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美空ひばりの笑顔-広島平和音楽祭のステージ

Photo_20211001133301  「♪バカだな バカだな だまされちゃって 夜が冷たい 新宿の女~」(「新宿の女」石坂まさを作詞作曲)。

 YouTubeで美空ひばりが新宿コマ劇場で歌う「新宿の女」を観聴きすることができた。藤圭子の怨念のこもった突き放す歌ではなく、「だまされちゃって」と笑顔で歌うひばりの歌声の中から、「また騙されちゃったの。でも生きていくわよ」と歌う夜の新宿で生きる「強さを内包した優しく可愛いく包み込む大人の女」の姿が浮かびあがってきた。……優しい眼差しが印象的な画像になっている。

   この「ひばりの大人の優しさ」はどこから生まれてくるのだろうか?舞台から見える新宿コマ劇場に来てくれている観客に向けている笑顔だけだったのか…?

 

第1回広島平和音楽祭『一本の鉛筆』 

Photo_20211001133302   『戦争中、幼かった私はあの戦争の怖ろしさを忘れることはできません。これから二度とあの怖ろしい戦争が起らないよう、皆様と一緒に祈りたいと思います。いばらの道が続こうと平和のためにわれ歌う』と舞台から語りかけ、美空ひばりは『一本の鉛筆』の詞を朗読し、歌いだす。

  昭49年(1974)8月9日に「音楽で平和の心を呼び戻そう」という広島テレビ局企画で開催された第1回広島平和音楽祭(実行委員長古賀政男)。作詞松山善三、作曲佐藤勝による広島の原爆をモチーフにした歌『一本の鉛筆』。松山善三は、この「一本の鉛筆」を美空ひばりさんに歌ってほしいと要望した。

 このことを聞いたひばりは、「この曲を歌うことこそ今の私を生かす道なのだ」と考え、広島平和音楽祭への参加を自らの意志で決めた(新井恵美子著「美空ひばりふたたび」より)。

Photo_20211003053401    平成28年(2016)8月13日配信の朝日新聞ネットコラムに、一本の鉛筆についてこう記されている。「美空ひばりの数多い持ち歌の中でも一見異質な存在の歌だが、ひばりは自選の10曲の6番目に入れているなど大事な歌としていた」。

 この中で自選10曲と記されているが、…ひばり自選10曲とは何か?ネットで検索したが、そのことを表した資料は見当たらなかった。……気になる「ひばり自選10曲」でもある。しかし、何よりもひばりにとり特別な思いのある大事な歌であることには間違いがない。

 この「一本の鉛筆」をひばりの反戦歌であると指摘する人がいる。しかし、私にはひばりが語っているように「戦争が起らないよう平和への祈りの歌」「戦争は嫌だ」と素直に訴えている歌だと思えている。

1  第1回の広島平和音楽祭が開かれた昭和49年(1974)はひばりの歌手人生の転換期だったと言われている。昭和39年(1964)の「柔」、昭和41年(1966)の「悲しい酒」と続いたヒット曲が昭和42年(1967)の「真赤な太陽」を最後に途絶えていた。その一方で前座で歌っていた弟が恐喝などで繰り返し逮捕され、暴力団追放の動きが高まった。昭和48年(1973)ひばりのショーは公共施設の使用を拒否され、紅白歌合戦にも落選,マスコミによるバッシングが続いていた。

 さらには「広島平和音楽祭」に美空ひばりが参加することに、被爆者団体は「暴力団に関係あるひばりに平和の歌なぞ歌ってほしくない」と言いだした。しかし、古賀政男と松山善三は怒った。「この催しは世界に平和を訴える音楽祭である。出場する歌手はどこへ出しても恥ずかしくない実力の持ち主でなければならず、美空ひばりはその点、どうしても欠かせない歌手である」と古賀政男は主張した。歌の実力は暴力団云々とは無関係だと言った。松山善三は「一本の鉛筆だからこそ、平和の心を伝えることが出来るのだ。一本の鉛筆は鉄砲玉より強いのだ」と主張した。しかしそれでも収まらない被爆者団体に「ひばりを推薦したのは私だ。ひばりの平和への思いの強さを聞いてくれ。ひばりはノーギャラで歌うと言っているのだ」と言い放す古賀政男の説明でようやく団体は折れた(新井恵美子著「美空ひばりふたたび」より)。

 「♪あなたに 聞いてもらいたい あなたに読んでもらいたい あなたに歌ってもらいたい あなたに信じてもらいたい 一本の鉛筆があれば 私は あなたへの愛を書く 一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く~」とひばりにとって公共施設から締め出されて以来、一年半ぶりに公共施設の会場である広島県立体育館にて「一本の鉛筆」を熱唱をした。

  すでにこの時、美空ひばりは東映の専属契約の打ち切りにともない165本の映画出演から芝居と歌の舞台公演「舞台人」として活動していくという方向転換をしていた。そして、歌への思いから、この第一回広島音楽祭を機会に、NHKやマスコミなどとの対決姿勢を改めていくことになる。

Photo_20211001133406   昭和39年(1964)川口松太郎作「女の花道」を皮切りに新宿コマ、梅田コマ、名古屋御園座、明治座を中心に一か月歌と芝居の舞台公演としての活動を主軸に展開を始めていた。

  「(舞台女優として)水谷八重子、山田五十鈴、杉村春子らの大女優のあとを継げるのは、歌が終わって転身したときの美空ひばりしかいないと川口松太郎は語っていた」と西川招平は自著「美空ひばり最後の真実」で川口松太郎が舞台女優としての美空ひばりを高く評価をしていたことを記している。

  映画で培われた演技を舞台女優として直に観客に接していく。そこには観客大衆に対する謙虚な姿勢が求められていた。新井恵美子は「美空ひばりふたたび」の中で、「ひばりの歌が変わるのはこの時(第1回広島平和音楽祭)からだった。歌のうまさは変わらないが、ギラギラした光沢から渋い深みを見せる魅力が増した。バッシングによる人の世の裏を知った大人の心がひばりを変えたのかもししれない」と美空ひばりの歌唱が変わってきていたことを記している。

 広島平和音楽祭への参加は、「一本の鉛筆」を歌うことから「大人の心をもった歌唱」として、大衆と歩むという謙虚な美空ひばりを指し示した意義深いステージになったのではないかと思えてくる。

 

第15回広島平和音楽祭『一本の鉛筆』…愛する人たちに贈る歌

Photo_20211001133401   「♪あなたに  聞いてもらいたい あなたに  読んでもらいたい~」とステージに登場した白いドレス姿の美空ひばりが、第一回広島平和音楽祭の時よりさらに声高らかに会場一杯に響くように歌いだす「一本の鉛筆」。

  第1回の広島平和音楽祭に続き昭和63年(1988)7月29日の第15回広島平和音楽祭に出演し、歌い上げる美空ひばり。YouTubeでこのステージを観聴きすることができた。

  この年、昭和63年の4月21日に「東京ドーム」にて病からの復活コンサートを終え、全国にお礼の公演を行っていた。しかし、ひばりの体調は悪くなっていた。「もう一度『一本の鉛筆』が歌いたい。あの広島で歌いたい」という思いで飛行機に乗った。たまたま同乗していた王貞治氏は体調が相当悪いとお見受けしたと後日語っている。この時すでに歩くのがやっとで段差をひとりで上ることさえ困難な状況だっと云われている。

 翌年の平成元年(1989)の6月24日美空ひばりは亡くなる。享年52歳。

  「♪一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く 一本の鉛筆があれば 人間のいのちと 私は書く~」

Photo_20211003063701    音楽祭の楽屋に運び込んだベッドで点滴を打っていた。しかし、観客の前では笑顔を絶やさず、ステージを降りた時には「来てよかった」と語ったという(ウキペディアより)。

 新村恵美子は「美空ひばりふたたび」の中で次のように記している。

「15年目の『一本の鉛筆』は以前のものとは全く別のものになっていた。相次ぐ肉親との死別、母、弟二人との別れ、大きな病気、それらはひばりを別人のような深みある人にさせていた。そのせいだろうか。この時の彼女の歌う『一本の鉛筆』は心に沁みて大きな感動を与えるのだった」

  この第15広島平和音楽祭における美空ひばりのステージはYouTubeで「一本の鉛筆」から「愛燦燦」まで全7曲を聴き観ることができる。完璧に歌いきっている大人の優しを内包した美空ひばりがいる。「人にやさしくする心、平和を大切に思う心」として『一本の鉛筆』をはじめとした全7曲を広島平和音楽祭のステージから愛を込めたメッセージとして歌いあげている。他のどのステージよりも美空ひばりという一大歌手の凝縮した素晴らしいステージになっている。

 『一本の鉛筆』は一大ブームにならないが、いつまでも歌い継がれていく名曲になっていくと思える。

《第15回広島平和音楽祭で美空ひばりが歌った歌曲名》

〇『一本の鉛筆』……昭和49年(1974)10月1日リリース。

          作詞:松山善三 作曲:佐藤勝)

〇『みだれ髪』……昭和52年(1987)12月10日リリース。

         作詞:星野哲郎 作曲:船村徹

〇『ひばりの佐渡情話』……昭和37年(1962)10月5日リリース。

         作詞:西沢爽 作曲:船村徹

〇『ひとり旅〜りんご追分〜入り』……昭和52年(1977)11月1日リリ

         ース。作詞:吉田旺、作曲:浜圭介

         (リンゴ追分)作詞:小沢不二夫  作曲:米山正夫

〇『人生一路』……昭和45年(1970)1月10日リリース。

         作詞:石本美由起 作曲:かとう哲也

〇『芸道一代』……昭和42年(1967)9月25日リリース。

         作詞:西條八十  作曲:山本丈晴

〇『愛燦燦』……昭和61年(1986)5月29日リリース。

          作詞、作曲:小椋佳

『みだれ髪』・『ひばりの佐渡情話』

Photo_20211001135701   「♪暗(くら)や涯なや  塩屋の岬 見えぬ心を照らしておくれ ひとりぼっちに しないでおくれ~」。長期入院、病からの復帰第一作としてレコーディングした記念の歌として紹介して歌う「みだれ髪」。

 「ひばりは高音(裏声)にいいものを持っていると」と作曲船村徹は『哀愁波止場』より半音高い曲で、サビで裏声になるようキーの設定をしている曲とした。作詞の星野哲郎は美空ひばりを塩屋岬の立つ灯台をイメージして作詞したと云われている。ひばりの歌声が私たち心を照らす明かりを「愛の光」として作詞したのではないかと思える。

   同じ作曲の船村徹の「哀愁波止場」がある。しかし、「ひばりの佐渡情話」を東京ドーム公演同様に広島平和音楽祭で歌い、何故か「哀愁波止場」を東京ドーム公演でもひばりは歌ってはいない。何故選曲しなかったのだろうか?

  出だしの「♪佐渡の~」の高音での長い節回しで歌う「ひばり佐渡情話」は浪花節調に聞こえてくる。「♪ 島の娘は なじょして泣いた 恋はつらいと いうて泣いた~」余韻を残しての歌声に哀切を感じてくる。

  昭和37年(1962)10月公開の東映映画『ひばりの佐渡情話』(監督渡辺邦男)の主題歌としてリリースされている。中学生だった私はこの映画を観ているが、主題歌の「ひばりの佐渡情話」が印象に残り、映画のストーリーはまったく忘れている作品である。只、YouTubeではひばりが嵐の中を小舟で柏崎に向かうシーンの一部を観ることができる。 

Sim   むしろ「〽佐渡へ 佐渡へと草木のなびく 佐渡はすみよいか 惚れちゃならない他国の人~』と佐渡の荒涼とした情景から始まる浪花節「佐渡情話」が思い浮かんでくる。

  昭和初期に浪曲「佐渡情話」をレコード化して一大ブームをおこした浪曲師寿々木米若。私が子供のころ「佐渡へ佐渡へと草木もなびく 佐渡はすみよいか」など自然に口ずさんでいた浪曲詞である。

  恋こがれたオミツは柏崎のゴサクに会うため佐渡島から柏崎にたらい舟で渡るが、恋敵シチノスケにたらい舟が壊され会えなくなったオミツは狂う。しかし、柏崎から訪れたゴサクがオミツを治し結ばれる。佐渡島に伝わる島の娘と他国の男との悲恋の民話を寿々木米若は民謡の佐渡おけさを元に浪曲「佐渡情話」を口演し、米若の出世作とした。

  「ひばりの佐渡情話」は浪曲「佐渡情話」の「たらい舟」で荒海を柏崎に向かうオミツ、そして恋焦がれた狂うオミツの悲しさを「♪佐渡の~ 島の娘はなじょして泣いた」と思い浮かべて聴くと美空ひばりの生きてきた姿とオーバーラップし、胸に迫ってくるものがある。……ステージでの美空ひばりは自分の人生歌として歌っている。「哀愁波止場」ではなく「ひばりの佐渡情話」を選曲したのは「たらい舟」で人生の荒海を渡ってきた自分自身を投影して歌ったものと思えてきた。

『ひとり旅~りんご追分~入り』

Photo_20211001133402  「♪見知らぬ町の 古い居酒屋で 柳葉魚(ししゃも)サカナに ひとり呑んでいます~」と軽いタッチのリズムで歌う「ひとり旅」。店に流れる「追分りんご」から「♪りんごの花びらが 風に散ったような~」と「りんご追分」が挿入される。面白い、いい歌だと初めて聴いた私は、この歌を気に入った。

  『ひとり旅〜りんご追分〜入り』は佐良直美が昭和51年(1976)に発表した「ひとり旅」に、歌詞の中に出てくるひばりの代表曲「りんご追分」を曲の間にあんことして挟んだ曲。

  歌詞の中に「♪ひなびた店で いつも呑んでいた 死んだあいつがいたら」と死んだ友を思う浮かべ「りんご追分」を聞きながら「死んだあいつは どこで見てるでしょう~」と亡くなった友を思い浮かべ居酒屋で呑んでいる姿が浮かび上がってきくる歌である。

  作詞の吉田旺はちあきなおみの『喝采』でも亡くなった者への哀惜を作詞しているが、この「ひとり旅」には悲しみをこらえながらどこか明るく呑む若者の姿が描かれている詞になっている。

 「先に逝ってしまったあいつ」と呑む。ひとり旅だが、今も忘れぬあいつと歩んでいる歌だなと思えてくる。そして、ひばりと関わりあい、先に逝った多くの人々に「♪りんご花びらが 風に散ったよな~」と「りんご追分」の歌を贈っているような暖かみのある感情が湧いてくる歌唱になっている。……ひばりの歌声は優しく、じっと胸に迫ってくるものがある。

『人生一路』

Photo_20211001133501    「♪一度決めたら 二度とは変えぬ これが自分の 生きる道~」。病からの再起を賭けた昭和63年(1988)年4月の「東京ドーム公演」の締めの曲としてこの「人生一路」を歌唱した。

  「♪胸に根性の 炎を抱いて 決めた この道 まっしぐら 明日にかけよう 人生一路 花は苦労の 風に咲け~」。

 人生の生きざまを描く石本美由紀のひばりの歌にかける胸中を見事に表している作詞になっている。

『芸道一代』 

   ……「人生一路」が歌い終わる。しかし、ステージは続く。ひばりは私事ですがと断り、今日が母親の祥月命日なので「心の供養として」「芸道一代」を歌いますと話し、歌いだす。

  「♪小粒ながらもひばりの鳥は 泣いて元気に青空のぼる 麦の畑の小さな巣には わたし見ている わたし見ている 母がある 母がある~」と声をつまらせての歌唱に聴こえる。美空ひばりの芸能生活20周年の記念曲として芸の道に生きる女の心情を歌った曲である。

  「(芸道一代の)レコーディングの時、付き添っていたひばりの母は、感動の涙を頬に光らせていたと西条八十は語っていた」と筒井清忠著「西條八十」」で記している。二人三脚で芸能界を歩いてきた母:加藤喜美枝への思いを胸に沁みこませて熱唱する美空ひばりがいる。

『愛燦燦』

Photo_20211001141101  「♪愛 燦燦と この身に降って 心密かな嬉し涙を 流してたりして 人はかわいい かわいいものですね~」。

  「家族愛」をテーマに製作され、ハワイで撮影された『味の素』のCM映像のバックに流れる曲。ホリプロの若いプロデューサー岩上昭彦は「家族愛」のテーマに最も合致していると思われる美空ひばりに歌唱を希望した。「歌謡界の女王」とも呼ばれていた芸能界の大御所であり、無謀とも言えるオファーであったが、ひばりがこのオファーを受諾したため、完成したのが「愛燦燦」(ウキペディアより)。

   CM放映当初は画面にクレジットされずいわば覆面シンガー扱いだったが、声質などからすぐ承知され、発表とともに画面上でもクレジットされるようになった。

Cm    ひばりの「愛燦燦』の唄声が流れる中、荷馬車に乗った一家が、さとうきび畑を耕す姿が映り、荷馬車に乗って帰る一家を映している。『麦からビール、さとうきびから「味の素」。味の素はうまみ調味料です』とナレーションが流れ「♪人生ってうれしいものですね~」と歌が流れる。このCMをYouTubeで見ることができてうれしい限りだ。

 「愛燦燦」は 発売当時は振るわなかったが、その後ロングヒットとなり、令和元年(2019)時点ではひばりのシングル売上で歴代12位にランクインされている(日本コロムビア調べ)。

  ひばりの遺作になった『川の流れのように』と並んでテレビ・ラジオ等で多く取り上げられており、数多くの歌手によってカバーされていることもあって、ひばりの死後も代表曲のひとつとして全世代に親しまれている曲になっている(ウキペディア)。

Photo_20211001133405  「♪ああ 過去たちは 優しく睫毛に憩う 人生って 不思議なものですね ああ 未来達は 人待ち顔して微笑む 人生って 嬉しいものですね~」。

   歌い終わった美空ひばりは蔓延の笑顔を浮かべて客席に一礼して、登場した時と同じようにゆっくり歩き、上手奥の舞台袖に退場していく。

 

人生の歌を歌唱し大衆を愛した美空ひばり

  冒頭の「新宿の女」の優しい大人の歌唱は第1回の広島平和音楽祭をキッカケに体得したものだと分かってきた。さらに、15年後の第15回広島平和音楽祭では、歌うことを愛し、大衆を愛し、家族を愛し、人と共に生きてきたことを自分の人生歌として美空ひばりは歌いきっている。美空ひばりの全精力をステージで表しているといえる。退場する時の美空ひばりの笑顔が実にいい。これが美空ひばりなのだ……。

 第15回広島平和音楽祭の美空ひばりのステージは素晴らしい感動を私に与えてくれた。

                                             《夢野銀次》

≪参考資料本等≫

新井恵美子著「美空ひばりふたたび」(2008年9月、北辰堂出版発行)/「渡辺延志著朝日新聞横浜ネットコラム」(平成28年、2016年8月13日配信)/西川昭幸著「美空ひばり最後の真実」(2018年4月、株式会社さくら舎発行)/筒井清忠著「西條八十」(2005年3月、中央公論新社発行)/ウキペディアより「第1回広島平和音楽祭」「第15回広島平和音楽祭」「一本の鉛筆」「みだれ髪」「ひばりの佐渡情話」「浪曲佐渡情話」「ひとり旅〜りんご追分〜入り」「人生一路」「芸道一代」「愛燦燦」を参考。

 

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テレビドラマ「なつぞら」―「戦争孤児」生きること・兄妹への思い

