栃木のまち

『孤高の画家田中一村』の墓所と生誕地から雲龍寺を歩く

栃木市旭町「満福寺」…田中一村の墓所

100_0432  「以前の田中家のお墓は一村さんの父親・彌吉さんがお建てになっており、彌吉さんの父・清蔵さんと祖父・喜平さんのお墓の2基でした。しかし、父親の彌吉さんと一村さんの墓石はありませんでした。全国からお参りにお見えになる田中一村ファンのために一村さんの甥にあたる新山宏さんが今のお墓を建てられたのです」と満福寺住職長澤弘隆師は久しぶりにお会いした私に語ってくれた。

  栃木市旭町22-7にある天真言宗智山派満福寺の墓所に眠る孤高の画家田中一村のお墓が新たに建てられていた。立派な奇麗なお墓になっているのに驚いた。以前の墓所より4倍の広さになっていると云われている。

  「田中一村之墓」と刻字された趣のある自然石の墓石。背面には「平成29年9月11日田中一村没後40年新山宏建之」と刻字されている。

100_0435   右側に田中家の墓誌が建っている。

  地域雑誌「グラフ北関」との対談で「田中一村の墓」について長澤住職が語っている内容が満福寺ホームページに載っている。

  その中で、「当初は墓誌を建てるということでしたが、狭いため、私のほうで近くに空いているところがあるので、そちらに新しいお墓を作られたらどうでしょうかと提案し建てられたのが現在の墓所です」と長澤住職は話をしている。

  その墓誌には「田中家墓誌」として田中一村の祖父・清蔵夫婦、父彌吉夫婦と子の姉・喜美子、長男・孝(一村)と四人の弟と妹の名とそれぞれの戒名が記されている。田中一村の戒名は『真照孝道信士』となっている。只、曾祖父・喜平の名前が記載されていないのが気になった。

  左側には一村肖像写真と『熱砂の浜 アダンの写生 吾一人』と一村が詠った俳句が記された石碑が建っている。

100_0434   中野惇夫著「アダンの画帖 田中一村伝」の写真紹介欄で、「昭和30年代半ば一村が奄美の自然のスケッチに熱中していた頃のポートレート。まだ千葉時代の気負いもあり、新たな風土で闘志を燃やしていた気配が感じられる」と記されている。「俳句が記された写生帖には、やはり絵かきの句で、そのまま絵になりそうな俳句も詠まれてある」とし、同書に20句の俳句が載せられている。

  満福寺ホームページ「奄美空港近くの『あやまる岬』へ」に奄美大島を令和元年5月に訪ねた長澤住職は次のように記述している。

  「一村は奄美空港近くの「あやまる岬」にたびたびスケッチに来ていたという。有名な自撮りの自画像風画像は、この『あやまる岬』で撮ったものだと言われている。『あやまる岬』にはアダンの群落もある。代表作の一つ『アダンの浜辺』も、ここに群れ咲くアダンの写生の結実ではないか。『熱砂の浜 アダンの写生 吾一人』の句はここだったのだろう」。

  満福寺にある田中一村の墓所には奄美の人々から供えられた貝殻が置かれてある。その貝殻を見つめるように田中一村の自画写真と俳句が記された石碑が設置されている。思わず「田中一村の世界」を描く配置になっていることに気が付き、頷いた。

100_0430   長澤住職は前述の『グラフ北関』との対談の中で、親族から「私が守れなくなったあと、田中家のお墓はどうなりますか」という問いかけに、「一村さんが眠るお墓ですから無縁墓として片づけるわけにもいきませんので、当山の責任において永久保存します」と答えたことを語っている。

このことから長澤住職の田中一村への思いは並々なら強い決意であることを感じた。

 

田中一村生誕地の特定

100_0458   栃木市蔵の街大通りを北に向かう先に北木戸跡地の万町交番交差点がある。

   その先北関門通りを鹿沼に向けて直線道路を進むと泉町交差点がある。交差点の右側には現在の住まいを購入する際に受け渡し清算で使用した労働金庫栃木支店がある。

  Photo_20211119133602 その泉町交差点を西に左折し、70~80m行ったところが泉町8番地になっている。 田中一村の生誕地として「田中一村記念会」が特定している地域である。

   令和元年(2019)12月に「田中一村記念会(会長・大木祥三)」によって冊子「田中一村画伯の出生地を探るー父・彌吉(稲村)の調査から」が発行されている。

  田中一村の生誕地が、栃木市泉町元市長・金子益太郎の近隣で市川呉服店の北側付近が有力視されてきたが、確証はなかった。

  同書の中では、『孤高の画家として魅了している田中一村は、栃木に生まれ、栃木市満福寺に眠っている。明治41年(1908)7月22日に「栃木県下都賀郡栃木町大字平柳9番地」で誕生し、昭和52年(1977)9月11日に奄美大島の和光園近くの一軒家で69歳の生涯を終えた。一村は、彫刻家の父・田中彌吉(雅号は稲村)と母・セイの長男として生まれ、本名を孝』と紹介され、『栃木町大字平柳9番地』で誕生したことが記されている。あわせて大正3年(1914)1月28日に東京に移転するまで、5年6カ月の間、栃木で過ごしたとしているとしている。

100_0439   彫刻師であった田中一村の父・彌吉(稲村)関連の調査から「田中一村会」会長の故・長谷川建夫氏(田中彌吉の支援者であった長谷川展氏の娘婿)の資料を基礎に、東京に移転する前の田中彌吉一家の住所が「下都賀郡栃木町大字平柳9番地」であったことが分かったことが記されている。

  この住所を基に元市役所職員による地番指定等の協力を得て、大字平柳になる前の堰場原(どうばはら)の地図を重ね合わせて「下都賀郡栃木町大字平柳9番地」が「栃木市泉町8番地」であるとし、田中一村の生誕地を特定することが出来たことが記してある。

100_0443   生誕地と特定した付近一帯は大ぬかり沼の名残りである大杉神社から流れる堀川や「朝日弁財天」がある。西側の先の嘉右衛門町は重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けており、古い家並みの中を日光例幣使街道が通っている。通り沿いにたつ神明神社の裏手の樹木等が生誕地付近を覆い、現在の道路を含めてひっそりとした佇まいの雰囲気になっている。

  中野惇夫著「アダンの画帖・田中一村伝」に栃木の田中彌吉の家の様子を、「父弥吉は、稲村の号を持つ天才肌の仏像彫刻家だった。おっとりした性格で、栃木の家にいるころは、広い屋敷の周囲を全部切り払い、草を生やして、コオロギやカジカの鳴く声に独り縁側で耳を傾け、楽しむという風流人だったという」と記述されているような広い敷地であったことが想像できる地である。

  明治26年(1893)に大宮村大字今泉から転居してきた田中彌吉の祖父・喜平(彌吉の父は明治20年に亡くなっている)の生業が不明となっている。しかし、広い家や雲龍寺建立の寄付行為、および彫刻師としての彌吉(稲村)の交流人脈などから彌吉の祖父喜平は裕福な生活であったことが想像できる。

  只、この地での田中家は後日、東京に移転することから借地借家だったのではないかと推測する。

 

雲龍寺「龍の彫刻」と一村の「軍鶏」

100_0446  昭和7年(1932)の北関門通り開通に伴い御堂・水行場が東に10m曳家移転をしている雲龍寺(栃木市泉町18-8)。

  田中一村生誕地からセブンイレブンの裏の裏道を伝い、北関門通りに戻り、南へ少し行った先に雲龍寺がある。セブンイレブンの裏側通りには私が小学校から通った「川津珠算塾」があったが、今は空き地になっている。

100_0455  江戸後期から栃木町の成田山不動尊信仰の3つ講が慶応元年(1865)に合同して栃木大護摩社が結成され、明治3年(1880)に成田山新勝寺原口照輪師によって定願寺にて開眼供養が行われた。そして明治23年(1890)に成田山不動尊雲龍寺として建立されたと栃木市史には記されている。

  明治から大正にかけての雲龍寺境内は、明治32年(1899)発行の「栃木繁昌記」の中で植松義典の弟子であり記者でもあった柴田博陽が、「参道から境内にかけての大道芸や見世物小屋などで老若男女の集う賑わい」と記しているように特別な賑わいを見せていたと云われている。

  現在の境内はひっそりとしており、境内には明治7年に宇都宮から泉町が購入した山車人形「諫鼓鳥」の収蔵庫が建っている。

100_0453  明治29年(1896)に雲龍寺建立由来の石碑がその収蔵庫の裏側に建っている。石碑の背面には浄財をだした615人の氏名が刻字されている。当時の栃木町の豪商などそうそうたる氏名の一番下の「発起人」の一人として「田中彌吉」と刻まれている。この石碑に刻まれている「田中彌吉」が田中一村の父親なのかどうか検証されてきた。

  前著「田中一村画伯の出生地を探る」の中では、雲龍寺上棟式当時、彌吉は6歳と幼少であった。しかし父・清蔵が亡くなっており彌吉が戸主になっているが、実際は彌吉祖父・喜平が家政を仕切っていたことになる。他に明治24年の本堂欄間には「大宮村大字今泉田中弥吉」と栃木町に転居する前の住所が書かれてあること。明治28年制作された水行場の北側欄間に「発起人栃木町泉町田中弥吉」と書かれてある。このことから雲龍寺境内石碑に刻まれている田中彌吉(弥吉)は田中一村の父親であると断定をしている。

100_0451   雲龍寺御堂の向拝鐘掛けの上にある龍の彫物は田中彌吉(稲村)の師匠筋になる江戸彫・後藤流二代目渡辺喜平治正信の作になっている。

  田中彌吉(稲村)の実際の師匠は明治44年(1911)に栃木から東京に転住していった三代目渡辺喜平治房吉であったのではないかと推定されている。

  雲龍寺にある二代目渡辺喜平治正信作の龍の彫り物は田中一村が描いた力強い「軍鶏」に似ていると個人的に思っている。

  大正3年、5歳6カ月で東京に移転していった田中一村が雲龍寺にある龍の彫刻を父・彌吉や姉・喜美子に連れられて何回も観ていたことによるのでないかと思える。師匠筋の彫り物を父・彌吉は一村に見せている筈であるからだ。

 Photo_20211119133601  昭和10年の彌吉死亡によって一村は納骨のため満福寺を訪れ、その時に昭和12年4月の栃木市制記念祭りの際に泉町山車人形「諫鼓鳥」を観ていたのではないかと想像する。そして昭和13年に東京から千葉に移転していく。

  戦後昭和22年から昭和33年にかけて千葉から奄美大島に移転する間に一村は「軍鶏」を多数(スケッチを除いて13点、大矢鞆音著「評伝・田中一村」より)描いていくようになる。

100_0461  「アダンの画帖 田中一村伝」に載っていた田中一村「軍鶏の素描」の絵を最初に見た時、何かに似ていると感じた。そうだ、栃木の寺社に掲げられてある「龍の彫刻」に似ていると…。

  睨み見つける目、両脚を踏ん張って威嚇する姿勢は「龍の彫刻」の鬼気迫る姿に似ていると感じたのだ。

  ネットで2021年1月~ 2月末開催の千葉美術館「田中一村」展示会の中の中で、「軍鶏」の題画賛に『荘子』の「木鶏」の故事が記されている作品があると紹介されている。具体的な内容を読むことはできないが、田中一村が軍鶏を描くにあたっての思いがあることが伺えた。

  横綱双葉山は、連勝が69で止まった時、「ワレイマダモッケイタリエズ(我、未だ木鶏たりえず)」と安岡正篤に打電したというエピソードで有名だが、木鶏(もっけい)とは、荘子に収められている故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさすことを意味するものとしている。

  戦後の千葉寺在住時に南画からの脱却をはかり、写生に取り組むが、相次ぐ公募の落選となり画壇から孤立を深めていく時、一村は力強い軍鶏を描き始め、昭和33年に奄美に飛び立っていく。

  それは幼いころ父親や姉に連れられて度々参拝の際に見た雲龍寺にある鬼気せまる「龍の彫刻」の眼と地元の泉町山車人形「諌鼓鳥」の鋭い口ばしを思い浮かべて描いていったのではないかと推測する。

  孤高の画家としての己を鼓吹することから写生を基礎にした「軍鶏」を描いた一村。このことが事実ならば、軍鶏の絵には「田中一村が生まれ、お墓のある栃木のまち」だけではなく、雲龍寺「龍の彫刻」と山車人形「諫鼓鳥」が影響を与え、力強さを表していったのではないかと思える。

  「栃木のまち」と田中一村の「軍鶏の絵」がよりつながりを見せてくるような気がしてくる。

                              《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

中野惇夫・南日本新聞社著「アダンの画帖 田中一村伝」(1995年4月、小学館発行)/大矢鞆音著「評伝田中一村」(平成30年7月、生活の友社発行)/満福寺ホームページ「当山に眠る孤高の日本画家 田中一村」・「インタビューグラフ北関、一村の菩提寺・満福寺住職に聞く~清貧孤高の日本画家◎田中一村」/「栃木市史」(昭和63年12月発行)/柴田博陽著「栃木繫昌記」(明治32年11月発行)/「田中一村画伯の出生地を探る―父・彌吉(稲村)の調査から―」(令和元年12月、田中一村記念会発行)

 

 

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巴波川散歩Ⅴ…岡田嘉右衛門と翁島別邸(上河岸跡)

皆川広照のまちづくり

P2210041_20210609152901     栃木河岸から江戸への43里の巴波川舟運は元和年間 (1615~1623)から日光社参の御用荷物を輸送した頃からといわれている。

   しかし、安政6年(1859)の栃木河岸船積問屋の訴状の中には、『関東御入国以来、諸家様方御荷物はもちろん、商人荷物、栃木河岸よりそれぞれ積送り』と、徳川家康の関東入国(天正18年・1590年8月朔日)から巴波川舟運が行なわれていたことが記載されている(栃木市史より)。

  家康が当時辺鄙な江戸への移封を決めた理由として、物資の流通、河川舟運こそが城下の発展に直結すると考えていたからだといえる。小田原征伐後、家康の家来扱いとなり秀吉より本領を安堵された皆川広照は本城を皆川城から平地の栃木城に移し、栃木の城下町づくりに着手した。

  その城下町づくりは信長の安土城下と家康の江戸城下づくりに倣っていったと思われる。

   広照の「栃木の城下まちづくり」の構想の基になったのは天正10年(1582)に徳川家康の供として安土城に赴き織田信長に会い安土城下を観たことによると思われる(平山優著「天正壬午の乱」参照)。

 安土城下の「楽市楽座」の活況を呈していた市場の賑わいと琵琶湖水運を観たことが影響されていると思えるのである。

212211   栃木町中央を南北に縦断する道幅15間(27m)か10間(18m)の軍事的な大手通りとしての大路。その北口先端木戸口横には市場の神様「蛭子神社」を祀り、市場を開設し、町の賑わいを図る。同時にこの大路は巴波川治水の役割を担うものであった。大雨災害時には放水路の役割があったからである。さらに物資の集散と物流は巴波川舟運が担うこととした。それは安土城下のような活況を呈した人との交流の盛んな町づくりの構想があったと思われるからだ。

  しかし、慶長14年(1609)信濃飯山城城主になっていた皆川広照は改易となり、嫡男皆川隆庸が仕切っていた栃木城は取り壊され、城下町ではなくなる。

  広照の残した栃木のまちづくりは遺臣たちを中心に近江商人が加わるなどして物資の集散地舟運の町・例幣使街道の宿場町・商人問屋の蔵の町として発展し、江戸から明治・大正・昭和へと引き継がれていく。

 平柳河岸から嘉右衛門橋

Pc070077   巴波川舟運遡航の栃木河岸には12の船積問屋が生業としていた。一番奥の上流に平柳河岸がある。

  平柳河岸の船積問屋山崎屋忠兵衛は「水戸様御用生魚売捌所を仰せつけられ生魚類を水戸浜から直接仕入れて魚問屋を企てられて」と栃木河岸船積問屋からの訴状文面など栃木市史に記載されていることから、平柳新地など栃木町木戸外でありながら水戸徳川家と結びついた新興の船積問屋であったと推察される。

   Pc070081 巴波川沿いの平柳河岸跡を歩いていると、平柳河岸跡案内標識板の前で一人で草採りをしているご婦人に出会った。市民講座などでよく見かける人だが、巴波川綱手通りの草採りをボランティアで行っているという。その表情は生き生きとして映っていた。

  その平柳河岸跡の200m上流には江戸時代から架けられてある嘉右衛門橋がある。嘉右衛門橋からすぐ上流の右側(上流からみると左岸)に沿って岡田嘉右衛門別邸「翁島」(おきなじま)の敷地を見ることも出来る。

岡田記念館と翁島別邸

100_0095   嘉右衛門橋先の横には日光例幣使街道が通っている。街道沿いには立派な門構えをした「岡田記念館」が建っている。嘉右衛門新田名主でもある岡田嘉右衛門の敷地内にある畠山陣屋13か村の用人代官をも務めた「岡田記念館」である。

  岡田家は現当主岡田嘉右衛門をもって26代を数える栃木市内屈指の旧家。古くは武士であったが、帰農して江戸時代の慶長の頃、士豪として栃木に移住し、荒れ地を開墾し、嘉右衛門新田という地名を起こしている。代々嘉右衛門を襲名、名主も務め、当地が旗本の畠山氏の知行地となると代官を拝命され、屋敷内に陣屋が設置され今も「畠山代官屋敷」として公開している。4,000 坪に及ぶ敷地内の江戸時代から大正時代までの土蔵・見世蔵・木造店舗などや岡田家伝来の宝物を「岡田記念館」として公開し、展示されている。(公開日は金曜から日曜日)

