(1965)5月に潮来町野口雨情顕彰会によって詩碑が建てられている。「船頭小唄」の歌詞が刻字されている詩碑のある稲荷山から、潮来の町と常陸利根川、利根川を見渡すことができる。 

Yjimage4tsigjzo_2  長田暁二著「日本の愛唱歌」の中で、『船頭小唄』の生まれる逸話が記載されている。 

  「大正8年に作詞した原題『枯れ芒』を野口雨情は面識のなかった中山晋平に作曲を始めて依頼した。しかし、中山晋平は預かった詩稿があまりにも内容が暗く曲想がまとまらず、一年が過ぎた。たまりかねた雨情は強硬に督促をした。晋平は作曲がはかどらない理由を言ったところ、雨情は茨城県民謡の『潮来がえし』らしいメロディを低く口ずさんでみせた。それがなんとも素朴で、魂の叫びのような響きがあったので、(よし、これでいってみよう)ということになる。雨情のうたった『雨情節』を基調に、晋平の発想を加え、この曲ができた」と記してある。 

  そのため、「大正10年3月の出版楽譜(再版から『船頭小唄』に改題)の作曲は中山晋平と晋平の別名、萱間三平の連名になっている。この曲は完全なる自分の創作ではなく、『雨情節』が混入しているという衒(てら)いがあったのでしょう」と野口雨情が口じさんだ「茨城県民謡潮来節」らしいメロディが「船頭小唄」に入っていることを指摘している。 

…雨情が口ずさんだ「潮来がえし、潮来節」とは、どんな曲だったのだろうか。 

 ネットで検索していくと、潮来節の中の「潮来音頭」に(返し)が記載されていた。 

~潮来出島の真菰の中に あやめ咲くとはしおらしや ションガイナー 

 (返し)しおらしや あやめさくとはしおらしや ションガイナー 

~此処は前川十二の橋よ 行こか戻ろうか思案橋 ションガイナー  

 (返し)思案橋 行こか戻ろか思案橋 ションガイナー 

(『潮来音頭』より)

050_2  「潮来節の原型の『潮来出島の真菰の中に あやめ咲くとはしおらしや』のあやめ咲くとは遊女のことである。潮来節は、河岸の船乗・水主(かこ)や小場人足などが、非常に貧しい過酷な生活から生まれた労働歌の一つであったという」と川名登氏は著書「河岸」で記述している。 

  「この労働歌(潮来節)が潮来遊廓の御座敷歌となり、それが船頭・水主や遊女たちの口から『木下茶船(きおろしぶね)』などに乗って三社参詣や銚子磯めぐりなどにやってくる遊客に覚えられて、利根川を遡って江戸に伝えられ、江戸から全国各地に広がって有名になった」と潮来節が遊廓、参詣と舟運を通して全国に広がっていったことの指摘をしている。 

  木下茶船とは利根川下流、香取・鹿島・息栖(いきす)の三社めぐり等をおこなう貸切遊覧船のことを言い、江戸時代の文化文政時代(1804~1830年)に多くの旅人で賑わったとされている(ウエブ「世界百科事典」より)。 

  潮来節は佐渡おけさ、徳島阿波おどり、長唄藤娘など全国に広まり、派生していった。野口雨情が口ずさんだ潮来節が船頭小唄の中のどこにあるのか?音楽に疎い私には分からない。調べて行こうと思う…。 

  「潮来出島」は、デルタ地帯として、この前川あやめ園あたりを指していますね。網の目のように水路がありました。今は埋め立てられて、昔の面影は残っていません。潮来遊廓はあやめ園の向こう岸、前川の右岸下流にありました」と嫌がらずに観光ボランティアの方が教えてくれた。 

Yjimage5_2  過大な借金、離婚、水戸での「地で這うような生活」の中から野口雨情は「枯れ芒」を作詞した。バイオリンの奏でる哀切さを感じる「船頭小唄」は演歌師によって歌われ、関東大震災を経て全国に広がる。それはやがて戦後の昭和32年の映画「雨情物語」で主人公、森繁久彌が歌った「船頭小唄」で今日まで受け継がれてきている。 

  実生活や民俗、郷土等の身近な生活を見据えたところの表現、考え方を表すと言われている大正デモクラシー。その思想を背景として「船頭小唄」が生まれてきたと思えてくる。 

Saijo_yaso_and_nakayama_shimpei1 大正12年9月1日の関東大震災。東京下町が燃え広がる夜、上野の山には多くの避難した人がいた。どこからともなくハーモニカのメロディーが流れてきた。少年が奏でるハーモニカ。うるさいという声があがることなく、じっと聴き入り、落着きと自分を取り戻していった避難者たちを西條八十は見ていた。月島の兄の安否を訪ねていった仏文学者、西條八十も上野の山で避難者と一緒にハーモニカを聴いていたのだ。俗謡(歌謡曲)の中に人々の安らぎ、生きる心の糧が生まれることを、西條八十は見出した。この日をきっかけに歌謡曲の作詞を始める(西條八十著「唄の自叙伝」より)。 

  「♪父も夢みた母も見た 旅路のはてのその涯の 青い山脈みどり旅へ~」(「青い山脈」昭和24年)。明治生まれの人によって引き起こされたアジア太平洋戦争で大正生まれの父や母が戦場や空襲で亡くなった。昭和生まれの若者は大正生まれの父や母が夢見た民主主義(大正デモクラシー)の世界を目指して進む。――と西條八十作詞の「青い山脈」の歌声は呼び掛ける。 

  西條八十は終戦の昭和20年の8月に早稲田大学教授を辞職する。「サーカスの唄」(昭和8年)、「旅の夜風」(昭和14年)、「誰か故郷を想わざる」(昭和15年)と歌謡曲でヒットを飛ばす。そうした西條八十に対する教授たちの、歌謡曲に対する侮蔑などの軋轢があったのではないかと推測する。 

201106051602461 ~娘十八口紅させど 私しゃ淋しい船頭娘 つばめ来るのに便りなくて 見るはあやめの ヨウ花ばかり 

 ~鐘が鳴ります潮来の空で 月に墨絵の十二の橋を こいで戻れど別れた人と 水の流れは ヨウ返りゃせぬ 

 『娘船頭さん』(昭和30年、歌:美空ひばり、作詞:西條八十、作曲:古賀政男) 

 水郷潮来の情景を娘船頭を通して歌っている「娘船頭さん」。美空ひばりの歌を始めて作曲した古賀政男のメロディに乗せてゆっくりと船が進んで行く光景が浮かぶ。西條八十が美空ひばりの歌を作詞したのは、昭和25年「越後獅子の唄」、26年「角兵獅子の唄」、30年「娘船頭さん」、40年「芸道一代」の4曲と意外と少ない。 

  筒井清忠著「西條八十」の中で、「西條八十の家の前には、戦前、正月になると越後獅子が来ていた。その子どもたちが芸をしながらいつも怖い目つきの親方を怖れていたことを思いだして『越後獅子の唄』を作詞した」ことが書かれてある。「13歳の天才少女への世間の眼は冷たく、新聞では『ゲテモノ』と叩かれていた美空ひばり。この曲は社会的に冷たい目で見られて、大人の歌手の歌手の間で肩身の狭い思いしていたひばり自身のことなのだ」と「越後獅子の唄」が出来上がった逸話が紹介されている。 

066_2 「娘船頭さん」では、18歳の美空ひばりを「私しゃ淋しい船頭娘」と西條八十は越後獅子同様にひばり自身をイメージして描いている。 

  映画「娘船頭さん」(監督萩原徳三)でも前年の映画『伊豆の踊り子』(監督野村芳太郎)の旅芸人役を意識して、旅芸人と船頭が相通じる世界を描いている。街道暮しの旅芸人と潮来水郷の渡し船の娘船頭。艪を漕ぎながら歌うひばりの「娘船頭さん」は哀切あふれる情感のこもった歌声で水郷潮来を描いている映画になっている。 

  ちなみに「芸道一代」では「♪小粒ながらもひばりの鳥は 泣いて元気で青空のぼる 麦の畑の小さな巣には わたしみている母がある 母がある~」と身長153㎝の小粒な美空ひばりと母の姿、芸に生きる母娘を描いている。西條八十は、ひばりそのものを対象として作詞することに視点を置いていたと思えてくる。 

  北原白秋・野口雨情と共に西條八十は大正期の三大詩人と呼ばれていた。水郷潮来を情景にした「娘船頭さん」を作詞する際に、西條八十は野口雨情の「船頭小唄」を意識したのであろうか?私は強い意識はなく、美空ひばりという一代稀有な天才歌手に潜む情感を潮来水郷、渡し船を漕ぐ美空ひばりをイメージして作詞をしたと思えてくる。 

  映画「娘船頭さん」の中で映し出される潮来の情景、ロケーションは貴重な水郷の歴史的資料なっている。映画の中で、わかさぎ漁、帆引き船で歌う美空ひばりの歌声のシーンは圧巻である。「♪アーア潮来出島のまこもの中で あやめ咲くとはしほらしや~」と低音から高音への伸びる「潮来節」のひばりの歌声は、ただ唸るばかりだ…。 

