栃木のまち

江戸からの継承ーとちぎ秋まつり「山車人形」

082  山車の最上部に鉾をかまえて立つ「張飛」。前方を鋭い眼鏡で睨み、「張飛、これにあり、死にたい奴は勝負しろ!」と曹操軍に叫び、劉備を逃がす「三国志・長坂の戦い」。東京日本橋の雛人形師、三代目原舟月が製作した山車人形を見上げる。

  三国志の中で劉備、関羽と義兄弟を結び、最も豪放磊落な猛将と詠われた張飛翼徳。一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛され、一世を風靡する剛勇の持ち主であったと云われている。まさにその風貌、風格が山車人形として再現されている。

 …巡行前の「張飛」の山車人形。もう一度見上げる。鬼気迫る風格を漂わせてくる。

039_3   山車の上段幕には「朱雀」「青竜」「白虎」「玄武」の四神刺繍となっており、金糸・銀糸で施されている。お囃子の台座には朱塗りの金箔の竜の彫物。黒檀地板には眼鏡の光る唐獅子の彫物が施されている。高度な技は艶やかな山車になっている。高さ7.6mの高い壇上から見下ろす「張飛」に圧倒される。

102  平成28年11月13日の「とちぎ秋まつり」。快晴の小春日和の中で絢爛豪華な山車人形9台が栃木市蔵の街大通りを華やかにお囃子にのって巡行する山車人形を観る。

  町内から練出し、巡行する山車人形は、「劉備」(万町1丁目)、「関羽」(万町2丁目)、「張飛」(万町3丁目)の三国志に「静御前」(倭町3丁目)、「神武天皇」(倭町2丁目)、「仁徳天皇」(嘉右衛門町)、「弁慶」(大町)、「諌鼓鶏」(泉町)、「桃太郎」(室町)、都合9台の山車人形と「獅子頭一対」(倭町1丁目)。

  2年に1回のとちぎ秋まつり山車人形巡行は、神社の祭事としてではなく、実行委員会形式による市民イベントとして開催していることに特徴がある。

095_3  明治7年(1874)、倭町3丁目有志が江戸日本橋から購入した「静御前山車人形」と宇都宮から購入した泉町有志の「諌鼓鶏山車人形」が、栃木町にあった栃木県庁舎内神武祭に曳かれたことが始まりになっている。

 これを機に栃木町民の山車への関心が高まり、明治26年(1893)の栃木県最初の商業会議所開設の際に、3台の「三国志山車人形」と「神武天皇人形」の計6台の山車人形で商業会議所開設祝典に巡行されている。「張飛」を含むこの4台の山車人形は日本橋雛人形師原舟月から購入したもので栃木町問屋商人の新たな拠点としての商業会議所開設を祝った。

  その後には、明治39年(1906)の栃木町神明宮・招魂社祭事では室町の「桃太郎」が参加し、大町の「武蔵坊弁慶」、嘉右衛門町の「仁徳天皇」と次々と作成され、天皇ご大典奉祝祭、市制施行祝賀祭に加わるようになる。そして、昭和36年(1965)の市制25周年記念祝典より5年に1回の定期開催とした。山車人形の保存と常設会場として、平成7年(1995)に「山車会館」が建てられ、これを機に平成18年(2006)以後から2年に一回の隔年開催になった。

Sizuka1105_2  明治7年(1874)に、嘉永元年(1848)作品と言われている松雲斎徳山の山車人形「静御前」は、東京日本橋瀬戸物町、小田原町、伊勢町の3町から栃木町倭町3丁目有志によって688両で売却された。おそらく日本橋から巴波川舟運で「静御前山車人形」は栃木町に運ばれたきたものと思われる。

  昭和55年(1980)に千代田区教育委員会が明治以後に「天下祭」で巡行し、地方に流失されていった「江戸型山車」について調査を行ない、「江戸型山車のゆくえ」と題して報告書を発行している。今回、栃木県立図書館でこの「江戸型山車にゆくえ」を閲覧拝読することができた。

088  報告書に「栃木市の山車」の項目があり、現地調査を含めた報告が記載されている。昭和12年(1937)に栃木の大工、竹政栄吉によって静御前山車人形の社台が大修理されたこと。山車は錦絵「東都日枝大神祭礼練込之図」の山車と全く同じものであることが記されている。また同一の「静御前」は青梅市にあることから、日本橋の3町では「静御前」をそれぞれ売却していったと記述されている。

  尚、報告書では栃木の山車について「青梅市のように改造によって原形を失った山車と違い、祭礼番附や錦絵で見るような山車が、江戸以来の姿で飾り付けられていること」に驚きと称賛の報告になっている。

026 報告書では、「江戸型 天下祭の山車の原型は牛車に曳かせる二輪車(これが三輪ないし四輪に改造または発達)の上に人形が飾られ、しかもその人形が上下するものである」と江戸型山車人形を規定している。

  さらに「三層の構造物からなっている山車人形には、最上部には人形が飾られ、つぎの層は水引幕に取り囲まれた枠で、人形はこの二層目の枠内を上下できるようにつくられている。二段上下可変式のカラクリ(機構)を持っているのが特徴になっている。基部の前半部はお囃子方が乗るスペースがある」と分かりやすい解説が記載されている。

031 「江戸城内、吹上上覧所を経て常盤橋門外で解散し、再び自分の町に帰るまでに、俗に江戸城36見付と呼ばれた城門を6から12回くぐらなければならなかった。江戸城城門の門扉の高さは約4.4m。城門を通過する場合、高さ4mが限界とされているため、江戸型山車は二段階のくり上げ・くり下げ装置(エレベーター)が必要としたのだ」と記述されている。

  徳川時代、江戸城守護を司る日枝神社と江戸の町の守護神、神田明神の御神輿・山車は江戸城に入城し、三代将軍家光以来、歴代の将軍が上覧拝礼するところから「天下祭」と称されてきた。最盛期には神輿3基、山車60台の大行列が江戸城内から江戸の町を巡行していたと云う。

068_3 将軍家の公式行事として扱われた「天下祭」には祭祀に必要な調度品の費用や助成金の交付、大名旗本からの動員が行なわれるなど、幕府からの手厚い保護のもとに存続してきた。しかし、明治の御一新によって、徳川幕府は崩壊し、「天下祭」が終焉した。

 日本橋界隈を中心にした町内は山車人形の維持が難しくなり、地方への山車の放出につながっていくことになる。

   とちぎの山車人形の巡行を観ながら、大阪城築城の石垣の石を運ぶ絵を思い浮かんできた。山車は石垣を運ぶ台車に似ている。報告書「江戸型山車のゆくえ」の中にも、慶長8年(1607)から始められた江戸城拡張工事としての天下普請に江戸型山車の起源があると記されている。江戸城築城における 巨大な石を運ぶ光景は「山車人形」という姿になり、天下祭として江戸町民の心を捉えた祭になっていったのかもしれない。

058   明治26年(1893)に三代目原舟月より購入した三国志の「劉備玄徳」、「雲朝関羽」、「翼徳張飛」の人形は綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)の衣服に覆われ豪華な姿を放っている。しかし、日清戦争の勃発により、敵国の英雄を飾ることに異論が出された。そのため追加人形として「天照大神」、「日本武命」、「豊臣秀吉」、「素盞鳴尊」(いずれも三代目原舟月作)が作られた。そのため現存の山車9台に対して人形は13体になっている。

 ただし「秀吉」人形は馬に乗っていて人物が小さいということで、現在は山車会館での展示のみになって、山車人形として巡行はしない。

046  その明治26年の山車の製作費として、栃木市史民俗編の中で「万町1丁目2,000円、万町2丁目に2,500円、万町3丁目に3,000円を要したと伝えられている」と記述されている。山車3台、人形7体の製作費7,500円を原舟月に支払ったことになる。現在の価格で言えば、1円を2万円とするならば1億5千万円になる。

 報告書「江戸型山車のゆくえ」では、祖父から聞いたとび職の石関三郎氏の話として、「原舟月の方から3台で4500円でという申し入れがあり、万町3丁目の素封家、桜井源右衛門氏が、3台中もっとも気に入った山車(張飛)を2,000円で買取る契約をし、他の2台については万町1、2丁目にまかせたという。その結果、1丁目が1,500円、2丁目が1,000円でそれぞれ買うことが決まった」と3台を選んで購入したことが記載されている。

  さらに、薬屋を営む高田安平氏夫人の話として、「東京の原舟月に山車を注文したのが明治25年の8月。値段は3,500円で出来上がったのは翌26年3月のこと。その間にうちの父は舟月のところに何度も行きました。日本橋石町に住んでいて、仕事場は岩附町(現在の中央区本町3丁目辺り)にあった。舟月さんは小柄な人で丁髷を結っていた」と注文から納品までの期間を記載している。

094  この2人の話から、報告書「江戸型山車のゆくえ」では山車購入の価格より、3台の山車から桜井氏が1台を選んだということと注文から納入までの期間が7か月という短期間であったことに着目し、3台の山車は予め出来上がっていたと推測している。

  そこから、「当時東京では不要になった山車が、続々と地方に流出していた時期であり、舟月も仲秀英(同時期の雛人形師)と同じく流出の周旋を業としていたことの一端が、現在の栃木の山車に伝承として残された」と記し、「重要なことは、山車を注文制作させたのか、放出品を買ったのかということは問題にならない。この超一流の江戸型山車が栃木市の山車保存によって、受け継がれていることに大きな意義がある」と指摘を行なっている。江戸型山車が完璧に継承されてきていることに惜しみない賛辞が記されている。

072  「栃木市史」に記述さている山車人形の価格が7,500円。現在の価格で1億5千万円とするならば、高額な金額になる。町内の有志で購入できたことは、当時の栃木町民の持つ財政力は相当なものだったと改めて驚かされる。

  江戸後期から明治の初めにかけて、江戸東京と結ぶ巴波川舟運によって麻問屋・荒物問屋などが関西・東北方面に進出をし、「問屋町栃木」の名を全国に広めていった時期である。それは、明治17年(1884)1月の宇都宮への県庁移転や明治18年の東北線が栃木を通らなくなっても栃木の問屋支配網は崩れることなく拡大発展をしていったと云われている。全国麻生産の9割を占めた栃木県南西部に位置する栃木町の問屋商家。おそらく、国民皆兵による軍隊の創設が麻使用の軍服や軍備品の需要によって麻の増加が飛躍したのではないかと推測する。

007 明治4年に栃木町に総額8296両で建設された県庁舎。そのうちの42%にあたる3708両は地域住民が負担している。栃木町民、とりわけ栃木の問屋商家が中心に負担していると予測できる。

 さらに、明治34年(1901)の栃木女学校(現在の栃木女子高)創設費用3万円の内、1万円を地域住民からの寄付で賄われている。現在の1億5千万円。これも栃木町の問屋商家が中心に負担していると予測できる。詳細な史料がないのが残念だが、栃木町の問屋商家の財政力の中身の凄さについては、これからも研さんしていきたいと思っている。

056 「ピーヒャリ、テンツクテンテン」とお囃子代台から聴こえる「日之出流」と「小松流」のお囃子演奏。神田囃子の本流を伝えるものだという。

 お囃子の演奏を栃木市役所の向い側に立って聴く。55年前に今の市役所前の大通りのこの場所から栃木の山車祭を観ていた。見物人で溢れ出ている大通り。商店街アーケードの屋根の間から「神武天皇」の山車人形を人混みの中で観ていた記憶が何故か浮かんできた。

 今回は、新聞で報道されている「ぶっつけ」という、山車が向き合わせてお囃子が競い合う光景に出合うことができなかった。2年後には夜のライトに照らされた山車人形と合わせて観に来ようと思った。

092  栃木県庁舎があった敷地には県庁堀が史跡として残っている。明治7年(1874)の神武祭では「静御前」と「諌鼓鶏」の山車人形が巴波川の幸来橋を渡り、皆川街道から栃木県庁舎表門から庁舎内に入り、神武社に拝礼練行している。19年後の商業会議所開設祝典に巡行した江戸型山車人形。問屋町栃木は江戸の流れを引き継ぐ山車人形の保存を長く行なってきた。…凄いことだと感心する。

 「栃木市では別段、山車人形の維持管理への助成金を定めてはおりません。修理修繕費用につては県指定有形文化財にそって支給を行ないます」と栃木観光課のお話。「とちぎ秋まつり」では、行政は実行委員会に加わり、応分の負担をしているが、山車はあくまで町内の所有物としている。その所有者の町内では高齢化、町内人口の減少により山車人形の維持管理が年々難しくなってきていると聞こえる。栃木観光協会を中心に「伝承会」という山車保存に協力していく会を立ち上げて、賛同者の入会を勧めていく動きもある。

