歴史・郷土史の書籍

拝殿向拝にある龍亀の彫物―栃木市「今泉神社」

Photo_3  「この立札は何なのだ…?」。今泉神社の鳥居の前に立ち、参道奥の拝殿を見る。しかし、左側にある「立札」がすぐに目についた。明治40年栃木県の名前で境内での禁止事項が掲載されている。「車馬乗入事、魚鳥獣ヲ捕ル事、竹木ヲ伐採スル事、塵芥ヲ捨ル事」と年代ものと分かる薄汚れた板に書かれてある。かすかに読み取れる文字。「どうして明治の時にこうした禁止の立札を建てたのかな」と不思議な印象をまず受けた。

  栃木市中心街から約2キロ東方に位置する今泉1-25-5に今泉神社がある。

Photo_4  日本歴史地名大系によるとかつての今泉村のことを「今泉1、2丁目・日ノ出町・神田町」とし、「大宮村の西に位置し、北から西にかけては平柳村、南は栃木城内村。大宮村境に丸沼・長沼があり、村の西部に杢冷川の水源をなす湧水がある。南部は牛むぐり田とよばれるほどの深田がみられた」と江戸期の村の様子が書かれ、「慶長14年(1609)までは皆川広照領で開発地主が若色三郎衛門。若色氏が当時若色和泉と称したことから村名を今和泉と名付けたと」いう今泉の名前の起こりが記載されている。 

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  秋間恒一著「今泉神社と今泉」のはじめの中で「明治後期より昭和の初期は、栃木界隈の櫻の名所として四方より野道を伝わって来襲し、一日中酔歌嬌声絶え間なく、参道には所狭しと露天立ち並び隆盛を極めたもので有る」と記述さている。花見客ならば酔ってゴミを散らかし、馬でくる人もいたなと思えてきた。広い境内奥には「櫻が岡の碑」が建ててあることから、花見の賑わいは相当なものだったことが予想できる。

  同書には栃木県に出した立札許可願いの写し文が記載されている。しかし、その理由の解説記述が載っていない。同書を読みながら村を二分して確執が続いた別当である長清寺との紛争が100年ぶり、明治5年に解決したこと。そのことによって村人が一丸となり神社を再建し、立札を建てるほどの花見客で隆盛をみたことなのだと読み取れてくる。あたり一帯の村々からたくさんの人たちが花見に訪れていたのが思い浮かんでくる。

Photo_13 参道を進むと入母屋造の拝殿が見えてくる。唐破風の向拝が参拝者を迎える。幣殿、本殿が奥に控えている。 

 文禄年間(1592~96)に創建された今泉神社。天地創造の神、天御中主命(あまのなかぬしのみこと)を祀っている。しかし、明治5年に神仏分離令までは妙見宮とよばれていた。栃木県神社誌によれば「今泉神社 妙見様 御神体は龍亀に乗った妙見菩薩の乾漆像で、これを厨子に納めて本殿に奉斎している。天明2年(1782)に造営された現在の拝殿には、向拝正面に龍亀の彫物が施され、当時の名残がある」と紹介されている。

Photo_5  拝殿正面向拝の上に施されている龍亀の彫り物。亀が変形している姿のように見える。可愛いく愛嬌のある亀のようだ。妙見菩薩の乗り物としての龍亀。この神社周辺では亀は殺さない飼わないということだ。

  古来より北天に定位する北辰(北極星)は宇宙の全てを支配する最高の神、天帝として崇められてきた。傍らで天帝の乗り物とされる北斗七星は天帝から委託を受けて人々の行状を監視し、その生死禍福を支配するとされた。そこから、北辰・北斗に祈れば百邪を除き、災厄を免れ、福がもたらされ、長生きできる。半面、悪行があれば寿命が縮められ、死後も地獄の責め苦から免れないものとされる信仰が生まれた。

Photo  この北辰・北斗を神格化したのが道教の『鎮宅霊符神』(ちんたくれいふしん)で、それが仏教に入って『北辰妙見菩薩』と変じ、神道でいう『天御中主神』と習合したといわれている。いずれも天地創造の神として祀ることにより、護国鎮守、除災招福、長寿延命、人民安楽の功徳を得ることになるとされている。

 神仏習合の神社として今も現存している今泉神社。もとは「妙見宮」と称していた。北斗七星を神格化した妙見菩薩を信仰し、天御中主命を祀っている。地域の発展と結びつけている神社のように思える。

Photo_2  本尊とされてきている龍亀の乗った妙見菩薩の乾漆像。秋間恒一著「今泉神社と今泉」に写真が載っている。

 今泉村は慶長3年(1593)の時に皆川広照の命により、若色和泉助政房が開墾をしたと云われてきている。同書によれば若色家古文書から若色和泉助政房の嫡孫の若色茂三衛門(1659年没)の時に妙見菩薩像を神田町(栃木市)の大仏師に依り刻立したと記されている。その後、天保5年(1834)に石橋宿の法体孝運が修復したことの書付があることを紹介している。厨子に納められている本尊の妙見菩薩像。一度拝観をしたいと願う。11月第1日曜日が例祭と栃木県神社誌に記載されている。「妙見菩薩像」の御開帳があるのか、地元の人に訊ねてみていこうと思う。 

Photo_6  たびたび引用している著書「今泉神社と今泉」は平成13年(2001)に著者の秋間恒一自身が発行している非売品の自家本になっている。栃木市図書館郷土コーナーの書架で偶然、手にした書物だ。この本を読むまで「今泉神社」のことは、名称も場所さえも知らなかった。栃木のまちの歴史の古さを改めて知ることができた。

 著者の秋間恒一氏の名前は平成8年(1996)の氏子総代改選名簿の中で会長再任と記されている。今泉神社と強い関わりが示されている。以前私が記述した「銀次のブログ カエルの石像がある丸沼長瀞公園」のカエルの石像を建立した代表として秋間恒一の名前が刻字されていた。今泉環境対策委員会会長秋間恒一とある所から地域での活動を精力的に勧められた方だと推察する。機会があれば秋間恒一氏のプロフイールを訊ねていきたい。 

Photo_7  地域の在住者が身近な神社の歴史を記述し、一冊の本にまとめあげている。南にある神社の広い境内。その奥にある築山。築山の上には今泉神社の沿革碑が建っている。神社沿革内容の写しが同書に掲載されている。すぐそばには櫻が岡の碑が建つ。そして平成5年(1993)5月に「妙見宮」を合社した末社の建立。平成6年(1994)の本社拝殿の大改修と綴られている。

 そして、本の最後には拝殿に飾られてある俳句の額のこと、大正年間の栃木小金井街道のこと、子供のころの長瀞川、奉案殿のあった大宮北小学校ことなど昭和初期にかけての地域の歴史が書かれてあり興味深く読ませて戴いた。

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 慶長3年(1598)に皆川広照の命によって今泉村に開墾を始めた若色和泉助政房。もともと皆川家家臣ではなかったのではないかと思える。若色氏は芳賀地方に多い苗字とされている。前年の慶長2年(1597)に宇都宮国綱は秀吉により所領没収、改易され宇都宮氏は亡くなる。若色氏は宇都宮一族芳賀氏につながる。その一族の一人、若色政房が新たな主家を求め栃木皆川に移住して来たのではないかと推測する。

  皆川広照はこの時期には皆川城から栃木城に拠点を移してきている。そして巴波川を中心とした栃木の町づくりを本格的に進めている。若色政房は皆川氏の傘下となり、北辰・妙見菩薩を奉じて新たな時代にむけて栃木城の北にあたる今泉の地で開墾を進めていったのだと思える。

  境内にある末社再建の碑。その裏面には寄贈者の氏名が刻字されてあった。そっと寄贈者名一覧を見る。――あった。2万円寄贈者の中に今泉町に住む伯父さんの名前が。「名前が載るなら、もっと多く寄付しておけばよかったと生前、父が言ってましたよ」と従姉妹がニコニコしながら私に話してくれた。伯父さんの名前を見つけてくれたことが嬉しかったのかもしれない。

                                        《夢野銀次》

≪引用関連資料書≫

秋間恒一著「今泉神社と今泉」(平成13年10月発行)、栃木県神社庁編集「栃木県神社誌」(平成18年7月発行)、「日本歴史地名大系栃木県の地名」(株式会社平凡社発行)、ブログ戸原「社寺巡拝記」

 

