歌謡曲・芸能

遠ざかる列車への想い―「北の国から」・「北国の街」から

656c0b7es1  富良野駅前、蛍(中島朋子)がショッピングハウスの窓から見つめていることに気が付く勇次(緒方直人)。蛍、ソッと店を出て駅舎の壁際にあるベンチに小さな包みを置く。蛍の置いた包をとった勇次は代わりに手紙を置いて、見送りの親族に押されるように駅舎に入る。置かれた手紙をとる蛍。長淵剛の「乾杯」の歌が流れ始まる。

  ~かたい絆に思いをよせ 語りつくせぬ青春の日々 時には傷つき時には喜び 肩をたたき合ったあの日 あれからどれだけたったのだろう 沈む夕陽をいくつ数えたろう 故郷の友は今でも君の心の中にいますか~(「乾杯」長淵剛歌・作詞・作曲)

Cap4361  ホームから待合室の蛍を見つける勇次。蛍、口の動きで「ガ、ン、バ、ッ、テ」。応えるように勇次も「ワ、カ、ッ、タ」。列車に乗る勇次。走りだす列車。蛍、駅舎から出て、線路際を全力で走りだす。列車の窓から手を振る勇次。けん命に列車を追いかけ走る。走る蛍の躰から熱い熱情が噴き出し、伝わってくる。

 ~乾杯!今君は人生の 大きな大きな舞台に立ち 遥か長い道のりを歩き始めた 君に幸あれ!~

 遠ざかる列車の尾灯。蛍の赤いマフラーが白い雪の中におちている(「北の国から‘89帰郷」シーンより)。

Pdvd_0561  旭川の看護学校へ通学する蛍は富良野発始発列車の車内で、予備校生和久井勇次と出会い、愛を育む。しかし、勇次は東京の予備校へ行くために富良野を離れることになる。富良野駅の蛍と勇次の別れのシーンは走る列車と蛍の走る速さが交差し、去っていく列車の跡に残る赤いマフラーと白い雪とが鮮やかなコントラスをなしている。

  北海道の厳しい大自然の中で培ってきた蛍の走る姿は力強く画面に映し出されてくるシーンでもある。人の出会いと別れ。通学列車での出会いは、やがて訪れる別れることの苦しさや悲しさを知ることになる。それでも、若い二人には出会いの喜びを共有、かみしめることができる。二人で過ごした時間への想いなのか、遠ざかる列車を見つめる蛍の表情は行くことのできない娘の表情になっている。青春の香りのする別れのシーンとして印象深い。

 倉本總脚本によるテレビドラマ「北の国から」は、昭和57年(1981)10月から翌年の昭和58年(1982)3月までの24回に渡る連続ドラマを経て、「‘83冬」、「‘84夏」、「‘87初恋」、「‘89帰郷」、「‘92巣立ち」、「‘95秘密」、「‘98時代」、「2002遺言」と、平成14年(2002)までドラマスペシャルとして放映された。21年間続いたテレビ放映のためか、純(吉岡秀隆)と蛍(中島朋子)の幼いころの子ども時代から成人した姿までを見ることのできる作品になっている。さだまさし作曲のテーマ曲をバックに北海道の大自然が浮かび上がってくる。史上まれにみる超大作のテレビドラマに成長した作品だといえる。

Sdsc080511_2 通学列車での出会いと別れを描いた映画に舟木一夫主演の「北国の街」がある。「北の国から」の勇次と蛍の世界と類似している。昭和40年(1965)3月公開の日活映画で監督は柳瀬観。脚本が意外にも倉本總であることが最近になって知った。

  ~名残りが燃える心が残る ふたりで帰るアカシアの道 今夜だけでもそばにいて 眺めていたいひとつ星 僕たちだけの喜びが住む 北国の街~(「北国の街」歌舟木一夫、作詞丘灯至夫、作曲山路進一) 

  主題歌はよく聴いてきたが、映画を観たのかどうか曖昧だったため、DVDを借りて観てみた。舟木一夫の甘い歌声と雪の中を走る蒸気機関車を数多く撮っている作品という印象だった。あわせて原作の冨島健夫著「雪の記憶」(昭和36年発行)をも読んでみた。

  通学列車の中でお互いに意識し合う高校に通学する二人。小島海彦(舟木一夫)と志野雪子(和泉雅子)。意識していた二人は遅延した混み合う列車のデッキでの飛ばされた帽子をきっかけに交際が始まる。映画では雪子は東京の大学に進むことになるが、海彦は父親の病気のため進学をあきらめ、機織り職人を目指すことになる。

014_3  映画のラストシーンは、海彦が東京に行く雪子を乗せて走る蒸気機関列車を追走し、線路上で見送る所で終わっている。雪原の中に取り残されたように立ちつくす海彦。「北の国から‘89帰郷」の勇次と蛍の別れのシーンが被さってくる。しかし、映画「北国の街」では「余命6年であることを知っている雪子が東京の大学に入学、上京していくのだろうか?」と疑問が湧き、映画の結末の別れが不自然に映ってきた。

 東京行きを雪子に促す海彦は「僕たちは若すぎる。これから多くのことを知るために君は東京の大学にいくべきだ」と言う台詞は解せない。雪子の病気のことを海彦は知らなかったにしても、東京の大学に行く必要性は感じられなかった。

  原作「雪の記憶」では、雪子をめぐることが原因で不良学生同士の争いが死者までだす大掛かりな喧嘩になる。雪子の躰を求める海彦との諍いがありながらも二人は通学していくことで終わっている。

  「撮影中に最初と最後のシーン以外は脚本を変更しました。脚本は不良学生との喧嘩を軸に書かれてあったのでね」と監督の柳瀬観が「舟木一夫青春歌謡映画」としてネット上で発言している。監督と脚本との落差が大きかったことが推察できる。倉本總はこの映画について何か発言をしていないか、探していきたいと思っている。舟木一夫主演映画ということで、雪景色と蒸気機関車の映像をバックに若い男女の交際を描けばよいとした映画だったのだろうか。

E69585e983b7e381afe7b791e381aae38_3 同じ原作「雪の記憶」で、「北国の街」から4年前に公開された昭和36年(1961)のニュー東映作品「故郷は緑なりき」(監督村山新治、脚本楠田芳子)がある。この映画でも通学する列車で二人は出会い交際するが、東京の大学に進んだ海彦は帰郷した際に雪子が病死したことを知る筋立になっている。

  私が中学一年の時に見たモノクロ作品だが、佐久間良子のセーラー服姿に強い印象を受けた映画だったと記憶している。もう一度観たい映画だが、DVDになっていないのが残念。

  映画の中で鮮明に残っているのは、海彦(水木襄)とのラブシーンだ。セーラー服の雪子(佐久間良子)を押し倒し口づけをしながらスカートのフックをはずそうとする。それをいやいやして、海彦の家から雪の中に駆け去っていく。拒否する時の佐久間良子の苦しい表情が印象に残っている。この映画の影響なのか、以後セーラー服には性としての強いあこがれを抱くようになった。

C880de321_2  西武池袋線で通学していた佐久間良子は、沿線では綺麗な女子高校生と有名になっていたことから東映にスカウトされたと「文藝春秋2月号」に本人が記述している。セーラー服の似合う女子高生の佐久間良子。もう一度観たい映画だ。

 後年、官能小説家として名をなした著者冨島健夫の初期の作品「雪の記憶」。「性の問題を回避して青春文学は成立しない」と主張していただけの描写が、映画同様に二人のラブシーンを緻密に書いてあり、新鮮な驚きを感じた。同氏の原作で映画化された作品として「明日への握手」(映画名「高校三年生」)、「おさな妻」等がある。十代の性への問題を正面から扱った作家として見落としてはならない作家だと思えてくる。

K141_2_2   「北の国から」の中には列車との別れのシーンが盛り込まれている。最後の別れにきた母親、令子(いしだあゆみ)が東京に帰る列車を空知川から見送る少女の蛍の走るシーンがいい。

 シナリオでこう記されている。

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  「川のむこうをけん命に走っている少女の姿。――蛍。令子、狂ったように窓あけ外へ手をふる。(口の中で)蛍――。蛍、走っている。もうぜんと列車を追い、けん命に走る。列車の窓から見える遠ざかる蛍の姿。とうとうと流れる空知川。去っていく列車をあきらめ、つっ立っている蛍に後ろから肩を叩く草太。目に涙をためている」(「北の国から第17回」より)。

   母親との別れとして空知川に蛍をつれてきた草太(岩城滉一)。純と蛍に慕われる草太兄ちゃんの優しさが表れてくるシーンでもある。去っていく列車を空知川をはさんで追いかけてけん命に走る少女、蛍の姿は富良野駅での勇次への別れのシーンにダブっていく。

Yjimagee0rzjgoy  「北の国から」の最終回になっている「2002遺言」の中で富良野駅の別れのシーンが出てくる。音信不通であった正吉のもとに快をつれて蛍が栃木へ旅立つ。見送る五郎(田中邦衛)、純(吉岡秀隆)、結(内田有紀)、雪子(竹下順子)一行。蛍と孫の快との別れを悲しむ父、五郎の姿とその姿を受けとめる息子、純の心境が描かれている。

   このシーンをシナリオでは、「蛍、快を抱きデッキに乗る。(列車の)扉閉まる。ベルが止まり――発車。窓の中から手をふる蛍と快。見送って手をふる純、結、雪子。五郎、ペタリと(列車の)ガラスに手をつけたまま、オイオイ泣いて、(走りだした列車と一緒に)走りだす。駅員、笛を吹き、危ない危ないと静止する。その手をふりほどいて列車を追う五郎。駅員をはねのけ、帽子をとばして列車を猛然と追う。二人の駅員が五郎を追う。ホームから線路に下りる五郎、そのまま線路上を必死に追いかける。追いかけてきた駅員に掴まれて雪の中に倒れ込む」