100_0115   岡田記念館より嘉右衛門橋に戻る手前を右折し、狭い路地を進むと翁島別邸小門がある。巴波川の荷揚げ場跡地に22代嘉右衛門が70歳を隠居所として大正13年(1924)に竣工された翁島別邸。本邸から移り住んで米寿を迎えた当主をいつしか翁という。この別邸を翁島別邸と呼ぶようになった。

 100_0122  大正13年(1924)築の木造2階建て桟瓦葺きの主屋と昭和3年(1928)築の土蔵がある。地元・栃木の工匠らがそれぞれの技を競い合って建てた。ケヤキの1枚板を使った廊下や、樹齢3000年の屋久杉を使った天井、吉野杉の床柱など、建材に贅を凝らし、特にケヤキの1枚板の廊下は、それだけで家1軒が建つと言われるほどの高価なものあると云われている。2階にある「三山閣」からは筑波山、男体山、富士山の3山を望むことができた(ウキベリア「岡田記念館」参照)。

012_main1   栃木駅前の「岡田皮膚科耳鼻咽頭科クリニック」の院長をしている26代目岡田嘉右衛門氏は岡田記念館ホームページに、「当岡田家でも武士の時代が終わりを告げた後、廻船問屋を始めました。鉄道開通によって不要になった約2100坪に及ぶ自家の荷揚げ場があった場所に、私より4代前の岡田家中興の祖とされている22代嘉右衛門が別荘を建てました。別荘の立っている場所は南面に巴波川が流れており、北側にある今は細い流れになってしまった川にはさまれて島状になっており、隠居した当主が住んだため翁島とよばれています」と、「翁島」が建つ前は荷揚場を廻船問屋として活用していたと紹介している。

「上河岸」と呼ばれていた荷揚跡地(翁島別邸)

100_0124   翁島別邸入口には「翁島由来記」が掲示されている。分かりやすく、立派な由緒記になっており感心させられた。

  一部内容を紹介すると、『下野の栃木はかつて・・・巴波川の舟運によって栄えた商人の町である。嘉永4年(1851)生まれの岡田孝一は、隠居してその長男嘉右衛門に家督を譲ったものの、当時足尾銅山の開発に着手した古河市兵衛と誼を結び、東京への産銅の輸送鉱毒解消用石灰の供給などに尽力し、家運を増長させた。栃木から巴波川の舟運で、渡良瀬川より利根川に出て東京へ送り込むことに着目したのは、明治18年(1885)の頃で、その内水路による回漕を請負った。同家の船着場は、町の北部にある当小平町内の巴波川河畔にあって上河岸とも呼んでいる。稚趣に富み、普請好きだった当主は、齢70を迎え別荘建築を発起し、その地を鉄道開通によって、不要になった自家の荷揚場を選んで、巴波川に南面し裏手に水を巡らし約7反(2100坪)にわたる、一画は島にも似せたものである。(以下略)』 

100_0117   由緒記に記されている「岡田家の船着場は、町の北部にある当小平町内の巴波川河畔にあって上河岸とも呼んでいる」を読むと、この地が江戸時代ではなく明治の初め頃から上河岸と呼ばれて舟運業を営む河岸があったことを知ることができた。

  さらに由緒記には、「当時足尾銅山の開発に着手した古河市兵衛と誼を結び、東京への産銅の輸送鉱毒解消用石灰の供給などに尽力し、家運を増長させた。栃木から巴波川の舟運で、渡良瀬川より利根川に出て東京へ送り込むことに着目したのは、明治18年の頃で、その内水路による回漕を請負った」と記されてあるが、足尾からの銅産の舟運業を始めたのは「翁島」を建てた22代嘉右衛門孝一(親愛)としている。父親の21代嘉右衛門親之はこの時には家督を息子に譲っていたのだろう。

100_0113   この上河岸(荷揚場)から足尾から運ばれた産銅が東北本線鉄道の開通前まで巴波川舟運によって東京本所鎔銅所に運ばれて行ったということになる。わずか10余年という短い期間の産銅の舟運業であったと言える。

   石橋常蔵著「栃木人続編・岡田嘉右衛門親之」には「明治10年(1877)古河市兵衛が足尾銅山の開発に着手すると、その鉱石は栃木町から巴波川を利用して東京深川の渋沢倉庫へ運んだ。その舟運を岡田が請け負った」と記述されている。

  産銅の舟運業を始めた岡田嘉右衛門と古河市兵衛と結びつきという関係が今一つ分からないが、渋沢栄一を間にして関係ができたと思われるが、そのキッカケはなんだったのか?そして、巴波川舟運を通しての3者の関係が明治の栃木町の産業発展にどのような影響を与えていったのか?調べていきたい事項だなと思えてきた。

足尾から栃木町への産銅輸送ルート

100_0134   足尾銅山からの産銅はどういうルートで栃木の岡田嘉右衛門の上河岸(荷揚場)に運ばれていったのか?

  ……それは、「栃木県史通史編8」(497頁)の足尾銅産経営諸問題、第一節交通」に載っていた。

  「古河市兵衛が銅山を譲り受けた当時、足尾に通じる道としては、野州路(日光口)と上州路(上州口)の東西両道」と記され、「両道(日光口と上州口)とも駄馬の通行にも困難を極め、多くを人の背に頼っていた」と記されている。

  明治14年(1881)の鷹の巣直利(富鉱)、17年の横間歩大直利の採掘開始で、産銅量の飛躍的増加になり、道路改修が急がれるようになる。東西両道だけでなく、明治16年には東方の古峯ケ原を通る草久村(鹿沼市)、18年には、南東の粕尾峠を通る中柏尾村(旧粟野町)へと足尾と結ぶ道路が開削されていった。

  明治39年7月の日光電気精銅所開業するまでは、荒銅(粗銅)は東京の本所溶銅所へ送っていた。東北線が開通する前の明治17年頃の産銅輸送経路は日光経由の東道・古峯ケ原経由の中道・粕尾峠経由の粕尾道で、いずれも栃木河岸(巴波川)に運ばれ、巴波川舟運により東京に運ばれていた(栃木県史通史編8より)。

  足尾山麓扇状地帯の栃木町巴波川舟運に着目して産銅の輸送ルートを開発するなど古河市兵衛の着眼に感心する。

Photo_20210609153101   足尾町から粟野町鹿沼市を結ぶ県道15号・鹿沼足尾線は標高1120mの粕尾峠、九十九折りの独特の険しさで難所の峠道として知られている。

  私はとても運転に自信がなく行ってはいないが、ネットに映る峠路を観ただけで足踏みしてしまう。ツーリングにはいいかもしれない。

  その険しい粕尾峠を越えて、柏尾村、粟野町を経路して粟野街道を通って栃木町岡田嘉右衛門の上河岸まで荷馬車にて運ばれてきていたのだ。

  巴波川沿いから上河岸跡地に建つ竹林に覆われた翁島別敷地外観を見ながら、鉄道開通前とはいえ、ここを流れる巴波川舟運で産銅が東京に運ばれていた。……歴史の流れを感じてくる。

岡田嘉右衛門親之の肥料価格への挑戦

100_0116   弘化3年(1846)7月に21代岡田嘉右衛門親之(ちかゆき)は片柳河岸問屋の株(権利)を譲り受け、嘉右衛門新田河岸として船積問屋を開始しようとした。その河岸は片柳河岸ではなく以前より船着き仮置き場として利用していた嘉右衛門新田、現在の翁島の地を河岸場にすることとしていた。

  しかし、栃木町河岸問屋より「片柳河岸での河岸問屋ではなく、全くの新規であり商業活動及び運上金上納に響く」との強硬な反対の訴えが奉行所にあり、栃木町がわの主張が認めら、嘉右衛門新田の河岸は実現しなかった(栃木市史より)。

  この河岸場新設の背景には文政年間(1817)以降、嘉右衛門・麻屋茂兵衛らが塩・糠・粕・干鰯の新規商いをめぐり栃木町肥料問屋との争いがあった。

  嘉右衛門親之は名主として、畠山13カ村の肥料の高値に対して、直に生産地及び江戸問屋との取引をすることにより、肥料価格を下げることができるからであった。嘉右衛門方には40か村から「嘉右衛門に江戸や浜から直接仕入れを認めて欲しい」との嘆願書が出され、平川村名主狐塚為蔵にいたっては老中阿部正弘への「駕籠訴」(田中正弘著「幕末維新期の胎動と展開第4巻岡田嘉右衛門親之日記」に記載)もあっての幕府評定所吟味であった。

  しかし、弘化3年(1846)12月の幕府評定所の採決では「嘉右衛門新田においては、塩・粕・干鰯の類、栃木町より引き請け売捌き候、元方からの直仕入れは致すまじく」と、栃木町から仕入れて売るようにと採決が下された。嘉右衛門親之方の敗訴であった(栃木県史、栃木市史より)。

  当初、私は栃木町問屋と岡田嘉右衛門親之の争いは嘉右衛門の商売欲から来るものと思っていた。しかし、この田中正弘氏が書かれてある「幕末維新期の胎動と展開第4巻」の冒頭の「解題」の中で岡田嘉右衛門親之の姿勢を「果敢なる挑戦」として位置づけして、高騰した肥料によって苦しむ農民のために行おうとしたことが分かった。それは自由な商いを求めた岡田嘉右衛門親之の姿勢として浮かびあがってくる。

Img_7853_s1_21   田中正弘編の「幕末維新期の胎動と展開第4巻岡田嘉右衛門親之日記」では、岡田嘉右衛門親之は「株仲間解散令」を活用し、栃木町問屋の独占する糠・干鰯・粕など肥料の販売権に果敢な挑戦の試みと位置づけしている。64521_20210610161001 さらにこの栃木町問屋との争いについては、栃木県史ならびに栃木市史では「天保の改革・株仲間解散令」と直結していることが言及されていないことをも指摘している。

   「田中正弘編 幕末維新期の胎動と展開 岡田嘉右衛門親之日記」は平成24年(2012)に栃木市教育委員会で第1巻が発行されている。岡田親之が記した膨大な日記を田中正弘国学院大学栃木短期大學教授によって翻刻されている書物で、第4巻が平成31年(2018)3月に発行され、1巻から4巻と幕末における貴重な史料書籍になっている。とりわけ、元治元年(1864)6月6日の「水戸天狗党田中愿蔵栃木町焼き打ち事件」の栃木町の状況を記した「親之日記」は一級史料といわれている。

  21代岡田嘉右衛門親之の像は田中正弘氏が「岡田嘉右衛門親之日記第4巻」に次ぎのように記されている。親之像が分かりやすく記されているので引用記載させていただきます。

100_0121   「文政3年(1820)末に呱々の産声をあげた親之の生涯において、江戸で武家に諸芸術を学んだ彼がもっとも充実した活躍をみせる時期は何といっても幕末維新期にあたり。彼はこの間高家畠山氏知行所嘉右衛門新田村の名主役見習いより本役、そして陣屋手代格兼務より隠居後代官に就任し、さらに維新の兵馬騒擾の中で畠山氏の重臣である用人席まで昇りつめた。いっぽう彼は先祖以来継承した二十石余の田畑を耕作し、例幣使道沿い十余軒の店舗貸し・質屋・肥料販売・油絞り業を営業する多角的は実業家でもあった。維新後、彼は家督を譲った嫡男親愛(ちかよし)をして船積問屋営業より回漕会社を設立させ、さらに郵便受取所を開設させるなど、明治草創の目まぐるしく変転する政治組織・制度の改変と文明開化期における新たな西洋文物の洪水を受けとめつつ、近代国家の成立を見届けるように波瀾万丈の生涯を終えた。時に明治24年(1891)4月24日のことであった。享年七十二。初老の頃に軽い脳卒中に襲われた彼は、その後とくに留意して健康を維持し、当時としては極めて長命な生涯であった」

  私はこの「親之日記」全4巻全てを読んではいないが、島崎藤村の「夜明け前」の青山半蔵に似ているように思える。共に名主という役職の中、街道沿いから幕末という世情を見つめ対応していく暮らしなど共通点など多々ある。幕末の栃木の町を見る際には必読書だと思える。

 上河岸にて巴波川舟運を開業

100_0133   明治になって平柳村、嘉右衛門新田、大杉新田、小平柳村、箱森村、片柳村、沼和田村の名主らと結んで塩・粕・干鰯・塩物の直仕入れの商売が始まった。

  栃木町側は明治3年(1870)4月に民部省と弾正台に訴えた。しかし、そんな旧弊はとりあげぬと、こんどは栃木町側が押さえられた。同じく船積問屋として嘉右衛門は晴れて「上河岸」にて巴波川舟運を開業できることになった(栃木市史より)。

  皆川広照が安土城下をモデルにして活気ある栃木町を構築しようとした。しかし、栃木県史のなかで「巴波川の両岸に陸揚げされ、小商いも盛んにおこなわれていた活発な町(栃木)であった。そこで展開される商業は、町内の業種ごとの仲間という排他的は組織、すなわち商人仲間によっておこなわれるものであり、その集合である栃木町としてみれば、その活動は、他の近在の町々と、荷を奪い合い厳しく競い合いつつの繁栄であった」と、記されているような「排他的な商人仲間」による商業活動という閉鎖的な栃木問屋町へと変移してきた。

  栃木河岸に陸揚げされる干鰯等肥料類など高値の商圏を守るための栃木町問屋株仲間の独占商いを打ち破っていく行為は田中正弘氏の言う嘉右衛門親之の挑戦であったと言える。栃木町問屋との争いの中から岡田嘉右衛門親之は皆川広照が描いた栃木の町づくりに共通した排他的ではなく自由な商いを行うことが地域住民にためであるという考えがあったと思う。

  上河岸跡地(翁島別邸)沿いを流れる巴波川は川下の栃木町に流れていく。川には例幣使街道のように嘉右衛門新田や平柳新田を遮る町への木戸はない。岡田嘉右衛門親之は絶えず巴波川の流れを見ながら地域社会が一体であることのことを考えていた人物像が浮かび上がってきた。

                                        《夢野銀次》

≪参考引用資料本など≫

平山優著「天正壬午の乱」(2015年7月戎光祥出版株式社発行)/「栃木市史通史編」(昭和63年12月発行)/「栃木県史通史編6、栃木県史通史編8」(昭和57年8月発行)/ウエブウィキペディア「岡田記念館」/「岡田記念館ホームページ」/石崎常蔵著「栃木人続編」(2021年4月発行)/田中正弘編「幕末維新期の胎動と展開、第4巻」(平成31年3月、栃木市教育委員会発行)

 

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巴波川散歩Ⅳ…片柳河岸、船積問屋仁科屋の日光御用蔵

P3010001  令和3年の3月1日を迎えた。この日、多くの栃木県立高校の卒業式が行われている。朝から4月中旬なみの暖かさに誘われて栃木市蔵の街大通り倭町交差点を歩く。

 江戸時代創業の人形専門店「三桝屋」の前の地上機器(トランス)の上にはおひな様が飾られ、蔵の街大通りを彩っている。

 「いよいよ春を迎えるということなのだ。一日も早く『コロナ禍』の収束を願い、宿場町跡など歩きたい」とおひな様にお願いする。倭町交差点、イシハラ洋品店跡地に建つスターバックスの角を曲がり、幸来橋(こうらいばし)にむけて歩く。

P3010018  「橋の向こう側があの世、こっち側がこの世。橋はあの世とこの世の境の架け橋なのか」と思いながら、巴波川に架かる幸来橋(念佛橋)を渡る。

 橋から見える巴波川の右岸が片柳河岸。現在は湊町になっているが、旗本の相給地であった片柳村に河岸ができたことから片柳河岸と云われていた。

 左岸が塚田歴史伝説館の黒板塀が続く栃木河岸跡。西の木戸内、栃木町にあることから、片柳河岸の船積問屋との仲はどうであったのか、興味が湧いてくる。運上金などは栃木河岸の船積問屋が500文で片柳河岸船積問屋の250文を上回っていることから、栃木河岸の方が規模が大きかったことと思われる。

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 日光例幣使街道と巴波川水運が交差する栃木河岸は物資の集積地として賑わいをみせていた。安政元年(1854)の栃木河岸は沼和田河岸1軒を含めて12軒の船積問屋があった(栃木市史)。 

〇平柳河岸―山崎屋忠兵衛

〇栃木河岸―中島権左衛門・大 阪屋惣左衛門・新籾与五郎・釜屋長七・八百屋利右衛門・壺屋吉左衛門

〇片柳河岸―仁科屋利右衛門・巻島角兵衛・糸屋平吉・福田次郎右衛門

〇沼和田河岸―平兵衛

 栃木河岸からの江戸への荷物には、「日光御用荷物、江戸への廻米、大麻・じょうま・莚などの荒物、板貫、薪炭、杉皮、鍋山の石灰」があり、木材は巴波川にて筏を組み江戸に運び、竹筏や麻綱などは銚子方面へ送った。江戸や銚子などからの上り荷物では、「日光御用荷物、糠、粕、干鰯、塩、あい物、酒、酢、油、黒砂糖、畳俵、小間物などがあった(栃木市史より)」。また、江戸から栃木町への送り荷は日本橋小網町二丁目の蔦屋宇八「野州問屋」が得意先としていた(川名登「河岸」)。