Yjimageu5chj9h2 ~嬉しがらせて 泣かせて消えた にくいあの夜の旅の風 思い出すさえ ざんざら真菰 鳴るなうつろな この胸に 

 ~利根で生まれて 十三七つ 月よわたしも同じ年 かわいそうなは みなしごどうし 今日もお前と つなぐ舟 

『おんな船頭唄』(昭和30年、歌:三橋美智也、作詞:藤間哲郎、作曲:山口敏郎) 

  潮来節の詞と密接に繋がっている歌だと思えてくる。民謡で鍛えたハリのある高音が哀愁を呼び起こす「おんな船頭唄」。少年の頃から民謡界の天才と言われた三橋美智也は昭和30年、この曲の大ヒットで歌謡界を代表する歌手になる。 

01_3 私はずーと以前から、「にくいあの夜の旅の風」という意味が理解できなかった。しかし、川名登著の「河岸」に「船女房」という記述で分かってきた。 

 それは、「遠方から来た船が河岸に着くと、小舟にのって漕ぎ寄せ、船に上がって船の中の掃除や洗濯、綻びの繕いなどまでして、一夜を共に過ごす。翌朝は朝食を作り、船中をきれいに掃除してから船を下り、名残りを惜しんで別れていく。これは単なる売春ではなく、半分は男にはできない家事を頼んでいる」という河岸には『船女房』という稼業があったことを知った。「おんな船頭唄」の世界はここに出てくる一夜限りの船女房の世界だなと思えてきたのだ。 ざんざら(ざわざわした)真菰が茂る船の中で、ひっそりと抱かれる女船頭の姿があやめの花に被さっていく情景が浮かんでくる。

  江戸初期の潮来は奥州諸藩の物産を江戸に向かう千石船が銚子河口から利根川に入り、潮来で高瀬船に積替える中継港(河岸)として賑わい大いに繁栄していた。しかし、元文年間(1736~1740)の大洪水で利根川の本流が佐原に移ると中継港としての機能を失った(潮来市ホームページ)。 

140041  昭和15年頃発行の水郷汽船会社の利根川流域・霞が浦周辺を中心にした汽船航路周辺の観光名所となっている鳥瞰図をみる。 

 地図の真中の下に佐原と香取神宮がある。一番上の真中には鹿島神宮と記されている。右端の少し上のところに息栖(いきす)神社と記されてある。潮来は地図の真中の十二橋と記されたデルタ地帯に位置する。潮来の町を通る前川が鹿島神宮に続いている。潮来は香取神宮・鹿島神宮・息栖神社に「木下茶船(きおろしちゃぶね)」などでお参りする際の遊び場、遊廓としてにぎわいをみせたといわれている。三社の真中に位置する潮来が中継港としての繁栄を失った江戸時代の後期、遊廓、遊興の地になっていったのも頷ける。そうしたことから、「潮来節」にはかつての繁栄した河岸としての辛苦が含まれていると思えてきた。 

021  初めて潮来市を訪れ、「潮来あやめまつり・嫁入り舟」などの華やか行事を見ながら、「船頭小唄」のような「暗さ」「寂しさ」とのギャップはどこからきているのか?という疑問から、書き綴ってみた。 

  かつての繁栄から衰退をみせた河岸は遊興の地として名を馳せた。「潮来節」の曲や歌詞の底辺に流れている水郷に生きる船頭や遊女の辛苦の表れが「船頭小唄」「娘船頭さん」「おんな船頭唄」に含まれている。そして「潮来花嫁さん」「潮来笠」の「華やかさ」と表裏を成している。これらの歌謡曲の原型は「潮来節」にあることが少し分かってきたような気がしてきた。 

  水郷としての昔日の面影が残っていなくても、「潮来出島の真菰の中にあやめ咲く~」という潮来節の詞は残り、潮来を歌う歌に生き続けていくと思える。 

  潮来節を元にした「潮来節―歌謡歌まつり」などを開き、潮来節と現代の歌とを探求する場を設ける。…と、勝手に無責任な夢想を始めた。今度、潮来に行った時には、前川の手漕ぎ舟に乗ってみよう。 

                                  《夢野銀次》 

≪参考引用資料≫ 

潮来市ホームページ観光課/長田暁二著「日本の愛唱歌」(2006年6月、ヤマハミュージックメデア発行)/筒井清忠著「西條八十」(2005年3月、中央公論社)/中野英男・大嶽浩良著「若き日の野口雨情」(2016年3月、下野新聞社)/大下英治著「美空ひばり」(平成元年7月、新潮社)/西條八十著「唄の自叙伝」(1997年6月、日本図書センター)/川名登著「河岸」(2007年8月、法政大学出版部)/DVD「娘船頭さん」(昭和30年4月公開映画、萩原徳三監督、美空ひばり主演)

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皇居一般参観と映画「日本のいちばん長い日」

010_2  かつては「江戸城」「宮城」と言われていた「皇居」。正月2日の日に行なわれる一般参賀と12月23日の天皇誕生日に皇居に入ることができる。それ以外は「一般参観」として皇居内に入り、見学することができる。宮内庁に予約申し込みを行ない、係員によるガイド説明を受けての皇居内見学である。

  「インターネットを操作する関係で外国人の参観者が多い。日本人は旅行会社にまかせてしまうから少ないんだ。旅行会社のあっせんでは一般参観の申し込みはできないんだョ」と幹事が語ってくれた。

 平成28年の新年1月14日に「一般参観」として皇居内を見物することができた。風のない穏やかな快晴の中、栃木県シルバー大学南校33期生で作る「健康ウォーククラブ」で企画した「皇居一般参観ツアー」に参加した。

014  午後1時に桔梗門(内桜田門)前で受付を行ない、係員の先導で桔梗門から皇居内に入る。一般参観の予約申し込みは1か月前の1日から行われる。申請には参観者全員の氏名、住所、年齢を記入し、代表者の身分証明を添えて宮内庁に行なう。

  「参観当日、身分証明を求められる場合があるから、用意しておくこと」と幹事から説明があったが、桔梗門受付ではそれはなかった。

 桔梗門の先の「窓明館(そうめいかん)」に案内され、参観者全員にビデオ説明がある。「帰路には隣にある売店が閉まっていますので、お土産は出発前に購入しておいてください」との係員の説明。菊の御紋入りのチョコレートを買った。味はともかく「菊の御紋入り」にこだわっての購入でもある。

016  午後の部の見学者80名の一行はガイドの係員によって窓明館前から歩き始める。参加者の中での高齢者は日本人。若い人たちは話す言葉で東南アジア系の外国人とすぐに分かる。

  桔梗門脇の石垣。石垣には、石を提供した大名の刻印が彫られてある。多くは伊豆半島の安岩石。船で運ばれてきている。ハンドマイクを片手に、係員が石垣の右上を指差し、「〇に十の入った薩摩島津家の御紋です」との説明がある。

  前から見たいと思っていた紋の刻まれた石垣。本当に残っていたのだ。個人で来たらどこにあるのか、見つけるのに苦労する。慶長年間に家康、秀忠による天下普請としての江戸城拡張工事。武力を背景としながら太平の世を築き始めた史跡がここに残っていると実感できる。

024_2  「石垣の高さ14.5メートル、櫓の高さが15.5メートル。石垣は加藤清正が造ったと云われています。関東大震災でも崩れませんでした」との係員からの説明がある。

  「富士見櫓」を仰ぎ見る。こんな近くでみることができた。その迫力に圧倒される。予想外のうれしさに涙がこみ上げてきた。 ――雄大な姿だ。江戸時代そのままの姿を残している。

   江戸城本丸の東南隅に現存する「富士見櫓」は万治2年(1659)に再建されたもの。江戸城の天守閣が明暦3年(1657)の大火(振袖火事)で焼失した後は復興されなかった。そのため富士見櫓が天守閣に代用されたとの係員の説明がある。これ以後、幕府に遠慮した諸大名は3層の櫓までしたか構築しなかったと云われている。

072  どっしりとした石垣。「野づら積み」の石垣は自然石をそのまま積んでいて粗い。その粗さが水はけを良くし、強固な石垣を築いていることになっている。

  石垣の右先端の方に目をやると、本丸に行ける階段通路が見える。柵が設置されているが、石段通路で上れるようになっている。曲がりくねっている石の階段の通路。ここにも昔のまま城址として残っている。

  江戸時代、西の丸と言われた「宮殿」に進む。天皇陛下はこの宮殿にお住まいにはなっていない。皇居奥の吹上御所に住んでいる。一般参観では入れない宮殿を外観から見ることができた。国賓等の接伴や文化勲章授与などの国の公式行事に使われている。

 ――ここが「宮殿」なのかと思わず感嘆した。

034_4  昭和43年に完成した宮殿には正殿、豊明殿など7棟ある。その中で一番長い建物が「長和殿」。長和殿前の東庭を歩きながら係員の説明がつづく。

 「長さ160メートルあります長和殿。中の廊下の長さが100メートルあります。この場所で新年1月2日と天皇誕生日の12月23日の年2回、天皇皇后両陛下と皇族方が長和殿中央のバルコニーにお出ましになり、国民からのお祝を直接お受けになります」との説明がある。

  私たちの歩いている「東庭」の広さは4500坪。一般参賀などでは2万人が一度に参賀できると言う。一度来てみたいと思う。

056_3 バルコニーの高さは3メートルだが、目線の高さで見ることができる。思ったより低い。「バルコニーの前には紅い花の咲く寒椿と白く咲く山茶花の植え込み垣根がございます」と紅白を彩っていることの説明がつづく。

