下野の幕末

幕末の栃木町―うずま公園「西山謙之助供養塔」

041_2  安政6年(1859)に詠われた狂歌の中に、「念仏ばし わたるゆきゝ旅人も 笠をあみだにかぶる夏の日」(岩月、鶴成)がある。夏の暑い日に阿弥陀かぶりで旅人が念仏橋を渡る光景――。何やら念仏を唱えて阿弥陀かぶりをして渡るさまが思い浮かび滑稽な感じがしておもしろい。念仏橋は現在の栃木市内を流れる巴波川に架かる「幸来橋」のことを言っている。

  念仏橋には欄干があった。弘化3年(1846)の「片柳河岸絵図」に描かれている念仏橋概要では、「長さが12間(21.8m)、幅2軒半(4.5m)、杭6本、手摺有り」と記載されている。手摺のある橋であり、栃木河岸問屋がそれなりに出資しての立派な橋だったと思われる。

028  慶応3年(1867) 12月11日(新暦1月5日)の夜半の五つ時(午後8時)。巴波川に架かる念仏橋の左岸にある西木戸は閉じられていた。念仏橋の方から「吾れ西山謙之助、開門せよ」と名乗り、木戸を開けて槍を引っ提げた騎馬2騎が供の者1人を従え栃木宿内に入ってきた。この3人は、栃木宿に先乗りしている5人の先発隊の応援のために鍋山村からやってきた西山謙之助ら薩摩出流山糾合隊の浪士たちであった。

  暗闇の中、篝火に照らされた木戸口では鉄砲、槍で武装した栃木陣屋藩士と町民兵50人が待ちかまえていた。「ズドーン」と鉄砲の合図で2頭の騎馬に陣屋勢が襲い掛かる。西山謙之助ら2人は馬から引きずり降ろされ、討ち取らていった。供の者としてついて来た国定忠治の子息、大谷刑部は逃げることができたが、岩船の戦いで捕えられ、天明河原にて斬首されていく。今から150年前の慶応3年(1867)の12月11日に出流山事件における念仏橋西木戸口での戦い。

Yjimage3  慶応3年(1867)10月15日の大政奉還を受けて京都を舞台に、天皇を中心にした新しい政治体制を廻り、権力闘争が展開されていた。徳川を倒して新政府構築を目指す討幕派の薩長。徳川を含めて新政府を構築する山内容堂、松平春嶽ら公議政体派との争い。流れは徳川を交えて諸侯会議で進める公議政体派になりつつあった。しかし、「徳川を倒してこそ王政復古は成る」とする薩摩藩は何としても徳川を倒すことを宿願として、江戸、関東を擾乱状態として武力衝突への挑発行為を画策する。

 その画策、挑発行為とは相良総三を中心に江戸薩摩屋敷に屯集した尊王攘夷の浪士、草莽の士で構成する薩摩屋敷屯集糾合隊による、下野、甲州、相模の3か所と江戸における擾乱状態を作るための挑発行為であった。この画策は徳川・庄内藩による江戸三田薩摩藩邸焼打ちを招くことになる。翌年の正月3日の鳥羽伏見において、薩摩の家来の処罰を求める「討薩之表」を掲げて京都に進軍した幕府軍と薩長連合との戦闘に繋がっていった。戊辰戦争の始まりである。このことから下野における出流山糾合隊と幕軍との戦闘、所謂「出流山事件」は、戊辰戦争の一つとして捉えられている。

024  慶応3年11月29日に下野出流山満願寺本堂前の広場で討幕挙兵した薩摩藩出流山糾合隊は170人に増加していった。地元栃木町近在の者たちは3年半前の水戸天狗党と立ち振る舞いが類似していることから、彼らを「出流天狗」と呼び、畏れた。

 増大した糾合隊はより以上の資金を必要とした。近在からの資金が思うように集まらない。そのため、足利藩栃木陣屋に薩摩藩として借入を強要していくことになる。12月10日に元浪士隊の高橋亘一行5人は栃木宿旅籠押田屋に滞在し、足利藩栃木陣屋奉行、善野司を押田屋に呼びつけ資金借入の交渉を行なう。栃木陣屋奉行、善野司は水戸天狗党対応への誤りからすでに真岡代官所を始め近隣諸藩に討伐を要請していた。

022_3  この時、すでに関八州取締出役澁谷鷲郎に率いられた真岡代官所、農兵(鉄砲隊)200名が合戦場宿に待機していた。また、善野司は町年寄を通して警報を発し、町民兵による通りの店先の警戒、防火用水の手配、4つの木戸口を固める準備をしていた。

   翌11日に陣屋側は千両を高橋一行に渡すことを確約し、まず五百両を渡し、残りを夕刻に渡すことを通告した。そして夕刻の七つ時(午後5時)、押田屋に鉄砲隊が取り囲んだ中、関八州農兵隊が突入した。糾合隊3人が斬殺され、高橋亘ら2人は逃亡した。後日、捕えられた高橋亘は天明河原で斬首される。また斬殺された3人の内2人、斎藤泰蔵と高田国次郎は近在の粕尾村農民出の20代の若者であったと云われている。。

 栃木市蔵の街大通り、倭町交差点手前にあった旅籠「押田屋」は栃木陣屋からわずか200mの近距離であった。跡地には旅館「晃陽館」「鯉保別館」「ホテル鯉保」へと変遷し、現在ではファミリーマート店が開業している。

074  同夜、鍋山村から応援にきた西山謙之助ら3人も念仏橋西木戸にて警戒待機していた栃木陣屋の藩士、栃木町民兵によって討ち取られている。斬殺された糾合隊5人の首は瀬戸ノ原に晒され、亡骸も同所に棄てられたという。

 栃木町民にとり尊王攘夷とか王政復古とは関係なく、ただただ3年半前の「水戸天狗党愿蔵火事」への恨みをはらすということであった。町の半分の350~400軒が焼失し、罹災者700人、田中愿蔵隊に殺害された町民13名という甚大な被害をうけた。水戸天狗党とか出流山糾合隊とか関係なく「尊王攘夷」を掲げる浪士たちの憤懣と町を防衛するということでの戦いであった。

  ただ、残念なことに、この時の「栃木町民兵」については栃木市史にも出てくるが、確かな史料がなく、町民兵についての詳細は不明なままになっている。今後の研究課題の一つになっている。

  出流山満願寺山門前旅館にいた竹内啓ら糾合隊は栃木宿の戦闘を知り、おとり部隊11名を残し、12月11日の真夜中、鍋山村から唐沢山城を目指して移動をした。しかし、12日の早朝、岩船山麓にて鉄砲隊200名を主力とする1000名の幕府軍によって壊滅した。糾合隊には鉄砲がなかったと云われている。12月15日と18日に捕縛された糾合隊41名が佐野天明河原にて斬首され、戦死者を含め78名が斃れていった。 

008_2  栃木市内を流れる巴波川が左に大きく曲がる処に「うずま公園」がある。かつて、瀬戸ノ原と言われていた。このうずま公園内にある栃木市営駐車場の中に念仏橋(現幸来橋)西木戸の戦いで戦死した23歳の西山謙之助(尚義)の供養塔が建っている。西山謙之助の亡骸が埋葬されたといわれている地である。

  どうして西山謙之助だけ命名された供養塔なのか…?近在の村の者で一緒に葬られた者の供養塔はないのか?――分からない。

  この地に下都賀郡役所が建てられたのが明治16年(1879)10月。栃木宿問屋場のあった長谷川展旧本陣宅からの移転であった。

071  長谷川伸著「相楽総三とその同志」の中で瀬戸ノ原を次のように記している。当時の雰囲気が伝わってくる。

  「(栃木宿戦闘で戦死した糾合隊)の死体をセドの原の一ツ穴へ棄て葬いにした。セドは裏の意味で、宿外れの一ツ穴へ投げ込むことを宿のものはぼっこみといった。そこは大名の通行などのとき斃馬が往々にして出る、それを抛りこんだ処である。

076 後代になってその場所近くに郡役所が建つので、地盛りのために、そこから要るだけの土を掘りとった。ところが、斃馬の供養に建てた馬頭観世音の碑のある近くから、人の骨が出たので、そこだけ止めて他を掘った。その土工作業が終って、雨がたびたび降るうちに、掘った跡に水溜りが出来て、馬頭観世音の碑のある堀り残した処だけが中の島の如くなった」

  昭和35年(1960)に下都賀郡役所職員が浄財を募り、「西山謙之助供養塔」が建てられた。栃木市史では西山謙之助の老父が戦死の地を弔いたいと栃木町きたことと錦着山に記念碑が建てられていることから供養塔を建てる動機になったとしている。一昨年の平成27年の11月には地元の有志によって供養塔にりっぱな祠が設置された。馬頭観世音石碑は公園の南端、巴波川の畔に建っている。

062  美濃国(岐阜県)侍医の子として生まれた西山謙之助は慶応2年(1866)22歳の時に江戸に出て、斎藤弥九郎に剣、平田銕胤に国学を学ぶ。慶応3年(1867)10月に薩摩邸糾合所に入り、出流山事件に加わる時に故郷父母に、「あながちに文かかむと思ふだに先立つもの涙也けり」と書き出しから始まる手紙は生き残りの者によって「尚義遺芳」として出版された。勤王を志して斃れていった若者象として長谷川伸著「相楽総三とその同志」を通して世間に知られるようになっていく。

  長谷川伸は同書で書かれた手紙を引用し、「尚義儀、今般、尽忠報国の士列に加わり、遠祖以来受候、国恩の万一を奉じ賜り候心得に御座候、就ては生前拝領の儀は十分相叶儀と奉存候に付き、書中を以て謝罪労御訣別申上候とつづき、今度の挙兵は錦旗を奉じて、嘉永6年以来違勅の罪をかさぬ幕府を討つもので、事の成否はわからない。敗れたとて五百年以前の橘公のあとを行くもので、稀代の盛挙、不巧の名誉、これに過ぎたるはない。併しながら23年の高恩をうけ、殊にこの一両年はご心配をかけ塵ほど孝行せず、こういうことになるは不幸千万で恐懼の極みであるが、盛挙を知って座視して天罰に値すると、赤心を吐露した大文章で、読むものとして襟を正させる」と悼む心情を記している。

003_3_2   栃木市郊外の西にある錦着山。その頂きには明治11年(1878)に初代栃木県令鍋島幹によって明治維新の勤王の志士から西南戦争の際の戦死者までを合祀するための招魂社が建てられている。その招魂社本殿脇の斜面に西山謙之助の石碑が信州上田住人、義兄弟の丸山久成(金井清八郎)氏によって建てられている。

061_2  石碑の背面には、「千重の一重の石に萬代に伝へてむ」と変革の志を後世に伝え讃えていく文言が刻まれている。碑文はかすれて読めない。その碑文内容は中島勝国編「西山謙之助書簡集」に収められていた。碑文には異なる事項もあるが、記載させていただくことにしました。

  栃木市錦着山招魂社「西山尚義碑」碑文

005  「此は西山謙之助が墓ぞ。諸人等汚穢しなせそ。鳥獣よ。この益荒男はも。美濃国泳の殿人にて。古の道に志深く。吾と同く気吹舎の翁の教子となり。其学芸に居留て勤みけるに。志し慶応の三年といひとしの冬のはしめ。天皇の勅を畏まで世間を擾乱さむとする醜の奴はらを討罰めんと。同志の人々。或侯の江戸の御館の屯集り。大事を議りし時に竹内啓ぬし手に属てこの下。毛野に下り。磐船山に旗上せむとせしかも。功業不就して敵等に取囲まれ戦歿の際に臨みて数人を討取るなやめ。同き十二月十一日。年二十三にして此里の露と消えたりし。僕□皇と国とに身をまかせ命罷たるゆへ。よしの千重の一重の石の□りて、萬代に伝へてむと思起して。学問に談らひけるに。そよしれよけむと其失費さへ助け賜ひければ。やがて如此経営けるになむ。そは尚義か義兄なる。信濃国人丸山久成」(中島勝国編「西山謙之助書簡集」より)

039   幕末の栃木町。例弊使街道宿場町として、さらには巴波川舟運による物流の一大集積地として活況を呈した。

  元治元年(1864)6月6日の過激攘夷派の水戸天狗党田中愿蔵隊による「栃木町焼打ち事件」。その3年半後の慶応3年(1867)12月11日の栃木宿戦闘、「出流山事件」がおきた。こうした事件を通して栃木町は幕末の渦に巻き込まれていく。とりわけ出流山事件では、栃木宿戦闘、出流山戦闘、岩船山麓の戦闘で78人が斃れていった。この中には栃木周辺からの在地農民を始め私塾で学んでいた若者や儒学者ら参加していった。薩摩藩からの武器援助もなく、圧倒的な幕府の武力の前に壊滅をしていった。

  討幕を掲げた薩摩藩の捨石としての戦闘であったのではないかと思える。本当に必要な戦いであったのか?