戦争孤児として生きる奥原なつ

Photo_20210912141103   見晴らしの良い傾斜した十勝の丘から写生をしている奥原なつ(広瀬すず)。

  なつのナレーションが始まる。

  「ここは私が育った北海道の十勝です。私の大好きな風景に今日も風が吹いています。Photo_20210912141303 私は子供のころからたった一枚の絵からアニメーションの世界と出会うことになります。

   そして、18の夏。そのなつかしい人が突然私の前に現れました。私はその手に救われたことがあります。昭和20年3月、東京に大空襲があった日、私は逃げ惑う人の波に流され家族を見失いました。避難所の学校にとにかく向かいました。そこかしこに無数の焼夷弾が降っていました。その時、だれかが私の手をつかんだのです。私はその手に導かれたのです。それで生き延びたのです。だけどその日から私の人生は一転しました。

Photo_20210912141201   「俺が誰だか分かるか?」と青年の問いかけに「…ノブさん?ずっとずっと会いたかった」と応える。逃げ惑うなつの手をつかみ、ともにプールに飛びこみ,なつを助けた幼馴染の佐々岡信哉(工藤阿須可)が東京から十勝になつに会いにやってきたのだ。

  戦死した父と空襲で亡くしてしまった母。3人の兄妹で孤児になったなつは父の戦友、柴田剛男(藤木直人)につれられ北海道十勝「柴田牧場」の柴田家で育てられ、酪農をしながら農業高校3年になっていた。

Photo_20210912141001  昭和12年(1937)に東京日本橋料理屋に生まれ、戦争で両親を亡くし、父の戦友に引き取られた戦争孤児の少女・奥原なつが、北海道・十勝で広大な大自然と開拓者精神溢れる強く優しい大人たちに囲まれてたくましく成長する。

  上京後、草創期の日本アニメの世界でアニメーターを目指しながら生き別れになっていた兄妹と再会していく家族への思いの姿を描いていくNHK連続テレビ小説「なつぞら」。

  大森寿美男のオリジナル作品としての「なつぞら」は、平成30年から令和元年(2019)に変わっていった上半期に連続テレビ小説第100作の記念作品として放映された。獨協医大病院の病室から私はこの連続ドラマを朝、昼と2回、毎日観て過ごしていた。

  昭和12年(1937)年8月15日生まれのヒロイン、奥原なつ(子役・粟野咲莉)は兄妹3人で戦争孤児として「浮浪児狩り」に遭い、孤児院に収容される。そこで亡き父の戦友・柴田剛男に引き取られ北海道十勝の酪農家の柴田牧場に引き取られ育つ。妹の千遥は親戚に預けられるが、その後行方不明となる。施設に残った兄の咲太郎(子役・渡邉蒼)は施設を抜け出し、闇市、新宿などで暮らしていく。

  ちなみに「悲しき口笛」「東京キッド」などで戦災孤児の世界を歌や映画で登場したデビュウー当時の美空ひばりも昭和12年生まれであった。横浜の空襲を体験した美空ひばりは第1回、第15回広島平和音楽祭などに参加し、「一本の鉛筆」などを唄い、平和への思いを歌に託していた。とりわけ亡くなる前年の昭和63年第15回広島平和音楽祭での「一本の鉛筆」の歌唱は凄まじい気迫に満ちた声で歌いあげているのをYouTubeで観ることができている。

Photo_20210912141101  アジアや太平洋で膨大な犠牲者を出した戦争。軍人や民間人あわせて310万もの人が亡くなった。戦争末期には、日本各地が空襲により大きな被害を受け、その結果、多くの子どもたちが親を失い、孤児になった。

  本庄豊著「戦争孤児」には、「戦災孤児」「原爆孤児」「引揚孤児・残留孤児」「沖縄の戦場孤児」「混血孤児」とに分け、総称して戦争孤児として次のように記されている。

  「戦争孤児は、そのころ『浮浪児』と呼ばれていた。孤児にとって『駅』は特別な場所だった。東京・上野駅や大阪・梅田駅などには地下道があり、空襲で被災した少年少女たちが夜露をしのぐために利用した。それらの駅は中国大陸からの引揚げ孤児たちの終着駅でもあった」。

 Photo_20210912141403 そして、「過酷な状況だからこそ、本能は『生きる』ことを命じた。生きていくためには食わねばならぬ。食べ物を得るためには、闇市内外を駈けずり回った」。「厚生省の昭和23年(1948)8月1日の『全国孤児一斉調査』によれば、沖縄県を除いて全国合計で、孤児数は12万3512人であり、そのうち約1割にあたる1万2202人が孤児院に入っていた。ただ、この調査は戦後の混乱期のものであり、実際にはこの数倍の孤児がいたと考えられている。養子縁組などにより孤児で亡くなった子ども、この統計には入っていないなど、戦争孤児の全体像を把握することは今日もできていないのが現状だ」と記している。

Photo_20210912141402   当時の新聞には「浮浪児たちは地下道や高架下などをねぐらにして、物乞い、靴磨き、くず拾い、闇市で『使い』『残飯あさり』をして食いつないだ」と言われる。

  闇市(アメ横)がそばにある上野駅の地下道は浮浪児(駅の子)とり唯一のねぐらになっていた。

  また、窃盗団を結成したり暴力団の下働きをする場合も少なくなかった。このことが後の戦争孤児の保護が治安対策の要素を帯びる要因となってといわれている。守ってもらえず、飢えや病気など様々な原因で人知れず死んでいった者も多くいたという戦争孤児たち。収容先の施設は数が限られ、食糧も不足。体罰を行う施設、子どもを檻に入れる施設もあったといわれている(ウキペディア、「NHKスペシャル“駅の子”の闘い ~語り始めた戦争孤児」参照)。

  さらに、朝日新聞デジタル記事「国に棄てられた数知れぬ浮浪児」には、「72年前の終戦の後、東京・上野の地下道は浮浪児であふれ、数え切れない子どもたちが餓死し、凍死しました。生きた証しすら残せず、『お母さん』とつぶやき、一人で死んでいった」。

  「浮浪児と呼ばれた子どもの大半は戦争孤児です。学童疎開中に空襲で家族を失った子もたくさん路上にいました。だれも食べさせてくれないから、盗みを働くほかなかった。不潔だ、不良だと白い目でみられた。『浮浪児に食べ物をやらないで』という貼り紙まで街頭にありました」と過酷な状況の中に置かれていたことが記されている。

 Photo_20210912141301  闇市でためた金は施設の中で盗られたと戦死した父の手紙を届けてくれた柴田剛男(藤木直人)に咲太郎はこぼすシーンもある。施設より駅で暮らす方がましだと、子どもたちは、脱走を繰り返すようになった。

  生きのびていくために大人になってからも「浮浪児」ということで、就職や結婚で差別にあうのをおそれて、妹の千遥のように過去を抹消して生きていくことを選んだ孤児も多くいたと言われている。

  中国残留孤児兄妹の生きざまを描いた山崎豊子原作のNHKテレビドラマ「大地の子」で描かれたように戦争が終わってから放置された戦争孤児たちの苦しめられてきた「長い戦後」を忘れてはいけないことだと思える。

  柴田牧場に預けられた9歳のなつは柴田剛男の義父、柴田泰樹(草刈正雄)に「私をここで働けせてくれ」と自分の生きる場所を哀願する。

  Photo_20210912141302 朝早くから搾乳を手伝うなつを見て、ある日泰樹は闇市のある帯広の町になつをつれていく。そして「雪月」のアイスクリームを食べながらなつに語る。

  「ちゃんと働けば、必ずいつか、報われる日が来る。報われなければ、働き方が悪いか、働かせる者が悪いのだ。だが、いちばん悪いのは、人が何とかしてくれると思って生きることじゃ。人は、人を当てにする者を助けたりはせん。逆に、自分の力を信じて働いていれば、きっと誰かが助けてくれるもんだ。お前は、この数日、本当によく働いた。…もう、無理に笑うことはない。お前は堂々と、ここで生きろ。いいな」。この台詞、どこか私の父親の生き方に通じているような気がするのだ。

  卑屈にならず、自分の力を信じて、堂々と誇りをもって生きることを諭す泰樹の言葉には重みを感じる。明治35年(1902)に18歳のとき、孤児の泰樹は一人で富山県から北海道十勝に入植して開拓開墾から酪農をして生きてきた姿が力強く映ってくる。

Photo_20210912141104   小学校に編入したなつに、「東京には家がなくて、外で暮らしている子どもが街にたくさんいるんだって…野良犬みたい暮らしてて、ばい菌とか、怖い病気を持ってるって…」とクラスメートたちがはやし立てる中、「病気だったら、とっくにその子は死んでるよ。東京から北海道までって、どのくらい離れてと思ってんだよ」と、山田天陽の言葉でクラスメートたちは押し黙る。

 Photo_20210912141404  なつの絵に対する影響を与える天陽との出会いだ。農業と酪農をしながら山田天陽(吉沢亮)はベニヤ板に馬の絵を描き続け、若くして夭折していく姿を描いていく。それは十勝鹿追町で開拓農民として馬の絵をベニヤ板に描き続け、32歳8か月で夭折していった神田日勝をモデルとして登場させている。

  北海道河東郡鹿追町にある神田日勝記念美術館館長の小林潤氏は、「苦楽を共にした馬の絵をベニヤ板に描き続け、晩年に書き残した《馬(絶筆・未完)》は、日勝独特の描き進み方を明示する未完という名の完成作品とも言えるものだ。『生活の歌をキャンバスに叩きつけていく』と生き様を描きつつなつぞらに散った日勝の作品は、今なお多くのファンを魅了し続けている」と日勝美術館配信コラムに戦後十勝の青年画家、神田日勝作品をご鑑賞をくださいと記している。
 同じくなつの農業高校での演劇公演は戦後の帯広農業高校の演劇活動をモデルにしているといわれている。

  ドラマ「なつぞら」は北海道十勝、開拓者の姿だけではなく新劇、アニメ映画など戦後の新宿を中心にした文化へと続いていくドラマになり、幅広く展開させていくことになっていく。

 天丼の味から生きていく基になる家族

Photo_20210912141501   「…千遥、だよね?」となつ(広瀬すず)の呼び止めた言葉に頷く妹の千遥(清原果耶)。なつと夫の坂場一久(中川大志)たちが制作する会社「マコプロダクション」に娘、千夏を連れてきたのだ。

  高校卒業後、なつはアニメーターを目指して上京し、出会った兄、咲太郎(岡田将生)の住むおでん屋「赤い風車」で店主の亜矢美(山口智子)らと同居し、東洋動画に勤め、助監督の坂場一休と結婚、一女をもうけていっていたのだ。

  昭和50年(1975)1月、37歳になっていたなつは子育てとアニメーターとして「マコプロダクション」に移り「大草原のソラ」の作画監督をしていた。「娘が、ソラのファンなんです。どんなところで作っているのか、見てみたくなって」と言いながら帰ろうとする千遥になつは、どこにいるのか教えてほしいと懇願する。神楽坂で「杉の子」という料理屋をやっているから、そこに客として来てほしいと言って帰っていった。

_jpgquality70typejpg  数日後、なつは兄の咲太郎(岡田将生)や光子(比嘉愛未)、信哉、放送局に勤める柴田家の一番下の妹、明美を伴い、「杉の子」に緊張した面持ちで客として訪れる。

  店内カウンターに腰をおろしたなつたちは、兄妹であることを伏せての客のため気まずい雰囲気の緊張感の漂うシーンになっている。

  ビールを頼んだ咲太郎は、「女将さんですか?女将さんが料理を作るのですか」と千遥に声をかける。「(頷いて)私は料理人ですから」とカウンター内で割烹着を着た千遥が応える。「……最後に天丼が食べたいのです」と天丼を注文する。天丼へのこだわりは、以前に浅草で再会したなつと天丼を食べながら、父親が作ってくれた天丼の味が忘れられないと天丼へのこだわりを描いていた。

Photo_20210912141203  「…これだ…これだよ…ずっと探してた天丼は!戦死した父親が、料理屋をしていて、昔作ってくれた天丼と同じ味なんです。どうして女将にはそれが作れたんでしょうね」と話す咲太郎。横で天丼を作っている千遥を見つめながら、なつは「違う。…母さんだよ…天丼作ってくれたのは」と忘れていた天丼を思い出したことを話す。

  千遥の立っている調理場が遠い記憶にある調理場と重なり、そこに立つ父が天ぷらを揚げ、その横で母が天丼を作っている情景が浮かびあがってくる。このシーンが実にいい。

 Photo_20210912141204 「お父さんが揚げた天ぷらを横で働いていたお母さんが、だしを取って、たれを作って…思い出した。…女将さん(千遥)が…それを作っている母に似ていたから…それで思い出したのかもしれません」と話しながら天丼を食べるなつ。

  このシーンの母親役の割烹着姿で天丼をカウンター超しに差し出す戸田菜穂の笑顔の表情がいい。「大地の子」の割烹着を着た田中好子も良かったが戸田菜緒の暖かな笑顔の母親も良い。戦争孤児にとり亡くなった母親が料理を作る温もりのある姿に……私の涙腺が緩んでしまう。咲太郎となつにとり父親と母親への思いがこめられているシーンになっている。

  店を出るとき、なつは戦死した父親の手紙をそっと千遥に渡す。その手紙の最後には、父親が親子5人で浅草を歩く絵が描かれてあった。なつにとり絵に命を吹き込めることのできるアニメーションへの道へ進むきっかけになった絵であった。

 Photo_20210912141202  後日、なつを「お姉ちゃん」と呼び、結婚する際に隠していた戦争孤児であったこと、兄姉がいることなどを話し、離婚してでも娘の千夏に嘘をつかず、ともに恥ずかしくのない生き方を選ぶことを話す。

 「お姉ちゃん……私の力になってくれる?また、家族になってくれる?」となつに問いかけるる千遥。 なつは、「千遥はもう自由になっていい……誰にも嘘をつかず堂々といきていい……これからもまた一緒に生きよう……ねえ、千遥」と言いながら千遥の手を握りしめる(木俣冬ノベライズ「NHKテレビ小説なつぞら」参照)。

  義母と離婚の話し合いの中で、千遥にとり料理の師匠であった義父がなつたちの父親と同じ浅草の料亭で板前の修業をしていたことが解る。料亭の名前は分からなかったが、咲太郎は同じ料亭で修業していたから天丼の味も同じなんだという思いを語る。

  離婚が成立し、料理屋「杉の子」を義父から味を受け継いだ千遥が「杉の子」を譲り受けることになる。

Photo_20210912141401   話し合いが終わった後、北海道から柴田剛男が心配で上京してくるが、解決したことを知り、戦友から託された思いに終止符をうったことに安堵する。

  同じように信哉も離婚の話し合う前、なつと咲太郎に、「空襲から1年近く、みんなと家族のように過ごした日々が…あれがあったから、それからどんなことにも耐えられた。これで自分の戦後が終わるんだ」と、再び兄妹で生きていく基になる家族への思いを語るシーンなど胸に響いてくるものがあった。

 Photo_20210912141002  さらに、後日「杉の子」で新宿に戻ってくる亜矢美(山口智子)に再会するなつ。

  千遥の作った煮物を食べながら一番だしと二番だしの話になり、カウンター内から千遥が「二番だしは、出し殻を煮詰めて材料も足すから更にコクと風味が出るの」と話すと、亜矢美はなつ兄妹三人に、「うん。まあ、言ってみれば私たちみたいなもんかしら。人生の二番だし。自分の人生一生懸命生きてく中で、コクと風味の二番だしがあるわけでしょう。でも一番だしの本当の家族のことは決して忘れない。だってそっから来てんだから。一番だしがあって二番だしがある…」となつ兄妹に生きていく基は家族にあると話すシーンなど家族への有様が描かれ、好感の持てるシーンになっている。

Photo_20210912141102   「なつぞら」最終回のラスト、…十勝の草原の丘を歩くなつたち親子が映し出される。

  夫の坂場一久(中川大志)が「いつか君たち兄妹の戦争を描いてみたい」と話すと、なつは「私たちの戦争?」。一久は「過酷な運命に負けずに生きる子供たちをアニメーションでリアルに描いてみたい」とその抱負をなつと娘、優に話す。

  「一久となつはおよそ10年後にこの夢を叶えます」と内村光良のナレーションが流れる……。坂場一久のモデルといわれている高畑勲が監督した昭和63年(1988)公開スタジオジブリ制作の「火垂る墓」を指してテレビドラマ「なつぞら」は終わる。

  北海道の開拓精神を基に、アニメーション制作へと進むなつを主人公を中心にして、戦後文化の流れを背景に多彩な登場人物との出会いが織りなすドラマになっている。そして、戦後30年を経て戦争孤児の生きざまから家族への思いを描いた優れたテレビドラマであると改めてDVD全巻を観て感動した作品である。

                        〈夢野銀次〉

≪参考引用資料本等≫

大森寿美男著・木俣冬ノベライス「NHK連続テレビ小説なつぞら上・下」(2019年8月NHK出版発行)/「NHKドラマ・ガイド連続テレビ小説 なつぞらpart1・part2」(2019年8月NHK出版発行)/本庄豊著「なつよ、明日を切り拓け」(2019年9月、群青社発行)/本庄豊著「戦争孤児」(2016年2月新日本出版社発行)/「NHKスペシャル “駅の子”の闘い ~語り始めた戦争孤児~」(2018年9月21日・2018年8月12日に放送、NHKオンデマンドで配信)/神田日勝記念美術館館長小林潤著「なつぞらに生きた神田日勝」(2018年5月30日、神田日勝記念美術館配信コラム )/ネット配信「朝日新聞デジタル>記事・国に棄てられた数知れぬ浮浪児」(2017年8月18日)

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あやうい恋の旅路―なかにし礼『風の盆恋歌』

 平成元年(1989)6月24日に美空ひばりが亡くなった。そして、この年の1月にリリースしたひばりの最期の曲『川の流れのように』がヒットし、年末のレコード大賞にノミネートされた。しかし、故人にはレコード大賞は授与されないとし、代わりに「美空ひばり賞」を設け、ひばりの功績を讃える証とした。

 「戦後のレコード界を背負い、昭和を唄ってきた美空ひばり。その最期のヒット曲が授与されなかった。…レコード大賞の権威は失墜したな」とがっかりした私は思った。以後、レコード大賞への関心が急速に喪っていき、今では関心すら持てなくなっている。

Mqdefault1_20210407063101  なかにし礼と石原裕次郎、美空ひばりとの関係に興味を抱き、なかにし礼が書いている本を読んでいくうちに、なかにし礼作詞、三木たかし作曲、石川さゆりの歌う「風の盆恋歌」を偶然に出会うことができた。

 そして、この曲は美空ひばりが亡くなった平成元年のレコード大賞最優秀歌唱賞を受賞している。さらに同年の第40回NHK紅白歌合戦の大トリで石川さゆりはこの「風の盆恋歌」を熱唱していることを知った。すごい歌だったのだ。以前、20年くらい前に立川市文化会館で観た「石川さゆりショウ」ではこの歌については印象になく、記憶に残っていなかった歌である。

 今回しみじみとYouTubeで「風の盆恋歌」を聴いた。

《風の盆恋歌》

〽蚊帳の中から 花を見る

 咲いてはかない 酔芙蓉

 若い日の 美しい

 私を抱いてほしかった

 しのぶ逢う恋 風の盆

 

〽私あなたの 腕の中

 跳ねてはじけて 鮎になる

 この命 ほしいなら

 いつでも死んで みせますわ

 夜に泣いてる 三味の音

 