   純の語りが流れる。「恥ずかしいぐらい父さんは泣き、恥ずかしいぐらい父さんは走った。(父さーん)。でも僕はその父さんに感動していた。父さん、あなたはすてきです。あなたのそういうみっともないところを昔の僕なら軽蔑したでしょう。でも、今僕はすてきだと思います。人の目も何も一切気にせず、ただひたむきに家族を愛すること。思えば父さんのそういう生き方が、ぼくや蛍をここまで育ててくれたンだと思います。そのことにぼくは今ごろようやく、少しだけ気づきはじめたンです。父さんあなたは――すてきです」(「北の国から2002遺言」から)。

 遠ざかる列車を見送る父親の号泣する姿は家族への想いとして純は受け止めていく場面になっている。五木寛之は著書「情の力」の中で、涙と笑いは一体であると記し、「日本の文化の中で泣くべき時にきちんと泣く、泣くべきでないときは歯を食いしばって泣かないというモラルがつくらてきた。泣くこともできないような乾いたこころで、本当に腹の底から笑えるのか。大地に身を投げ出して地面を拳で叩きながら号泣するという泣き方を一度でもしたことがあるのか。深く泣くことのできる人だけが、本当に笑うことも知っている」と記している。

  遠ざかる列車に号泣する五郎の姿は五木寛之の言う、情(こころ)の世界が描かれてあると思えてくる。それは「北の国から」ドラマ全編にも言える。「泣くこと」「笑うこと」等、忘れていた人の情(こころ)の世界が随所に盛り込まれたドラマになっていることに気が付く。

10_101_6  「2002遺言」のラストはこれまでの出演した俳優名をアイウエオ順に流しているのがドラマの特色を表していると思えた。富良野市麓郷で黒板家の五郎や純、蛍、叔母の順子(竹下順子)と接する地域の人々との交流を描いているのがドラマの幅をもたらしている。

  中ちゃんこと中森和夫(地井武男)と妻のみずえ(清水まゆみ)。北村清吉(大滝秀治)と妻の正子(今井和子)、息子の草太(岩城滉一)。蛍の夫になる正吉(中澤佳仁)と母親のみどり(林美智子)、祖父の杵次(大友柳太郎)。つらら(熊谷美由紀)と兄の辰巳(塔崎健二)、涼子先生(原田美枝子)、クマさん(南雲佑介)など地域住民として数多くの出演者が登場している。

  開拓者としての村の過酷な歴史や東京と地方との対比を織り交ぜながら、出演者は大自然の厳しさとそこに暮らす生活する喜びを滲ませている。五郎の「捨てた家」の建設は喪われた物を蘇えらせていく姿として現している。遠ざかる列車から出会いが始まる生活を求めて生きていく人々がいることを作者、倉本總は描いてきていると思える。「北の国から」は人々の温かさが底辺に流れているドラマとして成っている。大事にしていきたい作品だ。

                                          《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫
倉本總著「北の国から後編」(1987年5月、理論社発行)/「北の国から‘89帰郷」(1989年3月、理論社発行)/「北の国から2002遺言」(2002年8月、理論社発行)/冨島健夫著「雪の記憶」(昭和36年6月、角川書店発行)/五木寛之著「情の力」(2002年11月、講談社発行) 

 

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水郷に流れる潮来節~船頭小唄・娘船頭さん・おんな船頭唄

033_4  「おめでとうー」と両岸からの見物人のかけ声と拍手が湧きあがる。拍手は嫁入り舟を見ることができたうれしさの表れなのだ

   5月28日から始まっている「水郷潮来あやめまつり」。市の係員に先導された白無垢姿の花嫁一行は前川あやめ園内を四歩進み停まりながら乗船河岸にて手漕ぎ舟に乗る。

  花嫁と付添(仲人)を乗せた手漕ぎの嫁入り舟はギッチラ、ギッチラと潮来市内を流れる前川を下る。常陸利根川に合流する水門手前の河岸にはお婿さんが嫁入り舟を出迎える。「何年振りだろう、野外で花嫁さんを見るのは…」。結婚式と披露宴はホテルで行ない、昔のように花嫁姿でご近所へ挨拶する光景を見ることはない。 

017_3  6月14日にシルバー大学栃木南校33期生「健康ウォーククラブ」の「潮来あやめまつり見学ツアー」に参加した。栃木市からは潮来市は遠い。それでも一度は行ってみたい町であった。水郷の町、歌の町としていつも私の頭の中にあったからだ。

  嫁入り舟に乗る花嫁を潮来市は毎年、全国に募集を行なっている。条件は一年以内に結婚もしくは結婚したカップルになっている。着付け代は自己負担だが花嫁衣裳は無料で貸与される。毎年全国から80組くらいの応募があり、抽選になるほどの人気イベントとして定着をしている。 

  「潮来は周囲を水に囲まれ、水路が縦横にはりめぐされていたため、サッパ舟(櫓を使う手漕ぎ舟)によって隣近所などの日常の生活が水路で繋がれていた」と潮来市ホームページに水郷の町であったことが紹介されている。そして「嫁入りする際の花嫁や嫁入り道具等を運搬する時にもサッパ舟が使われており、これが『嫁入り舟』の始まり」と記載されている。 

029  「♪潮来花嫁さんは 潮来花嫁さんは舟でいく~」と花村菊枝が歌う「潮来花嫁さん」が昭和35年に大ヒットとなり、「嫁入り舟」は全国に知られるようになる。 

  生活を結ぶ水路とともに姿の消えた嫁入り舟は昭和60年の「つくば国際科学技術博覧会」の際にイベントとして復活する。そのことがきっかけで、現在のあやめまつりの中で嫁入り舟が行なわれるようになり、潮来を代表する「あやめまつり・嫁入り舟」観光行事になっている。 

  実際の花嫁とお婿さんが参加する嫁入り舟。潮来市と市民の手によって、嫁入り舟が毎年、継続して続けられてきている。疑似体験でない本物の花嫁が舟に乗るところに長く続けられてきている要因になっているのだと思えた。 

  「潮来花嫁さん」と同じ年の昭和35年には、橋幸夫が歌った「潮来笠」も大ヒットする。2曲のメロディから水郷潮来の明るさが高度成長時代へ突入していく時代を表している。しかし、一方では、「…おれは河原の枯れすすき~」と、潮来水郷のもの哀しさ、寂しく暗い世界へと誘う歌もある。あやめの花、嫁入り舟の華やかな光景を見た後にきた、この暗さと明るさのギャップは何なのだろうか?水郷潮来を詠った歌の中から「潮来の情感」を辿ってみた。 

047 ~己は河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき 

~枯れた真菰(まこも)に照らしてる 潮来出島のお月さん わたしゃこれから利根川の 船の船頭で暮らすのよ 

『船頭小唄』大正10年(1921) 作詞:野口雨情、作曲:中山晋平。 

 潮来市観光案内ボラティアの方から、源頼朝が創建した「長勝寺」と裏の稲荷山公園にある「野口雨情記念詩碑」を案内していただいた。 

  大きな石碑のそばには『雄大な利根川の流れに詩情をたぎらせ、潮来出島の風向をひろく天下に紹介した』として、昭和40年(1965)5月に潮来町野口雨情顕彰会によって詩碑が建てられている。「船頭小唄」の歌詞が刻字されている詩碑のある稲荷山から、潮来の町と常陸利根川、利根川を見渡すことができる。 

Yjimage4tsigjzo_2  長田暁二著「日本の愛唱歌」の中で、『船頭小唄』の生まれる逸話が記載されている。 

  「大正8年に作詞した原題『枯れ芒』を野口雨情は面識のなかった中山晋平に作曲を始めて依頼した。しかし、中山晋平は預かった詩稿があまりにも内容が暗く曲想がまとまらず、一年が過ぎた。たまりかねた雨情は強硬に督促をした。晋平は作曲がはかどらない理由を言ったところ、雨情は茨城県民謡の『潮来がえし』らしいメロディを低く口ずさんでみせた。それがなんとも素朴で、魂の叫びのような響きがあったので、(よし、これでいってみよう)ということになる。雨情のうたった『雨情節』を基調に、晋平の発想を加え、この曲ができた」と記してある。 

  そのため、「大正10年3月の出版楽譜(再版から『船頭小唄』に改題)の作曲は中山晋平と晋平の別名、萱間三平の連名になっている。この曲は完全なる自分の創作ではなく、『雨情節』が混入しているという衒(てら)いがあったのでしょう」と野口雨情が口じさんだ「茨城県民謡潮来節」らしいメロディが「船頭小唄」に入っていることを指摘している。 

…雨情が口ずさんだ「潮来がえし、潮来節」とは、どんな曲だったのだろうか。 

 ネットで検索していくと、潮来節の中の「潮来音頭」に(返し)が記載されていた。 

~潮来出島の真菰の中に あやめ咲くとはしおらしや ションガイナー 

 (返し)しおらしや あやめさくとはしおらしや ションガイナー 

~此処は前川十二の橋よ 行こか戻ろうか思案橋 ションガイナー  

 (返し)思案橋 行こか戻ろか思案橋 ションガイナー 

(『潮来音頭』より)

050_2  「潮来節の原型の『潮来出島の真菰の中に あやめ咲くとはしおらしや』のあやめ咲くとは遊女のことである。潮来節は、河岸の船乗・水主(かこ)や小場人足などが、非常に貧しい過酷な生活から生まれた労働歌の一つであったという」と川名登氏は著書「河岸」で記述している。 

  「この労働歌(潮来節)が潮来遊廓の御座敷歌となり、それが船頭・水主や遊女たちの口から『木下茶船(きおろしぶね)』などに乗って三社参詣や銚子磯めぐりなどにやってくる遊客に覚えられて、利根川を遡って江戸に伝えられ、江戸から全国各地に広がって有名になった」と潮来節が遊廓、参詣と舟運を通して全国に広がっていったことの指摘をしている。 