Bb882c4bb9752d4080a0b98b26059f1d1  天皇を中心とした王政復古の政体は徳川慶喜も描いての「大政奉還」であった。坂本龍馬が暗殺される直前の11月に土佐藩重役に示した坂本龍馬自筆で記した「新政府綱領八義」。公議政体を基本とした大政奉還後の議会制度、官制、外交、大典(憲法)の撰定、軍政などに加えて、最後に「右預メ二三ノ明眼士と議定シ諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々〇〇〇自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下万民ニ公布云々強抗非礼公議ニ違フ者ハ断然征討ス権門貴族モ貸借スル事ナシ  慶応丁卯十一月 坂本直柔」との政体案を示している。

  文中の〇〇〇部分は島津久光説、山内容堂説、徳川慶喜説、大統領説などあり、今も通説は定まっていない。しかし、大政奉還からつながる坂本龍馬政体案こそが、日本のすすめていく方向ではなかったかと思える。新たな明治の世を築く坂本龍馬新政体案でいっていたならば「戊辰戦争」などは起こらず、出流山事件等無駄な死はなかった筈だ。しかし、薩摩藩西郷、大久保は慶喜を絶対に許さず、慶喜の、〇〇〇盟主阻止にむけて武力討幕へと進んでいった。… 龍馬暗殺の背後には薩摩、西郷がいると思えてくる。

  大政奉還、龍馬暗殺、出流山事件は今から丁度150年前におきた出来事だ。150年を節目にうずま公園に建つ「西山謙之助供養塔」は、今一度明治維新を問い直すべきだと私に語りかけてきていると思えてきた。

                                          《夢野銀次》

≪参考資料引用書籍≫

「安政六年狂歌扶桑名所名物集下野」(1988年栃木史心会発行)/長谷川伸著「相楽総三とその同志」(昭和46年12月朝日新聞社発行「長谷川伸全集第7巻」収録)/中島勝国編「可児歴史業書西山謙之助書簡集」(1983年発行)/「栃木市史通史編」(昭和63年12月栃木市発行)/稲葉誠太郎著「水戸天狗党栃木町焼打事件」(昭和58年11月ふろんていあ発行
 

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水戸天狗党と関わった川連虎一郎碑銘の石碑

047  満開の桜が散り始めた4月14日に巴波川に合流する永野川沿いを「歴史と文化を歩く会—栃木」の仲間と共に、栃木市大平町の真弓、榎本地区を歩いた。菜の花が土手堤一面に咲きほこり、陽春の香りに包まれての歩行だった。

  大平町誌には、「東山道を通って西から入ってきた仏教文化は永野川(出流川)、巴波川を逆のぼり、大平町には寺社が50有余を超えた」と記されている。

  確かに歩いたコースには磯山諏訪神社、法王寺(時宗)、法宣寺(日蓮宗)、聖天院(真言宗)、総徳寺(曹洞宗)、妙性院(曹洞宗)、榎本大中寺(曹洞宗)、八坂神社、東明寺(天台宗)、武尊神社等と多くの寺社が散在していた。 鹿沼市の彫刻屋台を数多く手がけた彫刻師磯辺一族が大平町富田宿で生まれたことも頷ける寺社の数だと思える。また、西から文化は流れてきていたことを改めて認識をした。

048_2  榎本城址標識のある手前の永野川土手堤から左に曲がり、道なりの左奥に崩れかけた廃屋の屋敷があった。「川連虎一郎の生家ですよ」と地元の会員の人が教えてくれた。子孫は近辺に住んでいるが、屋敷はそのまま現存している。

  「この家が幕末関宿藩佐幕派によって斬殺された川連虎一郎の生家なのか」としばし佇む…。ずっと以前に江東区木場「洲崎神社」に行った時に「川連虎一郎」の石碑が境内にあったことを思いだした。石碑を見た時に「どうして大平町の川連虎一郎の石碑が洲崎神社にあるのか?」と不思議な印象を受けた記憶がある。

  大平町の幕末の志士としては、横堀村の国分義胤、富田村の松本暢、真弓村の川連虎一郎が知られていることを後から知った。

037  横堀村と真弓村は関宿藩久世家の領分であった。村名主の国分義胤と川連虎一郎は文久2年(1862)に関宿藩が百余名の郷兵(農兵)を結成する際に教頭として積極的に関わっていったとされている。

  富田村名主の次男として生まれた松本暢は師の藤森弘庵の媒酌で壬生藩御典医4代目の石崎正達の娘婿養子となり誠庵を名乗り、5代目を継ぐ。しかし、元治元年(1864)3月に筑波山にて挙兵した水戸天狗党に協力、関与したことにより壬生藩内からの暗殺を逃れるため脱藩をし、石崎家からも除籍になる。

   脱藩後の松本暢は明治維新の際に尾張藩を通して新政府の刑部省の判事になる。晩年に隠居所の名前を「盤峰園(ばんぽうえん)」と名付けて大平町富田に隠居してくる。その子孫、やしゃごが現在も「盤峰園」という名前でブドウ園を運営している。

034_3   栃木市大平町西山田にある「おおひら歴史民俗資料館」に川連虎一郎の陣羽織や「君のため世のため何か惜しむからむ捨てて甲斐ある命ならば」という書等が展示されている。

   紹介文では、「川連虎一郎(かわつれこいちろう)諱は義路。天保12年(1841)7月29日、関宿藩領真弓村(現栃木市大平町真弓)の大庄屋、川連一郎兵衛義種の子として生まれた。幼少より水代村峰岸休文に学び、後に江戸に上って儒学者藤森弘庵に師事した。武術は神道無念流斎藤弥九郎道場で師範代、野原正一郎(壬生出身)に指南された。その紹介者は松本暢である。関宿藩が郷兵を組織すると虎一郎はその教頭に任じられた。水戸天狗党が太平山に滞在した時は、藤田小四郎と通じて軍用金や兵糧の調達にあたっている。藩の同志たちと図り水戸天狗党を応援しようとして露見し、江戸に逃れたが、佐幕派の家老杉山対軒派に誘いだされ、元治元年8月3日、江戸洲崎海岸(現江東区深川)で斬殺された。行年23歳であった。なお虎一郎の墓は真弓地内川連家累代墓地にある」と記されている。松本暢と同じく安政の大獄で江戸中追放となる藤森弘庵に師事していることが分かる。

027_2  ただ、この紹介文の中の「佐幕派の家老杉山対軒に誘いだされ」と書かれてあるが、当時の杉山対軒は家老職を辞しており、また佐幕派ではなく勤王派のリーダーであった。杉山対軒は誤記であり、訂正した方が良い。

  展示品の中に大正4年11月22日付の報知新聞の写しがある。川連虎一郎が靖国神社に合祀され、「従五位」が贈られたことの報道記事である。ただこの記事で洲崎海岸で虎一郎が斬殺された時に検視をしたのが、栃木市初代市長の榊原径武弁護士の父親(榊原儀太夫)と記述されている。意外な人物が斬殺に関わっており、本当なのかと思えた。元関宿藩士を父に持つ榊原経武は代言人の資格を取り、明治13年(1880)頃に栃木町に移住してしてきて、加波山事件など自由民権運動とその弁護活動を行ない、栃木町の町長、栃木市長を歴任している。

057  さらにこの記事の中では、明治2年(1880)4月20日に杉山対軒が江戸から関宿に帰る途中、杉戸町並塚で暗殺される。その暗殺の動機が川連虎一郎斬殺の恨みをはらすために横堀村の富山道徳が行なったと記述されている。虎一郎斬殺と対軒暗殺はつながっているのか?この記事の信憑性に疑問が湧いてきた。2つの事件のあらましを調べてみることにした。

  川連虎一郎斬殺の動機については、佐幕派関宿藩家老の杉山正右衛門が「戊辰後経歴」で、「天狗党と称する者尊王攘夷を唱え暴威を遣わし扇動する。関宿藩士も密かに通じる者あり、広周君に天狗党の隊長竹田耕雲斎(ママ)を謁見させ、深川藩邸を貸与するなど、公儀に不憚不敬の動きに憤慨する者あり、領分野州都賀郡農小一郎(川連虎一郎のこと)なる者は水戸留学によって天狗党となり古川瀧蔵と二人を天狗党誅罰の後、公儀を憚り深川洲崎邸にて暗殺せしと云う」と記している。佐幕派藩士の虎一郎斬殺は幕府の天狗党への誅罰をうけて天狗党に便宜をはかり、藩士の怒りを招いて深川藩邸の藩士(佐幕派)によって斬殺されると記している。

010   一方の杉山対軒が暗殺された場所、杉戸町並塚に「杉山対軒遭難の石碑」が建てられている。遭難石碑のブログ記載者から所在地の場所を教えていただき、車で国道4号線杉戸町から左折し行ってきた。並塚交差点先の左脇道に入った所に石碑が建っていた。農道の脇に建つ石碑はポツン田圃に囲まれていた。

 杉戸町ホームページでは杉山対軒遭難之碑を次のように紹介している。

 「杉山対軒は久世氏の家臣で代々関宿藩の家老職を務める家でした。対軒は明治維新の際に幼君を助けて勤王の実を挙げ、藩論を導こうとしました。しかし、(明治2年)4月20日に江戸藩邸を出た対軒は、同じ関宿藩の井口小十郎と冨山匡之助により、並塚村の庄内古川近くで暗殺され、39歳の無残な最期を遂げました。昭和24年に暗殺された場所近くに杉山対軒遭難之碑が建立されました」と記され、石碑は鈴木孝雄(終戦時の内閣総理大臣鈴木貫太郎の弟、靖国神社宮司)が書いている。

  これだけでは、何故対軒が暗殺されたのか、わからない。関宿町に近いことから車を進め、江戸川に架かる関宿橋を渡り、関宿城博物館の関宿藩展示コーナーを見ていくことにした。

042  利根川と江戸川の分岐点に建っている三層天守閣の千葉県立関宿城博物館。博物館3階に幕末の関宿藩の紹介解説と展示コーナーが設けられていた。そこには明治維新を迎えるに際して関宿藩は勤王派と佐幕派が2分して争う「久世騒動」があったことが紹介されている。

  慶応4年(1868)の4月に会津藩士が関宿を通過する際に助けるかどうかで騒動の発端が生じた。その後に熊本藩新政府軍が関宿城に入城することにより、約500人の藩士のうち200人の佐幕派藩士が脱藩して江戸に向かった。半数近い藩士が脱藩する。凄い人数だ。

061  脱藩した佐幕派藩士は家老の木村正右衛門を中心に幼少の藩主広文を擁して江戸において活動を行う。慶応4年閏4月、元家老杉山対軒は勤王派の藩士30名を率いて江戸深川藩邸にいる藩主広文を取り戻すために邸内に入ったが、乱闘となり5名の佐幕派藩士が即死し、藩主を取り戻すことができなかった。

  5月に木村正右衛門たち60名が彰義隊上野戦争に「卍隊」として参加していく。敗北のあと藩主広文は佐倉に逃れ、関宿に帰る。翌年の明治2年(1869)4月に対軒は新政府からの取り調べを受けるが許される。その帰路、関宿に帰る途中の杉戸町並塚で藩内反対派の手によって暗殺された(「三百藩家臣人名事典3関宿藩」より)。

  このことから、暗殺は川連虎一郎の恨みをはらすことではなく、藩内の激化していた派閥の争いから生じたことと捉えるべきである。むしろ川連虎一郎斬殺の恨みをはらすならば、木村正右衛門を狙うことになるからでもある。木村正右衛門の最後は「静岡師範学校の校長を歴任し、明治33年に71歳で亡くなる」と中村正巳著「戊辰後経歴」に記されている。

  久世騒動の余韻は明治初期の関宿にも強い影響があったと推測する。脱藩して戻ってきた藩士は肩身の狭い生活を送ることになったと思える。終戦の内閣総理大臣鈴木貫太郎の父親も関宿藩士であったのだが、群馬県前橋に一家は移転をしている。関宿藩「久世騒動」後始末に嫌気をさしての移転だったと思える。初代栃木市長を務めた榊原経武もまた同じような経緯で関宿を離れて行ったのかもしれないと想像する。

114  3年前の平成26年(2014)4月に富岡八幡宮の横綱石碑を見た帰り、洲崎神社から深川木場を歩いた。その時、洲崎神社境内にある「川連虎一郎碑銘」の石碑をただ眺め通り過ぎた。「洲崎パラダイス」の名残りを探すことに気持ちが向いていた。

 映画、熊井啓監督の「忍ぶ川』で映し出された「洲崎パラダイス』の光景が印象に残っていたからでもある。

142995669002471162177_pdvd_000_20_3  「志乃は忍ぶ川の女であった」と綴られている三浦哲郎著の「忍ぶ川」。栗原小巻が演じた「志乃」は深川生まれで、栃木に疎開し、父と弟妹が今も栃木に住んでいる小料理屋「忍ぶ川」の仲居として設定されている。

  深川と栃木を結ぶ短編小説として高校時代に書店で立ち読みをしたことを憶えている。また、吉永小百合が映画化を望んだが、裸のシーンがあるということで父親の反対で断念をしている。吉永小百合の「志乃』も観たかった作品でもある。

 改めて、「川連虎一郎銘碑」の石碑を見たく、5月18日に江東区深川木場にある「洲崎神社」へ行ってきた。

018_3  洲崎神社は、江戸期に弁財天社と言われ、江戸城紅葉山の弁財天を元禄13年(1700)に遷座して創建されている。海岸に浮かぶ弁財天であり、多くの文人墨客を集めていた。

   「江戸切絵図深川」に描かれている洲崎弁財天社の隣には長い洲崎海岸になっている。境内には「波除碑(なみよけひ)」が建っている。

  寛政3年(1791)9月4日、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者がでた。幕府は洲崎弁財天社から西のあたり一帯5467坪を買い上げて空地し、これより海側に人が住むことを禁じた。そして空地の東北地点(洲崎神社)と西南地点(平久橋の袂)に波除碑を建てたとしている。

119   「川連虎一郎碑銘」と刻字されている石碑は本殿裏にある。左上はすで欠けており、文字自体が不鮮明になってきている。碑銘されている文言はよく理解できない。大筋として虎一郎の生涯が綴られ、「尊攘の大義に報わんとしたが、江戸に誘いだされ、甲子(元治元年)八月三日に命を落とす。義路通称虎一郎、都賀郡真弓村人、藤森弘庵に従い水戸源治(天狗党)を助ける、行年二十三、藩人たちが謀り石碑を建てることになり予が碑銘する」と碑銘されている。

   「藩人たちが謀り石碑を建てる」と記されているその「藩人」とは関宿藩士を指してはいない。同時代に生きた同志に近い志士であると思える。

   石碑の最期の刻字が「〇巳秋 八月 東京田口大丈文蔵撰弁書」と記されている。建立年月日は己巳(つちのとみ)年で明治2年の秋、8月になるのではないか。そして、石碑の文面は儒学者田口文蔵によって書かれてある。虎一郎の師であった藤森弘庵は文久2年(1862)に亡くなっていることから、親交のあった儒学者田口文蔵が碑銘したのだと思える。儒学者同士の繋がりを表している。

003   田口文蔵については「太田胃酸」の創業者である壬生藩士太田信義を記した松本宏道著「壬生藩士太田信義と太田胃酸」の中で、 「(田口文蔵は)下谷・入谷で門弟に儒学などを教授している尊王論者で、攘夷論者の藤森恭助(弘庵)などと親交を深めがら、国事に励んだ」と紹介されている。