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栃木町の神明宮と東宮神社―湧水と大相撲板番付表

Photo 栃木市総鎮守の神明宮。自分は子供のころから神明さんと呼んでいる。旭町にある神明宮本殿の裏側(東側)に湧水があったのだ。今まで知らなかった。「水温は夏・冬でも16°Cと変わらないんですよ。第二公園の池の噴水の動力でこの湧水も汲み上げられてるのです。もちろん地下水ですよ」と神明宮の宮司が応えてくれた。「去年からこのお堀沿いにホタルを飛ばすことを挑戦中なんです」とにこやかに語ってくれた。

Photo_3 「神明さんの社は以前は南を向いて建てられていたのですね」と訊ねると「明治16年に本殿を建造する際に現在の西向きに建てられたのです」。ずーと西向きの社と思っていたので意外に感じた。本殿建立者の協力者の名前が明治16年という年号と共に刻まれている石碑が湧水のそばに建っている。注意しないと見逃すほどの小さな石碑でもある。万町、倭町など町名の次に人名が刻まれている。知っている人の名前は見当たらなかった…。

Photo_2 湧き水は第二公園の噴水池に注いでいる。この堀にホタルが飛び交う光景を目に浮かべると楽しくなる。

 土地の古老曰く「戦争中、栃木の町では防空壕を作ることができなかったんだ。掘るとすぐ地下水が湧きでてきたからな」と。

 栃木の町のある地帯は大昔、思川が濁流となって流れていたと思える。そのことを人に話すと笑われるけど。思川の名残が地下に流れ、湧水となって現れてくる。市内に数多くあった共同井戸、うずま川の源流の「しめじが原」、大町にある大杉神社の湧水、日ノ出町にある杢冷川の水源や大正元年創業の老舗の割烹料亭「壬子倶楽部(じんしくらぶ)」の池など今なを湧水は現存している。

 0051  「このあたりは沼地から湿地帯に変わった地帯とされている」と和田鎮一著「神明宮と黒宮家」(平成2年9月発行)の書に記述されている。同書には明治5年作成神明宮境内の古地図が添付されている。南向きの社の裏側には大きな池が描かれているなど現在の位置と見比べると面白い資料となる。この「神明宮と黒宮家」の書は17代目の黒宮淳元の依頼によって執筆されたと著者は記述している。

 初代黒宮兵部から14代目の黒宮織江まで神明宮の宮司を務め、現在の神山家に代わっている。応永10年(1403)に伊勢神宮信仰の影響により黒宮兵部によって伊勢神宮から栃木神田町に遷宮してきた。どうして由緒ある伊勢神宮が地方の無名の栃木の町に遷宮できたのか?と著者は問いかけている。当時の領主との関係など明らかになっていない点を指摘している。

 黒宮家は藤原北家、摂政関白藤原師実の孫忠親を祖とした中山家の子孫とされている。その子孫の黒宮家は伊勢神宮の祭祀に加わり、栃木への遷宮に際して神主として栃木に移住してきた。明治期の14代目の黒宮織江をもって神明宮の宮司を現在の神山家に代わっている。この黒宮織江は戊辰戦争のおり、壬生町雄琴神社の黒川豊麿によって結成された「利鎌隊」に参加していると紹介されている。いずれ「利鎌隊」についてブログに書きたいと思っている。この書は明治初期の栃木町の戸数や人口なども記述され、参考資料として価値ある書物だ。栃木図書館で同書を借りることができる。

Photo  天正17年(1589)に皆川広照によって神明宮は現在の旭町に移転する。神田町の跡地には東宮神社が建立され、小さな祠が建っている。皆川広照によってすぐそばの城内町に築城した栃木城。この栃木城の東北に新しく建立された東宮神社が位置する。城の鬼門にあたる。さらにこの地は小高い丘となっていることから、壬生氏に対する栃木城の郭の役割を果たす意味があったと思える。栃木の町づくりのため神明宮の移転を中心に考えていたが、現在の東宮神社の位置と役割を考えると皆川広照の築城の考えが浮かんできて興味深い。さらに天正年間の栃木の市街はうずま川周辺の湿地帯であり人家はなく、わずかにうずま川の西側、太平山麓とこの神田町周辺だったと伝われている。いずれもうずま川より高台となっていた所に人家があったということだ。

Photo_7 かつて神明宮が神田町にあった時、遠方から小高い丘に建っている社の屋根を見ることができた。社に架かる伊勢神宮同様の千木が十本あることから「杤木」という地名がおこったと今なお語られている。しかし、栃木市史などでこの説は日向野徳久氏によって否定されている。橡の木の橡木という地名が鎌倉時代にすでに表れているからだ。

 境内には本殿と右側に小さな祠と神明宮と東宮神社の合併記念碑、「天照皇太神御寳前」と書かれた石碑が建っている。社の裏側には「十九夜供養塔」が建立されている。境内の横の道をはさんでお世話になった「栃木県シルバー大学南校」の校舎が建っている。脇には杢冷川に分流が流れている。東武日光線の踏切を電車がゴーと通過して行った。

Photo_8 現在の旭町にある神明宮の拝殿は明治8年(1875)に造られた中教院講堂の建物で時代の重さを感じる。中教院は地方において神官や僧など教導職の任命や昇級試験を実施した機関とされている。県庁所在地に中教院が置かれた。明治17年まで栃木県庁が栃木の町にあっが故に置かれた機関の名残だ。拝殿前には文化14年(1817)に建立された「金毘羅大権現の常夜燈」が建立されている。かつてうずま川舟運で栄えた栃木の町の歴史を物語る貴重な遺跡だ。

Img_7853_s1_2  平成24年(2012)に「栃木の在村記録 幕末維新期の胎動と展開 岡田嘉右衛門親之日記」が栃木市教育委員会で発行されている。慶長17年(1612)に奉行より正式に認められた「嘉右衛門新田」。以来、代々岡田嘉右衛門を名乗り現在にきている。歴代の嘉右衛門の中で嘉右衛門新田名主としての岡田親之の日記を田中正弘国学院大学栃木短期大學教授によって翻刻(ほんこく)されている書物だ。

  第1巻の書は幕末、天保15年・弘化元年(1844)から安政6年(1859)までの日記が記載されている。江戸の政治や対外情報、例幣使街道を通行する日光例幣使や参詣する諸大名、安政の大地震による栃木町の様子、地頭畠山家の動静とその家臣団の人事や財政事情、冠婚葬祭の儀礼や贈答、お伊勢参りなどの参詣、相撲興行、人々の迷信やはしかなど病気の流行、栃木町から江戸に出府する行程など余すことなく日記として書かれ、幕末の栃木の町を知る貴重な史料書だ。島崎藤村の「夜明け前」と大変類似している。同じ名主という立場なのかもしれないが、小説ではなく日記として当時の生活をリアルに読めるのがうれしい。

Photo_4  神明宮拝殿内に10枚の大相撲板番付表が飾られている。宮司の好意で拝見することができた。「栃木山」と書かれたしこ名が読めた。昭和29年に境内で行われた出羽一門による栃木山供養大相撲。砂被りの席で父と一緒に観た。自分の席の前に栃錦が土俵控えとして座ったことを憶えている。栃錦の背中は綺麗でなかったことも。

 「岡田嘉右衛門親之日記」の中に神明宮の相撲興行がでてくる。安政2年(1855)11月8日から10日まで神明宮境内にて相撲興行する際に足利藩栃木陣屋より「太鼓お触れの禁止や喧嘩御法度の諌め」がでてくる。11月2日の安政の大地震により江戸藩邸の焼失により自粛の沙汰である。さらに面白いのは伊勢の海力士一行が大地震によって次の興行ができないため1日多く開催を申し入れていることも記述していること。江戸期の栃木の町には神明宮をはじめ定願寺、大杉新田神社境内にて頻繁に相撲興行があったことが記述されている。柏戸という関取しこ名も記されている。神社の境内は多くの人が集まる、集まれる場所であったことが分かってきて読んでいて楽しくなる。

 「岡田嘉右衛門親之日記の第2巻」の発行が楽しみだ。天狗党源蔵火事や出流天狗事件など幕末から戊辰戦争について岡田嘉右衛門親之はどのように記述しているのか、発行を楽しみに待っている。

 

                                《夢野銀次》 

《郷土の参考資料書》 

和田鎮一著「神明宮と黒宮家」(平成2年9月、黒宮淳元発行)、田中正弘編「栃木在村記録 幕末維新期胎動と展開第一巻 岡田嘉右衛門親之日記」(平成24年3月、栃木市教育委員会発行)、「栃木市史」 