  木下茶船とは利根川下流、香取・鹿島・息栖(いきす)の三社めぐり等をおこなう貸切遊覧船のことを言い、江戸時代の文化文政時代(1804~1830年)に多くの旅人で賑わったとされている(ウエブ「世界百科事典」より)。 

  潮来節は佐渡おけさ、徳島阿波おどり、長唄藤娘など全国に広まり、派生していった。野口雨情が口ずさんだ潮来節が船頭小唄の中のどこにあるのか?音楽に疎い私には分からない。調べて行こうと思う…。 

  「潮来出島」は、デルタ地帯として、この前川あやめ園あたりを指していますね。網の目のように水路がありました。今は埋め立てられて、昔の面影は残っていません。潮来遊廓はあやめ園の向こう岸、前川の右岸下流にありました」と嫌がらずに観光ボランティアの方が教えてくれた。 

Yjimage5_2  過大な借金、離婚、水戸での「地で這うような生活」の中から野口雨情は「枯れ芒」を作詞した。バイオリンの奏でる哀切さを感じる「船頭小唄」は演歌師によって歌われ、関東大震災を経て全国に広がる。それはやがて戦後の昭和32年の映画「雨情物語」で主人公、森繁久彌が歌った「船頭小唄」で今日まで受け継がれてきている。 

  実生活や民俗、郷土等の身近な生活を見据えたところの表現、考え方を表すと言われている大正デモクラシー。その思想を背景として「船頭小唄」が生まれてきたと思えてくる。 

Saijo_yaso_and_nakayama_shimpei1 大正12年9月1日の関東大震災。東京下町が燃え広がる夜、上野の山には多くの避難した人がいた。どこからともなくハーモニカのメロディーが流れてきた。少年が奏でるハーモニカ。うるさいという声があがることなく、じっと聴き入り、落着きと自分を取り戻していった避難者たちを西條八十は見ていた。月島の兄の安否を訪ねていった仏文学者、西條八十も上野の山で避難者と一緒にハーモニカを聴いていたのだ。俗謡(歌謡曲)の中に人々の安らぎ、生きる心の糧が生まれることを、西條八十は見出した。この日をきっかけに歌謡曲の作詞を始める(西條八十著「唄の自叙伝」より)。 

  「♪父も夢みた母も見た 旅路のはてのその涯の 青い山脈みどり旅へ~」(「青い山脈」昭和24年)。明治生まれの人によって引き起こされたアジア太平洋戦争で大正生まれの父や母が戦場や空襲で亡くなった。昭和生まれの若者は大正生まれの父や母が夢見た民主主義(大正デモクラシー)の世界を目指して進む。――と西條八十作詞の「青い山脈」の歌声は呼び掛ける。 

  西條八十は終戦の昭和20年の8月に早稲田大学教授を辞職する。「サーカスの唄」(昭和8年)、「旅の夜風」(昭和14年)、「誰か故郷を想わざる」(昭和15年)と歌謡曲でヒットを飛ばす。そうした西條八十に対する教授たちの、歌謡曲に対する侮蔑などの軋轢があったのではないかと推測する。 

201106051602461 ~娘十八口紅させど 私しゃ淋しい船頭娘 つばめ来るのに便りなくて 見るはあやめの ヨウ花ばかり 

 ~鐘が鳴ります潮来の空で 月に墨絵の十二の橋を こいで戻れど別れた人と 水の流れは ヨウ返りゃせぬ 

 『娘船頭さん』(昭和30年、歌:美空ひばり、作詞:西條八十、作曲:古賀政男) 

 水郷潮来の情景を娘船頭を通して歌っている「娘船頭さん」。美空ひばりの歌を始めて作曲した古賀政男のメロディに乗せてゆっくりと船が進んで行く光景が浮かぶ。西條八十が美空ひばりの歌を作詞したのは、昭和25年「越後獅子の唄」、26年「角兵獅子の唄」、30年「娘船頭さん」、40年「芸道一代」の4曲と意外と少ない。 

  筒井清忠著「西條八十」の中で、「西條八十の家の前には、戦前、正月になると越後獅子が来ていた。その子どもたちが芸をしながらいつも怖い目つきの親方を怖れていたことを思いだして『越後獅子の唄』を作詞した」ことが書かれてある。「13歳の天才少女への世間の眼は冷たく、新聞では『ゲテモノ』と叩かれていた美空ひばり。この曲は社会的に冷たい目で見られて、大人の歌手の歌手の間で肩身の狭い思いしていたひばり自身のことなのだ」と「越後獅子の唄」が出来上がった逸話が紹介されている。 

066_2 「娘船頭さん」では、18歳の美空ひばりを「私しゃ淋しい船頭娘」と西條八十は越後獅子同様にひばり自身をイメージして描いている。 

  映画「娘船頭さん」(監督萩原徳三)でも前年の映画『伊豆の踊り子』(監督野村芳太郎)の旅芸人役を意識して、旅芸人と船頭が相通じる世界を描いている。街道暮しの旅芸人と潮来水郷の渡し船の娘船頭。艪を漕ぎながら歌うひばりの「娘船頭さん」は哀切あふれる情感のこもった歌声で水郷潮来を描いている映画になっている。 

  ちなみに「芸道一代」では「♪小粒ながらもひばりの鳥は 泣いて元気で青空のぼる 麦の畑の小さな巣には わたしみている母がある 母がある~」と身長153㎝の小粒な美空ひばりと母の姿、芸に生きる母娘を描いている。西條八十は、ひばりそのものを対象として作詞することに視点を置いていたと思えてくる。 

  北原白秋・野口雨情と共に西條八十は大正期の三大詩人と呼ばれていた。水郷潮来を情景にした「娘船頭さん」を作詞する際に、西條八十は野口雨情の「船頭小唄」を意識したのであろうか?私は強い意識はなく、美空ひばりという一代稀有な天才歌手に潜む情感を潮来水郷、渡し船を漕ぐ美空ひばりをイメージして作詞をしたと思えてくる。 

  映画「娘船頭さん」の中で映し出される潮来の情景、ロケーションは貴重な水郷の歴史的資料なっている。映画の中で、わかさぎ漁、帆引き船で歌う美空ひばりの歌声のシーンは圧巻である。「♪アーア潮来出島のまこもの中で あやめ咲くとはしほらしや~」と低音から高音への伸びる「潮来節」のひばりの歌声は、ただ唸るばかりだ…。 

Yjimageu5chj9h2 ~嬉しがらせて 泣かせて消えた にくいあの夜の旅の風 思い出すさえ ざんざら真菰 鳴るなうつろな この胸に 

 ~利根で生まれて 十三七つ 月よわたしも同じ年 かわいそうなは みなしごどうし 今日もお前と つなぐ舟 

『おんな船頭唄』(昭和30年、歌:三橋美智也、作詞:藤間哲郎、作曲:山口敏郎) 

  潮来節の詞と密接に繋がっている歌だと思えてくる。民謡で鍛えたハリのある高音が哀愁を呼び起こす「おんな船頭唄」。少年の頃から民謡界の天才と言われた三橋美智也は昭和30年、この曲の大ヒットで歌謡界を代表する歌手になる。 

01_3 私はずーと以前から、「にくいあの夜の旅の風」という意味が理解できなかった。しかし、川名登著の「河岸」に「船女房」という記述で分かってきた。 

 それは、「遠方から来た船が河岸に着くと、小舟にのって漕ぎ寄せ、船に上がって船の中の掃除や洗濯、綻びの繕いなどまでして、一夜を共に過ごす。翌朝は朝食を作り、船中をきれいに掃除してから船を下り、名残りを惜しんで別れていく。これは単なる売春ではなく、半分は男にはできない家事を頼んでいる」という河岸には『船女房』という稼業があったことを知った。「おんな船頭唄」の世界はここに出てくる一夜限りの船女房の世界だなと思えてきたのだ。 ざんざら(ざわざわした)真菰が茂る船の中で、ひっそりと抱かれる女船頭の姿があやめの花に被さっていく情景が浮かんでくる。

  江戸初期の潮来は奥州諸藩の物産を江戸に向かう千石船が銚子河口から利根川に入り、潮来で高瀬船に積替える中継港(河岸)として賑わい大いに繁栄していた。しかし、元文年間(1736~1740)の大洪水で利根川の本流が佐原に移ると中継港としての機能を失った(潮来市ホームページ)。 

140041  昭和15年頃発行の水郷汽船会社の利根川流域・霞が浦周辺を中心にした汽船航路周辺の観光名所となっている鳥瞰図をみる。 

 地図の真中の下に佐原と香取神宮がある。一番上の真中には鹿島神宮と記されている。右端の少し上のところに息栖(いきす)神社と記されてある。潮来は地図の真中の十二橋と記されたデルタ地帯に位置する。潮来の町を通る前川が鹿島神宮に続いている。潮来は香取神宮・鹿島神宮・息栖神社に「木下茶船(きおろしちゃぶね)」などでお参りする際の遊び場、遊廓としてにぎわいをみせたといわれている。三社の真中に位置する潮来が中継港としての繁栄を失った江戸時代の後期、遊廓、遊興の地になっていったのも頷ける。そうしたことから、「潮来節」にはかつての繁栄した河岸としての辛苦が含まれていると思えてきた。 

021  初めて潮来市を訪れ、「潮来あやめまつり・嫁入り舟」などの華やか行事を見ながら、「船頭小唄」のような「暗さ」「寂しさ」とのギャップはどこからきているのか?という疑問から、書き綴ってみた。 

  かつての繁栄から衰退をみせた河岸は遊興の地として名を馳せた。「潮来節」の曲や歌詞の底辺に流れている水郷に生きる船頭や遊女の辛苦の表れが「船頭小唄」「娘船頭さん」「おんな船頭唄」に含まれている。そして「潮来花嫁さん」「潮来笠」の「華やかさ」と表裏を成している。これらの歌謡曲の原型は「潮来節」にあることが少し分かってきたような気がしてきた。 