  同書には、「太田信義も松本暢と同様に水戸天狗党に協力することにより壬生藩を脱藩し、師の田口文蔵を頼って江戸に出る。辛苦の暮しの中、彰義隊上野戦争で新政府軍に協力することにより明治元年に壬生藩公用人として復帰していく。明治14年(1881)の初めに『雲湖堂の胃酸』として売薬を始めた」ことが記述されている。130年を経た今日でも「太田胃酸」は飲み続けられている馴染み深い胃腸薬である。この本によって、私は太田胃酸を生み出した太田信義が壬生藩士であったことと天狗党挙兵に影響を受けた人物がここにもいたことを知ることができた。

Photo   「江戸切絵図深川」の中央に流れているのが小名木川。栃木から巴波川舟運により関宿からの江戸川を下り、小名木川を通り江戸深川まで1日半でくることができた。下野都賀郡と江戸は近い距離にあった。

  絵図の小名木川の下の左にあるのが関宿藩深川藩邸(現在の清澄庭園)。その下に富岡八幡宮。絵図の真中一番下に弁財天社(洲崎神社)とその左横が川連虎一郎が斬殺された洲崎海岸がある。

051_3  川連虎一郎の石碑を建てたのは、藤森弘庵や田口文蔵から学んだ尊王論者の志士たちだっと思える。とりわけ、同郷で水戸天狗党への協力で狙われ脱藩した松本暢や太田信義など中心になって「川連虎一郎碑銘」の石碑を建てたのではないかと妄想、推測する。

  幕末動乱の引き金になった水戸天狗党の筑波山挙兵.。1月半に及ぶ太平山での帯陣と戦闘行動は近辺の若者に強い影響を与えた。大義を諭す若者たちは時代に生きていくことの証として天狗党への協力,参加をおこなっていった。結果、道半ばで斃れた者への想いが「川連虎一郎碑銘」石碑に表れているのでないだろうか。川連虎一郎の石碑を建立した人たち…。石碑からは塾舎を通した若者たちのネットワークが存在していたことを語りかけてくるように私には思えてきた。

                                《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

「大平町誌」(1982年3月、大平町発行)/中村勝著「三百藩家臣人名事典3関宿藩」(昭和63年4月、新人物往来社発行)/小針計一郎著「日本近世人名事典」(平成17年12月、吉川弘文館発行)/中村正己著「史料戊辰後経歴(1)」(平成29年3月、千葉県立関宿城博物館発行、研究報告第21号に収録)/三浦哲郎著「忍ぶ川」(昭和36年6月、新潮社発行)/松本宏道著「壬生藩士太田信義と太田胃酸」(2013年4月、獨協出版会発行とちぎメディカルヒストリーに収録)

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橋への思いと村芝居興行―安政6年野尻騒動

012_2  「石の多い川だな、それも大きい石ばかりだ。流れも速い」と、日野橋から眺めた大芦川の第一印象。

  新鹿沼駅から歩いて西へ3キロ、大芦川の日野橋に来る。橋の向こう側は鹿沼市野尻、加園地区になる。

 平野哲也氏は栃木県文書館研究紀要11号の中で、「大芦川は、上草久を水源とし、野尻村と酒野谷の間で荒井川と落ち合い、一里ほど下流の笹目村付近で小倉川(思川)に流れ出ていた。18世紀末期の大芦川は最上流の上草久村でも20間の川幅があり、引田村付近までくると30間ほどに広がった。川の状態は、現在と同じく、砂礫の多い『石川』であった」と記述している。その通りに大芦川は石の多い川に見えた。

008  江戸時代、大芦川と荒井川の合流地点近くにある野尻村は石高232石、人口142人、家数29軒の村落であった(天保年間、鹿沼市史による)。村を往還する石裂(おざく)街道と出流(いずる)街道の交差する交通の要衝でもあった。 

  しかし、野尻・加園村と対岸の下日向・酒野谷とを結ぶ大芦川には橋がなく、石裂権現(加蘇山神社)への参詣者や旅人、さらには例幣使・日光街道への助郷割当による人馬夫役で向かう際の渡河に難儀をしていた。板橋を架けても大雨による出水によってその都度流失をしてしまっていた。定橋架橋は村民の強い思いであり、願いでもあった。

030 安政5年(1858)に野尻村名主、石川多市は近在の村々から資金を募り、総費用800両で欄干を備えた大規模な定橋「野尻橋」を村人の夫役によって完成することができた。「野尻橋」は現在の日野橋下流300㍍付近に架けられたと云われている。

 しかし、翌年の安政6年(1859)7月の大雨洪水で「野尻橋」は流され崩壊してしまう。――多市を含めた村人は落胆、大きく失墜する。以後は簡単に取り外しのできる板橋が明治期まで架けられてあったと云われている。

  思川水系の上流から移出される材木は江戸市場で優良材として高い評価を得て、筏組みが大芦川流域の野尻村、酒野谷村と隣接する荒井川流域加園村で行なわれていた。竜ケ谷山(加園城)から石灰も産出されていた加園村と野尻村は東北自動車道栃木インターのある栃木市吹上町にあった吹上藩有馬兵庫頭1万石の領地であった。

015  「鹿沼市にある野尻村は吹上藩領だったのです。幕末の安政6年に、この野尻村で御禁制の芝居興行が行われ、100名以上の農民が関東取締出役に捕えられ、処罰されるという村騒動があったのですね。下野の村々を震撼させた安政野尻騒動と言われているのですよ」と、昨年の11月の栃木市文化講座「吹上」の中で野尻騒動のことを始めて聴いた。

  …野尻村の村騒動、どんな村騒動だったのだろうか?野尻村に行ってみようと思い立ち、昨年の12月21日の晴れた日に鹿沼市野尻を訪れた。

050_2  東武日光線新鹿沼駅西口から徒歩で真っ直ぐ西に向かって進んで40分。大芦川に架かる日野橋を渡り、少し進むと神木が伐採されている野尻稲荷神社がある。

  建久元年(1190)石川氏によって伊勢熊野の稲荷大明神から勧請され建立された野尻稲荷神社(栃木県神社誌より)。二対のきつね狛犬が奉納されている境内。

016  境内左側に野尻騒動の発端となった橋供養由来記が刻まれている石碑が安置されている。直径1.3㍍のまる型の石碑の冒頭には横文字で「日天月天」と刻字されている。

 戦後、野尻村に移住し、野尻騒動を入念に調べて昭和30年に「鹿沼郷安政野尻騒動記」を執筆、発行した腰山巌さん。その書には、「元々は日天月天石碑は『水神宮石碑』と一緒に大芦川沿いに建立されていた」ともう一つ「水天宮」の石碑があったことが記されている。そして「水天宮石碑は今宮神社神祇官の鈴木水雲が書き、日天月天石碑の由来記は興源寺眼龍の書であるとされている。(略)この供養塔は明治になって大洪水があり、石川憲一郎氏前の大芦川の淵にあったものが、ぽっくりと水に呑まれ、川底に横轉した。昭和9年に野尻在郷軍人会会員及び野尻青年至誠会員によって『日天月天石碑』のみ引き揚げられ、稲荷神社に奉納された」と安置された経緯が記されている。

001_2  同書には、「台座には寄附してくれた村々の名前が台石の鉢廻に記入されてあったが、後年村内諸所の清水や谷川の土橋に利用されて散失してしまった」として、2基の石碑と40か村の村名と村人の氏名が記載されている図が添付されてある。

  そして何よりもありがたったことは、由来記石碑の文面が記載されてあったことだ。記載文面は次の通りになっている。

當兩川從古来無橋而 大水之砌往来之諸人 難渡不少難澁依是輙 為渡度事敷年難思小 子等不及微力近郷進 曾頼處速為集加助力 末世迄之定橋令成就 畢就者至後年迄加修 理難無及大破事若變 心邪欲之輩出而於相 破者必蒙神罰事各々 慎而起請建之置者也

011_2 昔より大水に際には大芦川を渡ることができず、難渋してきたことが綴られ、定橋を架橋し、後の世まで維持していくことを誓う文面だと受けとめる。

  執筆した腰山巌著の「鹿沼郷安政野尻騒動記」は騒動の発端から村芝居興行、その手入れ、捕縛から江戸での裁きまでを物語調に記述されている。入念な調べで野尻村名主石川多市とその子息たちを中心に村人の思いを基調に書かれてある貴重な書籍だと思える。栃木図書館では貸出禁止本になっているため、図書館内で拝読した。以下、同書を「野尻騒動記」と記していきます。

031  日野橋を渡り、大芦川の右岸にある食堂民宿「栄川」の河原から大芦川の川の流れをみる。一昨年の9月の大雨の時、川の水嵩はどれほど川岸に迫ったのだろうかと思いが浮かんだ。

  安政6年(1859)の7月に流失してしまった「野尻橋」。翌8月に野尻村名主、多市は隣村の上酒野谷村名主、平右衛門と図り、壊れた水天宮塔の再建と由来記石碑を造り、地鎮祭を執り行うことにする。

 その地鎮祭とあわせて供養としての村芝居興行を8月21、22日に行うことを決めた。定橋「野尻橋」の流失によって意気消沈した村人の心に奮起を促すものとしての芝居興行の計画であった。村芝居は村人の心の糧になり、村を活き活きさせるものとして捉えた。今で言う、「文化が地域をつくる」という地域活性化しての芝居興行の計画であった。

Photo   しかし、江戸・京都・大坂の三大都市以外での歌舞伎興行は禁止され、村芝居、操り人形等の村においての興行はご法度、禁止になっていた。歌舞伎は奢侈、風俗の乱れ、身分制を破壊するものとして禁止されていた。

  幕府は文政10年(1827)にすでに設置していた関東取締出役の治安維持と警察活動の強化を図るため、関東の村々に寄場組合を結成させている。大惣代、小惣代と村々を組合せ、関東取締出役の指揮命令の一元化と取締りを強化させるためであった。そのうえで45条にのぼる触書を農村に通達を行なった。

Photo  その触書の主なものには、①幕府法度・五人組前書の厳守、②無宿者・長脇差・博奕・強訴・徒党の禁止、③農村内の歌舞伎・手踊り・操芝居・相撲などの禁止、④神事・祭礼・風祭・婚礼・仏事などの簡素化、⑤農村内における商業・職人手間代などの統制、⑥村費の減額奨励、改革組合村(寄場組合)の設定と囚人送りの費用負担(北島正元著「日本の歴史18」より)。という無宿者の強訴などから村を守るかのような触書であるが、実際は幕府による治安維持の強化と村々への支配統制になっている。それは農業生産品以外の生産物が商品として流通するようになってきたことによる強い村への警戒心であり、経済的な自立が増してきたことによる幕府の治政危機の表れでもあったと思える触書である。

004   現存する名主多市の家、石川さん宅は野尻稲荷神社の南前に位置し、大芦川へ続く旧道の右脇に建っている。多市は村人に潤いと楽しみ与え、元気を取り戻して前へ進めるには芝居興行を行うことだと考え、その準備を始める。

  近在の5か村(野尻・酒野谷・下日向・下加園・南摩)を中心にして、芝居小屋の木組み調達、役者の稽古と衣装の手配、舞台の引幕、大道具、小道具の借入等を進めていく。多市ら村役人たちは寄場組合村の大惣代、小惣代、名主等の村役人や関東取締出役道案内人に金銭や酒など音物(袖の下)を渡し、黙認のお願いをしていった。

  村芝居興行を知った壬生宿問屋幸吉は小山宿の関東取締役道案内人、鳥の屋政市へたれこむ。どうもこの辺は木材の河川通運をめぐって大芦川・荒井川流域の野尻・加園村と下流の小倉川(思川)壬生、小山流域の村との間で、常日頃から筏流しの通行をめぐって争いがあったという平野哲也著「栃木文書館研究紀要11」の指摘から考えると、村同士の火だねの争いが背景にあったのではないかと思われる。

010   間口42間(約76m)、奥行7間(約12m)という2つの大舞台を備えた芝居小屋が大芦川近くの河原「梅の木原」に建てられ、8月21日、22日に芝居興行がおこなわれたと「安政野尻騒動記」に書かれてある。「梅の木原」はどこにあったのか?地元の人に訊いてみたが、分からなかった。

  芝居興行への手入れについては、吹上藩役所内においても協議があった。黙認しようとする吹上藩役人に対して触書通り、取締りを主張する鳥の屋政市とに相違があったことが「野尻騒動記」に記されている。

  8月22日の夜半、鳥の屋政市は合戦場宿の道案内庄兵衛や番人13人の捕り方で芝居小屋に乗り込み、舞台で演じていた役者たちに縄をかける。関東取締出役の下知であると言えば、百姓たちはひれ伏すと思っての手入れであった。しかし、芝居公演の最中に村の役者たちが捕縛される姿を見て、多市は怒り、護るための応戦を呼びかける。13人対100人。十手に対して薪と棒。猪鹿銃を捕り方に向ける村人たち。負傷した捕り方達は飛散する。

006    翌日の8月23日に3人の息子と共に多市は吹上藩役人に連行される。その際に村人は銃を持って名主奪還をはかるため屯集し、銃を構える。しかし、覚悟を決めていた多市は村人たちの怒りを抑え、縄についた。後日、関東取締出役に引き渡される(野尻騒動記より)。

   8月24日に関東取締出役、廣瀬鐘平は鹿沼宿から寄場組合に300人の捕り方大動員をかける。宇都宮戸田家藩士50名を加えた捕り方は113人を捕縛し、連行する。村の人別帳を使っての捕縛になった。関東取締出役としては村民が銃を持ち出したこと。看過できないことして、危機感の現れでもある大量捕縛へとつながっていったと思われる。

  関宿、古河、間々田、小山、栃木、鹿沼宿と分散され、厳しい吟味が続けられた。鹿沼市史では捕縛された村と人数が次のように記載されている。「野尻村32人、下加園村32人、上酒野谷村20人、下酒野谷村7人、下日向村12人、上南摩村7人、下南摩村1人、その他の村2人」と計113人になっている。とりわけ村の人口が142人の野尻村から32人が捕縛されたことは成人男性ほとんどが捕縛されたことを意味する。