  東庭に入る所に「豊明殿松の塔」が建っている。「松の塔と言われています。葉と葉の間から光が灯すように造られています。先端にある輪は、ふしろという古代婦人の腕輪を形とった照明塔です。夜に明かりがともり、とても綺麗です。皆さまにはご覧いただけないのが残念です」と言われた。

 残念。…しょうがないですネ。夜間には一般人は入ることができないからな。

040_2  「これから正門鉄橋を渡ります。くれぐれも橋の欄干に近づかないでください。カメラ等落としてしまう危険があります」との注意がある。

  「左の下に見えるのが、正門めがね橋と呼ばれていますが、正式名称は正門石橋と申します。橋の右にあるのが皇居正門です」と丁寧な案内で「正門石橋」を見下ろす。崖下は深く、お濠の水が静かに漂っている。…確かに高い所に橋が架かっている。思わず橋の欄干に近づきたくなる二重橋だ。

  「皆さまがお立ちになっている橋が、正門鉄橋と申します。江戸時代には二重橋と呼んでいた橋でございます。高い位置に架かる橋のため、橋の下にもう一本の橋を架けて、橋を上下に組んでいたため二重橋と呼んでいたのです」との説明がある。しかし、どうもテレビ等で皇居が映し出されるのが、「めがね橋」を通して奥の二重橋と伏見櫓。二重橋は下の「めがね橋」と上の「正門鉄橋」の二つの橋を称して二重橋と言う場合もあるという。その方がしっくりと分かりやすいと思える。

043   正門鉄橋の反対側には「伏見櫓・多門」が優雅な姿を現していた。寛永5年(1628)に京都伏見城から移築したものだと云う。

 櫓の高さ13.4メートル。別名「月見櫓」と呼ばれ、皇居で最も美しい櫓といわれている。関東大震災でも崩れなかった石垣。関ヶ原の戦いの前哨戦として伏見城は落城した。伏見櫓をここに移築したのは、関ヶ原を忘れまいとする徳川家の強い意志の表れではなかったかと思えた。

 「正門鉄橋」から先の吹上御所には行くことはできない。ユータウンして戻ることになる。

060   帰路は宮殿長和殿を左に見ながら左折し、豊明殿と宮内庁建物の間を通り、右折して山下通りの坂を下る。宮内庁の裏側の庭には古いリアカーが置かれてあった。

 山下通りの坂道を下りながら、10名位の奉仕団の人たちが庭の掃除をしていた。若い男女のグループだ。仕事なのかの思ったら、同行者が「青森県と書かれた名札をしていたわ、皇居の奉仕団の方達よ」と教えてくれた。皇居の奉仕団は3日間の行程で全国から来る。終了後には皇族の方からねぎらいの御言葉を受けるそうだ。

  坂の下には、坂下門から乾門に通じる道が見えた。その向うにあるのが江戸城旧本丸跡地の「東御苑」だ。高い石垣が印象深い。

068  正面に坂下門が見える位置に宮内庁の建物が建っている。宮内庁の建物を右に見ながら進むと、3台のサイドカーがゆっくりと走ってきた。

  ――迫力ある走りだ。

   サイドカーと馬に乗って、「ポツダム宣言受託反対、国体護持」を掲げたビラをまきながら皇居前を走る映画のシーンが思い浮かんできた。

Psychopsycho1960img600x425139712312   黒沢年男が青年将校葉畑中少佐を演じていた。ギラギラした思いつめた眼光と汗が印象に残っている。岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」が昭和42年(1967)にモノクロ作品として公開された映画だ。

   そして昨年8月に、戦後70年の節目として松竹映画原田眞人監督による「日本のいちばん長い日」が公開されている.

062_2  2本の映画はいずれも半藤一利著のノンフイクション「日本のいちばん長い日」を原作としている。

 昭和20年(1945)8月14 日の深夜。昭和天皇による終戦詔書の玉音を録音した宮内庁(旧宮内省)の建物を見る。そこには映画「日本いちばん長い日」を思い浮かべてしまう昭和の歴史がある。

  ポツダム宣言受託による日本軍の無条件降伏。映画は8月15日の玉音放送に至るまでの御前会議と昭和天皇の御聖断。そして敗戦を今だ経験していない陸軍軍務局青年将校によるクーデター。本土決戦の中から有利な和平を導こうとして、御聖断の再考を要求し、宮城を占拠する宮城事件。「玉音録音盤」の奪還、放送局侵入による「玉音放送」の阻止を図っていった事件など皇居内を舞台に描いている。

2015052016471889e1  岡本喜八監督作品では宮内省に保管された「玉音録音盤」を探す近衛兵の姿など活劇的な作品だったと印象に残っている。昨年公開の原田眞人監督作品では、ポツダム宣言受託に至るまでの陸軍内の軋轢、終戦内閣の閣議と昭和天皇の御聖断を中心に描いている。

  昭和20年7月26日の米英中が発したポツダム宣言では日本政府は国体(天皇を中心とした政体)を守ることはできないと判断し、ポツダム宣言を無視する。しかし、東京から地方都市に広がる空爆の激化。広島、長崎への原爆の投下。そしてソ連軍の参戦。8月13日の御前会議から14日の御聖断にてポツダム宣言受託を決め、15日の玉音放送になる。

  映画は戦争終結を決意していた鈴木貫太郎首相(山崎努)、天皇の気持ちを分かっていた阿南惟幾陸軍大臣(役所広司)、戦争終結を決断し、国体は護持されると確信していた昭和天皇(本木雅弘)の3人の思いを描きながら、ポツダム宣言受託から玉音放送まで陸軍内の動きと連動して描いている。

Main_b_large1  「阿南さんは辞めませんよ」と鈴木首相のセリフがある。この時代、陸軍大臣が辞職した時点で内閣総辞職となり、戦争終結は遠くなることになる。戦争を止めようとする天皇の想い受け止める阿南陸相。しかし、終戦詔書への字句「戦局好転せず」への修正を迫り、陸軍への想いと部下たちの戦争継続を願う気持ちをも理解する。そして苦悩しながらも切腹していく阿南陸軍大臣を役所広司がよく演じている。

  御聖断の再考を促す東条英樹元首相に対して昭和天皇は、「ナポレオンの前半生は本当によくフランスに尽くしたが、後半生は自己の名誉のためにのみ動き。その結果はフランスのためにも世界のためにもならなかった。わたしは歴史をそのように見ている。日本はその轍を踏みたくない。違うか?」。東条は黙礼して下がる。なによりも苦しむ国民のことを考えて判断した姿を描いている。

  この映画を観て、憲法第9条の戦争と武力の放棄は昭和天皇の発意であったのかもしれないと思えてきた。

066_3  御前会議における御聖断がなかったら、ソ連軍が北海道に上陸し、ドイツのように日本は東西に分断されていたことになっていた。日本の共産主義化を恐れたのは時の政府や財界であり、終戦、和平への道は急務を要していたこともある。しかし、何よりも指導者は戦争で苦しむ国民がいたことを忘れてはいけないことを描いた映画だと思う。

 御前会議の開かれた吹上御所にある地下防空壕。その映像が昨年の7月に宮内庁から公開されている。内部のコンクリートはひび割れ、雨水や土砂が流れ込んでいる。戦争を終結し平和への道を歩み出した史跡として残してほしいと願う。

 宮内庁から左にある「蓮池濠」を見ながら富士見櫓の脇を通り桔梗門まで歩き、皇居参観は終了した。案内をした係員は優しい言葉での説明だったのが良かった。何よりも現在につながっている史跡を観たと実感できたのがうれしかった。

009  今回の皇居見学で、ここは徳川時代から明治、昭和、現代に至るまで、国会と異なる日本の政治の大きな舞台であったことだとしみじみ思えた。 

   テレビドラマ「天皇の料理番」の中で、進駐軍将校に主人公秋山篤蔵の師匠である宇佐美(小林薫)は、「天皇は味噌のように、なじみ深いものだ。もし、毎日口にしている味噌が無くなったら、とても寂しく、暴動さえお起きる。この私もそれに参加するでしょう」と答えるシーンがあった。天皇の存在を言いあてているセリフだと思えた。

  ずっと以前に熊本からの帰路の飛行機で皇太子殿下一行と乗り合わせることになった。「このまま飛行機が墜落したら、皇太子殿下と共に亡くなるのかな…」と不思議な何とも言えない感無量の気持ちになった経験がある。天皇とは文化なのか…。いつまでも平和を願う天皇陛下であって欲しいと願う。   

                                         《夢野銀次》

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演劇の持つ楽しさと怖さ―映画「幕が上がる」

812ptn4vnrl_sl1500_1  「地区大会なら勝てる。地区大会、県大会、ブロック大会までいったとする。ただ、そうなると君たちは1月まで拘束される。この先、本気で勝ちにいくなら、楽しいだけじゃ済まされない。君たちにそれ相応の覚悟を求めることになります。結果…、人生を狂わせることになるかもしれない。――私は行きたいです、君たちと全国に、行こうよ全国に」と吉岡美佐子教師は演劇部3年生3人に迫る。

  富士ケ丘高校、新任の美術教師の吉岡美佐子(黒木華)の指導を受けて、地区大会止まりだった弱小演劇部が県大会、全国大会(全国高等学校演劇大会)出場を目指し、全力で高校演劇を打ち込んでいく姿を描いた作品、2015年2月公開の「幕が上がる」をDVDを借りて観る。