P3010012  幸来橋を渡り、西へ50mほど進むと、左側にかつて船積問屋仁科屋の跡地であった処に雑穀店徳田商店の店舗と倉庫がある。

 現在は住宅店舗の建て替え工事のため、仮店舗を奥の倉庫にて営業を行なっている。以前、中の倉庫・土蔵を見せて欲しいとお願いしたところ、現在も使用中ということで断られたことを思い出した。

P2210032  徳田商店の脇道左には倉庫が一棟建っている。長さ15間(27m)はあると思える大きな土蔵である。片柳河岸・船積問屋仁科屋が使用していた土蔵である。この土蔵は日光神領御用荷物を独占して扱い、一時保管していたところから日光御用蔵と云われていた。

 地域文化専門の谷沢明愛知樹徳大学教授は、「栃木・河岸と宿場と問屋商人のまち」の中で、「日光東照宮の御厩祭りや千人行列には先導供奉として猿が出ていたが、この猿引きの頭(小出金太夫)が栃木に住んでいた。その猿引き頭は家康の霊柩を久能山から日光へ改葬するときも先導したといわれ、その株を仁科屋が引き継ぐとともに、仁科屋は日光神領の物資を扱うようになった。それらの物資を一時保管したのが日光御用蔵である」と記し、船積問屋の土蔵として紹介をしている。

 猿引き頭の小出金太夫は武田信玄の家臣であったが、武田家滅亡後、猿引き頭となり各地を流寓して栃木町に住むようになった。その小出金太夫が病気等の事情で東照宮祭礼に参加できない時、その一族の仁科利右衛門が小出金太夫と称して猿引き頭を務めた。仁科利右衛門も武田の家臣で、武田家滅亡後に栃木に居住し、片柳河岸にて船積問屋をしていた(目で見る栃木市史)。

Pc070033  旧店舗建物が解体され、日光御用蔵といわれている土蔵の前に2つの庭石を見ることができるようになった。「目で見る栃木市史」に、「日光御用蔵ゆかりの猿田彦大神と彫られた庭石が土蔵前にある」と記述されている庭石なのかと思い、そばまで行って見たが、彫り物は見当たらなかった。

 栃木市文化課に問い合わせたところ、担当者が徳田商店から「あの庭石には猿田彦大神という彫物はなく、観賞用の庭石」という答えがあっことの報告があり、猿田彦大神と彫られた庭石は元々なく、栃木市史が間違って記述しているのではないかと私に言ってきた。「本当に栃木市史は間違っているのか?」という疑問が生じた。

P3010008  仮店舗と書かれた看板シートから徳田商店敷地内に入る。外からは一棟に見えた土蔵は二棟繋がっている造りになっているのが分かった。

 仮店舗土蔵の中からご主人の徳田さんが現れた。私は「栃木の河岸で船積問屋の土蔵が残っているのは、この日光御用蔵と云われている徳田さんの処の土蔵だけで、大変貴重な土蔵だと思えるのです」と話すと、徳田さんは「この土蔵は仁科屋さんが建てた150年前の土蔵なのですよ」と徳田さんは親しみある言葉でお話をしてくれた。

 「仁科屋さん、確か大久保さんと言われましたが、通りに面した店先で小間物屋をしていましたね。その店先の2階には床の間のある部屋が4つほどありまして、その部屋の一つに住んでいました。私どもがこの土蔵を譲り受ける時には、土蔵の中にあった甲冑など処分していきました」と語ってくれた。

 明治40年発行の「栃木営業便覧」の地図の中には、「小間物袋材料造、仁科屋號、大久保岩雄」と記載されている通りの話になっている。また、床の間付の部屋が4部屋あったと語っている。川名登著「河岸」の中で、「倉庫業は河岸問屋本来の業務の他に問屋場に着く荷主・宰領も宿泊させる旅籠屋をかねる場合が多い」と記してある。仁科屋も荷主などを泊める旅籠をもかねた造りになっていたことが分かる。栃木宿には旅籠7軒と他の宿場より少なかった理由として、問屋に泊まったと云われているが、河岸問屋も旅籠をかねていたということになる。

P3010011_20210303054501  徳田さんは奥から「この史料しか、今はないのですよ」と言って私に見せたのは「弘化三年片柳上河岸絵図」であった。この絵図は、栃木市の歴史的な町並景観を造る資料として作成発行された「平成17年度観光資源保護調査、栃木の町並み景観」に載っている「弘化三年片柳上河岸絵図」の原本絵図になっている。資料本に載っていた地図は市役所担当者が原本絵図を分かりやすく整書した地図になっている。

P2100009  この絵図の上部には巴波川と念仏橋の概要が書かれ、巴波川沿いにある片柳河岸から船積問屋「久兵衛」と「利右衛門」と記載されてある。(仁科屋)利右衛門の店先は皆川街道に面しており、積荷物は右側の「河岸積道」という横道をつたわって巴波川片柳河岸まで運んでいたということになる。

 猿田彦大神の彫られた庭石について尋ねると、「今から30年前までありましたよ」と返事があった。「地図で河岸積道と書かれた横道の土蔵のそばに猿田彦大神と彫られた石が置いてありました。今は家が建てられて積道や石は無くなっていますけどね」と、猿田彦大神と彫られた庭石があったことを話してくれた。栃木市史は間違ってはいなかったことに何故かホッとした。また、市役所も安易に栃木市史が間違っているとは言わないでもらいたいと思った。

Pc070028  絵図に載っている土蔵が今も現役で使用されている。この「日光御用蔵」の歴史的な評価を栃木市はどうしてしないのだろうか?いずれ、文化課とお話をしていくことにする。

 土蔵前にある庭石の種類が知りたく、北海道に移住している元石屋さんにメールで問い合わせをした。返ってきたメールには、「赤茶色の石は俗に言う赤石といわれています。群馬県藤岡市の三波石と思われます。推測ですが、三波石の赤石の可能性があります」と返答をいただいた。

 赤石についてネット検索すると「赤は古くから朱(赤)は魔を払うと言われることから、赤石は縁起の良い石といわれ、家の玄関や床の間に家の守りとして飾られてきました。近年では産出がほとんどなく貴重な石になってます」と記載されていた。商家の庭先によく見かけれ赤石は家の守りとして貴重な石であることが分かった。

Pc070025  幸来橋から巴波川右岸を歩くと「吉屋信子、生誕110年記念碑」の案内板があり、奥の左側に「秋灯 机の上の 幾山河」と刻字された石碑がある。栃木女子高同窓会によって平成18年に建立されている。丁度、この横あたりが、仁科屋から河岸に通じている積道があった処ではないかと思えた。

 「片柳河岸」とは馴染みのない河岸の地名であった。ここに住んでいた従妹もここが「片柳河岸」ということを知らなかった。私も7年前の文化講座の案内で講師から「ここが片柳河岸です」ということを教えられ、初めて知ったほどだ。

 河岸は舟運の終焉と共に消え去っていく。河岸の足跡を訪ねるってことは、…鉄道線路の廃線風景と同じく哀感を誘う。しかし、川は淀みなく流れている。今も昔も。川岸には人家もある。そして、かつての河岸には痕跡も残されていない風景になっている。それでも150年前と同じ場所に建っている片柳河岸日光御用蔵を見て、船積問屋と河岸とが川岸積道を通じて繫がっていたことを実感することができた。…なんだか救われたような気分になってきた。

                     《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

「栃木市史通史編」(昭和63年12月発行)/「目で見る栃木市史」(昭和53年3月発行)/谷沢明著「栃木・河岸と宿場と問屋商人のまち」(1986年1月、近畿日本ツーリスト発行『歩くみる聞く』に収録)/川名登著「河岸」(2007年8月法政大学出版局発行)/「栃木県営業便覧」(明治40年10月、全国営業便発行)/「平成17年度観光資源保護調査、栃木の町並み景観」(2006年3月、日本ナショナルトラスト東京発行)

 

 

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巴波川散歩Ⅲ…塚田歴史伝説館と栃木河岸

 塚田歴史伝説館の土蔵と板塀

P2210014  栃木駅から栃木市蔵の街大通りを進み、倭町交差点を左折して銀座通りを西に向かうと巴波川(うずまがわ)に架かる幸来橋にさしかかる。かつては念佛橋とよばれ、栃木河岸の中心地をなしていた処だ。橋の手前には江戸時代に木戸が設けられており、その前は広小路になっている。

 栃木商工会議所によって橋の手前の右側に、平成5年6月に創立100周年を記念して「巴波川水運記念碑」が設置されている。縦1.8m、横2.3mのアルミ鋳物製のレリーフで、台座は白御影石が使用されている。水運で賑わう栃木河岸の様子を栃木在住の日本画家茂木辰也氏によって下絵が描かれ、背面には巴波川水運のあらましが刻字されている(文面は「銀次のブログ、巴波川散歩Ⅰ…巴波川と幸来橋(念佛橋)」を参照)。

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 幸来橋手前左側に「塚田歴史伝説館」がある。昭和54年より塚田家木材回漕問屋の邸内屋敷、土蔵などを一般公開をしている。

 「明治30年代初め頃に巴波川下流寒川の迫間田(はかまだ)から、この地に移転し、『大塚木材店』として木材の回漕問屋を戦前まで行い、その後は新建材の販売などを営み、昭和40年代頃に店を閉じ、記念館としてきましたね」と塚田家の受付の人から話を聞くことができた。

 P2210018  塚田歴史伝説館の敷き地内の主屋や土蔵は国の登録有形文化財になっている。入って右側の展示館となっている土蔵は明治32年建築の最も古い土蔵。主屋の南辺に建ち、南北棟で切妻造・桟瓦葺、東面に吹放し下屋庇を付けている。巴波川西側から見ると土蔵2階に5つの鉄格子入窓を配しており、整った意匠をみせている。

 同じく明治32年建築の文庫蔵は入口右側にあり、通りと巴波川に面して建っている。切妻造・桟瓦葺、2階建で、外壁は白漆喰とし、土蔵の中から見る出入り口の観音扉など本格的な土蔵建築になっていて凄みを感じる。

P2210044  さらに巴波川沿いの栃木河岸跡には延長113mの黒板塀が塚田家住居・土蔵が巴波川と画して建っている光景は圧巻である。

 黒沢明監督映画「姿三四郎」やテレビドラマ「仁」など数多く映画やテレビドラマのロケーションになるなど栃木市巴波川の代表的な歴史的な景観になっている。

 江戸時代の巴波川舟運の木材運輸では、思川の上流粟野や大芦川上流から伐採された木材は思川小倉堰から分流した西方村荒川用水路を通して一本づつ巴波川栃木河岸まで運ばれていたと云われている。

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 荒川ー巴波川で運ばれた木材は現在の開明橋下付近にて小さな筏として下流の部屋河岸まで流す。そこで大きな筏へと組み直され、利根川ー江戸川―小名木川ー深川木場へと運ばれていった。

 明治に入り、それまで禁止されていた荷馬車によって、粟野や鹿沼界隈から西方村を経由して栃木へと木材が運ばれるようになり、筏を組んで大正時代末期まで東京深川の木場まで運ばるようになった。

P2210029  明治後期から昭和にかけて、鹿沼・粟野から伐り出される栃木方面の木材は全て塚田家当主、塚田幸四郎氏が代表を務める大塚木材店を通して東京方面に運びだされるなど栃木町屈指の木材回漕問屋になっていった。

 栃木材木商組合長を務めた塚田幸四郎氏は建材店、製材業を兼ねるとともに初代の栃木町議会の議長や栃木商工工業組合連合会副会長など歴任し、栃木町の発展に寄与したと云われている(石崎常藏著「栃木人」より)。

 江戸時代元禄期に荒川用水路を活用して西方米を栃木河岸への舟運計画が西方村役人によって検討された。しかし、沿岸の村々より水路の拡張や肥料となる川藻の喪失が懸念されることから反対され、栃木への廻米水運計画は頓挫した。

 栃木河岸跡には塚田歴史記念館が建ち、河岸の面影は喪失している。しかし、巴波川沿いに建つ塚田家の土蔵と黒板塀の光景は私たちを歴史へ誘う魅力を秘めていると言える。……それでも、川の湊であった河岸の痕跡は何も残っていないのが寂しい。

栃木河岸ー井筒屋重兵衛

P2210041 江戸幕府は、江戸の防衛や道路整備から荷馬車の禁止や川への渡橋を禁止していた。しかし、江戸への年貢米の収集や大消費を支える食料や燃料を必要とした。その必要とされた食料等の江戸への物流を担ったのは陸路ではなく水運であった。

 栃木河岸巴波川舟運は、元和3年(1617)徳川家康の遺骸を駿府の久能山から日光山に改葬した時、日光御用の諸荷物を部屋河岸より小船に積みかえて巴波川を遡航して栃木河岸に陸揚げして日光に送ったことが始まりと云われている。

Tizu21  栃木河岸は江戸から43里18町(約173キロ)。巴波川を遡った終点に位置し、江戸方面よりの荷物は部屋・新波河岸で小船(都賀船)に積みかえて、曳綱をもって遡航し、栃木河岸からの諸荷物は、部屋・新波河岸で大船(高瀬船)に積みかえて送った。

 一般に栃木河岸と云われているのは、巴波川左岸の栃木町側(塚田歴史伝説館の建物側)を栃木河岸。右岸の片柳村側(現在の湊町側)を片柳河岸。その上流左岸の平柳村新地の河岸(泉橋の上流)を平柳河岸とよばれ、下流の沼和田村の沼和田河岸(沼和田町愛宕神社付近)を含めて栃木河岸と総称している。

  安政元年(1864)の栃木河岸は沼和田河岸1軒を含めて12軒の河岸問屋があった(栃木市史)。

 ●平柳河岸…山崎屋忠兵衛

 ●栃木河岸…大阪屋惣左衛門・中島権左衛門・ 八百屋利右衛門・新籾与五郎・釜屋長七・壺屋吉左衛門

 ●片柳河岸…糸屋平吉・巻島角兵衛・仁科屋利右衛門・福田次郎右衛門

 ●沼和田河岸…平浜衛

 明和元年(1764)の運上金が栃木河岸の船積問屋が一軒500文。それ以外の平柳河岸・片柳河岸の船積問屋が一軒250文であったことから栃木河岸の中で巴波川左岸の栃木河岸の船積問屋のほうが規模が大きかったと伺える。また、利根川水運で河岸船積問屋として賑わった関宿藩境河岸の船積問屋の運上金が500文であったことから、同等の規模であったと思える。ただ、境河岸船積問屋では米穀一艘・一往復につき7文、米穀以外の荷物は10文の運上金を藩に収めた(川名登著「河岸」より)とあるが、栃木河岸問屋の場合は記録が定かでなく不明である。

 栃木河岸船積問屋の中の中島権左衛門は皆川氏の家臣であったと思われる。栃木宿の町役人や脇本陣宿泊提供などを務め、巴波川沿いの舟運における綱手道など沿岸の村々との諍いの内済議定書にも名前が記載されているなど栃木町の重心であった。この中島権左衛門の孫にあたる二代目高田安平は万町三丁目で先代から受け継いだ薬種商(現高田クリニック)を営みながら、昭和6年~7年にかけて東武鉄道新栃木駅開設を機会に北関門道路建設に多大な尽力をなした人物として広く知られている。

P2210042  安政年間の栃木河岸船積問屋の釜屋長七の店の有様を郷土史家、熊倉精一氏が著書「栃木町念仏橋」に次のように記述している。

 「ぐるりと塀に囲まれた釜屋の入口は(巴波川)河岸に面した土手の中ほどにあった。出入りする人夫を(井筒屋重兵衛は)避けながら広い門を入ると立ち並ぶ蔵が目に入る。『さすが釜屋さんだ』。蔵の前には船積みを待つ炭の俵などが山のように積まれている。(略)荷積問屋は蔵が生命。立ち並ぶ釜屋長七の土蔵7棟は大きいものは三間に十五間から、小さい蔵は二間半に二間のものまですべて瓦屋根である」

 釜屋に訪ねたのは円説中の坊の家守、質屋稼業の井筒屋重兵衛で、釜屋が700両の10年借用の担保として居宅屋敷、土蔵、高瀬船、都賀船を差し出し、井筒屋から借り入れするなど苦しい船積問屋の内情が描かれている。

 釜屋長七の船積問屋がその後どうなったか、記述はないが、栃木市史に記載されている明治2年の栃木河岸船積問屋の中に釜屋長七の名前がなく、代わりに井筒屋重兵衛の河岸問屋としての名前が載せられている。おそらく井筒屋重兵衛が釜屋長七の問屋株を引き継いだものと推測される。

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  渡辺達也著「歌麿と栃木」の中に、明治2年の高瀬船の売渡証文書が載っている。売主が佐野の馬門河岸水運業嶋屋治右衛門で、高瀬船一艘を167両2歩で栃木、円説中の坊に売却した証文である。証文宛名が井筒屋重兵衛になっていることから、明治2年にはすでに井筒屋重兵衛は船積問屋を営んでいたことになる。

P2210047 栃木市倭町に坂倉(井筒屋)重兵衛居住跡が「栃木市郷土参考館」として一般公開されている。明治21年(1888)に板倉家が東京に転居していたが、戦後に栃木市が譲り受けたものである。土蔵は栃木市内で最も古く築200年以上とされている。