 

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桜並木があった権現山―栃木市本町「日光神社」

Photo_17 「桜の木が多い神社だな」と権現山を訪ねてたどり着いた「日光神社境内」の第一印象だ。和田鎮一著の「神明宮と黒宮家」の中で前の神明宮が鎮座していた神田町一帯のことを「近くに権現山があり、その東部一帯は、一面の湿地帯で綺麗な湧水が流れ出し、杢冷(もくれい)川もその中の一筋になる」と記述している箇所がでてくる。

 この地図にも載っていない権現山ってどこにあるのだろう?郷土史に詳しい知人に訊ねたら「栃木市本町にある神社あたりのことを言うんだよ」と教えてくれた。権現山に行く途中、カキ氷で有名な「山田屋」に立ち寄り、権現山の所在を再度確認して本町公民館のある日光神社に着いた。地元の人には権現山は良く知られている地名なのだと分かった。 

Photo_2  「ここを権現山って言うのは日光東照宮の関係かな。このあたりは昔、小高い丘だったらしいんだ。狭い道路が通っていたけど通りの両側には桜並木が続いていたんだ。夏にはこの境内から花火が打ち上げられたんだ。あたり一面田圃だった」と近所の古老の人が語ってくれた。

 栃木県神社誌(栃木県神社庁編集発行)によると栃木市本町にある日光神社は権現様と記載されている。祭神は日光二荒山神社と同じく大己貴命(おおむらのみこと)。創立は不詳であるが、正保4年(1647)の創立とも伝えられる。境内、木の樹齢から200年以上は経っているものと考察されると記述されている。

Photo_4  神社の創立が正保4年(1647)ということは徳川家光の時代ということになる。秀忠が建てた社殿の建造物を現在の華麗な東照宮に大造営したのが寛永13年(1638)。そして後光明天皇より宮号宣旨が下され、東照社が東照宮になったのが正保2年(1645)。東照宮大造営工事の資材運搬、例幣使の開始、利根川東遷工事とうずま川 舟運が盛んになってきた時代と重なってくる。

 日光とのつながりなのか。日光二荒山神社と結びつける神社として建立されたのだと思える。総社町にある大神(おおみわ)神社の社殿を建て直したのは家光だ。大神神社の御神体は男体山。日光とのつながりを強めていく一例でもある。

Photo_23 昭和26年作成の栃木市の鳥瞰図を見る。地図の上(西)に神明宮があり、東へと続く道路があり、その道路沿いに日光神社がある。日光神社前の道路には、今は無い桜並木が描かれている。

 境内にある16本の桜の木や神社前の道路にあった桜並木。何故、桜の木が多いのか。地元の人にいずれ訊ねるつもりだが、私の推論は近くにある栃木八景の一つ「たむらが原の桜」に起因していると思える。栃木八景は幕末から明治初年にかけて栃木町の風流人たちが選んだ。金龍寺の晩鐘、定願寺の月、うずま川のほたる、新大橋の引き舟、田むらが原の桜、市中の人、えびすの夜桜、太平山の雪であった(目で見る栃木市史より)。

Photo_5 栃木市史によれば「田むらが原とは現在の田村小路すなわち桜が岡のことである。源義家がこの岡にのぼったとき『ここは大和国に似ている』とほめ、勿来(なこそ)の関から持ってきた桜の木を植えたので、それから桜が岡と呼ぶようになった」と記述され、「昭和32年にこの地の一角に公民館が竣工された」と記載されている。昔の万町3丁目にある田村小路自治会館の庭先には桜の木が植えられている。焼失した明治座の裏側に位置する。この一帯は田村家の歴史が埋もれているという。また、ここは義家が大和の国に似ていると言った地域は栃木町時代に城内大和と称した今の日ノ出町のことを指すと栃木市史で記述している。

 「田むらが原の桜」の影響は近在に強い影響を与えてきたのだと思える。

Photo_6  大正元年生まれの栃木市在住の作家、坂本富士朗著に「田舎記」という栃木まちの事を書いた本がある。絶版なので栃木図書館で借りることができた。この本の中に「権現山奇談」が収録され、こう書いている。少し長い引用となるが、昭和初期の権現山あたりの風景を良く著している。

 「第二公園の池は、むかしむかし冷水の湧き出ている泉であって、それを現在のように拡げたものに違いない。壬子倶楽部(じんしくらぶ)の池も同様であろう。それに杢冷川の水源は、日の出町にある。そんなところから私は、第二公園から権現山にかけての一帯は、所々に豊かな地下水が小さな沼となって溢れていたために、遠い昔は沼沢地であったと勝ってに推測する。その後は湿地帯になった時期があるだろう」、さらに引用を続ける。「私の少年時代、昭和の初期まで、あの辺り、湿地同様なところで第二公園の裏口に立つと、一面に拡がる水田だった。水田と水田の間には、細い川が流れて、その川沿いの至るところには、川柳やあかざの木が茂って、畦道同様の狭い道が、第二公園裏口から権現山まで、まっすぐに通じていた」。この本には桜並木のことが書かれていないが、何時ごろ道路沿いの桜並木が植えられ、何時ごろ伐採されたのだろうか? 

Photo  この本にでてきている壬子倶楽部(じんしくらぶ)に立ち寄った。神明宮の第二公園から日光神社に向かう通り右側の杢冷川沿いにある。大正元年創業の現在も続く栃木の老舗の割烹料亭だ。栃木市地域女性史編さん委員会が作成した「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」に三代にわたる女将さんの紹介記事が記述されている。「当時、ビリヤード場として使用された洋館と日本庭園を背景とした日本家屋が今も残る」として、「商人たちの商談として、また碁を打ったり俳句を詠んだり、趣味の場、社交場として使用された」と記述されている。「写真撮影はご遠慮願います」と言いながら、三代目の女将さんは私を座敷にあげてくれ、古風な日本間座敷から四方に広がる湧水の池を見せてくれた。池の水は杢冷川に注いでいる。樹木に囲まれた池は思ったよりも広く深い。深閑とした佇まい。しっとりとした木造家屋。趣のある雰囲気が漂う料亭だと感じた。座敷から独占して眺める池や樹木の風景は隔絶された歴史の空間を呼び覚ますような気分に浸ることができる。完全予約制とのこと。繁栄した栃木町を見ることのできる隠れた文化財だと思えた。

Photo_7  権現山がでてくる「田舎記」を書いた坂本富士朗については、北関東の小さな町、栃木の美しい自然と愛すべき郷土の人々を書いた人としかネットから検索できなかった。「合戦場の処刑」「うなぎ物語」「トロッコ橋」など明治から昭和初期までの「栃木のまち」が書かれている貴重な本だ。とりわけ「栃木市の今昔」では栃木市の景観について蔵をはじめ伝統的建造物を保全していくならば、50年後には全国的に注目を浴びるだろうと記述している。昭和55年(1980)7月発行の本で著している。栃木市が蔵の町づくりを中心に動きだしたのは昭和63年(1988)からだ。深い見識を持った人だったと思える。著者の坂本富士朗について人と作品について私としても可能な限り調べ、検証していきたい。

 「権現山」は地域や地元の人たちが知っている地名と所在。地図に記載できないのならば、日光神社境内にある公園。その小さな公園に「権現山児童公園」とかを名付けて看板を掲示していって欲しいと願う。地域に知れ渡っている地名は何らかの方法で残していくべきだと考えているからだ。

                               《夢野銀次》

≪関連ブログ≫

「銀次のブログ」(2016年11月4日) 江戸の香りが漂う―栃木市杢冷川、旭町「本橋」界隈

(参考郷土の書籍)

坂本富士朗著「田舎記」(昭和55年7月発行)、栃木市地域女性史編さん委員会編「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」(平成19年3月、栃木市発行)、「目で見る栃木市史」(栃木市発行)、栃木県神社庁編集発行「栃木県神社誌」(平成18年7月)

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高慶大師入定地「太平山真野入り谷(入定平)」と圓通寺

Photo  栃木市に住んでいながら「太平山」について混沌として分からない所がある。明治維新の廃仏分離令で自分の頭の中で混乱しているからだ。栃木明徳会百年誌「とちぎ神田のこと」の中で太平山の記述がある。