  監督は「踊る大捜査線」シリーズを手がけた本広克行。脚本は「桐島、部活やめるってよ」の喜安浩平。原作の「幕が上がる」は劇作家である平田オリザが、自らもワークショップなどで関わりを持ち続けてきた高校演劇をテーマに2012年に書き下ろした青春小説作品。

Image5_2 主演はももいろクローバーZの百田夏菜子・玉井詩織・佐々木彩夏・有安杏果・高城れいの5人にベルリン国際映画祭で最優秀女優賞を受賞した黒木華。出演者や演劇に興味がない人であっても楽しめる作品に仕上がっていると、映画関係者・評論家は評価している(ウィキペディアより)。確かにその通りだ。観終って、この映画はすごくおもしろい。

 主演のももいろクローバーのことはまったく知らなかった。ネットで検索すると、略してももクロと言い、数人の客しか集まらなかった路上ライブから始まり、女性グループ初となる国立競技場ライブ公演まで行なうになっている人気アイドルグループと紹介されている。紅白にも出場していることを知る。最近は紅白を見ていないので歌の世界と縁遠くなっている。本広監督は「今、もっとも輝いている少女たちを演じてもらいたいとの想いがあった」とバックストップ100でコメンとを載せている。彼女らが舞台で演じる前へ進む姿は躍動感となって伝わってくる。決してこの映画はアイドル映画ではない。

Yjimage2  「公演、肖像画を演ってみたら」と吉岡先生は提案する。「何でもいいのよ、自分のことだったら。一人づつ創って、つなげる。一番気になってること、興味があること、今思ってること。テーマを家族等どう」。部長の高橋さおり(百田夏菜子)は「やって見せてよ」と吉岡先生に反発する。新入生向けのオリエンテーションでの「ロミオとジュリエット」を簡単に否定されたからでもある。

  短い沈黙の後、頷いた吉岡先生はいきなり窓を開け、自分の母のことを語り始める。その演技の迫力にさおりと他の2人、橋爪裕子(玉井詩織)と西条美紀(高橋れに)たちは「神様が降りてきた」と衝撃を受ける。吉岡先生が学生演劇の女王だったことを知り、指導をお願いする。素直な演技が光る百田夏菜子だ。

96958a9f889deae1e0e0e2e2e4e2e3e4e2e 加藤明美(佐々木彩夏)が演じる「お父さんの手」から始まる肖像画「われわれのモロモロ」のシーンはいい。ももクロの演技は教室という狭い空間を使って、何でもない日常生活の中にある家族のつながりを表現している。実際に山形の高校で演じているという「肖像画」。自分のこと、家族のことを楽しく表現し、観客席で観ている母親が感動するこのシーンはまさに演劇入門と言える。家族を誘って公演をする発想がおもしろい。

 原作者の演劇人、平田オリザのこともこの映画で初めて知った。ウィキぺデイアでは次のように紹介されている。

130pxoriza_hirata_speaking_at_tokyo  「平田オリザ(1962年11月8日生)は日本の劇作家、演出家。劇団青年団主宰、こまば劇場支配人。代表作に『東京ノート』など。現代口語演劇理論の提唱者であり、自然な会話とやりとりで進行していく『静かな演劇』の作術を定着させた戯曲集のほか『現代口語演劇のために』などの理論的な著書も多い」。

  そして現代口語演劇理論については、「日本における近代演劇は西洋演劇の輸入と翻訳にウェイトを置いて始まったものであり、戯曲の創作までもが西洋的な理論に即って行われてきた。このため、その後の日本の演劇は、日本語を離れた無理のある文体、口調と論理構成によって行われ、またそれにリアリティを持たせるため俳優の演技も歪んだ形になっていったと考えた。これを改善するために提唱したのが、現代口語演劇理論である。日本人の生活を基点に演劇を見直し、1980年代に見られた絶叫型の劇に対して、『静かな演劇』と称された1990年代の小劇場演劇の流れをつくった」としている。

  生活を基点とした演劇は「肖像画」のシーンで描かれている。また、「静かな演劇」の世界にも関心がでてきた。60年~70年代初頭の唐十郎、鈴木忠志、清水邦夫など「劇的なものを求めた」芝居と大きく様変わりしていることなのだと、改めて知った。今度、平田オリザが主宰する「こまばアゴラ劇場」に行ってみようと思う。映画の中の舞台演劇については、平田オリザがワークショップなどを通してももクロを指導したという。

201505242323311 演劇の強かった高校から中西悦子(有安杏果)が転校してくる。演劇部への加入を勧めるさおりと共に二人は茨城全国大会へボランテイアスタッフとして参加してみる。

  開演前の仕込みから、複数の高校の公演シーンが映し出されてくる。このシーンを観た人がブログに、「もし高校野球の女子マネージャーが青森の‟イタコ”を呼んだら」という青森中央高校の演劇部が出演公演しているのを懐かしく観たと記載している。どのシーンなのか分からないが、画面から全国大会の高校演劇のレベルの高さを感じた。

Img_0_m1 この全国大会の帰り、さおりと中西は「比奈駅」のホームで語り合う。(さおり)「どうして転校してきたの?」、(中西)「皆に迷惑かけ、追いつけなくなった。逃げたの」、(さおり)「私は演劇部に入り楽しいってこと分かった。皆と話ができるようになった。演劇って一人じゃできない」、(中西)「人は一人だよ」、(さおり)「でもここにいるのは二人だよ。中西さん、演劇を私とやりませんか、一緒に」と演劇への復帰を促す。一度演劇をやめた人にとり、このシーンはインパクトを与える。

  撮影した「比奈駅」は静岡県富士市を走っている岳南電車の無人駅だという。ホームの明かりと走る電車が「銀河鉄道の夜」を連想され、大会参加台本が「銀河鉄道の夜」にきまる。

  東京代々木青少年総合センターで合宿を行う。夜、芝居を観たあとに吉岡先生は皆を新宿高層ビル街の夜景を見せる。そして、「ちょっと前まで通っていたの、この街で。私は大学に行って、バイトをして、稽古に通って…。一杯いるんだよ、そんな人がこの街には。それこそ星の数ほど…。今は君たちもその一員」と語る。美しい夜景から将来を夢見る部員たち。しかし、この台詞が後の吉岡先生の決断の伏線になっている。

1312191  地区大会に入賞し、県大会への出場が決まる。この決まる瞬間はコンクール独特の緊張感が出ている。また地区大会の舞台上での先生役の佐々木彩夏が鐘を落とす。一年生の芳根京子の舞台上でのつまづき。舞台袖で見守るさおりの表情など、本番公演のもつ緊張感と人があがると動きが硬くなる怖さをも描いている。凄いと思った。

 吉岡先生の演技指導は「演劇は一発勝負じゃないの。本番のたびに同じことを繰り返さないといけないの。偶然に頼らない。最後に勝つのは計算された演技だけ」、「稽古を想いだすのよ」と地区大会での演技を想定して教えている。

  しかし、いざ本番の公演になると力をなかなか発揮できない役者の苛立ち、不安感、緊張感などをこの映画はよく表している。

1424963243004185001  県大会を1か月に迫った日、吉岡先生が突然教師をやめ、女優の道に進むことが演劇部員に告げられる。きっかけは夏の合宿の時に演劇仲間からのオーデイションへの誘いであった。復帰する吉岡先生は部員へ手紙でそのいきさつを語る。

 「そのオーデションは本当に楽しかった。一流のスタッフ、一流の出演者。その中に混ざって一緒に何かを創っていくことは私にはたまらない喜びでした」、教師から女優への道を歩む。それは母を裏切り、演劇部員を裏切る。それでも演劇の道を進むことが記してあった。そして「あなた達に出会い、あなた達を見て私は演劇の豊かさ思い出したのです」と育てる教師から自ら演じる側への選択したことの語りが画面に綴られてくる。演劇の持つ楽しさ、素晴らしさと喜び、そして演劇の持つ怖さが出てくるシーンだ。

Yjimage3  吉岡先生が去って元気を失ったさおりは滝田先生(志賀康太郎)の国語の授業で奮起を呼びこむ。

 滝田先生は地区大会での公演が素晴らしかったと誉め、「宇宙は光の速さで広がっていく。だから私たちはどうやっても宇宙の果てまでたどり着けない。たどり着けようがない。でも切符だけは持っている。どこまでもゆける切符。君たちの作品(銀河鉄道の夜)を観ながらそんなことを感じました」という言葉がさおりの胸に響く。高校の教師を教諭というのはこういう先生のことをいうのかなと思えてくるシーンだ。

  さおりは息を吹き返す。部員を前に「銀河鉄道の夜」の台本を手にして、「私たちは舞台の上ならどこにでも行ける。想像するだけなら無限だよ。でもたどり着けないんだ、宇宙の果てには…。それが不安ってことなんだ。私たちのことなんだなあって。でもみんなのことがつまっている、この台本。ここでやめるわけにはいかない。だってやめることは自分自身をやめるってことだから。――私はづづけます。行こう、全国に」とみんなの思いがつまっている台本・舞台こそが私たちなんだと言い切り、前へ進もうと語る。