  水郷としての昔日の面影が残っていなくても、「潮来出島の真菰の中にあやめ咲く~」という潮来節の詞は残り、潮来を歌う歌に生き続けていくと思える。 

  潮来節を元にした「潮来節―歌謡歌まつり」などを開き、潮来節と現代の歌とを探求する場を設ける。…と、勝手に無責任な夢想を始めた。今度、潮来に行った時には、前川の手漕ぎ舟に乗ってみよう。 

                                  《夢野銀次》 

≪参考引用資料≫ 

潮来市ホームページ観光課/長田暁二著「日本の愛唱歌」(2006年6月、ヤマハミュージックメデア発行)/筒井清忠著「西條八十」(2005年3月、中央公論社)/中野英男・大嶽浩良著「若き日の野口雨情」(2016年3月、下野新聞社)/大下英治著「美空ひばり」(平成元年7月、新潮社)/西條八十著「唄の自叙伝」(1997年6月、日本図書センター)/川名登著「河岸」(2007年8月、法政大学出版部)/DVD「娘船頭さん」(昭和30年4月公開映画、萩原徳三監督、美空ひばり主演)

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女の海峡-「男はつらいよ」から渥美清と都はるみをみる

4120000213357_1l1  「はるみちゃんは他の歌い手さんと違って、なんだかいやいや歌を歌っているように見えるんだよね。怠け者のおれに似ていて、歌を聞いていると親近感が湧いてきて安心するんだ」と都はるみを語った渥美清。(「昭和の自由と象徴『寅さん』を生きた男―渥美清」より)。

   スクリーンの中で、渥美清が都はるみをじーと見つめる小さな眼。真剣な眼差しは怖さを感じるシーンだ。「とらや」の庭先に集まった柴又界隈の人たちに縁側から「アンコ椿は恋の花」を歌う京はるみ(都はるみ)。縁側の脇から歌う京はるみの横顔を台所に立って見つめる寅(渥美清)。厳しく真剣な眼差しをした寅さん。いや役者渥美清が歌手都はるみに注ぐ視線となって映ってくる。山田洋次監督と渥美清は都はるみの何を描こうとしていたのだろうか?この映画は車寅次郎とか京はるみという役柄名より、渥美清と都はるみでみた方がおもしろいと思えた。

  映画「男はつらいよ」シリーズ31作目「旅と女と寅次郎」は今から31年前の昭和58年(1983)8月に公開された作品。マドンナ役は当時人気絶頂だった歌手の都はるみ。

3fd4266681dc63b40989ce715ab562e91 都はるみの役柄は人気歌手「京はるみ」。歌手都はるみがそのままの役柄に設定されての出演。映画の中で歌う曲「涙の連絡船、惚れちゃたんだよ、アンコ椿は恋の花、女の海峡」はいずれも都はるみの歌。シリーズの中でも異色の作品と位置づけされている。

 都はるみのファンであった渥美清の要望で企画されたとも言われている。「寅さんシリーズ」の企画に渥美清も加わっていたと云われている。

 「おれは歌手は、美空ひばり、都はるみ、大好きだよ。それに、中村美津子っていうの、一回見てみたいねぇ。まあ、この三人だな」と渥美清の付け人をしていた篠原靖治氏は「生きてんの精いっぱい 人間渥美清」の中で記述し、「おれは怠けもんだからねぇ」と渥美清はよく口にしていたことも書かれてある。

Img_11_2 佐渡島の民宿で「矢切の渡し」を浴衣姿のはるみが口ずさむ。「うまいな歌が、銭とれるよ」と思わず唸る寅さん。失踪してきたことを寅さんに話すはるみ。寅は黙って優しく聞く。酔ったはるみは「寅さん、明日は何時?」と聞く。「何時って、好きな時に起きればいいんだ」と答える寅。「そうなんだ。わたしは自由なんだ」と喜ぶはるみ。束縛された世界から自由に生きている寅さんを見るはるみ。浴衣姿の35歳の都はるみが若い娘のように映し出され艶を感じさせる。一年後に都はるみの引退宣言する心情がここに隠されているように見えてくる。

Hqdefault1 ~別れることは死ぬよりも もっと淋しいものなのね 東京をすてた女がひとり 汽車から船に乗りかえて 北へ流れる… 夜の海峡 雪が舞う~

~砕けた恋に泣けるのか 雪がふるからなけるのか ふたたび生きて逢う日はないと こころに決めた旅なのに みれん深まる… 夜の海峡 わかれ波~

~いのちと想う愛もなく 海の暗さが眼にしみる 汽笛よ波よおしえておくれ 私の明日はどこにある こころ冷たい… 夜の海峡 ひとり旅~  「女の海峡」(作詞:石本美由紀、作曲:猪俣公章)。

  平成2年(1990)5月10日、都はるみはNHKホールでの「都はるみ復帰コンサート」をネットで開き「女の海峡」をYouTubeで見ることができた。昭和47年(1972)発売の曲だが、NHKホールのステージで歌う都はるみの詞がズシーンと響いて来た。「別れることは死ぬよりももっと淋しいものなのね」…男(女)からの別離を受けグサッときている女(男)の心情だ。「砕けた恋に泣けるのか雪がふるから泣けるのか」…雪のように心が冷たく泣ける。そして、「私の明日はどこにある」…明日を模索しながら暗い波間の闇を見つめる姿が浮かびあがってくる。詞と曲と歌が一体となった深さを感じるステージでの歌だ。そこには復帰を決意し、真剣に緊張感を持って歌う都はるみが観客を魅了する姿が映っていた。この歌は「男はつらい」の中の最後に都はるみが歌っていたことを思い出した。DVDを借りてきて31年ぶりに「男はつらいよ 旅と女と寅次郎」を見た。

Img_01_2  ~海は荒海、むこうは佐渡よ すずめ啼け啼けもう日はくれた みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ~(「砂山」北原白秋作詞、中山晋平作曲)。岸壁から佐渡の碧い海に向かって明るく歌う。笑顔が可愛い都はるみ。そばには渥美清が優しい眼差しで見つめる。佐渡島のロケーションがきれいだった。31年前、最初に見た時、これは『ローマの休日』だと思っ。さらにラストで歌う「女の海峡」は何と暗いのだという印象を受けたのを憶えている。シリーズの中でこの作品は余興だと言う人もいた。しかし有名人へ思慕する寅さん「あってもいいな」と感想を持ったのだ。

 渥美清は感じていたのか、知っていたのか?都はるみが歌うことに葛藤していたことを。もしそうならば、渥美清という役者、映画を通して都はるみに向かい、同じ芸の世界で生きる者としての叱咤激励している映画に見えてくるのだ。田所康男が渥美清になる。北村晴美が都はるみになる。虚像と実像の狭間で芸に生きる世界を共に共有する二人。しかし、都はるみはこの映画公開の翌年の3月に引退発表を行う。そしてその年、昭和59年(1984)の大晦日の紅白歌合戦を最後に引退をする。大トリで「夫婦坂」を歌う都はるみ。その時の瞬間視聴率は84.4%と紅白史上最多の視聴率をあげた。美空ひばりの足跡を追いながらも「女のしあわわせ」を選んでの引退だ。映画「男はつらいよ」は都はるみの引退への呼び水になったのかは誰も述べていない。たまたま偶然が重なったということなのだろうか。

  昭和57年(1976)、「岬」で芥川賞を受賞し、平成4年(1992)に46歳の若さで死去した中上健次は「天の声 小説都はるみ」で都はるみを昭和62年(1987)に書いている。歌を歌う子供の頃から紅白歌合戦で引退するまでの都はるみの内面を書きながら、「天成の徴つきの歌手が今日、歌と心中する。心中するしか、歌の魔力からのがれる方法はない」と引退を決意するまで、歌の魔力と戦う都はるみの内面を描いた本だ。 

510b5cmrdml_sl500_aa300_1_2 「20年間の歌手生活をくくるとしたらこの5曲。《うなった》「アンコ椿は恋の花」、《泣いた》「涙の連絡船」、《ささやいた》「北の宿から」、《つぶやいた》「大阪しぐれ」、そして《遺書》としての「夫婦坂」が、都はるみの代表曲だと本人は思っている。またそれが大方の世間の意見でもあった」と引退後、プロデユーサーとして芸能会に復帰してきた頃のシンポジュウムでの都はるみの発言から記述している有田芳生著「歌屋 都はるみ」(1997年10月文春文庫本)を読んだ。

  ノンフイクションの同書は都はるみの子供の頃から、京都での母親から歌を教えられ、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝、あこがれの美空ひばりと交流、市川昭介との出会いから、離婚、中村一好とのコンビと事実婚、引退、音楽プロデユーサーとして芸能界への復帰、美空ひばりの死をきっかけに歌手として復帰。復帰した都はるみの新たな「歌屋」として歌への挑戦など、詳細に丁寧に書いている都はるみそのものを著した本だ。同年輩の私にはいつも身近に存在した歌手であったため、今回、この本を読むことで多くの都はるみを知ることができた。本の最後は「歌屋」として歌手活動を続けていく都はるみを描いている。 

 中でも平成元年(1989)6月11日に放送された「サンデープロジェクト」中でコメンテーターとして出演していた都はるみの番組内でのコメント、全文が記載されている。美空ひばりの訃報を受けてのコメントだ。子供のころから美空ひばりの歌を聴きながら美空ひばりを目指してきたこと。北の宿でレコード大賞を受賞する時に週刊紙に差別中傷記事が載り、歌手を一番辞めたかったこと。その時に美空ひばりから「いろいろなこと書かれたねぇ。だけどまあ頑張って歌いなさいね」という励ましを受けたこと。引退する際には美空ひばりから、「あんた、自分のいちばん大事なものを捨てるんだから、幸せになんなきゃ怒るよ」と、ものすごい怖い顔でにらまれたこと。家族問題で同じようにマスコミから攻勢されてきた美空ひばりの励ましの言葉が大きかったことが記述されいる。読みながら改めて美空ひばりの存在が大きかったことと都はるみの歌手としての葛藤に唸ってしまった箇所だった。 