 麻問屋、質屋稼業として、僧侶円説中の坊の家守として栃木町の豪商として数多く坂倉(井筒屋)重兵衛の名前が古文書などに記載されてくる。

 栃木市保管の安政三年(1856)「井筒屋重兵衛大麻勘定帳」が栃木市史史料近世篇に記載されているのを読むと、大麻取引売買勘定金には、金千三十三両三分とか四百十五文、八百二十八両と記載されており、桁違いの規模の大きい大麻の商いしていたことに驚かされる。

P2210048  石崎常藏著「栃木人」には、明治7年(1874)に日本橋小田原町田原屋より山車人形「静御前」購入の際に、倭三町内で負担金について、「慶応4年(1868)井筒屋の家督を相続した坂倉重平が100両、次に釜伊35両、渡藤30両、中島・萬清・盛田屋・芳新・本沢15両、釜芳10両、柏屋・丸重5両という記録があり、坂倉の献金が群を抜いていた」と記され、豪商としての井筒屋に興味を惹かされる。

 明治に入り、僧侶円説中の坊は栃木町から消えて、家守の坂倉重兵衛が全てを引き継いだものと思われる。真言宗の僧侶であった円説中の坊は廃物稀釈の中で栃木町を去っていったものと考えられる。井筒屋重兵衛をさらに読み解いていくことが、栃木町近世の問屋商いの姿を浮かびあがらせることになることを重々承知しているが、さらなる学習、検証が必要だと痛感する。

P2210036  巴波川の舟運運航期間は夏冬を通してではなく、栃木河岸と部屋・新波河岸間では3月10日から8月20日まで船の往来が禁止されていた。もともと稲作における灌漑用水として巴波川からの取水に支障が生じるためであった。 

 問題は明治に入ってから鉄道運輸に変わる明治20年代までの巴波川舟運がどうであったのか、分からないのだ。明治5年に栃木県庁舎が栃木町に設置され、県庁舎は県庁堀に囲まれ、巴波川からの舟運用の運河が庁舎まで繋がり、庁舎東側には荷揚場まで設置されている。

 この時期、巴波川舟運は通年運航になったのではないかと思われる。明治政府の富国強兵策は大麻の需要を産み、舟運による輸送の強化が叫ばれたのではないか。江戸時代には巴波川沿岸の領主であった古河藩土井家、関宿藩久世家など廃藩置県で消滅し、代わりに中央集権国家の県庁支配が色濃く出始めてきた。県庁の力をバックに栃木麻・荒物問屋の振興と衰退していく巴波川舟運船積問屋がどう動いたのか、興味が惹かされる事項である。

                       《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

石崎常藏著「栃木人」(2017年4月、石崎常藏発行)/ウエブサイト「塚田歴史伝説館文化遺産オンライン」/「栃木市史」(昭和63年12月発行)/熊倉精一著「栃木町念仏橋」(平成4年7月、熊倉精一発行)/川名登著「河岸」(2007年8月、法政大学出版局発行)/渡辺達也著「歌麿と栃木」(平成23年10月、歌麿と栃木研究会発行)/「栃木市史史料編近世」(昭和61年3月発行)

 

 

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巴波川散歩Ⅱ…小平橋・第三小巴波川プール・開運橋

P1250042 「こじんまりとした落ち着いた雰囲気のある橋だな…」という印象を最初に見た時に受けた。

 栃木市小平町の巴波川(うずまがわ)に架かる小平橋(こひらばし)の欄干に立つ。ついつい小平のことを「こだいら」と読んでしまうが、ここでは「こひら」と読まれている。かつてあった小平柳(こひらやなぎ)という地名からわかれて小平町になったのではないかと思える。

Photo_20210202133701  上流の「原の橋」の先には、西方町、思川小倉堰からの分流用水、荒川が運動公園を流れ巴波川に合流するところがある。

 合流した巴波川は左岸の栃木第三小学校の西側を流れ、小平橋を通り、下流の沖の橋から巴波川は蛇行し、嘉右衛門橋から急な流れになり泉橋、大川橋、開運橋、常盤橋、湊橋、幸来橋、巴波川橋と栃木市街地の西側を流れている。

 そして堰の先のうずま公園から巴波川は左に大きくカーブして相生橋、関門橋、開明橋と流れていく。

 両岸の川岸には、かつて舟運で活躍した都賀船を両岸から綱で上流へ曳いていく「綱手道」が復元され歴史的な景観が施されている。

P1250040  小平橋に立ってみると上流から下流にかけて川幅が少し広がっているように見える。悠然と漂うように流れる巴波川の川面から水気が浮かんでくるように静寂があたり包む込むような気がしてきた。

 「静かで…いいところだ」と思わず私自身につぶやいた。

 橋の下、上流左岸の岸辺に降りてみる。石段から川の中に入ることもできるようになっている。この岸辺から上流にかけて散策路にもなっている。

 川辺に降り立ち、小平橋から流れていく下流の巴波川を見ながら上流の散策路に足を進める。「浅い、巴波川の川底はこんなに浅かったのかな…」と、自問する。

P1160004  小平町に住む知人に小平橋の処で川に入って水遊びできるのではないかと尋ねたが「子供たちの水遊びは禁止されているな」と答えが返ってきた。

 今では巴波川での川に入り、水遊びなどができなくなっているのだ。

 川べりにそって歩いていくと右側に第三小学校のプールと体育館があり、「巴波川浄化施設」の案内板が設置されている。川辺にコンクリートでふたがしてある浄化施設の説明案内になっている。

P1160003  案内看板には、「巴波川河川浄化事業施設」として次のような文面が記載されている。「よごれた川の水を浄化する施設で、中には木炭のパッケージが入っています。川の水がこの中を通っていくうちに、よごれを『えさ』とするバクテリアなどの微生物がよごれを食べて分解してしまうのです」と子供向けに優しく書かれてあり、「下にたまった分解されたカス(泥)は定期的に取り出している」と解説されている。そして、取水施設→浄化施設→放流施設と図解で流れが示されている。

 バクテリアなどを活用しての河川浄化事業としてきれいな川づくりを行なっていることが記されている。さらに栃木市として「栃木市民や観光客の皆さんがやすらぎ、快適な散策や休憩を楽しめる歴史的な景観づくりと魚たちが元気に泳ぐ、清らかな水環境の再生を目めざしています」と書き添えられている。

 きれいな巴波川、そして歴史的な景観のある巴波川の風景がホンワリと浮かんできたような気がする。近隣住民による巴波川清掃活動も頻繁に進めれていると聞く。

P1160001  浄化施設から少し上流に進むと、かつて「栃木第三小学校巴波川プール」があった川面が見えてくる。

 遠い少年時代、小学校5年の頃(昭和34年)に、第三小学校の西側を流れていた巴波川に泳ぎにきたことがあった。小学校3年から4年にかけてケガと病気で夏休み、川で泳げなかったが、5年時の夏にここの巴波川に泳ぎに来た記憶がある。

 川の向こう岸から飛び込むんでいる少年たちを胸まで浸りながら眺めている光景や川が深かったことなど思い出が残っている。しかし、第二小学校に通う私はいわばよそ者であった。そのためすぐに栃高の冷たいプールへと泳ぎに行くようになった。

Photo_20210202160201    平成22年(2010)郷土出版社が発行した「小山、栃木、下野、下都賀今昔写真帖」に「小学生が泳いだ巴波川」という見出しで「昭和34年、栃木第三小学校巴波川プール」で泳ぐ子供たちの写真が載っている。写真の添え書きが記されている。第三小学校巴波川プールについて書かれた資料が少ないので、そのまま全文記載紹介する。

 「栃木第三小学校では、昭和38年7月に本格的なプールが完成するまで、校地のすぐ西を流れる巴波川プールを『三小プール』とよび、体育の時間や校内の競技大会でも川で泳いだ。湧き水が豊富に流れ、川底も平らで安心だった。その後、上流に住宅や工場が多く建てられ、川の汚染が目立ってきた。市はきれいな川づくり事業をすすめ、川べりに浄化設備を設置。写真でもわかるように、現在では川幅が狭くなったものの、快適な散策や休憩を楽しめる場所となり、清らかな水で魚が元気に泳ぐ姿を再び見ることができるようになった」

 写真は昭和34年に写されたことから、私も泳いでいた年代であり、自分が写っていないか探してみたが、写ってはいない。写真の右奥には飛び込み台が設置されており、川が深かったことを改めて知ることができた。

P1250044  「第三小の巴波川プールから開運橋まで泳いでいったな」と栃木シルバー大学で知り合った学友から話を聞いた。川を下ることからあり得る話だと思った。

 私が第二小学校に通う通学路に開運橋があった。橋の上からみる巴波川は深かった。戦後すぐの時に一番上の兄が開運橋で泳いでいたことは姉から聞いたことがある。

 開運橋の前は「トロッコ橋」とよばれていた。鍋山からの石灰運搬のために明治33年(1900)に鍋山人車鉄道は開通した。人車鉄道は鍋山から入舟町の栃木中学校(現在の栃木高校)の正門前を通り、巴波川に架かった「トロッコ橋」を渡り、万町から右折して市街地の大通りを経て栃木駅の石灰積み込み場まで軌道されていた。昭和5年(1930)鍋山人車鉄道の軌道が錦着山東麓へと変更されたため、市街地を通っていた軌道は取り払われ、巴波川に架けられていた「トロッコ橋」も架けかえられ、現在の開運橋になった。

  開運橋手前の左側には東映、日活映画上映館の文化会館があった。中央公民館が出来る前まではこの文化会館において「フランク永井、田代みどり」の歌謡ショウや痴楽綴り方教室の「柳亭痴楽」などの演芸なども上演されていた。今は栃木市役所駐車場ビルになっている。

Pc070066  開運橋を渡ると、人車鉄道軌道跡の面影が残る町並みが栃木高校まで続いている。ここは私の通学路であり、何人かの同級生の家もあった処である。

 「当時、人車鉄道会社は、入舟町にあって、各石灰店の石灰置場も併置されていました。春先には近在の農家が馬車で、肥料石灰を引き取りに来ました」(「巴波川は生きている」岡田利雄)と栃木老人クラブ連合会が発行した「想い出の栃木」に記載されている。同書には多くの先人たちの大正、昭和期における巴波川への想い出が記述されている。

Pc070068  「大正、昭和の初期には巴波川の水も清く、魚も大分とれました。市内を流れる巴波川には一番堰、二番堰、三番堰等があり、夏は水遊びなど盛んに行われ、水も豊富でした」(城内町・岸米吉)。「今の翁島(嘉右衛門町岡田別荘)の所に一番堰があり、二番堰が大川橋の所にあり、三番堰がトロッコ橋の所にありました。一番堰は大きく男の子はみんなそこで水およぎをしました」(嘉右衛門町・星野アツ)。「トロッコ橋の所は川床が深く水量が多かったので泳ぎ上手な子はトロッコ橋から川に飛び込みました」(錦町・津久井良子)。「トロッコ橋のあたりを三番堰といって、夏休みに入るとカッパ天国となり、多勢の子供たちの水遊びで賑わっていました」(万町・鎌田俊夫)等々水が豊富で綺麗な巴波川で泳いだことが記されている。

 中でも「堰」と水車の関連に興味を抱いた。水車を回すには堰止めをして脇の水車堀に流すことになる。巴波川には水車を回し米つきをした水車小屋が上流から7つあったと云われている。「その水車も大正末期より段々となくなって、昭和24,5年を限度になくなり、車堀は埋められて、今では昔のおもかげもなくなりました」(総社町・寺内庄造)と記述されていく。

Pc250091_20210202173301  巴波川の洪水の想い出としては、「降雨時が続くと、赤津川の氾濫で巴波川は洪水となり、時には市街大通りを舟で渡る状態もあって、被害は甚大でした」(嘉右衛門町・岡田利雄)。「大雨が降ると水があふれ、一面どろ水と化し、恐ろしい流れとなりましたが、今は赤津川の完備によりそれはなくなりました」(嘉右衛門町・星野アツ)が記載されている。

 令和元年(2019)10月の東日本台風(台風19号)により巴波川の出水で栃木市街地は床上浸水1217戸、床下浸水956戸と甚大な被害を受けた。国土交通省・栃木県・栃木市からなる巴波川浸水対策員会設置され、その概要が固まり後は国からの153億円の予算措置を待つのみになっていることを栃木市役所道路河川整備課から聞くことができた。

 その概要とは栃木市街地を流れる巴波川に景観を生かすためには新たな堤防を造るのではなく、巴波川の荒川合流地付近から北関門通りを経て蔵の街大通り(日光例幣使街道)からJR両毛線巴波川まで地下10mに捷水路(しょうすいろ)をつくるということである。捷水路とは蛇行している河川をまっすぐにして洪水を安全に流す水路のことを言う。今回の概要では地下に捷水路として直径5mの管を設置して、巴波川の氾濫が予測される場合、荒川の合流地点から川水が地下に通っている捷水路を通じてJR両毛線巴波川付近に流し、洪水を防ぐというものなのだ。予算措置がされれば令和7年までの完成を目指すとしている。

Pa210059  現在の蔵の街大通りの道幅は18mになっている。400年以上前に皆川城主の皆川広照は南北970m、道幅15間(一説では10間)27mの幅広い大路を縦貫させるという栃木のまちづくりをした。幅広い大路に市場を開き、町の活況を呈する狙いがあり、幅広い大路は町の防火の役割を担うことになる。さらに氾濫が予測される巴波川の治水対策としても大路を造る必要があったからだ。巴波川からの出水を大路に流すことにより洪水から町や住民を守る意図があったと考えられる。

 今回の巴波川浸水対策で捷水路として蔵の街大通りの下に地下トンネルを通すことを聞いて、…何だか皆川広照のまちづくりが蘇ってきたような気がしてきて、うれしい気分になった。皆川広照のまちづくりにおける優れた慧眼は並みの武将ではなかったことを物語っていると思えてきた。

 普段は穏やかに流れている巴波川。氾濫する巴波川とこれからも目をそらさずに向き合っていく必要がある。

                     《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

「小山、栃木、下野、下都賀今昔写真帖」(平成22年3月、郷土出版社発行)/「想い出の栃木」(平成3年3月、栃木市老人クラブ連合会発行)

 

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巴波川散歩1…巴波川と幸来橋(念佛橋)

 川は町の顔

Dai1saku222221_20201226155801   「わたしが住んでいたころのカツシカ島(葛飾柴又)はね、水清く空澄みわたり、四季の花々が美しく咲き乱れ、人々が仲良く平和に楽しく暮らしていたんだよ」と奴隷船を破った海賊タイガー役の車寅次郎(渥美清)が故郷のカツシカ島に帰る時に夢の中で語る台詞。そして、タイトルバックに江戸川の河川敷きが映る中、葛飾柴又に帰ってくるおなじみの冒頭シーンの「男はつらいよ」シリーズ。

 童門冬二著「歴史探訪を愉しむ」の中で、著者は「わたしは、その町が好きか嫌いかのメルクマールを、町の中を流れている川が、きれいか、きたないか、ということにおいている。むかしから『川は都市(まち)の顔』といわれている」と記している。

 「男はつらいよ」の長いシリーズの中での江戸川の情景は、毎回新鮮な画面として映し出され、それがそのまま葛飾柴又の町の顔にもなっている。きれいに穏やかに流れる川は、その町の歴史と文化(平和)を表していると思える。

Pc070009  思えば小学生のころ、兄と一緒に川岸から釣り糸を垂らしていたころの巴波川(うずまがわ)の川面は淀んでいて、汚れていた記憶がある。

 わたしの母校、栃木第二小学校を1学年から栃木高等女学校まで栃木町で過ごした吉屋信子は「おもいでの町―栃木―、川のある町」の中で明治後期のころの巴波川(うずまがわ)をこう記している。

 「この町の中を巴波川という河が流れていた。その水の流れがこの小さなさびしい町にうるおいと風情を与えていた。河岸の白壁づくりの倉庫。その脇の河の石段を降りて洗いものをする人…。のどかな風景だった。幼女の頃の夏、この川の支流の浅い川底に黄ろい河骨(こうほね)の花が点々と咲いているのを、いつまでも倦かずに見つめているうちに、ふいと天地の寂しさを幼な心に覚えたのを、いまでも時々思い出す。(1956年暮しの手帖)」

 むかしは黄色の河骨の花が巴波川の橋の下などに咲いていたと古老の人が話してくれていたことがある。今ではほとんど見かけることができなくなっており、草花にあまり関心のなかったわたしには河骨の花の記憶は残っていないのだ…。

Pc070003

 栃木市街を流れる巴波川が東に蛇行する下流左岸に吉屋信子の父・雄一が下野郡長を務めた下都賀郡庁舎のあった「うずま公園」がある。公園内には元栃木市長の「金子益太郎顕彰の石碑」が建立されている。

 昭和38年(1963)に第9代栃木市長になった金子益太郎氏は長年の無産者階級運動の経験を活かして、道路整備と併せて「市民本位の市政」として市民会館建設、交通遺児奨学金制度創設、流水プール等を造った。とりわけ巴波川に鯉を3万匹放流し、町の顔としての『巴波川をきれいにしよう』という機運を高めた市長であったといえる(石崎常藏著「栃木人、金子益太郎」参照)。

 一時期、汚い巴波川を暗渠にして駐車場にしようという案が浮上したが、多くの市民の反対でそれが断念されたという話は、わたしが44年ぶりに栃木に移り住み始めてから知ることになった。

Pc070007  現在の巴波川は昭和63年(1988)に「巴波川・蔵の街ルネッサンス」をテーマにして、栃木市は巴波川の水質浄化を含めた巴波川再生計画のとりくみを進めた。そして鯉のいる巴波川を生かしたまちづくりの一環として、平成2年(1990)から雑割石や松丸太などを使用した護岸・綱手道の整備を開始した。