Img_7853_s1_21  野尻騒動の伝聞は衝撃となって各地域の村々に伝えられた。25キロ離れた例幣使街道沿いの栃木市嘉右衛門新田村名主、岡田嘉右衛門親之は騒動の2日後の8月24日の日記にこう記している。「22日夜鹿沼宿最寄野尻、加園村ニ地芝居有之、関東御取締廣瀬鐘平様御下知ニ而小山宿鳥の屋政市・合戦場宿虎屋庄兵衛頭立廿人程手入れいたし候、近村若もの迄申合居、悉く打躑被至、廣瀬様鹿沼宿へ出役被成り候由、右一件(吹上藩主)有馬兵庫頭様領分ニ而、十躰脇差等取上ケ候持参」と騒動の概要を的確に記している。それよりも岡田嘉右衛門の素早い情報の収集に驚かされる日記である。

 まさか100人以上が捕縛されるという騒動に驚いた村々の役人たち。寄場組合の大惣代・小惣代をはじめ、名主、寺院から大量の嘆願書が関東取締にだされた。10月に入り、江戸に送られた捕縛者90人に対しても嘆願書が勘定奉行にだされ、籠訴もあった。

Rouyashiki251  小伝馬牢屋敷に入牢された29人とそれ以外の者は御用宿預かりとなり、処罰を待つ。しかし、野尻村名主多市、息子の原三郎と音八、上酒野谷名主平右衛門ら9人は病死(牢死)、御用宿預者も8人、計17人が病死をする(野尻騒動記より)。厳しい吟味と過酷な環境が牢死を招いたといえる。

  石井良助著「江戸の刑罰」の中での小伝馬牢について、「当時、牢内の病気といえば、ほとんど牢疫病であった。数年人々をこめておくので、自然と人と臭気がこもり、この臭を鼻に入れるから、みな牢疫病になるのだと言われていることは、牢内の不衛生状態をよく示すものである」と記している。

  さらに牢死者数について、「当時収容者600人から700人のうち、文政年間(1818)の牢死者が月に10人から20人であった。幕末になると、安政5年(1858)には牢死者が年に1320人、万延元年(1860)年に1931人、文久2年(1862)年に1990人、慶応2年(1866)年に1353人と2000人近くの牢死者と増加する」と記してある。月に直すと平均150人前後の牢死者がでたことになる。その原因として食糧事情の悪さと衛生状態であると石井氏は指摘をしている。しかし、私にはそれ以外に、幕府の治政の崩壊の兆しが含まれているように思えてくる。

035_2  日野橋を渡り、野尻稲荷神社の100m手前の左側の道(旧道)に入り、突き当りを左折し直進すると大芦川沿いにある食堂民宿「栄川」にぶつかる。その手前の浄水場の横に「野尻騒動供養塔」が建立されている。昭和59年9月に「明るい社会づくり野尻地区」によって建てられたものである。「南無妙法蓮華経野尻騒動受難者諸精霊之供養塔」と刻まれた石塔。その由来は記されていない。

  鹿沼市史では安政7年3月「裁許請書」をもとに処罰一覧を次のように記している。「死罪1人(病死)、遠島4人(3人病死)、重・中追放30人(7人病死)、江戸十里四方追放2人、江戸払1人、所払1人、押込1人、手鎖15人、急度御叱9人、御叱1人、過料銭5貫文55人(1人病死)、過料銭3貫文3人(1人病死)、お構いなし19人」お構いなし19人を除いた人数は123人、内病死者数は13人と野尻騒動記と人数の違いはあるが、120人以上が処罰された大騒動であった。さらには関係した村には囚人の収容食事、護送、道案内人への草鞋代など触書通りに厳しい支払の督促があるなど村々を苦しめる措置がとられた。

028 小伝馬町牢屋に入牢したのが10月。翌年の3月に厳しい裁断が下った。同年安政6年の10月に吉田松陰が小伝馬町牢屋敷で斬首され、翌年の3月には「桜田門の変」で伊井直弼が水戸浪士によって斬殺される。野尻騒動は安政の大獄と時期を同じくして、連動した動きになっている。下野の村における幕末動乱の発火点になっているのではないだろうか?

  幕府は捕り方、役人に対して百姓たちが銃を構えて向かおうとしたことに強い危機感を持った。それが120人におよぶ捕縛と処罰になって異常な反応を示した。

  意気消沈した村を活性化するための芝居興行。それを壊す者に対して村人は銃を構え戦った。村を守るために銃を持った百姓。幕府が創設した歩兵(農兵)とは違う強い信念をもった百姓たちの像が浮かんでくる。その姿に脱帽する。

065   帰路は野尻から大芦川の向い側にある「鹿沼市高齢者福祉センター」の大風呂に入浴する。温泉と表示されている広い浴槽。「筋肉痛」と記載されている効能の中に「軽い喘息と肺気腫」という文字を見つける。この病に効く温泉を探していた私には朗報である。

 入浴後に大芦川の土手堤を歩く。「野尻橋」が架けられたのはこの辺と思われるが、跡は何も残っていない。「…この付近に橋を架けたのかな」と思い浮かべ、長い深呼吸をした。

  鹿沼市史には、「芝居興行に手入れを行なった小山宿の道案内人の鳥の屋政市は、5年後の慶応元年(1865)5月に長脇差をもった5人の者に自宅に押し入れられ殺害される。殺害状況から、関東取締出役の手先となっての活動が恨みになったもの」とさりげなく記している。執筆者の気持ちが表れている結末文だと思えた。

                                         《夢野銀次》

≪参考、引用本等≫

腰山巌著「鹿沼郷、安政野尻騒動記」(昭和30年7月発行)/「鹿沼市史通史編近世154頁」(平成18年8月発行)/平野哲也著「江戸時代後期における地域資源の活用と生業連関―下野国都賀郡大芦川・荒井川流域を事例に」(栃木県立文書館研究紀要11号、平成11年3月発行)/北島正元著「日本の歴史18、幕藩制の苦悶」(昭和42年11月、中央公論社発行)/石井良助著「読みなおす日本史、江戸の刑罰」(平成25年3月、吉川弘文館発行)/田中正弘編「幕末維新期の胎動と展開、岡田嘉右衛門親之日記第1巻」(平成24年3月、栃木市発行)

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結城市「孝顕寺」―御朱印堀と戊辰戦争結城の戦い

010_2  「不許葷酒入山門」と刻まれた石碑が孝顕寺参道入り口に建ってある。

  「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」と読み、肉やニンニクなど生臭い野菜を食べたり酒を呑んだ者は、修行の場にふさわしくないので立ち入りを禁ずるという意味。結城市観光ボラティアガイドさんからの説明を聞く。「曹洞宗、禅寺のお寺でよく見かけると思いまよ」と言われたたが、こうした石碑を初めて見る。知らなかった。これからは禅宗のお寺さんに行ったら見てみよう。

 12月19日の土曜日、「歴史と文化を歩く会ー栃木」の一行として結城市の歴史見学を行なった。案内をしてくれたのは「結城市観光ボランティアガイド協会」の歴史に詳しいガイドさんだった。栃木市から両毛線で小山から水戸線に乗りかえ、320円の運賃が示すように結城市へは近い距離。しかし、どこか遠い町のような気がしていた。

019_2   禅宗「孝顕寺」は結城城から見て南西の方角に建っている寺院だ。

 江戸時代に建てられている雄大な三門。

 「孝顕寺」の案内標識版が立ってある。「永生12年(1515)に結城城西側の玉岡の池に結城家15代政朝によって建立され、18代秀康(家康の次男)によって現在地に移転建立された。当初は永生寺と称したが、政朝の法名が永生寺殿宗明孝顕大居士であることから孝顕寺と改称された」と記されてある。

  さらに案内版には「元禄13年(1700)に結城藩主となった水野氏の菩提寺になっている。境内の西側に秀康が城の西側に新たに新城下町を建設した際に、周囲にめぐらせた御朱印堀の一部が残されている」との記述がある。扉を設けていない三門を通り、境内に入る。

013_2   本堂の手前左に「小場兵馬自刃之處」と刻まれた石碑が建ってある。石碑には昭和17年11月に建てられたことの刻字がされている。石碑の左下に「御朱印堀」への矢印の標識がある。矢印の奥に進む。「史跡御朱印堀」の石碑が建ってある。鬱蒼とした生い茂った藪の中に空堀が見えた。底はかなり埋まっている空堀になっている。

 案内ガイドさんの「御朱印堀」の説明が簡単でよく分からなかったため、ウエブ検索で調べてみた。結城市ホームページでは、「堀の大きさは、上幅7.5m、底幅0.5m、深さ3m、堀の内側には幅7m、高さ3mほどの土塁。戦国末期、結城18代秀康の時代に、城の西側に明確な都市計画に基づいた新たな城下町が建設された」と記載されている。防御用の空堀にして幅が小さい。郭内を囲い込むため造られた空堀ということなのだ。

022_2_2  その郭内(城下町)を囲い込む空堀建設の具体的な記述として結城市史では、「町の中心には東西に伸びる三本の道路と、それを結ぶ南北の四本の道路を作り、そこに四方から入る七本の道路をとりつけて、町の周囲には御朱印堀と呼ばれる大きな堀をめぐらせた」と記述されている。さらに江戸時代には「御朱印堀に囲まれた新城下町は地子御免(じしごめん)という固定資産税が免除された」との記載がある。

  天正18年(1580)の8月に羽柴秀康は結城氏18代を継承し、結城秀康となる。

024   10万1千石結城領に入部した秀康は城下を整備した。結城城は標高40mの台地上にあり、周囲は田川、鬼怒川からなる低湿地に取り囲まれた堅固な城であった。城下には増加した家臣団の屋敷地をまず確保する。そして新たに町人町として東西を三本の道路で結ぶ西の町、大町、浦町を中心に町屋づくりを行なう。さらに城の南西には多数の寺院を移転させ、その周囲を掘(御朱印掘)で囲む城下の町づくりをおこなったと結城市史に記されている。

   江戸時代には堀で囲まれた町人には「地子御免」という固定資産免除の特権が与えられた。徳川幕府にその証拠として「結城町内地御免之事」という証文を提出して容認させていると云われている。よってこの堀のことを「御朱印堀」と云われている。幕府をも納得させるほど町の強固な自治組織を作ったのが「結城十人衆」だったとしている(「結城市史」より)。

077   「江戸時代、結城の町には結城十人衆という家がありました。現在も子孫の方が続いております。結城秀康が越前福井に国替えなることになります。鎌倉時代から四百年、結城氏に仕えてきた家臣たちの中で、結城氏の菩提を護っていくために結城に残った人たちがおりました。その方たちが結城十人衆と呼ばれるようになり、名主など町役人を務め強い自治組織を作っていったのです」と案内ガイドさんからの説明があった。

 結城市史の中にも、他の町よりも名主としての強い権限があったとして、傷害事件の調査や訴訟和解など奉行に変わる町政などの運営をしたと記されている。

001_2   「結城の歴史」の中に、木戸が7カ所、辻番所が23カ所置かれたと書かれてある「享保19年2月の結城絵図」が載っている。

  御朱印堀の太い線は孝顕寺の西側から弘経寺(ぐぎょうじ)の右側を通り、金福寺などたくさん並ぶ寺院の左側を通り、北に曲がり、城の手前を右折し南に続いている。御朱印堀が町を囲んでいるように描いている。

    秀康の行なった結城城下の町づくり。――皆川広照が行なった栃木の町づくりと似ている。天正18年直後の同時期だったからかもしれない。栃木町の場合、城の西側の巴波川を掘割として、一本の太い南北道路を作り武家屋敷とする。寺院を西側に移転させる。北から東にかけては沼沢地。違いは広照失脚後に皆川家臣団による巴波川舟運を活用して商業としての栃木町づくりなどが行われた。しかし、結城市同様に近世後半には近江商人が入ってくる。じっくり比較検討したい事項だと思えてくる。

 歩きながら寺院の多い町だと感じた。「結城市史」の中で寺院は37、茨城県内では土浦の46、水戸市の41についで多い市になっている。なかでも山伏関係の堂屋や真言宗が多いのが特徴としている。中世に繁栄してきた町の様相を呈している。 

Yki_hideyasu1  17代当主の結城晴朝は宇都宮国綱の弟、朝勝という家督相続者がいるにもかかわらず、秀吉に「無継子」あるとし、養子願いをしている。天正18年(1590)3月に小田原城包囲前に家康の関東入りが内定していたという。7月には、秀康の結城氏継承が公表された。

  晴朝は結城氏の安泰を図るため養子継嗣を秀吉に臨んだのだ。小田原以後の秀吉の関東大名への仕置。小山氏、壬生氏、白河結城氏への取りつぶし処分。慶長2年(1601)の宇都宮国綱の改易など、晴朝は秀吉の関東支配の動きを読みこんでいたことが伺える。

 秀吉にとり関東の要害地、結城に自らの縁者を送り込むことは関東、奥州への備えとなり豊臣政権の前線基地になる。また家康にとっても実子の配置は関東における地位を確かなものになる。こうした背景で秀康は結城城主になっていった。その画策を行なったのが、結城氏重臣下館城主の水野勝俊であると市村高男氏は考察指摘している。水野勝俊は皆川広照の従兄弟であり、広照の小田原城からの離脱を家康に橋渡しも行なっているとしている(江田郁夫編集「下野宇都宮氏」より)。

  北関東をめぐる家康と豊臣政権の思惑など、新しい時代を迎える権力者の興味ある時代背景でもある。

  城下の南西側を囲む御朱印堀は小田原城の総構えを想像させる。そして下野の戦国大名を仮想敵して造られた掘割ではないかと思えてくる。掘や寺院配置から下野、奥州への前線基地としての結城城下町を秀康は作っていったようにも思える。

029  御朱印堀のある孝顕寺境内左奥の西側に「小場家」の墓所がある。慶応4年(1868)4月14日にこの墓地で結城藩水野家の国家老、小場兵馬が切腹をしている(中村彰彦著「臥牛(がぎゅう)城の虜」より)。墓地の右奥には同年3月25日の戦闘で討ち死にした兵馬の長男、平八郎の墓石が建っているのが見える。