〽生きて添えない 二人なら

 旅に出ましょう 幻の

 遅すぎた 恋だから

 命をかけて くつがえす

 おわら恋唄 道連れに

(作詞:なかにし礼、作曲:三木たかし、唄:石川さゆり、平成元年・1989年6月発売)

G20120305002766040_view1_20210407063101    「おわら盆」を背景に覚悟の決めていく女の情感愛がにじみ出てくる歌だなと感じた。

 富山県八尾町で毎年、9月1日から3日間にわたり行われる「おわら風の盆」。その街を背景に50代の男女の恋と死を描いた小説、高橋治著「風の盆恋歌」を原作にしてつくられた歌曲である。

  「♪私あなたの腕の中 跳ねてはじけて鮎になる~」という作詞を読んだ時、なんとそのものずばり猥褻な歌詞だと感じた。しかし、石川さゆりが歌う「風の盆恋歌」を聴くと、悲しくとも激しい恋への歌になっている。そこにはどうしようもない男と女の世界が映し出されてくる。

  「どこから、この世界が生まれてくるのか?」と思い、歌の基になった原作「風の盆恋歌」を図書館で借りて読んだ。

 高橋治著「風の盆恋歌」は昭和60年(1985)4月に「崖の家の二人」を改題して出版されている。富山県八尾町で毎年9月1日~3日に開催される「おわら風の盆」の祭を背景にした恋愛小説になっている。八尾町おわら節は長谷川伸戯曲の「一本刀土俵入り」のお蔦の生まれ故郷として、劇中「越中おわら節」がお蔦とその娘が歌い、駒形茂兵衛との再会とつながる筋立てになっている歌でもある。

Bk4101039119_3l1   「もう一度私を風の盆に連れて行ってください」と20年ぶりにパリで再会した女は男に頼む。男はパリでの約束を果たすために富山県八尾町に一軒家を購入する。

 9月1日から3日までの3日間、再会してから7年後の「おわら風の盆」の間、二人は逢瀬する。原題の「崖の家」で……。

 風の盆踊りが行われる八尾町は、北東から南西にかけて細長く広がる坂の街。近くを流れる井田川を手前にして見ると、高い石垣と崖に街が乗っているように見えると言われている。

100-2 若いころひかれ合いながら、思いを告げることなく行き違えた二人。互いに家庭を持ち、長い年月を経て、再び出会う。「越中おわら風の盆踊り」祭の夜に、麻の白い蚊帳の中で男と女はあやうい恋の旅路をたどり、死と向き合っていく小説になっている。

 なかにし礼は著書「あざやかな嘘―高橋治」(「道化師の楽屋」収録)の中で、実際の「風の盆踊り」を観て、原作の「風の盆踊りは命を燃やすお祭りです」を引用して次のように記している。

 「こんな情緒纏綿(じょうちょてんめん)たる祭が世界のどこにあるというのだ。三味線の単純なリズムと合奏、それに乗って胡弓がこれまた単調なメロディーを奏でる。そこにこんどは男の声が高いところでおわらを歌う。しかし、どれもこれも、徹底的に無駄がはぶかれ、贅肉がそぎ落されているだけに、ものすごい技術を要求されるものだと思う。越中八尾の街角で奏でられるおわらのひとふしが大芸術のヴァイオリンのカデンツァより強い衝撃を与えてくれるのだ」と記している。

300pxkazenobon011 私は八尾に行き、「おわら風の盆」を観ていない。ただ、20数年前に富山県民会館で会議の前のイベントショウとして観ているだけである。大舞台での「おわら風の盆」の踊りはステージショウとして演じるだけで、何の感情も湧かなった記憶がある。しかし、原作を読み、石川さゆりの「風の盆恋歌」を聴くと、墨絵の中に男と女の心が交錯した色彩を帯びた情景が浮かび上がってくる。

 人生の晩年を迎えようとする二人にとり、やり残した思いが緩やかに風の盆のように浮かび上がってくる。50代の人生の関所を迎えた二人。「命をかけてくつがえす」というあやうい道行の歌へと浄化されていく。……怖い歌である。

 やはり、「おわら風の盆」は現地で観るものだ。

Photo_20210406155401  「〽蚊帳の中から花をみる 咲いてはかない酔芙蓉~」。…男が購入した白い麻の蚊帳。玄関の前には女が添えた酔芙蓉の花。

 原作「風の盆恋歌」で、「朝の中は白いですが、昼下がり酔い始めたように色づいて、夕暮れにはすっかり赤くなります。酔って散ります。一日きりに命の花です」と崖の家を紹介した地元の清原が男に話す。清原は二人を静かに見守っている。

 「〽私あなたの腕の中 跳ねてはじけて鮎になる~」。…白い蚊帳の中での男と女の絡みの中、「飛び跳ねる鮎になる女」。「この踊りは、動きの美しさより、止まった時の線の美しさを見せるものなのね」と、風の盆踊りを見ながら男に話した女の言葉がオーバーラップしてくる。静と動がおりなす光景が描かれてくる詞である。

 「〽旅にでましょう 幻の 命をかけて くつがえす」。夢と幻。男は崖の家で突然の死。女は男の傍で後を追うように旅立つ。二人を見守っていた清原が娘と共に踊りながら「みなさんお祭りでございます。おわらを愛したお二人のためにどうか踊って上げてください。みなさん、今夜は命を燃やすお祭りでございます」と最後のセリフは胸に沁み込んでこくる。

 1960年代後半から作詞活動を行い、数々のヒット曲を生み出してきたなかにし礼。昭和が終わり、平成を迎えた時に作詞したこの「風の盆恋歌」をもって作詞活動から遠ざかる。昭和に生まれ、育ち、4000曲以上を作詞したなかにし礼は、「平成に変わった瞬間、自分んが歌を作る必然が失われたように感じた。51歳。新たな道に踏み出す最後の機会かもしれないと思った」と「わが人生に悔いなし」に記している。51歳で迎えた人生の関所を新たな挑戦で乗り越えていく。以後、創作オペラ、小説を執筆していく活動に専念し、令和2年(2020)12月23日にその生涯を閉じた。

                        《夢野銀次》

≪参考引用本資料本≫

高橋治著「風の盆恋歌」(1985年4月、新潮社発行)/長谷川伸著「一本刀土俵入り」(昭和47年朝日新聞社発行「長谷川伸全集第16巻」収録)/なかにし礼著「あざやかな嘘ー高橋治」(2002年2月、河出書房新社発行「道化師の楽屋」収録)/なかにし礼著「わが人生に悔いなし」(2019年6月、河出書房新社発行)

 

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「ああモンテンルパの夜は更けて」—渡辺はま子・薬師丸ひろ子

91mzoggrql1  「海が見たい」と病床で語る妻の音(二階堂ふみ)の身体を古山裕一(窪田正孝)は支えながら歩む。歩んだ二人の目の前に広がったのは青い海。NHK連続テレビ小説『エール』の最終シーン。

 『エール』はコロナ禍による収録の休止、放送中断、脚本の変更などあった中で最終話を迎えた。そして第120話は「エールコンサート」と銘打たれ、NHKホールにて古山裕一のモデル、古関裕而作曲のナンバーを歌いつなぐという、朝ドラでは今まで見られなかったかたちで終了した。

 オリンピックで世界中の人々が東京を訪れたり、高校球児たちが甲子園で熱戦を繰り広げた筈の令和2年、2020年。その中での朝ドラ『エール』から古関裕而の曲とあいまって沢山のエールがドラマに盛り込まれた作品になっていった。

 120話の「エールコンサート」を見ながら、平成25年(2013)朝ドラ「あまちゃん」153話の「鈴鹿ひろ美チャリテイーコンサート」のシーンが思い浮かんできた。両作品ともチーフディレクターが吉田照幸が手掛けているからかもしれない。

Maxresdefault1  「逃げるのはもう嫌なんです。下手でもいい、不完全でもいい、自分の声で歌って笑顔を届けたい」と東日本大震災で壊滅した「海女カフェ」を再建したステージで「潮騒のメモリ―」を自分の声で歌い出す鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)。

 バンドによる生演奏で収録されたこのシーンは、生で歌う薬師丸ひろ子を中心に会場全体が騒然と、…そして静寂の中で「潮騒のメモリ―」の歌が流れる。緊張した臨場感に包まれたシーンになっていた。通常のドラマ内での歌唱時は事前にスタジオで収録した演奏を用いることが多いが、この「あまちゃん」153話(9月25日放映)での「潮騒のメモリー」は、バンドによる生演奏が行われている(ウキベリア)。薬師丸ひろ子の歌への姿勢を表したシーンになっている。

【ああモンテンルパの夜は更けて】

51z8paxy4ml_ac_ul320_sr216320_1 1)モンテンルパの夜は更けて

   つのる思いにやるせない

  遠い故郷しのびつつ

  涙に雲る月影に

  優しい母の夢を見る

2)燕はまたも来たけれど

  恋し我が子はいつ帰る

  母の心はひとすじに

  南の空へ飛んでゆき

  さだめは悲し呼小鳥

3)モンテンルパに朝が来りゃ

  昇る心の太陽を

  胸に抱いて今日もまた

  強く生きよう倒れまい

  日本の土を踏むまでは

(作詞:代田銀太郎、作曲:伊藤正康、唄:渡辺はま子・宇部美清、昭和27年9月)

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 「♪強く生きよう倒れまい 日本の土を踏むまでは~」と会場全体で渡辺はる子(薬師丸ひろ子)と一緒に歌いあげるシーンに涙が出てきた。

 平成21年(2009)9月12日にフジテレビで放映された「戦場のメロデイ」の中でのフィリピンのモンテンルパ刑務所内で日本の戦犯受刑者を前にして「ああモンテンルパの夜は更けて」をアコーディオン伴奏で歌う渡辺はま子役の薬師丸ひろ子。

 この歌うシーンのみがYouTubeで配信されている。この放映を見逃した私はドラマ全体を見たいと思い、DVDを探したが、DVD化はされていない。残念で悔やまれる。

 画面に映し出される薬師丸ひろ子の「ああモンテンルパの夜は更けて」の歌唱にはようやく辿りついたモンテンルパの刑務所内での慰問公演で必死に歌う姿が表れ、実に感動的なシーンになっている。薬師丸ひろ子自身,歌のレッスンを相当積んでの歌唱力だと思えた。

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 フジテレビドラマ情報の中で「戦場のメロデイ番組コメント」として渡辺はま子役を演じた薬師丸ひろ子は次のように寄せている。

 「念願叶って、初めてはま子さんがモンテンルパ刑務所へ慰問し、『ああモンテンルパの夜は更けて』など歌うシーンは、物語の中でもはま子さんが今までやってきたことが集大成があったように思います。(略)クランクインの前に、制作陣ではま子さんのお墓参りへ伺いました。お墓に手を合わせて『どうぞ歌に力を与えて下さい』と神頼みというか、渡辺はま子さん頼みだったのですが、本番を迎えて本当に不思議なのですが、上手とか下手ということではなく声のボリュームを含め、歌の力というものをはま子さんから与えてもらったような気がしました」

 歌の力を渡辺はる子から与えられたと実感した薬師丸ひろ子にとり、歌に対する姿勢を見定めていく転機になったのではないかと思える。

モンテンルパ刑務所への慰問行動

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 昭和28年(1953)7月22日の朝、2万人が出迎える中、横浜港大桟橋に接岸した白山丸のタラップから110人が晴れて日本の大地を踏んだ。彼らはフィリピンのモンテンルパにある刑務所に戦犯として投獄されていた死刑囚59人を含む復員兵であった。

 同年の7月4日、フィリピンの独立記念日を期し、キリノ大統領から「死刑囚は無期に減刑して巣鴨に移送、無期・有期の懲役囚は全員釈放」という特赦により日本への帰還になったのだ。妻や子を日本軍に殺害されたキリノ大統領が特赦を決断したきっかけは、「ああモンテンルパの夜は更けて」のメロディが流れるオルゴールであったと云われている。

Hqdefault1  歌手の渡辺はま子はしばしば巣鴨プリズンへ慰問に訪れていたが、昭和26年1月にフィリピンのモンテンルパ刑務所で14人の戦犯が絞首され、なおも死刑確定者59人を含む108人の日本人戦犯が拘禁されていることを知る。そして、昭和27年の1月の朝日新聞特派員報告「比島戦犯収容所を訪う」記事やNHKラジオ放送による「モンテンルパの獄舎からの報告と有様」を聞き、自ら「香」をモンテンルパ刑務所に送った。それを機に手紙のやり取りが行われていた。

 昭和27年(1952)5月、渡辺はま子の家にモンテンルパ刑務所で戦犯服役者を世話する教誨師・加賀屋秀忍より「モンテンルパの歌」と題する楽譜と手紙が送られてき。楽譜に添えられた手紙には、「講和条約を記念して獄内で歌をつくりました。誰か専門家に直して頂いて、渡辺さんに歌っていただければこれほどうれしいことはありません」と書き添えられていた。作詞者は長野県飯田市出身、元比島憲兵隊セブ分担少尉の代田銀太郎。作曲者が愛知県出身、元歩兵17連隊所属陸軍大尉の伊藤正康。ともに明日の生命をも知れぬ死刑囚だった。

15139336603021  渡辺はま子は「自費出版でも良いからレコード化したい」と、ビクターの磯部健雄ディレクターに楽譜を持ち込んだ。磯部は渡辺はま子からの話を聞き、佐伯孝夫が詞を、吉田正が曲を専門的立場から微調整して、宇部美清と渡辺はま子のデュエットでレコーディングを進めていく。

 同年の昭和27年の9月に「ああモンテンルパの夜は更けて」と改題されたレコードが全国発売された。戦後7年、シベリアに抑留された人々を始め、今なお自由を奪われ、戦争の爪痕の影の悲劇が浮き彫りされたこの歌は全国的に愛唱されていった(中田整一著「モンテンルパの夜は更けて」、長田暁二著「戦争が遺した歌」より)。

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 「支那の夜」「蘇州夜曲」などのヒット曲を持ち歌とする渡辺はま子は、戦時下の中国戦線への幾度かの従軍慰問、終戦直後の中国天津での抑留生活を体験してきた。また、朝日新聞特派員による「彼ら個人個人にどんな罪があるのか記者は知らない。しかし罪は日本人全体が負うべきではないだろうか。それを今、一人一人が自分自身の苦しみとして受け取っていかねばならないのだ」という記事に共鳴したこともあり、渡辺はま子はモンテンルパ刑務所に慰問に行くことを決める。

 国交のないフィリピンへの渡航は困難を極めた。そしてようやく日本政府復員局と渡辺はま子の奔走で昭和27年の12月23日にアコーディオン伴奏者、小高茂夫と共に羽田を飛び立つことができた。翌24日の午前5時半に飛行機は加賀屋秀忍ら大勢が出迎えるマニラに到着する。

O05960330145603186922  「本当に、一所懸命、来ました。もっとたくさんのお土産を持ってきたかったんです。だけど自分が来られるかどうか、わからなかったものですから、なにも買うことができないで、ただ走り回って、やっと自分だけ来ました。だからみなさんに、あれもしたい、これもしたいと思っていたんですけれど、なにもできないで…。ただ一所懸命歌って…。少しでもみなさんに喜んでいただければと思っています」と中田整一著「ああモンテンルパの夜はふけて」の中で、渡辺はる子があいさつした肉声の録音テープが記載されている。 

 長田暁二著「戦争が遺した歌」の中で、渡辺はる子のモンテンルパ刑務所での慰問公演を次のように記してある。

 「モンテンルパに着いたのは、クリスマスの25日だった。中世ヨーロッパの砦みたいな白い建物のニュービリビットの刑務所だった。囚人の服装は死刑囚が青、無期・有期の懲役囚はレンガ色と色分けされていた。渡辺はま子はこの人たちの前で『支那の夜』『蘇州夜曲』『浜辺の歌』——そして『ああモンテンルパの夜は更けて』を歌い、彼らは息を詰め、むさぼるように聞き入った。彼女の歌を通して、さらに遣る瀬ない望郷の念をかき立てられた戦犯の同胞達は、涙を一杯ためて聞き入った。やがて歌うも涙、聴くも涙、涙、涙の大合唱になり、小高い丘陵を揺るがせていった。最後に親日家のデュラン議員の特別な計らいで、禁じられていた『君が代』を斉唱した」

 帰国後、渡辺はま子は公演などで「モンテンルパの戦犯の方々の減刑、釈放を実現しましょう」と呼ぶ掛けていった。東和オルゴール吉田義人社長は渡辺はま子の活動に感動して、「モンテンルパの夜は更けて」のアルバム式オルゴールを制作した。渡辺はる子はこのオルゴールを翌年の昭和28年5月に現地に送った。それが加賀屋秀忍教誨師からキリン大統領に手渡された。オルゴールから流れる曲に感動したキリン大統領は、その時、「何れ受刑者を釈放しよう」と言ったと云われている。

 昭和28年12月30日に日本に帰国して巣鴨拘置所に服役していたモンテンルパ刑務所元死刑囚、全員が釈放された。

Maxresdefault1-2_20201203145801  長田暁二は著書「戦争が遺した歌」で、「日本人が敗戦に依って卑屈になっていた時代。この裏に一女性歌手・渡辺はま子が正義と勇気で、日本政府や大の男でさえできなかった国家的事業を見事成し遂げた快挙を忘れてはなるまい。因みにフィリピンへの渡航費も、慰問品の数々も全て自前、レコード印税は全額モンテンルパ関係者のために投じていた」と結んでいる。

 戦後も「戦争」に向き合った明治の気骨と潔さと評した中田整一は「渡辺はま子の青春は、劇場の華やかなスポットライトを浴びることよりも、多くの時間は、戦地を駆け巡り、戦火の中を兵士の前でただひたすら歌いつづけることに費やされた。それは、はま子自らの強い意志が選んだ、まさに『昭和』を駆け抜けた青春であった」と記し、「はま子が言っていた『歌は3分間のドラマです。私の人生、歌にどれだけ助けられてきたでしょうか』の通り、一つの歌がはま子の波瀾に満ちた人生を支えた」と結んでいる(「ああモンテンルパの夜はふけて 気骨の女・渡辺はま子の生涯」より)。

 平成11年(1999)12月31日に89歳の生涯を閉じた渡辺はま子の訃報は翌年の松飾がとれた1月11日であった。NHK昼のニュースでは「昭和13年に、当時の中国の情景を歌った『支那の夜』が大ヒットし、国際派歌手としても知られていました。戦後はフィリピンの郊外にあるモンテンルパに抑留されていた日本人が、作詞・作曲した『ああモンテンルパの夜は更けて」が大ヒットし、その後、現地を訪れて抑留されていた人たちの減刑と釈放を求める活動を行いました」と渡辺はる子の死と活動を全国に報道した。

 時代と向き合い、歌の持つ力を信じて走り続けた渡辺はま子のお墓は港の見える丘公園から下った妙香寺にあると云われている。一度私も機会をみてお墓参りに行ってみようと思っている。

女優・薬師丸ひろ子の歌手としての活動

Photo11  令和元年(2019)9月12日にNHK総合で薬師丸ひろ子が出演する5分番組「潮騒のメモリー薬師丸ひろ子 三陸に届ける歌声」が放送された記事をネットで見る。

 岩手・三陸鉄道リアス線が春に全線開通したことを祝い、薬師丸ひろ子が島越駅で開いたミニライブで、「潮騒のメモリー」を地元の観客の前で披露してもの。薬師丸ひろ子は「今回、2013年『あまちゃん』の撮影時に訪れた島越に6年ぶりに伺いました。当時、その場所で、『いつか、空に海に、どこかに届く賛美歌のような歌が歌いたい』と思った私の願いが、今回、駅も新しくなって線路も列車も通った鳥越で『潮騒のメモリー』を歌えたことで、その願いが通じたように思います」というコメントが記載されている。