 町内の祭から栃木市民による祭へと発展させていくことが、山車祭を永く存続していくことに繋がる。それには、今一度「山車祭」の意義とあり方、参加体制について、広く市民の間で論議していく必要があると思えてくる。江戸の流れを継承する「山車人形」。今の時代と向き合う祭として再考していく必要があると思えてきた。

                                      《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

千代田区教育委員会編纂報告書「江戸型山車のゆくえ」(昭和55年10月発行)/池田貞夫・黒崎孝雄著「とちぎ屋台と山車」(平成10年3月発行)/絵守すみよし著「人形師原舟月三代の記」(平成15年9月青蛙房発行/「栃木市史民俗編」(昭和61年1月栃木市発行)

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江戸の香りが漂う―栃木市杢冷川、旭町「本橋」界隈

005  川幅約3mの杢冷川(もくれいがわ)は日ノ出町の水源堀から栃木市街地の東側を流れ、巴波川に合流する全長1660mのコンパクトな川の流れになっている。

  「杢冷川って、響きのいい名前だな…」と感じて、名前の由来が気になり調べてみた。しかし、栃木市史や栃木市文化課、知人に聴いてみたが、その由来は分からなかった。

  勝手な想いとして、栃木市街を流れる巴波川は別名「鶉妻川」と記されていた。巴波川の東側を流れる川から、「鶉」と関連して、鶉杢目のように細い網目模様を形作っている河川。その川筋には冷たい湧き水湧き出していることから「杢冷川」と呼ばれるようになったのかなあと想像したりしてみた。

011   「私達の住む日ノ出町自治会は、昔は栃木町大字城内の大和、榎堂、杢冷、川島と栃木町大字栃木榎堂、杢冷、大和の7つの字を称して城内大和と呼ばれていました」と昭和62年3月に発行された「日ノ出町史」(栃木市日ノ出町自治会発行)に記載されている野川自治会長の冒頭あいさつ文。城内村から別れた時期に、字杢冷という地名が2か所あったことが記されている。

  栃木市日ノ出町にある杢冷川の水源堀のそばに石碑が建っている。石碑には杢冷川灌漑用水の由来として、荒れていた平等庵所有の湧水池の埋立を大蔵製鋼社が耕作者たちのことを思い、中止にしたこと。昭和21年に水利組合と市当局の援助で灌漑用水として蘇らせたこと等が記されている。

009_2_2  この石碑から、杢冷川は灌漑用水堀川として使用されていたことが分かった。ということは、用水掘の呼び名は地域名を使用することが多いし、村人にとっても便利でもある。そのことから「城内村字杢冷」の地域を中心に流れる用水掘川であることから「杢冷川」と呼ばれるようになった。と理解するのが自然である。何だか胸におちた感じがした。

  また、水源堀敷地の所有者が石碑には平等庵であることが記されているのには驚いた。「現在も日ノ出町公民館の地代は自治会で平等寺に支払っていますよ」と地域の人から聞いた。

   日ノ出町公民館は水源堀から小金井街道を挟んだ向かい側に建っている。その敷地は、かつて三角沼と言われ、私の子どもころの水遊びの湧水沼であった。冷たい湧き水に身体を浸した暑い夏の日が思い出される所だ。

018_2  杢冷川に架かる栃木市旭町「本橋」から「一二三橋」にかけては、栃木町の花柳界として知られていた地域である。

  「季節ごとに芸者たちは着物を購入することが多く、呉服商はとくに繁昌していた。三味線の音が聞こえ、夕方になると桃割れ姿の半玉や高島田の芸者たちをみることができた」と村田弘子著の「壬子倶楽部と町のにぎわい」の中で、明治期後半の栃木町本橋周辺の様子が記述されている。

  本橋の畔には湧水池のある老舗料亭「壬子倶楽部(じんしくらぶ)」があり、少し上流の左岸には料亭「桃坂」もあった。橋の南東側には「釜仲」の店舗跡と「平等寺」がある。

019_2  平等寺の境内には御堂と石塔が建っている。あまりの整然とした佇まいの境内から、教化活動をしていない寺院ではないかと思えてきた。御堂の左側に建っている石塔。真ん中の古い石塔には宝暦十辰天八月吉日と刻まれていることが読み取れる。

 平等寺はかつては「平等庵」という寺院名であったことが明治39年(1906)年発行の「栃木市六千分一尺図」に記され確認することができた。

  渡辺達也著の「歌麿と栃木」の中で、「平等庵の湧水池、真清水」として狂歌等が詠まれた寺院として紹介されている。平等庵が平等寺になったいきさつを知りたくなった。

027_5  「栃木市にある平等寺は霊雲寺の末寺です。平等庵が平等寺に名前が変わったのは、宗教法人法の改正によるものです」と湯島天神そばの本寺、霊雲寺を訪ねた私に事務員の人が教えてくれた。それ以上の詳しい話は担当者がいないということで断られた。平等寺はかつては平等庵と称し、東京都文京区湯島にある真言宗霊雲寺派総本山「霊雲寺」の末寺になっていることが分かった。

    霊雲寺で渡された冊子によれば、元禄4年(1691)に淨厳律師によって文京区湯島に創建開基され、柳沢吉保を通して5代将軍徳川綱吉の尽力によるとされている。同冊子の霊雲寺略史の中で、「永享3年(1746)~宝暦6年(1756)にかけて霊雲寺の末寺60か寺となる。その所在は武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野・相模」と記されている。このことから、宝暦10年(1760)と刻字されている石塔のある現在の平等寺は、宝暦年間(1751~1763)に「平等庵」として創建されたものと思われる。

  宝暦年間は、円説と三悦の二人の坊が壬生町興生寺から栃木町へ移住してきたとされている年代と重なる。二人の坊は中の坊、上の坊と称し、釜喜善野喜兵衛と釜佐善野佐次兵衛ら共に、質屋業として江戸後期の栃木町の金融経済を仕切る豪商になっていく。文久2年(1862)の栃木町「本陣火事」において平等庵は釣鐘を残して焼失する。唯一残った釣鐘は現在の旭町「定願寺」の釣鐘として現存している。寛政4年(1792)11月に造られたその釣鐘の施主の中に円説と三悦の名が刻まれている。平等庵と豪商との結びつきを強く表している銘文だと渡辺達也氏は「歌麿と栃木」の中で記している。

014  杢冷川「本橋」南東の角に建つ「釜中」店舗跡の裏手にある駐車場が、湧水池だったと地元の知人が教えてくれた。かつては平等庵の敷地内であった湧水池跡を本橋の欄干から見る。

   「この辺り一帯は何処でも湧き水が湧出し、平等庵は特に清水の湧き出る所で有名であった」と渡辺達也著の「歌麿と栃木」で記述されている。さらに、安政6年(1856)に発行「狂歌扶桑名所名物集下野」の中から、「湧出る平等庵の真清水をくめバ夏行きなり」、「真清水を結へハ夏を王(わ)すれぬり平等庵の秋の者川(はつ)風」(結べば=掬えば)」と平等庵の湧水を見ながら狂歌が詠まれていたことの紹介が書かれてある。ただ私には、変体仮名で詠まれる「狂歌」は馴染みが薄く、その世界になかなか入ることはできない。

 「歌麿と栃木」を読み、杢冷川沿いの「本橋」周辺にはたくさんの湧水があり、埋め立てられた池もあれば、今も現存している湧水池があることが分かった。。

067   「最初に池があり、そこに建物をもってきたのですね。普通ですと建物を建てて、そこから眺めの良い庭を造るのですけど」と、初めに湧水池があったことを女将さんは、私達、「歴史と文化を歩く会栃木」一行18人に説明してくれた。

  本橋の北西の畔に建つ、大正元年(1912)創業の老舗料亭「壬子倶楽部(じんしくらぶ)」。庭園には30m四方の湧水池があり、鯉が泳いでいる。壬子倶楽部の座敷で用意してくれた昼食弁当をいただく私達。個人ではとてもあがることのできない料亭の和風座敷。座敷から見える湧水池のある庭園と木造家屋…。栃木町の隠れた奥座敷なのかと、しばし見渡す。

009  「大正元年の壬子(きのえね)の年に開業しました。子(ね)は終わりから始まる縁起の良さと倶楽部という当時のハイカラな意味から、祖母が壬子倶楽部という名前を付けたのだと思います。かわせみが飛んできますので、池のまわりの何処かにきっと巣を作っているのですね」と三代目の女将さんが私達に説明してくれた。

  小石の底から地下水がボコボコと湧き出ているのが見える池。鯉が泳いでいる。池の南側には杢冷川に流れ出ていく水口が見える。大正元年に建てた家屋には庇の痛みが目に付くが、内部の和室、座敷の拵えはしっくりした作りになっている。

007 渓流で釣り糸をたれている老子の掛軸が掛けられてある床の間。別の座敷の床の間には艶やかな活け花が飾られてある。「私たちのために用意してくれたのよ」と同行者の人が耳元でささやいてくれた。女将さんの心配りにありがたく、喜ぶ。

006

 

  案内する女将さんの立ち振る舞いを見ながら、「浮世絵のような美人画を描きたくなる…」。そうした雰囲気のある座敷。廊下を歩く仲居さんと奥に見える湧水池が浮かび上がる。ふと、異次元の世界にひたる気分になってくる。それは、江戸の余薫(よくん)が漂う、浮世絵の香りのする光景でもある。栃木の町にしっとりとした江戸文化の香りが残っていたことを見つけたようで、うれしい気分になってきた。

013    平成19年(2007)栃木市発行の「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」の中で、村田弘子氏が壬子倶楽部三代の女将さんのことを次のように書いている。

  「大正元年(1912)に壬子倶楽部は開業した。遠藤セイが26歳のときである。セイは明治19年(1886)栃木町に生まれ、仲居として栃木町の料理屋で働いた。『壬子倶楽部の経営の一端を担うに際して、そのときの経験が大いに役立っていたようだ』とセイの養女遠藤今子は話す。壬子倶楽部は商人たちの商談の場として、また碁を打ったり俳句を詠んだり、趣味の場、社交場として使用された。客のあしらいをまかされていたのが遠藤セイである。今子がセイから壬子倶楽部を引き継いだのは戦後、昭和34年(1959)である。戦時中は企業の寮や軍関係の宿舎に使用された。祖母(セイ)、母(今子)、娘(智恵子)の3名の仲居の働きにより現在に至ったといっても過言ではない。当時、ビリヤードとして使用された洋館と日本庭園を背景とした日本家屋が今も残る」。

  この内容から、江戸時代からの料亭仲居としてのもてなし方を受け継いできたことが伺える。女将さんの仲居としての立ち振る舞いは、湧水池と日本家屋、格式ある料亭の佇まいと合致した風情になっており、格式ある料亭としての気品と伝統を感じた。…是非残しておきたい栃木町の文化遺産である。

005_2   壬子倶楽部の前の通りを隔てた向かい側の敷地。駐車場になっている跡地は栃木の名のある商店主の屋敷跡地である。その跡地の敷地の下の岸辺から杢冷川へ注ぎ出てくる地下水が見える。かつての湧水池の名残りでもある。

  この屋敷跡の前の前の持ち主が、釜喜、善野喜兵衛の別宅だった教えてくれた人がいた。確証はないが、江戸期に釜喜の別宅だったとすると、平等庵ー中の坊円説ー釜喜・善野喜兵衛―狂歌との繋がりの中で「喜多川歌麿」の影が浮かび上がってくる。歌麿は天明期(1781)から寛政期(1800)にかけて栃木の町に度々訪れていたと伝わっている。

051_3   栃木市では歌麿作の肉筆画、「深川の雪」「品川の月」「吉原の花」三幅対、「雪・月・花」の高精細複製画を作成し、市役所4階に12月24日まで展示を行なっている。

  「江戸時代、例幣使街道宿場町と江戸に通じる巴波川の舟運として栄えた栃木町は江戸との交流から狂歌文化が花開きました」と展示場の解説に書かれてある。さらに「自らも筆綾丸(ふでのあやまる)の狂歌名を持つ歌麿は、狂歌を通じて栃木の豪商と親交がありました。歌麿の肉筆画大作「雪・月・花」は、栃木の豪商、善野家の依頼とされている」と解説している。

022  釜喜、善野喜兵衛の狂歌名は通用亭徳成と称し、長寿を祝う大量の狂歌短冊の中に、歌麿自筆の短冊が発見されているなど、栃木町と歌麿、善野家との関係について研究が進めらている。