  元禄16年(1703)に秀康の福井転封によって廃城、代官支配から新たに水野1万8千石が成立、結城城が再構築された。そして慶応4年の3月の戊辰戦争を迎え、藩主水野勝知が自分の居城、結城城を攻めるという、戊辰戦争史上、他に類をみない結城城の攻防戦が展開された。

   慶応4年正月の鳥羽伏見戦い後に結城藩江戸の佐幕派と国元の恭順派とに分かれた。藩主水野勝知は3月に旧幕府より彰義隊付属指揮役を受け、江戸藩邸を佐幕派で固めた。

036_3  これに対して国家老の小場兵馬らは結城藩の存続を考え、前藩主の水野勝進の末子勝寛を擁立し、新政府への恭順の動きを始めた。これを知った藩主、勝知は憤慨し、江戸藩士30名と彰義隊60名の応援を得て、江戸から結城城鎮撫に向かう。小山宿では国家老の小場兵馬は彰義隊に捕獲されるてしまう。

  孝顕寺西側の御朱印堀は金福寺と弘経寺(ぐぎょうじ)の間を北上している。城から西に大町通りを進むと小山に続く街道の西口木戸に突き当たる。そこは三本の道路が合流するくの字型の辻にもなっている。

  城方主力はこの西口木戸に、両脇にある御朱印掘を挟み、小場平八郎の指揮のもと30~40名の藩士で畳の塁壁と巨岩を積み上げた強固な陣地を構築した。

016  3月25日の明方、小山街道から結城城下に入ろうとする藩主側と応援の彰義隊は古河藩から借りた野砲と銃で西口陣地への攻撃を開始した。夜半に結城城を襲撃した部隊も藩主側に合流した。城方側も銃で応戦する。右前北側には弘経寺参道入り口があり、陣地両脇には御朱印堀がある。藩主側の放った野砲はj陣地には当たらなかった。しかし、強固な陣地で護り通しながら城方は小場平八郎ら7名が討ち死にした。

 藩主側は城方の護る陣地を破ることができず、戦闘は膠着し、昼頃まで行われた。城方は藩主がいることを認め、城に引き上げる。その後、城中で藩主に刃を向けるわけにはいかないとの判断を行ない、城に火を放ち城外に退避した。

 翌3月26日に藩主水野勝知は居城の結城城に入る。

 月が明けた4月5日に新政府軍、香川宇都宮救援隊の祖式(そしき)金八郎信頼支隊150名によって結城城は奪回される。応援の彰義隊はすでに上野山に引き上げており、少数となった藩主方は新政府軍攻撃の前に逃亡し、戦闘は行われなかった。藩主勝知は上野彰義隊に合流するが、新政府軍攻撃前日の5月14日に上野山から実家の二本松藩丹羽家に逃れている。そして、国家老の小場兵馬は孝顕寺にある先祖墓前で今回の責任をとり切腹をした。(参考資料ー「結城市史」、「結城の歴史」、「臥牛城の城」、「戊辰戦争事典」、「復古記11、水野忠愛家記」)

047   「この墓地を訪れる観光客の人たちは少ないのですよ。私も久しぶりに参りました」と小場兵馬の墓石の前で観光案内ガイドさんが私たちの前で灌漑深く語ってくれた。

  小場兵馬の墓所は結城第一高等学校の南西側の住宅地に挟まれて建立されている。敷地は私有地だと聞いている。

 墓石には「嗚呼可惜哀哉忠臣小場兵馬之墓」と刻字されている。戊辰戦争結城の戦いを書いた小説に中村彰彦著「臥牛城の虜」がある。その中で、祖式金八郎が配下の者に「小場兵馬は、おのれの命と引きかえに結城藩を存続させようと願うて死んだ忠臣じゃ。城のよう見える城南の地を選んで、墓を建てちゃれ」と命じたと記されている。そのためにこの地に小場兵馬の墓があるのかもしれない。しかし、結城城は建物に遮られていてこの墓所からは見ることができない。

070  私たちを案内してくれた観光ボランテイアガイドさんは、「明治40年に行なわれた陸軍特別大演習の時、明治天皇をお迎えして結城小学校に大本営が設置されました。当時の陸軍の有力者たちがたくさんお見えになっての大規模な演習でした。当時の交通便を考えても凄いことでした。これも小場兵馬のお話があったから、結城において大演習が行われたのではないかと思っています」と墓石を見ながら語ってくれたのが印象に残った。

 何よりも結城の歴史、寺院、史跡に誇りを持って案内、説明してくれたガイドさんだった。それにしても結城市を歩いてみて、大変歴史ある奥深い町だということが私の一番の印象だった。

  戊辰戦争の中で結城の戦いを藩内父子の内紛としてとらえる考え方がある。しかし、時代の変動期における養子として藩主となった勝知の思いと役割。藩を存続するための冷静な判断を下す小場兵馬など重臣たちの思い。さまざまな角度からまだまだ考察していく必要があると思う。

                                         《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

ウエブ「結城市ホームページ」/「結城市史」(昭和55年10月発行)/「結城の歴史」(平成7年発行)/市村高男著「近世成立期東国社会の動向―結城朝勝の動向を中心として」(江田郁夫編集「下野宇都宮氏」2011年戎光祥出版発行)/中村彰彦著「臥牛城の虜」(平成6年文藝春秋発行)/太田俊穂監修「戊辰戦争事典」(昭和55年3月新人物往来社発行)/ウエブ「復古記11.水野忠愛家記」

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城郭の名残り―栃木町・明治の栃木県庁堀跡

Photo  「県庁跡にある堀は押し寄せる農民一揆から県庁を守るためできていたのかな?」と、小学校に通っていた頃、県庁堀を見ながら思っていた。

  今の栃木中央小学校になった栃木第二小学校の傍を県庁掘が流れていた。小学校は栃木高校と同じく県庁堀の中にあった。平成26年2月に栃木市万町にあった福田屋跡地に移転した栃木市役所の庁舎も南側の堀沿いにあった。大正10年(1921)に建築された旧市役所別館は今も空き家として県庁堀の水門・揚場跡に建っている。文化遺産の市役所別館を「栃木市歴史資料館」として活用して欲しいと願っているのだが…。

10  県庁堀は明治6年(1873)1月から明治17年(1884)1月の間、栃木町に栃木県庁が置かれていた時に、県庁舎や官吏宿舎の敷地を囲むように造られていた。水源は堀の北側、現在の栃木高校の校舎と校庭の境目にあり、東西に現在も流れ出ている。東西約246m、南北約315mの堀と巴波川から県庁に直接舟が着くように造られた長さ120mの漕渠(そうきょ、運河)があり、合わせて総延長1260m、堀の幅3.5~5.5mとなっている。

  平成8年(1996)8月に栃木県指定文化財に登録されている。県庁堀の正式な名前は県庁堀川と称し、堀にはニシキ鯉の群れが、清流の中を生き生きと泳いでいる。平成8年に水源のある栃高の堀を含め護岸工事によって県庁堀全体が整備されている。

Photo  明治4年(1871)6月に鍋島貞幹(なべしまさだもと)日光県知事は本庁を日光から栃木町への移転と日光県から栃木県に名称を変更する願出を明治中央政府に出している。移転したい理由として、①巴波川舟運の発達により輸送が便利、②下野国の中央に位置し、道路が各方面に通じていて交通が便利、③人家が密集していて豪農商家があり、人や物資が集中する土地、④その一方、無頼の徒が流れ込んで来ることもあり、かつて足利藩が出張陣屋を設置して取り締まってきた場所だと挙げている。この時初めて「栃木県」という名称が現れたと栃木県史に記述されている。これに対する指令(返答)はなかった。

Photo_9  日光県(2万石)は明治2年(1869)7月に真岡県(8万3千石)と合わせて設置された。宇都宮藩7万石を超える10万石の支配地を有する石高となった。下野には藩や諸藩飛び地と徳川幕府・旗本領地があった。幕府領を管轄にしていたのが真岡代官所だった。慶応4年(明治元年・1868)6月に真岡代官所管轄地を中央政府の直轄地とし、真岡県と称した。その支配地は芳賀郡2ヵ町75ヵ村、河内郡4ヵ宿44ヵ村、都賀郡4ヵ宿50ヵ村、塩谷郡9ヵ村、那須郡1ヵ宿60ヵ村、5郡合わせて238ヵ村9ヵ宿2ヵ町と日光神領・旗本領合わせると下野国20%(下野国全体55万石)を占める。武蔵・相模・伊豆の幕領26万石を所管轄する韮山代官所には及ばないが、下野国最大の所管轄・石高を有する県になった。この真岡県知事に鍋島藩家士鍋島貞幹が「総野鎮撫府」(長官は鍋島藩主、鍋島直大)から任命された。

Photo_3  下野新聞社発行「明治百年野州外史」によれば、総野鎮撫府とは下総と下野の2国支配下として「一国鎮圧・政務採決」を任務とした軍政機関であった。鍋島直大(なべしまなおひろ)長官に対する命令書には『2国近辺に賊軍が出没して官軍に抵抗し、王民を苦しめ、まだ平定に至らないから、賊軍を鎮圧し、2国の各藩の動向をよく見極め、民政を取り締まり、人民が家業に安んじうるように指揮せよ』と記述されている。

  藩主が受けた命令はそのまま下野真岡県知事となった家臣の鍋島貞幹にも同様の命令となって、戊辰戦争東北の戦いという戦時下の考えで下野国支配が根底に流れていったと考えられる。謎の多い真岡代官山内原七郎処刑にもつながり、以後明治16年(1883)まで下野栃木県の知事(県令)は鍋島貞幹、藤川為親と佐賀藩士の支配下とつづくことになり、藩主の受けた命令が影響を与えていくと推察する。

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  「昔からここを大手前と言っていて、盆踊りなどいろんな地域の行事をやっていた。桜も植えられていた。今は両側に家が建っているが幅の広い道路と言うよりも広場だったんだ。この道路は第一小学校の敷地の一部だと役所は言っているな」と第一小学校校門前の皆川街道沿いに建つ設備会社「ナガサワ」の会長が話してくれた。
Photo_2   地図に記載されていない「大手前」という地域で使われてきている道路の名称。「ナガサワ」の店舗にその看板が掲げられている。「ナガサワ」の店舗から第一小学校の校門を見る。校舎の北側に県庁堀があり、この道路は県庁の表門へと繋がっていることが分かる。表門は城の大手門を意味する。大手門に繋がる道として「大手前」と呼んでいることになる。地域の人の間には県庁舎を城郭として見ていたのではないかと思えてくる。

 
  明治4年(1871)の廃藩置県を前に明治3年(1870)7月に日光県は足利藩と村々の交換を行っている。足利藩領だった栃木城内村が日光県に組み入れらたことにより栃木町は足利藩栃木陣屋の支配から日光県管轄地となった。この領地交換については栃木市史では鍋島貞幹が栃木町に県庁を移転させるため行なったと記述している。栃木県史では領地交換の結果として、群馬県館林藩を含め地理的中間地の栃木町が栃木県庁設置となったとしている。明治17年(1884)1月の栃木県庁宇都宮への移転の関係で市史と県史では微妙に違っている。

Photo_4   栃木町が日光県になったことから鍋島県知事は明治4年(1871)5月に宇都宮の手前にあった日光県石橋出庁所を栃木町旭町の定願寺に移転させている。そして明治4年7月の廃藩置県、11月の全国の県改廃を受け、下野国は栃木県と宇都宮県の2県に整理統合された。県知事の名称が県令に変わった。この時、初めて「栃木県」の県名が登場した。栃木県の管轄区域は下野国の足利郡、梁田郡、寒川郡、阿蘇郡、都賀郡に加え館林県である上野国邑楽(おうら)・新田・山田の三郡が栃木県の管轄となった。

  どうして上野(群馬県)の館林県三郡が栃木県の管轄となったか?明治4年11月に栃木県が誕生した時に上野国三郡は栃木県管轄に入ったと群馬県史には理由の記載もなく記述されている。

 高野澄著「廃藩置県物語・館林藩」の中で「館林県が群馬県から除外されたのは渡良瀬川をはさんで下野国につながる関係の強さが考慮されたからだろう」と指摘している。上野三郡と下野国の梁田と足利は利根川と渡良瀬川に挟まれたこの地域では、幕府領と私領が入り乱れているため水利の配水を間違えると不穏な情勢になる。これまで管理をしてきた徳川幕府から慶応4年の4月、田植えを前にこの地域の水利の管理を明治新政府は館林藩に委譲した。このことが館林県が栃木県の管轄になった大きな理由だとしている。

 やがて明治9年(1876)には埼玉県統合により熊谷県が廃され、上野三郡は栃木県から元の上野国群馬県に帰属していく。この上野三郡の群馬県への帰属は栃木県の県庁所在地が地理的に南に偏っていることから栃木町から宇都宮町への県庁移転への理由のひとつになってくる。

013_3 栃木県設置にともない、定願寺(栃木市旭町)を仮庁舎として翌5年(1872)5月に栃木町園部村(現栃木市入舟町)に県庁舎建築の伺いをたて、8月着工11月に落成させている。翌明治6年(1873)1月に新県庁舎で執務が開始された。明治5年は太陽暦変更のために12月3日をもって明治6年(1873)1月1日となる。そして明治6年6月15日に宇都宮県が栃木県に編入となり下野国は栃木県という一つの県になった。

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  新庁舎の建物は地域住民の文明開化をはかるため西洋建築として造営され、明治17年(1884)1月の県庁移転まで栃木県庁舎として使われたと栃木県史に記述されている。

  敷地は2万654坪5合5勺で総工費8296両永9文6分で費用負担は4587両永184文6分は官費(1/3)と郡割(2/3)、残りの3708両3分永75文は一般からの献金・献夫となっている(とちぎ市民学舎講座「栃木町と栃木県庁」資料)。実に45%が一般からの献金で県庁舎が建築されていることに驚く。当時の県庁舎の建築負担は何も栃木県だけではなく、江戸時代と同じく命令として町民・村民に下していた。しかし、明治5年頃の栃木町の商家は徳川幕府消滅で衰退した日本橋から山車(静御前人形)を購入するなど財力が豊富だったこともあり、負担を受けられた理由になる。