  同書「歌屋 都はるみ」の中で渥美清が出てくる箇所がある。昭和49年(1974)10月11日にNHKホールで開いた「都はるみ10周年記念リサイタル」での箇所。この時の演出構成はミュージカル演出家で「若者たち」「希望」の作詞家でもある藤田敏雄が手掛けている。藤田敏雄はまず「二時間を一人で勝負しなさい」と都はるみに宣告し、すべてフルコーラスで歌うこととしたこと。そして「戦友」という「弱い歌」(弱音)を歌わせている。当時、「できるだけ弱く」を体現していた歌手は美空ひばりと越路吹雪だった。都はるみという「こぶし」「うなり」という「強い歌」の間に弱音で歌いこなすことがプロ歌手の至芸だと考えていたからの選曲だった。渋った都はるみだったが勝気な性格は演出藤田敏雄に立ち向かい、歌いきったステージになったと記述されている。 

Img_41 観客の一人に渥美清がいた。同書には「のちに藤田敏雄に会ったとき、渥美(清)は(藤田)にこう言った。『いやー、あれは面白かったぞ、あれは』。なかなかそんな言葉を吐かない渥美だと知っている藤田は、内心うれしくてたまらなかった」と記述している。都はるみのターニングポイントになったステージだったと思える。山田洋次監督は渥美清のことを「あらゆる映画、あらゆる芝居を全部見て歩いている人でした。もしかして日本で映画と芝居を最もたくさん見た人じゃないかな…。僕は渥美清が映画評、演劇評をしたら、大変なベストセラーになると思ったな」と「昭和の自由と象徴『寅さん』を生きた男ー渥美清」に渥美清の眼識を大きく評価していることが記載されている。渥美清が都はるみのステージを常に注視していたことが見て取れるコメントだ。 

Mypictr_220x31738671755725191 平成20年(2008)の3月、その年の12月に閉館する新宿コマ劇場で私は「都はるみ公演」をみた。5年以上の前なのでわずかな記憶の中で記しておく。 

  その時の芝居は都はるみ母親役を本人が演じる都はるみの自伝「好きになった人・市川昭介」。劇中で「北の宿から」の歌唱方法に悩むシーンがでてくる。歌い方の「前に出る攻める歌唱」と「引き寄せる歌唱」についてだ。10周年記念リサイタルの歌い方がこの舞台でも表れていたのかもしれない。二部の歌謡ショウ。歌う都はるみの姿を見つめ、歌を聴きながら「違うな、違うんだよな、都はるみと…」という違和感の印象があったことが今でも心に残っている。「どうしてなのかな?よかったとは言えないステージだ」という感想は抱いた。その想いは今でも続いている。 

  平成2年(1990)5月NHKホールでの復帰コンサートと平成15年(2003)の日生劇場公演での「女の海峡」をYouTubeで見比べた。音楽には疎い私だが、どっちがいい?と問われれば、NHKホールでの復帰コンサートの「女の海峡」を選ぶ。保守的だと笑われるかもしれないなが。復帰後の都はるみの歌い方は大きく変化しているのを感じる。新しいジャンルへの挑戦、野外ステージでの公演と今までにないステージ公演を展開している。それも規模を大きくしていての公演だ。身近な歌手が遠くへ行ってしまったような感じがする。歌手ではなく自分は歌屋だと本に記載されている。「歌屋」いうのは何なのだろうか?

  「歌屋 都はるみ」のなかで「はるみの新しい生き方は、引退以前のように嫌でもやらねばならない仕事として歌うことではなく、自分の好きな曲を精一杯歌うことである。(略)歌屋―それは20年間歌いつづけてきた都はるみと一人の女性である北村晴美が一体となりうる唯一の職業だった」と記述している。歌謡曲、演歌という枠から新しいジャンルに挑戦するのは良いのだが、従来の都はるみも変えるということなのか?どうもよく分からない。都はるみファンに申し訳けないが「そばに近寄れない」「笑顔が見えない」「突き進んでいる」。復帰後の都はるにそんな怖さを感じる。「歌屋」ってもっと気軽に軒先で歌う世界ではないかとイメージしてしまうのだ。 

41rgfqnw1sl_sl500_aa300_1  復帰した都はるみが歌手活動を続けながら、平成9年(1997)~平成17年(2005)までの間に新聞や雑誌でのコメントを本にした「メッセージ」を平成18年(2006)8月に発行している。印象に残ったコメントを記載してみる。 

 「もう誰かに歌わされている都はるみはいません。私は『歌屋』です」(新潮、03年5月号)。「生意気かもしれないけど、最近は私が歌を選んだんじゃなくて、歌が私を選んでくれたのかなって、思うのです。私は『歌手』ではなく、『歌屋』なんですね」(02年9月12日朝日新聞)。「自分の言葉で、自分の視点で訴えられる歌を歌いたかった」(02年7月3日産経新聞)。「歌、うまいですねという言葉より、面白い人ですねと言われる方がうれしい」(99年10月22日読売新聞)。「年齢を重ねるにしたがって、とんがっていた部分が取れて、かわいい女になっていくのが私の理想。歌もしかりです」「歌の主人公に優しいまなざしを向ける語り部という距離感が、自分の歌を一番生かすという結論に達しました」(99年5月14日読売新聞)。「都はるみは、難しくなっちゃいけない。女王、横綱になるより、いつまでも大関でいたい」(99年4月21日毎日新聞)。 

  いずれも抜粋のコメントが抽出され、写真と組み合わされて構成されている本になっている。コメントを読みながら、私には復帰後の都はるみは、このコメントと違う道を歩いているのではないかと思えるのだ。そういえば新宿コマで都はるみのステージを見てから、私の中では都はるみへの関心が薄くなっていたことに気が付いた。復帰後の歌や曲が難しくなってきているからだ。歌う動作がオーバーになっている。自然体の歌ではなく、素直さが消え、どこか作っている歌に聞こえてくるのだ。現在の若者の歌をあまり聞かなくなっていることと同じような気がしているのだ。 

Sora3_49881050153191_3   映画「男はつらいよ」の中で「とらや」の縁側を舞台に柴又の人々の前で歌う「アンコ椿は恋の花」。うっとりと聞き惚れるタコ社長と源公。にこにこ笑いながら聞き入る柴又界隈の人たち。明るい雰囲気が描かれている。佐渡島の岸壁で地元の魚師と歌う「佐渡おけさ」のどこか切なさを感じるシーン。これらのシーンこそが「歌屋」の世界を表しているのではないかと思える。歌い手と観客で作る心が動く感動の空間…一体感。芸が目指す世界はそこにあると思えるのだ。

  映画の最後に「女の海峡」を大ステージでスポットを浴びて歌う都はるみを持ってきた。「女の海峡」を歌う前にはるみは寅さんのことを語る。歌うことと一人の女としての迷い、旅をしたこと。「その人はわたしに何も聞こうとしませんでした。でも、その人の小さな細い目はわたしを優しく見つめてくれました。面白い冗談を言って笑わせてもくれました。名前を寅さんと言いました。今ごろどこにいるのかしら寅さんは」。ステージで歌う「女の海峡」は二番目まで。画面は北海道でテキヤ仲間とじゃれ合っている笑顔の寅さんを映し、映画は終わる。歌詞の三番目にある「~私の明日はどこにある こころ冷たい… 夜の海峡 ひとり旅~」。暗いひとり旅のなかで寅さんや妹さくらたちに出会う。心が穏やかに和む世界を作っていく。映画「男はつらい」にはそれがあるとしみじみと感じることができた。

  ファンあっての歌手。中上健次が言う天成の徴を持つ歌手、都はるみ。選らばれて世に出たからには逃れられない歌の世界。今、都はるみは歌の世界で確かに挑戦しているのだと思う。10代の頃から同世代の歌手として私の中に都はるみはいた。しかし、この5年間は都はるみはいなかった。映画「男はつらい」を見直すことによって、もう一度都はるみを見つめていこうと思えてきた。

                                   《夢野銀次》

《参考引用資料本》 

 中上健次著「天の歌 小説都はるみ」(1987年発行毎日新聞社)、有田芳生著「歌屋 都はるみ」(1997年発行文春文庫)、都はるみ著「メッセージ」(2006年発行樹立社)、篠原靖治著「生きてんの精いっぱい 人間渥美清」(1997年発行主婦と生活社)、ブログ「昭和の自由と象徴『寅さん』を生きた男ー渥美清』、小西良太郎著「美空ひばり『涙の河』を越えて」、塩澤実信著「昭和のすたるじい流行歌(はやりうた)」(1991年発行第三文明社)、

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津軽の海を越えて来た―53年ぶりの「こまどり姉妹」

107 ~なにも言うまい言問橋の 水に流した あの頃 鐘が鳴ります浅草月夜 化粧なおしてエー化粧なおして 流し唄~ 

「浅草姉妹」(昭和34年10月)作詞:石本美由紀/作曲:遠藤実。

 舞台の幕があがり、デビュー曲「浅草姉妹」を歌うこまどり姉妹。53年ぶりのステージを3月5日、栃木市大平文化会館で観た。

 「私たちは北海道炭鉱の町に生まれ、門付けをしながら上京してきました」と妹の敏子が語る。門付(かどつ)けをしていたのか…。歌手でギター片手に流しをしていたと語る歌手が多いなか、門付けをしていたとはっきり語る歌手は初めて聞いた。

 門付けは一軒一軒、家の門口で三味線を弾き、歌を唄いながら日銭を得る放浪芸の世界だ。江戸期には日和下駄に編み笠スタイルで三味線を弾きながら唄う門付けを行なう。あるいは女性の盲人芸能者の瞽女(ごぜ)が連想されてくる。デビュー当時、門付け芸人出身ということで「差別」を受けてきたのではないかと想像できる。昭和30年代はまだまだ放浪芸人は一段低い芸人と見る風習が残っていた筈だからだ。