 ――とは言っても、江戸時代に驚異的なブームを巻起した狂歌熱は明治になり衰退。俳句のように継承されてこなかった狂歌。理解しがたい分野になってしまっている。狂歌の面白さや素晴らしさを分からないというのが現状だと思える。

 江戸後期、栃木町の経済と文化、狂歌を支えた栃木町の豪商たちについて、これからも研究していく課題は多々ある。 

030_3   歌麿が描いた「雪・月・花」の三幅対。幕末の大火の中で保存もされていた。そして、栃木のどの家で三幅対を描いたのだろうか?興味がある。

  「深川の雪」の画は198・8㎝×341.1㎝と非常に大き肉筆画になっている。中の坊円説(現在の栃木郷土参考館)宅の巴波川沿いの離れで描いた説を述べる人がいる。だが、私には、本橋界隈の「壬子倶楽部」の前の家、釜屋善野喜兵衛の別宅地で描いたのではないかと思えてくる。「巴波川」ではなく「杢冷川」と湧水池こそが、歌麿が描く「浮世絵」の世界に相通じるものがあるのではないかと想像する。私の「歌麿ロマン」の世界でもある。

  江戸の香りが漂う「本橋」界隈。「狂歌」や「浮世絵」の世界を思い浮かべながら杢冷川沿いを歩くのも、また良しとしよう。

 杢冷川は旧栃木刑務所時代に堀の役割をした栃木市文化会館とあさひ公園の脇を流れ、巴波川に合流していく。子ども頃に泳いだ湧き水のある水源沼。水の冷たさを今でも私の肌は憶えている。杢冷川湧水の清流は、これからも栃木の町を流れていく。

                                            《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

「町政50周年記念、日ノ出町史」(昭和62年3月、栃木市日ノ出町自治会発行)/「霊雲寺」紹介冊子/渡辺達也著「歌麿と栃木」(平成23年10月三刷歌麿と栃木研究会発行)/栃木市地域女性史編さん委員会編「私たちが綴る栃木市の女性たち」(平成19年3月栃木市発行)/ブログ巴波川日記「杢冷川―栃木市街地を流れるもう一つの河川」(2014年11月) 

 

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栃木街の中心地ー倭町交差点「イシハラ洋品店」と道路元標

041_2   「栃木街の中心地、真ん中にうちの店はあるのです。真ん中としての役割を考えて、時代にそった店舗づくりをしていきます。そのためには、この建物を取り壊して、ミツワ通りと繋がる新たな店舗を共同で作っていくのです。大通り沿いを広くして風通しを良くし、駐車場を設置し広くしていきたいですね。街にお客さんをひきつける。そうした店づくりをしていきます」と私に熱い思いを語るイシハラ洋品店4代目の店主、石原靖弘さん。

   「イシハラ洋品店」の店舗はすぐ近くの銀座通り西端に移転を行ない、高校の制服を中心に従来通りに店を構えていく。そして新たな店舗造りを現在の倭町交差点角を中心にした店舗共同開発として建てていくという話になっている。

010_4  「イシハラ洋品店が店閉まいするんだって」とある会合でその話を聞き、「エッ、本当?」と驚いた私は、倭町交差点角に建つイシハラ洋品店に行った。ショウウインドウには「店舗移転の為 閉店SALE 当地区の再開発の為、店舗を移転することになりました」と店閉まいではなく、再開発を進めるための移転であると明記されていた。48年前に建築された屋上のある5階建ての店舗を解体して、新築する。それも地域の商店と共同開発として進めていくことを聞いて、何故かホットした。

  「栃木にもエレベーターのあるお店ができた」と当時、誇らしく思った記憶が浮かんでくる。「エレベーターは今もありますが、電源は入っていません。エスカレーターもありましたよ」と石原靖弘さんは語ってくれた。屋上のある5階の部屋で小学校時代の絵の先生が個展を開いたのもこのイシハラ洋品店だ。ただ屋上から眺めたはずの栃木街の屋根瓦の光景が浮かんでこない。

015_2 イシハラ洋品店は栃木市倭町交差点の南西角に建っている。栃木市の一等地であり、倭町交差点は街の中心地に位置する。江戸時代には足利藩栃木陣屋の入り口として高札場が設置されていた所でもある。街の中央を南北に往還する蔵の街大通り(旧例幣使街道)とこの交差点を起点とする栃木県道75号栃木佐野線(皆川街道)が交差している地点でもある。

  大通り商店街からミツワ通り、幸来橋へと続く銀座通りを中心に昭和40年代頃までは栃木街の商店街は買い物客や高校生でごった返す人通りの多い町であった。栃木市に初めて信号機が設置されたのもこの交差点であった。小学校時代に先生に引率され、点滅する信号機を確認しながら交差点を渡る指導を受けた思い出がある。栃木のまちはここから始まっているのかもしれない。

007  イシハラ洋品店の向いにある足利銀行店舗の解体工事が始まっている。新店舗は奥に出来上がり、すでに営業を行なっている。更地となり駐車場になっていく。

  この倭町交差点には県道11号と75号の道路標識が建ってある。その標識の下に大正10年(1921)に設置された50㎝ほどの石塔、道路元標(どうろげんぴょう)がある。道路側に「栃木町道路元標」と刻まれている。歩道側からでは見えないため、ただの石塔にしか見えない。

09tochigi011   大正8年(1919)の道路法によって各市町村の中心地に設置された道路元標は、主な幹線道路の起点や終点を示し、地点間の距離を測定する基準としていた。昭和27年(1952)施行の新たな道路法により道路元標は道路の付属物とされ、設置場所や道路元標を路線の起終点にする規定はなくなった。そのため大正時代に設置された道路元標は道路工事や宅地開発などで撤去され、いつの間にかなくなってしまっていった。

040  栃木市と近郊との合併は、昭和29年(1954)に大宮・皆川・吹上・寺尾の4村、昭和32年(1957)国府村、平成22年(2010)の大平・都賀・藤岡の3町、平成23年(2011)の西方町と合併をしながら、いずれの町村において道路元標は消失してしまっている。栃木市内で唯一、倭町交差点に建っている大正10年設置の道路元標の石塔。ここだけに現存しているということになる。

  栃木市では市文化財に指定しているが、周囲には文化財であることを知らせる看板はない。そのため車や自転車はもちろん歩行者も目に留める人はなく、ポツンと置き去りされて建っている。

  平成25年(2013)8月29日の下野新聞にはこの「栃木町道路元標」の石塔について、「1世紀近くにわたって蔵の街の歴史を見守ってきた“生き証人”だ」と記述されていた。

  現在の倭町交差点は県道75号皆川街道の起点になっている。他の栃木市街地の県道起終点は市内の主な交差点に位置している。例えば万町交番交差点が、県道2号宇都宮栃木線(栃木街道)、3号宇都宮亀和田栃木線(鹿沼街道)、11号栃木藤岡線の3つの県道終点地になっている。河合町交差点は、31号栃木小山線、153号小林栃木線の終点地。日ノ出町交差点は44号栃木二宮線(小金井街道)の起点地。箱森粟野街道入口交差点は37号栃木粟野線の起点地になっている。現在の大半の道路起終地は交差点に定めてあることが伺える。確認していないが、「栃木まであと〇〇キロ」という標識版は道路起終地にそって表示されているのかもしれない。

Yamaguchitomoko20081  「へー、やだあー、建物なくなるんだ、と取り壊しのことを聴いて、トモちゃんが驚いていましたよ」と、イシハラ洋品店の店主、石原靖弘さんが私に話してくれた。トモちゃんとは女優の山口智子のことだ。

  山口智子の実家は平成17年(2005)8月に廃業した「ホテル鯉保」の老舗旅館であった。ホテルはイシハラ洋品店の先向いにあった。現在はその地にコンビニストアの「ファミリイマート」が建っている。

  山口智子を娘のように育てたのが女将でもある祖母の山口礼子さんだった。すでに亡くなっているが、戦中戦後を通して「ホテル鯉保」を切り盛りした女将であった。その山口礼子さんはイシハラ洋品店の創業者、石原豊吉氏の長女として大正10年(1921)に生まれ、当時「鯉保別館」と言っていた山口恭平氏に昭和15年(1940)12月の暮れに嫁いでいる。イシハラ洋品店とは非常に親しい親戚筋になっている。

016  鯉保の先祖は江戸期に日本橋で「鯉屋」という魚商であった。主人の鯉屋藤左衛門は俳号を杉風(さんぷう)と称して、松尾芭蕉の高弟でもあった。鯉屋藤左衛門の末裔が明治治9年(1876)に料理店「鯉屋」を栃木万町で開業。その後、屋号を鯉屋から、明治14年(1881)鯉保と改め、旅館業も兼ねていった。

  鯉保の主人、山口平三郎氏は昭和4年(1929)に倭町にあった「晃陽館」という旅館を買収し、子息の山口恭平氏(山口智子の祖父)に跡を取らせ「鯉保別館」として開業した。昭和32年(1957)に恭平氏が亡くなり、夫人の礼子さんが女将として采配し、「鯉保別館」から「ホテル鯉保」へと成長させた。孫娘の山口智子は幼少期より祖母、礼子さんを母親のように慕い育ったと言われている(「栃木市の企業と人物、㈱ホテル鯉保、代表取締役山口礼子」より)。

   大正10年生れの山口礼子さんは20代で戦中戦後の混乱期を迎えたことになる。栃木市が平成19年(2007)に昭和を生きた市内の女性の体験談を中心に編纂した「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」を発行している。その書の中に「旅館のおかみ」の表題で山口礼子さんの口述筆記が次のように記載されている。

050   「嫁にきたのは20歳だったんですよ。嫁にくるときは、なにもしないでいいからぜひぜひといわれて嫁にきたんですよね。だけど結婚すると暮、正月はいそがしいもんですから、新婚旅行も行かないで春になったらもう妊娠しちゃいましてね。主人は昭和18年招集、南方へ行ったんですよ。働いている若い衆はみんな徴用にとられて、それからものは闇で買わなくっちゃならないですよね。父がこんなにたいへんじゃやめたほうがいいじゃないかっていうんで商売をやめたんです。中島飛行機へ寮みたいに貸したの。

 戦後また旅館を始めんたんです。米はお泊りさんがもってくる。お米を持参した人だけ泊める時代でした。そのうちだんだん闇でものが動くようになったのでお金で泊る人がでてきました。(略)主人が(昭和32年)になくなってからそれからずっとわたしが社長さんでやってきた。考えてみると60年も働いてきましたもの。だって朝は6時ですよ。朝飯ださなくちゃならないもの。夜は芸者さんが帰るのは1時、2時はざらですよ。だからね、どうやってくらしてきたかなあと思いますけど、立ってでも寝られましたね」と、立って寝るという女将としての責任あるバイタリティを感じる。商いをしていくうえでの「闇」とか「旅館のやめる、始める」「人手」とかという言葉から、時代を見つめ判断をしながら旅館業を営んできたことが伺える。

019   鯉保別館の建っていた敷地は幕末期に「旅篭押田屋」があった。元治元年(1864)6月の水戸天狗党「愿蔵火事」や慶応3年(1867)12月の出流山事件(出流天狗)における「栃木宿戦闘」など、栃木陣屋との交渉場所として押田屋を舞台に展開された歴史ある場所でもある。また、鯉保別館脇の小山街道沿いは終戦直後、闇市がたっていた。

  私には鯉保別館時代の黒塀沿いを自転車で走る記憶がある。ラジオから流れるメルボルンオリンピックの水泳競技、山中選手の泳ぐ実況放送を聴いていた姿が残像として残っている。黒く長い塀の先に明るい大通りが見えていたような気がする。

   「イシハラ洋品店の開発は民間開発です。お問い合わせがあった場合には市としては景観条例についてのお話を述べるだけです。栃木市の一等地です。民間開発とはいえ、気になりますね」と栃木市都市計画課の職員は述べていた。

  イシハラ洋品店を中心にした店舗建て替えの開発事業計画は、これからより具体性を帯びてくると思える。市役所庁舎も大通りに移転してきている。民間の活力を生かした店舗建て替え開発としての事業。その先にはたくさんの市民が訪れる町づくりが見えてくる。「蔵の街」からの脱却と飛躍が構想の中にあるような気がする。栃木の真ん中で商いをするイシハラ洋品店は歴史と時代の流れを見据えて歩み始めていると受け止めた。