 劇中歌「潮騒のメモリー」を歌うことで、平成25年(2013)10月に芸能活動35周年記念コンサートを23年ぶりの単独で開いている。以後、コンサート公演が行われ、歌へのとりくみが変化してきたと受け止められる。「渡辺はま子」を演じ、時代と向き合う歌への思いが表れてきていると思えてくる。

001_size91  NHK連続テレビ小説「エール」の10月16日、第90話では、音の母、関内光子役の薬師丸ひろ子が焼け跡の関内家の瓦礫に腰を下ろし、鎮魂歌のように賛美歌を歌うシーンが流れた。後で知ったが、歌ったのは賛美歌496番「うるわしの白百合」ということだった。

 選曲は薬師丸ひろ子が行ったことが、ネットに記載されていた。薬師丸ひろ子は、「この賛美歌に出てくる白百合には『復活』という意味合いもあります。戦争を経験していない私たちには、今を生き抜き、前を向いて頑張ろうという復活の思いが、唯一表現できることではないかと思い、この曲を歌いました」と熱唱に込めた思いをコメントしている。

 コラムニストの木俣冬は東洋経済オンラインでこのシーンについて、「『潮騒のメモリー』を被災地の賛美歌として歌った薬師丸ひろ子が、7年後、同じ朝ドラ「エール」で賛美歌を歌ったことの意味は大きい。戦争や震災など日本人が被った禍をドラマで描き、たくさんの人たちが共に見て、さまざまな思いを胸に刻む。女の自立あり、恋あり、笑いあり、エンタメ要素も多い朝ドラが、薬師丸ひろ子の歌によって「朝の祈り」に昇華されたように思う。薬師丸ひろ子が作品を浄化するのは朝ドラだけではない。それどころか、薬師丸ひろ子のウィスパーボイスはデビューからずっと聴く者を浄化してきたと言っても過言ではない」と記し、「10代の頃の天使の歌声でそのカリスマ性が終わらず、年齢を経て、同じ歌『セーラー服と機関銃』や『Woman<Wの悲劇>より』歌っても聖母の歌声に成熟している薬師丸ひろ子の姿には目を見張らざるをえない」と絶賛している。

 私には「あまちゃん」の中の鈴鹿ひろ美が歌った「潮騒のメモリー」の前の渡辺はま子役で歌った「ああモンテンルパの夜は更けて」の歌声が凄いと感じる。そこから、「潮騒のメモリー」「賛美歌うるわしの白百合」へと続く歌手・薬師丸ひろ子の歌への広がりが見えてくるように思えてくる。

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 「♪さよならは別れの言葉じゃなくて 再び逢うまでの遠い約束 夢のいた場所に未練残しても 心寒いだけさ スーツケースいっぱいつめこんだ 希望という重い荷物を 君が軽々ときっと持ち上げて 笑顔を見せるだろう~」(「セーラー服と機関銃」作詞:来生えつこ、作曲:来生たかお、唄:薬師丸ひろ子、1995年4月)。

 希望という重い荷物を軽々と持ち上げて、あの娘は私の前から去っていって、何時の間にか50年の月日が経ってしまっている。いつまでも夢の中で遊び駆けずり回っていた自分を、現実の世界へと指し示したあの娘。未練残す私に笑顔を向けているようだ。

「ああモンテンルパの夜」を薬師丸ひろ子の歌声で聴いて、改めて薬師丸ひろ子に注目し始めた。まだまだ未消化の部分はあるが、渡辺はま子との類似点などおぼろげながら見えてきたような気もする。これからも薬師丸ひろ子を注視していこうと思う。

                         《夢野銀次》

≪参考引用資料本等≫

中田整一著「モンテンルパの夜はふけて 気骨の女渡辺まさ子の生涯」(2004年2月、日本放送出版協会発行)/吉村昭著「プリズンの満月」(平成7年6月、新潮社発行)/長田暁二著「戦争が遺した歌~詞が明かす戦争の背景」(2015年8月、音楽譜出版社発行)/フジテレビドラマネット「戦場のメロディ~108人の日本人の命を救った歌」(2009年9月12日放送)/木俣冬著「薬師丸ひろ子、作中の歌声にこもる圧倒的魅力、朝ドラ『エール』の賛美歌が聴く者を浄化した」(2020年10月16日、東洋経済オンライン) 

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映画「ひとりぼっちの二人だが」から浅草・坂本九を見る

20120711224135a431  夕闇が迫るダルマ船の上で、九太(坂本九)とユキ(吉永小百合)が、子供の頃に三郎(浜田光夫)らとダルマ船で海賊ごっこをして遊んだ思い出話をする。

 三郎はユキの兄・英二(高橋英樹)に助けを呼び行った。九太とユキはこのダルマ船で英二を待っていたのだ。

 三郎と九太・ユキの三人は小・中学校と同級生の仲であった。九太はユキに「もう俺たちは子供じゃないんだ。空や川や船や、他のものはみんな一緒だけれど俺たちだけが変わっちまったんだ」と別々の道を歩んでいることを寂しそうに話す。主題歌「一人ぼっちの二人」の歌が流れる。

〽幸せは僕のもの 僕たち二人のもの

 だから二人で手をつなごう

 愛されているのに さびしい僕

 愛しているのに 悲しい僕

 一人ぼっちの 二人

〽幸せな朝がきたように

 悲しい夜が来る時がある

 その時のために 手をつなごう

 愛されているのに さびしい僕

 愛しているのに 悲しい僕

 一人ぼっちの 二人

 (昭和37年、作詞:永六輔、作曲:中村八大、唄:坂本九)

 坂本九の啼きのある哀愁の歌声が夕闇のダルマ船の風景に響き渡る。好きなシーンの一つである。

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 昭和37年(1962)11月公開の日活映画「ひとりぼっちの二人だが」(監督:舛田利雄、脚本:熊井啓・江崎実生)をようやく観ることができた。

 中学2年の時に見た映画だが、吉永小百合らが浅草の街を駆け回るシーンや坂本九との人形劇、夜の花やしき、暗いダルマ船での兄の高橋英樹等印象に残っており、もう一度見たい映画でもあった。とりわけその年の3月に公開された「上を向いて歩こう」は併映の「銀座の恋の物語」に感動してまったく印象に残っていなかった。

 また、吉永小百合については前年の「草を刈る娘」で岩木山の麓をバックに明るく健康的な姿にファンになっていた。もっともこの時期の吉永小百合は「草を刈る娘」の興行収入増加から36年が16本、37年と38年が10本づつつという勤労高校生としての過密スケジュールの中での撮影が続いていたともいわれている。

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 雷門をバックにクレジットタイトルが映し出される中、和服姿のユキ(吉永小百合)が仲見世通り、浅草観音様参拝、浅草寺境内を歩き進む。

 水揚げされる前に柳橋芸者置屋から逃げてきたのだ。柳橋置屋の意を受けたヤクザが浅草寺本堂境内にいるユキを見つけ、連れて行こうとする。そこへ地元吉野組のチンピラがユキを助け、もみ合う。ユキは助けようとしているチンピラの中に小学・中学の同級生の三郎(浜田光夫)を見つける。三郎たちは服装を和服から洋服に着替えたユキを匿う。

  和服姿から洋服姿に変わる吉永小百合は大人から若い新鮮な娘に変わったように見えてくる。

20120712180754e9d1 吉野組兄貴分の内海(小池朝雄)の指示でユキを浜離宮に匿うとして、三郎らチンピラ達はユキを連れ松屋の先の吾妻橋水上バスに乗ろうとする。しかし、他のチンピラに見つかってしまう。三郎とユキら一行は隅田公園から、二天門、浅草寺境内、伝法院通り、そして六区街へと浅草の街をひたすら走り抜ける。

  撮影された昭和37年頃の浅草六区街は戦前・戦後の最盛期の賑わいから寂びれ始めていた風景に映る。そして、ユキを連れた三郎一行は六区街の端の地下にあるストリップ劇場の楽屋へ逃げ込む。

 8cffa75a732e1fc206cf327ff80dea721 モデルとなったのは平成24年(2012)に閉館した「浅草中映劇場」のビルだと思える。「浅草名画館」では昭和30年代の三本立映画を上映していた。そのビルの脇の地下にピンク専門映画館があった。三郎たちはそのピンク専門映画館(映画ではストリップ劇場)の楽屋に入ったことになる。

 地下にある天井の低いストリップ劇場には楽屋で雑役をしている九太(坂本九)がいた。三郎とユキは同級生の九太との再会を喜び、三郎は九太にユキを楽屋に匿ってもらうことにする。

 翌日、組長の命で内海は三郎にユキを連れてくるように指示する。三郎たちはストリップ劇場楽屋にユキを引き取りに行くが、三郎の裏切りを知った九太はユキをつれて逃げる。

201207112250538401   九太と逃げながらユキは「浅草が見たい」と言って、「花やしき」にある上空45メートルの「人口衛星塔」を九太と共に乗る。

 展望車から浅草の街を見下ろしながら、二人は瓢箪池で小便をして怒られたことや露店で働く母親に弁当を作ったこと等を話す。

Mmkhc6pe1  私は花やしきでの「ビックリハウス」や「ジェットコースター」に乗っている。しかし、この「人口衛星塔」は2016年に解体され、とうとう乗らずじまいになってしまった。

  浅草の街を展望しながらユキはいなくなった兄のことを話す。

 九太は「きっと浅草にいるよ。何処へも行けないんだ。浅草の人間は必ず浅草に戻ってくる」と浅草を離れられないことをユキに話す。

G6bzudmg1_20200820134401  九太は浅草国際劇場の裏、鳩小屋のある廃墟のビル屋上にユキを匿う。そこへ組にユキの所在を教えた三郎が来る。ユキを連れて行こうとする三郎にユキは「三ちゃん大嫌い。昔の三ちゃんは優しかった」と叫ぶ。九太と三郎は殴り合う。

 「金もねえ、学校も出てねえ俺たちに掃除でもやれっていうのか。ニコヨンやれっていうのか」とわめく三郎に九太は、「俺だって同じだよ。俺たちはみんな一緒なんだよ」というと「じゃあどうやって生きていけんだよ」と言いながら取っ組合いをする二人。

 「やめて」と絶叫するユキ。「あんなに仲の良かった二人がケンカするなんて、わたし柳橋に戻る」と言って立ち去ろうとするが、吉野組のチンピラが屋上に上ってくるのが見える。三郎はユキを連れて逃げる。

Elt_zbqa1  柳橋芸者置屋の娘・トモコ(渡辺ともこ)も加わり4人で言問橋附近の隅田川の岸で前後策を相談する。そしてこの窮地を助けてくれのは強いユキの兄、英二(高橋英樹)ということになり、ダルマ船の処で待ち合わせすることになる。

 画面から東武電車が隅田川の鉄橋を走っているのが見えてくる。今も松屋から東武電車は発車している。

 ユキの兄、英二はボクサーとして新人戦のリングに臨むことになっていた。ユキの居場所を吐かない三郎は吉野組からリンチ受けていた。そこに英二が現れ、ユキの居場所を聞き出すが、三郎をそのまま放置してダルマ船に向かう。

   ダルマ船で英二とユキは再会する。しかし、英二が三郎を見捨ててきたことにユキは「兄ちゃん大嫌い」と嘆く。ユキが三郎を好いていることを知る。そこに英二を後をついてきた吉野組のチンピラとの格闘があり、英二は新人戦に行く。内海らに八百長を強要されていたが、トモコから三郎とユキが北海道に行ったということを聞き、新人戦に勝利する。ユキと三郎は北海道には行っていなかった。

G6bzudmg2  映画のラスト。深夜の「花やしき」園内。ユキのことでコケにされ、八百長にも加担しなかったことで、吉野組から仕置きされようとした英二と三郎。三郎は「みんな一人ぼっちじゃねか。俺はたまんなくスケに惚れちまった。もう俺は違う、生きてるぜ、血が通ってきたぜ、泣くも笑うも死ぬも誰だって一人じゃいきていけねえぜ」と周りのチンピラ達に話す。置屋の女将きく(楠田薫)が現れ、ユキのことはもういいと内海らに話す。それでも英二に制裁を加えようとした時に佐藤刑事(高品格)が来て内海らを逮捕する。

 英二はユキと三郎に「ひとりぼっちの二人だが、仲良く暮らすのだ」と言い聞かす。九太が主題歌「一人ぼっちの二人」を歌い、「おしまい」と書かれた花やしきの門扉が閉まる。

 映画に登場する浅草の風景は今とほとんど変わっていなく、昭和を残している街が現在もあることを改めて知ることができた。合わせて、58年前の作品とは思えない映画を観ることができたのはうれしい限りだ。斬新でリズムある物語展開の早い映画として仕上がっている。今でも十分に楽しめる作品になっている。

エンターテイナーとしての坂本九

20120711230016a1e1  映画「ひとりぼっちの二人だが」は浅草の風景を背景に走り抜ける若者たちを描いた作品になっているが、舛田監督はもう一つの主眼としてエンターテイナーとして坂本九を発掘しようとして、この映画の中で描いているシーンがある。

 それは、吉永小百合とのデュエットと坂本九のコントを混ぜての歌謡ワンマンショウとである。そこにはテレビ文化の中で登場してきた「若い季節」や「夢であいましょう」に携わってきた坂本九の芸が「浅草」と結びつくかどうか見究めようとして描いているように見えてきた。いずれも人気のないストリップ劇場の小さな舞台でのシーンになっている。

  「ユキと九太の人形劇」では、指人形を操りながら、(九太)「もしもし、あなたはどなたですか?」(ユキ)「わたしは名前を落としてきたの」(九太)「これからどちらへおでかけですか」(ユキ」「わたしは道に迷った子羊です」(九太)「じゃあ思いだすんですよ。まず目を閉じて」…画面がユニークバレー団の踊りとなり、ユキの声が「わたしは逃げた夜の闇の中を」。九太に抱きかかえられたユキがパッチリと目を開く。17歳の可愛い吉永小百合の表情である。

M6tsda5u1 バレー姿のユキと九太は手をつなぎ踊り、歌う。(ユキ)「いつもニコニコしてんのね。悲しいことがないみたい」(九太)歌いながら「♪いろんなことがあるもんさ」(ユキ)「♪うれしい時には」(九太)「♪何にも言わずにポロポロ泣くさ。だから先生に叱られどうしなんだ」(ユキ )「♪それでも学校が好きなのね」(九太)「♪おしゃまなあの娘に会えるから。僕たち二人は同じ組、一緒に机を並べていた」。

 人形を操る場面に戻り、(九太)「別れてひとりぼっちになった時ね、あの娘が好きだって泣いたけど、小さな夜の星」(ユキ)「今、その娘に会ったら何て言う」(九太)「今、どっかの空の下、遠い遠い夢だとさ」とファンタジックにリズミカルに描いている。リズミカルで楽しいシーンとして映し出されている。

 このシーンが暗転で終わると、早朝の雨に濡れた人通りのない六区街通りを歩く三郎が映し出されてくる。舛田監督の寂としての浅草を描きたかったのかもしれない。

 もう一つは坂本九のストリップ劇場舞台でのコントを混ぜての歌謡ワンマンショウである。

 舞台を拭き掃除をしながらユキは九太に「どうして舞台に出してもらえないの?ここにいる人たちよりよっぽど九ちゃんの方が。…楽しかったわ、自習の時間になると九ちゃんが飛び出してきて、飛んだり、歌ったり」。

 舞台に立つ九太「彗星のごとく現れた浅草九太。ハイッ、ハイッ」舞台袖からピアノを弾き始めるユキ。歌い出す九太「♪リズム、リズム、燃えてる、燃えてる、恋のリズム」から黒い花びら、上を向いて歩こうと踊りながら歌う。次のシーンではでは顔の半面が男、反対の顔面は金髪女。一人で演じる九太はラブソングを歌い、「♪アイラ~ブ」と女の口が横に大きく開いて絶叫する。

 このコントが実におもしろいのだ。そこには坂本九が目指していたコメデイ―を含めたステージショウがここにあったと言えるシーンになっている。

   佐藤利明娯楽研究所のブログ「ひとりぼっちの二人だが」では、「人形劇からミュージカルになる展開や、九ちゃん歌謡メドレーショーなどなど坂本九のエンターメントとしての才能をいかんなくみせるシーンは見所である。舛田監督は、本作を手がける際に『坂本九の魅力を引き出すには、コメディアン役が一番』とし、芸人・坂本九をフィーチャーしようと、浅草九太のキャラクターを造った」として高い評価をしている。

  映画での坂本九の芸には、浅草特有の泥臭ささがなくスマートに描かれていると感じた。

Al1024kyuntosuru20140830131941_tp_v1jpgp  前年の昭和36年には浅草出身の渥美清がテレビに登場してきた。「若い季節」で見せた板前の軽い口調の語りや「夢であいましょう」でのスマートなコントを演じる渥美清が浮かんでくる。

 ひょっとして本番生放送での「若い季節」や「夢であいましょう」で直に渥美清と接していた坂本九は、渥美清から学んだものが多々あったのではないかと勝手な想像をしてみる。

 後年、永六輔が黒柳徹子、小沢昭一、渥美清らと企画して日本の芸について勉強塾を開いていった。毎回、坂本九はこの勉強塾に熱心に参加していたと永六輔が語っているのをYouTubeで見た記憶がある。

 もし、昭和60年(1985)8月12日の日本航空123便墜落事故に43歳で巻き込まれて亡くなっていなかったならば、50・60歳代でダニー・ケイばりの歌手、コメデイアンとして日本を代表するエンターテイナーになっていたと思える。今更ながらそのステージショウを観ることができなかったのが残念だ。

「上を向いて歩こう」と「一人ぼっちの二人」

202002071533371   昭和36年(1961)7月21日の夜、大手町産経ホールにて「中村八大第3回リサイタル」で19歳の坂本九が2時間前にできあがった「上を向いて歩こう」をふるえながら歌った。「上を向いて歩こう」は「夢であいましょう・今月の歌」へて大ヒットとなる。1963年には全米音楽チャート一位を記録するなど、レコードは全世界70か国、約1300万発売された。

 作詞の永六輔は初めて産経ホールの舞台袖で坂本九の歌を聴き、「なんだこの歌は…」と坂本九がふざけているとしか思えなかったし、怒って帰ったと言われている。永六輔の作詞が出来上がった時、中村八大はこの歌を坂本九に歌ってもらうことに決めていた。テレビやステージでの坂本九の裏声を多用して歌う「素敵なタイミング」など坂本九の高音を活かす歌唱に託してみようとしていた。

 当日、舞台袖にいたハナ肇と水谷良重(現二代目水谷八重子)は、この歌はヒットすると確信をしたと言われている。同じように客席で手ごたいを感じとったNHKディレクター末盛憲彦は「夢であいましょう」の今月の歌としていくことを決めていった(佐藤剛著「上を向いて歩こう」より)。

Mady81q01  哀調を帯びた作詞とメロデイであるが、坂本九の笑顔で歌う「上を向いて歩こう」はいつしか未来に向けた祈りの歌になっていった。

 只、私にはこの「上を向いて歩こう」より、同じ年の昭和37年(1962)の秋に出来上がった映画主題歌「一人ぼっちの二人」の方が哀しさをストレートに受け止めることができ、好きなのだ。