Img_376211_3 北海道から津軽海峡を渡り上京した親子。そして東京山谷の木賃宿に父親と暮らしながら浅草を流し歩いての生活。

 五木寛之小説「海峡物語」に登場してくる「演歌の竜、高円寺竜三」のモデルとなったディレクター馬淵玄三によってコロンビアのテストを受ける。「二人そろってマイクの前に立つ」ことでかろうじて合格した。立ち会った遠藤実は「可憐でありながら、想像もつかない人生の哀感を感じさせる歌声に私は驚いた。流しの臭いがする」と遠藤実著「涙の川を渉るとき—遠藤実自伝」の中で記述している。実際、遠藤実自身も新潟での門付けや荻窪や西荻での流しの貧しい生活を経験して来ている。こまどり姉妹の歌声に相通じるところがあったのだろう。二人は遠藤実の指導を受け、昭和34年(1959)10月に「浅草姉妹」でデビューする。

Ph04b1_31  作詞石本美由紀の「何も言うまい言問橋の」の隅田川に架かる言問橋の浅草よりのコンクリートの橋台の横には黒い焦げ跡がある。3月10日の東京大空襲の爪跡が今も残っている。橋の畔の隅田公園の下には空襲で被災した多くの人たちの涙が埋まっている。昭和3年に言問橋の完成で東海林太郎、島倉千代子が唄う「すみだ川」にでてくる「竹屋の渡し」も消えた。

 デビュー1ケ月後の同年11月には遠藤実作詞作曲の「三味線姉妹」のレコードがすぐさま発売される。

 ~お姉さんのつまびく三味線に 唄ってあわせて今日もゆく 今晩は今晩は 裏町屋台はお馴染みさんが待っている つらくてもつらくても 姉妹流しは涙を見せぬ~ 

 大平文化会館でこの歌を聴いた時、涙腺が緩んできた。三味線片手に浅草の路地裏を流す姉妹。そして悩みながら、この歌を発表させるために苦渋の決断をしてコロンビアに移籍した遠藤実。「三味線姉妹」の詞と曲には遠藤実の想いが強く響いてくると感じた。蜷川幸雄演出「さいたまネクスト・シアター」2012年公演でこまどり姉妹を舞台へ登場させる際に、蜷川幸雄が歌わせた曲はこの「三味線姉妹」だと聞いている。蜷川幸雄も選んだこの曲には口に出せない心の底に潜む哀しい情感が滲み出てくる。

O03500350125026870821  ~津軽の海を越えて来た ねぐら持たないみなしごつばめ 江差恋しや鰊場恋し 三味を弾く手に想いをこめて ヤーレンソーランソーランソーラン 唄うソーラン ああ渡り鳥~

 ~瞼の裏に咲いている 幼馴染みのはまなすの花 辛いことには泣かないけれど 人の情けが欲しくて泣ける ヤーレンソーランソーラン 娘ソーラン ああ渡り鳥~ 「ソーラン渡り鳥」(昭和36年4月)作詞:石本美由紀/作曲遠藤実。……名曲だ。

 長い間、「津軽海峡を越えて来た」いう歌の言葉が私の心のどこかに支えとなっきた気がする。仕事で覚悟、決断するとき「津軽の海を越えて来た」というフレーズが何回浮かんできたことか。

 錦糸町駅前にあった楽天地「江東劇場」。そこでお袋と一緒に「こまどり姉妹ショー」を観たのは今から53年も前だ。当時は映画と併用しての歌謡ショー。黒沢明の「用心棒」と森重久弥の「社長シリーズ」が上映していた。昭和36年(1961)の5月ころということになる。幕が開くと舞台の船に乗ったこまどり姉妹が三味線を弾きながら登場してきて「ソーラン渡り鳥」を歌った。下から見上げる自分の目に歌うこまどり姉妹の姿が残っている。「父ちゃんには内緒だよ」とお袋が私の耳元でささやいた。北砂街銀座の叔母御の下駄屋を訪問して、栃木に帰る途中でのこと。こまどり姉妹のファンだったお袋。それから53年ぶりの今回の「こまどり姉妹」のステージ。懐かしさと頑張ってきた姿が交差する。ほかの出場歌手(佐藤勢津子・三門忠司)とは違い、歌う姿から光を放っていた。オーラを感じた。ヒット曲を持ち歌い続けてきた歌手生活の強さなのだろう。

Img_347701_61525708_01_3 「3月19日に私たちの新曲 が発売されるの。もう歳だからキャンペーンはできませんけど。聞いてください」とステージ最後の曲として紹介、歌う「ラーメン渡り鳥」(作詞作曲オオガタミヅオ)。サッポロラーメン、喜多方ラーメン、東京ラーメン、博多ラーメンとコミカルに歌と曲が流れていく。18年ぶりの新曲。ヒットすれば化けるかもしれない。

 姉の栄子はおとなしいが艶っぽさを滲ませてくる。「テレビで私たちがラーメンをおいしくいただいているのが、この曲のきっかけなんですよ」と妹敏子が明るく語る。しかし、この歌は昭和38年(1963)の「涙のラーメン」(遠藤実作詞作曲)とも連動しているのではないかと思える。~あたたかいラーメン忘れぬラーメン 貧しくもくじけず笑ってゆきなと いつもなだめた人ねラーメン ナルトに支那竹チャーシュー いやいや情けの味がした ツルツルすするショッパサは泣いている 涙かしら夢かしら~。

 こまどり姉妹の曲を手掛けた遠藤実。今度、じっくりブログに書きたいと思ってきた。また2009年公開映画「こまどり姉妹がやってきたヤアーヤアー」を観るつもりだ。Okmusic_1226_11_4 

 歌手八代亜紀は「情歌(なさけうた)」として500~600人の会場でコンサートを展開している。日刊ゲンダイで「流行歌は過去の遺物ではない。今こそ生の歌唱が求められている。若者たちもデジタルな長くついていけない今の歌より流行歌を求めている。懐メロではない流行歌に飢えている。流行歌には情けがあるから」と若い観客層からの手応えを感じていることを記述している。

 最近、昭和40年代の複数の歌手達が一緒に公演を組むことが目立ってきている。そして今回の公演を支えていたのが地元の複数のカラオケグループの団体だった。地元のカラオケグループとの結びつきが今後強まっていくと思える。歌謡曲に飢えた人々がたくさんいる。若い人より同世代に向けて歌を発信していくことを舟木一夫はいち早く見抜き、15年頃前から全国ツアーを展開し、成功している。地方にはたくさん建てられた立派な小ホールがある。そこでの生の歌謡ショーなどが公演されていく機会が増えていく。そんな予感がしてくる。

                                    《夢野銀次》

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島のアンコの黒髪を忘れないでね―島倉千代子

Photo_2 「神宮前のマンションを購入した時、『初めて自分でマンション買ったのよ』と嬉しそうに私に話してくれました。お世話になった人です」と島倉千代子の墓石の前で話してくれた男性がいた。その男性はほうきとちり取りを持参して墓石の掃除に来ていた。

 平成25年の11月8日に亡くなった島倉千代子のお墓は品川区にある東海寺大山墓地(品川区北品川4-11-1)にある。花で囲まれたピアノ型のお墓だ。墓地の崖下には東海道本線の電車が走っている。東海寺大山墓地は「沢庵和尚、賀茂真淵」のお墓があることで国の指定史跡になっている。生前島倉千代子は自身のブログで自分のお墓を「モニュメント」として紹介している。「ファンの皆さまを勇気づけられる何かを形にしたいと思ったんです。淋しい時、悲しい時、嬉しい時も、モニュメントに会いに来て下さいネ!きっと元気になりますヨ!」とつづっていた。

Photo_8 墓石正面には「こころ」と記され、戒名「寳しょう院千代歌愛大姉(ほうしょういんせんだいかわいだいし)」が刻まれている。墓石の背面には俗名「島倉千代子」と三人の子供の名前「島倉忍」が並んでいる。正面の左脇には「音の門」と刻まれた台座がある。

  一世を風靡した歌手がこの世を去る時、素晴らしい曲を残してくれる。美空ひばり「川の流れのように」。石原裕次郎「我が人生になし悔いなし」。そして島倉千代子には亡くなる3日前に自宅もマンションで「からたちの小径(こみち)」をレコーデイングした曲が残った。「私の部屋の中にスタジオができて、そこで私はできる限りの声で歌いました。自分の人生の最後に、2度と見られない風景を見せて頂きながら歌を入れられるって、こんな幸せはありませんでした。人生最後に素晴らしい時間をありがとうございました」と11月14日に執り行われた「島倉千代子葬儀」の際に青山葬儀場に島倉千代子のメッセージが流れた。

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   墓石に刻まれた「こころ」は何を語ろうとしているのだろうか? 「この世の花」「りんどう峠」「逢いたいなァあの人に」「からたち日記」など数々のヒット曲をだし歌手勝活動を続けてきた。しかし、華々しい歌手活動とは裏腹に離婚、保証人となったばかりに抱えた巨額な借金、乳がん手術、姉の入水自殺など苦難な人生を歩んだ。いつしか「泣き節お千代」と言われるようになっていた。しかし、幾多の苦難にもめげず「鳳仙花」「人生いろいろ」とヒット曲を飛ばし、借金返済を行ない、最後まで「懐メロ歌手」ではなく第一線で歌っていく歌手人生を歩んだ。

  昭和58年(19839)12月に出版した島倉千代子著「花のいのち」の中で結婚生活で胎児3人を堕していることや心を込めて歌うことの難しさを記述している。そして「騙され裏切られても、時がたてば憎しみは消えていく。子供の心があれば許すことができる」とし、「何のわだかまりもない子供の心を持てば、明日になれば、新しい遊びを見つけて夢中になるように、忘れることができるのです。これからも一生子供の心を持ち続けたいと思うのです」と島倉45歳の時に書いている。恨み節を一切言わなかったという人生を歩んだといえる。 