  映画は県大会公演会場に来ている演劇部員の明るい家族の姿を映し出す。そして舞台の幕が上がるところで終わる。明るく気持ちの良いラストシーンになっている。

Image2_2 この映画の感想が「Togetter、映画『幕があがる』を観て~舞台という麻薬の演劇界」に記述されている。印象深い内容になっている。

  そこには、 「高校演劇というものをきちんと完璧に描いている作品です。素晴らしいです。しかし、舞台に立ったことを過去にできない人にとり、この映画は劇薬です。なぜなら、かつて味わった、あるいはその片鱗をかすかに知った、舞台に立つことの素晴らしさを綺麗に、美しく描ききっているからです」と指摘をしている。

 さらに裏切っていく吉岡先生の選択は「役者として正しい。この選択がなければ役者にはなれない」として、「一瞬の舞台が本当にきらめいて、どんな苦労にだって代えてもいいから、舞台にたちたいと思ってしまう。その美しさを知ったら、もう逃げられない」と舞台への復帰を選択した吉岡先生の気持ちを代弁している。そして「たくさんの人が、自分を表現することを楽しめる。そんな時代がきたらいい」と結んでいる。

 私もまったくこの感想と同感なのだ。記載者は高校演劇を経験してきた人だと思える。

Yjimagepyvxjs3b_2  原作の「幕が上がる」の中で、著者の平田オリザは吉岡先生を通して演出家を目指すさおりに、こう記述している。

  「最近出てきた新しい仕事で、ドラマターグという職種もあります。制作的な視点を持ちながら、劇作家や演出家にアドバイスをしたり、資料を揃えたりして、演出の補佐をしていくような仕事です。幸い、そういうことを学べる大学もいくつか出てきました。普通の大学の文学部に入って、現場でそれを学ぶ道もあります。そういうことを学んでおけば、プロの演出家になれなくても、たとえば故郷に帰って、公共ホールとかで働く可能性も開けます」と、その道への計画のアドバイスをしている。

   「好きだからやる」のでは世の中、そう、うまく生きていくわけにはいかない。感情や偶然に流されず、冷静に計算することだ。吉岡先生の計算された演技指導とダブる。ただこの本を読んで、高校演劇から上に進む道は広がってきていると思えてきた。高校演劇をしている人には是非読んで欲しい本だ。

  また平田オリザは自著「演劇のことば」(岩波書店)の中で、「東京芸大には音楽・美術があっても演劇科はない。公教育に演劇科がないことは、音楽や美術の分野でのプロを志し、志半ばでそれをあきらめても、教師になるという選択が残されている。しかし、演劇にはない」ことを指摘し、そこから「演劇を志し、それを続けることは、一種の大きな冒険であり、冒険であるからには、必ずそこにヒロイズム、自己陶酔がつきまとう。だから演劇は熱くなる」と選択の幅が少ないことを記述している。同書には明治以降、日本の近代演劇が歩んできた歴史を見つめながら演劇の持つ特異性を指摘している。吉岡先生の選択を、映画「幕が上がる」中でその一端を描いているのではないかと思えた。

Sub_b_large1_2  最近の地方自治体では、文化が地域を豊かにするとして公益法人文化芸術団体を設立して、文化芸術への力を注ぎ始めている。演劇・音楽に精通した人をアドバイザイザーにして、市民会館・美術館・博物館等を拠点として文化芸術団体が企画運営を行ない、文化の推進に務めてきている。文化会館などの運営公演には舞台プロデュサー、演出家など地方から求められてきているのだ。

  地域で活動している合唱団、朗読会、ミニ楽団、むかし語りなどの公演開催をしていくうえで、出演者の自己満足・自己充足の世界から、観客に感動を与え、ともに感動を共有する空間を創るということが求められている。そのためには広告宣伝、舞台制作から演技技能をも高めるシステム作りの構築が急務になってきていると思える。 

   映画の中で吉岡先生は問いかける。「あなたの人生を狂わせることになるかもしれない。それでも芝居をやっていきたい?」と…。その先に待っていたものは、何もかも失う世界だった。――でも後悔はしていない。その後、ちゃんと人生を歩んできた自分がいると応える。でも、…ちょっと悔しいなぁ。やり残したことがあった筈だ。何だかこの映画を観て、忘れていた頃の年代を思い出してきた。やばいかな。何が? ――また突き進むこと。

                                   《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

平田オリザ著「幕が上がる」(講談社・2012年11月発行)/平田オリザ著「演劇のことば」(岩波書店・2004年11月発行)

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ハーモニーで綴るTBS金曜ドラマ「表参道高校合唱部」

Yjimage1  「地球にはハーモニーが必要である。こうして歌っていると、もしかしたらこのハーモニーで世界に奇跡を起こすかもしれない、なんて思ったりする。だから私は今日も歌う」と主人公、香川真琴(茅根京子)のナレーションで「表参道高校合唱部」第10話の最終回で終わる。

  TBS系金曜テレビドラマとして夜10時から平成27年7月15日から9月25日まで10回に渡り放映された作品。このドラマをネット配信で観ることができた。

  東京・原宿の表参道にある「表参道高校」が舞台の青春学園ドラマ。かつて合唱の名門校であった同校の合唱部は部員不足から廃部寸前になっていた。そんな中、香川真琴が香川県小豆島から転校してきて、部員の募集、呼び掛け、退廃的だった合唱部を立て直す。合唱の奏でるハーモニー、歌の力で仲間との出会いを描く、楽しくなるドラマになっている。そして何よりも忘れていた歌の魅力を思い起こしてくれた作品になっていることだ。

B150723_0021  《第1話》 「知っとるか?歌の語源はうったえる。ほんまの気持ち、声で伝えて歌うんや。ええか、合唱では仲間外れは許されん。全員が全員の為に歌う。それでやっとひとつの歌声になるんやから」と音楽時間に小学生の真琴に諭す鈴木有明(城田優)教育実習生。合唱に加わわり歌うことの素晴らしさ説く。東京から小豆島に転校してきて、クラスになじめなかった真琴が合唱と出会う場面になっている。

 ドラマは冒頭、10秒ジャンプしながらスポットを浴びた真琴の独白から始まる。「合唱とはいくつかのパートを複数人で同時に歌うことを意味する言葉である。地球にはハーモニーが必要である」と人との和が語られる。バックには桟橋で見送る小豆島高校の合唱部の「涙そうそう」の歌声が流れている。ドラマ全体に流れるメッセージとして受け止めるシーンでもある。

2015072200085828lisn0003view1 ~夜に堕ちたらここにおいで 教えてあげる最高のメロディ あなたはいつも泣いてい るように笑っていた (中略)  あたしだけの秘密の場所 夏のにおい追いかけて あぁ夢はいつまでも覚めない 歌う風のように…~ (「OverDrive」歌:JUDY AND MARY/作詞:YUKI/作曲:TAKYA/1995年)

  裏切ろうとした引田里奈(森川葵)は「♪ここにおいで」と舞台で歌う合唱部の歌を聴き、客席から立ち上がり口ずさみながら檀上に昇り合唱部に合流する。里奈は歌う。「♪歌う風のように~」と笑顔の里奈の歌声が講堂全体に透きとおるように響き渡る。ネットの中の世界から人前で歌うことの喜びを表している場面。とってもいい。歌詞と里奈の気持ちが合唱となって流れてくる。こうした歌は縁もゆかりもない私にとって、合唱曲として抵抗なく聴くことができた。

2015072700086501lisn0001view1  《第2話》 「私は今のままの合唱部なら歌えない。仲間を裏切ったままで、いい合唱になんてなるはずないから」と真琴は一人で歌いだす。

 濡れ衣を着せられ閉じこもる幽霊合唱部員の宮崎裕(高杉真宙)を引き戻すため家の前の路上で「♪いまわたしの願いごとがかなうならば翼がほしい」と歌いだす。合唱部員も合流し、「♪この背中に鳥のように 白い翼をつけてください この大空に翼をひろげ 飛んで行きたいよ 悲しみのない自由な空へ 翼はためかせ 行きたい」(「翼をください」/歌:赤い鳥/作詞:山上路夫/作曲:村井邦彦/1971年)

  「翼」とは人への信頼、自分自身の拠り所、居場所などが浮かんでくる場面。「悲しみのない自由な空へ」…。「閉塞感」の漂う現代社会に飛び立つ「翼」とは何なのかを問われてくるシーンで胸が熱くなった。

  このシーンについて日刊スポーツコラムで森川葵氏が専門的にこう記述している。「最初に真琴が主旋律をソロで歌い、後でやって来た里奈が主旋律を引継ぎ、真琴が低音ハモリに自然に切り替える。この切り替えがあまりにスムーズで、絶妙なハーモニーを奏でている。(合唱部員)そろって合唱したところは鳥肌モノ」と絶賛している。

  70年代初頭に生まれた「翼をください」。今なお歌い続けられている意味は大きいと思えてくる。歌の持つ意味を考えていこう。

34335tbs_07312015_omote_news1  《第3話》 退部をかけて野球部の紅白試合に出場する桜庭大輔(堀井新太)。事情を知った真琴ら合唱部は、大輔の好きな岡本真夜の「TOMORROW」を応援歌として合唱する。

 ~涙の数だけ強くなれる アスファルトに咲く花のように 見るものすべてに おびえないで 明日は来るよ 君のために~

(「TOMORROW」/歌:岡本真夜/作詞:岡本真夜・真名杏樹/作曲:岡本真夜/1995年)