Photo_10  当初、敷地は水田のため盛土と堀が必要であったが、建物下のみの盛土と外廻り小土手のみが許可されたにすぎなかった。しかし、周囲一面が水田であるため、盛土がなければ県庁への往来に差支えることや、強雨の際には巴波川からの押水の被害が懸念されるため悪水堀はどうしても必要なことから、再度伺書を提出した結果、県庁・官舎地面の盛土と周囲堀など聞届けられたと栃木県史に記述されている。

  悪水堀(排水処理用)として造られた県庁堀は城郭としての堀と果たしていえるのだろうか?考察していくことにした。

Photo_8  栃木市の東方にある田村町に律令時代の下野国府政庁跡地がある。南北96.6m、東西94.5mの周囲を版築土塁と濠に囲まれていたとされている。濠の存在は確認できないが、栃木町にあった栃木県庁庁舎と類似している。古代律令体制の中での政庁(国府)は中央政権を確立維持するため出先機関施設として築城という手段を用いた。実際、下野国府政庁は天慶2年(939)の11月の「天慶の乱」で平将門に攻められ、落城している。

  三代目県令となった三島通庸は明治9年(1876)に統一山形県ができた時に山形県庁舎を新たに建築している。丸山光太郎著「土木県令三島通庸」の中で山形県庁舎建築の項で「坪数3841坪の敷地全般に盛土をし、西北で10尺以上、東南で7,8尺を盛り上げ、土塁は亀甲型の間知石積とした。その土留石積の外に堀を設けることにした」と記述されている。現在は堀は確認されていないが、盛土と堀は一対となっていることが読み取れる。

Photo_10  西ヶ谷恭弘著「日本史小百科・城郭」の中で、城は人間の生命、生活空間、財産を守るために構築した施設である。城は土でできている構築施設であり、これをさらに取り囲む郭(かく)が生まれ、城郭と称されるようになった。城という『土を掘り土を盛る』行為は、原始以後変わることなく、城づくりの基本」と規定している。盛土と堀は一対だと指摘しているのだ。

  さらに築城者からみた城郭の最大の目的を「土豪や武士階級による在地支配の拠点、または軍事目的として築城」と西ヶ谷恭弘氏は記述をしている。

  地域支配の拠点として鍋島貞幹栃木県令は堀を巡らせ、人民に城郭としての県庁舎を見せるために造ったのではないかと思えてくる。第一小学校校門前を現在でも「大手前」と呼ばれ、使われていることにつながってくる。

Photo_13  明治新政府の地方支配の拠点としての県庁の果たす役割は大きかった。農民一揆が多発しているなか、中央集権化(富国強兵)に向け、明治4年の廃藩置県での統一国家、明治5年の戸籍法の実施で人民の掌握、明治6年の徴兵令発布と地租改正と続く制度の改定実施は一般民衆に大きな影響を与えている。

  とりわけ壬申(明治5年)の戸籍と言われる戸籍制度ができることにより、これまでその筋(寺社奉行と代官)からのみの適用であった治安取締りが地域全体を網羅できることになり、県庁の支配権限が拡大されていくことになる。獄舎も備えている県庁には警察制度が整い警察力も強化されていく。物納年貢から金券納入としたことによる農民の負担増加が増してきた。「中央からの指揮監督のもとに中央の政策法令を施行する純然たる行政機関」と井上清氏は「日本の歴史20・明治維新」(中央公論社版)で府県を位置づけをしている。

Photo_14  片岡写真館蔵の「明治10年代ころの県庁堀」の写真を見ると、幅広い水堀は城を防衛する本格的な水堀として城郭の姿に見えてくる。戦国時代の長槍は5メートル。その長槍が届かない距離が堀の幅だったとされている。

  明治初期、真岡代官から受け継いだ下野国の地方支配としての栃木県庁舎。排水処理のみでなく堀を巡らせた城郭としての建造物を地域に見せること。それは強固な権力誇示であり支配力を目で見せることにあったと思える。しかし、県庁官舎建設に多額の献金をして支えた栃木町の商人にとっては、県庁堀から見える県庁官舎は「武士の城」から「商人の城」に変貌したことを実感したのではないだろうかと思えてくるのだ。

  もし第一小学校の建物がなく、大手前通りから県庁表門まで歩くことができれば、明治初期の栃木県庁舎が浮かびあがってくるような気がしてくる。南側堀には県庁表門跡地には移転した元栃木庁舎が建っている。せめて南側の堀の中間あたりに「旧栃木県庁舎表門跡地」という標識を建ててくれるとありがたい。そうすれば憲法に地方自治権のなかった時代の明治期の役人様と対面できるかもしれない。そう勝手に想像してみると、県庁堀は城郭として水掘りに見えてきた。

※関連ブログ―「銀次のブログ、四方を流れる栃木県庁堀―水源のある栃木高校

≪参考・引用資料≫

栃木県史・栃木市史・群馬県史(通史)、井上清著中央公論社版「日本の歴史20・明治維新」、下野新聞社発行村上喜彦執筆「明治百年野州外史」、高野澄著「廃藩置県物語」。西ヶ谷恭弘著「日本史小百科・城郭」、丸山光太郎著「土木県令三島通庸」、とちぎ市民学舎講座「栃木町と栃木県庁」(講師:栃木県立文書館丸茂博)、栃木市民大学講座「県庁があった時代の栃木町」(講師;大原悦子)、片岡写真館、その他ネット記載のブログ「栃木県庁堀」関連記事多数。

                                        《夢野銀次》

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吹上藩と戊辰戦争安塚の戦い

015  正仙寺は栃木市吹上町の吹上中学校の隣にある。吹上中学校は皆川氏の支城跡に建っており、正仙寺も吹上城の一郭となっている。その正仙寺には吹上藩の藩士の墓と戊辰戦争安塚の戦いで戦死した藩兵4名の官修墳墓がある。

  吹上藩は天保13年(1842)に摂津有馬氏郁が領地替えで上総五井から移り立藩された。文久2年(1862)には12歳の有馬氏弘が継嗣し、二代にわたり明治4年(1871)版籍奉還で吹上県に変わるまでの、わずか30年間の吹上藩領地支配であった。

Photo_2  領地は一万石で半分が伊勢の国にあり、藩士は108名いたという。しかし、二代藩主氏弘の時には水戸天狗党栃木町焼打ち事件のかかわりや戊辰戦争への参戦、明治2年3月の斬奸事件と幕末から明治初期にかけて、激動の時代に向き合った藩でもあった。元々筑後久留米有馬家の分家であったが、徳川吉宗時代に譜代となり、江戸においては上・中・下屋敷を構えるなど格式の高い譜代藩だったいえる。現在では久留米有馬家は『有馬記念』の提唱者、15代当主有馬頼寧(よりやす)と直木賞・推理小説作家の16代当主の有馬頼義(よりちか)の名前で知られている。

036  吹上藩は戊辰戦争の際には、去就がなかなか決まらない下野において、中山道まで出向き、いち早く新政府軍に恭順を表明している。そして慶応4年(1868)4月22日、壬生町安塚姿川を挟んでの安塚の戦いに一小隊(60名)が新政府軍として参戦している。4月19日に壬生城に入り、河田佐久間率いる第二次宇都宮藩援軍に合流している。

  安塚の戦いは大鳥圭介率いる伝習隊を主力とした旧幕府軍が初めて負ける戦いとなり、下野における戊辰戦争のターニングポイントになっていると指摘されている。

034  慶応4年(1868)4月19日に土方歳三率いる旧幕府前軍は宇都宮城を攻略した。一方の大鳥圭介率いる旧幕府中軍は4月16日の小山の戦いで勝利し、壬生城を避け、栃木町から例幣使街道を通り鹿沼にて、前軍による宇都宮城攻略に落城を知り、20日宇都宮城に入った。ここで問題の軍議が開かれた。 宇都宮城では破壊され防御に不向き。孤立無援。補給線もなく守りきれないことでは一致した。しかし「所期の目的である日光山に籠るべき」との意見に対して、北上してきた新政府軍と「断固戦うべし」と繰り返す土方歳三と桑名藩隊長立鑑三郎らとが対立し、決着は翌日21日にずれ込んだ。この決着一日の差が新政府軍の安塚陣地構築の時間を与えことになった。

 大鳥圭介の所期の目的は徳川家の聖地日光山に籠り、関東の動静を見極める肚で、戦いを仕掛けるつもりはなかった。法治主義者の軍官僚であった圭介は、相手が発砲しないかぎり不戦を貫く心積りでいた。しかし、21日の軍議においては宇都宮城を攻略したことを受け止め、戦闘していく肚を固めた。そして、翌22日に壬生城めがけ攻撃を決めたとされている。なお、大鳥圭介は体調不良のため22日の安塚の戦いには出陣していなかった。

Img021_2 第一次宇都宮藩救援隊の香川敬三の壊滅を知った新政府軍は第二次援軍として隊長に鳥取藩河田佐久間を任命した。第二次救援隊は土佐藩・鳥取藩を主力として吹上・松本藩を加えた500名の強力な布陣とした。鳥取藩の中には新式ライフルを備えた伝説の農兵部隊松波六郎兵衛率いる松波隊や京都時代祭行列鼓笛隊隊のモデルともいわれている丹波国山国郡の農兵・山国隊もいた。さらに壬生雄琴神社神主黒川静馬の提唱で結成された民兵の利鎌(とがま)隊も加わった。河田佐久間率いる第二次新政府軍は4月20日に壬生城に入った。

042  宇都宮と壬生の中間点の安塚において、先に胸壁陣地を構築したのは新政府軍。姿川にかかる淀橋手前に松波隊。西側に土佐藩。ここに「磐裂根裂(いわさくね)神社」の亀塚古墳があり、陣地を構築をした。この神社は丘陵地帯となっており、淀橋から栃木街道にかけて見下ろす高台の地形となっている。松波隊の後方には松本藩と吹上藩。そして後方に鳥取藩を布陣とした。

  旧幕府軍、大鳥圭介が立てた作戦は安塚正面を攻撃部隊、安塚宿東から攻撃する部隊、遠く迂回して壬生城を攻撃する部隊の三つに分け、得意の包囲作戦であった。

058  慶応4年(1868)4月22日の早朝、風雨激しい中、姿川にかかる淀橋を超えての戦闘になった。新政府軍の側面をつく部隊が道を間違え、淀橋手前の幕田村に着き効果的な作戦にならなかった。しかし、それでも鶴翼の陣を引く旧幕府軍は栃木街道を壬生城に向けて優勢に戦闘を推し進めていった。

  壬生城にいた河田佐久間は新政府軍の苦戦を知り、予備隊をつれて安塚に急行した。ここから逆襲が始まった。河田は退却する兵に、抜刀して「退ク者ハ他藩トイエドモ死ヲ免(まぬか)レン」と叫んで押し返した(大獄浩良著「下野戊申戦争」より)。島遼伍著「北関東会津戊申戦争」によれば、河田の陣頭突撃により、戦況を一転し、突撃を受けた旧幕府軍」(伝習隊)は組織的な抵抗ができず、姿川に追いつめられ、陣地を奪い返した新政府軍に射的の的のように射殺されていった。旧幕府軍は西川田方面に退却した。新政府軍戦死者17名に対して旧幕軍の戦死者は70~80名、負傷者は100名近くにのぼり、伝習隊の2割を失う多大な敗北となったと記述している。

040_4   彰義隊上野戦争に加わった鳥取藩士河田佐久間は文久三年(1863)8月に京都本圀寺で藩重役3人を斬奸した22人の藩士の一人であり、幽閉されていた。鳥取藩主池田慶徳は水戸徳川斉昭の息子孝明天皇大和行幸に時期早々と進言したことから、「逆賊」と誤解されることになり、藩主の汚名は佐幕派の重臣にあるとし斬奸した事件の張本人。切腹ではなく、幽閉という寛大な措置であった(後日仇討へとつながるが)。

  幕府の長州再討をきっかけに河田佐久間は長州の厚遇を受け国事に奔走、鳥取藩に復帰し鳥羽伏見の戦いに鳥取藩は官に加わった。この参戦は藩主慶徳に了解を得ず、京都詰めの荒尾駿河守と河田佐久間の独断であったとされている。藩主慶徳は、弟の徳川慶善を敵側とすることは出来ず、板挟みとなり苦しみ、出来れば朝廷と幕府が融合する公武合体で国体を守るのがいいのではないかと思っていたのではと言われている。その後、鳥取藩は、倒幕へと藩論が一致し、江戸攻めの東征軍の一員として参戦したという経緯がある。

001_5 正仙寺境内に吹上藩士の墓と吹上藩斬奸事件墓碑がある

明治2年(1869)3月17日の早朝、吹上藩江戸上屋敷藩邸(日比谷公会堂の前あたり)に吹上藩の正義派9人が斬り込み、藩老3人を殺傷した。戊辰戦争における4人の戦死者の遺族への手当を3人の藩老が藩主を欺き横領したとしての殺傷した事件。吹上藩斬奸事件よ呼ばれている。斬りこんだ9人の内の8人は家名存続の切腹だったが、吹上村組頭鈴木政右衛門は平民のため斬首刑となった。8人という集団切腹は日本史最期の切腹と言われている。

 明治政府からは明治2年の6月に吹上藩に2000両の戊辰戦争恩賞金がでている。藩重臣が横領したという金はこれとは別なのか分らない。昨年(平成23年)7月9日に吹上まちづくり協議会で「吹上藩斬奸事件」の講座が開かれ、講師の大竹博氏よれば、この事件の史料がほとんどなく、事件の背景、動機など真意は不明だと述べた。

 「吹上斬奸事件」は安塚の戦いと連動していると思える。勝手な推測をするならば、藩の重臣を斬奸する行為は、安塚の戦いの隊長、河田佐久間が行った斬奸事件と同じ。おそらく安塚の戦闘を通して吹上藩士はそのことを知っており、影響を受けたのではないかと思える。さらに戦死した遺族への支払い金の横領は、平民で戦死した者へのお金でもあった。同時期、黒羽藩には各種各層に論功が行われ、軍夫に対しても5両から30両の下賜があったとされる。この吹上斬奸事件には農民鈴木政右衛門が加わっていることから、藩士より平民への慰労金が含まれていたと推察される。この事件から共に安塚で戦った藩士と農民のつながりが見えてくるのだ。