 「太平山山頂近くにある太平山神社は、天長4年(827)慈覚大師円仁により創建されたといわれ、明治維新までは三光神社太平山大権現と称し、本地は虚空菩薩、別当寺は連祥院般若寺でした。明治維新の神仏分離令により、仏閣、堂宇、別当所などはことごとく廃されて神祇に復した後、明治9年(1876)に拝殿、同年14年(1881)にも本殿が造営された」と説明されている。

Photo 太平山神社に参拝の際に宮司より「正式な名は三光神社太平山大権現というのですよ」と教えられたことがある。「神」や「仏」が仮の姿で現している神号のことを「権現」という。神仏混合としての「権現」という呼び名は明治政府の政策(神仏分離令)で一旦は廃止されている。どうもこのあたりが自分にとって混乱している所だ。神社のみの名称自体が新しいのだ。むしろ慈覚大師が開いた連祥院般若寺が、今の「あじさい坂」入口に建つ六角堂こそ太平山神社の本尊の一つだったということになる。だが、どうもしっくりいかない。太平山自体を見ていくつもりとする。

Photo_3    この古代より信仰の篤い「霊峰太平山」に慈覚大師円仁は連祥院般若寺、圓通寺、太山寺の三寺院を建立している。その一つの圓通寺の跡地には「圓通寺平」の事跡の石塔が建っている。太平山表参道(あじさい坂)に向い国学院栃木高校入口前の右側、遊覧道路に続く山道を登った所にある。

  圓通寺は天長2年(825)に創建され、敷地は遊覧道路大曲駐車場まであった云われている。平安・鎌倉を時代には天台宗密教修業の霊場、山伏修験の道場として発展した。しかし、南北朝の争乱期に衰退したが、比叡山より等海法印が来山し寺門復興を尽くし、圓通寺中興第一世とされている。戦乱の京都より優れた等海を下野に招いたことは圓通寺の名声を高めたことになった。

Photo  等海のあとを継いだのが中興第二世救海(ぐかい)、諡号は高慶(こうけい)大師であった。佐藤貞文著「寺史照顧(圓通寺開山と中興)」によれば「救海は南北朝の正平19年(1364)上都賀郡真名子村の名主出井家に生まれ、幼名は出井仁三郎と称した。永徳2年(1382)の小山義政の乱において父親が戦死して圓通寺の仏門に入り、等海の弟子となり、名を救海と改めた。救海は先師、等海より口伝法門の学問伝授と寺院経営を委託され、伝法と教化に力を注いだ」と記述されている。

  その救海高慶大師が53歳の時、応永23年(1416)3月11日に即身成仏を志し、石室に入って食を絶ち49日を以って入定した。この時の心情を記述した「入定記」4枚が圓通寺に保存されている。

Photo_12  入定地は圓通寺平の北の尾根の谷、真野入りの谷と云われている。現在は「入定平」と案内版で称されている。

  64段の狭く急な斜面の石段を降りた所に入定した石室跡地がある。北側の谷地にあるせいか、陽の射し具合なのか、なんとも不気味な雰囲気が漂う谷地だ。救海が籠った石室は崩れて見ることはできないが、数本の墓石が建っている。右端には高さ2メートル以上ある石碑「高慶大師讃徳碑」が建っている。昭和29年4月に地元の有志によって建てられた。石碑の中には行脚僧との問答の口承が彫刻されている。

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  石室に籠った救海高慶大師に行脚僧は「入るならば虚空の定に入りもせで 心せまげの真野入りかな」とさげすんで詠えば、高慶大師は「真野入りせましと言ふは迷いかな 定のうちうぞ虚空なり」 と返歌をしている。
 石室に籠って28日目に書かれた「入定記」第一紙には「石室狭く候へども、虚空の如く也。浄名方丈の室に十万の諸仏来集し、たがわず候也」と記述されている。佐藤貞文著「寺史照顧(圓通寺と中興)」の中で「最も苦しい中で釈迦と阿弥陀を観仏した狭い石室はまるで大宇宙を含む虚空のようで、娑婆の苦痛も消えて如来の浄土に遊ぶ大安楽の心境を表白している」と読解している。まさに想念の一筋の念ずる世界なのかと思える。

Photo_2   民衆の救済のため即身仏を目指す。その目的とは? 飢饉、天災、疫病などにより、飢え苦しみ、恐れおののく人々を救うために、この世の苦悩を一身に背負い、石室に籠る。そして最後には己の身に引換えに衆生救済を一心に祈願しながら入定をして念仏往生する。又は釈迦が入滅した五十六億七千万後に釈迦の救いに漏れた人々を救いに弥勒菩薩が下生するとの弥勒信仰説とがあるという。弥勒菩薩の到来を待ち、入定して身心を保ち、弥勒菩薩の手助けをしようと考える仏教的な救世主信仰により、即身仏になることを目指す考え方だ。「甦る」という考えがあるような思える。

 現在ではこの「即身仏」の修行は法律で禁じられている。自殺幇助罪となるからだ。

Photo_5  栃木市城内2丁目にある現在の圓通寺。山門脇には「前方後円墳」の史跡がある。平成25年9月に国学院栃木短期大學が発掘調査を行い「埴輪」が発掘された報道されている。田村町にある下野国府へと続く東山道が近くを通っていた。古代下野の豪族の跡として調査は今後も続けられる。

 15世紀後半に南会津長沼氏が皆川の地に移住してきて皆川氏を名乗る。永禄7年(1564)に小山氏攻略として小田原北条氏は皆川俊宗に小山氏の支城である榎本城攻略を命じ、榎本城攻城戦がある。その前年の永禄6年(1563)に皆川俊宗は佐野・宇都宮氏と結んだとされる川連氏の居城、川連城(栃木市大平町川連)を攻略し、榎本城を攻める態勢を作った。この永禄6年に俊宗は圓通寺を太平山圓通寺平から川連に移動させている。川連のどの地域なのかは不明だが、宗教を通しての地域支配もあったことが伺える。

Photo_2 俊宗の後を継いだ皆川広照は、天正7年(1579)栃木城築城の計画のもとに、圓通寺を川連から現在の栃木市城内2丁目の地に移し、その北接に栃木城を築いた(栃木市史より)。

 「太平山内にある三寺院の中でどうして圓通寺だけが皆川氏によって、大平町川連から栃木市城内に移動させられたのか?」と疑問が残っていた。栃木市史の中で執筆した日向野徳久氏は「太平山にあった頃、戦国武将皆川氏は、圓通寺を城の一つとして利用していたのかも知れない。圓通寺平からは、遠く小山方面まで指呼の間に見ることができる」と記述している。意外と近い距離にある小山氏を見ることができる圓通寺平。栃木城は対小山氏を想定して築城している。城の一つとしての圓通寺ならば、栃木城の一角としての移動であることが頷ける見解だ。

Photo_9 「前方後円墳の先は土塁ですよ。土塁は栃木城につながり、圓通寺を通ってうずまに川に続いていたと云われています」と圓通寺の住職は語ってくれた。山門両脇には土塁の跡地と見える。対小山氏を見据えての栃木城の前方郭となっているのが圓通寺敷地だと改めて分かる。皆川氏と圓通寺との繋がりは、天台宗比叡山を含めて何かがあると思えるのだ。今後、新たな発見が待たれる。

 圓通寺本堂は新しくなっている。本尊は「千手観音」。秘仏になっているが、前立の千手観音立像を拝観することができる。本堂の左脇には「高慶大師立像」と「高慶大師入定記」の石碑が建っている。

Photo_5 さらに右横には天保9年(1838)10月に第38世住職慈妙によって建立された「高慶大師定崛(ジャウタツ)之碑」がある。慈妙は江戸末期に誤って出火し、堂宇宝塔や古文書を焼失した。そのため後世に高慶大師入定の事や慈覚大師、等海の中興のことなど「伝燈録」に書き残している。この文書に加えて、慈妙は高慶大師の業績を石碑に彫刻し、高慶大師定崛之碑として寺の境内に建立している。(「寺史照顧(圓通寺と中興)」より)。

 救海高慶大師が石室に籠り、その心境を書き綴った4枚の「入定記」の全文が石碑として展示建立しているには驚いた。Photo_7
 再三引用してきた「寺史照顧(圓通寺と中興)慈覚大師・等海法印・高慶大師」は先代の第45世住職、佐藤貞文氏が執筆している自家本となっている書だ。檀家や知人に配布した本で絶版となっている。しかし栃木市図書館で閲覧借りて読むことができる。単に圓通寺の歴史を記述しただけではなく、即身成仏への修業の世界をも著している書だ。