  女性セブン(平成25年11月28日号)では、産めなかった3人の子供に“忍(しのぶ)”と名付け片時も忘れることはなかったと記述されている。甥の行雄さんは「頼まれて忍って名前を彫った指輪を何本も作った」と記載されている。子供と一緒にお墓に入ったのだ。 

Photo1_2  昭和58年の自伝著書「花のいのち」で子供を堕ろしたことを公表したからなのか、翌年の昭和59年(1984)2月の「島倉千代子30周年記念パーティ」に突然美空ひばりが現れた。人のパーティーにはめったに参加しないというひばりが登場したことで会場は騒然としたと云う。田勢康弘著「島倉千代子という人生」の中で、美空ひばりがこの時のあいさつで「お千代さん、実印は人に渡さず、自分で持っていることよ。お千代にもさまざまなことがあったけど、私も母が亡くなっていろいろなことがわかったの。私たちは丈夫で長持ちしていきましょう。それが一番!」と述べたことを記述している。そして「島倉は涙が頬を伝いながらも、一言も聞き漏らすまいと聞いていた」と記述している。

 「YouTube」でずっと以前のこの場面を見ることができたが、その時のひばりの服装はパーティーに参加する服装ではなかったと記憶している。

 島倉千代子の葬儀で弔辞を行なった田勢康弘氏は「美空ひばりと島倉が心通うようになったのはこの瞬間からだ」と指摘を行ない、「動」のひばりと「静」の島倉の関係を説いている。さらに二人の声帯の違いから低音から高音にあがるひばりの唄声に対して高音から低音に抑えていく島倉千代子の唄声について分析をしている。ひばりが入院し、二人で病室で島倉千代子の好きな「鍋焼きうどん」を食べたことなども「島倉千代子という人生」の中で紹介記述されている。 ただ「美空ひばりにはすべてを仕切る母がいましたが、そういう人が島倉さんにはいなかった」とそばに信頼する人がいなかったことを「週刊新潮(11月21日号)」で述べている。

Photo_18 大山墓地の帰路には島倉千代子が生まれ育った北品川2丁目界隈を歩いた。疎開先で左腕47針を縫う大けがをした島倉千代子は暗い少女になっていた。北品川の家に戻り、その暗さは歌を歌うことで克服を歩み始めた。 

 「ひばりさんの歌が好きで、レコードを買ったり譜面を揃えました。アコーディオンを買い、家のすぐそばに荏原神社があって、そこの境内で歌ったり、目黒川の橋の上で大きな声で歌ったりしました」(花のいのちより)。

Photo_8 北品川の商店街の若者で結成していた「若旦那楽団」に島倉千代子は加わる。中学生の島倉千代子はアコーディオンを奏でながら「人気の歌姫」となり、「品川神社」で開いていた「のど自慢大会」に出場するようになる。そして昭和29年(1954)9月の「第5回コロムビア歌謡コンクール」に優勝し、翌年3月に16歳で「この世の花で」でデビューする。

Photo_20  山手通り「北品川2丁目交差点」、京急線高架線を通り過ぎですぐ右折する。狭い道だが目黒川にぶつかる。目黒川沿いを左に歩くと「荏原神社」がある。その先に旧東海道「品川橋」がある。左折して旧東海道沿いの新馬場商店街を歩いた。路地に入ってみると、そこは「路地裏」の家がぎっしり立ち並んでいる。昭和期の家並だ。東京にもまだ残っている昭和の匂いのする一画地帯だった。

  新馬場商店街を歩くと山手通り「聖跡公園」の交差点にでる。旧東海道品川宿本陣跡地の「聖跡公園」がある。このあたりで「旧東海道を歩く」グループの人たちを目にすることができた。旧街道を歩く旅は高齢者に人気がある。「東海寺大山墓地(沢庵和尚・賀茂真淵・島倉千代子のお墓)散策と旧東海道品川宿を歩く」というツアーの見出し文句が浮かんできた。面白い企画だなと思える。

E5b3b6e58089e58d83e4bba3e5ad90e38_2  「島倉千代子ショー」を観たのは今から13年前だ。会場は小平市民会館だった。オープニングでは白のウエディングドレスを着て「この世の花」を歌って登場した。62歳とは思えない声に力強さを感じた。

  そして圧巻は「東京だョおっ母さん」だった。真っ暗な中、スポットライトに浮かぶ島倉千代子が『ねぇ、おっ母さん、久しぶりにこうして手をつないでおっ母さんと一緒に東京見物できるなんて、ああ、とっても嬉しいわ。ほら、おっ母さん、見てごらんなさい。ここが宮城、二重橋よ』とそばにいるおっ母さんに語りかけるところから歌は始まる。会場はシーンと静まり返る。自分の涙腺が緩み始めた。 「歌は心が伴なわなければと言うことは容易です。一所懸命に真心こめて歌ったはずの歌が、お客様には白けたものに聞こえてしまうことだってあります。そこで、私はいっぺんつき放して、客観的に考えてその歌に入っていきます。そうすると、感情を抑えた形の歌になり、そうすることで抑えられた情感が湧きあがるのに気づきました」と45歳時の自伝著「花のいのち」で記述している。かつて古賀政男から感情を抑えて歌いなさいと指導を受けていた島倉千代子は歌の坪を得とくしたのだ。

Photo_5 《東京だョおっ母さん》(昭和32年) 

 野村俊夫作詞/船村徹作曲

♪久しぶりに 手をひいて 親子で歩ける 嬉しさに 小さい頃が 浮かんで来ますよ おっ母さん ここが ここが 二重橋 記念の写真を とりましょうね

♪やしかった 兄さんが 田舎の話を聞きたいと 桜の下で さぞかし待つだろう おっ母さん あれが あれが 九段坂 逢ったらなくでしょう 兄さんも

♪さあさ着いた 着きました 達者で永生き するように お参りしましょよ 観音様です おっ母さん ここが ここが 浅草よ お祭りみたいに 賑やかね

Photo_6  『ねぇおっ母さん、戦争で亡くなった兄さん、ここに眠っているのよ』『お兄ちゃん、お兄ちゃんが登って遊んだ庭の柿の木もそのままよ。見せてあげたいわ』

 原作には台詞は入っていない。島倉がコロンビア・トップと地方公演で回り、トップが母親、セーラー服の島倉が娘という役で芝居をしたとき台詞ができた。台詞はトップが作った。この台詞がなければ、歌の魅力は半減する。(田勢康弘著「島倉千代子という人生」より)。

 島倉千代子の歌う「東京だョおっ母さん」は亡くなった母が甦ってくる。初期のレコードをラジオで聞いたことがある。その時は若い娘が母を連れての東京見物の歌だと思えた。しかし、小平市民会館で生で聞いたこの歌は最初から涙だった。他の歌とは違うのだ。低音と高音がジワーと会場全体に鳴り響く。生で聞くことにより島倉千代子が描く歌の世界に引き込まれ、暗闇の空間に母の偶像が浮かんでくる。歌謡曲の域を超えている歌だ。亡くなった私のお袋が現れてくる歌だった。

Photo_7  学生時代、お袋は毎月、生活費を持参して栃木から上京してきた。東武日光線新栃木駅までに帰るには、渋谷から地下鉄銀座線で浅草にでる。浅草までお袋を送っていった。好きだった「こまどり姉妹」が唄う浅草観音様にも二人してお参りをした。本堂前の宝蔵門の所で露店の出店があった。磁石のネックレスや指輪を売る露店だった。お袋が「磁石はからだにいいのかね」と露店の親父に聞いているのを何故か憶えている。お袋は体があまり丈夫ではなかったからだ。地下鉄銀座線浅草駅から松屋にある東武線浅草駅に通じている天井の低い地下道がある。ここに来ると「駅の階段がきついんだ」とよくこぼして歩いていたお袋を思い出す。

  この東京だョおっ母さんは島倉千代子が「波止場だよおっ父つぁん」の曲を聴き、船村徹に直にお願いして作られた歌だ。それよりも35回も出場したNHK紅白歌合戦に一度もこの歌が歌われなかったことでも不思議なお話として有名なのだ。   

 212pxtokyo_no_hito_sayonara_poste_2 島倉千代子を初めて知ったのは東宝映画「東京の人さようなら」で島のアンコ姿とその歌声だった。当時はテレビはなく、映画で歌手を見ていた。大島の桟橋で見送るアンコ姿の島倉千代子。そしてバックには「東京の人さようなら」の透き通るようなきれいな歌声が流れた。そのシーンのアンコ姿が目に焼き付いている。「姉のような人」だと目に写った。

   昭和32年(1957)の作品だから、私が小学3年生だったということになる。この年に美空ひばりが主題歌を歌った日活作品「力道山物語怒涛の男」、ひばり三役の新東宝作品「雪之丞変化」の歌と映画が今でも子供心にわくわくして映画を観たことを記憶している。怒涛の男では母親の飯田蝶子が相撲部屋に入門した力道山と隅田川のほとりのベンチに腰かけて、隅田川を行き交うポンポン蒸気船を見ているシーンが残っている。いずれ大きくなった母子で相撲見物したいなあと思ったりした。実現しなかったことを悔やんでいる。

《東京の人さようなら》(昭和32年)

   石本美由紀作詞/竹岡信幸作曲

♪海は夕焼け 港は小焼け 涙まじりの 汽笛がひびく 

   アンコ椿の恋の花 風も吹かぬに 泣いてちる 東京の人よ  さようなら

♪君の情けに 咲く花ならば 君と別れりゃ 涙の花よ

 島のアンコの黒髪を 忘れないでね また来てね 東京の人よ  さようなら

♪岬廻って 消えゆく船を 泣いて見送る 日暮れの波止場 

   アンコ椿の花びらに にじむ狭霧よ かなしみよ 東京の人よ さようなら

Ent13110816430010p121_4 「四十九日を先日行いました。借金はありませんでした」と島倉千代子のお墓にいた男性は言いながらも、「あまり喋ることのできないことが多いんですよ」と黙した。お墓の台座には門の音と記されていた。細木数子との関係を記述した週刊新潮11月21日号では「門と音で闇となる」と結んでいる。