  球場に響き渡る「TOMORROW」のハーモニーは改めて合唱の魅力を引き出している。「明日は来る」ことの確信を受け取ることのできるシーンとして描かれている。素晴らしいシーンだ。しかし、高校野球の試合で応援曲「TOMORROW」をまだ球場で一度も聴いたことがない。どこかの高校で使用しているか、注視していこう。

2015081700089190lisn000view1  《第5話》 離婚した父はホームレスになっている。父を慕う谷優里亞(吉本実憂)はタレントになるため、その父を他人だと突き放す。しかしオーデイション会場前の路上で合唱する「トレイン トレイン」を聴き、父を慕う気持ちを思い出し、正直になろうと走り出す。故郷に帰る父を見送に行くために。走る姿は歌詞と重なり応援したくなるシーンになっている。

  ~栄光に向かって走る あの列車に乗って行こう 裸足のままで飛び出して あの列車に乗って行こう (中略) 見えない自由が欲しくて 見えない銃で撃ちまくる 本当の声を聞かせておくれ Train-Train 走ってゆく

 Train-Train 何処までも Train-Train走ってゆく Train-Train何処までも

(「Train-Train」 歌:ブルーハーツ/作詞作曲:真島昌利/1988年)

  公園でホームレスの優里亞の父と真琴の父雄司(川平慈英)の会話の中で「娘への気持ちは覚めない恋だから」という台詞にドキッとした。このドラマは「歌を忘れた中高年」に向けたドラマになっていると思えてきた。

20150822020311  《第6話》 合唱部と共に歌い終えた大曾根校長(高畑敦子)は「簡単なことだったのね。あの人が歌えないなら、その分を私が歌えばいい。あの人が歌った歌はそこにある」と合唱部員の前で語る。

 亡き夫と共に歌った「心の瞳」を再び歌うことができたことへの想いが出てくるシーンだ。

 ~心の瞳で君を見つめれば 愛すること それがどんなことだか 分かりかけてきた 言葉で言えない胸の暖かさ 遠回りをした人生だけど 君だけが 今では愛の全て 時の歩み いつもそばで分かち合える たとえ明日が少しずつ見えてきても それは生きてきた足跡が あるからさ (中略) 心の瞳で君を見つめれば (「心の瞳」/歌:坂本九/作詞:荒木とよひさ/作曲:三木たかし)

  ドラマの中で高畑敦子が「坂本九さんの遺作よ」と「心の瞳」を真琴に紹介する。九ちゃんではなく九さんと語るところに坂本九への想いがでている。私は知らなかった。「心の瞳」が合唱曲として広く歌われている坂本九の遺作であることを。最後に残していたのかと驚き、改めて坂本九への感謝の念が湧いた。

2015090600091830lisn000view1  《第7話》 廃部寸前だった合唱部がコンクールに出場することになる。選んだ曲が「ハナミズキ」。心臓手術で意識が回復しない夏目快人(志尊淳)が好きな曲であり、彼の回復を願い、入賞を目指し合唱する。

  ~手を伸ばす君 五月のこと どうか来てほしい 水際まで来てほしい づぼみをあげよう 庭のハナミズキ 薄紅色の可愛い君のね 果てない夢がちゃんと 終わりますように 君と好きな人が 百年続きますように

  (「ハナミズキ」/歌:一青窈/作詞:一青窈/作曲マシコタツタロウ/2004年)

  この曲には「君と好きな人が百年続きますように~」というように全ての人がずっと平和で暮らせるようにという願いが込められているという。ハナミズキの花言葉は「私の想いを受け取ってください」。意識の戻らない快人に合唱部員の「想い」がコンクール会場に響き渡る。「ドラマ開始当初はほとんど合唱したことのなかったいうキャスト達が日々のトレーニングを重ね、成長してきた」との評価がネットで記載されている。

2015082000089578lisn000view1_2  ドラマは第10話の真琴の両親が「愛の歌」の合唱で離婚することなく、表参道高校で合唱を続けて行くところで終わる。

  梅田恵子は日刊スポーツ「梅ちゃんねる」(8月18日配信ネット)で「(表参道高校合唱部は)実際、歌声は視聴者の心をつかんでいる。視聴率は5%前後で推移しているものの、視聴者満足の高さは夏のドラマの中でも群を抜く」と高い評価をしている。さらに高成麻衣子プロデューサーの言葉引用し「声を和するとか、仲間を信じるとか、今の時代に足りないものが合唱にある。メールとSNS、アプリを通したコミュニケーションがちょっと息苦しくなってきた時代に、生の声のやりとりというアナログコミュニケーションの力を再認識したいタイミング」と合唱を通してのドラマ作りに高い評価をしている。

 合唱には、「自分の気持ちを伝える」「仲間と声を合わせる喜び」「ハーモニーは新鮮な音楽空間を創る」「共に喜びを味わう機会を得る」「相手の声を注意深く聴く」「合唱する仲間は聴き手である」「とても参加しやすい」「上手く歌えなくても優しく包み込む懐の深さがある」「人の声での協和音は気持ちがよいもの」という要素がある(清水敬一著・監修「必ず役立つ合唱の本」より)。テレビドラマ「表参道高校合唱部」は合唱の持つハーモニーによって生きることへの喜びを如実に表現したドラマであると思えた。

  「表参道合唱部」を観ながら、流れてくる合唱曲はずーと以前から続いている歌に感じられた。ジャンル別に区分けされている音楽の世界ではない、底辺に流れる音楽の道標を示していると思えてきた。現在の音楽を「意味不明、分からない」「うるさい」など拒否をしないで、向き合っていくつもりだ。ただし、いいなあと感じた曲だけにする。

1280x720uph1_3  香川真琴役の茅根京子は吉永小百合の日活青春時代の映画を思い出してくれた。土臭さをもった女子高校生の役を演じている。顧問の鈴木有明先生に曲のアレンジを頼むシーン等、自然体の演技が微笑ましく清々しさを感じ、観ていて気持ちがいい。

  また引田里奈役の森川葵は1話の暗い女子高生から「♪風のように~」を歌いだすシーンは印象深い。そして4話における「原宿まつり」ステージでの「学園天国」の冒頭の“アー・ユー・レディ”という掛け声はグッとくるタイミングを披露している。茅根京子とあわせて森川葵も注目していきたい。

 夜の10時代の放映。青春学園ドラマとしているが、やっぱり中高年が涙流して、歌を聴きながらドラマを観るような気もする。それでも良い。温かくなるドラマは貴重だ。素晴らしいドラマありがとう。

≪参考引用資料本≫

清水敬一監修「必ず役立つ合唱の本」(株式会社ヤマハミュージックメディア、2013年2月発行)

                                   《夢野銀次》

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津軽の海を越えて来た―53年ぶりの「こまどり姉妹」

107 ~なにも言うまい言問橋の 水に流した あの頃 鐘が鳴ります浅草月夜 化粧なおしてエー化粧なおして 流し唄~ 

「浅草姉妹」(昭和34年10月)作詞:石本美由紀/作曲:遠藤実。

 舞台の幕があがり、デビュー曲「浅草姉妹」を歌うこまどり姉妹。53年ぶりのステージを3月5日、栃木市大平文化会館で観た。

 「私たちは北海道炭鉱の町に生まれ、門付けをしながら上京してきました」と妹の敏子が語る。門付(かどつ)けをしていたのか…。歌手でギター片手に流しをしていたと語る歌手が多いなか、門付けをしていたとはっきり語る歌手は初めて聞いた。

 門付けは一軒一軒、家の門口で三味線を弾き、歌を唄いながら日銭を得る放浪芸の世界だ。江戸期には日和下駄に編み笠スタイルで三味線を弾きながら唄う門付けを行なう。あるいは女性の盲人芸能者の瞽女(ごぜ)が連想されてくる。デビュー当時、門付け芸人出身ということで「差別」を受けてきたのではないかと想像できる。昭和30年代はまだまだ放浪芸人は一段低い芸人と見る風習が残っていた筈だからだ。

Img_376211_3 北海道から津軽海峡を渡り上京した親子。そして東京山谷の木賃宿に父親と暮らしながら浅草を流し歩いての生活。

 五木寛之小説「海峡物語」に登場してくる「演歌の竜、高円寺竜三」のモデルとなったディレクター馬淵玄三によってコロンビアのテストを受ける。「二人そろってマイクの前に立つ」ことでかろうじて合格した。立ち会った遠藤実は「可憐でありながら、想像もつかない人生の哀感を感じさせる歌声に私は驚いた。流しの臭いがする」と遠藤実著「涙の川を渉るとき—遠藤実自伝」の中で記述している。実際、遠藤実自身も新潟での門付けや荻窪や西荻での流しの貧しい生活を経験して来ている。こまどり姉妹の歌声に相通じるところがあったのだろう。二人は遠藤実の指導を受け、昭和34年(1959)10月に「浅草姉妹」でデビューする。

Ph04b1_31  作詞石本美由紀の「何も言うまい言問橋の」の隅田川に架かる言問橋の浅草よりのコンクリートの橋台の横には黒い焦げ跡がある。3月10日の東京大空襲の爪跡が今も残っている。橋の畔の隅田公園の下には空襲で被災した多くの人たちの涙が埋まっている。昭和3年に言問橋の完成で東海林太郎、島倉千代子が唄う「すみだ川」にでてくる「竹屋の渡し」も消えた。