  同書には4枚の「入定記」の全文の記載と読解が詳細に記述されている。第1紙は27日目、第2紙は47日目、第3紙は57日目、第4紙は67日目と4枚ある入定記。佐藤貞文氏は「この入定記4枚は、和紙に毛筆で墨書したものです。書かれてから約600年がたちますが、文字はしっかりとしていて、判然と読むことができます。一字一字に崇高な気魄が感じられ、行者救海の心が伝わってくるようです。石窟内で禅定7週間にわたる断食修行中の日記です。」と感極まって記述している。

  祈願念じる世界は主観の世界になってしまう。断食修行の先に即身成仏となって甦る。自分には到底及びつかない世界だと思える。しかし、乱世の中で困窮した民衆を救う祈願の心は受け止めていく必要がある。それにしても慈覚大は有名だが高慶大師の名前はあまり知られていない。栃木市の三大上人は慈覚大師、日光開山の勝道上人、真言宗智山派総本山智積院開山の玄宥と云われている。高慶大師は入っていない。今後見直しがされる時期が来ると思える。

                                   《夢野銀次》

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社会福祉活動の父―平岩幸吉の足跡

Photo  「太平山のあじさい坂に平岩幸吉の碑が建っているの、知っているか?写真でよく見る荷車で廃品回収している人の碑だよ」と知人に言われた。「栃木市で知っていてほしい人物は作家では山本有三と吉屋信子、それに栃木老人ホームを作った平岩幸吉なんだよな」とも忠言された。

  太平山表参道(あいじさい坂)の登り口、蓮祥院六角堂の右側、参道側からは左側に高さ2メートル強、幅1メートル弱の碑が建っている。碑の中央には「平岩幸吉氏善行旌表(せいひょう)碑」と書かれており、左側には「澁澤栄一書」と添えられ澁澤栄一が撰筆している。

  背面(碑陰)には明治43年7月10日に55歳で死去した平岩幸吉の死を悼み、平岩幸吉の善い行いを褒め称え公表して世間の人々に知らせ、後世まで伝えるために翌年の明治44年7月10日に栃木婦人協会の会員と有志達によって建立したと記されている。背面の善行碑文は作家吉屋信子の父、当時下都賀郡長をしていた吉屋雄一が書いている。

0181_2  この平岩幸吉善行碑文について小川澄江国学院栃木短期大學教授は「平岩幸吉の善行と保育場」(『栃木文化への誘い』下野新聞発行)で考察文を著している。

  碑文から平岩幸吉の善行について小川澄江氏はこう要約している。「平岩幸吉は、明治34年(1901)4月に栃木婦人協会を創設し、常務幹事となって日露戦役の際には金品を募って戦地の兵士や残された家族に贈呈して慰労し、また栃木保護会を組織して女性更生者の自活を援助し、さらに私財をなげうって困窮者を救済を救済するなど、たくさんの善行を積んでいます」と記述し、「私は、これらの平岩幸吉の善行のなかで、とくに『栃木婦人協会ノ事業トシテ、保育場ヲ開設シ、労働者ノ幼童ヲ教養セント事緒ニ就クニ当リ不幸ニシテ溘然(こうぜん)トシテ逝ク』と刻まれていたところに目を引かれました」と栃木婦人協会の活動と「保育場」について注目していることを挙げている。平岩幸吉の社会福祉活動としての「保育場」の 開設は大きな現代的な意味を持っているからだと指摘をしている。

Photo  小川澄江著の中では「明治21年に栃木県下で2番目の幼稚園が設立された栃木幼稚園は明治28年頃、櫻井源四郎(栃木町町長)と平岩幸吉に受け継がれ、栃木町入舟町の大日堂の境内にあった松井医院の跡に移っています」と記述され、大日堂前での児童29人、保母2名と櫻井と平岩が写っている写真を掲載している。さらに平岩幸吉は明治44年『現代之栃木』によれば栃木幼稚園に『保育場』を付設して『労働者』の子どもたちや受刑者の子どもたちを保育・教育しようとしたのです」と記述している

  この「保育場」を併設した栃木幼稚園は大正の中ごろまで存続したとされているが、詳細については記録がなく、不明な所が多々あるように文面から受けた。「保育場」の跡地である「大日堂」(栃木市入舟町)は栃木市役所に向かってうずま川「常盤橋」を渡り、県庁堀に向かう運河の中間あたりの道路右側の奥にある。 
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  昭和34年東映映画作品「六人姉妹」の中で、六人姉妹達の叔母がしている美容院前の道路がロケで映しだされている。私にとり栃木市街で愛着のある風景の一つでもある。道の奥には私が通った旧栃木第二小学校があるからだ。

 平岩幸吉の「保育場」運営は明治43年(1910)7月10日、急逝によって頓挫する。しかし、小川澄江氏は指摘する。岩幸吉が目指した福祉・保育の志は「平岩幸吉氏善行旌表碑」に「栃木婦人協会ノ事業トシテ、保育場ヲ開設シ、労働者ノ幼童ヲ教育セントシ」刻まれていることから後世まで残そうした当時の栃木婦人協会の会員及び有志の方々の志によって今日まで受け継がれていると指摘している。子供を抱え働く女性を見つめ「保育場」を設置する活動を始めていたのだ。働く者の生活を見つめる視点は平岩幸吉が学んだ久松義典によるとされている。

 
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  石崎功一著「平岩幸吉翁のあしあと」では久松義典の言葉として「政治は弱者に光を当てなければならぬ。でなければ、文明国とはいえまい。しかし、だ、いいかね?ここが大切なところだ。政治が、社会が悪い、というのは子どもでも言える。そうではなく、大事なことは、我々自身身近に何ができるか、だ。」と平岩幸吉に強い影響を与えたことを記載している。

 
  久松義典は栃木師範学校校長を務めた後、明治31年から明治37年までの7年間、栃木町大杉新田に私塾「名教院」を開いた。しかし、栃木町での暮らしは危険思想の人物だとされて
不遇だったと云われている。金沢市の金沢女学校校長に招聘されたが明治38年6月に急逝している。金沢市は市葬で報いている。当時の第一級の民権派知識人と云われた人物だとされている。その久松私塾に平岩幸吉は息子平八郎とともに学んだ。「名教院」のあった場所は大杉新田7番地(現在の栃木市大町)となっているが、跡地は不明だ。栃木市史では久松義典が栃木養老院の前身をなす婦人協会を創設したと記述されている。

Photo_15  平岩幸吉は名教院で学ぶ傍ら、師の教えを受け継ぎ明治34年(1901)4月15日に栃木町沼和田26番地に養老院を栃木町の篤志婦人達で栃木婦人協会を88人で設立している。この養老院は東京の聖ヒルダ養老院と神戸養老院に次いで、日本で3番目となっている。

  明治12年(1879)23歳の時に日本橋の米問屋に生まれた平岩幸吉は栃木の町に来ている。後に結婚する田畑シカの故郷が栃木町だったからだ。うずま川の川岸、倭橋近くに川魚と牛肉を扱う料理屋、金来屋を開業している。因みに現在の金来屋跡地は空地となっているが、向かいの家が郷土史家「水戸天狗党栃木町焼打事件」の著者、稲葉整太郎の家となっている。 吉村昭が「天狗争乱」を執筆する際には稲葉家に度々訪問し、稲葉誠太郎所蔵の資料を調べていっている。「何度きたかしら?」と稲葉家の店先で家の女(ひと)が話してくれた。

Photo_17 当時の栃木町は鉄道開業により舟運業が衰退し、失業者が増加した。さらに日露戦役を迎え、窮民層が拡大していった。栃木婦人協会を作り、窮民救済の活動を行うには資金が必要であった。個人からの寄贈や寄付だけでは限界だとして、稼業の金来屋を妻に任せ、廃品回収を平岩幸吉は始めた。自ら草鞋、饅頭笠を被って、牛乳配達車を改造した荷車に「栃木婦人会喜捨函」と書いた箱を積んで、家々を回った。栃木婦人協会の活動を説明しながら紙くずや襤褸(ぼろ)布を回収している姿が今も写真(片岡写真館蔵)に残されている。

Photo_13  養老院は大正6年(1917 )に栃木町沼和田442番地に移転し、名称を栃木婦人協会養老院と改めた。昭和22年(1947)には栃木養老院と名称を変更した。その跡地には栃木県南児童相談所と保育園が建っている。 
  昭和44年(1969)
4月には現在地の栃木市梓455-27に移転を行い、「社会福祉法人栃木老人ホームあずさの里」として100名を収容して、今も運営を行なっている。