 60年安保闘争の終焉から挫折した永六輔。歌詞の中での「ひとりぼっち」というフレーズには、離れ離れになっていく仲間や友人への哀切の思いが込められている。「美しい幻想は消えてこそ価値がある」と言明した吉本隆明。この言葉には60年安保闘争の世代には哀愁が漂うが、70年全共闘世代には昨日の友は今日の敵になるという悲しい局面を受け止める言葉になっている。

 泣きたいけど泣いていられない。我慢して歩むんだという「上を向いて歩こう」の作詞より、一人ぼっちだけど、二人で生きる人がいることを噛みしめて歩く「一人ぼっちの二人」の歌の方が、坂本九の歌声と中村八大の切ないメロデイが哀愁を帯びて私の胸の中に迫ってくるものがある。

                 《夢野銀次》

≪参考資料本等≫

ブログ「佐藤利明娯楽映画研究所『ひとりぼっちの二人だが』/永六輔著「昭和 僕の芸能史」(1999年5月、朝日新聞社発行)/佐藤剛著「上を向いて歩こう」(2011年7月、岩波書店発行)/関川夏央著「昭和が明るかった頃」(2002年11月、文藝春秋発行)

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テレビドラマ「おしん」佐賀篇にみる嫁と姑

Photo_20200811032302    おしん(乙羽信子)と圭(大橋吾郎)が佐賀の田倉家の墓所の前で手を合わせる。おしんは「お舅さんもお姑さんも中に入ってしまわれて」とつぶやくと「福太郎、恒子って名前もあるよ」と墓石の脇を見ながら話す。

 「お義兄さんとお義姉さんだよ。みんな遠い人になっちまったね。お義姉さんはね、一生ここから外に出ることもなく亡くなってしまったんだって」「へえ、じゃ東京も知らないで?」「東京なんて、とんでもない。この村の中だけで、昔はそういう人とがいっぱいいたんだって」「嫁いびりも当たり前なので?」「何も知らないで嫁に行ったら、こんなもんだと辛抱したんだろうね。たゞ、おばあちゃんはそれまでお姑さんて知らないで暮らしてきたから、お姑さんにしたら自分が嫁としてきたことをおばあちゃんにさせてようとして…。恒子さんだってそうしてきたんだし。おばあちゃんみたいな出来の悪い嫁をもって、お姑さんも気の毒だった」と語るおしんは、「お墓参りができてよかった」と笑みを浮かべながら寺を後にする。大正末期のお姑と嫁との世界を描いた「おしん」佐賀篇の最後のシーンになっている。

6yujgs5n1_20200812053001  昭和58年(1983)新春、三重県志摩半島各地に16店舗を構えるスーパーマーケット創業者の田倉しん(83歳)は、新店舗開店の日に行方を眩まし、孫同然の大学生・八代圭と共に旅に出ていた。

 山形の山奥にあるおしんの生まれ故郷の廃村。雪の中で廃屋となっていた我が家を見たおしんは80年以上の人生で自分は何を得て、何を失ってしまったかを振り返る旅であることを追いかけてきた圭に告げる。圭を伴った旅は山形酒田、東京浅草・日本橋と続き九州佐賀を訪れ、夫・竜三の両親たちが眠る田倉家の墓所にお参りに来ていた。

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 NHK朝の連続テレビ小説「おしん」は 橋田壽賀子 オリジナル作品として、昭和58年(1983)4月から翌年の3月までに放映された。一年間の平均視聴率52.6%、最高視聴率62.6%(11月12日)という驚異的な数字を記録し、一大ブームを引き起こした作品。

 新型コロナによる自粛要請とあいまって、栃木図書館から完全版のDVD全巻を借り、第1回から最終回の297回までの「おしん」を観ることができた。

 ウエブ記載のNHK放送史には「山形の貧しい農家に生まれた少女・おしんが、明治・大正・昭和の激動の時代を背景に、さまざまな辛酸をなめながらの女の生き方、家族のありようを模索しつつ必死に生きる姿を1年間にわたって描いた」と紹介されている。

81897bd9a316ff9a96097d3dad3a98231  さらに「原作・脚本の橋田壽賀子は、明治から昭和にいたる激動の時代を歩んできた人たちの生き方を、いましっかり書きとめておかなければ永遠に埋もれてしまうという危機感を抱いていた。週刊誌の投書欄を利用して明治女性の人生体験記とも言うべき手記を集め、丹念な取材を繰り返し、明治女性の生きてきた通のりを、おしんというヒロインに託して日本近代女性史ともいえるドラマを書き始めた」と記してある。

 改めて「おしん」全巻を観て、まさに明治から昭和にかけての時代背景の中で自立していく女性の生き様を描いている。さらに、おしんにかかわる登場人物、浩太やお加代をはじめとして全ての人物にはその時代特有の背景や慣習、しがらみを背負って登場させて物語の筋立てを行ない、丁寧に描かれている感想を抱いた。橋田壽賀子の見事なシナリオだという印象を強く受けた。

 とりわけ、「おしん」全体の作品の中で、関東大震災で罹災したおしん一家が、夫・竜三の生家、佐賀の田倉家に帰り、そこで繰り広げられた竜三の母・お清と嫁のおしんとの諍いという「嫁と姑」の関係を描いた箇所は、放映当時に辛くて観たくなかったことが思い出させる。

 今回DVDを観て、「佐賀篇」には戦争前の日本の家族制度の中における「嫁と姑」の立場、「家」という中での役割などその諍いの要因は何だったのか?という疑問から、「佐賀篇」の筋を追いかけてブログに書き留めていくことにした。

Photo_20200811032204  大正12年(1923)9月1日の関東大震災ですべてを喪った田倉竜三(並木史郎)と妻のおしん(田中裕子)は一子・雄を連れて竜三の生家、佐賀の田倉家に避難してくる。避難用の軍艦で東京から佐賀に戻ってきた。

 当時の佐賀と東京では汽車でどのくらいかかるのか。因みに昭和38年(1958)公開の松竹映画「張込み」の冒頭10分間のシーンで横浜駅から夜行列車に乗った刑事2人は翌々日の未明に佐賀駅に到着するなど、新幹線のない時代の列車時間の長さが描かれている。「佐賀篇」の最後に雄をつれたおしんが佐賀から列車で去るシーンでは、東京までまる3日間かかったことを奈良岡朋子のナレーションで語られている。随分かかっていたのだな想像してみた。 

Photo_20200812053501   佐賀の田倉家はかつては作男を多数おいた大地主であったが、規模は縮小したとはいえ、地主の名家であった。一家は父・大五郎(北村和夫)、母・お清(高森和子)、長男福太郎(北村総一朗)と嫁の恒子(観世葉子)、福太郎の子供4人と奉公人1人の構成になっており、嫁に行った妹・篤子(長谷直美)がたまに帰ってきている。 

Photo_20200811032102 佐賀に帰ったおしんに姑のお清は優しく労わるのではなく、いきなり震災時に竜三のお守り役の源右衛門を死なせたこと、借金までして作業場建築を止められなかったことは嫁の責任だと激しい口撃をおしんに向けてくる。

 食事は長男嫁の恒子とおしんは座敷ではなく、土間で奉公人と一緒に食べることになっていることを知る。嫁の地位は雇人と変わらないことが描かれている。さらに洗い物を手伝おうとするおしんに、長男嫁の恒子は自分の領分であるとして手伝いを断る。

 おしんは、田倉家の慣習は今までの世界と違うことに戸惑いを感じるのだった。

Photo_20200812060901  部屋は明かりのない納戸部屋をあてがわれる。農家の三男であり、厄介者としての立場であることが描かれてくる。そして、遊んでいる土地の開墾など厳しい農作業を夫婦で従事することになる。

 おしんはおしめを洗濯する石鹸や手紙を書く筆や紙を買うお金がないことを竜三に愚痴る。姑のお清は竜三を通しての金銭のねだりに小言を言うのであった。同時に山形の実家からは何の援助がないことにも嫌味を言うのだった。

 台所を預かっている兄嫁の恒子はおしんに、「お義母さんからはぎりぎりのお金しかもらえず、洗濯用の石鹸を買うにも自分ら夫婦、子供たちの分だけで精一杯でおしんさんに石鹸を渡すことができん」と田倉家の財布はお姑のお清が握っていることを話す。

 結婚前のおしんは出髪結として稼ぎ、山形の実家には毎月20円(現在の金額では約10万円、)を仕送りするなど、働いた分が報酬となっていた世界と比較して、生活の不便さを実感していく。

 宇田川満著「嫁と姑」の中で、「嫁と姑の争いの要因として、農家の嫁にとり子供の学用品など嫁が自由に使えるお金がないことであること」で、そのことから実家から援助を受けるなど、お金がないことへの不満が記述されている。家政を仕切っていく財布は姑が握ることにより、嫁に対する強い権限になっていた。姑から宛がいぶちとしての嫁に支給されるという上下の従属関係になっていたということになる。

Photo_20200812053901   竜三とおしんは作男・耕造(隅本吉成)とその妻・佐和(香野百合子)と開墾を始める。佐和は元・島原の女郎で村のつまはじき者であり、佐和とは口をきくなとお清は指示するが、おしんは佐和の人柄を誉め、元女郎のどこが悪いかと言い返す。

 お清の中には、嫁は姑に口答えしないという絶対服従の関係の中で、おしんの口答えは信じられない世界であり、憤慨する。この時のおしんはその人の人柄を素直に見ていくという、東京からきた大正デモクラシーの影響もある女性になっている。しかし、お清からすれば今の自分を否定するということになっている。

 また、佐和に人妻を表す丸髷を結ってあげたことから村内で評判になり、丸髷を結って欲しいとの頼みが姑のお清に届く。おしんもいくらかの小遣いになるので髪結をしたいと言う。お清は「田倉の家は嫁を野良仕事以外に髪結で稼がせるといわれるようになり、田倉の家の恥になる」とおしんを口撃する。

Photo_20200812060101   田倉の生活に我慢ができず、竜三に街に出ていこうというが、有明海干拓で土地を持つという夢を抱く竜三は承知しなかった。おしんは3月のお彼岸の中日に東京の髪結師匠のたかを頼りに雄をつれて田倉の家を出ていくことをきめる。髪結としてやっていける自信がおしんにはあった。しかし、一緒に東京行きを誘った佐和はおしんが妊娠していることを知り、竜三に東京行きを告げたのであった。

 止めに入った竜三ともみ合い、おしんは首から右腕にかけて大けがを負う。ケガから1か月たってもおしんの右腕は思うように動かなくなっていた。町医者に診せたが悪くないという診断であった。お清は竜三におしんと別れろという。働きのない嫁は実家に帰すか、離婚させるのが当たり前の世界であったと言われている。

2_20200811142101   一方でおしんは仲直りした佐和に自分が見てきた母と祖母が「大根飯だってロクに食えない貧しい暮しの中であっても、お互いいたわり合ったり、かばい合ったりして、母ちゃんはおばあちゃんを恨んだりしなかった」と嫁と姑が仲が悪いということは信じられなかったことを語り「逃げ出すことを考えず、可愛がられる嫁にならなきゃね」と佐和に話す。

 おしんの妊娠を知った竜三は離婚をせまるお清に別れないことを言う。だが、おしんが田倉の家を出ようとしたことが分かり、そのことを竜三に責めている時、おしんの妊娠をお清は知ることになる。嫁にやった実の娘も田倉の家で初産することになっており、「一つの家にお産が二つあると、どちらかが欠く(死ぬ)」という忌み嫌う言い伝えがあり、お清はおしんを他所で産ませようとする。大五郎や竜三たちは迷信だとして一蹴する。お清はおしんと口を利かなくなくなる。おしんと逃げようとしたことが分かった佐和は耕造の家から失踪する。

T_20200812061101   お清とおしんの口を利かない関係を心配した長男嫁の恒子は夫の福太郎に告げる。福太郎は「長男農家の嫁は、見ざる・聞かざる・言わざるじゃ。どっちの味方もしないで黙ってほっとけ」と恒子を戒める。

 「嫁30歳まで口要らぬ」と嫁は30歳となるまでモノを言わず、黙って働けといわれる立場であり、「泣く口にはメシが食える」といくら泣くような日々がつづいてもメシは食えるから我慢しろと言われていた(野口武徳著「嫁姑関係」より)。

 他家からやってきたヨソ者としての嫁は婚家の中で労働によって地位を獲得し、跡取りを産むことが責務とされていた。「ツノのない牛」「子を産む道具」(宇田川満著「嫁と姑」より)として 「家」の中での根強い男尊女卑の考えがあったことを作者は描いているのかと思えてくる。

Seiyleqq1_20200812060301  恒子はお義母さんが「一つの家でお産が二つあると、どちらかが欠くという迷信を信じている。山形でお産した方がいい」とおしんにすすめる。それで口を利いてもらえない理由がわかるおしんだった。

 恒子は「今度はただのいびりとは違う。ものもろくに食べさせてもらへんし、畑仕事でん休ませてまらえんで、こき使われたない。お腹の子は育たんじゃろし、おしんさんでん体ば壊してしまうだね。殺される」。おしんは「背筋がゾット」する。

 おしんは竜三に一緒に東京に行こうというが、竜三は10年後に有明海開拓で自分の土地を持ち,雄に残せることにかけているため、東京には行かないことを告げる。

 お清は何としても他所でお産をしてもらうため、同じ村でおしんを預かる家が見つかり、そこに移るようにおしんに告げる。しかし、おしんは田倉の家で産むとして、他所に移ることを断る。「嫁の分際で逆らうとね。親の言うことを聞けんとない嫁ん資格はなか、今日限り嫁とは思わんけ」と激しくなじる。

 おしんは田倉の家の嫁として認知を得るには田倉の家でお産することだと思い、それ相応の姑からの仕打ちに対応していく決意であった。それはおしんの意地だったのかもしれない。

G6bzudmg1_20200812060201  田植えの一番忙しい時期、おしんは身重の体を押して田植えをする。お清は身重の篤子を実家の田倉に連れて帰り、ぜんざいやドジョウ汁などを食べさせ、一番風呂に入れる等、実の娘と嫁との扱いかたの違いを描いている。

 同じ妊婦のおしんをこき使う。実の娘を甘やかすお清と井戸端でぐったりしているおしんを見た福太郎は、働くのは無理だと父・大五郎に意見する。大五郎の指示でおしんは仕事を休むむ。しかし、台所で昼食のうどんを食べようとすると、お清は働かず食べるのかと激しく口撃する。

 翌日からおしんは何があっても仕事を休まず働くのだった。立場の弱い嫁の意地にもにた踏ん張る姿を描いていく。

O_grghr1_20200812061301  やがて稲刈りの季節を前にして産み月を迎える。お清は篤子のお産を家の納戸、おしんには裏の納屋代わりの小屋を使えと指示。

 篤子が産気づくが、ひどい難産となり、竜三が町の医者を呼びにいくことになった。そのため、おしんの産気を見落とすことになってしまった。明け方に篤子は無事出産したが、おしんは家の前で倒れていた。

 目を覚ましたおしんは「女の子を産んだ。誰もいないから一人であの子を産んだけど…小さい身体が精一杯生きていた」と大五郎と竜三に話す。大五郎は「医者が診てくれて、死産じゃったで…。たとえ生まれたとき、息のあったとしても、生きられる身体じゃなかったよ。痩せこけてこまかか子にゃったて、医者が言うとった」と話す。

 おしんは「私、名前つけたんだから…愛っていうの」。たまりかねて竜三はおしんを抱きしめる。

Wjs_qv7q1  恒子は竜三に「おしんさんは地獄ばみたとじゃけん。自分でヘソの緒ば切らんてん」と語り、「同じ女子であがん小屋へ移らんぎ、嫁というとは情けなかもんさい」と怒りもにた言葉が恒子から発せられた。

 竜三は母・お清に「ただ働くばっかりで、食べもんも十分でなかった。佐賀に連れて帰ったの間違いだった」と話すと、お清は「おしんを憎うて辛く当たった覚えはなかとよ。おしんでん田倉の嫁になったら、それ相応のことばしてもらわんば…。恒子も同じ辛抱してきた」と言う。竜三が「母親がロクに食べるもんも食べんで重労働し、衰弱してしもうて」と言えば、「ほかの女子は立派に子ば産んで育てとる。都会の暮しに慣れ過ぎとったよ」と最後は他の嫁と比較し、辛抱するのが嫁の努めであると話す。そこには竜三の妻としてではなく、田倉家の嫁として扱っていることを示している。嫁は姑という「家政」に従うものであるということを言っている。

    篤子母娘が田倉家を去った夜、佐和からの手紙を読んだおしんは竜三に田倉の家をでることを告げる。

Photo_20200812055801  「私も思い切って、ここを出るわ。愛は、生きる力もない身体で生まれてきたのよッ。私ひとりが苦労するのなら、どんな我慢だって出来るッ…。せっかく生まれたきた子供が、産ぶ声をあげる力もなく死んじゃったと思うと…。死んでしまった愛は帰ってこない。あの時から、私はこの家を出る決心をしていたの。ここにいたら、私は、自分のしたいことなんて、一生出来やしない…。お腹の子を無事に育てることさえ、出来なかったんだもん…。明日、雄を連れてこの家を出ます」と決意を話す。

Photo_20200811032203 …おしんは台所にきちんと座り、大五郎とお清に向い「お舅さん、お姑さん、いろいろお世話になりました。今日限り、おいとまをいただきとうございます」と毅然と言い放つ。強烈な印象を受ける場面である。

 びっくりする大五郎であったが、雄を連れて食べていけるのか?と危惧する。お清は「雄は田倉の子だ。あんたは一人で黙って出てお行き」と切り返す。

 「雄のために働きます。雄がいるからこそ働けるのです!」と立ち去るお清に向かって叫ぶおしんの表情は鬼気迫る。台所からその光景を黙って見ている恒子。

2rhtvqx1_20200812060001  翌朝、竜三の「いつか必ずまた一緒に暮らす日がある」という言葉を支えに、おしんは大五郎と福太郎に別れの挨拶をする。二人からは選別金が渡される。

 たゞ、その前に台所に現れたおしんに恒子は雄を連れ出すことを言ってくれた。半信半疑のおしんであったが、待ち合わせの源右衛門の墓の前で恒子と雄を待つ。

Photo_20200812055901  恒子は帯紐を持参して、隙をみて連れ出した雄を抱いてくる。おしんが雄をおぶるのを手伝いながら恒子は、「あたいでん子の親さい。あたいが同じことばすが、やっぱり子供は連れていきたかと。一人じゃ生きられんでも、子供がおっぎ生きらるっもんさい。おしんさんはうらやましか、あたいにはでけんことやるって。お姑さんのことは心配なか。4人も孫のおったけ」と早く佐賀を去ることを促す。

 雄と東京に向かう列車の中で、「思いがけない恒子の行為であった。それは今まで耐えてきたものへの恒子なりの反抗だったのではないだろうか。おしんは嫁の立場の惨めさが身にしみ、そこを抜け出せた幸せをかみしめていた」と奈良岡朋子のナレーションが被さっていく。

 福尾猛市郎著「日本家族制度史概説」の中で、「新参者として入ってきた嫁は、家風への順応を強いられ、これに馴染まぬ場合は、『家風に合わぬ』として追い出されるのである。たとえ離縁に至らないまでも、家風に慣れないことを口実とする姑の嫁いじめは至るところに見られた。これは封建社会における人間相互間の上下秩序、命令と服従の関係が家庭内部にまでしみ込んだ現象とみてよい」と記されている。

 東京からきたおしんを田倉の主婦・お清は嫁として最初から認めていなかった。「家」を通しての嫁でないことがおしんの立場は危ういものとなっていた。また農家の三男の嫁としての期待もなく、穀粒ぶしのおしんには田倉の家風に合わぬ嫁として結論づけていたと思える。