 デビュー1ケ月後の同年11月には遠藤実作詞作曲の「三味線姉妹」のレコードがすぐさま発売される。

 ~お姉さんのつまびく三味線に 唄ってあわせて今日もゆく 今晩は今晩は 裏町屋台はお馴染みさんが待っている つらくてもつらくても 姉妹流しは涙を見せぬ~ 

 大平文化会館でこの歌を聴いた時、涙腺が緩んできた。三味線片手に浅草の路地裏を流す姉妹。そして悩みながら、この歌を発表させるために苦渋の決断をしてコロンビアに移籍した遠藤実。「三味線姉妹」の詞と曲には遠藤実の想いが強く響いてくると感じた。蜷川幸雄演出「さいたまネクスト・シアター」2012年公演でこまどり姉妹を舞台へ登場させる際に、蜷川幸雄が歌わせた曲はこの「三味線姉妹」だと聞いている。蜷川幸雄も選んだこの曲には口に出せない心の底に潜む哀しい情感が滲み出てくる。

O03500350125026870821  ~津軽の海を越えて来た ねぐら持たないみなしごつばめ 江差恋しや鰊場恋し 三味を弾く手に想いをこめて ヤーレンソーランソーランソーラン 唄うソーラン ああ渡り鳥~

 ~瞼の裏に咲いている 幼馴染みのはまなすの花 辛いことには泣かないけれど 人の情けが欲しくて泣ける ヤーレンソーランソーラン 娘ソーラン ああ渡り鳥~ 「ソーラン渡り鳥」(昭和36年4月)作詞:石本美由紀/作曲遠藤実。……名曲だ。

 長い間、「津軽海峡を越えて来た」いう歌の言葉が私の心のどこかに支えとなっきた気がする。仕事で覚悟、決断するとき「津軽の海を越えて来た」というフレーズが何回浮かんできたことか。

 錦糸町駅前にあった楽天地「江東劇場」。そこでお袋と一緒に「こまどり姉妹ショー」を観たのは今から53年も前だ。当時は映画と併用しての歌謡ショー。黒沢明の「用心棒」と森重久弥の「社長シリーズ」が上映していた。昭和36年(1961)の5月ころということになる。幕が開くと舞台の船に乗ったこまどり姉妹が三味線を弾きながら登場してきて「ソーラン渡り鳥」を歌った。下から見上げる自分の目に歌うこまどり姉妹の姿が残っている。「父ちゃんには内緒だよ」とお袋が私の耳元でささやいた。北砂街銀座の叔母御の下駄屋を訪問して、栃木に帰る途中でのこと。こまどり姉妹のファンだったお袋。それから53年ぶりの今回の「こまどり姉妹」のステージ。懐かしさと頑張ってきた姿が交差する。ほかの出場歌手(佐藤勢津子・三門忠司)とは違い、歌う姿から光を放っていた。オーラを感じた。ヒット曲を持ち歌い続けてきた歌手生活の強さなのだろう。

Img_347701_61525708_01_3 「3月19日に私たちの新曲 が発売されるの。もう歳だからキャンペーンはできませんけど。聞いてください」とステージ最後の曲として紹介、歌う「ラーメン渡り鳥」(作詞作曲オオガタミヅオ)。サッポロラーメン、喜多方ラーメン、東京ラーメン、博多ラーメンとコミカルに歌と曲が流れていく。18年ぶりの新曲。ヒットすれば化けるかもしれない。

 姉の栄子はおとなしいが艶っぽさを滲ませてくる。「テレビで私たちがラーメンをおいしくいただいているのが、この曲のきっかけなんですよ」と妹敏子が明るく語る。しかし、この歌は昭和38年(1963)の「涙のラーメン」(遠藤実作詞作曲)とも連動しているのではないかと思える。~あたたかいラーメン忘れぬラーメン 貧しくもくじけず笑ってゆきなと いつもなだめた人ねラーメン ナルトに支那竹チャーシュー いやいや情けの味がした ツルツルすするショッパサは泣いている 涙かしら夢かしら~。

 こまどり姉妹の曲を手掛けた遠藤実。今度、じっくりブログに書きたいと思ってきた。また2009年公開映画「こまどり姉妹がやってきたヤアーヤアー」を観るつもりだ。Okmusic_1226_11_4 

 歌手八代亜紀は「情歌(なさけうた)」として500~600人の会場でコンサートを展開している。日刊ゲンダイで「流行歌は過去の遺物ではない。今こそ生の歌唱が求められている。若者たちもデジタルな長くついていけない今の歌より流行歌を求めている。懐メロではない流行歌に飢えている。流行歌には情けがあるから」と若い観客層からの手応えを感じていることを記述している。

 最近、昭和40年代の複数の歌手達が一緒に公演を組むことが目立ってきている。そして今回の公演を支えていたのが地元の複数のカラオケグループの団体だった。地元のカラオケグループとの結びつきが今後強まっていくと思える。歌謡曲に飢えた人々がたくさんいる。若い人より同世代に向けて歌を発信していくことを舟木一夫はいち早く見抜き、15年頃前から全国ツアーを展開し、成功している。地方にはたくさん建てられた立派な小ホールがある。そこでの生の歌謡ショーなどが公演されていく機会が増えていく。そんな予感がしてくる。

                                    《夢野銀次》

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強風の中の流鏑馬・馬飾り―篠塚稲荷神社初午祭

Photo 最大風速21.5メートルを記録した強風の中、神馬(じんめ)が走る。三本の的をめがけて矢が放った。三回走り、二本の的を命中させた「流鏑馬」は終了した。神馬は農道をゆっくり闊歩していったのが印象的な光景だった。

 3月10日の日曜日、栃木県小山市大本の篠塚稲荷神社での「初午祭」を見に行って来た。「流鏑馬」と「飾り馬」で知られている篠塚稲荷神社初午祭のことを昨年の6月に知人から聞いた。今年は是非行ってみようと思っていた。

Photo_12 JR両毛線「思川」駅から農道を通って10分くらいの所に篠塚稲荷神社があった。ちかくには「若駒」という造り酒屋があり、立ち寄ってみた。テレビドラマ「仁」の中でロケとして撮影されたいうが、どの場面か不明だ。

 小山市観光協会の案内によれば篠塚初午祭は毎年3月の第2日曜日に行われ、村の無病息災と豊作を祈願して、五色の布や布団で美しく飾り立てた神馬が地区内を練り歩き、神社に参向する祭り。神事が終わると『飾り馬』の派手な飾りは解かれ、流鏑馬(やぶさめ)用の馬になる。3つの的に矢を放ち、その当たり具合で農作物の作況を占う。また、地域の人たちによる太々神楽が奉納され、祭りに花を添える」と紹介されている。 

 Photo_13初午祭はもともと旧暦で2月最初の午の日を初午とし、農家では稲の豊作、商家では商売繁盛を祈って稲荷さまを祭る行事となっている。また、蚕や牛・馬の祭日とする風習もあるという。江戸時代には、この日に子供が寺子屋へ入門したとも云わている(「年中行事事典」より)。

 朝9時に五色の布団で飾られ、一番上には金幣が立てられた「飾り馬」は氏子地域の大本・小薬(こぐすり)・松沼の12キロを練り歩く。3地域での米の収穫高が3000石あったという広い地域を囃子に先導された飾り馬が練り歩く。のどかな農園地方の風景だ。

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 神馬を飾り立てた布団に赤子を寝かせると健康に育つと云われている。そのため、神馬が背負っている五色の布団は子供の布団となっていることが分かった。また、子供布団を背負って歩く飾り馬を見て、間引き防止も含めて赤子への健康祈願だったのではないかと思えた。

 

Photo_18  午後から風が強く、ときおり突風が突き抜け、砂埃で稲荷神社の境内で立っているのがきつい状態になった。3時から執り行う「流鏑馬」、行うのかと半纏をまとった人に聞いた。「流鏑馬をする人が馬に乗り、風の状態を見て判断していくようです。今の所は中止ではありません」という返答だった。風が強まったのが午後1時。あと2時間は風と砂埃の中で待つことになる。帰ろうかなと思ったが、せっかくの機会だから、とにかく3時まで待つことにした。辛抱だ。  

 東京では「煙幕」という聞きなれない現象が起きていたことを夜のニュースで知った。

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 午後3時過ぎ、御神殿の前に「飾り馬」が現れ、飾り物が解かれた。ようやく「流鏑馬」が始まる。馬は以前は氏子の家からの提供だったが、今は小山市にある乗馬クラブからのレンタルだそうだ。そして、流鏑馬をする乗馬する人は氏子ではなく「馬主」だと後から聞いた。

 それでも、風の中を馬は3回走って、矢が放たれた。参道を駆け抜ける馬は迫力があった。「壱」と「弐」の的に矢はあたった。

   的が大きいというのが印象的だった。武芸としての「流鏑馬」ではないと言うことだ。東京杉並区の「井草八幡宮」での「流鏑馬」の的は直径30センチ位の非常に小さい的だったことを思い出した。

Photo_20 この篠塚神社の「流鏑馬」は武芸鍛錬としてではなく、稲作の占いをする風習から行われているのだ。

 柏村裕司著「栃木の祭り」の中の「篠塚稲荷の飾り馬」において、「矢が壱の的に当たれば早稲(わせ)が豊作、弐の的ならば中稲(なかて)、参の的ならば晩稲(おくて)が豊作といわれている。稲作地帯における稲荷社の祭りふさわしい風習」と紹介されている。これから始まる稲作にむけて、村民の豊作への願いと村落共同体の結束をはかる祭りなのかと感じた。 