                                               《夢野銀次》

《参考引用資料本》

明治40年10月発行「栃木県営業便覧」/下野新聞2013年(平成25年)8月29日号「マチある記㊺」/「栃木市の企業と人物」平成6年10月、土筆書房発行/「わたしたちが綴る栃木市の女性たち」平成19年3月栃木市発行

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ジャガイモの収穫と鍋山石灰工場の見学

021 雨と曇りの日が続く梅雨。「残りのジャガイモ収穫しないとな…」と気持ちが焦ってきている。

 「7月6日は雨が降らない」。明け方からジャガイモの収穫を行なう。男爵はすでに収穫しているため、ほとんどがメークインとなっている。

 今年は男爵の成長が早く、その後にキタアカリ、メークインと続いた。一緒に成長しないのは、なにか理由でもあるのかな…。

  札幌に住む学生時代からの友人からお礼の電話があった。北海道の住民にジャガイモを送るのは失礼だったかもしれないが、「女房はいいジャガイモだと言って、娘の家に持って行った」と嬉しそうに電話で話してくれた。

025_3 もうすぐ梅雨が明ける。

 今年の夏は昨年以上に猛暑になると言われている。

 5月に植えたカボチャ、すくすくと育ってきている。めしべの花におしべでじふんさせる。

 ――めしべの花びらはおしべを待っているように黄色く咲いている。カボチャのじふん。これが面白いのだ。ひそかに猥褻な想像もするのだ。

 それにしても勢いのあるカボチャ。頑丈な実がなるのも頷ける。
027_8 小玉のスイカの苗、3本植えた。めしべにじふんさせようとしても、雨露のため花びらが湿っていてなかなかうまくいかなった。

 曇りの日に自ふんさせていくと実がなってきている。一昨日、一番最初にできていた黒玉の小玉スイカを収穫してみた。

 「まだ早かったわね。あと3日待てば良かったかもしれない」と妻のつぶやきが聞こえた。スーパーでは900円で売っている黒の小玉スイカ。ありがたく賞味した。少し甘味が足りないな…。

 スイカを毎日食べて、猛暑を乗り切っていくつもりだ。

013  畝作りは土起しから始める。その後、堆肥と消石灰を撒き、クワとスキでよく耕す。石灰は酸性土壌をアルカリに代え、水を良く吸収させる貴重な肥料になっている。

 その消石灰や苦土石灰を生産している石灰工場を6月17日に見学することができた。

  栃木市街から西方に鍋山町がある。江戸時代からの石灰の産地として有名である。明治から昭和の中頃まで鍋山からの人車鉄道で石灰を栃木駅まで運んでいた。

  栃木市市民大学の現地学習の一貫としての石灰工場見学。石灰工場を始めて見学する33名の受講生は栃木市鍋山町「田源石灰工業」の工場内に入った。栃木市の企画だからこそ工場内に入ることができたのだと感心する。

010_2  事務所の2階にて工場長から石灰の歴史と現在の状況の説明を受け、敷地内を見学した。「こうした工場見学はあるのですか?」と事務員の方に質問したら、「まったくありません」と答えが返ってきた。一般の見学はほとんどないということか…。「さもありなん」となぜか納得してしまった。

  工場長の説明の中で、「現在の市町村で稼働しているごみ焼却炉にはすべて消石灰が使用されているのです」ということを聴き、驚いた。

  石灰は肥料や埋め立て土壌だけではなく、環境に対して大きな役割を担っていることを始めて知った。石灰工場を見学することにより、石灰が環境と向き合って操業、生産していることが分かり、見直すことができた。これからも貴重な資源になっていくことに確信を持つことができた。しかし、この地では水がでないという。飲料水などの確保が大変であるとも聞いた。

035  暑い夏から秋に向けてサツマイモとサトイモが育ち始めている。紅あずま15本、金時15本の計30本の苗を5月6日に植えた。一本の苗が駄目になったが、他は順調に茎を伸ばし始めている。

  昨年は3列の真中の畝に植えたサツマイモ、実が成らなかった。肥料のやり過ぎなのか?水はけが悪かったのか?

 3列の畝の幅を広くして作ってみた。どうだろうか?

036_2  知人から戴いた22個のヤツガシラの種イモ。残念ながら芽がでた種イモは6個だけだった。それでも、初めて挑戦してみるヤツガシラ。

 先日、虫がついて葉が枯れてしまっていた。虫を除去するとすぐに新しい葉が出てきた。毎朝、虫がいるかどうか点検をしていく。

  里芋の種イモ15個は順調に芽をだし、育ってきている。カインズホームにあるJAの野菜売り場にて購入した里芋の種イモ。ふっくらとした種イモだった。「いい種イモだ」と思わず手にとった。

  ここ2,3日、モグラの跡がサツマイモとサトイモの畝の近くに見える。ペットボトルでモグラよけを作らなければと思ってきている。我が家の猫どもよ、モグラとネズミ退治を頼むぞ。

                                    《夢野銀次》

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孤高の日本画家・田中一村が眠る栃木市「満福寺」

416b1y0dyql_sx258_bo1204203200_1_2  平成26年(2014)11月に亡くなった俳優の高倉健は、「あなたに褒められたくて」「旅の途中」などの著書を書き残している。さらに子どもむけに、健さん自身も朗読している絵本とCD「南極のペンギン」を発行している。その絵本の中に、奄美の孤高の日本画家・田中一村とハンセン病療養所「和光園」の少女との心温まる交流を描いた「奄美の画家と少女」が収められている。

  親元から引き離され、療養所で暮らす少女。その少女が肌身離さずに持っていた母の写真が田中一村の手で鮮やかな絵になってよみがえり、喜ぶ少女の様子がつづられている。

Toppage_r04_c61  高倉健は、「田中一村というのがこの画家の名前だ。奄美でひたすら自分のかきたい絵をかきつづけた。絵をかくために、生まれてきたと信じた。生きているあいだ、彼の絵は世の中に認めれなかった。それでも、絶望しなかった。貧しさにも負けなかった。そのはげしい生き方は、『アダンの画帖』にくわしく書かれている。一村が亡くなったあと、ぼくはその絵をはじめて見た。南の島のたくましい命があふれている。自分の命があふれている。自分の命をけずって、絵の具にとかしたような絵だ」と記して結んでいる。

  このお話を、私は4月24日に栃木文化会館で開かれた「栃木市文化まちづくり協議会」主催の「栃木の魅力ある文化とまちづくり」の講演会で、講師、寺元晴一郎氏より初めて聴いた。箱根小涌谷の岡田美術館の副館長である寺元氏は美術商・美術研究家として活躍をしている人である。 

Ts140725_01_11  講演の後、さっそく「南極のペンギン」を購入して、読みながら関連をブログで検索してみる。実際に高倉健は奄美の「和光園」を訪れた形跡はない。しかし、田中一村の没後に本や画集が出版され、そこで一村と入所者の話を知り、「優しい心の出会い」をメッセージとして語りたかったのだと思えてきた。健さんの温かい心が伝わってくる絵本になっている。

  昭和33年(1958)12月に千葉の家を売り払い、「生涯最後の絵をここで描く」として奄美に移住してきた50歳の田中一村。画業10年計画を立て、54歳から奄美の紬工房で働き、5年後に紬工房を辞め、以後は貧窮、菜食生活を送りながら絵画制作に専念する。亡くなる昭和52年(1977)9月11日までの19年間に『アダンの木』『クワズイモとソテツ』『ビロウとアカンショウビ』等20数点の絵を描き残している。

51wz6b5rnzl1  一村の死後、奄美の人々の手によって昭和54年(1979)11月に遺作展が開かれた。その遺作展に携わった記者、中野惇夫氏によって田中一村のことが南日本新聞地方面のトップ記事として記載される。このことが契機となり、5年を経た昭和59年(1984)の12月にNHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜―異端の画家田中一村」が全国に放送された。

  紹介された絵の数々、中央の画壇に背を向けて奄美での画業生活。この放送は再放送をもたらすなど異常な反響を呼び起こした。亜熱帯の島の自然を相手に描き続けた一村の絵は、「日本画の異端」「昭和の若冲」「孤高の画家」「日本のゴーギャン」と称され、田中一村ブームを引き起こした。テレビ東京放映の「何でも鑑定団」の中で、鑑定士田中大氏は「奄美時代の一村作品であれば一点一千万円をくだることはない」との評価が下されるようになった。

20100907_17649601_3   閻魔大王への土産品だと知人あての手紙に書いた『クワズイモとソテツ』の画。写真でしか見ることができないが、全体に覆いかぶさるように迫ってくる熱帯植物群。その中央に遥かに見える三角形の岩―立神が描かれてある。神々が海上からやってくるとき、神はまず岬の小岩島に上陸するという。これが立神といわれるている岩。―そこには一人で生きる、言い知れぬ己の願望を見るような気がする。実際の絵を見たら、圧倒されるだろうなと思われてくる気がしてくる。

036  田中一村は亡くなった姉、喜美子の遺骨を墓地に埋葬するために昭和52年(1977)の5月に生まれ故郷の栃木市に訪れている。奄美のホテルで初めて個展を開くことになり、千葉にある自分の作品を収集するため奄美からやってきたのだった。

  田中家の墓地のある栃木市旭町「満福寺」を訪れた時の情景を中野惇夫は著書「アダンの画帖―田中一村伝」の中で、こう記述している。

  「このとき一村は、姉喜美子の遺骨を抱いて帰っていた。型の古くなった黒い革靴をはき、作業ズボンに半袖シャツの姿でやや腰を曲げたかっこうで歩いてきた。首にふろしき包みを巻き、ようやくたどりついたという様子で寺のくりやに入ってきた」

031  「満福寺の先代住職の妻長沢泰子さんが、このとき一村と対応した。一村はまず、『田中家の墓はどうなっておるのでしょうか』とたずねた。『まだそのままにしてございます』と答えたところ、一村はほっとした様子で、『私が死ねば、田中家の墓も無縁墓になります』といい、身の上話をぽつりぽつりと語りはじめた。ちょうど昼時だったので、長沢さんがソバを作って差し出すと、一村は、うまそうにはしを動かし、『ああ、おいしかった』といって礼を述べた」

  「一村は田中家の墓がまだ残っており、姉喜美子と自分が入る場所があったことを知って安心し、またとぼとぼと千葉へ帰って行った。千葉の川村幾三氏宅にたどり着いた一村は、倒れるように寝ついてしまった」

044   さらに同書には、「栃木へ訪れた同年の昭和52年9月11日の夜、引っ越して間もない奄美有屋の借家で田中一村は心不全で息を引き取る。69年の生涯であった。遺骨は千葉からきた妹の新山房子さんと、長男宏さんによって、父母や姉の眠る栃木市満福寺の田中家の墓地に埋葬された」と記述されている。

  私は田中一村の遺骨は奄美にあり、満福寺には「供養塔」だけがあるものと思い込んでいた。実際に満福寺の田中家の墓地に遺骨が埋葬されていることを知り、驚き、栃木市に住んでいながら己の無知に恥ずかしさを覚えた。

  「お墓は妹さんの息子さんが守っております。貝殻を持って奄美の方々もいらっしゃいましたよ」と、満福寺の住坊で私に応対してくれた奥さんから聞くことができた。墓石の前には貝殻が置かれてある。奄美の貝殻なのだ。

  二度目の訪問の時に住職の長沢弘隆さんにお会いすることができた。「お墓は2基。いずれも父親の彌吉さんがお建てになっております。左側の少し大きい墓石が彌吉さんのお父さん、一村さんの祖父のお墓です。右側が彌吉さんの祖父のお墓になっております。関西から田中一村さんのお墓を訪ねてくる方が多かったので、分かるようにと案内立札を建てさせていただきました」と丁寧な説明を受けることができた。

002_2   長沢住職は大師堂の裏の境内に「田中一村供養碑」を建てている。その碑文には、「田中一村。日本画家。明治41年、栃木県下都賀郡栃木町(現栃木市)、田中家に生まれる。幼少より画才を発揮し、東京美術学校(現東京芸大)に学ぶ。才能に恵まれるも、中央画壇に背を向け、貧窮のなかで絵の良心だけを信じ、ひたすら絵かき人生を歩む。没後、終焉の地奄美大島の人々とNHKテレビ日曜美術館番組関係者方等の手により、その作品と画業が紹介されるや閉塞状況の物質文明社会に感動とブームを巻起す。時あたかも市政60年記念として個展が開催されるに当り、茲に碑一基を建立し、その偉業を顕彰し、供養に併せてその名を永く後世にとどめんとす。本名、田中孝 享年69歳 平成8年11月 満福寺第三十世 弘隆 識」と記されている。 