  私は栃木老人ホームの当初の名称が栃木婦人協会と名乗っていたことを今回知った。私自身、栃木婦人協会はどこに行ってしまった分からなくなっていたからだ。今の栃木老人ホームを訪ねてみて、平岩幸吉及び栃木婦人協会の志は生き続けていることが実感できた。ただ、後日、平岩幸吉の写真がホーム内に飾られてあることが分かり、再度訪ねて行くつもりだ。

Photo_18  明治39年(1906)11月に現在の栃木刑務所の前身の栃木監獄署、栃木支署が女子受刑者の受け入れを開始した。栃木婦人協会として子女養育や里親探しを行なったとされている。服役後の女子受刑者に自活の道を与えて再犯者をなくそうと、平岩幸吉らの働きかけで町内の各宗寺院住職達によって托鉢修行の浄財をもって更生保護事業を始めている。

 この更生保護事業は下野保護会、下都賀郡保護会と継っていき、昭和8年(1933)に名称を栃木明徳会に改めら、現在の更生保護法人栃木明徳会と受け継がれている。

 栃木市神田町にある「更生保護法人栃木明徳会」会館の収容人員は20名になっている。出所後の自活の生活を目指している。昨今では「薬物」による服役、出所が短いため再犯防止・保護のため法改正が行われ、執行猶予を伸ばす措置をとり、「薬物」から守る体制を作っていくとされている。

Photo_19  「男体山が見える墓に入ることが遺言だったと孫の平岩慎一郎医師が語っていた」と栃木明徳会理事長の石崎功一氏が話してくれた。「今は男体山が見えないけれどネ」とも付け加えて。

  その平岩幸吉のお墓は栃木市大町の「ならび塚」にある。例幣使街道の橋本ガソリンスタンド手前を左に曲がり、100メートル行った左側に墓地がある、平岩家の墓地は左に入ったすぐにある。平岩幸吉のお墓がここにあることは一部の人しか知られていない。

  社会福祉活動やボランティア活動において平岩幸吉について今一度見直されることが必要だと思える。今なお100年を経過しても平岩幸吉がおこなった事業は継続されているからだ。これは重く、いかに優れた事業を行なったかを示している。社会福祉活動の実践は個人の力では限界がある。久松義典の「大事なことは、我々自身身近に何が出来るかだ」という言葉の意味と平岩幸吉の続けるという考えだ。何よりも栃木婦人協会を設立、組織化したことが大きく注目される。また個人からの寄贈・寄付を募るだけではなく、廃品回収等をおこない、資金を捻出していくなど、事業の継続化と組織作り考えて行動を行なっていることだ。栃木が生んだ社会福祉活動の父、平岩幸吉については、これからも背景、検証、考察をしていきたい。

(参考・引用資料文献)

「栃木文化への誘い、平岩幸吉の善行と保育場」小川澄江著(下野新聞社)/「栃木史学第25号、平岩幸吉と栃木婦人協会の活動」小川澄江著(国学院栃木短期大学史学会)/「ボラティア活動の父 平岩幸吉翁のあしあと」石崎功一著/「栃木市小学校社会科副読本読物資料」栃木教育委員会/「社会福祉法人栃木老人ホーム百年史」社会福祉法人栃木老人ホーム/「栃木市史通史編」/「創立百年史とちぎ神田のさと」更生保護法人栃木明徳会。

                             《夢野銀次》

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徳川家康による東国支配-宇都宮氏・結城氏の去就

  以前栃尾城見学の時、同行者のご婦人から聞かれた。「秀吉は何故、春日山から上杉景勝を会津に転封させたのかしら?」。その時は、秀吉の権力集中への政策の一環だろうと答えたことがあるが、それで良いのか、ずっと気になっていた。

Photo  下野の戦国末期から江戸初期の中で分らないことがいくつかある。
①400年続いた宇都宮氏の当主、国綱が慶長2年(1597)10月に秀吉により突然改易に処せられ備前岡山の宇喜多秀家に預かり、宇都宮氏が滅亡したこと。
②天正18年(1590)7月の小田原北条滅亡後に結城氏に家康の二男で秀吉の養子となっていた秀康が結城氏を継いだこと。
③家康の生存中、家康は皆川広照を絶対に許さなかったこと。大坂夏の陣に井伊家に陣借して参戦したにもかかわらず、どうしてなのか?
 11060883081_3 平成23年(2011)の10月に「中世関東武士の研究 下野宇都宮氏」が江田郁夫編者により戎光祥出版より発刊されている。下野宇都宮氏の歴史はそのまま東国武士の歴史でもあり、解明・課題点が多い。その中で、この書は今までの宇都宮氏研究の論点整理を、総論を含めて下野宇都宮氏について11人の著者で執筆されている大作書だ。第1部平安末期・鎌倉時代の宇都宮氏、第2部南北朝・室町時代の宇都宮氏、第3部戦国時代の宇都宮氏、第4部宇都宮氏の一族・家臣と、その時代情勢における宇都宮氏と「家中」「味方中」との関連での研究書となっている。

 この書の中で第3部にある江田郁夫執筆の「元亀期の宇都宮氏ー甲相同盟と宇都宮家中ー」と、市村高男執筆による「近世成立期東国社会の動向―結城朝勝の動向を中心として」の2点を関心深く拝読させて戴いた。

 元亀3年(1572)の正月、皆川俊宗による岡本宗慶を殺害して宇都宮城の占拠を「皆川俊宗の乱」と執筆者は名付け、俊宗の行動の背後に元亀2年甲相同盟により小田原北条氏による下野攻勢への対応として指摘をしている。親後北条方(皆川氏・壬生氏)対親上杉方(岡本宗慶)の宇都宮家中の主導権争いから、当主宇都宮広綱による味方中(佐竹・小山)と連携して皆川氏の攻城への攻略が古文書史料(『東州雑記』、『下野国旦那帳』、『佐竹文書』)などにて執筆されている。

 市村高男執筆による「近世成立期東国社会の動向」の中で、「豊臣秀吉の死後、徳川家康が政権の座を掌手したのはあくまでも歴史的結果であって、歴史的必然ではなかったとい点である」と執筆者は最後のまとめで指摘し、徳川家康による東国支配の究明課題の一つとしている。その動向の一環として結城朝勝のことを記述している。結城晴朝は結城氏の嫡子に宇都宮国綱の弟、朝勝を養継嗣として迎えていた。しかし、結城氏の系図から朝勝は抹殺され、晴朝の継嗣は家康の二男秀康となっている。その点について執筆者は天正18年(1590)の7月、秀吉による家康の関東転封の公式発表前に結城春朝と秀吉側とのやりとりに着目している。

Photo_2 著書の中で結城氏から秀吉への最初の使者として、これまでの多賀谷安芸守政弘ではなく、福井藩史『国事叢書』から水谷伊勢守勝俊の存在を究明し、そこから家康の関東転封をめぐり、結城氏の継嗣に秀康へとの画策があったことを指摘している。秀康が結城氏の継嗣になることは、秀吉とり豊臣政権による関東支配の基地として掌握できること。一方の家康にとっては、実子秀康が配置されるとすれば、関東における家康の地位が確固たるものになる。こうした思惑を背景に執筆者は家康と特別な関係である水谷勝俊を挙げている。どういう特別な関係なのか、自分にはわからないが、調べた範囲では結城氏の宿老であった水谷勝俊は関ヶ原の戦い以後は下館七万四千石の独立大名になっている。結城氏の存続を図るため、当主結城晴朝による秀康継嗣依頼という単純な構図ではなかったのだ。 秀康の結城氏継嗣は秀吉ではなく家康の画策として関東支配の一環としたとするならば、確かに頷ける着眼だ。秀康は福井松平氏の藩祖となり、松平春嶽を輩出するなど幕末明治維新を迎えるまでつづく。10年前、出張の帰り福井市歴史資料館を観て、初めて結城氏の系図であることを知った。