 戊辰戦争は武士同志の戦闘から草莽の士や農兵など出現により、身分を超えた政治権力闘争となっていった。その推移を注視していきたい。

〈参考資料〉

「北関東会津戊辰戦争」島 遼伍著、「下野の戊辰戦争」大獄浩良著、「戊辰戦争-慶応四年下野の戦場」栃木県立博物館、「近世栃木の城と陣屋」杉浦昭博著、「講座 吹上斬奸事件」吹上まちづくり協議会、「栃木市の歴史」日向野徳久著

               《夢野銀次》

 

 

 

 

 

 

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出流天狗・栃木宿の戦闘―長谷川伸『相楽総三とその同志』より

014  栃木市室町にある「うずま公園」の室町駐車場の中央に『西山謙之助供養塔』が建立されている。

  その場所は慶応3年(1867)12月11日の夕刻、薩摩下野糾合隊(出流天狗)と栃木陣屋ならびに関八州取締出役渋谷鷲郎率いる幕軍(農兵)との戦闘で西山謙之助らが討死にした出流天狗党の遺骸を埋めた地である。

  江戸期には斃馬(へいば)の捨て場と乞食小屋があった所でもある。今は有料駐車場になっているが、それ以前は栃木県下都賀出張所庁舎があった。日向野徳久著『栃木市の歴史』の中では昭和35年、この庁舎の職員が浄財を募り、供養碑を建立したことの記述がある。

  長谷川伸の『相楽総三とその013同志』(昭和18年刊)ではこう記述されている。

 「九ツの死体をセドの原の一つ穴へ棄て葬(とむら)ひにした。セドは裏の意味で、宿外れの一ツ穴に投げ込むことを(栃木)宿のものは“ぼっこみ”といった。そこは大名の通行などのとき斃馬が往々にして出る。それをほうり込んだ處である。後代になってその場所に近く郡役所が建つので、地盛りのため、そこから要るだけの土を掘り取った。処が、斃馬の供養に建てた馬頭観世音の碑の近くから、人の骨が出てきたので、そこだけ止めて他を掘った。その土工作業が終って、雨がたびたび降るうちに、堀った跡に水溜りが出来て、馬頭観世音の碑のある堀り残した所だけが中の島の如くなった。そこが、九人の戦死者を“ぼつこみ”(投げ込み)した地点である」

  現在も供養塔が建っているが、市の観光案内パンフには載っていない。その先のうずま川べりには馬頭供養碑が今も建立されている。

 栃木宿戦闘で出流天狗党の討死者は長谷川伸の書では9人としているが、実際は6人ではなかったのではないかと思えるが確証はない。それにしても長谷川伸の「相楽総三とその同志」は003_2凄い。読んでて背筋が寒くなってくるほどの作品だ。

   野口武彦は『江戸は燃えているか・赤報隊哀歌』の中で、『相楽総三とその同士』を「金字塔的な名作、今もって誰にも越えられない仕事である」とし、「多年にわたる史料蒐集の結晶であるこの大著は、主人公はじめ参加メンバーの伝記を丹念に掘り起こし、専門幕末史家の研究書でも参照されているくらいだ」と絶賛し、続けて「何よりも対象に深い愛情が向けられている。「自序」に『相楽総三という明治維新の志士で、誤って賊名のもとに死刑された関東勤王浪士と、その同志でありまた同志であったことのある人々のために、十有三年間、乏しき力を不断に注いで、ここまで漕ぎつけたこの一冊を、「紙の記念碑」といい、「筆の香華」と私はいっている』とある一文に万感が籠められている」と惜しみなく絶賛をしている。

 その通りの作品だと思う。今回、昭和18年発刊の古くなった書物を初めて読んだ。それは小説というより歴史叙述書だった。
016  慶応3年(1876)11月下旬、薩摩藩邸を出立した竹内啓(ひらく)を隊長とした浪士一行は11月27日に栃木宿、脇本陣『旅籠押田屋』に投宿した。

 3・40人が千住の関を通過する名目として『島津藩主、夫人の出流山千手観世音の願ほどきの代参』としていた。12名の投宿を受けた押田屋はすぐさま200メートル先の足利藩栃木陣屋奉行の善野司に通報した。

  翌28日に鍋山村を目指す一行には密偵が付けれてた。薩摩藩邸糾合所では江戸周辺の三か所で争乱を起こし、討幕戦闘のきっかけを作る戦略が練られた。その1つが鍋山村出流山満願寺擧兵となった。

  千住の関を無事に通過するための願ほどき代参が大きな理由となって出流鍋山村が選定された。何故、願掛けが出流千手観音なのかと疑問があった。しかし、鍋山村を含む近辺の寺尾・梅沢・小曾戸・門沢等は鎌倉以来、島津一族であったことが分かり、江戸期においても鍋山近辺と薩摩島津家とは交流があったのではないか思うようになった。その史料はない。わたしの勝手な推測だ。

021  鍋山村に宿泊した翌日の11月29日の朝、11 人は出流山満願寺前にて『徳川幕府を討たずして皇政復古はならず攘夷を実行せずしては我が日本危うし』との討幕挙兵の声明文を読み上げた。

 一行に付いてきた村の人夫達は『これは4年前の水戸天狗党騒ぎの再来だ』と驚き、以後『出流天狗』と言われることになる。

  栃木到着前から別働隊による同志の募りで150人規模となってきた。こうなると服装・食糧・武器購入のための資金調達の動きを強めていくことになる。近隣住民からの強圧的な資金徴収の通報もあり、栃木陣屋奉行の善野司は関八州に討伐を要請した。

  資金調達が思うようにはかどらない。そのため高橋亘を頭に3人が鍋山村から栃木宿押田屋に止宿し、栃木陣屋に三千両の借用を迫る交渉を始めた。陣屋奉行善野司はこの栃木宿から出流天狗を追い払うことを第一義的に考え、討伐は幕府軍に任せることを念頭に、のらりくらりの談判応対し討伐準備を進めていた。

007  陣屋との談判が進まないため鍋山村本部の竹内啓らは国定忠治の子息、大谷刑部國次を道案内に西山謙之助・田中光次郎らを栃木宿へ差し向ける。

  12 月11日の夕刻、西山一行は乗馬にて幸来橋(念佛橋)の先端にある木戸に到着。閉まっている木戸の門扉を開けさせるところから栃木宿の戦闘がはじまるという長谷川伸『相楽総三と同志』。

  槍を振り回す乗馬の西山謙之助は鉄砲にて討死。その後は押田屋止宿組との戦闘となる。その描写は乗馬して槍をふるう西山に対して取り囲む捕り方の銃砲など随所に迫力ある描写で圧巻である。

  ただ、長谷川伸が史料とした館林藩士藤野金太郎近昌『野州岩舟山浪人追悼聞取書』では幸来橋の戦闘はなく、二組が押田屋で合流しての戦闘と記述がある。また黒崎家文書「慶応記事」(栃木市史記載)では幸来橋の戦闘の記述があり、4人の死亡があるが、間違って、捕り方の一人が討たれ死にされたとの記述がある。小説と史実の違いなのか分らないが、いずれにしても長谷川伸の戦闘描写は迫力があり凄い。

029   栃木陣屋奉行善野司は討伐にあたり、“出流天狗”は“浮浪の士”と位置付けをして、討伐を農兵(鉄砲)の関八州澁谷鷲郎部隊を主力にしている。町方に雨戸閉めさせる。要所に町の警備者(町兵・自警団)を待機させる。町年寄には防火対策を指示している。

  これらは4年前、元治元年(1864)6月6日の水戸天狗党・田中愿蔵による「栃木町焼打ち事件・愿蔵火事」を教訓にしての対策をしていたことが分かる。「愿蔵火事」の時に善野司は栃木陣屋を留守にしていたのだ。

  薩摩藩邸での糾合所会議で「愿蔵火事」における栃木町の住民の怒りを知っていたならば、出流鍋山村を選定しなかった筈だ。善野司の書き記した文書があれば、もっと正確なことが分かるかと思える。

  この栃木宿戦闘においてに高橋亘と大谷刑部は鍋山村に逃げることができたが、12月12日から13日の岩船山戦闘で出流天狗は壊滅する。

Kinchakusan011    栃木市の郊外に80メートルの小高い山、錦着山がある。

  山頂にある護国神社は初代県令鍋島貞幹が、明治12年(1879)に戊辰西南両役における戦死者を祀り、建立したもので燈台は日露戦争の勝利を記念して建てられた。周辺にたくさんあったという古墳塚を崩して錦着山を作ったとされている。わたしの小学生の頃の遠足地であり、当時は山の南側の崖に防空壕の残骸跡、2ツの穴があり遊んだ記憶がある。

 山頂社殿の脇、西側に西山謙之助の供養碑が建立されている。岐阜県美濃、久々利村から同所の千村兵右衛門に仕えた後、江戸に出て剣は齋藤彌九郎の道場、学は平田鐵胤の下で学んだ。

 004 西山が野州に出立する時に親に送った永訣の手紙「西山尚義遺書」は丸山梅夫(本名:丸山久成)により明治2年に刊行されたと「相楽総三とその同志」に記されている。

  あわせて錦着山頂社殿脇にある「西山謙之助供養碑」を建立したのが丸山梅夫と指摘している。「目で見る栃木市史」には供養碑の紹介はあるが、何時誰が建立したかの記載はない。

  「相楽総三とその同志」によれば、丸山梅夫は信州上田、房山村の大庄屋の生まれで義兄が薩摩糾合所浪士隊大監察の齋藤謙助。丸山梅夫は出流天狗潰走の後、赤報隊官軍先鋒、嚮導隊(きょうどうたい)で追分宿において上田藩に捕獲された。翌年、明治元年8月に釈放後、上田市で銀行家として町の発展に尽くした。

  幕末の時代のうねりの中で使い捨てされてきた勤王の志士、草莽の士などは変名や偽名が多いことから史実として明らかにしていく作業は困難を伴うし、大変なことだ。歴史に埋もれた幕末草莽の志士たち。その解明を続け、甦らせる。一つ一つやっていく以外にない分野だと改めて思う。

                              《夢野銀次》

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太平山連祥院六角堂―水戸天狗党とウナギ

004_2   元治元年(1864)3月27日、筑波山にて天狗党と呼ばれる水戸藩尊王攘夷派67名が『尊王攘夷実行』を叫び蜂起した。4月3日に170人となった天狗党は日光を目指し下山した。しかし、宇都宮藩と協力呼びかけなど折衝する内、日光は盤石な防御となってしまった。そのため、一行は軍事的要点を備えた太平山を仮の根拠地として、関東の諸藩に働きをかけ、参加を促すことし、日光から太平山を目指した。
  太平山は栃木市内より西に車で15分の所に関東平野を一望する343メート
002_3ルの小高い山だが歴史ある山でもある。山の頂上付近には1200の石段を登った所に太平山神社がある。今から約二千年前の垂仁天皇時代に社が造られたという非常に古く、山岳信仰の霊場としても多くの信仰を集めていた。平安初期には第53代淳和天皇により『日・月・星』の御神徳を現す三座の神様をお祀りするため現在地に造営されたものだ。

 川島正雄著「蔵のまちとちぎと太平山-その歴史と自然と文学碑-」によれば天長4年(827)に入山を拒否されていた円仁(慈覚大師)は淳和天皇の勅額を奉じることで入山し、太平山神社本殿の手前下に寺院連祥院を創建したと記述している。神仏混合として信仰を集めてきたが、明治元年の神仏分離令により太平山における仏閣、寺院、別当所は破棄された。明治38年に有志者により京都の六角堂を模して連祥院本堂が現在の太平山神社山道入口に建立された。大平山全体が霊山となっているのではないかと思える。

046 『わたしのお祖母さんの話ですけど、この近辺にお嫁に来る時の花嫁衣裳につるの絵柄があった場合、そのつるの口ばしを糸で結んでしまうの。このつるはウナギを食べませんという意味で』と六角堂の巫女さんが話してくれた。連祥院の本尊は記憶力を拡大させてくれる『虚空菩薩』。虚空菩薩のお使いがウナギなのだ。そのため、この太平山近辺の人々はウナギを食べないという風習が根強く残っている。

 六角堂の向拝の鐘の上にウナギの彫刻がある。『全国でも珍しと言って、写真を撮っていく人が多いですよ』と住職が語ってくれた。

011  水戸天狗党は4月14日に太平山に到着し、山の中腹にある連祥院別当所を本陣とした。水戸斉昭公の神位を祭り、葵の幕を張りめぐらしすと共に大砲三門を備え、銃、槍等の武器を飾り立てた。山下の栃木口・富田口・皆川口には見張り木戸番所を設け、昼夜厳重に警備した。山内の寺院や謙信平の茶店などを宿坊とした。そして近辺の村々、富豪商家への軍資金の徴収を強圧的に進めた。

 天狗党の首将は水戸奉行の田丸稲之衛門だが実際の指揮は藤田東湖の4男、藤田小四郎23歳だった。 

014_2藤田東湖は「農民そのもの、下級武士を直視し、これらを養成組織化する」ことを観点としていたが、藤田小四郎ら幹部の挙兵には「農民のための世直し」という視点がなかったのではないかと思える。

 天狗党の解体、説得にきた水戸藩目付山田兵部共昌らは説得に応じないことから「筑波山に帰って天下に号令せよ」という策を与えた。天狗党は下山を決め、筑波山を目指すことを決める。天狗党への参加者は増加し、四百人の部隊となっていた。中には「四民一和」「農民の味方」「討幕」等で参加した者が多かったが水戸藩内部での決着をはかる方向にもなっていった。そのことが、6月6日の栃木町焼打事件『愿蔵火事』を生む要因にもなった。

035_2 6月2日に栃木町定願寺を本陣として水戸天狗党は筑波山を目指し、1月半滞陣した太平山、栃木町を去って行った。集めた軍資金は一万三千四百七十両だったという。