  島倉千代子追悼番組の中で「からたちの小径」に関わる放送の中で、南こうせつ日比谷野音コンサートの舞台の上で腰を掛けている島倉千代子が映し出されていた。ジーンズとジャンバー姿の地味な服装でにこにこして南こうせつの歌を聴いている。本当に質素な生活だったのだと思えた。自宅マンションのある神宮前は原宿だ。若者の街で時代の流行を発信していく街でもある。原宿の街から代々木公園を島倉千代子がよく散歩をしていたと云う。地味な服装の島倉千代子に誰も気が付かない。そういう私も勤め先へは原宿駅を使用していた。ひょとしたらすれ違っていたのかもしれない。

  文化とは人の心に感動を与えるものだといわれている。人の心を動かすもの。島倉千代子の歌の中にはまぎれもなく、それがある。墓地に書かれている「こころ」は自分の歌を聴いて喜び、悲しみ、感動した人との心の結びつきをメッセージとして残していると思えてきた。

 「島のアンコの黒髪を忘れないでね また来てね」と歌う島倉千代子は大人になれない少女のような気がしてきた。

          ―合掌―

                                 《夢野銀次》

(引用・参考資料)

島倉千代子著「花のいのち」(みき書房・昭和58年)/田勢康弘著「島倉千代子という人生」(新潮社・1999年、平成11年)/齋藤秀隆著「東京だョおっ母さん‐野村俊夫物語」(歴史春秋出版社・2005年、平成17年)/「週刊新潮・2013年、平成25年11月21日号」/「船村徹の世界」(下野新聞社・1997年、平成9年)

 

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船村徹『私の履歴書 歌は心でうたうもの』、高野公男・美空ひばり

G2008100723funamura_b1  ~思い 出したんだとさ 逢いたくなったんだとさ いくらすれても 女はおんな 男心にゃ 分るもんかと 沖の煙りを 見ながら ああ あの娘が泣いてる波止場~ 

『あの娘が泣いてる波止場』は作詞高野公男、作曲船村徹、歌は三橋美智也で昭和30年12月にキングレコードから発売された。時に船村徹23歳、高野公男25歳。二人にとり初めてのレコードだった。

51az3tpq5rl_sl500_aa300_1_4    「歌は心でうたうものである。テクニックがどんなに優れていても、心のつぶやきや叫びからでたものでなければ、けっして聴く者を感動させることはできない。日本の音楽教育は明治以来、西洋音楽至上主義の歴史を歩んできた。中でも町の片隅で黙々と生き人々の哀感をうたう歌謡曲や演歌を蔑(さげす)む傾向さえある。私の作曲家人生はこうした風潮に対する反逆でもあった」と著者の船村徹は『私の履歴書 歌は心でうたうもの』(日本経済新聞社、平成14年発刊)のまえがきでこう書き出している。日本経済新聞の連載『私の履歴書』を一冊の本にまとめた書であり、日本の戦後歌謡曲史を解く本とも言える。

  船村徹が作曲家として世に出るまで26歳で亡くなる高野公男の辛苦の話。『別れの一本杉』の大ヒットによりキングレコードから日本コロムビアに移ってからの作曲活動、作詞家星野哲郎との出会い。そして不世出の歌手「美空ひばり」との戦い。村田英雄、北島三郎との関わりが綴られ、「演歌巡礼」「歌供養」への思いが記述されている。そして最終章では「歌は聴く者の心に響いてこそ歌であり、心に残ってこそ歌である」と結んでいる。

Takano1_3  ~泣けた 泣けた こらえきれずに 泣けたっけ あの娘と別れた哀しさに 山のかけすも鳴いていていた 一本杉の 石の地蔵さんのよ 村はずれ~ 『別れの一本杉』(作詞高野公男、歌春日八郎、昭和30年11月発売)

 「いまのような曲が爆発的に売れ、しかし信じられないような早さで忘れられるような時代ではなかった。一曲一曲が大事に切実に人々の心に届いた時代だった」。「最近の若い人たちの間で、はやる歌とういうのは、聴かせるものものではなく見せるものではないかということだ。聴こうとしても歌詞が意味不明。早すぎて耳に入ってこない。これはテレビという媒体を通して流される宿命なのだろうか」と船村徹は問いかけてくる。その通りだと私も思っている。

 船村徹の仕事場、栃木県今市市(現日光市)にある『楽想館』には高野公男が『遺書』として残した『男の友情』の歌詞が飾られ、親友高野公男と今も語り合っている。「高野はこう言った。『東京、東京と言ってるが、東京に出てきた人間はいつかきっとふるさとを思い出す。おれは茨城弁で作曲する。おまえは栃木弁でそれを曲にしろ。そうすれば古賀政男も西条八十もきっと抜ける』そしていまでも鮮明に覚えている高野の言葉がある。『きっと地方の時代が来る』。高野の詞は戦後復興の波にも乗れず、町の片隅で寂しさを抱えて生きる人々の気をとらえている」と亡き親友との絆を原点として作曲活動を行ってきたことを振り返る。

 ~遠い 遠い 思い出しても 遠い空 必ず東京へついたなら 便りおくれて言った娘 りんごのような 赤い頬っぺたのよ あの泪~

~呼んで 呼んで そっと月夜にゃ 呼んでみた 嫁にもゆかずにこの俺の 帰りひたすら待っている あの娘はいくつ とうに二十はよ 過ぎたろに~

  この歌を私が24歳、挫折感と孤独な生活の中で、夜、四畳半アパート一室の窓から故郷の方を見ながら口ずさんでいた。あの頃のことは今でも忘れていない。人生の分岐点になっていたからだ。

Hibari1_2  高野公男の死によって船村徹は荒れた生活を送った。にもかかわらず、昭和31年から昭和35年にかけてヒット曲を生み出した。美空ひばり『波止場だよお父つぁん』(昭和31年)、コロンビアローズ『どうせ拾った恋だもの』(昭和31年)、青木光一『柿の木坂の家』(昭和32年)、島倉千代子『東京だヨおっ母さん』(昭和33年)とすぐに歌詞が浮かんでくる歌でもある。とりわけ美空ひばりについては熱を帯びて記述している。

  「美空ひばり」との戦いの章で初めて「ひばり御殿」での出会い。栃木県今市市、関の沢出身の父加藤増吉の栃木訛りでのあいさつの後、美空ひばりとの「波止場だよお父つぁん」のレッスン。当時24歳の船村徹は19歳の美空ひばりのことを次のように記述している。

  「私はピアノを弾きながら『波止場だよお父つぁん』を歌った。次にひばりさんが歌った。それは驚くべき歌唱だった。彼女は読譜はそれほど達者ではなかった。だが、音符の上下動を目で追いながら、感覚的にメロディーのもたらす感情の起伏を読みとり、作詞家や作曲家が自分に何を求めているのかまで瞬時につかみ取ってしまうのだ」。

1309265593076161299111_9  「私はこの年下の小さな女を見ながら震えていた。年齢の差を超えて畏怖(いふ)の念を覚えた。素直に言えば、彼女の表現力は私の感性の先を行っていた。こんな歌手にどんな曲を書けばいいのか。少しでも手を抜けば歌唱で完膚なきまでにやりこめられるに違いない。ひばりというブラックホールに巻き込まれ、自滅するのではないかという恐怖心に似た思いが胸をかすめた。私にとって彼女との出会いは不世出の歌手『美空ひばり』との戦いの始まりだった」と畏れと作曲活動の戦いを記している。「歌手が作家の意図を超えて歌う。楽曲を作家の手から奪い取って自分のものにしてしまうことが極めて稀に存在する。美空ひばりという歌手がそうだった。私が知る唯一の例である」と記述している。

   作曲家という立場の人による「美空ひばり」について書かれたものは数少ない。「天才歌手」という言葉では片づけない船村徹らしい著しかただと思える。以後、「哀愁出船」「みだれ髪」までの逸話が本に記述されている。

800pxshinjuku_koma_studium_20091  平成20年(2008)12月に閉館した新宿コマ劇場で私が「美空ひばりショー」を観たのは何年前だったろう。仕事が早く終り、新宿歌舞伎町に立ち寄りをしたら「美空ひばりショー」がコマ劇場で演っていた。芝居は終わり歌謡ショーのみで最後尾の席だった。ショーが始まり、キンキンキラキラと派手な衣装の美空ひばりが舞台を回りながら歌いだした。「東京キッド」「悲しき口笛」「港町十三番地」などおなじみの曲が終わり、暗転。その後、一筋のスポットライトがピアノの前に座った美空ひばりを照らす。~一人酒場で飲む酒は~……。と「悲しい酒」を歌いだす。凄い。引き込まれる。劇場全体の観客をグーと手元に引き寄せ、すっと引き離す。その呼吸と間。最後尾の私の体が舞台に引き寄せられ、ある瞬間、とき放された感覚となり、スーと気持が静まり、やがて気持ちの高まりが起こり、心の広がりを感じた。歌謡ショーでここまでの心を動かし、観客の心を引き寄せる歌声。それが美空ひばりなのだと、その時思った。美空ひばりのステージ、観ていて良かったと今でも自負している。「俺は美空ひばりショーを生で観ているゾ」と自慢している。

 下野新聞社発行の「船村徹の世界」の中で、スポーツ新聞取締役小西良太郎が「古賀政男は日本の歌謡曲の開拓者。そして、船村徹は戦後歌謡曲普者の代表だ」と評価、位置付けをしている。しかし、最近の船村徹の作品は浮かんでこない。昨年暮れから、由紀さおりが1969年(昭和44年)の歌謡曲を世界にアピールしていることが「夜明けのスキャット」を通して報道されている。今一度、船村徹として「情歌」を含んだ曲で、「誰か」と前に進む曲を作ってくれることを願って止まない。

                             《夢野銀次》

 

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