 今では10万匹の鯉が群泳する歴史的舟運町の巴波川景観が形作られるようになる。その風情と景観は「鯉のいる街、蔵の街栃木」のシンボル、顔になっている。

Pc070011  思川小倉堰からの分水を始端とする巴波川は、かつては栃木市の北の川原田周辺の湧水沼を源とし、長沼や大かり沼など近辺の湧水沼の水を集め、灌漑用水として利用されていた。

 栃木町の舟運は、元和3年(1617)に徳川家康の霊柩を久能山から日光山に改葬した際、荷を栃木河岸に陸揚げしたことに始まるとされている。江戸へおよそ43里(170キロ)の舟運物資は巴波川-渡良瀬川-利根川-江戸川-小名木川を経て運ばれ、江戸からも同じように栃木河岸に運ばれる。同時に日光例幣使街道の宿駅になった栃木町は回漕問屋や豪商問屋の蔵屋敷の並ぶ水陸輸送の商業の街として繁栄を誇るようになる。

念佛橋と言われていた幸来橋 

Pc070018  栃木市街の中心地、倭町交差点から西銀座通りを経て巴波川に架かる幸来橋(こうらいばし)に来る。明治5年9月にそれまで「念佛橋」といわれていた橋の名前を「幸来橋」と命名された。

 幸来橋から見る巴波川の景観は塚田歴史館の建造物と合いまって観光スポットになるなど歴史ある風情をかもしだしている。

 幸来橋対岸の西側には、皆川城址につづく皆川街道がある。街道を分岐して栃木女子高、栃木商業、栃木農高、国学院栃木、大平山神社へつながる女子高通りが通っている。

Pc250090  江戸時代まで「念佛橋」には木戸が設けられ、木戸の前は広小路になっていた。慶応3年(1867)の12月10日の夜に出流山萬願寺で討幕挙兵した薩摩藩下野糾合隊と足利藩栃木陣屋を含めた幕府農兵鉄砲隊との戦闘跡地になっている。

 ここで討死した美濃国下野糾合隊の西山謙之助の亡骸は現在のうずま公園になっている瀬戸の原に埋葬された。うずま公園内には西山謙之助の供養塔が建てられている。

 幕末史の中では「出流山事件」といわれ、鳥羽伏見の戦いの前哨戦と位置づけされている戦闘である。

20  弘化3年(1846)「片柳新田字上河岸絵図」に記載されてある念佛橋の規模は、念佛橋または天王橋と昌伝され、「川幅十間(約18m)に長さ十二間半(約22.5m)、杭六本、元板橋手摺有、今ハ土橋」と記されている。橋の規模は板橋、土橋と変わっていることになる。

 橋の東側、木戸内を栃木町の栃木河岸。橋の西側、木戸外が片柳村と言われ、片柳河岸と言われていた。絵図には上河岸と記されていることから下河岸があったことになる。下流の「巴波橋」近くに住んでいた私の叔母のことを「下河岸(したがし)の叔母さん」と呼んでいたのも頷ける。

Pc070046  念佛橋名前の由来を知人を通して郷土史家の熊倉精一氏に訊くことができた。

 熊倉氏は知人に、「橋の架けかえのために念佛を唱えながら寄付を募って歩いたから」と言う説を中心に、それ以外に「橋の西にあった処刑場に連れて行かれる罪人が念佛を唱えながら橋を渡ったから」、「罪人を見送る人々が念佛を唱えながら見送ったから」などの諸説があるということを話したという。

 「水戸天狗党栃木町焼打事件」を執筆した稲葉誠太郎氏は著書「巴波川物語」の中で、「念佛橋は、かつては天王橋といわれたが、橋のたもとに念佛堂があったことから念佛橋と呼ばれるようになり、天保6年8月晦日に架けかえられたもので、明治5年9月13日から幸来橋とかえる」と記している。

 橋のたもとに念佛堂があることから「念佛橋」と呼ばれたと記しているが、念佛堂が実際にあったのか確認はできない。

Pc070017  「橋は来世の異次元世界=常世と浄土へつながる、渡っていきたいという願望を秘めた造形」と内藤昌氏は「日本町の風景学」の中で、橋への心象風景として橋の事ことを規定している。

 「念佛を唱えながら寄付を募る」「罪人が橋を渡る時に念佛を唱える」「罪人を見送る時に念佛を唱える」「橋のたもとに念佛堂があったから」などから、私には西方浄土への祈りを込めた念佛供養として念佛橋と呼ばれたのではなかったのかと思えてくる。豊富な湧水を集めて流れる巴波川は字のごとく渦を巻くように激流になって流れていた。そのため、度々橋は破壊されていた。橋を架けかえる際に橋への思いが「念佛橋」と呼ばれるようになったのではないかと推測、想像してみた。

幸来橋ほとりに建つ「巴波川水運の碑」

Pc070039  幸来橋手前右側のポケットパークに「巴波川水運記念碑」と民話「鯰の恩返し」を基にしたモニュメント「巴波の鯰」が設置されている。

 いずれも栃木商工会議所が創立100周年記念事業として製作され、設置したものである。

 平成5年6月26日に完成、除幕された「巴波川水運記念碑」は縦1.8m、横2.3mのアルミ鋳物製の、レリーフで、台座は白御影石が使用されている。水運で賑わう栃木河岸の様子を栃木在住の日本画家茂木辰也氏によって下絵が描かれたものである(栃木商工会議所百年史より)。

Pc070041  最初は何の記念碑なのか分からなく、記念碑の後ろに回り、水運の記念碑であることが分かった。背面には「巴波川の水運」という見出しで、次の文章が刻まれていた。

 「栃木市は、古来さまざまな歴史をたどり、文化を築いてきた。そして江戸時代に至り、日光例幣使街道沿いに発達した商家町となり、やがて北関東屈指の商都として繁栄、明治初期には一時栃木県庁が置かれた。その隆盛は、米麦・木材をはじめ特産の大麻などの交易によってもたらせたが、また人々が母なる川として親しみ大切にしてきた巴波川の舟運によることも大きい。この水運により、遠く会津方面にも及ぶという後背地と、下流の利根川などを経て至る江戸方面とを結ぶ、物資の集散地となった。

Pc250091 荷物は上流に遡るに従い、底の浅い舟に積みかえられるが、この川で都賀舟というものが使われた。舟に綱をつけ、両岸の綱手道と呼ばれる所を、人力で引く。川沿いには河岸が設けられ、商家の蔵が立ち並び、荷積みの人で賑わったのである」(平成5年6月26日)

 背面に刻まれた文面は栃木市水運の歴史を端的に表していると思える。本来ならば、栃木市が記念碑の脇に「栃木河岸の跡」として標識案内看板として掲示すべきものである。栃木市民や観光に訪れた人々に、巴波川が栃木町にとり歴史のシンボルであり町の顔であることを示していく必要があると思える。そのことが私たち栃木市に生活する者が歴史への誇りを感受し、自分たちの立つ位置への理解を深めていくことになるからである。

 次に、幸来橋を渡り、片柳河岸・回漕問屋の足跡を訪ねて行こう。

                           《夢野銀次》 

≪参考引用資料本等≫

山田洋次原作監督「男はつらいよ 相合傘」(1975年松竹映画)/竜門冬二著「歴史探訪を愉しむ」(2002年6月実務教育出版発行)/吉屋信子著「おもいでの町―栃木―(暮しの手帖34)」(平成18年9月栃木県高等学校教育研究会発行『栃木の文学』収録/日高昭二著「利根川場所の記憶」(2020年7月翰林書房発行)/石崎常藏著「栃木人・金子益太郎」(2017年4月自家発行)/日本の水郷・水都(平成18年リバーフロント整備センター発行)/稲葉誠太郎著「巴波川物語」(昭和49年11月栃木史心会発行)/内藤昌著「日本 町の風景学」(2001年5月草思社発行)/寺崎宣晶昭著「巴波川舟運と蔵の町栃木」(平成25年1月下野新聞社発行『栃木文化への誘い』収録)/「栃木商工会議所百年史」(平成5年7月栃木商工会議所発行) 

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栃木の町ー皆川広照の描いたまちづくり

『地域遺構看板』の設置

Pa250030  栃木市蔵の街大通りは別名、日光例幣使街道とも言われている。

 新装された足利銀行栃木支店のある倭町交差点信号機の傍らに『日光例幣使街道栃木宿絵図』という見出しで『地域遺構看板』が栃木市によって令和2年(2020)の3月に設置されている。

 この絵図看板の基は『五街道分間延絵図並見取絵図』(五街道分間延絵図)の中にある『中山道例幣使道分間延絵図第三巻栃木宿』に記載されている絵図を栃木市で案内解説を加えての掲示になっている。

Pa250023  寛政12年(1800)~文化3年(1806)に五街道を中心に幕府道中奉行が測量絵巻として詳細に描き完成させたもので、絵図原本は国の重要文化財に指定されている。

 この『栃木宿絵図看板』(略して絵図看板)を観ていくと、右側には巴波川にかかる現在の開明橋と木戸が描かれ、栃木宿入口と記載されている。宿の中央を日光例幣使街道が縦貫し、道の中央に堀が流れ、下町、中町、上町と町名の記載がいる。

Pa210078-2 栃木市で設置する際に黒字で例幣使街道沿いに右側、宿の南から「栃木宿木戸」「高札場」「本陣」「蛯子神社」「栃木宿木戸」「大ぬかり沼」と北に向けて書かれている。上の図、東側には「栃木城」「足利陣屋」「神明宮」「近龍寺」と書かれ、下の西側には巴波川の流れに沿って「栃木河岸」「片柳河岸」「栃木県庁(跡)」と簡単な解説文を含めて書かれてある。

 そして、赤字で「栃木駅→」「現在地」「栃木市役所」「←新栃木駅」と絵図を見ながら現在地と比較できるようになっている。

 江戸時代、栃木市は日光例幣使街道の宿場町であり、巴波川舟運の河岸として物流の集積地としていたことを表示する絵図看板になっている。この絵図看板からジオラマ等を作成して市役所ロビーに展示すれば江戸時代の栃木の町の有様が市民の理解を深めることになるなと思えてきた。

蔵の街大通りの道幅が十五間(約27m)であった?

Photo_20201030052501    絵図看板と同時期の文化2年(1805)の「栃木町明細上帳」(栃木市史史料編近世)によれば、「宿内の町並み往還(日光例幣使街道)の長さは南北八町五四間(約970m)、道幅十五間(約27m)、町の中央に幅六尺(1.8m)用水が流れており、人口二千三百六壱人、家数五百六十六軒」と記されている。

 現在の栃木市内の中央を通る蔵の街大通り(日光例幣使街道)が江戸時代には道幅27mであったことになる。今の道幅がどのくらいあるのか、栃木市役所に問い合わせてみた。市からは県道のため県庁に問い合わせたところ、市役所前の道幅が18.3mであることの返答があった。道幅十間の道幅であり、別名「十間通り」とも言われた時もあったことは聴いている。

 栃木町明細上帳記載通りの道幅27mが何時の時代に現在の十間(約18m)になったのか?幕末の大火や用水堀変更での道幅の縮小があったのか?それとも明細上帳の記載誤りなのか、不明である。ただ、当時として十間通り、もしくは十五間通りは他の宿場町に見られない非常に道幅の広い通りであったことは言える。

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 黒澤明監督作品「用心棒」(昭和36年東宝映画公開)の中で舞台になっている上州のある宿場町。登場人物のキャラクターや殺陣のシーンなどリアルに撮られ、内外から評価の高い映画になっている。

 その宿場町の通りが道幅広く描かれている。学生の頃、ある映画評論家が「江戸時代にあんな道幅の広い通りのある宿場町はありませんでした。黒澤監督が独自に作り上げた宿場町だったのです」と書かれた映画雑誌を読み、黒澤監督の独創性の凄さに驚いた記憶がある。

 宿場町を描いている「用心棒」をDVDで再度観てみる。映画に出てくる宿場町通りを物差しで測ってみると18m、十間の道幅になっていることが分かった。

 昭和18年(1943)公開の黒澤明監督作品「姿三四郎」で栃木市塚田歴史館の巴波川沿いをロケーションとして撮っている。このことから、黒澤監督が栃木市を訪れ、例幣使大通りの道幅を見ており、道幅の広い宿場町があったことを知ったのではないか。そして、「用心棒」を撮る際に栃木市例幣使街道を参考にして道幅の広い通りを有する宿場町を設定したのだと思えてくる。

市場の神様「蛯子神社」(えびす様)が祀られていた

Pa250024  栃木宿を長さ970mで南北に縦貫する日光例幣使街道の北端に現在の万町交番がある。

 「絵図看板」には道を塞ぐように「蛯子神社」(えびす様)が祀られており、その脇の枡形になった道に沿って木戸口から北に出て、嘉右衛門町に進む道筋が描かれている。

 この絵図を見て、栃木宿内の例幣使街道はまっすぐ北進して木戸口にぶつかるのではなく、蛯子神社前から左に曲がるようにして北の木戸から宿場外に出て行っていることが分かった。

Pa240021  日向野徳久著「栃木の歴史」の中では、江戸時代の地図をみて、「今の(万町)交番のところは塚になっている。その上はえびす神(蛯子神社)が祀られている。えびす様は、明治になって木戸がとりはらわれ、塚がこわされるとともに神明宮の境内にうつされた」と記述されている。

 戦後、蛯子神社の祠は神明宮境内から万町三丁目の巴波川大川橋の東端に高田安平氏らによって移され祀られたとされている。

Pa250052  神明宮から移された蛯子神社の祠はまだあるのか、大川橋まで歩いてみた。

 大川橋近くの大川呉服店に入り、店主の大川さんに蛯子神社のことを訊ねた。大川さんは、「蛯子神社の祠は戦後、神明さんから大川橋の東にある今の倉庫の処に移され祀らていましたね。この辺りを活気ある商店街にしょうとしたんです。『蚤の市』が始まった昭和30年ころには祠は無くなっていたな」と話し、「私の家は福島の田村家の子孫なのですよ。今川に加勢し敗れて福島に落ち延びる途中に栃木に住み着いたらしいですね。先祖の話では、落ち武者狩りを警戒して田村から今の大川に名前を変えたということです。そこの大川橋の前の木橋はうちで架けたんです。家一軒が建つ費用だったということです」といきなり訪問した私に気軽に語り、家系の資料を見せていただいた。

430287651 蛯子(ひるこ)神は恵比寿神ともいわれている。ウキベリアでは「伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の間に生まれた第一子ですが、発育が悪く、3歳になっても歩けなかったために、両神により葦船に乗せられ海に流されてしまった。

 その神が何時の頃からか、海の神として豊漁や航海安全、交易などに霊験ありとされ、のちに七福神の恵比寿神と同化され、市場の神、商売繁盛の福神として大衆的な信仰を集めるようになり、それが農業神にも拡大し、今日では商工農業などあらゆる産業繁栄の守護神とされています」と市場の神、商売繁盛の神として祀られていることが記されている。

 道幅広い大通りをつくる際に北端の地に塚を盛り、そこに蛯子神社を祀った。そこには都大路や若宮大路のように風水思想が連想される。しかし、市場の神様を祀るところから、私には皆川広照が産業振興策として道幅18~27mの大通りをつくりあげたと考えられるのだ。

皆川広照が意図した大通りとは

21221  町の中心を通る大通りの北端には市場の神、商売繁盛の神としての蛯子神社を祀ることは、武運としてではなく商いの盛んな城下町にしていくことを意味している。では蛯子神社を建てたのが広照なのか、改易後の家臣団なのか、それは分からない。しかし、広照の意を受けた家臣団を含めて大通りつくりの意味を考えていく。

 町の中央に道幅広い大通りをつくることは、①町の火災を大通りを境に焼け止まりにする。②栃木一帯の地域は湧水地であったことから沼沢・湿地帯になっており、大雨洪水時に大通りが川や遊水池の役割をする。③大通りが敵の攻撃や味方の防御と逆襲の拠点になる。④町の過密を緩和して大通りが憩いの場になり、大道芸人の往来が盛んになる。⑤道幅広い大通りには市場を開くことができ、物流交易が盛んになり経済発展につながり、暮しの向上が図れる。というような役割、機能をもつことから、皆川広照とその家臣団は道幅の広い大通りを中心に町づくりをすすめていったものと思われる。

Pa310002  天正18年(1590)の小田原征伐で皆川広照(1548~1627)は北条氏に与して小田原城に籠城したが、小田原城包囲直後に脱出して徳川家康の陣所に駆け込むことで豊臣秀吉に所領を安堵された。

 翌年、秀吉の命で広照は本拠を皆川城から栃木市城内町にある平城の栃木城に移し、本格的な栃木の城下町づくりを始めた。

 しかし、慶長14年(1609)9月に家康六男の松平忠輝の素行を二人の家老と共に附家老として家康に訴えたところ、逆に家康の怒りを受け、皆川家は改易となり、栃木城は廃城になる。

 わずか19年間の本格的な城下町づくりは終わったが、皆川家臣たちによって広照の考えた市場と舟運を柱として栃木町は商業の町に変移していくことになる。

皆川城下の丈間織つくりと丈間市

Pa220085   栃木駅から西方5.2キロ行ったところに皆川広照居城の皆川城がある。その城下内において「丈間市」が開かれていた。

 市日は2日、7日、12日、17日、22日、27日の六斎日で。皆川ムシロ(ジョウマ)の生産を奨励する意図のもとに、皆川俊宗か広照の時代にはじめたと伝えられている(栃木市史)。丈間はコンニャク、懐炉灰、敷きゴザ、下駄、鼻緒のシンナワなど栃木や周辺物産の荷包み用として利用された。