 では、「家風に合わぬ」とはどういうことなのか?宇田川満著「嫁と姑」の中で、「家風とは個々の家の生活慣習であり、他家から入ってきた嫁は異なった考え方や生活慣習を身につけていることから、生活慣習上のギャップが生じ、『家風』という権威ある表現をとって姑の嫁への一方的な監視、攻撃が起こる」と記されている。

Photo_20200811032101  田倉の家を出たおしんは、髪結仕事ができないことから、露店でのどんどん焼き、酒田での飯屋、伊勢志摩で雄を乗せた箱車で魚の行商を始め、やがて「魚屋」・「魚と野菜」を扱う店を開き、販売商いの店を開き進んでいく。

 ドラマ「おしん」佐賀篇の中には、戦前まで続く日本の家族制度の中における「家」という格式の中で生きる女性のつらさや惨めさなどが描かれてきている。両性の合意で結婚できる現在の結婚制度ではなく、戸主、家長の許しのもとで結婚が成立した戦前では「家」の考え方が大きなな比重を示していた。そうした「家」の重さを受けることのない結婚であったが故に、おしん場合、婚家の家で暮らすことは「家政」を預かる姑の力が絶対であるということを見落としていたといえる。

 作者は東京で二人だけで結婚し、都会からやってきたおしんという嫁を佐賀のお姑のいる田倉家に置くことにより、農業という生業としての「家」を提示し、嫁と姑の諍いを通したドラマを描いている。「村の家」としての重さのある家族の中での三男嫁と姑からの「嫁いびり」等、当時の嫁の置かれた状況が表されている。さらに、ドラマでは同じ農家の嫁としての佐和や兄嫁恒子たちの封建制の残る家族制度の中で生きている女性たちをも描いている。とりわけ最後に一子・雄を連れて田倉家を出ていくおしんを助けていく兄嫁恒子の姿は、強く生きる「おしん」をドラマとして盛り上げていっている。この佐賀篇は後半の戦後編の「おしん」での姑となるおしんと嫁・道子との商いを行なう家族の生業としての現代における家庭問題を描く伏線にもなっていく。

 生きていくうえで毎日が選択の連続であると言われている。ドラマ「おしん」では選択するとき、家族以外の人がおしんに協力・力になる人物が多く登場してくるのが特徴としてあげられる。俊作あんちゃん、初恋の浩太、加賀屋の大奥様のくにとお加代、髪結の師匠たか、女給染子、源じい、テキヤの健、網元のひさ、兄嫁の恒子、9歳で引き取る初子、雄の戦友の川村等々。いずれもその時代時代の辛酸をなめて生きるおしんの自立しようと歩もうとする姿を見て、協力者・応援者になっていく。そのことが視聴者をも奮い立たせていったところに多くの人に感動を与えたドラマになったのだろうと思えてくる。

 まだまだ日本には隠れた世界、歴史が横たわっていることを実感した。

                         《夢野銀次》

≪参考引用資料著書等≫

橋田壽賀子著「NHKテレビ・シナリオ おしん(1)~(4)」(昭和58年7月~59年3月、日本放送協会発行)/ウエブ「連続テレビ小説『おしん』NHK放送史」/ウキペディア「おしんあらすじ」/福尾猛市郎著「日本家族制度史概説」(昭和47年2月吉川弘文館発行)/野口武徳著「嫁姑関係」(昭和49年2月弘文堂発行『講座家族2』に収録)/宇田川満著「嫁と姑」(昭和34年1月医歯薬出版発行)

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生きていく姿が光り輝くー映画「キューポラのある街」から

自分の進路ー「学ぶこと」とは

201607241539501~苦しい時には見つめてみよう 仕事に疲れた手のひらを

~一人だけが苦しいんじゃない みんなみんな苦しんでる

~話してみようよ語り合おうよ 積もり積もった胸のうちを

(「手のひらの唄」昭和31年作、詞:伊黒昭文・曲:寺原伸夫・昭和39年に坂本九がレコード化)

 トランジスター工場内を案内説明した女工(吉行和子)は食堂でジュン(吉永小百合)に、「働いて勉強するってね、(定時制高校)面白いわよ。学校にいろんな人が集まるでしょう。だからみんなで助け合うのね」と、昼休み「手のひらの唄」を合唱する職場のコーラスの歌声が聴こえてくる。合唱する女工たちを見つめるジュン。 

 「♪悲しい時には見つめよう 汗にまみれた手のひらを」と歌いながら商店街を自転車で帰宅するジュン。そこには自分の進路(就職して定時制高校に通うこと)を決めたジュンの15歳の少女の明るい笑顔がある。

1387372523545223002261  昭和37年(1962)4月公開の吉永小百合主演の日活映画「キューポラのある街」をDVDで観る。

 監督はこの作品がデビユー作品となる浦山桐郎。原作は早船ちよ、脚本は浦山桐郎と師の今村昌平との共同執筆。ブルーリボン賞作品賞受賞作品。キネマ旬報ベストテン2位。主演の吉永小百合もブルーリボン賞主演女優賞などを受賞し、大きく飛躍するきっかけになった作品。浦山監督も、この作品で第3回日本映画監督協会新人賞を受賞した。

 中学3年の石黒ジュン(吉永小百合)は、鋳物工場の直立炉(キューポラ)が立ち並ぶ埼玉県川口市の鋳物職人の長女。高校進学を目指すジュンだが、職人気質の父・辰五郎(東野英次郎)が工場を解雇されたため、家計は火の車で、修学旅行に行くことも諦めていた。

Imgp31811  自力で高校の入学費用を貯めようと、パチンコ屋でアルバイトを始めるジュン。担任の原田先生(加藤武)の助力で修学旅行に行けることになった。

 しかし、ようやく 再就職した父親は、待遇不満で仕事をやめてしまった。絶望したジュンは女友達と遊び歩き、危うく不良少年たちに乱暴されかかる。

 ジュンや弟のタカユキ(市川好郎)が親しくいている級友の一家が北朝鮮に帰還することになり、そこでの一家の苦悩する姿や、貧しくとも力強く生きる人々との交流を通じて、ジュンは、就職、自立して働きながら定時制高校で学んでいくことに意義を見出していく(ウキベディア参照)。

03311   映画の冒頭、荒川の鉄橋を電車が大宮に向けて走るシーンにナレーションが重なる。

 「今や世界第1になったマンモス東京の北の端から荒川の鉄橋をわたるとすぐ埼玉県川口市につながる。河ひとつのことながら、我々はこの街の生活が東京と大きな違いを感じる。500を数える鋳物工場。キューポラという特色ある煙突。江戸の昔からここは鉄と火と汗によごれた鋳物職人の街なのである」と川口市内を見下ろしながらキューポラの見える荒川土手道を中学に通う生徒たちをバックにメインタイトル『キューポラの街』が映し出される。

 今村昌平とともに「幕末太陽伝」の助監督を務め、日活を退社していた川島雄三監督に浦山桐郎はどうしても試写を見せたく、探し当て見せることができた。見終わった川島雄三は、「俯瞰(ふかん)のカットが4つばかりありましたが、あれはいけない。みだりに人を俯瞰してはなりません」と語り、細かく演出について批評した(田山力哉著「夏草の道」より)。

P61300381  「俯瞰」とは上から人を見下ろすという意味がある。そのシーンが4つあると川島雄三は批評している。川口市街地を見下ろすシーンなのか?登場人物を見下ろしているシーンがどこなのか?…私にはわからない。

 この作品を観ながら、一つ一つの画面に真剣に向き合って撮っている監督以下スタッフ、出演者たちの厳しい姿勢、真剣さがひしひしと伝わってくるのを感じた。とりわけ、吉永小百合の目の鋭さと走る姿の足の太さが印象に残った。回りの環境やそこに生きる人々を見つめ、自分に負けないで生きようとする少女の表情が良い。

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  修学旅行にいかず、学校へも登校しなくなったジュンに担任の野田先生(加藤武)は、「勉強したって意味ないもの」と言ったジュンに、「生意気言うんじゃないよ。受験勉強だけが勉強だと思ったら大間違いだぜ。高校へ行けなくとも勉強はしなくちゃいかんのだ」と怒り、こう諭す。

 「いいかジュン。働いても、何やってもだな、そんな中から何かを掴んで理解して、付け焼刃でない自分の意見を持つ。そいつを積み重ねていくのが本当の勉強なんだ。定時制へ行ったっていいじゃないか。それも行けなきゃ通信教育受けたっていい。気持ちさえありゃ何処でどうやったって勉強できるんだ」と、仕事を通して学んでいくこと、生涯教育の本質を語る野田先生。早稲田大学を卒業後、文学座に入る前の一年間、大久保の中学校で英語教師をしていた加藤武ならではの語りに説得性を感じた。

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 授業の作文の中でジュンはこう綴る。

 「わたしには解らないことが多すぎる。第一に貧乏なものが高校へ行けないということ。今の日本では中学だけでは下積みのまま一生うだつが上がらないのが現実だ。下積みで貧乏でケンカしたり酒飲んだり、バクチを打ったり、気短かで気が小さく、その日暮しの考え方しかもっていない。みんな弱い人間だ。もともと弱い人間だから貧乏に落ち込んでしまうのだ。すると貧乏だから弱い人間になってしまうのか。わたしにはわからない」

 わたしが中学を卒業するときに担任の先生は、「いいか、同窓会は20年間開かないこと」と言った。どうして?そして…そうか。と頷いた。当時、50名いたクラスの中で半数が就職者であった。進学組とのギャップを埋めるには相当の年月が必要なのだと、その先生の言った言葉が今も残っている。

北朝帰還事業ー離散する家族

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 川口駅前で北朝鮮に帰る人たちへの歓送会が映し出される。ジュンとタカユキ姉弟は級友のヨシエ(鈴木光子)と弟のサンキチ(森坂秀樹)を見送りに来る。しかし、北鮮に共に行かぬ日本人母親(菅井きん)がサンキチに会いに来た時に、会うのをとめるヨシエらの姿をジュンは見つめる。そこにはつらい家族たちの姿が描かれている。

 1950年代から1984年にかけて在日朝鮮人とその家族による日本から北朝鮮への集団的は帰還事業が行われた。この時期、在日朝鮮人も生活に困窮する者も多かった。生活保護者の削減や犯罪の削減を背景として日本政府や政党などもこの帰還事業をすすめ、日本人妻2000人を含め、10万人近くが北朝鮮に帰還したといわれている。

 新潟行きの列車の中でサンキチは母親を恋しがり泣きじゃくる。在日朝鮮人の父親(浜村純)は、「母ちゃんと暫くいろ、そして来たくなったらいつでも来いよ、俺、働いて住みよくしとくから」と言って、大宮駅からサンキチを川口に帰す。しかし、母親は別の男と結婚し、すでにいなくなっていた。あれから50年の歳月がたっている。帰還した人たちはどうしているのか?

E2c578731   牛乳を盗んでいたタカユキとサンキチは牛乳配達少年に見つかる。小舟で逃げる二人に川ふちから、「馬鹿野郎、お袋が病気だからアルバイト(牛乳配達)やってんだぞ。畜生、お前らのお陰でよ、お前らのとった分だけ店からひかれて、俺ア一銭にもなんねえんだ。薬も買えねえ時だってあるんだぞ。馬鹿野郎!」と叫ぶ。タカユキが「銭払いやいいんだろう」と言い返すと、少年は「畜生!銭なんかで…恥ずかしくないのか、お前ら!」。

 ――ぐさりときてうなだれる二人。貧しくとも恥ずかしくないのかというセリフには人としての誇り、尊厳に突き刺さってくるシーンである。

 川口駅見送りの改札口でサンキチはタカユキに、「二人で飲んだ牛乳代、これで返してくれ」とお金を渡す。受け取ったタカユキも「辛いけど謝っておく」と言う。笑顔で見合わす二人に何故かホットしてくる気持ちになってくる。

「考える少女」から「頑張り続ける女優」

Cltqsevyaeuddw1 ジュンが職場見学から家に帰ってくると、ひさしぶりに笑いながら酒を克己(浜田光夫)と酌み交わす父親(東野英次郎)と母親(杉山徳子)がいた。父親が元の職場に復帰することが決まった祝いの酒であった。「これも組合のお陰なんだな。ジュン県立高校へ行けるぞ」と話す父親にジュンは働いて定時制高校に行くことを告げる。高校進学をすすめる父と母にジュンはこう言うのだ。

 「あたいは父ちゃんに頼らなくてもいいような生活をたてるつもりなの。これ(就職して定時制高校に行くこと)は家のためっていうんじゃなくて、自分のためなの。たとえ勉強する時間はすくなくても、働くことが別の意味の勉強になると思うの。いろんなこと、社会のことや何だとか。そしてその日暮しじゃなくて、何年でこうするという計画をたてて生活したいの」。

 これを聴いた克己は、「そうか、おばさん、偉えやジュンは、しかしお前よくそういうこと解ったもんだな、よっぽど考えたんだな」と感心する。ジュンは「いろいろな人が教えてくれたのよ、まわりの人みんながさ」と照れながら笑顔で話すジュン。

C100_33urayama1  監督浦山桐郎は吉永小百合をジュンの役に起用するという日活の方針にイメージに合わないとし、不満であった。そこで撮影に入る前に吉永小百合に会う。「貧乏というものについて考えてごらん」と突き放すように吉永小百合に言う。吉永家の生活を支えている16歳の吉永小百合にとり「貧乏」とは最も得意とするところであった。やがて撮影の中から吉永小百合の頑張る姿と演技にジュンの役柄を固めていった。

 この子(吉永小百合)の一番いい点は真面目に考えることであり、そこでジュンを考える少女という面でつくってみようと私は思ったからである。役に対する固定観念を俳優に押し付けないで、俳優の内部から出る本気の表情をもとにして役をつくって行く方法を確立していく(関川夏央著「昭和が明るかったころ」より)。

 以後、浦山桐郎は「非行少女」の和泉雅子、「青春の門」の大竹しのぶなど新人女優を掘り出していく監督として評価されるようになっていたが、54歳の若さで亡くなる。

190px1  実際の吉永小百合も石黒ジュンと同じ道筋を歩んできた。家計を支えるための女優業で高校を卒業することができなかった。そのため、20歳の時に早稲田大学の資格認定試験を受験、難関を合格して、昭和40年(1965)の3月に早稲田大学第二文学部史学科を受験し、合格する。多忙な俳優業をこなしながら大学に通い学んでいく。そして、昭和44年(1969)3月に卒業する。卒論は「アイスキュロス❝縛られたプロメテウス❞とアテナイ民主政についての一考察」であったという。

 仕事をしながら学んでいこうとする石黒ジュンの姿勢は、そのまま「吉永小百合」としての「考える少女」から「頑張る女優」になっていく姿に重なってくる。浦山監督が見通した通りの女優を今日まで持ち続けているといえる。

Hqdefault2  サンキチが北鮮に向かう朝、ジュンとタカユキは川口の陸橋からサンキチの乗る列車を見送る。就職試験に向かうジュンと新聞配達をするタカユキ。二人が川口の陸橋を走るところで映画は終わる。 

 その時代を必死に生きていく姿を描いた映画は色褪せることなく、時代を超えて私に訴えてくるものがあると教えてくれた映画だ。

 昭和30年代頃から活躍した女優が姿を消していく中で、吉永小百合だけがどうして現在も主演映画を撮り続けられるのか。「吉永小百合の映画は面白くない」「パッとしない」「人気を支えているのは団塊の世代のサユリストたちだ」など批評や意見も聞かれる。それでも主演映画を撮り続ける、その頑張りに凄さと本気で生きることを感じる。「北の桜守」の中でのトラック荷台でおむすびをほうばるシーンなど必死に生きる姿が描かれいる。いつまでも頑張って光り輝く女優であって欲しいと願う。

                         《夢野銀次》

≪参考資料本≫

田山力哉著「夏草の道 小説浦山桐郎」(1993年1月講談社発行)/関川夏央著「昭和が明るかった頃」(2002年11月文藝春秋発行)/シナリオ協会編「日本シナリオ大系4」(昭和49年5月マルヨンプロダクション発行)

 

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西向天神社・花園神社の歌碑―藤圭子の歌に潜むもの

「新宿の女」歌碑のある西向天神社

  花園神社から明治通り新宿6丁目の交差点に進み、交差点を右折し、新宿文化センターの先の天神小学校の道なりに歩いて行くと西向天神社の石段が現れ、上ったところに西向天神社の拝殿が鎮座している。

 ここは新宿なのか?……と思えるほど樹木が覆い茂り静寂な雰囲気が漂っている。柔らかな神社の境内であると印象を受けた。

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新宿6丁目「西向天神社」

 社伝によれば安貞2年(1228)、高山寺を開いた明恵上人が、菅原道真自刻の尊像を持って東国に下向し、この地に社を創建したといわれている。西向天神社という名は、大宰府を向くかたちで、社殿が西に向いているため。また別名は棗(なつめ)天神ともいわれている。これは、寛永年間(1630年代)に三代将軍家光が鷹狩りに来た際に、荒廃していた社を見て、社殿等の修復のため金の棗の茶入れを下賜して再興を促したという伝承によるものと社伝に記されている。

 社殿並び左に別当であった大聖院があり、その境内駐車場に太田道灌の山吹里伝説で知られる「紅皿の墓」の板碑があった。

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紅皿の墓

  「紅皿の墓」は、もとは隣接する法善寺の崖際にあったが、江戸中期ころに崖崩れのために現在地へ移されてとガイドブック新宿区の文化財に記されている。

  紅皿は太田道灌に纏わる伝説に登場する少女。急な雨で雨具を求めた太田道灌に対して、山吹の花を差し出したといわれている。貧しく蓑すら差し出せなかった少女の行為は古歌を踏まえたものとのことで、それに気付かなかった道灌は、自分を恥じて歌道に精進するようになったといわれている。

 案内標識版には「太田道灌の死後、紅皿は尼になって大久保に庵を建て、死後その地に葬られた」と記されている。山吹伝説の少女の墓がここにあったとは、意外な発見をした。

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歌碑「新宿の女」

 平成11年(1999)9月25日に「~私が男になれたなら私は女を捨てないわ ネオンぐらしの蝶々にはやさしい言葉がしみたのよ バカだなバカだな だまされちゃて 夜が冷たい新宿の女 作詞・作曲石坂まさを 共作詞みずの稔 歌唱藤圭子」と刻まれた「新宿の女」の歌碑が、ここ西向天神社拝殿横の境内に建立されている。石坂まさをの作詞作曲生活30周年を記念して建立されたもの。

 歌碑の背面には建立の由来として「昭和44年(1969)9月25日『新宿の女』でこの西向天神社より2人の若者が旅立って行き、石坂まさをと藤圭子の名は時代を刻み伝説として語られるようになった。心生舎」と記され、建立者120人の氏名が記されている。

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 昭和44年(1969)9月、18歳でのデビュー曲「新宿の女」は思うように売れなかった。そのため伝説の「新宿25時間キャンペーン」を同年11月8日にここ西向天神社で出陣式を行い、藤圭子と石坂まさをは新宿の飲食街を25時間ぶっ続けで流して回る。出陣式には新聞社20紙、週刊誌16誌、ラジオ13番組、テレビ7番組を集めて、神主代行を初代林家三平が務めた(ブログ「東京とりっぷ」より)。