  「田中家は檀家でありますので供養塔を建てさせていただきました」と、檀家と答えた長沢住職の一村に対する思いを受けとめることができた。

046  一村が4歳の時の大正2年(1912)、田中一家は栃木から東京の麹町に移転する。一村の母親の実家が四谷界隈にあり、絵を学ばさせるため栃木の生家を引き払い、上京したのだ。

 「4歳まで過ごした栃木町の時代、一村の生家はどのあたりあったのですか?」という私の質問に、長沢住職は、「以前、番地まで調べたんですけど、昔の字平柳、今の泉町ですね。おおよその場所は、万町交番を右折して、壬生街道を300m位行ったところにある『市川』という呉服店あたりだった思いますよ。番地の載った史料がどこかにいってしまっているのですよ」とすまなそうに答えてれた。

013_2  住職が教えてくれた壬生街道沿いの泉町界隈は私の生家があった万町4丁目から道路を隔てた所だと知り、びっくりした。

  さっそく自転車で泉町界隈に行く。子どものころ通った床屋や歯医者。栃木に帰る度に食べた「やまと屋の中華ソバ」。紙芝居を見たこと。狭い路地裏を通って平柳町にある親父と兄が営んでいた製材所に行ったことなど思い浮かんできた。家々は新しい建物になっているが、狭い路地は昔と変わらない。

  長沢住職は、「一村さんの住所を調べていたら、近くにある雲龍寺の御堂の向拝にある彫刻、どうも父親の彌吉さんが彫ったものらしいのです。その史料があればもっとはっきりと言えるのですが…。一度、雲龍寺の御堂の向拝にある彫刻物、見てご覧なさい。見事な彫物ですよ。近くに住んでいた彫刻師としての彌吉さんに頼んだのかもしれませんね」と教えてくれた。

  一村の父、田中彌吉は稲村と号し、仏像彫刻家だったことから、雲龍寺向拝の彫り物を頼まれて作ることもあり得る話だと考えられる。

054  中野惇夫著「アダンの画帖—田中一村伝」に父彌吉と栃木の生家の雰囲気が書かれてある。「父彌吉は、稲村の号を持つ天才肌の仏像彫刻家だった。おっとりした性格で、栃木の家にいるころは、広い屋敷の周囲を全部切り払い、草を生やして、コオロギやカジカの鳴く声に独り縁側で耳を傾け、楽しむという風流人だったと言う」と記されている。

  しかし、泉町界隈において著書に書かれてある「広い屋敷の周囲を全部切り払い」という家は想像できない。

  明治初期の栃木の町は舟運、荷馬車による物流の発展や麻問屋商家の隆盛により、近在の農家の次男三男が多数移住してきて、町の拡大が進み住宅が建ち始めた時期でもある。その一角の地域に住宅街として泉町があった。祖父も彫刻家だっと言われている田中家。田中家は仏像彫刻に携わる職人の家系ではなかったのだろうか?

020   昔から「お不動さん」と親しまれてきた成田山雲龍寺は栃木市泉町18-8にある。境内には明治23年に建てられた御堂がある(栃木郷土史より)。栃木特有の強い西風にも負けない大きな屋根瓦が回りを圧倒する御堂の建築物である。

 その御堂の向拝にある龍の彫物。鋭い眼をした表情と引き締まった龍。長沢住職が言う、迫力ある龍の彫刻だ。

 誰が彫った龍の彫物なのか?

014_5  一村の生家から御堂までは裏通り沿いのすぐそばの距離である。仏像彫刻師田中彌吉の作ではないかという住職の話、十分あり得る。しかし、考えてみると年齢が合わないのだ。彌吉は昭和10年(1935)に52歳で亡くなっている。逆算すると生れは明治16年(1883)。御堂建立が明治23年。その時の年齢は7歳ということになる。

   満福寺にある彌吉が建てた父親のお墓。その墓石には明治35年没「田中喜作」と刻字されている。明治20年~30年代にかけて一村の祖父、喜作は彫刻師として油の乗った年齢になることになる。そのことから御堂の向拝の龍の彫物は、むしろ祖父の田中喜作が彫ったのではないかと、私の推測になってしまった。

045   翌日、満福寺を訪問して、長沢住職に雲龍寺の御堂の龍の彫物の作者は一村の祖父だったのではないかと話をしてみた。「御堂を建てた後、数年して彫物を備えることがありますが…。とにかく史料がないのが残念です」との応えであった。

  雲龍寺御堂向拝の龍の彫物が田中一村の祖父、喜作が作っているとしたら、一村の家系の流れが分かってくるような気がする。

  江戸末期、日光山寺の豪華な彫刻の流れをくむ鹿沼の彫刻屋台を作り上げてきたといわれる富田宿(現栃木市大平町)の磯部氏とその系統。下野南部の社寺の木彫刻などを手がけている(栃木県郷土史散歩より)。

  ひょっとして、田中一村の家系が、その磯部氏系統の仏像彫刻師の職人であったとしたら…?と、根拠のない妄想が湧いてきた。いずれにしても、雲龍寺御堂の見事な彫物、泉町関係者から話を訊きながら、作者は誰なのか、調べていこうと思う。

004   田中一村の墓所の傍に明治17年(1884)9月の加波山事件で死刑になった元相馬中村藩士の子息、杉浦吉福(きっぷく)のお墓と供養塔が建立されている。

  そのいきさつを長沢住職は、「隣にある裁判所には当時、処刑場もあったのです。明治19年に杉浦吉福の死刑が、その裁判所内で執行されたのです。福島県の実家ではご遺体の受け取りを拒否したのです。よくあるお話しです。そのため代言人(弁護士)だった榊原経武(つねたけ)さん、後の栃木市の初代の市長になった方ですが、その榊原さんから、裁判所と隣接している当寺で葬ってほしいと頼まれ、埋葬しました。供養塔は下毛有志で建てられていますが、建立者の名前は記されておりません。名を伏せたのですね。民権運動に理解ある栃木町の商家の方々もこの供養塔を建てる際に裏で資金援助をしたと伝わっております」と語ってくれた。民権運動激化事件として位置づけされているが、加波山事件に関わった栃木の民権運動家は多い。栃木の自由民権運動の歴史が満福寺境内にも横たわっていることを感じた。

034   田中一村が眠る真言宗智山派の満福寺は鎌倉時代に創建された。天正年間には皆川広照の栃木城の築城と栃木町つくりのために太平山麓から現在地(栃木市旭町22-27)へ移転してきた。

  江戸期には杢冷川にかかる東木戸の守りを務め、隆盛した寺院。しかし、幕末の栃木町四大火事の一つである文久2年(1862)の「本陣火事」で強い西風に煽られ、大伽藍等の御堂をことごとく失うなど辛苦の時代を経てきた。しかし、全山焼失の本陣火事から110年後の昭和47年(1972)に現住職、長沢弘隆氏が晋住し、復興の機運を得て本堂を再建し、昭和60年(1985)には客殿・住坊を建設。さらに、平成23年(2011)、開創750年を期に新本堂「大毘廬遮那殿」を建立。旧本堂は大師堂となり、同時に境内も大規模整備された(ウエブ「ウィキペデイア、栃木市満福寺」より)。

 昭和27年栃木市発行の「栃木郷土史」の中で、「明治12年に建築された栃木裁判所の正門は、その昔満福寺の表門であった」と記述されている。以前から江戸期に栃木町の東木戸を守る満福寺の表門が奥にあるのが変だなと思っていた。表門が街道に面していたことで、木戸番としての役割をしていた寺院であったことが分かった。

  大師堂から新本堂を見渡す。古い歴史を内包しながら、満福寺は大きく変わろうとしていることを実感する。田中一村への関わり方を寺院として見ると、住職のゆったりと姿勢、お話しから人への温かさを感じた。歴史的にも、地理的にも興味のある寺院として注視していくつもりだ。

043_2   4月24日の栃木文化会館における寺元晴一郎氏の講演、「栃木の魅力ある文化とまちづくり」の中で、「歌麿と一村」の二人を中心にしたまちづくりの大胆な提起があった。

  それは、「栃木市では歌麿三部作等を高度な複製画で制作し、常設展示をしている。田中一村の作品も同じように高度な複製画を作成して展示をしていったらどうか。栃木市は東京から近いことから、栃木市のアピールにもなる。歌麿と同様に田中一村と栃木を結ぶものを是非検証していって欲しい。ただし、実行する時期とハンドルのまわし方には十分に検討を要しますよ」との暗示ある寺元氏の提案があった。

  十分に検討を要する話の内容であった。

013_6401  田中一村の絵の中で、私は昭和23年の千葉時代に描いた「秋晴れ」が一番魅かれる。黄金色した空を背景に大木の幹の枝に干された大根。大根の白さがあざやかに浮かび上がってくる。大木の下では争っている軍鶏が見える。のどかな農村風景だが、どこか不気味な険しさが感じられる絵だ。家庭菜園をしているからかもしれないが、大根は野菜の王様だなあ…と。この絵を見て改めて思えてきた。

   展覧会以外に田中一村の絵を見たいと思っても、「奄美」だ…。やはり遠い、気軽に行ける所ではない。

  寺元氏が提起した、一村が生まれた栃木のまちの中で歌麿同様に一村の複製画を常設で展示を行う。東京から近い場所。一村が眠る「満福寺」、一村が生まれた「泉町界隈」、一村の父か祖父が作ったかもしれない「雲龍寺御堂向拝の龍の彫物」。その光景を思い浮かべながら、奄美以外に一村と接する東京から近い町、栃木かなあ…、と思ってきた。

  「田中一村と栃木を結ぶもの」。――考えながら調べていこう。

                                                     《夢野銀次》

≪参考・引用資料本等≫

高倉健著「南極のペンギン」(2001年2月、集英社発行)/中野惇夫著「アダンの画帖―田中一村伝」(1995年4月、小学館発行)/大矢鞆音著「田中一村―豊饒の奄美」(2004年4月、日本放送出版協会発行)/「田中一村の世界」(NHK出版編集発行)/「栃木県郷土史散歩」(1980年1月、朝日新聞社宇都宮支局編集、落合書房発行)/「栃木郷土史」(昭和27年9月、栃木市役所発行)/ウエブ「ウィキペディア・栃木市満福寺」

 

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巴波川の上流―沼地と古戦場・川原田を歩く

1  「湧き水がある、凄いなあ」思わずうれしがこみあがる。ボコボコと水があふれてくる。この湧き水のある湧泉池は栃木市総合運動公園の北東の先端にある。

  湧泉池から流れる水流は親水池に流れ、公園内を縦貫している荒川に合流している。西方町小倉堰から用水として流れてきた荒川は、この運動公園内を流れ、巴波川に合流している。

   栃木市川原田町にある栃木市総合運動公園は昭和54年に開設されている。最初に出来上がった総合体育館は、昭和55年の栃の葉国体のハンドボール、フェンシング会場になっている。都市公園として供用しながら整備を行ない、平成8年3月に全面開設になっている。

09203002_161  総面積369,000㎡の敷地内には総合体育館、陸上競技場、サブ競技場、硬式野球場、軟式野球場4面、多目的広場、ソフトボール場、テニスコート16面、弓道場、屋内・屋外プール等がある。スポーツを楽しみ、広い公園内を散策する多くの市民が集う場所だ。

  硬式野球場に私は春・夏・秋の高校野球を自転車に乗り、栃商応援によく観戦に来る。駐車場はあるが、土日は満杯になることが多いからだ。また、バス旅行の際には運動公園内の駐車場を待ち合わせとして利用している市民も多い。

Photo_2   「栃木町の歴史はうずま川の歴史であるといっても過言ではない。うずま川の故に繁栄し、うずま川の故に衰微した」と明言が記されている日向野徳久著の「改訂、北関東における一封建都市の研究」は昭和35年(1960)に改訂版として発行され、今なお読み継がれている名著である。

  同書には「むかし栃木は小倉川のはんらん原であったことがあり、室町時代頃までは、うずま川・杢冷川等の蛇行する原野であった」と栃木まち周辺一帯を「はんらん原」であったと記述している。うずま川へのロマンを秘めた文言には氏特有の哀愁を感じさせる。栃商時代に、日向野先生に近づいてもっと教えを乞うしておけばよかったと悔の念が湧いてくる。