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  慶長2年(1597)10月の宇都宮国綱改易の理由として、①浅野長政の次男長重の宇都宮氏入嗣を拒否したこと、②所領高の過少申告が浅野長政の検地によって発覚したこと、③石田三成、浅野長政の二人から影響を受ける微妙な立場に立ちながら、内部統制を実現しえず内紛を起こしたことなどがあげられている。執筆者の市村高男氏は豊臣政権内部の東国支配を巡って、強硬派=集権派(石田、増田)と宥和派=分権派(徳川、前田、伊達)の派閥争いの結果として宇都宮改易を捉えている。
執筆の中で、藤木久志氏の指摘、『石田、増田氏等が、氏郷の死後徳川氏に接近した蒲生氏をつぶし、奥羽支配の拠点として注目されていた会津へ上杉景勝(石田らと結んでいる)を加増転封することによって、景勝を基本とした奥羽支配体制を形成しつつ、徳川氏へのにらみをきかせることをめざした』と引用し、これに対して徳川派の巻き返し策を展開させている。浅野長政を前面に立て、『佐竹文書』から石田派による蒲生氏の改易攻勢に対して、徳川派が石田派の佐竹・宇都宮氏をつぶして蒲生氏をその跡に配置しようとしたことを挙げている。徳川派による石田派への攻勢は関東から石田派の大名を完全に一掃し、東国支配における徳川氏の地位をより強化することを意味することとしている。

  結果として佐竹氏の改易は石田三成により免れたが、宇都宮氏は改易・滅亡した。関ヶ原の戦いにおいては上杉氏と佐竹氏の連合が成立した。その橋渡しとなったのが、結城氏を追われ、宇都宮改易後には上杉の在番衆となっていた結城朝勝の動向を記述している。朝勝は白河城に陣を敷き、小山・宇都宮に在陣する徳川方の結城秀康らと対峙した。最後に戦国末~近世初頭、秀吉死後における徳川家康による政権奪取は歴史的必然ではなく歴史的結果として、その歴史的要因を解明していくことが東国における近世成立の筋道を明らかにしていく必要があると結んでいる。

 この書を読み、宇都宮氏の改易と結城氏の継嗣問題の背景など、ある程度分ったような気がする。しかし、まだまだ胸に落ちない部分があり、今後は栃木県史・宇都宮市史・結城市史などで記述されている通史を読んでいかないといけないと思えた。石田派の宇都宮氏が存続していたならば、関ヶ原の戦いはあったのだろうか?家康政権はできなかった…?と、また“ならば”を想い浮かべてしまう。

 皆川広照と徳川家康の関係については、広照が織田信長・北条氏康・豊臣秀吉との関係を結ぶ際に家康が間に立っていること、広照が最終的に徳川氏の傘下になっていることなどを踏まえ今後の研究課題としていくつもりだ。

 

                       《夢野銀次》

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明治・栃木市の歴史本=『文明開化の写真師』(著者:小平豊)

Photo 巴波(うずま)川、相生橋のたもとに旧栃木警察署の建物の模した『片岡写真館』(栃木市室町1-10)がある。明治2年創業と玄関に掲げられ、写真屋(写場)として現在も営業を行っている。また、明治期を写した写真も店内で展示し、資料館としても開設をしている。

 この片岡写真館の創始者、片岡如松(かたおかじょしょう)とその子息、武の写真師としての生涯を書いた本…『文明開化の写真師 片岡如松物語』が平成17年(2005)に栃木市在住の作家、小平豊著作によって随想舎より出版されている。

 日光武士団であった片岡如松は明治を迎え写真師横山松三郎と出会い、今の東武日光駅前に明治2年に写場(写真館)を開設した。そして明治5年8月に日光から栃木町相生通りに写場を移した。

 明治4年11月に廃藩置県にともない、10県あった下野の国は栃木県と宇都宮県の2県となった。時の下野県令鍋島幹(みき)は日光県を継承するとして栃木町に移ることになり、片岡如松も鍋島県令に請われ、栃木町への移転を決めた。明治6年6月15日(今の県民の日)に宇都宮県を合併し栃木県が誕生した。すでに栃木県庁舎は明治5年11月に今の栃木高校を含めた入舟町に落成していた。

315812131  この著作、『文明開化の写真師』は明治初期の写真技術を詳しく記述しているが、それより明治初期からの栃木町を片岡写真師を通して描いているのが素晴らしい。明治の栃木町の歴史書を読んでいるようだった。

 当時の栃木町をこう記述している。

「この町は、材木、農産物の集積地だ。近郊で生産される麻、麻縄の取引高では日本市場を独占する。商品は町を貫流する巴波川で大消費地東京に運び、帰り舟で海産物から化粧品の類まで搬入する。日光御用達の品々もこの町で陸揚げされ、例幣使街道を通って日光に送られた。水運と陸運の交差する地の利を得て栃木町は北関東有数の商業都市へと成長したのである」

 さらに、当時の舟運の流れを巴波川―渡良瀬川―利根川―江戸川―江戸川河口辺りから船堀川―小名木川―隅田川―隅田川川岸の日本橋と記している。この日本橋からのつながりとして、今はない『鯉保』の先祖、松尾芭蕉の高弟の一人、杉風(さんぷう)のことを記述している。本名は鯉屋藤左衛門、日本橋本小田原町で幕府御用の魚問屋を営み、芭蕉に財政支援をしていたことや明治7年に日本橋町内より譲り受けする山王祭山車『静御前』の逸話をも記述をし、栃木と日本橋を結び付けている視点がなるほどと思えた。

 自分としてずっと分らなかった地名変更の記述もあった。明治5年12月3日から太陽歴に改める際に、栃木町の上町、中町、下町が万町、倭町、室町となり、町の中心にある中町三丁目が倭町一丁目となったこと。念仏橋を幸来橋に改名したこと。幸来橋にあった木戸が川の内側にあったこと。高札場が今の倭町にある足利銀行栃木支店前にあったこと等がこの著書で分かった。

Photo_4 明治期の栃木町を書く際には、明治17年1月21日の県庁移転の話は欠かせない。著者(小平豊)は当時二代目栃木県令の藤川為親を通して語らせている。

『宇都宮の県庁移転運動の黒幕がすけて見えて来たわ。わし(藤川県令)の頭越しに、あげん運動を操れる男、内務省(山形有朋)と通じ民権派の息の根ば止めにかかれる男、あん男(三島福島県令)しかおるまい。今回の移転騒動は、要するにあん男が栃木県令に着任する前に、移転実現に一定の目どをつけておきたいがために仕組んだ策謀だったとよ』と明治政府内における薩長と佐賀土佐との民権運動をめぐる争いの一貫として、栃木県庁移転を指摘している。

 明治16年12月12日に栃木県令に赴任した三島通庸(みしまみちつね)は薩摩藩士として寺田屋事件に関与し、山形県令・福島県令として自由民権運動の弾圧をおこなってきた。赴任1か月も満たぬ、翌年1月21日に早くも県庁宇都宮移転が太政官名で通達がされている。山形有朋と三島通庸という薩長閥の談合により決められたとの記述がある。

 巴波川水運による情報伝達の速さが自由民権運動の高揚を生んだ栃木町からの県庁移転は、鍋島・藤島県令と続いた鍋島藩閥の毛落としと考えるなら、政治抗争の一環としてだったことがうなずける。宇都宮が県の真ん中にあるという理由から県庁移転が決められたのではないということだ。

006 今年7月20日のとちぎ市民学舎の『栃木町と栃木県庁』の講座の中で、講師の栃木県立古文書館職員の方は栃木県庁移転理由の質問については、『史料がないことから、明確な理由は分らない』と答えている。確かに、談合という政治的な取引では『史料』は残らない。ただ、この講座では明治5年11月に落成した栃木町栃木県庁舎の敷坪面積2万654坪5合5勺。総工費8296両永9文6分の歳入内訳として①3078両3分永75文は一般住民からの献金・献夫、②4578両永184文6分の1/3が国、2/3が郡が負担という提示があった。栃木町の県庁舎の総工事建設費用の45パーセントが一般住民、すなわち栃木町在住の穀物・回船問屋を初めとした商家や町人、近在農民の人が献金していたこととなる。元治元年(1864)5月の水戸天狗党太平山着陣の際、栃木商家は2000両を藤田小四郎率いる天狗党に献金した。しかし、翌6月6日の『愿蔵火事』で町の大半を焼失した栃木町の商家、住民は素早く『見世蔵』(店舗・住居兼用の蔵)等を建立し復興させた。いかに商業が発展し、財政力を持っていたかを示している。

 『文明開化の写真師』、副題に片岡如松物語と記しているが、この書は評伝ではないかと思える。また、本の中には、台風による惨状の写真を二代目の片岡武が撮った写真を記載している。夭折した片岡武の写真師の姿勢は今につながるものとして描いている。