 翌年の昭和45年(1970)1月にオリコンチャートトップ10に初登場し、「演歌の星を背負った宿命の少女」として2枚目シングル「女のブルース」8週連続1位を獲得する大ヒットになる。さらに同年の4月に「圭子の夢は夜ひらく」、7月「命預けます」と立て続けに大ヒットを飛ばし、昭和45年、1970年の時代を刻む歌手になっていった。歌碑由来に記された「2人の若者が旅立った」といえる天神社に改めて参拝をした。

 幼い頃から浪曲師の父・阿部壮(つよし)、三味線女の母・竹山澄子の門付けに同行、旅回りドサ回りを送り、自らも歌った。17歳の時に『さっぽろ雪まつり』のステージで歌う姿がレコード会社の関係者の目に留まり、上京。錦糸町や浅草界隈で流しをしながら石坂まさをの指導を受ける。

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藤圭子昭和26年(1951)7月5日

 ~平成25年(2013)8月22日

 藤圭子のデビューに至る逸話がネット「ブログあさ芸プラス」に記されている。

 「レコード会社は7社落ちたし、NHKの『のど自慢』には13回も落選した。あの声が荒削りだと敬遠されたと石坂まさをから聞いた。担当ディレクターを務めた榎本襄が、『当時のレコード業界は、大きな声で歌うと怒られるという風潮。藤圭子の最大の魅力である『ドスの効いた声』は、老舗のレコード会社に受け入れられなかった。弱小メーカーからデビューが内定していたが、『RCA』に切り替えてデビューにむけて石坂の猛烈な売り込みが始まった。新聞社や雑誌社に圭子を連れて行って、その場で歌わせる。うまくいかなかった時は、人通りの多い横断歩道だろうとどこだろうと、石坂はすぐに殴るだよ』と榎本の目には圭子は『猿回し』のようにも映った」と記している。

 石坂まさをと藤圭子にとりデビューに向けての激しい葛藤があったことが伺える。西向天神社から明治通りを横切り、ホテル街から歌舞伎町界隈を歩き、花園神社に向かう。西向天神社から歌舞伎町へは意外に近いことが分かった。時は1970年を迎え、時代に挑戦するかのように藤圭子は旅立っていった。

「圭子の夢は夜ひらく」歌碑のある新宿花園神社

 明治通り側から花園神社に入る。本殿前の境内では江戸時代から芝居興行が盛んな神社であった。境内に入る右側に「芸能浅間神社」が鎮座している。日本神話に登場する美女の女神、木花之佐久夜昆売(このはなのさくやひめ)を祭神としている。芸能関係のご利益あるとされ、多くの芸能人が訪れている。

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新宿5丁目『花園神社』

 昭和42年(1967)8月、唐十郎の主宰する「状況劇場」がここ花園神社境内に紅テントを建て、『腰巻お仙・義理人情いろはにほへと篇』を上演した。紅テントという異様な公演は当時の若者に強い衝撃を与えた。しかし、公序良俗に反するとして地元商店連合会などから排斥運動が起こり、ついに神社総代会より神社境内の使用禁止が通告された。昭和43年6月『さらば花園』と題するビラをまき、状況劇場は花園神社を去った(ウキペディアより)。

 私が紅テントで状況劇場の芝居を観るようになったのは新宿西口東京都庁建設予定地や上野不忍公園での公演からであり、花園神社での芝居興行は観ていない。李礼仙、麿赤児、根津甚八、不破万作など全身で体ごとぶつかっていく演技は、演劇の亜流といわれながらも昔から流れる日本人の芝居の原点を彷彿させていたと思っている。…今でも花園神社での芝居興行を観られなかったのが残念無念だと思っている。

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「芸能浅間神社」

 花園神社境内にある芸能浅間神社敷地内に「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑が建立されている。平成11年(1999)12月19日に石坂まさを作詞作曲30周年を記念して建立されている。西向天神社の歌碑が3か月前の9月に建立。2基の歌碑が続いて建立されていることになる。その理由は分からない。

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歌碑「圭子の夢は夜開く」

 歌碑には次のように刻まれている。

 圭子の夢は夜ひらく   作詞石坂まさを 作曲曽根幸明

 赤く咲くのはけしの花 白く咲くのは百合の花 どう咲きゃいいのさ

 この私 夢は夜ひらく

 十五 十六 十七と 私の人生暗かった 過去はどんなに暗くとも

 夢は夜ひらく

 歌碑背面には発起人として石坂みき、榎本襄、海老名香葉子、大下英治、なかにし礼、星野哲郎、船村徹、山上路夫等18人の氏名と協賛会社、協賛者が記載され、小田天界代表世話人と3人の幹事名が記されている。

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 赤く咲くのはけしの花…遊女の姿、白く咲くのは百合の花…花嫁御料の姿が思い浮かんでくる。十五 十六 十七と私の人生暗かった…少女が遊女に身売りされるのが15歳。江戸から昭和にかけて10年の年季奉公として身売りされた少女たち。年季奉公が終っても身も心もボロボロの廃人となり大多数の遊女は25歳で亡くなっていった。江戸時代の飯盛旅籠の飯盛女の人世の姿が浮かんでくる。時代にのまれながらも人生の底辺を生きていく歌になっている。

 「歌いつがれて25年 藤圭子演歌を歌う」 

 父親と母親の浪曲世界と流しできたえた藤圭子の歌の真髄を最近、聴くことができた。昭和45年(1970)10月23日の渋谷公会堂でのコンサート「歌いつがれて25年藤圭子演歌を歌う」の録音をユーチューブにて配信されていた。19歳の藤圭子がライブステージ上で20曲全曲をフルコーラスで歌う世界に藤圭子の凄さに強い感銘を受けた。

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25年間の演歌を歌う藤圭子

 ステージでは次の25年間の曲が歌われている。「圭子の夢は夜ひらく(昭和45年)」から始まり、「リンゴの唄(昭和20年)」、「なくな小鳩よ(昭和22年)」、「港が見える丘(昭和22年)」、「星の流れに(昭和22年)」、「銀座カンカン娘(昭和24年)」、「カスバの女(昭和30年)」、「好きだった(昭和31年)」、有楽町で逢いましょう(昭和32年)」、「南国土佐を後にして(昭和34年)」、「黒い花びら(昭和34年)」、「潮来笠(昭和35年)、「アカシヤの雨がやむとき(昭和35年)」、「出世街道(昭和37年)」、「お座敷小唄(昭和39年)」、「網走番外地(昭和40年)」、「女のためいき(昭和41年)」、「池袋の夜(昭和44年)」、「長崎は今日も雨だった(昭和44年)」、「命預けます(昭和45年)」を最後にする構成になっている。

 藤圭子の歌うこれらの曲を聴きながら次の想いが沸いてきた。「あかいリンゴ」はアジア太平洋戦争で亡くなって300万の人たちを見つめながら歌う曲になっている。「泣くな小鳩よ」では特攻隊として飛び立っていく兵士の姿が浮かんでくる。「あなたと歩いた港の見える丘」では戦死した恋人を想いながら歩く女性の姿が…。なかでも「南国土佐を後にして都へきてから」の都を「~中支へきてから」と置き換えると中国戦線で歌われたという「南国土佐を後にして」の本来の歌になって聞こえてきた。焚火を囲み歌う兵士たちの姿が浮かんできて涙が滲んできた。「アカシヤの雨がやむとき」をフルコーラスでじっくり聴くことができた。3番歌詞の「~アカシヤの雨が止む時 青空さして鳩が飛ぶ むらさき羽の色 それはベンチの片隅で冷たくなった私のぬけがら あの人をさがして遥かに飛び立つ影よ」…聴いていてゾットしてきた。女の怨念が影となって飛ぶ鳩になってくる。カバー曲でありながら藤圭子自身の持ち歌として歌っている。そこには,はりのある高音の響きと胸に突き刺すドスのある低音から死者たちの思いが歌霊になって現れてきているような気持ちになってくる。1970年という時代を突き進んだ稀有な歌手であった。

 藤圭子が石坂まさをに弟子入りするときに唄った曲が「星の流れに」と「カスバの女」。そして小学5年生の時にドサ回りステージで父親の代わりに急遽唄った曲が「出世街道」であったと石坂まさをは著書「きずな 藤圭子と私」に記している。しかし、20曲の中に古賀政男、船村徹、遠藤実の曲がなく、吉田正の曲が3曲入っている。何故なのか?藤圭子が19歳で歌った歌謡曲の中に潜む本質的なものは何なのか。…分からない。

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 歌の明るさと生きていく姿をステージ一杯に繰り広げた美空ひばりの歌声は広く華やかである。藤圭子の歌には一直線に人の胸に迫り、響いてくる。「命預けます」は相対死の歌に聴こえてくる。

「命預けます」 作詞・作曲石坂まさを 唄藤圭子

 ~命預けます 流れ流れて東京は 夜の新宿花園で やっと開い

  た花一つ そんな女でよかったら 命預けます

 ~命預けます 嘘もつきます生きるため 酒も飲みます生きるため

  すねるつもりはないけれど こんな女でよかったら 命預けます

 ~命預けます 雨の降る夜は雨に泣き 風の吹く日は風に泣き

  いつか涙も枯れはてた こんな女でよかったら 命預けます

 昭和44年(1969)の10月21日、私は機動隊に突撃する部隊に加わることになった。検挙されることは覚悟した。一つ下の学友が一緒に突っ込みたいと言ってきた。「あなたといきたいからです」という理由であった。「兄弟、生まれる時は別個だが、死ぬ時は一緒だぜ」という池辺良が共に殴り込みにいく時、高倉健に言うセリフの世界でもあった。胸が熱くなった。結局は新宿花園神社近くの明治通りで機動隊にぶつかり、検挙されることもなく私の学生運動は終わった。以後の内ゲバ世界には関与することはなかった。

 全共闘運動といわれたその時代は、理屈ではなく心情がエネルギーになり体を突き動かしていった時代であった。あれから49年の歳月を経て、「歌いつがれて25年藤圭子演歌を歌う」を聴き、19歳の藤圭子の歌声は一直線に私の心根に響いてきた。そんな歌手に今始めて出会うことができた。ありがとう藤圭子。

                           《夢野銀次》

≪参考資料≫ウエブネット「ブログ東京とりっぷ」/「ブログあさ芸プラス」/ネット電子書籍から石坂まさを著「きずな藤圭子と私」(文芸春秋社)

 

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高峰秀子「名もなく貧しく美しく」―父に与えた思いとは

NHKテレビ小説「ひよっこ」の描いたもの

0531_031 ~見上げてごらん夜の星を 小さな星の小さな光が ささやかな幸せをうたっている

 見上げてごらん夜の星を 僕らのように 名もない星が ささやかな幸せを祈ってる

   手をつなごう僕と 追いかけよう夢を 二人なら苦しくなんかないさ  見上げてごらん夜の星を 小さな星の小さな光が ささやかな幸せをうたっている

  見上げてごらん夜の星を 僕らのように 名もない星が ささやか幸せを祈ってる~  (昭和38年「見上げてごらん夜の星を」、歌:坂本九、作詞:永六輔、作曲:いずみたく) 

  昨年(平成29年)のNHK朝の連続テレビ「ひよっこ」(岡田恵和、作・脚本)は昭和30年代後半の青春映画を彷彿させたドラマ仕立てになっていた。東京下町のトランジスタラジオ製作工場に地方から集団就職した女子従業員たちによる「見上げてごらん夜の星を」を合唱するシーンが出てくる。昭和35年に永六輔といずみたくが製作公演した夜間高校を舞台にしたミュージカルの劇中歌を坂本九が昭和38年に歌い、現在も全国の合唱サークル発表会で歌われ続けている曲である。

 「ひよっこ」の中では、銭湯の帰り道を「いつでも夢を」を歌いながら女子寮に帰るシーンも出てくる。昭和38年1月公開日活映画「いつでも夢を」(野村孝監督)に出てくる夜間高校から帰りながら歌うシーンとダブって映し出される。

5d7e1bc11_2   昭和37年の橋幸夫・吉永小百合の「いつでも夢を」や翌年の三田明が歌った「みんな名もなく貧しいけれど」などは、高度成長時代を背景に若者達が貧しさから脱皮し「明日への夢」に向かって生きようとする歌詞で綴られている。

   しかし、同時代を背景にしたテレビドラマ「ひよっこ」の描く世界は違っていたように思われる。ヒロイン谷田部みね子(有村架純)を通して描いた世界は「明日への夢」を求めて進むのではなく、東京で行方不明になった父親を探しながら、「今をしっかり生き、やることをやっていく」という姿を描いていたように思えた。

 それは、貧しい中にも夜間高校を目指すことを決意していく「キューポラのある街」(浦山桐郎監督、昭和37年4月日活公開)のヒロイン「ジュン」(吉永小百合)の生きていく姿を描いた世界と共通しているように思えた。さらには、終戦から昭和34年までの時代、「貧しい生活の中でのろうあ者夫婦の生きる姿」を描いた東宝映画「名もなく貧しく美しく」(松山善三監督、昭和36年3月公開)の中にも「今をしっかり生きていく、やることはやっていく」という「ひよっこ」と同じように生活者としての生きていく姿を見ることができる。

映画「名もなく貧しく美しく」から

F37773391  「私たちは助け合わなければ生きていけません。道夫さん、一生私を助けてくれますか。私も道夫さんのためならどんなことでもします。私たちのような者は一人では生きて行けません。お互いに助け合って普通の人に負けないように」と、ろうあ者同士の置かれた立場を踏まえて道夫(小林桂樹)からの結婚の申し込みを受ける秋子(高峰秀子)。「…ありがとう」と応える道夫。

  昭和36年(1961)1月公開された東宝映画「名もなく貧しく美しく」の二人のろうあ者が終戦間もないがれきの散乱する時代に結婚を決めるシーン。監督は高峰秀子の夫である松山善三。実話を基にして松山善三が脚本を書いた第一回の監督作品である。

  DVDを借りて何十年ぶりかに観た。57年前の作品とは思えないほど、「生きていくこと」への苦しみと辛さから見出していく喜び、嬉しさを名もない庶民の生活の哀感がモノクロ画面に感動的に描かれている作品になっていることが分かった。

13827316_581271235411609_734641218_  両親がろうあ者であることにより同級生と喧嘩の絶えない小学1年の息子への子育ての悩みと苦しみ。さらには素行の悪い秋子の弟により、秋子は絶望し置手紙を置いて家を出ていく。帰宅した道夫は置手紙を読み、大急ぎで追いかける。駅のホームに入ってきた電車に飛び乗り秋子を探す。前の車両にいる秋子を見付ける。気が付いた秋子に車両の窓を通して手話での会話が始まる。

  私が小学6年の時にこの映画を観た時、音声とは違うこの手話によるシーンが強く印象に残ったことを憶えている。

 「僕にはあなたの苦しみがよくわかります。僕たちは夫婦です。何故あなた一人が苦しまなければならないのだ」と車両の窓越しから秋子に手話で話す道夫。「結婚してから今日まで私はあなたに迷惑ばかりで、あなたに何もして上げたことがありません」と応える秋子。道夫は「秋子、あなたは間違っています。結婚した時、二人は一生仲良く助け合ってゆきましょうと約束したのを忘れたのですか。私たちのような者は一人では生きてゆけません。お互いに助け合って…普通の人に負けないようにゆきましょう。そう約束したのを忘れたのですか」と諭す道夫に頷き返す秋子。走る電車の窓から置手紙の破片が舞い落ちる。

  全編で台詞ではなく手話、目や顔の表情やしぐさで感情を表現する難しい演技が要求される。とりわけ、この電車の車両窓越しによる二人の手話による演技は真に迫る夫婦の姿を描いており、「一人では生きてゆけない」という台詞に頷くシーンは胸に刺さるものがある。

O08000491112168720241_3 「給料が安くても二人ならやってゆけるんだとよ。早く結婚をしなさい」と亡くなる一年前に、お袋が言った言葉を今でも時々思い起こす。

  28歳だった私は「痔ろう」の手術で入院した。退院する日に栃木から来た母は私の住む吉祥寺のアパートで一週間過ごした。兄が栃木から車で母を迎えに来る朝、「ご飯はゆっくり食べるんだよ」と私に𠮟った後に諭すように「二人ならやってゆけるんだよ」と言って栃木に帰っていった。

2409795f1  「一人口は食えぬが二人口は食える」ということわざがある通り、確かに母が言ったように結婚すると独身時代の無駄使いがなくなりやっていける実感が湧いた。一人ではないという責任感が生まれたのかもしれない。しかし、この「名もなき貧しく美しく」という映画は「貧しさ」に加え、最初の子どもを死亡させてしまうなど「障害者」というハンデを背負った生活をも描いている。

  小学5年になった二人目の子供、一郎からは「母さんも父さんも耳が悪いから損してばかりいる」と言われる。同居する秋子の母たま(原泉)は一郎に、「だまされたって、損をしたって、こうやって皆無事にご飯をいただければいいじゃないか。お前にもいろんなことが分かる時が来る。お母さんたちはいつも下に下にと謝るようにして生きてきたんだから、おばあちゃんは偉いと思うよ」と話す。秋子夫婦だけはなく、当時の多くの庶民はこうした台詞のように「まず、家族がご飯を食べられる」という生活を一番に考えて生きていった姿が映し出されてくる。

9ad40f731_3  しかし、息子一郎は翌日、母親の洋裁仕立て代の引き上げを洋裁店の主人(多々良純)に要求する。言われた主人も秋子の仕立てものの出来具合から今まで安かったことに気が付き、引き上げることを秋子に告げにくる。

 ここには「障害者だから仕方なく我慢する」ということだけではなく、母親の洋裁技術を認めさせていこうとする姿が描き出されている。卑屈にならず己の技術に誇りを持って生きてゆくべきであるというメッセージが含まれていると思えた。

 この映画を観た当時、 53歳の親父はこのおばあちゃんの、「だまされたって、損したって、こうやって皆無事にご飯をいただければいいじゃないか」という台詞に共感したと思えてくる。息子一郎の仕立て代引き上げの行動についてはどう思ったのか?「原泉」が演じたおばちゃんの容姿は私の祖母、親父の母に似ているところもある。貧しい中にも我慢して生きてきた父にとり同感した場面だったのかもしれない。

 父は、栃木市明治座で上映中の「名もなく貧しく美しく」の入場券を、自分が経営する製材所従業員全員の30人分を購入し、この映画の鑑賞を勧めている。「あの親父が映画を観るのかよ」といつも黙々と働く父からは想像できないことで、びっくりしたことを憶えている。小学6年生だった私も大手をふってこの映画を観ることができた。

Ea5e43fa8bccbed66f378c0c0c4504da1_3   映画の後半に道夫は、「僕はこの頃、家にいると耳が聞こえるような気がします。あなた(秋子)やお母さんや一郎のことなら全部わかります。私はこの家さえあればどんなに辛い事があっても生きていけます。あなたもそうですか」と問いかける。秋子は「世間の人は私たちに同情してくれても理解はしてくれません。私もこの家の中だけが天国です」。道夫は「僕たち二人は…、十年かかってやっと一人前の夫婦になりました。これからは自分たちが幸せになれたら、ひとの幸せを考え。自分の店を持っていく」とこれからの進む方向を話す。秋子は「そうなったらどんなにうれしい事でしょう」と喜ぶシーンはジーンと胸にこみあげてくるものがある。

 今を生きてきた夫婦の少しだけ余裕が生まれ、前を向いて進んでいこうという姿。だが、この映画の結末は秋子の交通事故の死で終わっている。「最後の終わりが…?」と何ともやるせない思いがした。ただ、この映画のエンディングは二種類あると云う。アメリカ版のラストはハッピーエンドだと云う。どういうラストになっているのか、是非観てみたいと思っている。