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 昭和30年代ころまで元役場の皆川中学校前の通りには「丈間市」がたち、栃木の荒物商を中心に買い取られていった。役場脇には市場の神様の祠が建ってあった。八坂神社に移されたと云われているが、現在では所在不明になっている。地元の知人はその祠を探しているんだと私に話してくれた。

 丈間織つくりは農家の大きな収入源になっていた。とりわけ皆川城内の北にある山間の柏倉町では丈間織つくりが盛んであった。山岳信仰の影響で男衆のように山に入ることのできない農家の女性にとり、重要な丈間織つくりだったといえる。柏倉町に住む私の高校の同級生の奥さんも小さいころに母親がつくった丈間を市場がたつ日に幸島分家の隣の家に運んでいたことを話してくれた。

  蔵の街大通り沿いに大正年間創業の「五十畑荒物店」がある。店内を見ると、子供の頃、東京の叔母さんが栃木のおみやげとしてよく箒をかっていったことが思い出された。店主に「丈間」は置いてありますかと訊くと、棚の上にある丈間の束を見せてくれた。一枚550円の値札が付いていた。「福島産の丈間ですよ。今では栃木産の丈間はありませんね」と言われた。栃木での丈間つくりは終わっていたことを知った。

栃木の六斎市と馬市

Pa270072  「栃木の市場は、栃木町成立とともに開設されてたのであり、皆川氏による城下町繁栄策として開かれたものと思われる」と栃木市史に記載されてある通り、町づくりは市場と連動して行われていったと理解できる。

 さらに栃木市史には「3の日と8の日、すなわち3日・8日・13日・18日・23日・28日の6日市が開かれた。これを3、8、六斎の市という。また4の日と9の日、すなわち4日・9日・14日・19日・24日・29日に馬市も開かれていた」と市場が多く設定されていたとの記述がある。

 馬市は、東北地方の馬の産地から山王峠を越えて何十頭と馬を連ねて栃木町にいたり、栃木町の馬市を通じて、上野・武蔵・相模・下総・上総の国の方まで売られていた(栃木市史)。馬市は栃木宿のどのあたりで売買交渉があったのだろうか。絵図看板を見ると、定願寺近辺の道路沿い空き地がある。街道沿いの家と家との間の空き地を活用していたのかもしれない。うずま公園には亡くなった馬を埋めたと云われており、馬の供養碑が巴波川沿いに建てられてある。

Pa210051  市場は上町・中町・下町の三町が交代で行っていた(栃木市史)。

 ということは、宿場町役人が場所や場所代徴収など市場を仕切っていたということになる。しかし、市場の繁栄は勝手に店をだす行商人の増加になっていったため、享保20年(1735)に足利藩栃木陣屋にて町の名主・年寄・町人(店持)を呼び、栃木市場につて規則を定めたと栃木市史には書かれてある。

 栃木市史には栃木市場にかかわる商人の分類と扱う品目が記載されており、江戸時代の栃木町市場の生業が浮かんできて面白いのでここに記載する。

①町場商人(表通りに店を構えている商人)…米雑穀、麻駄売、牛蒡駄売、たばこ駄売、莚織道具、木綿、紙の山出渡り等。

 ここでいう「駄売」とは一駄は馬一頭に乗せて運ぶ分量品物という意味で、小売りを禁じたもの。この記述で店頭で小売りする商店の出現は明治になってからだということを知った。

②市場商人(各宿の市を巡回して売り歩く商人)…小間物、丸薬、塩魚物、干魚、金物、紙売、麻小売、たばこ小売、古着売、精霊道具、菅笠、下駄や足太、足袋売、牛蒡・人参小売、こんにゃく売、莚売等々。

 例幣使街道道路沿いに品物を並べて販売していたということ。

③振売商人(品物を担いだり馬の背に乗せて売り歩くもの。これを地面に荷を広げて商うことは禁止)…あめ、もち売、桃・梨・栗・柿売、大根、葉ねぎ、牛蒡、にんにく、縄、たばこ売、茶、蓑売、莚、草履、わらじ等々。

N_ct4_y4c1  商いは行商から始め、やがて店を構えて一人前の商人になっていく。お客が欲しいものを何時どこでも売っていくという振売商人は商いの原点ではないかと思える。

 栃木町の大通りは馬市と併せて市場の開く日など、近在からたくさんの人びとが買い物に訪れていた。とりわけ、巴波川舟運が開けてくる江戸中期から後期、幕末にかけて栃木の市場は物資の交流が盛んになり、大店の問屋など出現する要因になっていったといえる。

   振売商人には市場開催以外でも、その所の許しを得れば自由に商いをしてよかったことになっている。その中から「釜屋」という称号をもつ店舗が生まれた。鍋釜などに穀物を載せて万(よろず)商いの行商から出発したと云われている。

 近江出の醤油問屋の釜屋喜兵衛(釜喜)、質屋の釜屋佐次兵衛(釜佐)、太物呉服店の釜屋伊兵衛(釜伊)の釜屋善野家などは栃木を代表する富豪に発展していくことになる(石崎常藏著「栃木人」より)。

皆川広照は織田信長の影響を受けて栃木の町づくりを始めた

200pxminagawa_hiroteru1    皆川広照は栃木のまちづくりにあたり、市場の開設と物流の集散地としての栃木町を思い描いた。その思いを広照に与えたのは織田信長の安土城下における活況を呈した市場と琵琶湖水運による物流の興隆を目の当たりに見たことによると考えられる。

 天正10年(1582)の5月に広照は家康のお供をして安土城に行き、安土城下町を見てきていることが最近分かった。

   平山優著「天正壬午の乱」の中で、著者は「天正10年(1582)6月2日の本能寺の変で明智光秀に撃たれる前の5月15日に、皆川広照は徳川家康のお供して安土城にて織田信長に会っている」ということを「寛永諸家系図伝」を基に記している。同じく栃木県立博物館館長の江田郁夫氏も栃木市文化講座にて「織田信長に皆川広照は会っており、本能寺の変で家康と共に伊賀越えをしている」ことを述べている。

 当初は「本当かな?」と疑心暗鬼であったが、二人の研究者の根拠となる「寛永諸家系図伝」を栃木県立図書館で読み、確かに家康のお供をして水谷蟠龍斎と共に安土城に行っていることは確かであるが、信長に会ったというところまでは読み取れなかった。

 しかし、信長より歓迎接待を受ける家康は事前に信長に広照と結城氏重臣水谷蟠龍斎を安土にお供もしていくことを通告していると思われし、信長もそれを歓迎した筈である。何故ならば、武田を滅ぼした後の信長は北条討伐に向かっており、戦略上、北条と対立している北関東の宇都宮・佐竹・結城・皆川氏を粗略に扱わないと推測されるからである。そのことから家康のお供をして安土城に行った広照と水谷蟠龍斎は信長に会っている可能性が高いといえる。また、後の秀吉による宇都宮仕置きで、広照が信長に会っていることが皆川所領安堵の一つの理由になったともいえてくる。

Pa210063  いずれにしも信長に会ったか会わなかったかは今後の研究ではっきりしてくると思うが、要は皆川広照が安土城に行き、安土城下の市場と琵琶湖水運を見てきたことが重要なのである。そのことが広照に大きな影響を与えたということになるからだ。

 長年の宿敵北条が滅びた後に皆川広照は平城の栃木城に居城を移す。そして新たに栃木の城下町づくりを始めるにあたり、10年前に安土城下で見た活気ある市場と琵琶湖水運を思い浮かべた筈である。そこから市場開設のための道幅の広い大通りつくりと巴波川舟運を併せもつ町づくりの構想が始まったということではないだろうかと思えてくる。

 皆川広照の思い描いた栃木の城下町構想には、信長がつくってきた物流交易の盛んな経済振興策を推し進める町づくりがあったということがいえる。このことが、江戸から明治、大正と300年にわたり商業の町、栃木市のまちづくりの原点になっていった。

 10月の晴れた日差しまぶしい日曜日。私は蔵の街大通りの近龍寺前の交差点角で椅子に座り道行く人を眺めていた。2~3人連れの観光客と思われる若い女性たちが幾人も行き交う姿を見ることができた。なんだかうれしくなった。栃木の町はまだまだこれからの町なのだと思えてきた。磁石のように若い人たちを引きつける魅力あるまちづくりを目指す。…皆川広照の思い描いた栃木のまちづくりを家臣団の動向とあわせてこれからも考えていこう。

                        《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

「栃木市史通史編」(昭和62年12月発行)/「栃木市史史料編近世」(昭和61年3月発行)/「栃木市史民俗編」(昭和54年3月発行)/日向野徳久著「栃木の歴史」(昭和41年11月、栃木市発行)/「皆川の歴史と文化」(平成27年3月、皆川地区街づくり協議会発行)/舩木明夫著「栃木宿の町並みと保存の取り組み」(令和元年9月、栃木市文化講座資料より)/平山優著「天正壬午の乱」(2015年7月、戎光祥出版社発行)/「寛永諸家系図伝第四巻」(平成2年10月、日光東照宮社務所発行)/石崎常藏著「栃木人」(2017年4月、石崎常藏発行)

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みづきさやけき太平の~「栃商百年誌」を読む

93041  栃木市は、市民の生涯学習やまちづくり・地域づくり等につながる活動を支援するための施設として、令和2年(2020)6月27日に「とちぎ蔵の街楽習館(市民交流センター)」を開館している。

 今年(令和2年)の10月3日から始まった栃木市文化講座で初めて楽習館の中に入った。明るい開放的はラウンジや学習室には土曜日ということもあり、勉強している高校生がたくさん見受けられた。

 楽習館は栃木市旧中央小学校(旧栃木第一小学校)の校舎をリニューアルしてオープンしている。そして、大正6年(1917)3月に栃木商業高校の前身、栃木実業補習学校が旧第一小学校西の校舎にて開校となり、4月より授業が開始された。いわばこの地は栃木商業高校発祥の地になる。楽習館駐車場の隅に「栃木商業高校発祥の地」という石碑を建てることを考えてもいいなと思えた。

栃商創立百周年記念

Pa050111  大正11年(1922)に栃木町立栃木商業学校になった通称、栃商は大正14年(1925)4月に現在の栃木市片柳町5-1-30に移転し、5学年制(定員500名)で授業が開始された。

 開校して100年。平成29年(2017)の10月には「創立100周年記念式典」が栃木市文化会館にて開かれている。寄付金3万円以上の人は招待されたが、1万円寄付の私には届かなかった。

 「栃商同窓会会報誌」には、創立100周年記念事業寄付者の氏名一覧が掲載されている。中でも1000万円を寄付した新村武志元商業科教諭には驚かされた。在学時に珠算部顧問としてお世話になったが、人生そのものが栃商と共に歩んできた先生なのだとしみじみと感じ、その重さを受け止めていきたいと思えた。

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  記念事業の一環として「栃商百年誌」が発行されている。2年前に大平町図書館で閲覧した。その時、栃商の校歌の作詞が戦後、改訂されていることを知って驚いた記憶がある。

 もう一度、読むことを決めて栃木商業高校に行き、一冊5000円で「栃商百年誌」を購入した。

 「栃商百年誌」を読みながら、①終戦間近に工業学校に転換し、中島飛行機工場下の工場として学校工場になっていたこと。②昭和25年(1950)に時代にそぐわない校歌の詞を教員で構成された委員6人で一部改訂して現在の校歌の詞になっていること。③図書館紀要を昭和41年(1966)から昭和52年(1977)まで早乙女祥教諭図書館部長を中心に発行していること等が目に留まった。

 以下、「栃商百年誌」を読みながら上記3点を中心に栃商への思いを綴っていくことにする。

戦時下の学校工場から戦後、県立商業高校になる

Pa050121 太平洋戦争末期、敗色濃厚な日本は軍需産業への労働力を中等学校学生や高等女学生に求め、勤労動員として戦争参加に加えていった。連動して戦争遂行のため栃木商業学校は栃木工業学校に改められている。

 すでに昭和19年(1944)10月1日より栃木女学校(現栃木女子高校)では校舎内体操場が学校工場になり、飛行機エンジンカヴァー作りが始まっていた。

 「栃商百年誌」では、旧職員の藤平宏氏が「思い出」として昭和20年(1945)7月の「学校工場」についての寄稿文が記載されている。

 Pa050109 「2年生の一部は栃木機械製作所に、2年生の残りと1年生は学校工場作りの作業、防空壕作りにあけくれ、授業らしいものは殆どなかった。(昭和20年)6月中島飛行機から栃木工場長となる人をはじめ作業員が配置され、二棟の床をとりはずした建物に飛行機の胴体組立治具が20台分据え付けられた。7月には葉鹿工場で実習していた3年生が実際の仕事にかかったが、果たして飛べる飛行機が出来るかどうか私自身確信はなかった。何回も鋲うちに失敗してはやり直し、やっと胴体が出来るようになったところで終戦になった」

 第2・第3校舎の床を取り外してできた学校工場からは、製造された飛行機胴体は結局納入されなかったことになる。在学当時は木造建物で授業を受けていたが、その教室が飛行機胴体組立作業場になっていたのだ。私が卒業後、すぐに鉄筋コンクリート作りの新校舎の建設が始まっていったことは「百年誌」から読み取ることができた。戦時下の中、栃商のあの木造校舎が学校工場になっていたことについては受け止めていく必要がある。

 昭和20年8月15日の終戦を受け、中島飛行製作所によって組立治具が解体整理され引き上げられていったと記してある。

 終戦後、転換されていた栃木工業から栃木商工学校を経て栃木商業学校になっていく。しかし、昭和23年(1948)の学制改革から栃木市の財政難を理由に県立栃木高校への吸収案が浮上した。多くの人による存続運動が展開され、昭和25年(1950)に女子部併設とした栃木県立栃木商業高校になり、現在へと続いている。

卒業生と在校生が共に歌える校歌に一部改訂

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 所沢に住んでいた現役の頃から東京六大学野球や高校野球埼玉県大会へ球場に足を運び、よく野球観戦に行っていた。

C23002cd460f42fb2c8e947262010e141  10年前に生まれ故郷の栃木市の戻った時から、春、夏、秋の高校野球栃木大会に観にいくようになっている。とりわけ、母校の栃商の試合が気になり、出来るだけ観に行くようにしている。栃商の試合では野球の応援と併せて球場で栃商校歌を聴く楽しみもあるからだ。

 私にとり栃商校歌は卒業後も己を鼓吹する時に自然と「♪みづきさやけき太平の~ 理想に燃える吾等あり」と軽快なテンポで口ずさんで出てくる校歌であった。 

 作詞の相馬御風(そうまぎょふう)は「都の西北早稲田の森に~」の早稲田大学校歌、「カチューシャ可愛や~」のカチューシャの唄、「春よこい」の童謡など今も歌われている作詞者、詩人でもある。

 7d80452a1 作曲は「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」「雨降りお月」「波浮の港」「船頭小唄」「東京行進曲」の中山晋平になっている。

 ともに日本を代表する名曲を手掛けてきた作詞作曲者であり、そのことが栃商校歌を誇りに抱く気持ちにもなっている。

 「栃商百年誌」には昭和14年(1939)の校歌制定と昭和25年(1950)の作詞一部改訂の経緯が記されている。作詞が戦後に一部改訂されていることを知らなかった私にとり、「何なの?」「どういうこと」と思い、百年誌を紐解いた。

Pa050116_20201011040801  「栃商百年誌」に記載されている経緯を要約すると、「昭和14年(1939)に5年制3回卒業生が母校卒業10周年を記念して体操教師の石崎功氏に記念品贈呈の話が持ち上がり、校歌を贈ることになった。

 作詞は当初は山本有三氏にお願いしたが、山本氏より専門外ということで相馬御風氏が紹介された。当時の校長と石崎氏が相馬氏の住む新潟県糸魚川を訪れ、作詞の依頼を行なった。引き受けた相馬氏の紹介で作曲は中山晋平氏が担当し、旧制高校の寮歌的な趣きのある校歌が完成した」と記述されている。

   戦後の学制改革により、栃商は昭和25年(1950)に女子部が併設されて県立高校になった。同じ栃木市内では、昭和17年に校歌制定した栃木農業高校を除き、相馬御風が校歌作詞した栃木高校と栃木女子高校ではまったく新しい校歌が作成、制定されていた。

 栃商においても戦時下に作成された校歌から新しい校歌作成の話があった。しかし、財政難であることから、従来の校歌の歌詞を一部修正すれば、戦前の卒業生も在校生も共に歌えるということで、校歌の作詞を一部改訂していくことになった。改訂委員には6人の教職員が選ばれ、同年昭和25年の7月に歌詞の一部が改訂された現在の校歌が完了した。

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 戦時下の中での歌詞には、皇国とか、すめらぎ(天皇)などがあり、戦後の新しい時代にそぐわない箇所もある。従来の中山晋平の曲を活かすことから歌詞の一部改訂は当然のことであったと思えてくる。「栃商百年誌」の中の校歌には原詞:相馬御風と記されている。栃商ホームページ掲載の校歌には作詞:相馬御風となっている。正しくは「原詞:相馬御風」ということになる。