015  さらに同書には、「栃木市は北関東の中央部を占め、その西北方に連なる足尾山塊は、西北部に高くそれより東南部に傾斜し、その傾斜にしたがって幾多の河川が流出している。(略)これらの河川はいずれも多量の土砂を運搬、沖積し、扇状地をそれぞれ形成している。栃木市北部より西北部にかけて、皆川村の大皆川・泉川・新井・吹上野中村の南部をつらねる弧状の線を中心として、東は赤津川、西は永野川はんらん原に連続する線に湧泉が存在する。土砂の堆積している扇状地は、水が地中に浸みこみやすく、これが末端にいたって泉となって湧き出るものであり、これらはいずれも下流の水田耕作地帯に無限の灌漑用水を提供している」と湧泉の多い栃木町周辺の地歴的特徴点を言い当ている記述になっている。

Photo_4    昨年(平成27年)の9月10日の大豪雨の際には、栃木市街地は床上浸水を含めた冠水状態となり、大きな被害をもたらした。溢れ出た地下水も冠水の一因になっていると言われている。

  読売新聞の4月3日朝刊の「とちぎ見聞録」のコラム欄で「とちぎ」の地名の由来を考古学者、塙静夫説の紹介記事が記載されていた。

   「栃木という漢字から木をイメージするが、大切なのは『とちぎ』という音に戻ること。『場所』を意味する接頭語『と』と、動詞『ちぎる』に由来する『ちぎ』の組み合わせで、川の氾濫による浸食・崩壊をたびたび受けた地域という意味があります」として、「水害に遭いやすい場所」から栃木の地名が生まれたのではないかと記述されていた。いろいろある栃木の地名の由来の中で、この説が一番説得があると前から思っていた。

2  総合運動公園のある栃木市川原田町は巴波川の上流に位置する。かつて「しめじが原」と云われ、沼地・湿地帯となし、「はんらん原」の一角を占めていた地域でもある。栃木市街地を流れる巴波川の上流・源流を探りながら古戦場を思い浮かべ、想像なのか夢想なのかを楽しみながら総合運動公園から歩き始める。

  歩く道順は、総合運動公園内にある親水池(湧水池)、御手洗池と荒川合流地を見て、北側にある三日月神社・川原田公民館にでる。そこから、一兵淵…川原田城址…鹿島神社…天神淵…川原田上水場…笹淵…大淵沼…粟野街道…白地沼…粟野街道…栃木市総合運動公園とした。吉根沼の所在は確認できないため、後日調べ直してくることにした。

  平成15年(2003)6月に栃木自由大学現地研修ツアー「巴波川の水源を訪ねて」と題して実施した研修報告がウエブネットに記載されていた。実施を行なった「ネットワークとちぎ」の関係者から当時の地図や資料を戴くことができた。これを参照しながら歩いていく。

  戴いた資料の中に「大正2年下都賀郡吹上村略図」があった。かつての総合運動公園の敷地には「鹿島神社」が鎮座しており、永野川への分流前の赤津川の蛇行する川筋が記載されいる。貴重な資料として大切にしていく。

Photo_6  総合運動公園内には小倉堰から流れてくる「荒川」と「御手洗沼」、「親水池」がある。ウエブに記載されている栃木自由大学現地研修ツアーでは、現地案内を栃木市議会議員の故森戸常吉氏が「今昔話」をしながら歩いた報告になっている。この「今昔話」を引用しながら歩くことにする。

  荒川に合流している御手洗沼について森戸氏は、「ゆうに長さ約100mはある広さで、水深は、夏場は深いところで3mくらいの沼だった。水浴びしていても10分も入っていられない冷たさ。沼底にはマコモという葉の長い水草が群生しており、子供たちが素潜りすると足にからんだ。地元のがき大将は、それを刈り取って遊び場も作った」と記されいる。また、公園東の出口付近にあったと云われている吉根沼については、「語源が植物の『よし』であるように葦が密生していた。水深は、御手洗沼と同じくらい深かった」と語っている。

 湧き水特有の水の冷たさが伝ってくる。今は整備されているが、当時の沼の水深が3mというから、かなりの深さであったこと。それだけ水量が豊富であったということが分かってくる。

Photo_8  総合運動公園の北側に豆腐をお供えする「三日月神社」がある。そのすぐ東にある川原田公民館の脇道から北上すると、細長い「一兵淵」という地帯に出る。

  森戸氏今昔話では、「一兵淵では、割り上げという手方で、水圧を上げ、田に水を引いた。一部は、水を送るための足踏み水車もあった。ニワトリのえさになる『たしゅろもく』という水草が密生していた。昭和30年ごろは、渇水期の冬場には、リアカー2台分くらいのザリガニが捕れた」と語っている。

  「足踏み水車」は分かるが、「割り上げ手方」につてはどういうものなか分からない。課題として、調べていくことにする。

Photo_9  「一兵淵」の先を歩くと左側に「館跡地」がある。土塁のような盛り地。そのそばには空堀が通っているように見える。現在の敷地内では畑と「タテ製作所」としての工場が操業している。

  森戸氏今昔話では、「(上流の)天神淵から南に3本の堀が延びていた。昔の館跡と思われる館があり、今でも『館』という屋号のある家の西側を南下する『館堀』、一兵淵から吉根沼へ続く『中堀』、そして淵から南東方面に伸びる『長瀞』。長瀞は実にゆっくりした流れだった」と地理的特徴を伝えている。

054  現在の盛り地のそばの空堀を「中堀」と言い、その「中堀」は、今歩いて来た「一兵淵」から総合運動公園内にあった「吉根沼」まで続いていたということになる。右手東側を流れている川がかつての『長瀞』であった。ということは中堀と長瀞で「二重堀」を構成する中世の「館・城郭」であったのではないかと思われてくる。

  平成27年(2015)3月栃木市発行の「栃木市遺跡分布地図」の中には、この地を「川原田城址」として黒枠で囲っている。詳細は不明としながら「台地、現状水田、畑地、中世以降時期不明、170m×200m」と記されている。大正2年吹上村地図には「館」と記されている。中世以降の戦国期、城郭または館として存在していたということになる。

  それにしても34,000平方m(約1万300坪)は広い敷地を有した館跡としての「川原田城址」になる。観光地図にも出てこない館跡・城址があることに驚かされる。第1次皆川宗員の子孫に「河原田氏」が出てくるが、その河原田氏の「館跡」だったのだろうか?

Photo_5 「其男宗成始めて皆川宮内将輔と号す。大永3年(1523)11月3日、宇都宮忠綱と、都賀郡川原田に於いて合戦して討ち死す」と始めて長沼から皆川と名乗る皆川宗成のことが記述され、川原田合戦で討ち死にしたことも記されている河野守弘著「下野国誌」。川原田合戦の数少ない史料になっている。

  鹿沼南摩地方から南進してきた宇都宮忠綱1800名の軍勢は白地沼北に本陣を構える。迎える皆川宗成・宗勝父子1000名の軍勢は「川原田城」と「平川城」を拠点にして迎える。双方の激しい戦いは平川城を守る宗成の弟、宗明が討ち死にする。さらに皆川城主の宗成も討ち死にをする等、形勢は皆川勢が押され、不利な戦いになっていた。しかし、小山・結城勢による宇都宮本陣後方からの援護攻撃により、宇都宮勢は撤退においこまれていったという川原田合戦(大森隆司著「下野の動乱」より参考に記述)。
  東武日光線「合戦場駅」の北東に川原田合戦における戦死者を葬ったという「升塚」が史跡としてある。

Photo_6  栃木市遺跡分布地図に記されている「川原田城址」。川原田合戦の際に皆川城主の皆川宗成が川原田城を陣構いとして出撃していったのか?確かな史料はない。しかし、宇都宮勢の本陣が白地沼の後方、現在の県南自動車学校付近と考えるならば、この川原田城と一直線に相対する布陣になってくる。

  白地沼から粟野街道を挟んで「川原田上水場」「笹淵」にかけての一帯は、双方で250人を死者をだす大激戦の古戦場であったことに今更ながら驚く。

 「天神淵の深いところは、南側は大人の膝くらい、小さい子どもでも水浴びができた。北側の淵は、水深4~5m。危険な個所があって、10歳くらいの子がおぼれて亡くなった」と語る森戸氏の今昔話。

076_6 この今昔話の中に昭和35年頃から淵の水が干しあがってきたことが語られてくる。

 「天神淵から笹淵へ行く途中、川原田上水場は土地が低く、麦も発芽しない土壌で、昭和50年に市民の水道確保のために作られたものだが、地下深く50mから水を吸い上げている。その頃、巴波川水源の淵の水が完全に干しあがったこともあり、因果関係が取りざたされたが、上水場ができる前、昭和35年頃には淵の水はすでに夏場の大雨の時期を除いては干しあがっていた。淵の水が干しあがった原因は、周辺住民の増加に伴う生活用水の需要が増えたことと、アスファルトの舗装道路整備などにより、土地の保水力が落ちたことによるものと考えている」と語ったことが記されている。本当にこれだけの理由だけなのか?疑問が残る。

Photo_21 ここまで歩いてきた水辺の景色の中で一番ゆったりとした気分にさせてくれたのが「笹淵」。川の流れが緩く穏やかになっている。美空ひばりの歌う「川の流れのように」が浮かんでくる。

 今昔話では「笹淵の鯉は、よく育ち、ダルマ鯉とも呼ばれるほど鯛みたいに太い姿であった」と語られている。

  「天神淵」から「笹淵」にかけて湧き水は見当たらない。また、川の水が深く淀むと言う「淵」とは言えない川の姿になっている。しかし、この川を流れる水は何処からきているのか?という疑問が湧いてきた。

 今昔話は続く。「大淵沼は、その名のとおり広い沼のような淵で、養魚を試みた人もいた。他の淵と同じように、昭和35年頃、淵の水は干しあがり、空堀りのような今の姿になってしまった」と語り終えている。

Photo_22 広大な「大淵沼(だいぶちぬま)」には水はない。水害を防ぐ遊休地として枯草が沼地を覆うっている状態だ。荒涼と索漠した池の跡地の畔に地蔵尊が建っている。

 大淵沼の脇を流れる川は下流の「笹淵」「天神淵」を流れ、総合運動公園に注いでいる。「この川の水は何処からきているのかな?」と、また浮かんできた。大淵沼を歩きながら探しに行こうかとふと思った。上流を辿って行けばよいが、今回はここから「白地沼」を回って行くことにした。

Photo_23  「川原田合戦」で日向野徳久氏は都賀町町史の中で「討ち死にした皆川宗成の子、成勝の川原田合戦後の家臣団、周辺地区の在地土豪への対策が功を奏して、宗成時代より支配圏が拡大することになった」と意義付けをしている。

  江田郁夫氏は著書「下野長沼氏」で宗成の祖父である長沼秀宗が子の氏秀とともに奥州南山(南会津)より皆川荘に入部してきたのが15世紀後半中頃(1480年頃か)と指摘をしている。

  皆川荘にいた第一次皆川氏は150年前にすでに断絶をしている。皆川秀宗父子の入部には古河公方、足利政氏が関わっているとしている。それから約40年後に「川原田合戦」がおこっている。

 鎌倉御家人名家、長沼氏の流れを継ぐ皆川氏は、南進策を進めてきた宇都宮氏にとって制圧する地帯の武将としていきなり出現したことになる。「川原田合戦」以後も俊宗、広照と数度との戦いが展開されることには、宇都宮氏の南進へのこだわりがあったのではないかと思えてくる。名門、長沼の血を継ぐ皆川氏の栃木支配圏の活躍と拡大は、今歩いてきた川原田から始まったのだと思えてきた。

  白地沼から粟野街道に出て、総合運動公園に戻ってきた。約2時間30分の行程だった。

  森戸氏の「今昔話」にでてくる「川遊び」や「淵や沼の水の深さ」から水量の豊富さを思い浮かべることができる。今回は淵からの湧き水を見つけることはできなかった。次回、川原田を歩く時には涌き水を発見したい。……しかし、地下水は無限ではないことを今一度検証していく必要があると思えてきた。

                                        《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫

日向野徳久著「改訂、北関東における一封建都市の研究」(昭和34年4月発行)/「栃木市遺跡分布地図」(平成27年3月、栃木市発行)/河野守弘著「下野国誌」(1966年8月、徳田浩淳校訂、下野新聞社発行)/大森隆司著「下野の動乱」(1987年7月、下野新聞社発行/「都賀町町史」(平成元年3月、都賀町発行)/江田郁夫著「下野長沼氏」(2012年6月、戎光祥出版発行)/ウエブ・ネットワークとちぎ現地研修報告「巴波川の水源を訪ねて―昔かたり」(2003年2月・6月)

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栃木市文化芸術館・文学館基本構想から思うこと

002_2_2  巴波川に架かる常盤橋から運河沿いに旧栃木市役所別館、栃木中央小学校に続く道がある。私の最も好きな栃木の町並みの景観だ。県庁掘りとそこから巴波川に流れる漕渠(そうきょ)・運河は栃木市民として誇れる史跡でもあるからだ。