Photo_21 午後から始まったお神楽。強風の中で「ヒョットコ踊り」など「優雅」に舞う。その姿は参詣者ではなく、ご神殿に向けて奉納としての舞っているとしか写らなかった。そこには観光客のためではなく、村の祭として執り行う姿勢が見えた。

 帰りはIR「思川」の駅で1時間以上、プラットホームの待合室で上り電車、高崎行きを待った。群馬方面は上り、栃木小山方面は下り電車と言っている。両毛線の上りと下りは古代の東山道の名残から決めている。家に着いたら服、ズボンや髪の毛、耳などホコリにまみれていた。

 

                                《夢野銀次》

 

 

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春を呼ぶ―球春とお神楽

022_3 春季高校野球が始まった。4月21日の栃木県大会を前に三地区で県大会出場決定の試合が4月7日にあった。

 その4月7日に栃木市総合運動公園野球場に栃木商業と足利工業との試合を観に行った。春の風に誘われ、45分のサイクリングだった。

 試合は6対0で足利工業が勝った。

初回に栃商の守備のボンヘッドミスと三塁打での2点を足工が入れ、その後2対0のまま8回に足工が4点を追加し、ゲームセット。

006_2  栃商の敗因は守備のボンヘッドとチャンスでの一発が出なかったことだ。8回の表の足工、ワンナンウト2・3塁で次の4番打者を敬遠した。ベンチの指示で。これでピッチャーの気合いが切れた。満塁で足工の集中打が始まり、4点を入れられた。キャッチャーの仕草から勝負したかったようだ。

 栃商の中でキャッチャーとショウトの選手が印象が残った。守備と打撃を鍛えて、夏の大会を目指して欲しい。三回戦まで進めるチームになれる。

 それにしても栃木市総合運動公園は何時できあがったのだろう。運動公園のネットを見ていたら公園の園長の顔写真が出ていた。ひょっとしたら中学三年の時の同級生かもしれないと思えた。いずれ確かめよう。

025 4月10日、わが村の春日神社で春季大例祭が執り行われた。境内と参道の桜は満開。とりわけ、朝の参道の桜は3分咲き。祭が終了した午後3時は満開となっていた。

 この集落では5つの班に分かれており、順番で、春・夏・秋の春日神社大例祭に参列が義務つけられている。例祭が4月10日と決まっているため、一般の参列が10人もいない。日曜土曜の開催を唱える参加者が多かった。宮司が駄目と言っているみたいだった。参列者をいかに増やすか、考えていない。

039 境内では『太々お神楽』の奉納舞が模様された。地元の人達みたいだった。始る前に一行一座にどのくらいの時間で演るのかと聞いたら『三時間はかかるナ』との返答だった。その通り、午前11時30分から休憩をはさみ、午後3時まで延々とお神楽の舞が続いた。 後半では『もち』など釣竿にしばり、参列者に渡し、受け取った参列者は『おひねり』を釣り糸にしばり、演者が受け取る光景があった。『大道芸だな』と思ったりした。

045_3 家に帰り、パソコンで検索して出てきた。大神楽リンク集によれば、神楽とは、神を祭る時に奏する舞楽のことを言うが、神楽には舞、歌、囃子、茶番、寸劇そして曲芸ありと、まさに日本の民俗芸能の集大成と言えるほどの総合芸能と指摘があった。

 さらに江戸時代ではお伊勢詣りが大衆の信仰とレジャーをかねた最高の行楽となり、伊勢へ参拝する人々が増加するのと並行して、伊勢から各地へ出張し、神札の配布や祝祷を行う太神楽の巡回も盛んになった。

049 すなわち、太神楽とは地方の信者の参拝を代行する、つまり代参の意味から「代神楽」だったという説があるとの解説書きがあった。

 『太々神楽』は各地方での伝承があり、元々江戸期に村の神社のお祭りで栄えた芸能だ。地域での振興と同じく、後継者不足が深刻となり、伝統芸能の保持も難しくなってきていると思える。

 神殿に奉納する舞から一般参列者が感動する『舞』でないと、やがて保存のための保存伝統芸能になっていく。

                    《夢野銀次》

 

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今に伝える大道芸・口上芸―『大道研まつり』

045_2  華やかな『南京玉すだれ』で幕が開いた。『第七回大道研まつり』は両国、江戸東京博物館1階ホールにて平成23年11月20日に開かれた。主催の大道芸研究会は昭和60年(1985)に日本古来から伝わる大道芸・口上芸を研究しその伝承、保存を目的として発足した。また、この会では昔風の和芸だけではなく、若者むけの手品、腹話術なども取り入れて活動を行っているという。確かに8割入りの観客席を見渡せば、若者の姿も目についた。

047_5 大道芸でまず思い浮かべるのは『ガマの油売り』だ。取り出したる刀の刃にて紙を切り裂き紙ふぶきを舞い散らせて切れ味を見せる。ガマの油を刃に塗れば、左腕は斬られていない。しからば、刃に塗ったガマの油をふき取り、刃を左腕にあて斬る。赤い血が浮かびあがる。赤い血を出した左腕にガマの油を塗れば、たちまち赤い血は消えてなくなる。

 近年、各イベントで演じられているというが、初めて『ガマの油』を観ることができた。刀を使う演目なのか、妙な緊張感が生まれる演目だった。

041_5 中休みにロビーにて『のぞきからくり』を観た。のぞいた先は『八百屋お七』のお話。色彩が派手で画像で明るい。縁日で多くの客が銭を払い、のぞいたという。

 紙芝居はその流れなのか。この『のぞきからくり』の装置、日本では4~5台位しか残されていないという。貴重なものを観たという感じだ。

061_2  30年数前に浅草『花やしき』の前にある見世物小屋で『犬の曲芸』を見た。小屋の中は全て立ち見席。ゆっくり鑑賞させないで客の回転を速める手立てが印象に残っている。小学校時代に町にサーカスがやってきた。サーカス小屋の隣に『小人』の見世物があり、その小屋も客が舞台の周りを歩いて見ていく仕立てだった。

  火を口に入れる見世物は見た記憶があるが、『蛇食い娘』は初めて観た。場内を暗くし、薄気味悪さの雰囲気をだしたが、演じる娘が妙にけらけらして明るく、楽しい『蛇食い娘』だった。

064_2   軽妙な語りでの辻講釈『六魔』は干支生まれの運勢や手相等、身近な話題で道行く人を引き付ける話芸だ。また、講釈の内容がためにもなる。

 運勢は勢いと書く。開運をつかむには三つの要素がある。一つが明日に向かって努力を積むこと。二つ目は日々善行を行うこと。三つ目は我慢、辛抱だと諭す話芸は大向うの講談とは違い、ゆっくり聞く人の胸に入ってくる。

 この口調で熱を帯びれば武田鉄也の教師として諭す姿になってくる。

067_2   書生姿のバイオリン演歌は郷愁を誘う。今の若者が駅前でギターを弾きながら歌う姿とは違う。生活をかけての演歌だったからかもしれない。

 かつて山本學、渡辺美佐子らがいた劇団新人会の公演で『オッペケペー』の舞台を思いだした。オッペケペー節の節回しが印象に残っている。川上音二郎が自由民権運動を広げていくために唄ったオッペケペー節。演説歌が略され演歌となり、政治の固い時代から艶物の艶歌となり、今に至っている。寄席では観られない『バイオリン演歌』だ。

070_6 フーテンの寅のメロディーに乗り、『バナナの叩き売り』が始まった。客席との掛け合いと巧妙な口回しが場内に明るい笑いの渦を巻き起こした。

 『ものの始まりが一ならば、国の始まりは大和の国、島の始まりは淡路島。泥棒の始まりが石川五右衛門なら、助平の始まりが小平の義雄』『結構毛だらけ、猫灰だらけ。尻(ケツ)の周りはクソだらけ』『大したもんだカエルのしょんべん、見上げたもんだ屋根屋のふんどし』。意味などわからない。けれども軽妙な語り口が身体を楽にさせていく。そして節回しとあわせて身体が自然に動いていく感じがした。

 渥美清の『フーテンの寅』における口上は好きな場面の一つだった。とりわけ映画のラスト、初詣で賑わう神社の沿道における口上場面は、正月だなという感じで観ていた。渥美清は子供の頃、上野アメ横での露天商の口上を聞きながら育ち、それを見事に口上芸として生かした役者だった。

  大道芸は近年、市町村での『街おこし』の一環として大道芸フェエスティバルと称するなど活用されてきている。しかし、その大部分はパントマイムなど西洋を下敷きとした視覚にうったえる大道芸が演じられている。東京都では2002年よりヘブンアーティストとして公認制度を作り(審査委員長は小沢昭一)大道芸の育成と保存に動き出してきている。しかし、落語や講談・浪曲のように聞く芸と違い、物売りとして大道芸・口上芸・放浪芸は一段低いものとして見られてきた歴史がある。宴席や座敷(寄席)ではなく、街頭や玄関軒先で演じられてきた芸について今後さらに研究が進むことを期待したい。今回の『大道研まつり』でビデオや本ではなく、実物として観ることができたことは大変貴重な体験だった。

                             《夢野銀次》

 

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