旧歌詞と改訂された校歌から歌詞の比較

 相馬御風の原詞と下段( )内が改訂した現在の歌詞を比較してみる。

一、神寂び立てる太平の 山の麓の学舎に

  (みづきさやけき太平の 山の麓の学舎に)

  四海圧する皇国の 興隆の精気血に享けて 

  (希望はてなき日本の 文化の潮血とたぎる)

  見よや商業報国の 理想に燃ゆる吾等あり 

  (  〃        〃      )

二、あしたの庭にすめらぎの 宮居拝みて信固め

  (あしたの庭に友垣の 研さん固く励み合い)

  ゆうべの窓に省みて 真心の曇り打ち払ひ

  (  〃      真如の月のいやましに)

  共に質実剛健の 道一すじに進まばや

  (共に勤倹力行の   〃    )

三、永野の川に身を清め 遠く日光何体の

  (  〃      遠く日光男体の)

  雄姿望めば意気揚がる 報徳の権化二宮の

  (  〃       報徳の欣求伝統の)

  至誠とこしへここに生く 吾等の前途光あり

  (  〃         〃    )

Pa050120 改訂される前の相馬御風の歌詞には、地方の栃商若者たちが太平山、永野川、日光男体山を背景にして皇国の興隆に向けて飛び立っていく姿が作詞され、中山晋平の曲とあいまって生き生きと描かれている。

 相馬御風は大正5年34歳の若さで家族ともども東京から故郷糸魚川に帰住し、隠棲しながら詩作や良寛を研究し、200曲以上の校歌を作詞している。

 大星光史氏は著書「相馬御風・会津八一、人生の歌」の中で相馬御風について、「『自然の前に立つ我』として、明日の糧である米を作る地方人のたくましさを詩作などを通して書いている」と評している。

Pa050118  原詞冒頭の「神寂び立てる太平の~」から改訂詞「みづきさやけき太平の~」には神の宿る太平山から「若々しくすがすがしい太平山」に直され、新しい時代になったことの意味が込められいる。

 さらに、原詞の「四海圧する皇国の興隆の精気血に享けて~」は「世界を圧倒する日本の勢いを盛んになる力を享けて」という意味から「希望(のぞみ)はてなき日本の文化の潮血とたぎる」と改訂し、これからの平和な文化国家を担っていく若者たちには熱い血が沸き上がるという意味になってくる。これらを受けて最後の「見よや商業報国の理想に燃ゆる吾等あり」につながり、原詞と改訂詞が一体化した歌詞になっている。

Pa050119 原詞と改訂歌詞を比較すると昭和25年という年代が浮かびあがってくる。戦後民主主義へと変移していく時代背景の中で、若々しい新鮮な若者たちがこれからの新生日本に向けて歩んでいく姿を読み取ることができる。

 そう考えると、昭和24年(1949)の西条八十作詞、服部良一作曲の「青い山脈」の新しい時代に向かっていく若者たちの姿を歌った作詞に共通しているように思えてくる。原詞を改訂した6人の委員の新しい時代への思いが込められていることが推察される。改めて現在の栃商校歌が素晴らしいものだと実感することができる。

 これからも高校野球を観ながら栃商校歌を口ずさんでいくことにする。

栃商「図書館紀要」の発行

Pa060127 「昭和42年(1967)、本校の図書館は『1966年度図書館紀要』創刊号を発行した。当時の図書館部長であった早乙女先生が提案した企画であった」と栃商百年誌に記されている。

 栃商で図書館紀要が発行されていることを初めて知った。それも私が卒業した昭和42年3月に発刊されていたことになる。「紀要」は学術研究書として「古文所研究所」、大学や短大で発行している。高校で紀要を発行する学校は少ないが、図書館紀要となると、ネットでは早稲田大学図書館紀要しか見当たらない。早稲田大学卒業の英語教師の早乙女祥教諭にとり、早稲田の図書館紀要が頭にあったのではないかと推測する。

 栃木商業高校の窓口に行って、「図書館紀要創刊号(昭和42年3月発行)~最終号の12号(昭和53年2月発行)」を見させていただいた。栃木図書館には5号~8号、10号~11号まで郷土コーナーに置かれてあった。

Pa060133  創刊号の最初は松本弘一郎学校長の「先哲の垂訓」という寄稿文を載せている。在学生徒からの「現代っ子本を語る」という寄稿文。商業科教諭の「現代経済学への琹(きん)、マルクスケインズシュムベータ―」から随想、教諭と生徒の「青春とは何か?」という座談会と読書調査欄が載っている。

 とりわけ眼を引いたのは「図書館講座」である。この図書館講座は以後定期的に開催していっていることに驚いた。創刊号の図書館講座は、「美術書の見方に就いて(塚原哲夫)」、「川柳のはなし(高松祐一)」、「語源について(宮田実)」、「都市化の問題点(白沢久弘)」、「日本経済、どうなるか(鶴見清美)」、「簿記の歴史について(塚越栄治)」になっている。執筆者の高松祐一・宮田身実教諭は3年、1年次のクラス担任であり、白沢久弘教諭には1,2年次に地理、西洋史の授業を受けた懐かしい先生たちの姿が浮かんできた。

 図書館講座の生徒の参加者数は分からないが、以後、放課後等に講座が開かれる案内が図書館紀要に載っており、授業とは一味違った教師と生徒を結びつける講座になっていったのではないかと思える。

Pa060130  創刊号の次からの図書館講座の主な講座名を列記すると、「アラブの心」、「お化けの正体」、「我国経済の過去と現状」、「女と数学」、「宇宙の神秘」、「アメリカの音楽」、「女性と体育」、「樋口一葉の世界」、「原子力と放射化学」、「青年期」、「心について」、「焼け跡の青春時代」、「藤子不二夫のマンがに現れた毛沢東」、「加波山事件発生の史的前提」、「物価が何故上がるか」、「商法改正案解説」、「新しい旋律の1時間」、「民話のふるさと」、「女子高校生の心理」、「歴史に現れた女性」、「日本簿記史の一断面」、「アメリカにおける監査会計の発達」、「私たちと中国の人びと」、「自分の先祖を調べよう」、「光化学スモッグ、その影響」等々、多くの教師が講座に参加していることを見ることができる。

 また、研究ノートとして2号での2年次担任教諭の吉羽和夫先生の「伝承技術は過去のものか」というライフワークである道具史の研究ノートが寄稿、掲載されているのを見て、嬉しさを噛みしめた。

Pa090005   栃木の自由民権運動を研究していた大原悦子さんは、栃商の社会科教諭として14年間勤め、退職後は栃木市女性史研究会など栃木市に生きた女性史の冊子など編集発行する活動をしていた。2年前、亡くなる直前に大原さんから「栃商の図書館は凄い、良い蔵書がたくさんありました。また牛ちゃんこと早乙女先生など個性的な教師が揃っていましたね」というメールをいただいた。

 「ギューちゃん」と呼ばれて親しまれた英語教諭の早乙女祥先生は演劇部の顧問もしていたが、私に、「早稲田の演劇博物館を紹介するぞ」と言ってくれたことを今でも覚えている。その早乙女先生は昭和32年から52年3月まで20年間勤めた栃商から栃木女子高に転任していった。そのためか、図書館紀要は翌年の昭和53年2月の12号でもって廃刊になっている。

Pa090007  栃商の事務室で「図書館紀要」を閲覧し、あわせて、図書室を見せて欲しいとお願いしたところ、教頭先生が私を4階にある図書室に案内してくれた。

 図書室に入り「蔵書が思ったほど少ない」という印象を受けた。案内してくれた教頭先生の話では2011年の東日本震災で校舎の4階、図書室近辺が被害にあい、その時に破棄した蔵書がかなりあったのではないかと説明してくれた。

  Pa090008  確かに教頭先生の説明通り、「栃商百年誌」の中では、東日本大震災により「本校舎の管理棟4階東の部分が南側に傾くという大きな被害を受けた。その後、管理棟4階の東部分(旧進学学習室・ブラウジングルーム・書庫)は減築され、隣接した図書室は改修となった」と記載されてある。4階の東部分が減築されているということになる。

Photo_20201013052401     早乙女教諭は図書館紀要3号(昭和43年10月発行)の中で、「本館4階の全てを占有して、新図書館は成った。積年の望みが、積年の無数の人びとの努力によって成ったのである。現在の生徒諸君数千人たち、その視えない、凡そ、ひとりびとりでは、か細く、貧しい手の群れによって、この新しさが生まれたのだと言っても良かろう」と4階フロワー全部に新しい図書館が設置されたことの喜びが記されている。

  さらに、「この図書館にも大正期創立当時の蔵書がある。それは旧図書館に積まれたまま日の眼を見ることはなかった。いま、新書庫によって再び蘇り、無言の祝福をわれわれに与えているように思える。古きものも、新しき力によって、新しく生き返らせねば」と記し、大正期からの蔵書が蘇ることに感動している。

 案内してくれた教頭先生にはお聞きすることができなかったが、大正時代創立期の蔵書が東日本大震災の被害を受けて、現在も書庫に現存しているのかどうか、あるならば見てみたい気持ちもするが、いずれ機会があったら訊ねていこうかと思う。

Pa090011  早乙女教諭は栃商を去る際に「図書館紀要11号(昭和51年12月発行)」に編集覚え書きとして、「この学窓を去ってゆく人々が、例えば、卒業アルバムを時に触れてひもとくように、この小さな冊子(図書館紀要)を見てくれればいいと思う。これは決して消極すぎる願いではない。先頃死んだフランスの名優ジャン・ギャバンの代表作に『大いなる幻影』というのがあったが、文字という伝達法は執拗な幻影であると思うからである。急ぐ必要ない」と結びにかえている。

 ジャン・ギャバンの「大いなる幻影」は観ていないが、「栃商100年誌」を読みながら、あるいはながめ乍ら、文字によって私に伝わってきたものは何なのか。そう問いかけてくる。高校時代の十代のころに思いをはせ、蘇らせることだったのか。早乙女教諭が言う100年という事実の世界を幻影の領域としてを見ることができたのか。…分からない。「栃商百年誌」の後半部分から現在にかけてはまだ読んでいないので、これから急がずに読んで、考えていくことにする。

                    《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

「栃商百年誌」(平成29年10月、栃木県立栃木商業高等学校発行)/「栃商同窓会会報誌第24号」(平成30年6月、栃木商業高等学校同窓会発行)/「栃商図書館紀要創刊号~12号」(昭和42年3月~昭和53年2月、栃木商業高校図書館発行)/大星光史著「相馬御風・会津八一 人生と歌」(1982年4月、考古堂書店発行)/「栃高百年史」(平成8年11月、栃木県立栃木高等学校発行)/「栃木県立栃木女子高等学校創立80周年記念誌」(昭和56年10月、栃木県立栃木女子高等学校)/「栃農百年誌」(平成18年10月、栃木県立栃木農業高等学校発行)

 

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建築道具館ー神輿職人・赤穂新太郎の道具展示

P9040066 江戸期、栃木市蔵の街大通り(例幣使街道)中央には川幅一間の清らかな用水が流れていた。江戸初期には町人の飲料水となり貴重な用水の役割を担っていた。

 この用水堀の源は現在の万町交番にあった北木戸口の北方にあった大ぬかり沼から流れていた。

 栃木市史史料篇近世の冒頭に掲載されている「例幣使街道栃木宿絵図」には多数の杭が両岸に打たれている大ぬかり沼が大きく描かれている。

P9040067  大ぬかり沼に注ぐ用水の一つに大杉神社からの湧水が源になっている。

 湧水から大ぬかり沼に流れる堀川は他の湧水と合流して大ぬかり沼がつくられていた。現在は埋めたてられた大ぬかり沼の上を昭和7年に開通した道幅十間の北関門通りが合戦場町に向けて通っている。

 何時、大ぬかり沼が埋めたてられたのか?栃木市役所にメールにて問い合わせをした。栃木市文化課より「天保14年(1843)~明治9年(1876)までの間に埋めたてられた可能性が考えられます」と絵図を検証しての回答があり、「明治9年12月の字引絵図『下野国都賀郡大杉新田図』には、当該場所付近に既に番地が交付されており、人が居住できる状態にあったものと考えられます」と既に大ぬかり沼跡には人が住んでいたという回答を受けた。幕末から明治初期にかけて大ぬかり沼が埋め立てられていったことを記した古文書など新たな史料が見つかれば、栃木市の歴史の流れが明らかになっていくと思えた。

P9040070  大杉神社(栃木市大町14-2)は慶長年間(1596~1615)に天海僧正が深く大神の霊感を感じ、常陸國安波の今宿大杉神社より御分霊を勧請して創建されたと云われている(下野神社沿革誌・明治36年)。

 当時、この一帯が大ぬかり沼、長沼などの湧水から生まれる沼沢地としての景観が霊感を感じさせたのかもしれない。

 この大杉神社の西側は一段盛り上がった地帯を例幣使街道が通っている。

P9040074  鳥居から西側の例幣使街道沿いに出ると、かつて宮師・神輿職人、六代目伊豆守則直こと赤穂新太郎さんの作業場が街道沿いにひっそりと建っている。

  平成10年(1998)に赤穂新太郎さんは亡くなっているが、この作業場にはかつて100年以上継承されてきた鋸(のこ)・鉋(かんな)・鑿(のみ)など586丁の道具があり、電気ドリルは一つもなかった。すべてが手仕事職人の世界であったことを物語っている。

003-2_20200911064201  赤穂新太郎さんは大正5年(1916)に栃木市大町・建具屋「建長」の父、長吉の長男として生まれている。父・長吉は大正3年(1914)に五代目宮師を四代目真坂鉄次郎(栃木市都賀町家中)から引き継いでいた。そして、昭和30年(1955)に六代目宮師を父・長吉から継承されている(吉羽和夫著「神輿職人と技の詩」より)。

 神社の本社をつくるのは宮大工と称されているが、宮師とは建具職人を経て、神社に祀られる小さなお宮や御神輿を専門につくる職人を称している。また、栃木市史民俗編では赤穂新太郎さんを宮大工として紹介しているが、それは宮師の誤りである。

026  東京都新宿区高田馬場3―11-2内藤ビル301号室にある社団法人全日本建築士会事務所内に赤穂新太郎さんが持ち、使用していた128種586丁の道具が基本になり、平成2年(1990)に「建築道具館」として開館、展示されている。

 全日本建築士会(会長・上岡秀休)は昭和33年に設立され、中小の工務店、設計事務所の技術者6000名で構成されている。その活動は1・2級建築士受験講座の開催や月間会誌「住と建築」の発行や各種ゼミナーを開催し、木造住宅の伝統を守り発展させていく活動を行なっている建築士の団体である。

Img_00391  「建築道具館しおり」には赤穂新太郎さんのプロフィールを次のように紹介している。

 『赤穂新太郎さんは尋常小学校当時から父親の仕事場の片隅で、見よう見真似の手仕事に就く。早くから鋸や鉋を器用に使いこなしたが、それが四代目、五代目の目にとまることになった。尋常小学校卒業と同時に、本格的な建具づくりを覚え、二十歳を過ぎる頃には、建具全般から各種の家具、また船づくりも手がけた。やがて、五代目のお宮やお神輿づくりを手伝うようになり、建具職人から宮師の道を歩み始める。

  三年の軍隊生活を除いた、三十数年の建具づくりを経て昭和30年(1955)5月伊豆守則直六代になる。六代目になってからの主な仕事は、お宮と神棚、そしてお神輿づくりで、最初に六代銘のお神輿は、昭和30年(1955)東京は芝白金、志田町の注文によるものだった。以来、栃木市内の仕事場で宮師として働く』

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 後継者のいない赤穂さんにとり、生前より代々受け継いできた道具をどうするか思案していた。そんな折に赤穂新太郎さんの技と道具を「最後の職人・御神輿師」(昭和55年、1980年発行)として表した著者の吉羽和夫氏の仲立ちにより、全日本建築士会として道具展示の構想が生まれ、開館について協議が行われた。

 そして、匠の心を受け継ぎ、日本の伝統的な木造建築文化を継承していこうと考えている全日本建築士会として、平成2年(1990)に全日本建築士会付属建築道具館を開館をしている。

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 全日本建築士会スマイルネットには、「この道具館設立を知った会の内外の方々から、貴重な道具の寄贈がつづいています。使い

手の温もりが残る道具を揃えたユニークな道具館として、建築道具館は着実に歩み続けていこうとしています」と紹介され、「単に古いとか珍しいという意味で集められた道具ではなく、使い手に守られ、また鍛えられ、日々その技を木に伝えてきた生きた道具を集めた独特の道具館を目指している」と開館主旨が記載されている。そこには木と向き合う木造文化における道具として価値評価が含まれていると思えてくる。

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 全日本建築士会建築道具館に私が訪問したのは、今から6年前の平成26年(2014)の9月であった。全日本建築士会事務所内の北側と西側の壁一面に道具が展示されていた。

 「国際技能オリンピックの際にフランスの技能士の方たちが見学に訪れたり、近くの小学校の課外授業としてお見えになっていますよ」と私を応対してくれた事務局の人が話してくれた。

017  入って右の南側に白木神輿が展示されているのが目に入った。

 昭和25年(1950)の赤穂新太郎さん作成の習作神輿の展示である。

 吉羽和夫著「神輿職人と技の詩」の中で赤穂新太郎さんがお神輿づくりについて語ってある箇所が次のように記載されている。

 「御神輿ってのはね、御神体の乗物なんですよ。今流にいえば、さしずめ御神体の自動車ってとこだよね。昔は乗物に輿ってのがあったでしょう。それで御神体の輿ってことから、御神輿というよび名がでたんですよ。だから、御神輿は御神体を移動するのに使ったもんで、形としてはお宮のミニ版としてできたんだよね」。