  栃木市では、平成28年度の予算として鈴木俊美市長の公約である文化芸術館(仮称)と文学資料館(仮称)の整備費用として5800万円、旧栃木第一小学校を活用する地域交流センター(仮称)の整備費2400万円、嘉右衛門町伝建地区の拠点整備費2700万円を計上して本格的な文化芸術のまちづくりが開始されることになってきた。

  平成28年2月に栃木市は「栃木市文化芸術館・文学館基本構想」を発表し、パブリックコメントの募集を行なった。この基本構想では、文化芸術館を旧栃木市役所建物跡地に新たに建設する。隣接する別館は大正時代の建物景観を活かした文学資料館にする。県庁堀り南の向い側の旧第一小学校は地域交流センターとして活用し、敷地の東側に保育所を建設する。明治5年から明治17年まであった栃木県庁舎。その県庁舎を城郭堀のように囲む県庁堀りは今も史跡として残っている。この史跡県庁堀の景観を活かした建設構想になっているのがうれしく思う。

004  今回の基本構想の文化施設は「文化芸術を親しむ機会の増加と充実、および資料等の調査研究の拠点」として位置づけされている。とちぎの歴史・文化・芸術を、みんなで楽しみ・広め・創る拠点と合言葉として、「わたしが光り みんなで輝く文化の息づくまちづくり」を理念にしている。

  私は、「光り輝く文化の息づくまち栃木」と思うようにしている。

  そして基本構想には5つの役割と6つの機能が明記されている。5つの役割としては、A.市ゆかりの文化歴史資料や芸術作品を収集・保存・活用し受け継ぐ。B.魅力あふれる芸術作品や貴重な文化歴史資料を鑑賞できる多彩な展覧会の実施。C.ふるさとへの愛着と誇りを育む機会の充実。D.市民自らが参加・参画し、活動・交流できる機会の提供。E.歴史や文化芸術により賑わいの創出や交流人口の増加を図る蔵の街の観光拠点を担うことが記されている。これらの役割の担うための6つの機能が追記されている。6つの機能とは、博物館法の定める基本機能である①収集・保存、②調査・研究、③展示、④教育普及機能に、⑤交流、⑥情報の受発信機能の2点を加えている。博物館登録を行ない、調査研究機関を設置していくことなど、これまでにない文化芸術に対する思いを伺うことができる。

009 課題は出来上がった施設の運営面にあると思う。現在の文化施設である文化会館と図書館は指定管理会社によって維持運営されている。維持管理、経費削減が先行され、肝心の企画運営にどれだけ力点が置かれているか疑問がある。

 栃木県下の宇都宮・足利・鹿沼・佐野市においては文化会館・美術館運営については公益法人文化芸術振興団体を設置し、市民等が加わり運営されていると聞く。また文化芸術団体の年間事業報告・計画と決算・予算がネットで一般公開され、誰もが閲覧できるようになっている。

014  指定管理下の文化会館では報告も計画も一部の市民にしか明らかにされていないのが現状である。また、26年公益財団法人うつのみや文化創造財団が行なった宇都宮市文化館での企画事業が38事業、入場者が延べ72,378人に対して、指定管理会社が行なった栃木市文化会館での自主事業が14事業、延べ2,412人の入場者になっており、宇都宮市と大きな開きがある。簡単に比較はできないながらも企画運営への温度差が違うのではないかと思える。

  文化施設は行政の財産ではなく、市民共有の文化施設であることを今一度思い直していく必要があると思える。

  基本構想では施設の運営についてはこれから検討していくこととしているが、市民主体の運営であることを明記する必要がある。そうでなければ、従来から言われる「ハコモノ行政」として市民から「もったいない」「将来に借金を残すな」「介護、社会保障に予算を使え」と言われ、計画がとん挫する危険をも内包している。市当局においては、文化芸術が活き活きした町をつくることや文化活動のもつ意義、役割などを市民に理解を求めていく働きかけがもっと必要でないかと思えてくる。

025  昨年の11月に栃木第三小学校4年生による「子どもたちによる例幣使行列」が栃木市嘉右衛門町の例幣使街道で行なわれた。

 嘉右衛門町は平成24年(2012)7月に国の重要伝統的建造物保存地区に選定され、建造物の修繕保存作業が進められている。今回の市の予算で拠点施設整備費用として2700万円計上されている。歴史資産としての活かす工夫が始まるものと伺える。

  嘉右衛門町に訪れる観光客や一般市民がどのくらいいるのか分からない。しかし、賑わいのない町並みの印象を受けてしまっているのだ。

 歴史資産として嘉右衛門町一帯を活かすには、この一帯をミュージアムにして、保存・調査と展示活動を進めていく施策が必要だと思える。運営主体は前記の文化芸術団体が地域の人を加えて行う。そして中心となるイベント会場を設置し、伝統芸能等の発表を行うなど、多くの来訪者を迎える企画運営が必要であるのではないかと思う。

  少子高齢化・人口減少の時代だからこそ、自ら学び、知識情報を得、人との交流、感動を共有する空間・文化施設が求められている。今回の基本構想に生涯学習センターとしての要素を含めて、魅力あるまちづくりを目指して計画を推し進めていって欲しいと願う。

≪参考資料≫

 「(仮称)栃木市文化芸術館・文学館基本構想素案」(栃木市・栃木市教育委員会/平成28年2月発表)     

                                    《夢野銀次》

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新たな地域完結型医療体制の構築―とちぎメディカルセンター

108  「小さいなあ…。もっと大きな病院が建つと思っていたのに」と、栃木駅南口スーパー「とりせん」への買い物の際、工事中の建物の見ながら思った。5月の開設に向けて駐車場や道路等インフラは整備されてきている。

  戦前の昭和13年にできた「下都賀病院」。栃木市富士見町にある下都賀総合病院は父や兄が世話になってきた病院でもある。最近ではこの私も人間ドックにおける早期発見で、「膀胱がん除去」「呼吸器疾患治療」「大腸ポリープ除去」と入院、治療を受けている病院でもある。

  下都賀病院は築60年を超える建物の老朽化と病院経営再建をきっかけに、新たに栃木市内にある3病院の統合によって、「とちぎメディカルセンターしもつが」という名称で生まれ変わることになった。ベットの数が307床。屋上にはヘリポートが供えられている。5月になったら4か月1回の膀こうガンの定期検査をこの建物で受けることになる。

003  栃木市内にある下都賀総合病院、とちの木総合病院、下都賀郡医師会病院の3病院が統合再編し、平成25年(2013)4月に発足した「とちぎメディカルセンター(略してTMC)」として今年(平成28年)4月から本格的に稼働を開始する。メディカルセンターへの理解を深めるため、2月27日(日)に栃木文化会館において公開シンポジウムが開かれた。会場はほぼ満杯の聴衆で埋まった。

 メディカルとは医療のこと。横文字ではなく、とちぎ医療総合センターしもつがと呼んでもよいのではないかと思う。病院という名称がないのはどうしてなのか?

 当日のチラシに「とちぎ(地区)の新しい医療体制を目指して」を副題として、舞台には「とちぎメディカルセンターの役割と挑戦」という横幕が張られてあった。

  来賓の鈴木俊美栃木市長からは、下都賀病院の病院経営と建物老朽化による建て替えを検討している時、厚労省における地域包括ケアシステム構築における臨時特別交付金制度を活用して事業をすすめたことの報告があった。財政的に市当局は「地域包括ケアシステム構築」を活用をした。そのことは地域医療システムの構築こそが今回の3病院の統合再編の命題であることが分かった。

053_2  厚生労働省医療安全推進室長の平子哲夫氏が基調講演「地域で支える医療・介護」があった。講演時間が50分と恐ろしく短い講演。講師はまず冒頭で、「2020年の東京オリンピックより、私どもは団塊の世代が75歳を迎える2025年を最大の医療体制整備の課題としている」ことの強調から講演が始まった。

  講演では高齢者時代を迎え、「平成37年(2025)に団塊の世代約800万人が75歳を迎えることは国民の医療や介護の需要が増大する。そのため高齢者の尊厳の保持と自立生活の支援のもとで可能な限り住み慣れた地域で、自分らしい暮らしを人生の最期まで続けることができるよう、地域の包括的な支援の構築をできる体制にもっていく」という国としての施策方向性の紹介があった。そして、「今回のとちぎメディカルセンターのとりくみは全国的に注目を集めている。是非地域の人々と共に事業が推進されることを期待します」との結びがあった。

055  「地域包括ケアシステムの構築」のあらましが講演の中でスライド紹介された。

〇団塊の世代が75歳以上となる2025年を目途に、重要な要介護状態になっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けるよう医療・介護・予防・住まい・生活支援が包括的に確保される体制(地域包括ケアシステム)の構築の実現

〇今後、認知症高齢者の増加が見込まれることから、認知症高齢者の地域での生活を支えるためにも、地域包括ケアシステムの構築が重要。

〇人口が横ばい75歳以上人口が急増する大都市部、75歳以上人口の増加は緩やかだが人口は減少する町村部等、高齢化の進展状況には大きな地域差

〇地域包括ケアシステムは、保険者である市町村や都道府県が地域の自主性や主体性に基づき、地域の特性に応じて作り上げていくことが必要。

050_3  とちぎメディカルセンターとして開始するにあたり、麻生利正理事長より「急性期から回復期、在宅・介護に至るまで、(病院完結型から)地域完結型の医療体制の構築を目指して栃木地区の3病院が統合し、とちぎメディカルセンターが発足しました。3病院の持っている機能を強化し、地域に医療・保健に貢献していきたい」との基調報告があった。

  このことから、病院名を使用しないのは地域完結型医療体制を推進していくためなのだと理解した。ただ当分はなじみがでないだろうなと思える。「病院へ行く」から「メディカルセンターへ行く」…言いづらい。

  機能の分担では、医療における急性期病院として「TMCしもつが」が行なう。回復期・慢性期については「TMCとちのき」。高度医療を必要とする患者は大学病院に。センターとして訪問看護、在宅医療の提供を行なう。郡医師会病院が総合保健医療支援センターとなり保健・福祉事業を行なう。そしてメディカルセンターとして介護及び高齢者福祉として居宅介護支援事業所によるケアプラン作成、介護老人保健施設による入所・通所サービスの提供、訪問リハビリ等を行なっていくとしている。

081  最後の公開シンポジュウムにおいては、栃木市保健部長、郡医師会、独協医科大学、自治医科大学、栃木地域女性会が参加して、それぞれの立場からメディカルセンターへの期待と要望が出された。とりわけ開業医の立場から郡医師会の意見が印象に残った。

 それは「地域医療として、開業医にはかかりつけ、看取り在宅治療などが求められている。しかし、一人の開業医、診療所では24時間、365日、対応できない。メディカルセンターにおいて在宅医療拠点としての連携の強化、在宅医療支援診療所などの場を提供して欲しい」との意見であった。

  従来の病院完結型から、とちぎメディカルセンターは地域完結型医療体制の確立を目指す。それは社会保障制度改革の一貫として位置づけられる重要な課題であると思う。

  地域では認知症を含め治療・介護は相当な辛苦が伴う。それを進めていくには地域包括支援センターとの連携が不可欠だと思えてくる。この公開シンポジュウムに地域包括支援センターが登壇していなかったのが残念なことだった。しかし、とちぎメディカルセンターは国の補助金を得てスタートする。そのことを踏まえて地域完結型医療体制の構築を整えていって欲しいと願う。

                                             《夢野銀次》

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正月―我が家の日の出と三日月神社への参拝

013_2 平成28年(2016年)の元旦。――明方。

我が家の軒先から初日の出を見る。

ゆっくりと昇ってくる日差しは我が家の庭、菜園を照らし出してくる。

引っ越してきて6年目の新年を迎える。敷地にある家庭菜園。

昨年暮れにスコップで土起しを行なった。

土起しを行なった畑の土壌はふんわりと黒く盛り上がる。

――畑らしい土になってきたことを実感する。

020_2_2

 「玉ネギ」「ニンニク」を植えた畝の西側に、ビニールで風よけを設置した。

北西の風が強い土地柄なのだ。

 6年前に栃木市に戻ってきて、翌年の冬には耳たぶにしもやけができた。高校まで住んでいたが、できたことはなかった。風が強いのだ。

以来、耳当てをして、しもやけを防いでいる。

053  正月三日目、昨年からの懸案であった「三日月神社」へ参拝に行く。元旦には神明さんに初詣をしている。

 栃木市川原田町535番地にある「三日月神社」。栃木市総合運動公園の裏側にある神社だ。「月讀命」(つきよみのみこと)を現す「朏尊」(ひそん)を祭神として祀っている。

 1月3日は例大祭日。御神楽が奉納されるなど一番の賑わいをみせる日になっている。イボ・アザ・シミ・ソバカスを治癒させる神として根強い信仰がある。

 肌を綺麗にして欲しいと願うことから「豆腐」をお供えして参拝する風習がある。

052 境内は、早い時間のためなのか、参拝者は20~30人と思ったより少ない。

 新築された神楽殿が建っている。昨年、来た時には神楽殿は取り壊され、工事が始まる時だった。

午前10時過ぎ頃から御神楽が演じられるのかもしれない。

 ――まずは参拝をする。

拝殿の脇のテントで豆腐が売られていた。

040 …やはり売っていたのだ。一丁100円のお供え用の豆腐。

スーパーで売られている普通の豆腐だ。

 この豆腐、どこに置いたらいいのか?