  最近作者の小平豊氏にお会いした。その時、『史実に添って書きました。できるだけわかりやすく栃木の明治を書いたつもりです』と語っていただいた。温和な人柄をのぞかせていたのが印象的でした。栃木市の歴史書で、日向野徳久氏の『栃木市の歴史』と並んで栃木市の明治を記した歴史書として貴重な書物として受け止めていきます。

                          《夢野銀次》

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栃木口語り・吹上現代故老に聴く―語り言葉で紡ぐ郷土誌

 平成22年(2010)11月に『栃木口語り 吹上現代故老に聴く』書は、野村敬子と原田遼との共著で国学院大学栃木短期大学の「口承文芸セミナーの」からの発信によって瑞木書房より発行されている。冒頭に、口承文芸研究者である野口敬子によれば、『口語り』とは語り手が対座して聴き手に対して自由に心に浮かんだ出来事について言葉が紡ぎ出す営みをさすとし、本書を『語り言葉で紡ぐ郷土誌』を指向するものとしている。

 栃木市吹上在住の三人の故老が幕末から明治・大正、昭和の太平洋戦争終戦に至るまで吹上地域にまつわる先祖から伝わる話、麻の生産や実際に見た戦争のことなど地域の歴史の口語りが記載され、最後には幻の郷土誌・大正2年(1913)発行の『吹上郷土誌』全編が載っている本だ。

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 始めに栃木市遺族会会長をしている伊津井喜市さんの吹上の歴史、吹上城、皆川から上総国五井から転封してきた有馬氏による吹上藩、麻つくり、伊吹山「もぐさ」、「しめじが原」、吹上役場などの語りがある。

Photo  次に330年以前から住んでいるという塩田保さんの『口語り』では「吹上藩斬妖事件」、当地の偉人として自由民権運動、田中正造らと国会議員として活躍した塩田奥造の米山薬師にある顕彰碑の話から始まり、昭和38年吹上中学校の整備拡張 《吹上城址に建つ吹上中学校》              の際に見つかった吹上城の抜け穴や、戦後の教育改革で新生中学校を始めて村で作り上げた村立吹上中学校の話が出てきて興味深い。

 中でも明治16年~18年までつづく栃木県庁の栃木から宇都宮への移転をおこなった三島通庸県令との間に起きた「加波山事件」と自由党へ取り締まり。『三島県令はかたっぱしから自由党員を捕まえろと命令して、縛りあげたもんだから、栃木の町の荒物屋の縄が亡くなったとか、刑で亡くなった福島県の相馬藩士の杉浦吉副は栃木の満福寺に葬られている』とういう語りが出てくる。三島県令による県庁移転の決断をした確かな史料は存在していない。『どうして、県庁が宇都宮に移ったの』という子供達の質問。私達は明確に答えることができるのか?。 塩田家に伝わる郷土料理の「シミツカレ」「シモツカレ」、終戦時に吹上小学校に駐屯していた拓部隊、食料増産のため焼夷弾の焼カラで鍬にして各学校に配給があったこと。戦後の教育改革で新生中学校を始めて村で吹上中学校を作り上げた話等、語り継ぐ必要を感じた。 

 3人目の唐木田利伊さんの話は家業が麻の生産と仲買のため、麻をめぐる話で『現在この地方で麻を作っている農家はたった七軒。大麻は麻薬で毒もあります。しかし今は改良され麻薬の成分は少ないです。昔、麻畑の傍の草を刈り取っておいたものを馬や牛に食べさせたら具合がおかしくなる。人も腹が張ってくる。麻作りは農家の皆、大変な仕事でした』と語り、農家の嫁の評価から現在『下駄の鼻緒のシンとか、草履の鼻緒のシンとか、また最近では神社神社の鈴縄を奉納する神社が注蓮縄を作る。全国の90パーセントは栃木県産です。栃木県といっても鹿沼と栃木でも七軒でしょう』と語り、明治時代が最も大麻生産が盛んであり、栃木は下駄の産地、鼻緒のシンナワが必要であったと語る。余談ですが、この唐木田利伊さんは私の縁者です。私の家は「下駄」を作っていた。麻と下駄の関係で母親は昭和の初期に父親がやっていた栃木町の下駄屋に嫁に来たのかもしれない。

Photo_2  語りはさらに正仙寺の檀家総代から戦争中に国に供出された東善光寺の『梵鐘』を昭和63年に戻す話は貴重な伝えとなると思え感心させられる話である

 《東善光寺の鐘楼》

 

最後は終戦時に出征兵士の見送りは威勢よくバンザイと言って送り出すことが禁じられ、一人の見送りしか許されなかったことが語られてくる。映画のシーンのような万歳での見送りは終戦ま続いたと思っていたが、違うことを知った。

 この書に記載されている大正2年8月25日発行の『吹上郷土誌』はじっくり読みたい郷土誌だ。幕末の天狗党・出流事件・戊辰戦争への吹上藩のかかわり方や明治期の、鍋山と栃木駅を結んでいた人車鉄道の話(後日、銀次のブログに記載予定)等が多数記載されおり、前段の3人の故老の語りとつながりを感じた。

 著者の原田敬子は書の途中で『不特定多数の人が繰り返し語り継いだ、公共の知としての「伝え」が全てです。それら不特定多数の人々が継承してきた「伝え」を聴き取ることによって、共同体や地域を構成してきた多様な文化や精神風土を理解できると考えられるからです。、また「口語り」は共同体が継承している生活文化や心情、構成員としての心意など言葉で「伝え」るものです』と語っている。口承文芸書は郷土史を研究する者にとって必読な史料になる。

                        《夢野銀次》

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幕末江戸に町兵-野口武彦著『江戸は燃えているか』

 幕末の人物の「機」という流動化した時代に焦点をあわせた書物。

先駆的な勤皇志士の清河八郎と暗殺者の佐々木只三郎(会津の出であること)。不実な友人の誘いがなかったら幕末歌壇の歌詠みとして生を全うしたろうー天誅組、伴林光平(ともばやしみつひら)京都御所を舞台としての孝明天皇、岩倉具視、山内容堂。幕末の志士、赤報隊の相楽総三(さがらそうぞう)。幕末江戸幕府の財政を司った小栗上野介。江戸無血開城の対応として江戸焦土作戦構想した勝海舟。

 いずれの人物像も時代背景と人間関係やその人の立つ基盤を踏まえて着想しているのが面白い。

 中でも、『江戸無血開城秘話』では慶応三年(1866)11月に町人有志から江戸の治安維持のため町奉行所に「市中御備へ町兵願」という町兵設置の提案があり、翌年慶応四年1月13日に幕府は町兵設置を正式に決め、町人に銃砲装備の方針を出した。しかもゲベール銃で1月17日から2月2日まで幸橋門内で延べ688人が射撃訓練をした。しかし、江戸城における和戦論議の中、2月中に「町兵」という名称が消え「町火消人足」とされた。

 何故か。町奉行支配組頭の関口隆吉の内部事情によれば、町兵設置は江戸の治安警備を口実として主戦論を唱えて会津藩のイニシャティブによる首都防衛隊の編成だったということを紹介している。

 この「町火消人足」の訓練は続けられ、勝海舟の「江戸焦土作戦構想」との接点を記述している。

 幕末江戸における「町兵」が設置されていたこと、初めて知った。

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著者:野口 武彦
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星亮一著「会津籠城戦の三十日」

 戊辰戦争での会津籠城戦は多くの語り草がある。星亮一著「会津籠城戦の三十日」では籠城戦に加わった会津藩士・その妻子や官軍としての諸藩士が書き記したもので構成しているため、より現実味を著してしている。とりわけ首を持参しての籠城参加の妻女や空き家となった武家屋敷での強奪を行う官軍兵士、強奪品を荷車に積み、市場が立ったという箇所は戦のもつすさまじさを現している。

 会津の恨みは永く続く訳でもあり、東北諸藩は西国に比べ、この戊辰戦争により100年も明治政府により開発が遅らされ、やがて昭和初期の時代に流れる下地になったなど思えた書です。

会津籠城戦の三十日 Book 会津籠城戦の三十日

著者:星 亮一
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  《追記》補章・解説として鶴ヶ城を執筆している戊辰戦争研究会会員の村井雅子氏の鶴ヶ城についての解説は非常に参考になります。会津若松城を見に行くときの必読本と思える。とりわけ北の出丸について興味をそそる。この北の出丸を作ったのは築城者の蒲生氏郷なのか、調べてみたい。

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