 「移動する輿なんだけど、お祭りのお神輿は落とされるもんだよ。だから、つくりは頑丈でなければならない。受ける力を少なくする仕組みが必要。その役目を斗組(ますぐみ)がしている」

B25342788511  さらにお神輿の構造として、「屋根、斗組み、胴、高欄、台輪の五つからできており、ホゾで仕上げていくことがほんとの御神輿なんです。担がれる御神輿は何といっても建具の華です」と赤穂さんは語っている。

(注)ホゾ組み…ホゾ(凸)を作った材をホゾ穴(凹)を開けた材に叩き入れ木材を結合させる建築技術

 著者の吉羽和夫氏は、当初、建具づくりの名人として赤穂さんに会ったのが、昭和53年(1978)の5月であった。道具の歴史を専門にしていた吉羽氏は栃木市大町にある赤穂さんの作業場に通い、赤穂さんから「実技なしの手の道具とつくりにある技」を学ぶため通っていた。その時、お神輿づくりをしていた赤穂さんからの説明は難解であったと著書に書かれてある。

1244371  それでも昭和55年(1980)に「最後の職人・御神輿師」という表題で赤穂新太郎さんの建具職人から宮師・神輿職人の技と道具について書きあげている。さらに、10年後の平成2年(1890)に建築道具館開館にともなう赤穂さんの技の書籍として「神輿職人と技の詩」を発刊している。その粘り強さと執着に驚かされる。

 著書「神輿職人と技の詩」の中で、赤穂さんと向き合い、著者が関心を深めた箇所が記述されている。それは、「お神輿づくりには、建具づくりにあるすべての技、それより高度な技が求められている。その技を手にお神輿はつくられるが、そこにも固有な技ー建具づくりはとらえられない技が必要で、お神輿づくりならではのものといってよい。それは、動くことを前提にしたものであって、どこに技を集中させるかということをあえて(赤穂さんに)聞いてみた」と赤穂さんに突っ込んで聞いている。

Photo_20200910163301       「赤穂さんからは、『斗組みってこともあるけど、つめていえばホゾの具合、そのホゾづくりに勘どころがあるんだよ』と言って口を閉ざしたが、お神輿づくりにある究極な技が、建具づくりを象徴するホゾ組みあると理解できる」と結んでいる。

 ホゾ組みは木造住宅の軸組み工法として日本の木造建築の技の極意にもつながる見解でもある。

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 『六代目伊豆守則直 赤穂新太郎さんの586丁から』という見出しで展示コーナーの中に解説案内文が掲載されている。

 その内容は、「ここにある道具は、すべてがたった一人のつくり手に属しています。日々使い込まれ、改良されながら昨日まで作り手となり指先となって働いたものばかりです。江戸時代からのものもあり、名匠の手になる逸品もありますが、それがここに集められている理由ではありません。

023  私たちはガラスのケースに陳列して鑑賞する道具ではなく、使い手の技と魂を語ることのできる生きた道具を集め、保存していきたいと考えています』と建築道具館展示の主旨が記されてある。

  展示されている道具は、鋸(13種)、鉋(39種)、鑿(17種)、罫引(6種)、錐(6種)、彫刻刀(5種)、小刀(4種)、そのほかチョウナなど(34種)になっている。また赤穂さん以外の大工さんを中心にした道具が入り口右の西側に展示されている。

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 「神輿職人と技の詩」の中に、赤穂さんが「道具を使うのにはね、力はいらないんだよ。力で削ったり、切ったりしようとするから無理がいくんで、自然に切っていけばいいんだね。削ったり切ったりするのは、手でも腕でもないんで鉋だし、鋸でしょうな。だから、その鉋なり鋸が切れるようになっていればいいんで、力はいらないんだね」と吉羽さんに道具に接っする勘どころ等を語っている箇所等数多く書かれてある。

 「もの言わぬ道具が主役になり、人の技と心を語り始めるとき」と書かれてある建築道具館しおり。

 道具館を見ながら、大工さんなど建築関連に従事している人には手づくりの道具として大変参考になると思えた。しかし、専門外の私には今一つ「人の技と心を語り始めるとき」が見えてこなかったことが正直な感想として残った。 

019  それにしても北関東の小さな街の栃木市の神輿職人の道具が、東京の新宿高田馬場のビルの一室にどうして展示されてあるのか。そのことは何を意味するのか?そう私に建築道具館に展示されている道具から問いかけられたような気持になった。

 吉羽和夫氏の著作本には、赤穂新太郎さん本人の話を随所に盛り込み、建具づくりの基礎から職人と道具についての考察が描かれている貴重な著書になっている。しかし、赤穂新太郎さんがつくったお宮やお神輿の一覧表が著書に記載されていないのが残念なのだ。

 道具を通しての職人像に加えて、栃木で生まれ、神輿職人として生きてきた赤穂新太郎の作品を神社等現地で見てみたいと願うのは自然な気持ちではないかと思えてくる。そこから、赤穂新太郎さんがつくり上げた作品を通して、それを生み出した栃木のまちなどを思い浮かべることができると思えてくるからである。

006-2  栃木市嘉右衛門町例幣使街道沿いにある岡田記念館に総丈170cmの「塗り大神輿」が例幣使街道沿いに展示されている。

 大神輿の前には「万延元年(1860)十月弐拾八日 大工棟梁・平内木隅門人 石川吉蔵」と記された大神輿の縁起が掲示されている。彫工には栃木生まれの孤高の画家・田中一村の父、彫師・田中稲村の師匠筋の後藤流二代目渡辺喜平治正信の名前も記されている。

 そして最後には、「昭和52年1月16日大修復、栃木市大町 建具職・赤穂新太郎」と名前が記されている。赤穂新太郎さんがつくりあげた大神輿ではないが、大修復を行なった大神輿として展示されている。

 この嘉右衛門町岡田記念館大神輿については「目で見る栃木市史」のなかで、栃木宿の木戸の内と外の嘉右衛門町における商圏の対立を背景につくられたと記してあるが、携わった職人たちの名前だけが記載されているだけである。

 名もない職人が手掛けてきた道具や家具類などは生活の中で今も息ずいてきていることをどこか見落としているのかもしれない。職人の道具を通しての技など見落としているものが多々ある。生活に根付いた文化を見つめていくことも必要であると思えてきた。

                     《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

「栃木市史史料篇近世」(昭和63年12月発行)/「目で見る栃木市史」(昭和53年3月発行)/「栃木郷土史」(昭和27年9月発行)/吉羽和夫著「最後の職人 御神輿師」(1980年12月河出書房新社発行)/吉羽和夫著「神輿職人と技の詩」(1990年3月データー・システム発行)/吉羽和夫著「職人」(平成10年11月丸善発行)/全日本建築士会「建築道具館」(所在地・東京都新宿区高田馬場3-23-2内藤ビル301、電話03-3367-7281)

〈追伸〉

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 「神輿職人と技の詩」の著者の吉羽和夫氏は、私が栃木商業高校2年の時の担任教諭でした。栃木図書館で吉羽先生の赤穂新太郎関係の著書を偶然に見つけた時、こういう世界で生きていたんだなと驚き、うれしい気持ちになった。

 また、会誌「住と建築」の縁で新宿区高田馬場の全日本建築士会の会議室で吉羽先生と高卒以来に再会し、同席していた赤穂新太郎さんにお会いしたのは、今から35年前の話になる。

 私の名刺を見て、赤穂さんは「万町交番裏に私の同級生だった勇次郎と同じ名前だな」と話したが、「その人は私の叔父です」と応えると、私の顔を懐かしそうに見つめた。どこか山伏の雰囲気のする容姿であったことを覚えている。叔父とは戦友ではなかったのではないかと思えてくる。

 50歳の時、年賀はがきの文面に「家庭菜園を行ない、大地に帰る準備をしています」と書いたところ、吉羽先生から「大地に帰る準備ではなく、大地と共に生きることでしょう」との返信はがきが届いた。「50歳の関所」を迎え、悩んでいた気持ちを見透かされたと思い、高校教諭の鋭さと怖さを感じたことを今でも覚えている。

 平成15年(2003)に亡くなられた吉羽先生が探求した道具の歴史にはとても及ばないが、やれる範囲で歴史を学んでいくつもりでいる。

 参考資料に記載した3冊の吉羽和夫著書の書籍はほかに、「原子力問題の歴史」(2012年2月河出書房新社)・「物づくりと博物館:消えた手仕事の世界」(2002年9月科学新社)・「消える籠職人」(1994年3月玉川大学出版部)・「自然味の職人たち:砂糖・塩・醤油」(1993年1月新日本出版社)・「ワインと博物館」(1986年2月共立)になっている。機会があれば読んでいきたいと思っている。

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栃木市万町の近龍寺「涅槃図」を観る

P2240001  「今年の梅の木、お花、いっぱい咲いたわね」と妻が庭先に咲いた小梅の木を見てつぶやいた。「去年、剪定をしたからだ」と私も得意げに話すと、「わたしは白梅ではなく、桃色の梅の木にして欲しいと言ったのよ」と言い返してきた。

 「今年は小梅がたくさん成るな」と実感する。

 去年は5月に退院し、自宅療養のため数少ない梅の実を採ることができなかった。4月末の再検査如何によるが、今年は何とか小梅の実を採り、カリカリ梅を作っていきたい。

P2080026  本堂内左脇には大きな「涅槃図(ねはんず)」の掛軸が飾られてあった。二間(3.6m)四方もある大きな「涅槃図」に息を飲む。

 「2月15日がお釈迦様の入滅の日になっていますが、2月一杯飾っております。江戸後期に描かれたものと思いますが、カメラでの撮影は拡散されるので固くお断りします」と住職は突然の来訪者である私を本堂に案内してくれた。

 栃木市万町にある古刹、浄土宗「三級山天光院近龍寺」。中国の故事に鯉は三段の堰を上ると龍に転じて天に昇るところから、その名が付けられたといわれている。

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 境内には平成22年(2010)に三佛堂(聖観世音菩薩さま、旧地蔵堂のお地蔵さま、子育安産・学業成就の呑龍上人などを祀る)が建立されている。また、北側の墓地には文豪山本有三の墓地などがあり、栃木市在住の著名人のお墓などたくさんある。

 「万町とはヨロズチョウと読むのですね」と小学6年のころ、他県から赴任してきた先生が言ったことが思い出される。私の生家は万町交番裏の東裏通り(通称明治座通り)にあり、家の前には万福寺用水が流れていた。その用水路沿いに近龍寺があった。呑龍さんのお祭りの日には近龍寺に遊びに来て、山門前の出店「煎餅焼き」を食べた記憶がある。

 明治・大正と栃木町の第二小学校、栃木女学校で過ごした女流作家の吉屋信子は、昭和33年(1956)に「暮しの手帖」に「おもいでの町―栃木」を執筆している。

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 令和元年(2019)10月10日の栃木市文化講座「吉屋信子の生涯と作品世界」の中で、講師の元栃木女子高校長、吉屋信子記念会副会長の藍田收氏から「おもいでの町―栃木」が紹介された。講師にその作品が載っている本を訊ねたところ、後日コピーが私のもとに送られてきた。

 「おもいでの町―栃木」には「川のある町」「母校の庭」「町裏」「祭の町」「涅槃図を観た寺」と栃木町で暮らしていた頃のことが、簡潔に執筆されている作品になっている。

 とりわけ「涅槃図を観た寺」では寺の名前が記されていないため、藍田氏に電話したところ「近龍寺ですよ。2月8日に近龍寺へ行けば観ることができます」と教えていただいた。2月8日の早朝、扉が開いている玄関口に立ち、本堂に飾れてある「涅槃図」を観ることができた。

 簡潔に近龍寺「涅槃図」ことが綴られている文章は堂内に飾られてある光景とそれを観る少女の姿が伝わってくる。短い文面になっているので、全文を記載させていただきます。

…………………………………………

おもいでの町―栃木―

 涅槃図を観た寺

          吉屋信子 著

 この小さな町としては堂々たる寺院だった。

 子供のわたしはこの寺で涅槃の絵を見た。

 お釈迦さまが入滅の床に大きなお姿を横たえていられる傍の沙羅双樹(さらそうじゅ)の梢の上に白い月が描いてあった。

 そのまわりに仏弟子と共に、あらゆる獣や鳥も集まってお釈迦さまへの別れを悲しんでいた。虎が両手を顔に当てゝ泣いていた。

 そのなかに〈猫〉だけが居ないのだと聞かされて、わたしは背教者の猫がその時、仲間はずれの堪えていた気がしてかわいそうだった。

 その――金泥と胡紛で描かれた涅槃絵をわたくしはいつまでも眺めていた。

 寺のねはん会のある早春の一日の真昼だった。

       「暮しの手帖34 1956」より

…………………………………………

 広い本堂の本尊左側に飾られてある近龍寺の涅槃図。たくさんの動物たちが描かれている中に左下に猫が描かれている。吉屋信子は見落としたのだろうか?それとも涅槃図には猫は描かれていないという思い込みがあったのだろうか?

 一説によると、沙羅双樹の木に引っかかった薬袋を取りに行こうとしたネズミを猫が邪魔したため、お釈迦さまが薬を飲めず亡くなったということから、涅槃図には猫は描かれていないという。しかし、生きとし生けるものは釈尊の涅槃を嘆くとして、江戸後半期の「涅槃図」には猫が描かれるようになったといわれている。

 P2080020  近龍寺の創立から堂塔伽藍などを記述した八百谷孝保著の「近龍寺雑記」に享保12年(1727)の本堂内の様子を次のように記されている。

 「本堂は西向きに建てられ間口七間半奥行六間半の向拝付である。内陣・外陣・御所の間二つ・次の間二つとなっている。内陣には中央に阿弥陀三尊、脇に可ト上人御影(木造椅子)、代々並びに三界万霊の位牌を安置し、その前に前机をそれぞれ置き、上に燭台、花立、香炉、盛物台銅仏器を置き、前に導師用礼盤をすえる。又、喚鐘、大鏧、鉦鼓、双盤、鐃。鉢等を供えており、まわりには華曼四面、幡六流をかけ、天井からは天蓋をつるしている」

 この文面から本堂内のあでやかさという雰囲気が伝わってくる。

 その豪華な近龍寺本堂内に飾られた涅槃図のお釈迦様は、画面中央、宝台の上に頭を北に向け、お顔を西に向けた姿で描かれている。本堂は西向に建てられていることから涅槃図そのものが「頭北面西」ということで飾られていることになる。西方浄土を連想させるあでやかな掛軸である。静かに首部を垂れる私がいた。しかし、写真に撮ることができなかったのが残念……。

 近龍寺を訪れるたびに向拝堂上に飾られるてある龍の彫り物が気になっていたが、迫力ある龍の彫り物である。彫師は「近龍寺雑記」に文化3年(1806)本堂再建の際に棟上記録から大工13人の名前の次に彫物師棟梁として「秋葉金次郎宗玄」と記されている。何者かはネット検索では出てこなかった。おそらくは東照宮彫刻の流れの中の彫師ではなかったのではないかと推測する。彫師「宗玄」に注視していきたい。

Pb300103  本堂玄関口を出ると、塀に囲まれた墓地がある。墓地内には釜屋系列の四代目善野喜兵衛の墓石がある。「歌麿活を活かした街づくり協議会」によって「案内標識版」が歌麿のゆかりの人物や建物跡地に建てらてある。

 善野喜兵衛は狂歌師「通用亭徳成」を名乗っていた関係で喜多川歌麿が何度か栃木町に来たといわれている。歌麿の大作、肉筆画「品川の月」「吉原の花」「深川の雪」は豪商善野家の依頼で栃木町で描いたといわれている。しかし、実際に歌麿が栃木で肉筆画を描いたという古文書など史料はなく、推測になっている。

 確証としての史料を探している人はいると思えるが、歌麿の画法など研鑽することより観光キャンペーンとして「歌麿まつり、花魁道中」を栃木市が力を入れて取り組んでいることに疑問もある。市教育委員会から「花魁道中」はまずいということから「歌麿道中」と名称を変えての開催する(令和元年は台風水害のため中止)。吉屋信子が「ときの声」の中で記している人身売買のデモステレーショである「花魁道中」を臆面もなく実施していく栃木市。歴史博物館のない栃木市の歴史への思いをみるようである。

P2240004  2月早春の朝日をあびて「ポン太」は発泡スチロールの箱のなかで佇む。体重6.7キロの大きな猫だが、汚い水を飲んだせいか、口内炎になってしまった。私も入院中に口内炎にかかり、食事に苦労した経験がある。

 3週間に一回、動物病院に連れて行き、痛み止めの注射をしてもらいながら、1月22日に歯を2本抜いた。口内炎を治すための抜歯であったが、結果はまだ分からない。動物病院に連れて行かれるのが嫌で、私の姿を見ると逃げることもある。「お前のために病院に連れて行っているのが分からないのか」と怒鳴ってても、関係ねいといって外に飛び出していってしまう。

 2月はもうすぐ終わる。ジャガイモの畝づくりを始めていくことにする。

           《夢野銀次》

≪引用参考資料本等≫

吉屋信子著「おもいでの町―栃木―」(『栃木の文学収録』収録、平成18年9月栃木県高等学校教育研究会国語部会発行)/一行院住職八百谷孝保著「近龍寺雑記」(昭和45年11月、近龍寺発行)

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