社務所の人は指を指して教えてくれた。

拝殿にある御賽銭箱の前に豆腐が並べられてある。

 拝殿に進み、お供えの豆腐を置く。弐例・弐拝・壱例をしての参拝を行ない、参拝を終了する。

045 拝殿前にはたき火が焚かれ、数人の人が輪になって談笑している。

 地域の神社特有の囲みの雰囲気を感じた。甘酒を呑みながら、私と距離があると感じた。その距離を縮めるには少し億劫な気もした。よそ者として、私は見られている。御神楽の準備が進められていたが、帰ることにした。

 年老いた御婆さんが、豆腐のお供えをして参拝する姿も見ることもできた。

 豆腐をお供えして参拝する風習慣例は脈々と江戸時代から受け継がれている。実際にあることを知った。

三日月神社を訪れて、地域の神社寺院には長い歴史が流れていることを改めて感じた。

                                         《夢野銀次》

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正月三日、豆腐をお供えしてお参りする栃木市「三日月神社」

040  「ここにもあるんだ。日向野先生が書いた石碑文が…」。三日月神社境内の社務所脇に建つ石碑。その石碑を見上げながら、日向野徳久氏の栃木史に対する足跡の多さに驚く。

  「三日月神社由来記」と刻まれた石碑。「片柳用水記石碑」同様に日向野徳久氏が撰文をし、池澤洸氏が謹書している。台座から3メートル高さに建っている石碑。栃木商高時代にお世話になった先生方達だ。

  「日向野さんは何回も来て下さって、詳しく神社のお話を訊いてくださいました」と神職の息子さんは私に話してくれた。

   栃木市川原田町535番地に鎮座する三日月神社。栃木市総合運動公園のはずれ、北東に位置する。木造亜鉛巻の神明鳥居には月の神「月讀命(つきよみのみこと)」を現す「朏尊(ひそん)」の額が掲げられてある。拝殿手前の神楽殿は建て替え工事中だった。以前に栃木総合公園野球場へ高校野球を観に来た時、駐車場が満杯のため、この付近に車を停めたことを思い出した。

036   昭和60年11月に建てられた石碑には、三日月神社建立の起因から江戸時代の神社の賑わい、旗本渋谷氏の江戸屋敷への御神体の移動から再び当地に戻り祀られ、明治期の神社の存続などが記されている。

  神職芹澤氏は石碑文から常陸国の大掾氏(だいじょうし)の出自から皆川氏に仕え、帰農した家柄と伺える。闇夜の中、7名の兇族に襲われながら三日月丸にて賊を退避させたことから三日月丸を御神体として月讀命=朏尊(ひそん)を祀る社殿を創建したとしている。

 石碑には「三日月神社は歳月を経るしたがってその霊験のあらたなことが知れわたり、縁日には除禍招福を願う人々が遠近より集まり、参道の両側には露店が数多連なって賑わうに至った」と当時の賑わいが記されている。

044_2  参道の露店では三日月神社に供える豆腐を売っていたことが「栃木の街道」の中で記述されている。同書の日光例幣使街道の章を日向野徳久氏が次のように執筆している。

  「正月3日・3月3日は縁日として(三日月神社は)非常なにぎわいをみせた。縁日には参道の両側に豆腐屋が何軒も戸板をならべて店をはった。お参りに来た善男善女がその豆腐を神様に供えるので、豆腐はまさに飛ぶように売れた。神社がわでは供えられた豆腐を、裏から豆腐屋に払い下げる。豆腐屋はまたそれを売る」と記述されている。

 お供えものの豆腐を繰り返し売っていったというのだ。何故豆腐をお供えしたのだろうか?

032_4  芹澤神職の息子さんは、「豆腐を板の上に載せて売っていたと聞いている。何回もお供えに使うことによって、豆腐のかどがとれて丸くなるってことですね」と社務所の縁側に座った私に語ってくれた。ただ、どうして三日月神社へのお供えに豆腐なのかは、はっきりとは解からないとも話してくれた。

  陰暦の3日の日に初めて月が姿を現す。「吾に七難八苦を与えたまえ」と言ったという山中鹿之助ではないが、月光に照らしだされてくる風景は何か神秘性を感じてくる。

  三日月神社では現在でも正月3日に豆腐をお供えしてのお参りが続けられている。社務所の前でお供え用の豆腐を売る。どのくらい豆腐を用意するのかは話してくれなかったが、参拝者は購入した豆腐をお供えしてお参りをする。「今でも…!」と驚いた私に、「参拝者の中には豆腐を縁起ものと思い、家に持って帰る人がいるんです。本当は豆腐はお供えもので食べてはいけないことになっているのですけど」と苦笑しながら語ってくれた。「今度のお正月3日、お越しください」との誘いを受けた。豆腐をお供えしてのお参りを見てみようと思う。

048_2  豆腐を三日月神社に供えて参拝する風習はつくば市にある朏神社(みかづきじんじゃ)にもあることがネット上に記載されていた。

 また、ブログ「月と季節の暦第二話三日月信仰 志賀勝」のなかでも、根岸鎮衛(もりやす)著の「耳袋」を引用してのお供え豆腐について、「病気治癒を願う三日月信仰がいつ発生したか不明だが、江戸時代末期には人気ある習俗だったことが分かる。いぼのほかにも、できものや眼病など様々な病いの予防、回復が祈願された」と記述されている。

  この「耳袋」は旗本・南町奉行の根岸鎮衛が江戸時代の中期から後半の天明から文化にかけて同僚や古老から聞き取った話を書いた随筆集になっている。

 栃木図書館で借りてききて「耳袋」(岩波文庫版)の本を開いて読む。岩波文庫下巻の中の「いぼの呪(まじない)いの事」にこう記述されている。「いぼの呪い品々あるなれど、三日月へ豆腐壱丁を備え念頃に祈る時は、其の治る事妙也。右豆腐は川へ流し捨る事也。あやまって其の豆腐喰うものは、いぼ其の喰う者へ生ずる事また奇妙のよし、人の語りぬ」と、当時の三日月神社への豆腐のお供えの風潮が記述されていておもしろい。

050_2   「ずーと昔、栃木の三日月神社に行った時、参拝に来ていたご婦人に聴いたことがある。そのご婦人はつるつるした肌になりたいから豆腐をお供えするのですと答えてくれていたな」と私の知人は電話の向こうで話してくれた。

 「いぼ」「できもの」「肌」と「豆腐」「月」を重ねてイメージしていくと類似していることに気がつく。類感性というのだろうか。理由はともあれ、豆腐に自分の想いこめて祈願する。それで良いのでないかと納得してきた。

 「とーふー、とーふ、とーふー」とラッパを鳴らしての自転車豆腐売りや町内に一軒はあった豆腐屋。豆腐は手軽な食べ物であり、今でも食卓には欠かせないものとして調法されている。豆腐のお供えは祈願する参拝者の手ごろなお供えものとして、現在まで続いている習俗なのだと思えてきた。 

006   栃木市嘉右衛門町を縦断している日光例幣使街道。その中頃に自然石でできている庚申塔がある。

  「右日光 おさく道 左三日月」という道標が刻まれている。三日月神社へはこの庚申塔から斜め左へ北に3キロ進むことになる。江戸時代から栃木町の多くの人はこの参道を伝って三日月神社にお参りしたのかもしれない。

  私も庚申塔を斜めに左折しては道幅約3mの狭い参道を自転車を押しながら歩いて進む。参道の下は長沼からの用水が暗渠となり分流している。

007   参道裏からの「油伝味噌・蔵造り」を右に見ながら、長沼跡水源地、川上稲荷神社、平岩幸吉の眠る「ならび塚」を過ぎ、巴波川が流れていた川筋公園からバイパスに出る。巴波川とバイパスを渡り、粟野街道の左脇の狭い道に入り、北上する。雷電神社境内を右に見て、田圃の中の参道を進み、栃木市総合運動公園通りに出る。公園東駐車場の端にある脇道に入り、進むと、田圃に囲まれた三日月神社の杜が見えた。神社の前は荒川の流れる運動公園になっている。運動公園ができる前は何もない辺鄙な場所だったことが分かる。

028   三日月神社を創建した芹澤氏は皆川氏に仕えた武士であったと云われている。

  天正18年(1580)の秀吉による小田原北条征伐以後に下野の主な大名である小山氏、壬生氏、宇都宮氏などは改易になっていった。さらに慶長年間に入ると栃木の皆川氏も改易され、主家を失った武士たちが多く生まれた。

  栃木町周辺の土地は扇状地帯としての沼地、湿地帯であった。戦のなくなった新しい時代の流れを受けて開拓開墾を必要とした。そのため、皆川家臣団等の多くの武士たちは帰農者となり、田畑の開墾、開拓に力を注ぎ始めていく。

  芹澤氏もその一人として、戦さ跡の残る川原田村を中心に開拓開墾をはじめ、やがて名主になっていったと思える。三日月神社の御神体である三日月丸は土地開拓者としての覚悟として祀ったのではないか。

  江戸時代の初期や明治期の初期など、時代の変わり目を迎えた栃木の町の歴史には隠されたものがたくさん眠っている。これからも栃木のまちを歩きながら見つけていこう。

                                   《夢野銀次》

≪参考引用資料≫

「栃木の街道」(栃木県文化協会、昭和53年10月発行)/根岸鎮衛著「耳袋」(岩波文庫下巻、1991年6月発行)/ウエブ「月と季節の暦第二話三日月信仰 志賀勝」/日向野徳久撰文「三日月神社由来記石碑文」(昭和60年11月)

(三日月神社石碑刻字文)

 『三日月神社由来記  芹澤家は常陸国の名族大掾氏より出、皆川氏と婚姻後同氏の出自と伝えている。某年陰暦五月晦日の夜兇族七名に襲われ、咄嗟に三尺二寸の宝刀三日月丸を以て迎え撃つと、闇夜にもかかわらず賊の挙措すべて月明の下に見るようであったので、賊は畏怖して逃げ去った。来れ朏尊の神佑であることを悟り、地を割き社殿を創建した。激闘の地は野中町地内にありいまも血祭畑といい、当時牛蒡畑であったことから同氏は牛蒡の栽培を禁忌としている。

三日月神社は歳月を経るにしたがってその霊験のあらたなことが知れわたり、縁日には除禍招福を願う人々が遠近より集まり、参道の両側には露店が数多連なって賑わうに至った。地頭澁谷氏はこれを聞き同家の守護神として江戸屋敷に遷した。芹澤氏は澁谷氏の地代官としてこれを拒むことができなかった。しかし、神霊これを容れざるが不可思議な示現が再三にわたったので澁谷氏は恐縮して旧に復し、これより明治維新に至るまで毎歳白米一俵を奉献して敬仰の誠を尽くした。

明治初年、制度の変革により同社は廃祀の危機に瀕したが、その由緒を認められて存続することを得、当主彦八が神職に任ぜられた。この神を信ずる者には不可思議なる感応あるは、世に広く伝えるところである。彦八の孝孫豊このことを忘却されることを虞れ、真石に刻み後世に伝えんと事由を具して余にこの文を依頼された。

嗚呼、芹澤氏帰農してすでに四百余年、時代に推移によって時に隆替を見るも、その間朏霊つねに同家と共にあることを信じて祭祀を怠らなかったことは誠に感激に堪えず、ここにその事由を述べる次第である。 

  昭和六十年月齢十一月三日

  栃木県文化財保護審議委員 日向野徳久 撰  書友会 会長  畔蒲 池澤洸 謹書 』                     

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