高峰秀子が書いた自伝「わたしの渡世日記上・下」

Img_00021    秋子を演じた高峰秀子は「わたしの渡世日記下・ウソ泣き」の中で、この「名もなく貧しく美しく」の演ずる手話の余りの難しさに、この映画が製作中止になるこを願ったことを書いている。そして「実際の手話は荒っぽいため、聾唖者から不満の声が上がるのを承知で、私は見た目に美しく、流れるように優雅な手話に勝手に料理してしまった。ストーリーが感動的だったせいか、手話の料理に対する誹謗の声が聞かれず。私はホッと胸をなでおろした」と記している。そして、「私はおいしい演技をお客さまに食べていただきたくために努力をおしまない『板前』に徹したい、と自分では思っている」と俳優としての演技の位置づけをしている。

  手話という材料を料理したところの独自の手話の演技を生み出し、流れるような手話を見せている。映画に映し出される姿を想定しての演技力を高めていく。高峰秀子の大胆な演技に対する姿勢は生半可なものではなく凄みを感じる。

  昭和51年2月に出版された高峰秀子著「わたしの渡世日記上・下」には、5歳で映画デビューした高峰秀子の51歳までの役者稼業としての生業と演技、母親との確執の生活、木下恵介、成瀬巳喜男等の監督や谷崎潤一郎、梅崎龍三郎等の著名人らの交流が記されている。出演した作品や映画監督との交流等から日本の映画史の貴重な資料本になっていると思える。

 「同書上・にくい奴」の中に16歳の時に観た映画「小島の春」(豊田四郎監督、昭和16年公開)の中で、ハンセン病患者の役の杉村春子の背中だけの演技に強い衝撃を受けた。そこから  「スクリーンに映る自分自身の姿を、観客席から観客の眼で、第三者の眼で見なければならないと思い、以後は本格的な発声訓練から演技を学び始めた」と記している。

 司馬遼太郎は高峰秀子の顔を見ながら「どんな教育をすれば、高峰さんのような人間ができるのだろう」と言ったと云われている。子役時代から映画俳優して生計をたて始めた高峰秀子は小学校に通うことができなかった。そのため勉強方法は「良いものばかりを見る。良いものをみておけば悪いものがわかる」という人間を見て生きた勉強をしたことを記している(同書下、鯛の目玉)。

0819501_2 そのためか梅原龍三郎が昭和25年、25歳の高峰秀子像を描いた画は「眼窩から目玉がハミ出して描かれており、私にだけ知らない本当の私がいた」と記している画が出来上がる。梅原龍三郎は高峰秀子に「はじめに、目が大きいという印象で描いていたら少しも似なかった。君の目は大きいというよりも目の光りが強いのだな。それで目が大きいという印象を人に与えるのだ」と高峰に語った(同書下・愛の人)。

   梅原龍三郎が描いた高峰秀子画は東京近代美術館に高峰秀子自身によって寄贈、所蔵されいる。問い合わせをしたら、常設展に現在は展示されていない。何時展示されるかは分からないという返答であった。展示された時に是非観てみたいと思う。

  昭和20年代から30年代にかけての興隆を極めた映画界。観客は、「映画を通して自分をみつめたり、その感動から自分を律したりしまうという姿勢がうかがえる。当時の映画は娯楽であると同時に影ではあるが、もうひとつの人生として人々に力を与え、素直に受け入れられていった(同書下・二十四の瞳)」。と、当時の映画が人々に生きる力を与えていったことを記している。

  私の父と母も「名もなく貧しく美しく」を観て、自分たちの歩んできた道を振り返り、生活を律していくことを学んだと思えてくる。

 「ですます調」で書かれたこの「わたしの渡世日記」は、波瀾の半生を常に明るく前向きに厳しい姿勢で生きてきたことを綴り、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞 するなど高い評価を得ているエッセイになっている。

映画を観た父は30枚の入場券を購入ーその思いとは

C9ynv4ku0ae1bcr1_2 我が家は、戦前は下駄屋と言われ、下駄の仕上げをする下駄職人の家であった。5人兄弟の長男であった父は両親と同居し、母と6人を子供を抱えた大家族であった。昭和23年1月に亡くなった祖父の葬式も満足に出せないほどの貧しい生活であったと叔母からも聞いている。その生活はユーチューブで見ることのできた映画「綴方教室」と類似していたと思える。

  昭和13年の高峰秀子主演、山本嘉次郎監督「綴方教室」の映画は、ブリキ職人一家がその日の食べ物にも窮する極貧状態で生きてゆく生活を描いている。生活を見たままありのままを書くという鈴木三重吉が提唱した「生活綴方教室運動」の中で小学生豊田正子の「綴方」を原作として映画化されている作品である。 

  映画では極貧状態をリアルに描きながら、人間として尊厳を失わないで、明るく生きる一家を描いている。昭和10年代の庶民の暮しが分かり、現実の世界が一家に押し寄せる凄い作品になっている。 

Photo  今回、「名もなく貧しく美しく」の映画を観て、戦後を生き抜いた父が当時、この映画を観てどういう思いをしたのだろうか?

  昭和24年に父は下駄のもとの原材を造る製材所をおこす。「明日買う米の金がなくても材木一本あれば食えた」と子供の私に語っていた。大量の下駄の需要により製材所は当る。順調に伸びることができ、30人の従業員を雇い入れるまで製材所は成長した。工場に遊び行く私には、父は従業員を雇人というのではなく、共に働く者同士として接していたように見えていた。

 昭和36年にこの「名もなく貧しく美しく」を観た父は30枚の入場券を購入するなど強い感銘を受けた。画面に映る一家の生活はそのまま自分のこれまで歩んできた姿、生活でもあったと思い共感したのだろう。購入した入場券には「素晴らしい映画を一緒に働く従業員にも見てもらい、共にやっていこう」という父の思いがあったことを57年たって分かってきた。 

 最後に、 「一郎も来年は中学生になるし、生活もだんだん楽になってきました。来年は小さくても自分の店を持ちたいと思っています。一郎が大学へゆくまで、私たちは一生懸命働かなくてはなりません。あなたの分まで僕が働きます」と「名もなく貧しく美しく」で語る道夫。「そうなったらどんなに嬉しいでしょう」と秋子が応える夫婦の手話は、そのまま私の父と母の言葉になり胸に響いてきた作品であった。 

 

                                《夢野銀次》 

≪参考引用資料≫ 

高峰秀子著「わたしの渡世日記 上・下」(昭和51年5月朝日新聞社発行)/齋藤明美著「高峰秀子の捨てられない荷物」(平成13年3月文藝春秋社発行)

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遠ざかる列車への想い―「北の国から」・「北国の街」から

656c0b7es1  富良野駅前、蛍(中島朋子)がショッピングハウスの窓から自分を見つめていることに気が付く勇次(緒方直人)。蛍、ソッと店を出て駅舎の壁際にあるベンチに小さな包みを置く。蛍の置いた包をとった勇次は代わりに手紙を置いて、見送りの親族に押されるように駅舎に入る。置かれた手紙をとる蛍。長淵剛の「乾杯」の歌が流れ始まる。

  ~かたい絆に思いをよせ 語りつくせぬ青春の日々 時には傷つき時には喜び 肩をたたき合ったあの日 あれからどれだけたったのだろう 沈む夕陽をいくつ数えたろう 故郷の友は今でも君の心の中にいますか~(「乾杯」長淵剛歌・作詞・作曲)

Cap4361  ホームから待合室の蛍を見つける勇次。蛍、口の動きで「ガ、ン、バ、ッ、テ」。応えるように勇次も「ワ、カ、ッ、タ」。列車に乗る勇次。走りだす列車。蛍、駅舎から出て、線路際を全力で走りだす。列車の窓から手を振る勇次。けん命に列車を追いかけ走る。走る蛍の躰から熱い熱情が噴き出し、伝わってくる。

 ~乾杯!今君は人生の 大きな大きな舞台に立ち 遥か長い道のりを歩き始めた 君に幸あれ!~

 遠ざかる列車の尾灯。蛍の赤いマフラーが白い雪の中におちている(「北の国から‘89帰郷」シーンより)。

Pdvd_0561  旭川の看護学校へ通学する蛍は富良野発始発列車の車内で、予備校生和久井勇次と出会い、愛を育む。しかし、勇次は東京の予備校へ行くために富良野を離れることになる。富良野駅の蛍と勇次の別れのシーンは走る列車と蛍の走る速さが交差し、去っていく列車の跡に残る赤いマフラーと白い雪とが鮮やかなコントラスをなしている。

  北海道の厳しい大自然の中で培ってきた蛍の走る姿は力強く画面に映し出されてくるシーンでもある。人の出会いと別れ。通学列車での出会いは、やがて訪れる別れることの苦しさや悲しさを知ることになる。それでも、若い二人には出会いの喜びを共有、かみしめることができる。二人で過ごした時間への想いなのか、遠ざかる列車を見つめる蛍の表情は行くことのできない娘の表情になっている。青春の香りのする別れのシーンとして印象深い。

 倉本總脚本によるテレビドラマ「北の国から」は、昭和57年(1981)10月から翌年の昭和58年(1982)3月までの24回に渡る連続ドラマを経て、「‘83冬」、「‘84夏」、「‘87初恋」、「‘89帰郷」、「‘92巣立ち」、「‘95秘密」、「‘98時代」、「2002遺言」と、平成14年(2002)までドラマスペシャルとして放映された。21年間続いたテレビ放映のためか、純(吉岡秀隆)と蛍(中島朋子)の幼いころの子ども時代から成人した姿までを見ることのできる作品になっている。さだまさし作曲のテーマ曲をバックに北海道の大自然が浮かび上がってくる。史上まれにみる超大作のテレビドラマに成長した作品だといえる。

Sdsc080511_2 通学列車での出会いと別れを描いた映画に舟木一夫主演の「北国の街」がある。「北の国から」の勇次と蛍の世界と類似している。昭和40年(1965)3月公開の日活映画で監督は柳瀬観。脚本が意外にも倉本總であることが最近になって知った。

  ~名残りが燃える心が残る ふたりで帰るアカシアの道 今夜だけでもそばにいて 眺めていたいひとつ星 僕たちだけの喜びが住む 北国の街~(「北国の街」歌舟木一夫、作詞丘灯至夫、作曲山路進一) 

  主題歌はよく聴いてきたが、映画を観たのかどうか曖昧だったため、DVDを借りて観てみた。舟木一夫の甘い歌声と雪の中を走る蒸気機関車を数多く撮っている作品という印象だった。あわせて原作の冨島健夫著「雪の記憶」(昭和36年発行)をも読んでみた。

  通学列車の中でお互いに意識し合う高校に通学する二人。小島海彦(舟木一夫)と志野雪子(和泉雅子)。お互いに意識していた二人は遅延した混み合う列車のデッキでの飛ばされた帽子をきっかけに交際が始まる。映画では雪子は東京の大学に進むことになるが、海彦は父親の病気のため進学をあきらめ、機織り職人を目指すことになる。

014_3  映画のラストシーンは、海彦が東京に行く雪子を乗せて走る蒸気機関列車を追走し、線路上で見送る所で終わっている。雪原の中に取り残されたように立ちつくす海彦。「北の国から‘89帰郷」の勇次と蛍の別れのシーンが被さってくる。しかし、映画「北国の街」では「余命6年であることを知っている雪子が東京の大学に入学、上京していくのだろうか?」と疑問が湧き、映画の結末の別れが不自然に映ってきた。

 東京行きを雪子に促す海彦は「僕たちは若すぎる。これから多くのことを知るために君は東京の大学にいくべきだ」と言う台詞は解せない。雪子の病気のことを海彦は知らなかったにしても、東京の大学に行く必要性は感じられなかった。

  原作「雪の記憶」では、雪子をめぐることが原因で不良学生同士の争いが死者までだす大掛かりな喧嘩になる。雪子の躰を求める海彦との諍いがありながらも二人は通学していくことで終わっている。

  「撮影中に最初と最後のシーン以外は脚本を変更しました。脚本は不良学生との喧嘩を軸に書かれてあったのでね」と監督の柳瀬観が「舟木一夫青春歌謡映画」としてネット上で発言している。監督と脚本との落差が大きかったことが推察できる。倉本總はこの映画について何か発言をしていないか、探していきたいと思っている。舟木一夫主演映画ということで、雪景色と蒸気機関車の映像をバックに若い男女の交際を描けばよいとした映画だったのだろうか。

E69585e983b7e381afe7b791e381aae38_3 同じ原作「雪の記憶」で、「北国の街」から4年前に公開された昭和36年(1961)のニュー東映作品「故郷は緑なりき」(監督村山新治、脚本楠田芳子)がある。この映画でも通学する列車で二人は出会い交際するが、東京の大学に進んだ海彦は帰郷した際に雪子が病死したことを知る筋立になっている。

  私が中学一年の時に見たモノクロ作品だが、佐久間良子のセーラー服姿に強い印象を受けた映画だったと記憶している。もう一度観たい映画だが、DVDになっていないのが残念。

  映画の中で鮮明に残っているのは、海彦(水木襄)とのラブシーンだ。セーラー服の雪子(佐久間良子)を押し倒し口づけをしながらスカートのフックをはずそうとする。それをいやいやして、海彦の家から雪の中に駆け去っていく。拒否する時の佐久間良子の苦しい表情が印象に残っている。この映画の影響なのか、以後セーラー服には性としての強いあこがれを抱くようになった。

C880de321_2  西武池袋線で通学していた佐久間良子は、沿線では綺麗な女子高校生と有名になっていたことから東映にスカウトされたと「文藝春秋2月号」に本人が記述している。セーラー服の似合う女子高生の佐久間良子。もう一度観たい映画だ。

 後年、官能小説家として名をなした著者冨島健夫の初期の作品「雪の記憶」。「性の問題を回避して青春文学は成立しない」と主張していただけの描写が、映画同様に二人のラブシーンを緻密に書いてあり、新鮮な驚きを感じた。同氏の原作で他に映画化された作品として「明日への握手」(映画名「高校三年生」)、「おさな妻」等がある。十代の性への問題を正面から扱った作家として見落としてはならない作家だと思えてくる。

K141_2_2   「北の国から」の中には列車との別れのシーンが盛り込まれている。最後の別れにきた母親、令子(いしだあゆみ)が東京に帰る列車を空知川から見送る少女の蛍の走るシーンがいい。

 シナリオでこう記されている。

Yjimagexoptdy4d_3  「川のむこうをけん命に走っている少女の姿。――蛍。令子、狂ったように窓あけ外へ手をふる。(口の中で)蛍――。蛍、走っている。もうぜんと列車を追い、けん命に走る。列車の窓から見える遠ざかる蛍の姿。とうとうと流れる空知川。去っていく列車をあきらめ、つっ立っている蛍に後ろから肩を叩く草太。目に涙をためている」(「北の国から第17回」より)。

   母親との別れとして空知川に蛍をつれてきた草太(岩城滉一)。純と蛍に慕われる草太兄ちゃんの優しさが表れてくるシーンでもある。去っていく列車を空知川をはさんで追いかけてけん命に走る少女、蛍の姿は富良野駅での勇次への別れのシーンにダブっていく。

Yjimagee0rzjgoy  「北の国から」の最終回になっている「2002遺言」の中で富良野駅の別れのシーンが出てくる。音信不通であった夫の正吉のもとに快をつれて蛍が栃木へ旅立つ。見送る五郎(田中邦衛)、純(吉岡秀隆)、結(内田有紀)、雪子(竹下順子)一行。蛍と孫の快との別れを悲しむ父、五郎の姿とその姿を受けとめる息子、純の心境が描かれている。

   このシーンをシナリオでは、「蛍、快を抱きデッキに乗る。(列車の)扉閉まる。ベルが止まり――発車。窓の中から手をふる蛍と快。見送って手をふる純、結、雪子。五郎、ペタリと(列車の)ガラスに手をつけたまま、オイオイ泣いて、(走りだした列車と一緒に)走りだす。駅員、笛を吹き、危ない危ないと静止する。その手をふりほどいて列車を追う五郎。駅員をはねのけ、帽子をとばして列車を猛然と追う。二人の駅員が五郎を追う。ホームから線路に下りる五郎、そのまま線路上を必死に追いかける。追いかけてきた駅員に掴まれて雪の中に倒れ込む」

   純の語りが流れる。「恥ずかしいぐらい父さんは泣き、恥ずかしいぐらい父さんは走った。(父さーん)。でも僕はその父さんに感動していた。父さん、あなたはすてきです。あなたのそういうみっともないところを昔の僕なら軽蔑したでしょう。でも、今僕はすてきだと思います。人の目も何も一切気にせず、ただひたむきに家族を愛すること。思えば父さんのそういう生き方が、ぼくや蛍をここまで育ててくれたンだと思います。そのことにぼくは今ごろようやく、少しだけ気づきはじめたンです。父さんあなたは――すてきです」(「北の国から2002遺言」から)。

 遠ざかる列車を見送る父親の号泣する姿は家族への想いとして純は受け止めていく場面になっている。五木寛之は著書「情の力」の中で、涙と笑いは一体であると記し、「日本の文化の中で泣くべき時にきちんと泣く、泣くべきでないときは歯を食いしばって泣かないというモラルがつくらてきた。泣くこともできないような乾いたこころで、本当に腹の底から笑えるのか。大地に身を投げ出して地面を拳で叩きながら号泣するという泣き方を一度でもしたことがあるのか。深く泣くことのできる人だけが、本当に笑うことも知っている」と記している。

  遠ざかる列車に号泣する五郎の姿は五木寛之の言う、情(こころ)の世界が描かれてあると思えてくる。それは「北の国から」ドラマ全編にも言える。「泣くこと」「笑うこと」等、忘れていた人の情(こころ)の世界が随所に盛り込まれたドラマになっていることに気が付く。

10_101_6  「2002遺言」のラストはこれまでの出演した俳優名をアイウエオ順に流しているのがドラマの特色を表していると思えた。富良野市麓郷で黒板家の五郎や純、蛍、叔母の順子(竹下順子)と接する地域の人々との交流を描いているのがドラマの幅をもたらしている。

  中ちゃんこと中森和夫(地井武男)と妻のみずえ(清水まゆみ)。北村清吉(大滝秀治)と妻の正子(今井和子)、息子の草太(岩城滉一)。蛍の夫になる正吉(中澤佳仁)と母親のみどり(林美智子)、祖父の杵次(大友柳太郎)。つらら(熊谷美由紀)と兄の辰巳(塔崎健二)、涼子先生(原田美枝子)、クマさん(南雲佑介)など地域住民として数多くの出演者が登場している。

   開拓者としての村の過酷な歴史や東京と地方との対比を織り交ぜながら、出演者は大自然の厳しさとそこに暮らす生活する喜びを滲ませている。五郎の「捨てた家」の建設は喪われた物を蘇えらせていく姿として現している。遠ざかる列車から出会いが始まる生活を求めて生きていく人々がいることを作者、倉本總は描いてきていると思える。「北の国から」は人々の温かさが底辺に流れているドラマとして成っている。大事にしていきたい作品だ。

                        《夢野銀次》

≪参考引用資料本≫
倉本總著「北の国から後編」(1987年5月、理論社発行)/「北の国から‘89帰郷」(1989年3月、理論社発行)/「北の国から2002遺言」(2002年8月、理論社発行)/冨島健夫著「雪の記憶」(昭和36年6月、角川書店発行)/五木寛之著「情の力」(2002年11月、講談社発行) 

 

 

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