  天狗党が去った後に田中愿蔵80人の部隊が現れ、栃木陣屋との軍資金徴収のもつれから6月6日、栃木町の下町(室町)、中町(倭町)、上町(万町)の400戸を放火、全焼させてしまう「愿蔵火事」を引き起こす。栃木町の約半数以上の商家や家が焼け出された。徳川時代において、焼打ち放火事件としての火事では他に例がない。焼け出された住民は田中愿蔵一行を途中まで追いかけ、仇を討とうとした。栃木町の住民の怒りはこのうえなく浸透した。この恨みなのか、謙信平にある「水戸天狗党鎮魂碑」は南でもなく東でもなく西を向いている。西を向いている石碑はあまりないのではないか。そのことを茶店の主人が教えてくれた。Photo_4
『天狗党の石碑を訪ねてくる人は、どれが石碑か分からないので店(うち)に聞いてくるんですよ案内版を表示してくれと市にも頼んでいるんですけど、やってくれないんですよネ』と語ってくれた。

 ブログ『史跡訪問の日々』で、この石碑について『懐昔勤王士 義旗此地揚 方今頼無事 題石米元章 紀元二五四一年と刻まれ、明治十四年(1881)、この地を訪れた高鍋藩主秋月種樹が発起人となって建碑されたものである』と紹介されていた。日向野徳久著『栃木市の歴史』の中では、「明治のはじめ、秋月種樹が栃木町へ来遊、佐藤保之ほか15名の有志たちと太平山へのぼり、記念によせ書きをして石に刻んだ。《おもうむかし勤王の士 義旗をこの地にあげ 方今よりて無事 石に題する米元章》」と記述している。

001_3  六角堂で戴いたパンフレットに江戸期の太平山の絵図が載っていた。この山は石垣に囲まれた山城に見える。何よりも2メートル四方もある石垣が凄い。天狗党本陣跡の石垣を見ると戦闘対陣として本陣にしていたことがうかがえる。石垣は織豊時代の野面積みとなっている。天正13年(1585)に小田原北条が山田口から太平山に登り、山頂での戦闘で皆川方を破る戦があり、物見やぐら跡や眉嶮坂(びけんざか)という古戦場もあるが、いずれも案内表示板は出ていない。

 石垣が何時、誰がどのようにして作られたか調べていきたい。ひょっとして小田原北条が対宇都宮氏への防御として現在の石垣を作ったのかなと勝手な想像をしてしまう。寺院や別当所を建てるための石垣だが、戦闘における防御をおこなえるほどの構造だ。天正13年の戦火で寺院、神社は焼失して、史料はなくなってしまっていると神社関係者の人が言っていた。

026 『わたしの子供の頃は、今の六角堂の横にある茶店の引き水にもウナギがうじょうじょが出てきた。とにかくうなぎが一杯いたんだ。うなぎを捕ったら大人から、この罰当たりメと怒鳴られた』と茶店の主人は述懐する。

 川島正雄著の『蔵の街とちぎと太平山』の中で『虚空菩薩の信仰で栃木の人たちはウナギを食べませんでした。幕末の頃太平山にこもった天狗党員がしきりに食べたそうです。それで栃木町の人もウナギを食べるようになったといわれています』と紹介している。日向野徳久著の『栃木市の歴史』で同じ内容の記述がでてくる。

 栃木の町で初めてうなぎ料理を出したのは、今はない明治5年~10年開業の『ホテル鯉保』だったと坂本富士夫著「田舎記」によるとブログ『気ままに花あるき』で紹介されている。ウナギは水戸天狗党の「おみやげ」なのかな。ウナギは海から利根川、渡良瀬川、思川、うずま川、永野川を昇り、太平山の沢水を昇ってきていた。ウナギのあまりの多さに円仁は「虚空菩薩」を本尊とした連祥院を建立したのではないかなと勝手に思ったりもする。何よりも川の水が今よりもきれいだったことが言える。047
  太平山で滞陣中の5月17日に3人の天狗党員が公開で処刑された。宇都宮の遊女を誘拐したことで、太平山と栃木町の間を流れる永野川の二杉橋付近で二人が斬首、一人がムチ打ち刑(翌日死亡)であった。

 太平山山道の手前にある太平寺の角にその霊位塔がある。以前、ここに住んでいた人は訳の分らない病にかかり、この地を離れたという。太平寺がこの地を掘り起こしたら、丁髷と遺体が出てきた。そのため、霊位を建立したという。そのことで訳の分らない病が無くなったと土地の人から聞いた話しで、どこにも記載がなく、まだ太平寺にも確認はしていない。言われなければこの霊位塔があることを知らなかった。

 水戸天狗党と栃木町の関連した逸話はまだまだ出てくるよう気がする。

                            《夢野銀次》

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出流山天狗事件の前哨―永野村・村民の蜂起

Photo  慶応2年(1866)8月8日の大雨の被害を受け、栃木町の穀商達は米の価格を値上げし、俵売りをやめるとした。

 栃木町から北、約4里の所にある上永野村・下永野村・粕尾村(ともに現在は鹿沼市永野・粕尾)と出流村の4か村の者は板・炭などを栃木町へ売り、その代金で帰路米を買い求めて生活してきた。

 その4か村にとり、米の値のつり上げに加え、俵売りをしない(売り惜しみ)ということは、毎日わずかの米を買いに4里の道のりで通うことになる。この事態に4か村の村民は怒った。

Photo_2  旧日光県文書によれば、慶応2年(1866)8月22日に上永野村・下永野村・粕尾村・出流村の村民800人が永野川上流の本河原に沌集し、栃木町に襲撃しようとした。この事態に栃木町組合寄場に属する星野村・鍋山村・梅沢村・大久保村・尻内村5か村の名主・組合頭が説得に努め、一端は治まったかに見えた。しかし、永野村から大越路峠を超えた粕尾村は、はずさていたため、8月25日の夜、再度本河原に村民が沌集した。

(写真は永野川上流の旧粟野町下永野付近の河原)

 

Photo_4一方の栃木町では永野村など4か村の村民が襲撃して来るとの情報が入り、避難する騒ぎとなった。2か月前の6月に起こった武州一揆による豪農・穀商屋への打毀しの風聞が知れ渡り、この町へ波及してくることの恐れ。さらに栃木町民には2年前、元治元年(1864)6月5、6日の水戸天狗党(田中愿蔵の部隊)による栃木町焼打ち事件「愿蔵火事」の記憶が今だに残っていた。この時には栃木陣屋による交渉の失敗で焼き打ちがおこり、その焼打ちに対して陣屋側は栃木陣屋内に籠もったままに何の対応をしなかったからだ。 栃木陣屋は町民を守らないということを町民側は知っていた。だから避難騒ぎとなった。(写真は満福寺の西側。右隣りが栃木陣屋跡地。史跡表示はありません)

Photo   こうした事態に、4か村と同じ領主(武蔵国金沢米倉丹後守)の野州に聞こえた豪農である皆川城内名主大総代幸嶋彦助が永野村本河原の沌集地に赴き、一揆側に相応な救済措置を講ずることを約定したため、8月26日の朝に事態は沈静化した。

  沌集した村民の中に、白筒袖割羽織の者2名が采配を振っていたと前述の旧日光県文書に書かれてある。誰であろう?

 稲葉誠太郎著「水戸天狗党栃木町焼打事件」の中に、この永野村村民蜂起事件の後の8月28日の夜、栃木町中町の高札場に張許文が貼られたことが書かれてある。穀商と栃木陣屋側が大雨による被害でも米があるにもかかわらず、売り惜しみ・便乗値上げを謀ったことへの告発文である。

Photo  この「永野村村民蜂起事件」の翌年の慶応3年12月に「出流山天狗事件」がおこる。落合直亮著「薩邸事件略記」によれば160名で出流山満願寺で討幕挙兵した「出流山糾合隊」には下野から77名の農民・博徒が参加し、別の資料では永野村から30名、粕尾村から20名の百姓の二男、三男が参加したと記述されている。実に糾合隊の3分の1を占めていたことになる。この中に白筒割羽織を羽織った者がいたことは推測できる。(写真は出流山満願寺)

 時代は天保7年(1836)の甲州世直し騒動から従来の訴願・交渉による一揆から暴力(打毀し)を用いる一揆へと変貌してきた。慶応2年6月の武州一揆の中の田無では農民銃隊による一揆勢攻撃などがおこり、領主に対する百姓へのお救いを求める時代ではない幕末一揆世直し騒動の時を迎えていた。

 「愿蔵火事」「永野村村民蜂起」を経て、栃木町の町民の間に銃を含めた武器の調達と所持がおこる。栃木陣屋は一応は権威のための武器調達・所持の禁止のお触れをだしたが、町民による自衛の動きとなっていく。さらに」「出流山天狗事件」の際に関八州出役と共に農民同士による戦闘が岩舟町新里・岩船山で起こり、幕末歴史の展開は下野世直し一揆と広がっていくことになった。

                           《夢野銀次》

 

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出流山天狗事件―永野村の軍師・原口文益

Photo  慶応三年(1867)12月12日、出流山満願寺において尊王倒幕で蜂起した160名の下野糾合隊(出流山天狗)はわずか10名の囮隊を残し、出流山鍋山村を脱出し、葛生方面へ脱出した。栃木陣屋に資金調達に行った6人の内、4人が栃木宿戦闘(銀次のブログ・出流天狗事件「栃木宿の戦闘・長谷川伸相楽総三とその同士たち」)で関八州取締に討ち取られ、出流山に出動してくることが明らかになったからだ。山づたいから葛生、田沼宿を経て、岩船山と太平山を両翼に佐野唐沢山城に籠り薩摩藩を頼り、持久戦に持ち込むこととしたのだ。

 日向野徳久著「岩舟町の歴史」によれば、関八州取締出役、渋谷鷲郎は栃木町から先回りして岩船西麓にある新里村に鉄砲隊と館林藩・佐野藩など幕府討伐隊が待ち受けていたと記述されている。さらに険しい山路で疲労と空腹の浪士隊(糾合隊)は小野寺村で一斉射撃を浴びせられた。岩船山の岩陰に逃げたが、銃撃が繰り返されたため山を下りたが、一斉射撃で崩れ、新里村八幡山の東での斬り会いで糾合隊は壊滅したとしている。

 糾合隊には鉄砲が少なく、武力の差が大きかった。渋谷鷲郎は前年の武州一揆を鉄砲を使用して鎮圧する戦闘での実績があったからでもある。首謀格の会沢元助は新里村で打死、竹内啓(ひらく)は捕縛され江戸護送の途中、松戸宿にて処刑された。国定忠治の子息、大谷形部国次は岩船山にて最後まで奮戦したが捕縛され、佐野天明河原にて6日後の12月18日に41人と共に斬首された。この蜂起した160名の中には永野村30人、粕尾村20名の村人が参加していた。

 岩船山新里村の戦闘においたは地元の農民も渋谷鷲郎に率いられて参加していた。翌年の慶応四年(1868)4月に「ぼっこし」と言われている下野世直し一揆がおこる。出流山糾合隊との戦闘を経験した農民が一揆に加わることにより世直し一揆は大きなうねりとなっていった。

Photo_2  岩船山新里村八幡山の戦闘にて常田与一郎こと原口文益は鉄砲に撃たれ討死にした。原口文益は栃木市から西北20キロ先の永野川上流の下永野村にて常田塾を開く漢方医でもあった。原口文益について『国定忠治と出流天狗』(松原日治著)によれば肥前

佐賀の鍋島藩の藩士であり、武蔵金沢六浦藩の米倉丹後守の知遇を得て、下永野村の名主池澤浅右衛門と合い、永野村に住み着いた。常田塾を開き佐賀藩の大隈重信経由でアームストログの講義や諸外国の実状を教材として、尊王開国、倒幕の考えを推し進めていったと紹介している。

さらに、大塚雅美著『草莽の系譜』でも原口分益こと常田与一郎について記述がある。「多くの志士を生んだ永野村における常田与一郎の存在は特出すべきものがある。永野村池澤浅衛門とめぐり合いによってここに定着し、『常田塾』を開き、表面的には医業を持って、現実には幕末政情の現状打破に子弟教育という行動を通して時局に対処した」と大塚雅美氏は絶賛している。

Photo_3  この原口文益の墓が下永野村の長谷寺(ちょうこくじ、栃木県鹿沼市下永野962)にひっそりとある。歴史から埋もれているかのように静かな佇まいの中、墓石には明治28年3月28日建立と刻まれている。長谷寺は栃木市から粟野に向かい、大越路トンネルの手前を左に曲がり、下永野に入り、右側の山裾に佇む天正二年(1574)創建された寺である。もともと茨城県ゆかりの長谷寺は当時の住職、大心無外は茨城県行方郡北浦町にあ                                

る円通寺からきており、多くの水戸藩士が出入りし水戸尊王攘夷の影響を強く受けていた寺でもあった。また、佐野と足利の間にある富田宿の如意輪寺の住職応住(おうじゅう)は田崎早雲、高野長英らと親交があり、長谷寺無外和尚と仲が良く、影響を与えたいう。(「国定忠治と出流天狗より)

Photo_4 その原口文益は元治元年(1864)5月の水戸天狗党太平山対陣の際には参加を拒否している。尊王攘夷と尊王開国の考えの違いであったのだろう。しかし、出流山天狗事件では軍師格として加わっている。時期早々との考えで同じく下永野で道場を開いていた内藤民部には参加を止めている。原口の周りには近在の若者多くいたことから、参加を促され倒幕の一点で決意したのだろうと推察する。江戸末期の幕府の触書では『農民の剣術稽古・学習』等の禁止が頻繁に出ていることから、学問・剣術が盛んであったことが伺える。こうした山間の地域には原口文益など数多く草莽の志士が存在し、農民階層を中心に天下国家への意識の高まりの広がりを見せ、やがては明治の自由民権運動につながっていった。

(参考資料)

松原日治著『国定忠治と出流天狗』、 大塚雅美著『草莽の系譜』(三一書房)、日向野徳久著『岩舟町の歴史』

                           《夢野銀次》

 

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